Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

森下真樹ダンスショウ!!(Bプロ)

2005年12月16日 | Weblog
を見た(@駒場アゴラ劇場)。

「peel slowly and see」
白井剛と二人で。針カヴァーのところがカラフルになっている安全ピンが頭上から数百本落ちてきて床を埋める。それとバナナが数本。カラフルなピンが危険でもあり一定のテンションをつくる。そのなかで、ときに土方を思い起こさせる(というと大げさ?)知的に不具なひとのごとき状態で予測出来ない奇声とか表情しながら歩いたり騒いだりの二人。些細なことのの寄せ集めのようでいて、集まってくると妙な迫力がうまれてくる感じがあり、ぼくとしては『禁色』のときよりも白井剛のポテンシャルが発揮されていて今年見た白井のなかではいちばん面白い公演だった。どこまでも「素」を出さない感じが、伊藤キムならば裏の裏の裏に表がほの見えるところで、決してそういう「生」が出てこない感じが、ぼくにとっての白井らしさ。いやむしろ、彼の「素」の部分には決して共有出来ない深い狂気が孕まれている気がする、と言った方がいいか。ひとを寄せ付けない不可解な部分、そこに多分、「彼のダンス」と呼べる核心が潜んでいるように思う。チェーンにした安全ピンにバナナを刺して、ぶらぶら引きずったり。でも、こういうセンスは白井濃度の濃い分、森下濃度は薄い。どうしても、白井を見てしまう時間だった。

「森下ひとり芝居+β」
セロリと卵を取り出して花の女王?「マキちゃん」が彼らとの三人芝居をしながら、セロリと卵が地球の穴を目指して上っていくまでの物語を、一人で演じる。今日は前回にまして語りに引っかかりがなく、観客が反応するきっかけを失っていく。間がとれないで、するするとしゃべってしまうと、一人芝居は本当に一人になってしまう。
けれども、この作品の最大の狙いは、観客に迫って、セロリを食べさせたり、観客の似顔絵を描いたりするところだろう。花の女王の「イタイ」ところが、観客にとって入り込めるスペースをつくる。でも、それもなー、もう少し「執拗」に何かをする時間があってもいいのに、と思うなあ。「似顔絵を描く」ということにもいろいろな可能性があるはず、とか。そこに変則的リズムが発生してもいいのではないかと。「次」「次」と進みすぎているのだ。

「モリシタアワーヅ」
森下真樹の妹?が登場し、二人でクチリズムボックスみたいなことをはじめる。そこから、アフロ頭の粟津、白井などが登場し、リズム祭りのようなことをする。


観客論のことを考えながら見てもいたので、その点について覚え書きを少々。

「観客が笑うとき観客は笑っていない」とは、最近同居人Aがぼくに呟いた名言の一つだが、このことの意味がよく分かった。観客は、分かりやすい球が飛んでくると「打てる」(笑える)と思ってバットを振る(笑う)。けれども、それは本当に笑っているわけではない。突然、白井と森下が「知っている曲」を歌い出す。すると観客はクスクスと笑い出す。それは、打ちやすい球であって一種のサーヴィスである。そう、サーヴィス。それは笑いというよりも「どうぞ!」と笑顔と共に差し出されたお皿(料理)のようなもので、その振る舞いに観客は喜んで笑う。でも、それは笑いなのだろうか、観客はそこで笑ってはいないのではないか。

「観客主義」とは、観客のための「イス」を用意するそういう振る舞いだ。観客はそこに座ればよい、しかも舞台に立つあの人がしつらえてくれた「イス」なのだから、嬉しくないわけはない。けれども、それはある意味では単調だ、出来レースだ、スリルに乏しい。そこで、「はぐらかし」が重要なアプローチになる。悟られすぎではつまらない。ダンスが批評的であるとき、そこにまずあるのはこの「はぐらかし」だろう。ダンスが笑えるものである必要は必ずしもないけれど、「笑い」がこう来るこう来ると予期していた気持ちを裏切る意外性の内にある、とすればそれはダンシーとかなり近似する事態であるだろうし、ならばダンスの批評性はこうした笑いのベクトルへと向かう(このベクトルと並行するように進む)ものでなければならない。

けれども、それが甚だしくなってしまうと、観客はただただ取り残されていく。めまいを起こす。そのこと自体は全く悪くはないけれど、観客との接点がまったくなくなってしまえば、それは「はぐらかし」の意味がない。さて、、、というあたりがダンサー、振付家の考えどころだろう。

ということで、ダンサー、振付家の方は観客の反応が踊りながら気になるようですが、笑い声はかならずしも笑っている証拠にはならない、ということを是非ご了解のうえ。

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