Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

We danceと採点

2009年01月29日 | ダンス
We danceというイベントが、横浜で、今度の土日にあります。伊藤亜紗も参加していることもあり、しばしば食卓の話題になるのですが、個人的に応援しています。黒沢美香、手塚夏子、神村恵、、、の公演やトークを一度にみられるなかなかないチャンスなので、どうぞ、ダンス公演にあまり行かないみなさん、良い機会ですので、是非、足をお運び下さい。でも、なんでタイトル「We dance」なんだろうなー。見る専門のぼくみたいな立場は、疎外されている気になってしまうんですよねえ、若干。「We dance and you see」とかって言ってくれたら、いいのになあ(でも、そういう気持ちに応えるためなのか、伊藤は「おもしろいって言う係」といって若い鑑識眼のあるメンバーと共に、観客代表でいろいろとコメントしていくそうです)。

ところで、今日、ある担当科目のテストの採点が終わりまして、何分210人だったか受講者がいまして、大変でした。そこでは、ルネサンス期から、バロック、古典期、ロマン主義期、20世紀のパフォーマー達(ダンカン、ベイカー、オノ・ヨーコ、マドンナ、松田聖子、浜崎あゆみetc)にいたる女性のパフォーマンスの歴史を見ていきました。見られる存在としての女性達は、いかにしてその受動的で見る者に支配される劣位から自らの利益を得てきたのか、あるいはそうした支配/被支配の関係と闘ってきたのかについて論じました。そこで、いろいろな映像を学生と見たのですが、採点終了記念で、その幾つかをご紹介します。

例えば、ある回では、黒人のパフォーマーは白人の抱いている「黒人」のイメージを忠実に踊ることで、人気を獲得したという問題についてジョセフィン・ベイカーを参照した。その冒頭で見たのが、ビヨンセ「Single Ladies」。この踊り、スゴいですよね。
ビヨンセ「Single Ladies」
ビヨンセのAMAでのパフォーマンス
ジョセフィン・ベイカー バナナ・ダンス
ビヨンセがベイカーへのオマージュでバナナ・ダンスを踊る

例えば、ある回では、80年代にいまの「アイドル」イメージは形成されるが、その典型である松田聖子について、とくにその「ぶりっこ」パフォーマンスとは何だったのか、考えた。途中、しょこたんと比較して、松田聖子を十分意識しているだろうこの曲で、しかし、しょこたんの首は松田聖子のように揺れないのは何故か、なんて問うてみたり。松田聖子は、学生たちに人気だったなあ。「ぶりっこ」は、ありなんだそうです。
松田聖子「白いパラソル」
中川翔子「綺麗ア・ラ・モード」

見られるという事態は人気の証拠かも知れないけれど、見てもらえてはじめて見られる訳で、そこにはさまざまな戦略があったはずだし、それをズルイとか、男性中心社会に順応しているだけとか批判出来るは出来るのだけれど、男性中心の社会が崩れないなかでそれでも生きて行くためにどんなパフォーマンスを女性達が行ってきたのか、そういう視点で考察することは必要だとぼくは思っています。権力志向でも反権力でもなく対権力といいますか。そうそうマドンナも取り上げたのだった。

マドンナ「マテリアル・ガール」
これはモンローのこの曲へのオマージュでもあるのだけれど、単にマドンナは「物欲少女」を賛美したのではなく、そうとしか生きようがない女性に対して憂いの気持ちも含ませている。それはビデオの最後で、農作業用の車で野の花をプレゼントしに来た男と本当の愛(キス)を交わす(それもまた男の側の戦略だったのかもだが)というラストシーンに暗示されている。けれど、もっと明確なのは、このライブの後半。マドンナは、こんなもの全然欲しくなんかない、全部くれてやるとばかり、ネックレスとか札束とか客席に投げつけるパフォーマンスを見せた。

極私的ベスト5(1/28付)

2009年01月28日 | 極私的ベスト5
せっかく第1位で応援していたら、その翌日にYou Tubeから消去されてしまったユニコーン「WAO!」。なんなんすか。ぼくは、You TUbeで聞きまくっていても、CD買うつもりまんまんですよ。もう「投票」のつもりで買いますよ。現実に投票したくてもできてないですからね。ということで、さっそく更新します(更新のタイミングも極私的に不定期です)。


第1位 「(音がバンド名)presents」
どんな演奏だったかは、下に記した通りですが、呪術的なんですよね、バリ島での経験(なんて書くとえらそーですが、これも極私的な経験ということで、大目に)を想起させられる、神はいないのに。こっくりさんはするが、神はいない。いないのに、どう呪術を執り行うのか。いや、ちがうかな。でも、あの時間の2分くらいは、そんな気に本気でさせられた。間違いなく、ぼくの歴史的一夜だった。

第2位 泉太郎「山ができずに穴できた」+『美術妙論家 池田シゲル』
コンスタントに第2位をキープしていますよ、泉さん。いや、歩きながら思い出したりしているのですよ。学校まで、片道トータルで45分歩いていますから、そりゃ沢山思い出せるのです。

第3位青春ラジカセ
NHK-FM「サウンドストリート」がネットで聞ける。ぼくの中2時代のアイテム。陸上部だったので朝練があったりして、10時には布団に入って、頭のところにラジカセ置いて聴きながら寝ていた。ぼくも「元春レイディオショー」のテープを何本か持っていたはず。一本は九州のインディーズ特集で、モッズのリーダーがゲストに出ていた。彼が最後にリスナーに、大人になってもギターをベットの下に敷くのだけは止めてくれ、と言っていたのを覚えている。これ、でも、聞いていたって、おじさんってことになるんだろうなー。「おじさん」の定義を最近思いついたのですが……「何かをみたときに、それ自体のみならず、別の何かを思いだしてしまうひと」。

第4位 夜八王子にあらわれる野生動物、名はタヌキ。
夜、公演とか、美術展とか見て、ちょっと飲んで帰る、その道中の最後は5分程坂が続くのですが、そのトップあたりに来ると、猫とはちょっと違うシルエットがあらわれることがあって。顔が、ほんとうに菱形してます。しっぽがサツマイモ型です。のっしのっしと逃げます。逃げた後で、こっち見てます。しばらく見つめ合ってから分かれる。帰りが遅いと今日は会えるかなと思ってしまうので、ノミネート。

第5位キリンジ「エイリアンズ」
冬になると一日は、どうしても聞きたくなる日がある。


次点佐野元春「バルセロナの夜」
  Scritti Politti「Faithless」

勝手に応援してます!

「(音がバンド名)presents」を見た

2009年01月27日 | Weblog
1/26
恥ずかしながら初円盤。10人弱の観客を前に、驚愕のプレイ連続。小林亮平は、magical, TV(1/13)にも出演、またmagicalの美術展「Mr. Freedom X」にも美術作品を出展するなど、音楽の分野に限定されない活動を、今月、明らかにしている。「Mr. Freedom X」でのドローイング展示は、ミニアチュール好きのぼくにはたまらないものがあった。極小のキャラ達がスライド増殖するさまが六十センチ平方くらいのスペースに五十個くらい展開している。それは、迷うためにある空間と物語のように思われ、その迷う様は、何よりも彼のパフォーマンスそのものでもある。「あ、」「えっ、」とかいいながらコンセントを探したり、接触の悪い部分を直したり、注意がひたすら散漫な身振りは、どこに行き着くということではなく、いまをただいまを見つめさせる。音が出なくなって直してようやく復活したリズムボックスをあっさり阪神のプラスチックバットでぶっ叩き、また音が出なくなり、「あれ?」と直して、、、を繰り返す。こどもチャレンジ製・五十音の音声がボタンを押すと流れるおもちゃで、観客共々こっくりさんを展開するあたりで、その弛緩する時間はピークに。後半に登場の川染は、随時思いついた物語の断片を口にしつつ即座にあたかも音楽機材でそうするかのようにその断片にカット&ペースト+エフェクトを試みる、オペラ・リハーサルを上演。演劇をめざましく変換させてしまうミキシング・セットを空想し、むりやりステージ上で実行してしまうというばかばかしい遊びは、くだらなくまた崇高。観客に常に語りかけラッパー振りする彼が、そのさなか不意に「これをダンスとしてみて欲しい、舞踏としてみて欲しい、つーか、ダンス公演に出演させて下さい」と漏らしたのは、本気か否か。(ぼくに語りかけてきたのかは皆目分からないけれど)ぼくは本気です。2人とも、アートの境界線を激しく揺さぶる根源的にアート的な公演だった。しかもキュリアスでキュート。スゲー。個人的には、DCにオファーしたい超強力候補!これに対抗出来る根源的にアート的で、しかもキュートなコレオグラファーはいるのか?

そういや、こんな文章を昼間読んでから出かけたのだった。

「--ハプニングについては、どう思われますか。
ハプニングはとても私の気にいっています。それは、はっきりと画架の上のタブローに対立するようなものなのですから。
--それは、あなたの《観客》の理論と実にピッタリと対応していますね。
まさにその通りです。ハプニングは、芸術のなかにそれまで誰も置いたことのないひとつの要素を導入しました。退屈です。それを見ている人が退屈するように何かをすること、そんなことを一度だって考えたことがありませんでした。残念です。それはとてもすてきな考えですから。音楽におけるジョン・ケージの沈黙も、実際、それと同じ考えです。誰もそれを考えたことがありませんでした。」(『デュシャンは語る』)

芸術ににおける「退屈」(アンニュイ)の発明者としてのケージ。この退屈に彼らのトライアルも関係していると思うけれど、ぼくはともかく面白かったのだ。バリのオダラン(村祭り)のなかに居る感じに近いかも。いつなにがはじまるか誰にも分からない時の、弛緩したまま興奮している時間。


極私的ベスト5(1/26付)

2009年01月26日 | Weblog
なんだか、勝手に「極私的ベストテン」とかやりたくなりまして、、、「テン」は大変だから「5」くらいにしました。ぼくがいいと思って体の中でヘヴィローテになっているものを勝手に応援します。続くかな?

第1位ユニコーン「WAO!」
はじめてJ-WAVEで流れた瞬間から「こりゃきた!」と。「大迷惑」「ヒゲとボイン」など労働歌を歌ってきたユニコーンがこうやって復活しちゃうと、勝ち組オーラで勝ち続けてきたEXILEとかがちっちゃな存在に思えてくる。ロックいいじゃん、ロックでいいじゃん、ロックがいいじゃんと思わされた。第3位~第5位はこの曲に触発されノミネート。

第2位泉太郎「山ができずに穴できた」+『美術妙論家 池田シゲル』
下記の通り、素晴らしい。「WAO!」聴きながら見たら、どっちもいい感じになるのだろうなー。

第3位U2「Get on Your Boots」
以前、目覚ましテレビ見てたらボノが映ってて、ロックには硬直化した世界をマッサージする力があると話していて、むちゃくちゃ感動したことがあった。世界を救うのはマッサージ力。ロックは身体をシェイクして次へと促す実際的な力をもっているよなあ。あと、この曲なんだかちょっとふざけているみたいに聞こえるんだよね。ロックに対してもクールであるが故にロックであり続ける、、、ってU2らしいなという印象。

第4位VAN HALLEN「PANAMA」
と、ユニコーンの「WAO!」のサビには、懐かしのライトハンド奏法が展開されてて(この曲のもっともいいところだと思う、そんな遊び心は)、ならばやっぱ聞きたいよねというところでヴァン・ヘイレン。でも、頭に流れてきたのは「JUMP」じゃなく、何故かこの曲だった。

第5位AC/DC「Rising Power」
そうそう、ぼくはギターリフというのが好きだったんだ。反復するフレーズ、エコバニはその点でぼくのヒーローだった(中2)。小6のときだったか、はじめて自分で買ったヘビメタのアルバムの一曲目がこの曲だった。スピーカーからこのリフが出現したとき、感電した。


泉太郎、セザンヌ、島袋道浩etc.

2009年01月26日 | 美術
大学業務は、センター入試、学期末試験、一般入試が行われるこの時期がともかく一番忙しい。仕事の合間をぬっていくつかの美術展、映画、演劇を見た。

1/22
泉太郎「山ができずに穴できた」
恵比寿NADiff Galleryにて。映像は、その背後に嘘と排除を含んでいて、だから面白いとも言えるしだから悪いとも言えるのではある。泉は、映像をプロジェクトしながらその映像化に用いられた道具や素材をも同時に展示しているのだけれども、そうすることで、嘘と排除の消失した空間が生まれている。ともかく、すごくセンスがよい。見る欲求と見た結果の距離に、なんだか弾力のある風船が挟まっているような、そんな感覚を受ける。いいな。去年、清澄白河で行った展示では、幾台ものテレビモニターが置かれてそれとビデオカメラで重層的に映し合う空間をつくっていたけれど、今回は、テレビが鏡になってて、シンプルになってもまたよし、な感じ。いくつも、落とし「穴」というか、仕掛けがあって、小さい空間なのにとても充実していた。

そこで、彼の作品(というか、小説?)『美術妙論家 池田シゲル』(hiromiyoshii)が発売されていて購入。これは、ちょっとほんとうに(ほんとうに!)素晴らしいです。池田シゲルという美術評論家ならぬ「美術妙論家」がさまざまな美術展に赴き、したためた展評集という体裁なのだが、もちろん池田シゲルは架空の人物だし池田の取り上げる美術展も架空。1頁1展評で隣の頁には展評とさほど繋がりのない泉のドローイング。泉太郎という作家は、クリエイターであるのみならず、優れた鑑賞者であり、欲深なキュレイターでもありうるということがよく分かる。とはいえ、これは評論ではなく妙論、たいていの展評に書き残されているのは、作品を見損なってしまう池田のぼやぼやばかり。注意がどんどん散漫になってゆく、よく言えば、どんどん沢山の注意が生まれていく、そうであるが故のぼやぼやは、泉の作品を読み解く鍵となるものだろうし、この本それ自体が、泉の作品のエッセンスそのものなのだ。

「噂とは時に信じられないような変質を見せた現実の断面…焼き肉に例えればカルビを頼んだのに魚の皮が出てくるようなものだ。元来美味いカルビが出てくるという期待が裏切られるのを常に覚悟しているような私に魚の骨を突き立てたのが「根岸すなお展」である。」(『美術妙論家 池田シゲル』20頁)

それにしても、ありもしない空想の美術展を思い浮かべるってなんて楽しいのだろう。ぼくも空想のダンス公演を批評(妙論)してみようかな。「ぼくは一生この公演で感じた楽しさを忘れることはないだろう。あて振り振付家・ダンサーとして近年めきめきと頭角をあらわしてきたヒロミュレーターは、登場するや否やその謎めいたルックスでいつもの失笑とラブコールを受けていたが、今夜の会場の盛り上がりにはいままでに感じたことのない熱の塊が含まれていた。六本木Superdelux、午前3時。ヒロ登場前の、DJまっつんによる強烈に脱線的なプレイが会場に与えた爆笑もその原因とはいえない。ヒロミュレーターがいつもの手つきで淡々とプロジェクターに投影したのは、いままさにワシントンで行われているオバマ大統領就任のイベント。「やっぱ、これだったか!」の声を軽く無視してヒロミュレーターは、アップになったオバマの口ぶりを黙々とスクリーンの陰で模倣している。ヒロの相棒、VJたろがライブの画像に、少しずつちょっかいを入れはじめた。同時刻に世界中で放映されているテレビ番組や、さっそくこの演説につっこみを入れているニコニコ動画やブログが、オバマのアップとクレイジーなクロッシングを続けた。真っ暗な国会議事堂が映って誰かがその前で平然とこたつを前にしているのが映ったときには会場の哄笑もピークに。彼は何やら手紙でも書いているらしい。突如、ヒロミュレーターが咳払いでVJたろに合図を送ると、たったいま行われている演説の印象的なシーンが何度も反復する映像に切り替わった。ヒロミュレーターは、すでにそれを暗記していて、手振りや口ぶり、視線の動きをトレースしていった。それは反復の効果で振り付けのように見える。いつものヒロミュレーター流ダンスだ。賛同ともからかいともつかないそのトレースを、ヒロミュレーターは得意の話術で観客に促していく。気づけば、全員がオバマダンスを踊りだしていた。映像は、観客をあおり、「お前達はオバマじゃない!」とか「麻生太郎はいま?」とかの文字が飛び交う。ヒロミュレーターらしい時事ネタを使ったダンスは、今夜の大ネタで勢いを増幅させていった。何よりも圧巻だったのはこの後。VJたろが、テンションを保ちながら、粉々になったガザ地区の街路をオバマ演説とすりあわせていくと、すかさずヒロミュレーターは「おーっし、みんなでガザ地区を歩いてみよう!」と煽る。みんな映像の瓦礫に足を取られ歩く、テンションが高まっているからみんなノリノリで歩く。転がったり、よろめいたり、映像を頼りに進む。担架で運ばれるひとの隣をすり抜ける。映像が次第に暗くなり、混沌とした人々の塊が映った。あ、これは、、、俺たちだ。VJたろがこちらにカメラを向けているのが見えた、と思うとあっという間に会場は暗くなって、ラスト、オバマあの有名な言葉が繰り返されるのをしばらくずっと全員で聞き続けた。帰りはお決まりのラーメンとんきちで、つけそば中盛りを食す。」

泉の後で、山内圭哉『パンク侍、斬られて候』を見た。

1/24
エリック・ロメール『我が至上の愛』を見る。いうまでもないことですが、ともかく素晴らしい。見る(見てもいい)/見ない(見てはいけない)と見られる(可視的な次元)/見られない(不可視の次元)が無限と思う程激しく交差する。最後に待っているのは、、、

1/25
横浜美術館にて『セザンヌ主義』を見た。ともかく込んでいて、最終日には行くもんじゃないと痛感。セザンヌの構図に関する古典性と空間に関する感覚などあらためて確認。運動のひとですよね。なんでひとが斜めっているのかとか、構図も違う図形が混在していて目がちらちらと動くのとか。

その後、島袋道浩「美術の星の人へ」を見た。こちらもとても素晴らしいです。本展のために制作された「象のいる星」という写真集が300円なんですが、ある決まった日時に美術館前で店を出している、普段は『ビッグイシュー』を販売しているおじさん(あだな「石ちゃん」)から買いました。『ビッグイシュー』と同じ値段で同じ収益がおじさんにはいることになっているそうです。こういうかたちで島袋さんは、貧困問題と美術をクロスさせてました。

artscape0901(0812)レビュー

2009年01月16日 | ダンス
今月から、artscapeにてレビューを連載することになりました。こちらをご参照下さい。
今月は12月の公演、神村恵『配置と森』、大橋可也&ダンサーズ『帝国、エアリアル』、金魚(鈴木ユキオ)『言葉の先』、HARAJUKU PERFORMANCE +(PLUS) SPECIAL(1日目~3日目)、イデビアン・クルー・オム『大黒柱』について書きました。同じページでは、五十嵐太郎さんや村田真さん、酒井千穂さん、深川雅文さん、松田達さんら建築、美術、デザインなどの専門家がレビュアーとなって執筆されています。

ぼくはこの誌面で、ダンスのみならず、演劇やパフォーマンス表現、音楽演奏など、広くパフォーマンスに関する上演・表現について書いていこうと思っています。ひとりでやることですから、どうしても個人的な関心や問題意識にレビューのラインナップは引きずられることでしょう、その点は、おゆるし願いたいところです。こうした時評的なレビューの限界(誌面が限られていることや締め切りがタイトなこととか、公演を見ていない読者への手短な紹介になっていた方が良いだろうとか)はあるにせよ、さしあたりぼくはここでこの分野の批評を書いていくつもりです。ただし、こうした誌面に書きたいこととブログに書きたいこととは異なる場合があります。両者の内容が異なっていたり、対立したりすることさえあるかも知れません。そういうことの可能性も含めて、時に応じて、ブログでも批評的なあるいは批評に準じた文章を書いていこうと思っています。

よろしくです。

(ちなみに、デザインがこのブログのとなんだか激似なんですが、たまたまだと思います)


ところで月曜日、綱島に黒沢美香&ダンサーズの公演「家内工場」を見に行く途中、すばらしい瞬間に遭遇した。昼間の南武線(という徹底的にとぼけていて、神からほっとかれている気さえするそんな場所であり時間)の府中本町辺り、全身黄色のトレーナー姿のおじさんが車内にふらっと入ってきた。その歩みは、まさしく絵に描いた「ふらっと」という振る舞いで、「よっ、ひるまっからすまんね、空いてる?」と居酒屋の暖簾をくぐっているかの存在感・演技性があった。黄色いトレーナーの小男がそんなプレゼンスを見せていることがまずおかしい。空いているぼくの目の前の席に座ると、ぼくはその瞬間からおじさんに釘付けになってしまう。「なんか体のリズムが変だ。すごい自分発信のルールで周りを支配している。手に、何か持ってる、、、単行本だ、きっとどこかの図書館で借りたんだ、それにしても、バッグはもちろん財布ももっていなさそうな男が一冊、単行本をもっているなんて、なんて意味ありげなんだろう」と思うと、その本のタイトルがどうしたって気になる。座ったまま脇に抱えている、タイトルが見えない、何だろうタイトル、、、とその瞬間、「あいよ」とばかりに、男は本を隣に置いた。この「あいよ」はぼくの気持ちに気づいてのことでは断じてないとしても、どこかへむけて絶対どこかへ気持ちを向けて発せられた「あいよ」のはずで(もちろんそんな声は、ぼくの心の中にしか響いていないのだけれど)、その「あいよ」の合図につられて本の表紙を覗いてしまうそんな自分に、我慢出来なず爆笑しそうになって、ちょっとうつむく。いろいろなタイトルがよぎり、その度に笑いそうになる。しぱらくして半ばの平静を取り戻し、気を取り直して前をむき直すと、現れたタイトルは『苦悩』。「『苦悩』とともに電車に乗る男、おれ、五十二才、独身、よろしく」ってなナレーションがぼくのなかで危うく響きそうになる。あわてて顔を下にし笑いを隠す。さらに、二駅程進んだ辺りで乗ってきた中学生に、突然おじさん、席を譲った。このおじさんの心遣いは、部活帰りの快活な中学生にとって明らかに予想だにしなかった状況で、けれども、おじさんのシナリオに従わなきゃと強迫的に思いこんでしまった中学生は、一人が座るとなぜか座ったもう一人が強引にスペースを作り、1.5人分に2人で座るという暴挙(→演劇)を演じてしまうのだった。中学生のひとりはバカボンみたいな顔だった。

『帝国、エアリアル』

2009年01月05日 | ダンス
『帝国、エアリアル』 「現実」という名のアトラクション
文=木村覚

 開演前から終幕まで、ゴミ(ペットボトル、弁当の容器、ビニール袋)があまりにびっしりと舞台上に散乱しているので、そのノイズに翻弄されていた。ノイズは身体を癒さずむしばむ。むしばまれることで、ぼくたちは自分の身体を感じる。ただし、その意識化された身体は、後半、ノイズの洪水に自分を閉じてしまうこととなった。この経験が意味することとは、いったい何なのだろう。
 楽屋裏でじっと息を潜めていることを拒む大橋可也は、自らが支配者であることをあえて隠さない支配者である。今日において帝国とは「空気」のことではないか、と彼が新国立劇場のむき出しの天井にあらわれ、マイク越しに説くとき、支配者の見下ろす舞台は、彼がコントロール下に置く世界であることを明かす。この世界は、イリュージョンなのかそれとも現実的な何かなのか、ひとびとの欲望を見透かしたファンタジーなのか(今日その頂点に君臨するのがディズニーランドだとして)ひとびとの欲望を切り裂いてあらわれる血しぶきをあげる肉のごとき現実なのか、まだこのとき判然とはしていない。
 舞台にひとりの女がすでにあらわれていた。くしゃくしゃな髪、動作は一貫性を欠き、見る者を不安にさせる。絶叫した。するとそれを合図に、舞台にひとりずつあらわれる、役者?ダンサー?ひとりひとりの動作は自閉した人間のそれであって、とはいえ特殊な人間というより、ヘッドフォンをした、携帯電話やゲーム機を手にした、どこにでもいる人間のどこででもやっている動作の延長のように見える。各人はばらばらに髪をかきむしったり、倒れたり、ひとつの動作にこだわったり、歌を歌ったり、駆け出したりする。そこには、視線のあからさまな交差はない。街中でひとを見るともなく見て、ひとから見られるともなく見られているときの状態に近い。無関係と思えた集団には微弱な関係性が詰め込まれていた。誰かが不意に、つまづくみたいに体を落とす。と、その周りの誰かも、似たようなカーヴを描いて体を揺らす、といったような。ここには無数の連鎖が発生している。そう気づくと、散乱するゴミに等しいくだらない動作の溜まり場に見えていた舞台が、途端にダンス的な何かとして立ち上がってくる。
 そう思えたときから伊東の演奏が始まるときまでは、見る者の快楽はどんどん上昇していった。バラバラに思えた舞台のひとびとは、互いに微妙な関係の連鎖を引き起こしていて、それに気づきながら舞台のあちこちを眺めやるのは、まるでカメラをズームしたり、パンしたりするようなもので、見る側のとめどない視線の運動が、それ自体ダンスなのではないかと言ってしまいたくなるほど見事に設えられていたのだった。そうした注意の魅力は、大橋が日常的な仕草を舞台に上げていることによって引き出されているものでもあって、見る者が注意を引きつけられてしまうのは、目の前の動作が魅力的な動きのフォルムや躍動感を湛えているからではなく、目の前の動作が仕草的で、その仕草が見る者の記憶を逆なでし記憶を躍動させてしまうそういう装置だからなのだ。それは、不意に見かけた人間の身体部位に過去の記憶を刺激させられる都会での見る経験と重なる。見る行為の今日的リアリティを舞台に上げるというトライアルのひとつの成果として、こうした大橋の戦略を指摘しておくべきだろう。
 こうした光景が20分ほど続いた後、BLIND EMISSIONの伊東篤宏とHIKOが現れ、OPTRONとドラムで視覚と聴覚を過剰に刺激しはじめた。蛍光灯をギターのように抱えてそれが轟音のノイズと繋がっている楽器OPTRONとパンキッシュ?なドラムは、次第に観客の身体を麻痺させていった。それまでの舞台が微弱な関係を追跡するデリケートなものだったとすれば、そのデリケートな庭は、雷雨に激しくかき乱されていった。BLIND EMISSIONの演奏はそれ自体として魅力あるもので、UNITみたいな場所で踊りながら聴くなら申し分ない。ところが観客は、舞台芸術系とライヴ演奏系のふたつの受容のファンクションを同時に起動させるよう強いられた。この贅沢な困難に、ともかく音を上げてしまったのは、ぼくというよりはぼくの肉体だった。
 演奏が30分ほどで過ぎると、舞台には相変わらず自閉した者達の世界が続いていた。誰かがゴミのなかから紙飛行機を見つけはじめる。それが舞台奥に並んでゆく。目の前では、女が結構激しく男に叩かれている。共有する何か(近代的人間性?道徳性?友愛などの理念?)を欠いたひとが曝されることになるのは、他ならぬこうしたむき出しの暴力、ということなのか。そのなか紙飛行機が飛ぶ。そんな癒しに騙されないぞ、と思いながらも、轟音とフラッシュにやられた体でまず何よりすがりたくなるのはそうした(無意味な)希望ではないのかとも思わされる。次第に数が減って最後に残った舞台上の2人は、若い女で、そうした「女神的な何か?」と読み込みたくなる者達を残すことに、いささかの不信感と同時に現実的な癒しの効果も感じてしまう。ぼくたちが欲しいのは現状認識なのか、現実逃避なのか。少なくとも、大橋が行ったのは「現実」というものをテーマにひとつのアトラクションを拵えることだったのではないか。例えば、彼は「生きづらさを感じるあなたたちへ。身体、社会、日本をえぐる。」と副題に付けている(これほど明確にダンス作家が社会にメッセージを発したなどということはかつてあったのだろうか)。「えぐる」という言葉で大橋が伝えているのは、現実を認識するぞという自らの姿勢なのだろうけれど、そこで認識できたらどうなのか、ということが残ってしまう。そこまでがアートの役割と決め込むことも必要だろう。けれども、現実に「生きづら」い状況を生きざるをえないひとにとって、欲しいのは認識よりも生存なのかも知れなくて、少なくとも認識よりも希望なのかも知れない。「えぐる」ことにまつわる快楽が、どこに求められるのか、どこに求めることがしかるべきことなのか。こうした疑問が噴出する。まさにそれ故に、社会においてアートの役割とは何かということを考える基点にこの作品が位置するということは、間違いがない。



1月4日

2009年01月04日 | Weblog
新年も4日が過ぎようとしています。
みなさん今年もよろしくお願いします。

『帝国、エアリアル』含め、大橋可也関連、特に帝国ナイトのこととか、「キレなかった14才リターンズ」のこととか、HARAJUKU PERFORMANCE PLUSのこととか、いろいろとありましたが、あらためて、どこかに書くと思います。
そのときはお知らせします。

今年は、沢山のひとと会って、話をして、そこから発見をしていく、そうしたことを積み重ねていきたいと思っています(個人で何かをやるよりも対話的な作業によって出てくるものの方が、面白そうな気がしているのです)。

1/10-11には、grow up! Danceの関連でアサヒ・アートスクエアにてイベントを行います。ダンス作品を作ってみたい方、作っているのだけれどまだ自分のやり方に確信のもてない方、もろちん、今回ご応募頂いた方、どうぞ、お越し下さい。