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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「ビョーキ」について

2009年08月31日 | 80年代文化論(音楽)
「ビョーキ」という言葉は、このノートで何度か出て来ている80年代の流行語。それについて、浅田彰『逃走論』を頼りに考えてみる。

「たとえば川崎徹さん。彼は……どうしようもない紋切型にみんながシラケちゃった、そのシラケを見事に逆手に取った広告を作ることで、紋切型に対する鮮やかなスキゾ批評を展開してきたひとだと思う。ところが、それ、ヘタすると空回りする危険があるわけ。たとえば藤島親方やなんかの「サントリー生樽」はホント見事だと思うけど、江川の「メンフラハップ」ってやっぱりちょっと後味が悪いのね。これ、非常に微妙な違いで、何て言ったらいいかわかんないんだけど、あえて言えば、笑いがユーモラスなものからアイロニカルなものに転ずる境目のあたりでビョーキが発生するんだと思う。」(浅田彰『逃走論』p. 28)

この文章は、北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』でも引用されているものです。

最後の「笑いがユーモラスなものからアイロニカルなものに転ずる境目のあたりでビョーキが発生する」

という定義に北田は注目している。ユーモアとアイロニー(イロニー)とは、柄谷と浅田が当時いだいていた思考の枠組みのことである。

「メタレベルとオブジェクトレベル(メタレベルにおいて対象化される「ベタ」のレベル)が「交替しつつ繰り広げる永遠ののイタチごっこの中にとらわれ」、「そのつどのレベル間の落差を」「肩をすくめながら背に負う」のが、「近代資本主義のイロニー」であり、二つのレベルの「交替運動からさらに自由になって、ふたつのレベルに同時に足をかけているという事実をそのまま肯定すること」、「ふたつのレベルの間の決定不能性を、それがもたらすゆらぎを、笑いとともに享受すること」こそが、ユーモアである、と。ごく簡単にいえば、(ア)イロニーとは、メタ/ベタ(紋切型)という区別を前提としたまま、メタを志向し続けるパラノイア的な行動原理、ユーモアとは、メタ/ベタという区別=前提そのものをやりすごす実践ということができるかもしれない。」(北田 p. 148)

「ビョーキ」という語は、80年代を通じて流行した言葉であるけれども、いまふり返るとその内実はあまりよく分からない、リアリティを失った言葉だと思う。

『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』(1984)のなかに「差異化のパラノイア」という論考が入っていて、それは広告論であり、広告を素材としたビョーキ論である。

ユーモアかアイロニーかは、直接、スキゾかパラノかという区別に繋げられている。二つの簡潔な定義がこの文章にあって、

「スキゾ型ってのは分裂症型の略で、そのつど時点ゼロで微分=差異化してるようなのをいい、パラノ型ってのは偏執型の略で、過去のすべてを積分=統合化して背に負ってるようなのをいう。と言っても何だかはっきりしないけど、ギャンブル志向とためこみ志向、逃げることと住むこと、なんていう対比で考えると、少しはイメージが沸くんじゃないかと思う。」(p. 23)

浅田は、タイトルにもあるように、広告というのは、「スキゾ・キッズのプレイグラウンド」のように思われているが(80年代のCMを想起せよ)、結局企業活動を背後にしている限り、広告の人間は「パラノ化されたスキゾ人間」が「自由に遊ぶことを強制されてる」状態でしかないと批評する。

パラノもスキゾも病気へと至る可能性がある。パラノの病気は、「何も考えずにひたすら一定のパターンを繰り返し追求するってのがこの病気の病気たるゆえん」(p. 27)で、スキゾの病気というのは、先述したような「ビョーキ」、つまり、「ユーモラスなものからアイロニカルなものに転ずる境目のあたり」で発生する「ビョーキ」のことを指す。「アイロニカル」とは、「ややナナメ上から笑っているというか、笑ってる口もとが微妙にひきつってるというか、笑い声が自分の声じゃないような気がするというか」(p. 28)を症状とする。

「ビョーキ」は、当時、結構ひとが積極的に用いた言葉だ。自分は「ビョーキ」だ、と。それは、他人を自分と差異化するまさにアイロニカルな嘲笑をともなった「ビョーキ」だろう。けれども、重要なのは、スキゾのあるべき姿はこの「ビョーキ」ではないということ、むしろアイロニカルな振る舞いではなく「ユーモア」こそが求められているということである。

「このビョーキになるかならないかというギリギリのところを走ってる広告が、いちばん面白いんですね。そこでビョーキから逃れつづけるカギってのは、やっぱり、さっき言ったようなユーモア感覚じゃないかと思う。アイロニカルな笑いの場合、どこかに必死でがんばっているっていう面が隠されてて、それで、ナナメ上からの、ひきつった、うつろな笑いになっちゃう。パロディやトリックによって差異を差異として楽しんでるようにみえて、その実、差異をあざとく人目をひくための手段にしちゃってる。ユーモラスな笑いってのは、そういうこわばりを捨てた上で、いろいろズレや矛盾もあるけどそれを全部ひっくるめて一緒に笑おうよ、という笑いなんですね。それこそが、差異を差異としてたのしむための条件じゃないかと思うのです。」(p. 29)

こういう文章を読んでいると自分の批評のスタンスがこうした対比の内にあると思わされてしまう。自分でそんなに自覚している訳ではないのだけれど、ぼくはそういう文章に説得力を感じる人間、浅田的な思考の形式にとにもかくにも影響を受けた人間なんだと感じさせられる。さらに思い切って書いてしまうと、「ひきつった」「こわばり」という身体のあり方を連想させる表現が出てきますが、ぼくがダンス批評に執着しているのは、こうした「ひきつり」とか「こわばり」が気になるからなんだと思う。もちろんそれはそのまま身体の「ひきつり」「こわばり」だったりもするのだけれど、もっと精神のそれらだったりを感じることもある。先述した会田誠的「アイロニー」を批判したくなってしまうのも、こうした思考を背景にしている気がする。

話を戻して、いくつかYou Tube頼りに、浅田のアイロニー批判を辿ってみると。

藤島親方やなんかの「サントリー生樽」はホント見事だと思うけど、江川の「メンフラハップ」ってやっぱりちょっと後味がわるいのね」(p. 28)

「名作のほまれ高い「関西電気保安協会」だってひっかかるところがあるわけです。あれはたしかにスゴイ。シロウト特有のズレというか、間のぬけた感じというか、そういうものを見事にとらえきってる。だけど、それ、やっばり「残酷までに見事なのよね。あの笑いの中には、シロウトのオジサンたちに対する、そしてまた、それを見て笑ってる自分に対する、一抹の嘲笑が混じってるのよね。」(p. 28)

『嗤う日本の「ナショナリズム」』では、先ほど取り上げたユーモア/アイロニーから川崎徹をとくに『元気が出るテレビ』へとシフトしつつ論じて行く。

「八〇年代なかば、川崎徹(的なもの)=イロニーは、マスメディアという回路に接続されることによって、糸井重里(的なもの)=ユーモアに勝利したのだ。」(北田 p. 152)

『元気が出るテレビ』の議論は、中森明夫の次の引用を取り出すことでピークを迎える。

「「元気が出るテレビ」の主役は、たけしでも熊野前商店街でも……なく、実は"テレビ"そのものである。テレビがはやらせれば絶対はやるんだということを"冗談"としてやってみる、あるいはテレビの持つファシズム性みたいなものを、あえてオモチャとして使ってみる。はやり方、はやらせ方のメカニズムを見せる。メカニズムそのものを見せるだけだから機材は別になんでもいい。むしろ荒川区熊野前商店街とか横浜商科大学といったはやりにくいもののほうがおもしろいし、川崎徹氏といったはやらせる人を登場させ、さらに会議の段階から見せる。完全にテレビの裏側、メカニズムを見せる番組なのである。」(中森 北田 p. 154)

北田はこれを受けて、こう整理してゆく。

「ポイントとなるのは、(1)素材の凡庸さと(2)テレビ的演出の顕在化である。通常のドキュメンタリー番組であれば、素材は何らかの有徴性・非日常性を持っていなければならないし、また、素材加工=物語化のプロセスは基本的に隠匿されなくてはならない。……『元気が出るテレビ』の方法論は、そうしたドキュメンタリー番組の「お約束」を逆手にとったものだ。……それはいわば、テレビ自身が、《あらゆるテレビ番組はヤラセ(演出的)である》という残酷な真理を告白しているようなものだ。」(p. 155)

この(1)素材性と(2)システムの露出は、85年以降のアイドル、おニャン子クラブと小泉今日子の素人性と自己言及性にあまりに正確に対応している。85年(以降)の型が見えてきた気がする。

とんねるず

2009年08月29日 | 80年代文化論(お笑い)
とんねるず『大志 だれだって成功者になれるんだ』(ニッポン放送出版 1988)
「芸の評価なんていうのは、日本ではタレントとして売れているかいないかにかかっていると思う。とりあえず売れていると、芸自体もそういう目で見てくれるんだよ。『あの人は面白いんだ』という評判が先になっちゃうわけ。そうすると大したことをやっていなくても笑っちゃうのよ。でも、誰も知らないようなやつがポンと出てきても笑えないのよ。笑える状態じゃないわけ。笑う状態というのは、ものすごく自分がいい気持ちになっていないといけないから、どこかに何かがひっかかっていると、人間は笑う状態になれない。逆に『あの人は面白い』という評判が先にあると、最初から何のこだわりもなく、身を乗り出して見てくれる。
 こういう習性を察知しないとダメだね。
 よくおれたちポジション争いだっていうんだけど、ポジションさえ取っちゃえばあとはとても楽なんだよね。『あっ、とんねるずだ!』っていうだけで笑ってくれるみたいなね。」(p. 227)

「おれたちもウケない頃があった。まわりからポロクソに言われたこともあった。でもその時の同じギャグが、いまでは大ウケになったりする。要するに、昔はおれたちもポジションがなかったから笑ってもらえなかったわけよ」(p. 228)

「実際ビジネスの世界でも、何の世界でも、はったりの本質はそれ。ないものをあるように見せてるんだからこわい。相手間違えたり、タイミング間違えたりしたらもうおしまいよ。
 だからおれたちも、ほんとにここぞという時以外は絶対に使わない。けどほんとうに勝負しなきゃならない時には、おもいきり仕掛ける。大はったりかませてやるんだ。」(pp. 239-240)


とんねるず『一気!』

とんねるず「一気!」カメラ破壊

とんねるず お笑いスター誕生

作詞家・秋元康 (『新人類図鑑Part2』)

2009年08月29日 | 80年代文化論(音楽)
秋元康は、現在京都造形芸術大学の副学長を務めている(この文章、ひとつ前の記事でぼくが取り上げた「職人」と「キワモノの職人」の違いに似ていて面白いですね)。ちなみに、この大学の大学院の院長は、浅田彰。「神々」と「新人類」が、大学院長、学部副学長を担当しているのである。(あとこれ面白いなあ、浅田は「芸術が自閉的なものであってはならないと信ずる私たちは、芸術を社会に向けて大きく開いていきたい、それによって社会を変えていきたい、と願っているのです。」と言い、秋元は「誰も何も変わらなくていい。むしろ、今まで築き上げて来た芸術大学としての信用と誇りは変わらないで欲しい。」と言っている。)

浅田は、もともと京都大学の助手というポストで『構造と力』を出版し今日に至るまでずっと大学人であったのだから当たり前といえば当たり前なのだけれど、秋元までが大学にポストを得る時代なのである。ぼくが思考のOSうんぬんなどと言っているのは、このことが気になっているというところがある。自分が学生に何を与えられるのか、と同時に何を与えてしまうのかということはしばしば考えるし悩むところなのだけれど、良くも悪くも、教員というのは、思考のOSを学生に植えつける存在である。80年代文化の担い手が2009年の18-22才(が中心の学生たち)を教えているのである。このことについて、ぼくたちはまじめに考えた方がいいように思う。秋元副学長という話題について、アカデミズムの敗北、などということを声高に主張する人がいてもいいと思うのだけれど、声は小さい。なんとなく、大学経営という言葉に曖昧に縛られ、曖昧に甘えているのが、大学教員(1年半して専任経験ありませんが、そんなこと思ってしまう)。ぼくは個人的には、アカデミズムだけが優れているとも思っていないので、アカデミズムの素晴らしさを伝える教員はいるべきだと思うけれど、それ以外の思考のあり方の魅力を伝える者がいてもいいと思っています。ただし、そのクオリティは高い方がいい。少なくとも、もし、そのクオリティがもはや起動しても機能しない古いOSだったら意味ないよね、と考えるべきだと思っています。検証する必要有りと考えるわけです。

で、そういう観点から調べるならば、今日の秋元のエッセイを読み込むべきなんだろうけれど、ここはあくまでも80年代文化論ノートなので、80年代の秋元の発言に絞って読んでいきます。今回は、『新人類図鑑Part2』での発言。興味深かったのは、おニャン子についてのコメントと、とんねるずについてのコメント。

◎おニャン子の基準
「筑紫 おニャン子の基準というのはなに?
 秋元 やっぱり素人らしさですね。菊池桃子のときもそうですけど、今、山口百恵みたいになりたいとか、松田聖子みたいになりたいとか思っている子というのはだめですね、きっと。なんか色がついている。一番カッコいいのは、私はべつに芸能界なんかに入らなくても、パパとママがいるから、みたいな、そういう子のほうがいいわけです。
 筑紫 いままでは違ったよね。にこにこしてても、裏にものすごい大人の顔がある。
 秋元 そのドロドロした部分が逆にパワーになっていたんですけれど、今は、若い子たちがそういうのだとつかれちゃうんですね。」(pp. 134-135)

この「素人」に価値を感じる状態というのは、一体何なんだろう。「ウブ」(自然)が技巧を通して発揮されていたのが松田聖子的ぶりっこだとすると、それがわざとらしくなってきてしまったというのはまずあるだろう。表のウブを支えているのは裏に隠れた「ドロドロした部分」というのに、ひとが飽きた。菊池桃子(「卒業」(作詞秋元康))や斉藤由貴(「卒業」(わー、こっちは作詞松本隆))が「卒業」という同タイトルの曲でヒットチャートを賑わしたのが85年。この2人は、当時求められたリアルな「ウブ」の典型例だろう。ぶりっこの時代とリアル「素人」の時代の違いは、例えばソフトフォーカスを多用する写真の時代と肌の若さを強調する写真の時代の違いとして、何か語れるのかも知れない。菊池桃子のこうした写真に当時の中高生は、ドキドキさせられた。ある種の少女愛好の雛形になった形式に違いない。

これは、別の仕方で考えるならば、近代的な努力が評価された時代と、努力が意味を喪失しもともとの性能・能力が評価される時代との違いであるといえるだろう。ほんとうにそうなのかは分からない。努力というものがより巧妙に隠されるようになったと考える方が妥当かも知れない。あるいは、努力をしその努力を巧妙に隠しても出てしまう「素」に魅力を感じる時代と考えるべきかも知れない。ともかくも、「素」が見えているということ、つまり「本当は/にこういうひとなんだ」という様が見えているということが、重要な時代になってくる。裏読みとそれによってはじめてあらわになる素。ハプニングの時代ということでもあるだろう。

◎とんねるずとシャイ
「秋元 とんねるずが代表する今の若い人の笑いというのは、シャイなんですよ。すごい照れ屋なんですね。昔の古い漫才をやろうって、練習するでしょう。非常にうまいんです。うまいんだけど、恥ずかしい部分をわざと拡大してやるんですね。それでわざとアナクロ的なネタをやるのがおかしい。古い漫才をこいつらはわざとやってんだ、というところが見えないとだめなんです。昔の芸人さんは、芸にのめり込めたわけですけれどね、照れとかそういうのなしに。とんねるずみたいなのは、そういう芸人を演じているとんねるずを笑ってほしいみたいな。覚めているというか、シャイというか。」(p. 130)

「筑紫 あなたのいう「その後の世代」のシャイさというのは、どこからくるんだろう。
 秋元 シャイさというのは、みんなの個性がなくなって、他人よりちょっとでも変わったところがあると、いじめられたりすることに対する自己防衛だと思います。……ほんとは目立ちたいんだけど、周りを見て、できるだけ同じことしよう。「その後の世代」というのは、だから観察力はすごいんですよね。」(p. 131)

先述したことだけれど、「ウンコ」もらしたら翌日「昨日、ウンコもらした○○です」と先回りして言ってしまうといった振る舞いこそ、僕らの世代の特徴と秋元が言っていたのを思い出す。自分のする振る舞いはすぐに他人によって(自分が望むのとは違う仕方で)読まれてしまう。読まれてしまうくらいならば、そっちの方にアンテナを張り巡らせて自分から先にその解釈を言ってしまう。その身振りを秋元は「シャイ」と言う。
気になるのは、他人の解釈が一個の時代の振る舞いじゃないかなということ。みんなが共通に何かを何かとして思うということが社会の中に簡単に起こると恐らく考えていたからこそ、「ウンコ」の例を最良の例として秋元は考えることが出来た。けれども、今は、そうした共通のなにかを見出すことが難しい。いや、共通のことはあるのだろうけれど、あまりに陳腐に見えてしまって、語るに足るものと思えない。解釈が多様化している今日のような時代には、そうした一個の解釈という分かりやすいゴールを場に与え、見る者をコントロールすることこそ、お笑い芸人やプロデューサーに求められている仕事になっている。ある意味では、わざと陳腐なことをしているわけだ。
「業界」という80年代後半の幻想は、当時こうした一個の解釈を捏造するのにとてもうまく機能したのだと思う。「業界」的にはこの解釈が正しいという幻想は、非業界的な一般人をとりまとめる力になっていた。「同じ」という幻想も、そうしたものの捏造によって保たれていたのだろう。

このことと、とんねるずのファシズムについては、関連しているように思う。とんねるずの存在は、秋元以上に決定的に当時の若者の行動規範になっていた。

「中森 で、さあ、今日の読売ランドのとんねるずなんだけど、あの「青年の主張」はすごかったよね。日章旗がうしろに立てて全員総立ちで、完全にあれは冗談という名前を借りた大マジでさ……
 野々村 あれはさ、根っこに何もないことに使ってるからいいんであってさ、イデオロギー装置に使ったらあんな危険な奴らはないよね。あるのは純粋ファシズム機械だからさ。
 田口 だってさぁ、ワルキューレがなってヘリコプターがとんで来た時に世界のヒューズが飛んだもんね。一瞬青ざめたよ、ホント。浅間山荘と地獄の黙示録とナチの行進といっしょにグワーンと。スーパーファシズムだよね。空から「お前ら、どこ見てんだヨー」だもんね。
 野々村 あれは感動だよ、やっばり。」(『新人類の主張』p. 43)

「野々村 [とんねるず「母子家庭のバラード」を引き合いに出しつつ]ニューミュージックが悲しいところってさ、状況と組み合わせていろいろステージでしゃべるからさ。イヤじゃない、そういうのって。とんねるずがスゴイところってさ、ニューメディアの時代にあって、「メディアは装置である」という考えを徹底させてくれるところだよね。だからメディアに応じて声も松山千春になるわけ。全員で泣くためには松山千春でないとまずいわけよね。パロディをパロディ化していくっていう高度なテクノロジーが彼らにはあるから、どんどん意味性が無くなっていく。ただの装置、すごくきれいな、透明なとんねるずという装置が残るんだよね。」(『新人類の主張』pp. 43-44)

とんねるず「青年の主張」
とんねるずのうた1985-1992(「母子家庭のバラード」が見つからず)

さて、次はとんねるずですかね!

天才秋元塾 君もなれるゾ!おニャン子成金

2009年08月28日 | 80年代文化論(音楽)
ぼくは、この80年代文化論ノートを、ぼくと同年代あるいはそれより上の読み手のためというよりも、ぼくよりも若く、80年代を体感していない読み手のために書いている。後期の講義の準備だからということはもちろんそうなのだけれど、自分たちが生きてきて、あまりに当たり前になっていることが実はある時期の価値観によって規定されたものであることに気づいてほしい、自分でも気づいておきたいと思っている。発見し、考えてみて欲しいのだ。例えば、前の記事の『天国のキッス』や『セカンドラブ』は、時代を超えた名曲だと思う。こうしたものがかつてあって、そして今日があるはず。名曲の一部は忘れられているけれど、でも一部は日本人の生活の中に沈殿していて、ぼくたちの情緒を形作っている。未来に優れた仕事が生まれるとしたら、こうした作品から人間の秘密を取り出して今日的に機能させることによって可能なのではないか、などと思うことがある。ぼくたちは、そうした可能性の一部にしか目がいっていないのではないか。批評の仕事というものが今日あるとすれば、そうした発見の手助けをすることこそすべき仕事なのではないか。なんて、ちょっと思っております。(ただしこれは、ノートに過ぎません、そんなたいそうなこと思いつつ資料をあさって四苦八苦、奮闘中というのがこのノートの現状です、悪しからず)

さてさて、80年代前半は、松田聖子(と中森明菜)の時代だとして、後半は、小泉今日子、おニャン子クラブ、そして森高千里の時代だったのではないかと推測してみます。特徴を整理すると、

小泉今日子      自己言及的アイドル
おニャン子クラブ   素人アイドル 
森高千里       自作自演アイドル フィギュア的アイドル

森高千里は、ちょっと置いておくとして、小泉とおニャン子の代表曲は、ともに秋元康によって作詞されています。
秋元康は、すでに書いたように、新人類のひとりです。『新人類図鑑Part2』に登場しています。この新人類・秋元によって80年代後半のアイドル像は規定されたと考えてみることは出来るかも知れません。その一例として、あらためて『なんてったってアイドル』と『セーラー服を脱がさないで』を考えてみましょう。

その際に、参考資料にするのが『天才秋元塾 君もなれるゾ!おニャン子成金』(扶桑社 1986)。
このタイトルにすべてが凝縮されているような気がします。作詞入門といった体裁の本で、本と言うよりも、100ページのほどの2/3は購入者が自分で作詞するためのノートになっています。左にはおニャン子ひとりひとりが自分の書いて欲しい詩のテーマなどをあげていて、それに合わせて作詞する。500円とはいえ、そりゃないんじゃないかなー、と思ってしまうのだけれど、作詞をしたらここに遅れと、テレビ局、レコード会社、出版社などの住所・電話番号が、担当者のフルネーム付きで掲載してある。曰く、「秋元コネクション」。なんとなく、作詞入門と言うよりも、作詞家入門という感じ。

「作詞家というのは一言でいえば"職人"なんだよね。たとえば寿司屋を例にとると、普通の寿司職人はトロとかギョクとか、いわゆるシンプルな昔ながらの寿司を握って、その味で勝負するでしょ。これが本当のプロの作詞家。だけど僕の場合はちょっと違うんだよね。カリフォルニア巻を作ってみたり、アボガドをネタにしてみたりするわけ。そのあたりが、作詞家の中でも、"キワモノ"といわれる由縁なのかもしれないけどね。だから当然、これから話すことは普通の作詞家と違っていると思う。これはあくまでも"僕なりの作詞論"だから。ただひとつだけ確かなのは、原稿用紙に金は埋まっているということです。と、一応最初においしいことをふっときます。」(本書はページ表記がない)

これは、「HOW TO 作詞!」という章の冒頭文。普通の職人ではない、キワモノの作詞家の作詞論だとまず断っているのが興味深い。どんな意味で彼が「キワモノ」でありかつそうした類の「職人」であるのか。その後5ページに渡って、HOW TOが書かれてある。小見出しを列挙すると。

1"秋元流コンセプト&絵の見える詞"がヒットの秘訣だ!
2生活密着派or虚実空想派キミはどちらのタイプ?
3詞のなかにいろいろな仕掛けを作ってみよう!
4それでは実際にプロの作詞家を目指すにはどうしたらいいのか!?
5これまでに数限りなく使われている"常套句"は絶対に避けろ!
6歌謡曲の歌集にはヒントがいっぱい詰まっている!
7一番良い勉強法はすでにある歌の替え歌を作ってみることだ!
8プロを目指すか、アマチュアのままで終わるか、決断の時がきた!

興味深いのは、曲がどのようにテレビやラジオというメディアで取り上げられて、どのようなリアクションを生んでいくのかを予測しながら言葉を選んでいると述べているところ。

「僕がずっと職業としている放送作家というのは、何かがヒットするとそれをテレビではどういうふうに紹介しようかとか、ラジオではどうやって受けとめようかとか、そういうことをすぐ考える仕事なんです。作詞をする時には、これを逆に(業界の人がよくいう)利用してしまう。つまり、自分が作った詞が世間(マスコミ)をどういう形で巻き込んでいけるかを考えるわけです。」「おいしいエサをうまくまかなければいけないと思います。小泉今日子が「なんてったってアイドル」を歌えば"アイドル論"が華やかになるだろうし、おニャン子クラブの「セーラー服を脱がさないで」をだせばセーラー服をベースに色々な仕掛けが広がるだろうしね……要するに、核になるべき何かを与えることによってヒットの可能性を受ける側(テレビ局、ラジオ局、出版社などのマスコミの人)に見いださせるというね。業界では、これを「狙ってる」と言うんですけれども……。」

その後、「天才・秋元康の自作自評・自画自賛」という章に。そこでまず『なんてったってアイドル』についてこう述べている。

「僕らは先まわりがうけた世代だと思います。」ウンコもらした子が翌日「学校に行って自分から「昨日、ウンコしてしまった○○です」と言っちゃったほうが楽だ、みたいなところがあると思うんですよ」という前振りがあった後で、

「こうしたことを小泉今日子の歌にあてはめてみたのね。彼女を見れば、誰だって「アイツはアイドルしてる」と思っているわけだから、それを逆に「私はアイドルよ、なんてったってアイドルよ」と本人に言わせてしまう。それと、彼女だったら男もいるんだろうなとか、きっとミュージシャンとできちゃうんだろうなと聴く人の勘ぐりを彼女自身が先に言っちゃう。これが"快感"になっているわけ。それに「インタビューならマネージャーを通して」なんて遊び感覚がよかったんじゃないかなと思います」

もうこれは、すごいですね。「新人類とは何か」の定義そのものに見えます。要するに「自称」こそが人間をその存在にさせる、というわけです。「なんてったって」って誰が何と言おうとということですよね。誰が何と言おうと私はアイドルなんです、と歌うのが今日的アイドルなのだというんですね。小泉今日子という歌手は、松田聖子的でもあり、でも、松田聖子にはなれず、かといって中森明菜とはもっと違うし、と自分の位置づけに悩んだひとではないでしようか、とくに85年以前には。『私の16才』『真っ赤な女の子』『渚のはいから人魚』など、自分を定義するようなタイトルが多い歌手というのもこの点で気になるところです。定義しないとぼんやりしてしまうなんてことが考えられていたのか、、、なんて推測したくなります。そこでまさに最強の定義があらわれる(松田聖子のいない間に)。『なんてったってアイドル』と。
秋元康はまさにこの「自称」の身振りとして「天才秋元塾」なんて言っているわけです。この自称の情けなさとけれども、これが自分の世代らしい表現なのだという居直りと確信が、自称に力を与えてくる。「言ったもん勝ち」というやつで、これはまさに、大塚英志が『おたくの精神史』で述べている「先着順」を連想させる。『神々』(作詞家ならば、例えば松本隆になど)以外は、天才ではない故に、ここにいる非天才を天才と非天才とに分けるのは、早いもの順、言った者勝ちなのだ。ヒットさせてしまえば、それでよし。
あと、こんな風にも考えられないか。天才が不在の時代に、天才が天才であるのは、詞の才能以上に業界における人脈など業界力に委ねられるようになる。ある意味では、ポストモダンそのものの思考である。天才などというのは、近代の産物である。と考えるならば、その天才など存在しない時代に、それでも自分が天才であるとすれば、それは業界で力を発揮できることがその証になるというわけだ。秋元の心はだから、自分の歌を聴く聞き手よりも歌をビジネスへと変換するマスコミに向かっている。80年代の初頭の『宝島』では、「産業ロック」是非論なんてのが話題になっていた。そうした産業と音楽との関係の是非が問題にならなくなるのが85年以降の展開であり、歌の形式よりも、歌をめぐるシステムこそが歌を作りその価値を決めるという状況が進んでいく。

小泉についての新人類・野々村のコメントは以下の通り。

「KYON2のクセは、欲望のままに、だらしなく挑発すること。
暗に何度も強調してきたように、彼女はなーんにも考えていない。「なーんにも考えていない」にも関わらず、僕らを驚かせてくれるその並はずれた才能。
 ひとつ付記しておこう。KYON2の無意識が、戸川純の無意識を気取る自意識とはまったく違うものであることを。無意識の無意識と、無意識を気取る自意識。」(pp. 64-65)

「スターシステムというゲームの規範にノリつつも、たえずはずしをかけていくKYON2の必殺ワザ」「小泉今日子の身のこなしの軽さと不確定性は、スター・システムのルールを無視した小田急沿線(ルビ:ノマドロジック)の相模原台地的で自由な運動性によってもたらされていたのだ。」(p. 69)

あと、「ヤマトナデシコ七変化」に出てくる「素顔のほうがウソつきね」のフレーズに、野々村は注目している。本名を芸名にする小泉今日子。「素顔を見せない女のコの周囲で複数の人格が輪舞するゲームが生まれた。」(p. 63)と述べている。


小泉今日子『ヤマトナデシコ七変化』(1984.9.21)
作詞康珍化 作曲筒美京平
純情・愛情・過剰に異常
純情・愛情・過剰に異常
ヤマトナデシコ七変化 素顔の方がウソつきね
ヤマトナデシコ七変化 絵になるネきわめつけ
純情・愛情・過剰に異常 どっちもこっちも輝け乙女

しとやかなふりしていても
乱れ飛ぶ恋心A ha
内緒あなたの腕の中
ごめんだれかと比べちゃう
ヤマトナデシコ七変化
からくりの早変わり
純情・愛情・過剰に異常
あっちもこっちも恋せよ乙女


この曲で恋する「乙女」は、したたかで浮気者(小泉の曲に「浮気」の語は頻出する)で、「乱れ飛ぶ恋心」は、男性たちをあちこち遍歴しながら、自分のアイデンティティを「からくりの早変わり」よろしく、変化させてゆく。「しとやかなふり」は、それが出来る(演技の成功 聖子)/出来ない(演技の不能 明菜)ではなく、その最中も「恋心」はあちこちに乱れていて、一定しない(「過剰に異常」)。複数のアイデンティティの着せ替え、キャラの発生。

*「艶姿ナミダ娘」(1984) キャラ設定としての「艶姿ナミダ娘 いろっぽいね」


聖子的ぶりっこと明菜的せつなさ

2009年08月28日 | 80年代文化論(音楽)
あらためて80年代前半の代表的存在、松田聖子と中森明菜を取り上げて比べてみようと思う。
松田は、ぶりっこと称される存在。ぶりっことは、自然(ウブ)を演じること、演じる人のことで、表面的にはかわいくウブに見える一方で、その裏面にはそれが演じられたものであることが指摘される存在。当時、よく囃されたのは、授賞式でのこうしたシーンで、真偽はどうあれ、しばしば「嘘泣き聖子」と言われていた。
対して、中森は、「不器用さ」を歌う。本人もそうしたタイプだったらしく「中森明菜は、コンサートでファンに呼びかけるときですら、不器用だった。まるで、ファストフード店の新入り店員が、いかにも「マニュアルどおりです」と言わんばかりに、一生懸命に笑顔は作るが、まるで心をこめずに対応するのを見ているかのようだった。その健気さに、同年代の少年少女たちは共感を覚えたのだろう。」(中川右介『松田聖子と中森明菜』pp. 215-216)と論じられている。不器用さは、演技の不器用さにも繋がる。そこには苛立ちがあり、分かって欲しい自分の本当の姿とそれが分かってもらえず誤解されてしまう虚像の姿の二つに悩まされる。そんな実存が浮かび上がってくる。

他者に理解されない素の自分らしさ----他者に愛され(ようとし)ている演技上の自分
   (明菜的)                  (聖子的)

今日の自己評価に関して、「エゴ」を重視するあり方と「モテ」を重視するあり方があると、しばしばぼくは、大学生に向けて女性ファッション誌を事例にし話をしている。「エゴ」を重視するあり方の代表例がコギャル時代の『egg』で、当時この雑誌が掲げていたのは「スーパーエゴシステム」(フロイトは関係なし)だった。自己中で、自分がよければいいので他人の評価は気にしないというあり方。「モテ」は、三年程前の『CanCam』が代表で、自己評価よりも他人からの評価の方が重要、自己満足よりも他人からモテ、愛され、ゴールとして設定した結婚への最短・最良コースを目指す。21世紀の前半に際立っていたこの二つのあり方は、20年遡って80年代をふり返ると、明菜的ものと聖子的なものの違いと類似性があるように見える。

とはいえ、中森の歌う女性は自己中というのとは違う。分かって欲しいが分かってもらえない、そこに戸惑いと苛立ちと絶望があり、そしてその負のエネルギーが歌の力になっている。

さて、聖子的ぶりっこと明菜的せつなさをより具体的に分析するために『天国のキッス』と『セカンドラブ』を比較してみようと思う。松田から二年遅れの中森は、82年の5月に『スローモーション』でデビュー、同年11月に発売された『セカンドラブ』は、『少女A』に続く第3弾シングル。中森初のオリコン一位曲となる。その半年後に『天国のキッス』はリリースされる。この曲について、2009年8月放送『The Songwriters』で松本隆は、松田聖子プロジェクト最良の曲と発言している。

『天国のキッス』作詞松本隆 作曲細野晴臣 1983.4.27

Kiss in blue heaven もっと遠くに
Kiss in blue heaven
連れて行って ねえ Darlin’

ビーズの波を空に飛ばして
泳げないふりわざとしたのよ
ちょっとからかうはずだったのに
抱きしめられて気が遠くなる
kiss in blue heaven 雲の帆船
kiss in blue heaven
乗せて行って ねえDarlin’

おしえてここはどこ?
わたし生きてるの?
天国に手が届きそうな
青い椰子の島
……
愛してるって言わせたいから
瞳をじっと見つめたりして
誘惑される ポーズの裏で
誘惑してる ちょっと悪い子
……

まず注目したいのは、「天国に手が届きそうな」の表現に端的なように、松田が歌い続けてきたデートソングにおいて、描かれうる最高の状態、ひとつのクライマックスが描かれているということ。メイクラブ。その手前を描く、女と男の距離が次第に縮まったり離れたりするその距離を描くことが恋愛ソングであり、デートソングだとすれば、これはあってなきがごとし領域のはず。ここに触れてしまえばもう書くことがなくなる。目的であり終焉、ジ・エンド。
だからこそ、告白してしまうのか、「泳げないふりわざとしたのよ ちょっとからかうはずだったのに 抱きしめられて気が遠くなる」。目的成就のための演技(「ふり」→ぶりっこ)は、実際に成就される瞬間には、意図(「ちょっとからかうはず」)せざる出来事へと演技者を導きもする。すなわち「抱きしめられて気が遠くなる」。この「気が遠くなる」こと、エクスタシーは、生きていることが最も燃え上がる瞬間であると同時に、生きていることを越えてしまう気にさせる出来事でもある。「おしえてここはどこ?わたし生きてるの?」。以前も書いたけれども、松本隆の書くデートソングは、ある一日の幸福を通り抜けて生きているということそのものへと迫って行く。この次元があることで松田聖子を安易に語ることはきわめて難しくなる。まあ、そうなのだけれど、でも、デートというゲームが生きていることを燃え上がらせる最も生き生きとした場なのだと、とりあえず理解してしまおう。この曲では、もう一度、松田=松本は、松田的ぶりっこの手の内を明かしてくれる。「愛してるって言わせたいから 瞳をじっと見つめたりして 誘惑される ポーズの裏で 誘惑してる ちょっと悪い子」。誘惑されることが誘惑することであること、このゲームこそぶりっこという演技の内実だ。受け身の瞬間が訪れるために凝らす能動的なしかし巧妙に隠された(ときにあえてあからさまにさえする)技巧。ゲームの勝者を目指す「ちょっと悪い子」。「悪い子」の悪さは、二重性を巧みに生きていること、嘘をついている(ふりをしている)こと、にある。だけれども、すべては自分と相手とが「気が遠くなる」ための「悪」であり、望まれる「悪」(嘘)なのだ。


『セカンドラブ』作詞来生えつこ 作曲来生たかお 1982.11.10発売
恋も二度目なら 少しは上手に
愛のメッセージ伝えたい
あなたのセーター袖口つまんで
うつむくだけなんて
帰りたくない そばにいたいの
そのひとことが言えない
抱き上げて つれてって 時間ごと
どこかへ運んでほしい
せつなさのスピードは高まって
とまどうばかりの私

恋も二度目なら 少しは器用に
甘いささやきに 応えたい
前髪を少し 直す振りをしてうつむくだけなんて
舗道にのびた あなたの影を
動かぬように止めたい
抱き上げて時間ごとからだごと
私をさらってほしい
せつなさがクロスするさよならに
追いかけられるのイヤよ

抱き上げて つれてって 時間ごと
どこかへ運んでほしい
せつなさはモノローグ胸の中
とまどうばかりの私

明菜の歌う主人公は、聖子の望ましい「悪」である嘘がつけない、演技が出来ない。会話というゲームの上手なプレイヤーになれたらもう少し自分の望みがかなうだろう(「愛のメッセージ伝えたい」という気持ちがかなうだろう)に、それが出来ない。「恋も二度目なら 少しは器用に 甘いささやきに 応えたい」。いや、振りはするのだ、するのだけれど不器用すぎてゲームにならない、恋愛に展開していかない。「前髪を少し 直す振りをしてうつむくだけなんて」。きっと主人公は、隣を歩く男から何かを言われたのじゃないか、それに応えて、誘われているように誘う表情を男に向けてみせられればどんなにかいいことか。なのに「うつむくだけなんて」。理想の状態と現実の状態、そのギャップが「せつな」い。本当は、聖子的ぶりっことさほど変わらない欲望を、明菜の主人公も抱えているのだ。「抱き上げて連れてって時間ごと」。「天国」でなくてもいい「どこかへ運んでほしい」。けれども、この主人公の思いは、発話されぬまま「モノローグ」が「胸の中」に留まる。



『蒼い時』と『聖子』

2009年08月25日 | 80年代文化論(音楽)
山口百恵著『蒼い時』は1981年に、神田法子著『聖子』は1986年に、それぞれ出版された。

2人は、言うまでもなく70年代と80年代を代表する歌謡曲歌手である。この2冊には、時代を代表する歌手が結婚を契機に書かれたものであるという共通点がある。
『聖子』は『蒼い時』を強く意識しているように思われる。

『蒼い時』の目次は、「出生/性/裁判/結婚/引退/随想/今、蒼い時」で、
『聖子』は、「結婚/歌手/料理/醜聞/看病/求愛/最後/夫婦/赤ちゃん」である。

自分が女として生まれた存在であることが、山口の場合「結婚」というゴールへ向けて、松田の場合「結婚」と「赤ちゃん」への期待として書かれている。

◎女性の身体とアイドル歌手としての存在
ちょっと驚くのは、女としての自分を描く一環なのだろうが、初潮の瞬間を2人とも丁寧に描写しているのである。『蒼い時』では、

「十一歳になろうとしていた一月五日、私は、初潮をみた。まだ家々が建てられる前の平らな土地が広々と見える道端に、ポツンと立てられた時刻表、そこはバスの停留所だった。年始に行った帰り道、私は母と並んでバスを待っていた。肌寒い、もう夕暮れ間近だった。何の話をするわけでもなく、待つ時間のもどかしさと風の強さに負けて、私はその周囲を歩き回っていた。その時一瞬、下腹部にチクッとさされたような痛みを感じた。次の瞬間、身内の熱が固まってころがり落ちた。「整理だ」漠然とそう思った。確かめるために近くの繁みにかがみ込んだ。両の足の間に小さな朱色を発見した私は、すぐに母に告げた。母は、淡々と、それでも嬉しそうに笑って、「お赤飯をたかなきゃね」と囁いた。」(山口 集英社文庫 pp. 36-37)

「テニス部に入った。父がラケットをわざわざ福岡市まで買いに行ってくれた。そんなに上手ではなかったが、好きだった。二年生でレギュラーになる日を夢みて、練習に励んでいた。
 スコートがどうやら板に付いてきた夏のある日、白いショーツに小さな赤いしみを見つけた。赤いというよりはむしろ茶色に近かった。けがをしたのかと思った。だが、どこにも傷はない」(松田 p. 11)「たしかに私は女としての新しい一歩を踏み出した。その夜、母はやさしかった。夕食がお赤飯になることもなく、いつもと変わらなかったのが、私にはかえってうれしかった。おかげで私もとまどうことがなかった。それまで、男性である父に、私はどんな顔を見せながら食事をしたらいいものか、ひそかに悩んでいたのだ。」(松田 p. 12)

何故、ここまで克明に書く必要があるのだろうと思ってしまう。山口に関しては、日付まで記されている。冬と夏の違い、父の買ってくれたラケットで部活に勤しむ松田と母子家庭で過ごしている山口の違いは、2人の個性を特徴づけているように思う。父の不在と父への戸惑い。山口に関しては、「私自身がいったい、いつ、どこで、どんなふうに生まれたのかを、私は知らない。」(山口 p. 14)とあり、その原因である父との関係について山口はこう述べている。

「私には、父はいない。
 一つの肉体としてあの人が地球上に存在していたとしても、私はあの人の存在そのものを否定する。」(山口 p. 18)

対して、松田聖子の場合、

「父の通勤の車のなかは、娘と父の、私とお父さんの水入らずの場所だった。朝ばかりではなくて、雨が降ったり、クラブなどで帰宅が遅くなったりするときも、父はよく学校に迎えにきてくれた。母にいわせると、「べったり」の父娘だった。」(松田 p. 55)

山口には、生理について書く必然性(必要性)があった。「性」という章は、歌手として彼女が「青い性」を歌う存在だったことを受けて、それに対して、山口本人の思いを語るものとなっている。「あなたが望むなら、私何をされてもいいわ」と始まる
『青い果実』は、今聴くと、ほとんど、当時の日本人が束になって若いひとりの女の子にセクハラをして楽しんでいたかのような暗い気持ちにさせられる。彼女自身も当初そう思ったようで、「期待と不安の入り混じった複雑な気持ちで、書かれた文字を追っていくうちに、私の心は衝撃に打ちひしがれてしまった。」(山口 p. 34)という。「こんな詩、歌うんですか」と思ったという。当然だろう。この「青い性」路線は、彼女のダークなイメージを規定した。このイメージに対して、では自分はどんな性への意識をもっているのかを山口は語る必要を感じたのだろう。かなり赤裸々な記述が続いていく。

「恋という感情を自分の中に確認してからしばらく、私は性に対する自分の姿勢を、きれいごとで済ませられると思っていた。体を合わせるだけが全てではない、と考えていた。しかし心が募るにしたがって、身の内に不思議な感覚が走るのを否定することはできなかった。求められると同時に、求めることを知った。心と体が、説明できない波にすっぽりと包まれてしまうのである。」(山口 p. 48)

このストレートな文章は、アイドルとしての山口百恵ではなく、きっぱりとそれを捨てたひとりの女性としての語りと理解するべきだろう。あまりにもシンプルに率直に語られている。その様にあっけにとられてしまう。書き手がアイドル像をほとんど纏う気のない振る舞いを見せてしまっている。ほとんどそれは、女性論と呼ぶべきものへと展開する。「女の歴史」に連なっていく議論を、切々と説く山口は、ひとりの女性、女性であることを強烈に、過剰といまの視線からは思ってしまう程真摯に意識している女性である。

「私は今、心身ともに健康である。愛する人に丸ごとぶつかっていける心と体をそなえた幸福な女である。これから私は、子を宿し、出産し、やがて年老いてゆくのだろう。今はまだ見えてはいない女の歴史が、何年も続いていくのだ。平和であることを願いたい。せめて皆健康で、そして和やかに生きられるように努力したい。」(山口 p. 53)

山口百恵は、21歳で結婚した。『聖子』には、松田が21歳での結婚に憧れ続けていたことが記されている。これも、山口ないし『蒼い時』を松田が意識していると思わせるポイントである。「二十一歳で結婚すると、ずっと長いこと心に決めていた。歌手になりたいという望みより、はるかに強くて大きな願望だった。」(松田 pp. 17-18)とあるので、山口の結婚を機に「21歳で」と思っていたわけではないだろう。けれども、ここにこだわって書かれていることがなんだか気になる。1981年出版の『もう一度あなたに』(ワニブックス)では、「私の"山口百恵"論」と題された章がある。そこでは、確かに

「私のそういう結婚観を聞いた人は、必ずっていいほど、「山口百恵さんに影響されたの?」って、私に問いかけます。別に百恵さんに影響されて、こういう考え方になったのではありません。何度もいうようですが、昔から考えてることなのです。たとえ歌手にならず、他の職業に就いていたとしても、結婚するときは、その仕事はやめてると思います。それほどまでに、私の中の"結婚"は、大きいのです。」(p. 185)

と語られる。山口百恵については、「私も、よく"第2の百恵"なんていい方をされましたが、とても私などちっぽけで、比較の対象にならないと思います。だから百恵さんにたちうちできるほどになるのが夢です」(p. 185)とある。ちなみに『聖子』のなかには、山口百恵に対する言及箇所は見あたらない。

『聖子』の中で結婚願望の語られる辺りを読んでいると、山口と違って(というよりも、以前に語っていたこととは違って)21歳が過ぎても仕事をしている私、と言うものに対して、ちょっとした弁明がしたいという感じもする。

ところで、いま「二十一歳で結婚する」と決めている女性は、一体どのくらいいるのだろう。この年で結婚すると決めて生きている十代のテンションは、そうではない十代のテンションとは相当異なるだろう。アイドルとは、当時、そうした短い花の時代を輝かせる存在として、あったのだろう。いま、二十一歳でアイドルが結婚しても、たいして憧れられないだろうし、ヤンキー扱いされるのがオチだろう。


◎恋愛と仕事
結婚すると山口百恵は、決してメディアに振り向くことはなかった。対照的に、松田聖子は結婚後も仕事を再開した。この違いは、両者の決定的な違いだろうし、70年代の主婦像と80年代の主婦像の違いを示してもいる気がする。恋(結婚)と仕事について松田の発言をざーっと列挙してみる。

「何よりも強烈だったはずの結婚願望を、逆に仕事が押しやっていった。自分がいちばん女として輝いているときに結婚したい。それは二十一歳のときだと信じきっていたのに、いつしか予定の日が遠のいていった。」(松田 p. 20)

「恋愛と仕事と、どちらが大切なものなのかと天秤にかけたことなど、私には一度もなかった。その前に、恋愛と仕事をそうやって比べるという発想がなかった。」(松田 p. 22)

「そんな家庭に育った娘の私は、短大か大学を出て、花嫁修業をして結婚というのが、いちばん身近な、現実的なコースだった。スチュワーデスになりたいといっても、それも非現実的な夢だった。両親にとって平凡だけれど、そのもっとも望ましい安穏な暮らしをおびやかすものが、今回のできごとなのだった。父が反対するのも無理はなかった。」(p. 50)

「撮影のときなど「鏡取って」などと、年上のスタッフに言葉を放つこともあった。彼女は仕事の最中に、いちいちていねいにいわれるほうが、むしろいやだといっていた。けれども私は怖いと思った。このまま慣れていって、それが当然のことと感じるようなときがあるのではないかと。それだけは避けたい。そんな女性にだけはなりたくない。少なくとも、自分の中でそんな懐疑心を失ったときは、女として終わりなのだと自分にいいきかせていた。」(松田 p. 157)

「食事は遠慮や気兼ねもなく、楽しくおいしく食べたい。いつのまにか、自然にそういうふうな考え方に変わっていった。そして彼はバリバリ働き、私は元気な赤ちゃんを産む。それが私にとって、いちばんの幸せなのだ。」(松田 p. 172)

「三月の十日の私の二十三回めの誕生日が過ぎて、何日かしたとき、
「誕生日のプレゼントだよ」
 と、彼が無造作に手渡してくれた、素敵な金の時計だ。
 私のスケジュールは、五月十二日を最後にすべてが終わった。その日、大阪城ホールでのコンサートを終えて楽屋へ戻ったとき、私はその時計を腕に巻き、じっと見つめたのだった。」「これが最後のコンサートになるわけではないかもしれないが、独身最後の、大きな区切りのコンサートであることは確かだった。」(松田 p. 199)

「少しずつ主婦という"職業"に慣れ親しんできたつもりだ。主婦の仕事のことを、英語では"シャドーワーク"というと、どこかで聞いたことがある。もしかしたら、無報酬のつらい仕事というような、否定的な意味でそういうのかもしれないが、"影の仕事"というのは、いい得ている表現だと思う。光と影は対をなしている。光、つまり夫がいなければ、影、妻も存在しない。私は肯定的な意味に解した。時間をかけて"いいジャドーワーカー"になりたいと思った。」(松田 p. 220)

「結婚以来、仕事は休み、何よりも家庭を優先させてきた。むろん義務などではない。そうするのが私にとって、いちばん自然だったというだけの話である。わずか半年足らずで、家庭の基盤を築けるわけはないけれど、主婦としての場所は、小さくとも占められるようになったのではないかと思う。」(松田 p. 258)

「正直にいって、結婚するとき私は「これで引退をします」といいたい気持ちもあった。」「だが、そうはしなかった自分にいま深く感謝をしている。」「話はそれるが、私が前に「結婚したら仕事はやめます」といった言葉をひとつの楯にして、結婚のとき「松田聖子は嘘つきだ、いい加減だ」というような非難を受けた。だが、変わってはいけないのだろうか。価値観が変わることが、そんなに非難されるべきことだろうか。」(松田 p. 261)

「いまの私は、まだまだうたうことと家庭とが、ギャップもなくすんなり両立するとは思えない。うたうことよりも何よりも、私はいま、彼との暮らしを大事にしたい。そして母親になりたい。」(松田 p. 262)

1986年に沙也加を出産。1987年4月には『Strawberry Time』で歌手復帰する。1997年に神田正輝と離婚。その前の文章。

「私の場合、松田聖子と神田法子は、そのありかが違います。
松田聖子にとっての幸せは、仕事を思う存分することです。歌をうたい、それを聴いていただくこと。アンコールとあたたかい拍手に包まれること。
神田法子の幸せは、愛する人が元気でいてくれることです。仕事が順調に運び、いつも健康なこと、笑顔を見せてくれること。そして子供に恵まれ、家族みんなが仲よく、健やかに暮らしていけることです。」(松田 p. 268)

松田は、この二つの自分を上手く両立させていくことを考える。対して、山口百恵の場合は、「女房」というアイデンティティに自分らしさを「百恵らしさ」を見いだそうとする。

「私はこれから女房になろうと思う。女房という語から感じるいい意味でのニュアンスを、さり気なく大切にして行きたいと思う。それが今、二十一歳の最も私らしい姿だと思うのである。年にふさわしくないと言われ続けてきた私が、女房になり、時を経る。彼のそばにいる限り、これからの私は、最も百恵らしくなれるのではないかと思っている。」(山口 p. 114)

ドリームナイト2

2009年08月24日 | Weblog
一緒に暮らしていても、知らないことは多くて、家にある四台の同じような白いマックのノートブックのどれかを互いが叩いていても、同じ家にいる相手が何を今しているのか、案外知らなかったりするもので。

レビューハウス☆ドリームナイト2が8/30に渋谷アップリンクであるみたいで、カオス*ラウンジ(夏)のことを調べている内に知りました(まあ、「めざましテレビ」見ながらとか何となくそんなこと、Aが言ってたような気が、何となく思い出してきた)。藤城嘘も出品するそうで、楽しみです。というか、松井みどりさんがゲストというのが、なかなかすごい、予測不能。見たいような見たくないような見たいような、、、ですね。

ところで、
「23才の夏休み」

「九十九里浜に
叫んでしまったよー」


名曲だなあ、去年?いまぼくははじめて聴いたから、ぼくには今年の名曲。

松田聖子

2009年08月22日 | 80年代文化論(音楽)
1980
松田聖子「裸足の季節」1980.4.1

松田聖子「青い珊瑚礁」1980.7.1

松田聖子「風は秋色」1980.10.1

1981
松田聖子「チェリー・ブラッサム」1981.1.21

松田聖子「夏の扉」(ここまで作詞は三浦徳子)1981.4.21

松田聖子「白いパラソル」(ここから作詞は松本隆)1981.7.21

松田聖子「風立ちぬ」1981.10.7

1982
松田聖子「赤いスイートピー」1982.1.21

松田聖子「渚のバルコニー」1982.4.21

松田聖子「小麦色のマーメイド」1982.7.21

松田聖子「野バラのエチュード」1982.10.21

1983
松田聖子「秘密の花園」1983.2.3

松田聖子「天国のキッス」1983.4.27

松田聖子「ガラスの林檎」1983.8.1

松田聖子「瞳はダイアモンド」1983.10.28

80年代の日本文化を考える上で、松田聖子がきわめて重要なのは当然なんですけれど、それが一体どんな論を展開できるのかは、いずれ整理するとして、ここには、個人的な体験を書いておこうと思います。

ぼくが最初に自分のお小遣いで買ったレコードは、「風は秋色」でした。いまでも、近所のサンピア(千葉県東金市にあった当時唯一の文化的なショッピングセンター)の多田屋でレコードを購入し、まだ舗装されていないぬかるんだ道を子どもの自転車に乗って帰ったときのことを覚えています。ジャケットがともかく松田聖子のドアップで、ちょっとピンぼけしているくらいアップで、それがともかくドキドキと嬉しかったなあ。その翌年の年末には、RCサクセションの武道館ライブをたまたまテレビで見て、RCの大ファンになるのですけれど、その間も聖子ちゃんファンであり続け、レコードは、「小麦色のマーメイド」まで買い続けました。9才から11才までの早熟な疑似恋愛。


『ステッチ・バイ・ステッチ』など

2009年08月21日 | 美術
今日は、東京都庭園美術館『ステッチ・バイ・ステッチ』を見に行った。すでにここに書いたけれど、この展覧会はカタログに寄稿したこともあり、ちょっと関係者(カタログを購入してぼくの名前を検索してここに来てくださった方、もしいらしたら、はじめまして!あの、こんなことやってます)。展示を見ずに論考をまとめるのはとても大変だった。それで、ちょっと見に行くのをためらっていたのだけれど、行ってよかったです。よい展覧会だと思いました。伊藤存は毎回トライアルというか新しい展開があり、今回も「おっ」と思った。手塚愛子、清川あさみも良かったけれど、刺繍の作品たちはもともとは洋館である美術館の建物ととても共鳴し合っていて、それが見事。その後、青山のビリケン商会のギャラリーにて「カオス*ラウンジ(夏)」を見た。藤城嘘がpixivで募った作家たちの展覧会。クオリティは、なかなか。安易な性的凌辱に短絡化しない少女への同化が印象的で、見ていてなんだか80年代文化論で整理している富沢雅彦のことを思い出してしまった。

今日は、80年代文化論ノートはおやすみします。ただ、ノート化はしませんけれど『SV』の「リヴァイヴァル以降の「80'sカルチャー」総括!」(2007.2号)を読んでました。んー、なんか僭越ですが、あまり誠実な感じがしない誌面でした。なんとなく浮き足だっていて、「リヴァイヴァル」が焦点なら、どこがどういう風に復活・再評価されたのか、もっとつきつめて欲しかったな(と二年前に読んだときも思ったっけ)。80年代を総括するというのなら、せめて「新人類」対「おたく」くらい、「新人類」対「神々(浅田彰)」くらい考察しても良かったのでは(ほんとならば、竹の子でもローラーでも暴走でもクリスタルでも「族」について論じるべきだし)。何よりも、原テクストへの参照がとても希薄で、書き手の知識の披瀝ばかりがめだち、知ってるぜって身振りが知らないひとたちを遠ざけている気がする(なんて、無責任に架空の『SV』を妄想したり)。

YMO

2009年08月20日 | 80年代文化論(音楽)
「おたく」-「新人類」については、いまのところはこれくらいにしておいて、視線を別の角度に移してみようと思います。
80年代の思想を考える上では、欠かすことが出来ないだろう存在。YMO。

巨大な存在過ぎて、資料を網羅的に読むことなんて出来ないに決まってますが、彼らの存在を今書いたように「80年代の思想」という観点から見ていこうと、そこに限定していこうと思います。

さしあたりは、『宝島』の1980-83年頃に彼らがどう扱われ、どんな発言を残しているのかを見たり、
2007年に出版された3人のインタビュー集『イエローマジックオーケストラ』(アスペクト)を参考にしていこうと思います。


と、言って、今日は午前中三時間くらいしか時間がとれなかったので(午後に多摩美の学生Hくんと秋~冬にかけての諸々のためのミーティングがてら城山湖やら津久井湖やらへドライブに行ったのだった。「大学生の夏休み」を齧らせてもらった気分。彼の家の裏には、蛍の飛び交う林があるのだという。その近辺にも連れて行ってもらった。すごいところだな、多摩の辺りって)、そこでチェックしたYou Tubeの映像をとりあえず、貼っておきます。後で、資料からの引用や木村のコメントを付け加えていきます。

ざっくり言うと、YMOって、
◎マーティン・デニー的なアプローチ(エキゾチシズム)

◎歌謡曲への関心(きわめて日本的なポップソング)

◎ディスコというものへの興味(ダンスミュージックというだけでなく統一化されたOSとしてのディスコ)
がクロスオーバーしている(とくに初期)ところに唯一無二の個性があり、またそこに80年代の思想のひとつのかたちが見いだせるように思います。


◎「頭クラクラ みぞおちワクワク 下半身モヤモヤ」
「細野 実際にやってたわけじゃないんですけど、インドのヨガに興味があって、かなり影響を受けてましたね。ですから、身体的な感覚の領域、チャクラですね。頭、みぞおちというのは、チャクラのことだと思います。ディスコというのはいちばん下のチャクラで、みぞおちっていうのは情感というのかな。で、頭っていうのは知的なもの。この3つが統合できる音楽がやっとできるんじゃないかと思って。」(p. 20)
「正しくは「下半身モヤモヤ みぞおちワクワク 頭クラクラ」で、それぞれ低音、中音、高音、またはリズム、メロディー&和声、コンセプトに相当する」(p. 21)



◎マーティン・デニー的アプローチ
Martin Denny "Fire Cracker"
YMO "Fire Cracker"
Dr. Buzzard's Original Savannah Band - Sunshower
M.I.A. "Sunshower"(これは参考までに)

「--コンピュータ(MC-8)との初セッションはどんな印象でしたか?
 細野 夢見心地のようでね。「ファイヤークラッカー」の元の曲を坂本くんが手直しをして、譜面を起こして、それを松武さんがすごいスピードでプログラムして、そうすると音が出てくる。僕はボーッと聴いているだけ。ああいうシークエンスのリズムがとても気持ちがよくて。」(p. 21)


◎歌謡曲への関心
「--[『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』]一曲目の「テクノポリス」なんですが、これはピンク・レディーの曲を解析して坂本さんが作った曲だと、当時発言されていました。それ以前にYMOがステージで「ウォンテッド」を演奏していましたけど、都倉俊一とか筒美京平とか、そういう歌謡曲的なものが、YMO結成時から気になる存在としてあったわけですか?
 細野 東京臭いというところから逆に辿り着いた、非常に知的なアプローチですね。肉体感覚じゃないですね。決して好きなものじゃないんですけど、でもテクノに置き換えると非常によくなる、ピンク・レディーもよくなるという確信があったんですね。」

「--冒頭の「テクノポリス」は坂本さんの曲ですよね。これは細野さんによると、ピンク・レディーのサウンドを分析してできた曲だという。
 坂本 細野さんから頼まれたというより、むしろ僕からのオファーだった気がするんですよ。六本木ピットインとかで、YMOは確かピンク・レディーの曲をやってるでしょう。
--「ウォンテッド」ですね。
 坂本 ディーヴォみたいな感じで。当時、「テクノパンク」とか言ってて。
--ピンク・レディーの出現で、歌謡曲がアジャストになっていった変遷がありましたよね。
 坂本 肉体でテクノをやっているというのが、ディーヴォに近いでしょう。それに東京の民族音楽として、ああいう歌謡曲的なメロディーがある。
--いわゆる東京臭いものだと。
 坂本 東京の民族音楽としてピンク・レディーのメロディーを使って、東京から発信するという気持ちは、あったはずだし。」(p. 144)

YMO "Wanted" (1978)
Pinklady "Wanted" (1978)

「坂本 「メタ・ポップ」というのは、ポップ・ミュージックの歴史を換骨奪胎するというか、もう一回リコンストラクションするっていうか。僕らがピンク・レディーに魅力を感じたのも、あれは伝統的な歌謡曲じゃなくて、「メタ歌謡曲」だから。伝統とキレていて、いわゆる歌謡曲のサンプリングみたいなものとしておもしろがっていたわけだから。」(p. 151)

YMO "KEY"
イモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」

近田春夫「ワン・シーン」

◎ディスコというものへの興味

「--普通、ディスコっていうと、軽薄なイメージがあるでしょう。
 細野 僕が当時、はっきりと意識していたのは、ディスコというベーシックな枠組みを、やっとみんなが利用できるようになったということ。それまではロックだとか漠然とした音楽ジャンルでしかなかったわけですけれど、ディスコっていうのは場所がくっついて初めて成立するものですよね、非常にリアリティのある。
 --「踊る」という目的のための機能性だとか。
 細野 ええ。みんなそれぞれがバラバラに違う方式でやってたのが、コンピュータの世界でOSが統合されていったように、共通の言語を使えるようになっていく時代だったと思うんです。」(p. 19)

「細野 以前作っていた『トロピカル・ダンディ』『泰安洋行』(例えば細野晴臣「北京ダック」)というソロ・アルバムが、当時の環境の中では、かなり違和感を持って捉えられていて。
--マーケットにとって?
 細野 というよりも、もっと身近なところで、音楽仲間からも割と違和感を持たれていて、ちょっと恐がられていたというか(笑)。そこで考えたのが、これを商品にするにはどうしたらいいかと。それで当時、流行っていたのがディスコティックで。僕のポップス体験の中には、ダンス音楽というのが基本にあるから、ダンス音楽の枠を利用して、今までのちょっとへんてこりんな世界を乗っけてやれば、すんなり伝わるんじゃないかという。」(p. 11)

「ファースト・アルバム『イエローマジックオーケストラ』は、(アナログ時代は)B面がノンストップになっていました。こういう構成をとったのは、「ミーコの『スター・ウォーズ』」みたいなレコードを作りたい」という、当時の細野さんの発言があって。
 細野 ミーコって、今は誰も語らないけど(笑)。あれはディスコの中では、非常に品のいいものだったんです。
……
--ノンストップという構成というのは、やはり場所でかかることを前提とした、ディスコ対策のヴィジョンがあったのかと。
 細野 そうです。僕はたぶん、そう思ってました。……基本はディスコでいいだろうと思っていました。決して志を低くしたわけじゃないんだけど。ディスコっていうのはいちばん下のチャクラを刺激する要素があって。」(p. 20)

「--このアルバム[1st『イエローマジックオーケストラ』]のノンストップという構成は、ジョルジオ・モロダーの『永遠の願い』の濃厚な影響がうかがえますよね。
 細野 あります。ただ、ああいう徹底したミニマルなビートはできませんでしたね。もっと多彩になっちゃって(笑)。」(p. 23)


◎あと、「デコンストラクション」するポップミュージックという文脈で。
Rolling Stones "Satisfaction"
Devo "Satisfaction" (1978)
YMO "Satisfaction"(YMOじゃないかも)

「--このアルバム[『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』]は当初「メタマー」という仮題がついていたようですね。Dヴォの「退化(Devolution)」と同じような意味で、これは「突然変異(Metamorphose)」だと。
 細野 「メタ・ポップ」という言葉を考えていたんです。ジャンルから逸脱している状態がずっと続いていて、言葉をいろいろ探していたときですね。こういう音楽はなんなんだろうと。
--テクノポップという言葉が誕生する前夜の話ですね。マーケットに流通しにくい、つまり言葉がないからカテゴライズできないものだったから。
 細野 そうですね。でも、もっと自分を落ち着かせるためのような意味のものとしてね。」(p. 30)
「--この[タイトルにある]「サヴァイヴァー」というのも「生き残った人」という、半病人のような意味のようですね。メンバーも曲中で咳をしていますし。テクノポップも当時、「ビョーキ・サウンド」なんて呼ばれていて。
 細野 そうですね。かなりひねくれた気持ちでやっていました。」(pp. 30-31)

「--あれ[「デイ・トリッパー」YMO "Day Tripper"]はディーヴォの「サティスファクション」の方法論を、YMOに持ち込んでできた産物ですよね。
 高橋 僕が裏声で、オクターヴ・ユニゾンで歌っているんですけど、それが気持ち悪いんですよ(笑)。それを妙に細野さんが気に入ってて。
 --"ビョーキ・サウンド"なんていう言葉もありましたね。
 高橋 そうそう。」(p. 248)

その他
Throbbing Gristle "Discipline"

『美少女症候群』と富沢雅彦

2009年08月19日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
昨日まで、大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレに行ってました。自然とアートの関係、村おこしとアートの関係、田舎と都市の関係などいろいろと考えさせられるやっぱり見るべき展覧会でした。

さて、また再開して、こつこつとノート作り進めていきます。

『おたくの本』でも取り上げられていた80年代のおたく批評の重要人物といっていいだろう富沢雅彦。彼の見解を理解しようとするのに『美少女症候群』(ふゅーじょんぷろだくと 1985年)は格好の素材、相当に読み応えのあるテクストが収められている。本書は、ロリコン同人誌のなかで代表的なマンガ・イラストを富沢の編集のもとでピック・アップしたものであり、全10章で各章の冒頭には、編者・富沢のコメントが600字程度添えられている。目次は以下の通り。

第1章 ロリコンその世界
第2章 猟奇天国、少女の地獄
第3章 10万本の触手
第4章 メカフェチたちの饗宴
第5章 ラナちゃん、ラムちゃんいっぱいされちゃった
第6章 メカアニメDEカルチャー
第7章 SEXY SFXギャルズ
第8章 少女はやっぱり女の子のもの
第9章 猫耳を、もっと猫耳を!
第10章  美少女幻想は時空を越えて

「触手」、「メカ」+少女、「猫耳」など、今日のオタク的なものとして連想するイメージがすでにこの時期(1985)に存在していることに、不勉強だった僕は驚きました、まず。もうひとつ面白かったのは、第8章なんだけれど、女性の手によるロリコンマンガの存在。これは現在はどうなんでしょうか。どこか乙女チックな女の子を「可愛いものを可愛いものとして愛する方法」をもつ女性が描く。そこには性的な表現(本書に収められているのは、レズの性描写)も含まれる。ジェンダーを跨ぐものとしてロリコンの存在があることを富沢は強調している。この強調点は、富沢批評の興味深い特徴である。富沢は、三次元イコール男性的な価値の支配する社会と考えており、二次元の世界はその枷から自由になれる場として想定しているのである。これは、しばしば比較される本田透との違いをつくるところだろう。二次元に三次元の男性的な価値原理を持ち込む男、相も変わらず対象を犯すことしかできない男を憎む富沢は、それをアイデンティティとするところでおたくの外部にいるおたくである。そのスタンスが富沢を批評的な存在にしている。

富沢の文章をいくつか抜粋しながら、さらに詳細に見ていく。

第1章では、「本来の語義と切り離された”ロリコン”」(p. 8)を、富沢はこう定義している。

「マンガ・アニメファンにとってロリコンとは何なのかを自問してみると、それは自分たちを現実よりも二次元のイメージを求める存在として認識するときの称号であるとしか言いようがないのである。」(p. 8)

性欲のかたちというよりは三次元ではなく二次元に生きるひと=ロリコンだというのだ。そこで例えば、女性のロリコンの存在をこう指摘している。

「ロリコンが必ずしも少女を性的対象とすることを意味しないのは、マンガやアニメの可愛いキャラを好む女の子たちもまた往々にして自分たちをロリコン・ショタと称したがることからも明らかである」(p. 8)

二次元に生きる故に、富沢にとってはロリコンは、「ビョーキ」であるとされても責を免れた存在であることには違いない。

「ロリコンという言葉は絶対の免罪符としてあらゆる責からの解放を約束する--なぜなら、それは”ビョーキ”なのだから。」(p. 8)

ちなみに、この「ビョーキ」という語彙は、80年代前半に大流行したものであり、例えば先述した野々村文宏『新人類の主張』にも出てくる。自己アイデンティティを「ビョーキ」に求めるという点で、両者は重なり合う(では「ビョーキ」とは何か?)。

第2章には、「触手」に関して的確な論が展開されている。性的な欲望の主体(=男性的な主体)になりたくない性的欲望者の願望が「顔のない男根」としてのメカ触手を生んだ、と富沢は考える。

「マンガ・アニメ少年たちは己れの性的欲望を認めながらも、自らを凌辱の主体とすることに踏み切れないのではないかと思われるのだ。少女が何者かに犯されている姿はイメージしたい、しかし二次元の世界においてさえ自分をフィジカルな力の行使者とすることの出来ない彼らがほとんど無意識的に創り上げたのが、この顔のない男根としてのメカ触手だったのではないか、と。」(p. 48)

第4章には、共同幻想を形成する場としてロリコンを規定していて面白い。富沢のこういうところは、きわめて秀逸だと思う。

「SFをはじめ美少女とは無縁の姿勢を保つ同人誌は存在している。だがそれらは、同人誌というマイナー文化の中の更なるマイナーとして埋没しつつあるという印象なのだ。我々はロリコンと自己規定するときのみマスとなり得る。」(p. 58)


第5章は、アニパロを話題にする。アニパロの発端は、女性によるホモネタ同人誌だった、と富沢らしい女性への眼差しを元に、男性のパロディが「エロのためのエロ」に向かうのに対して、女性のそれの多様性に注目している。

「70年代のアニパロ・ブームの先陣を切ったのは「ヤマト」「ガッチャマン」ファンの女の子によるホモネタ同人誌だった。男の子によるエロ・パロはその後塵を拝する形で発展し、今では完全に形勢が逆転したという感がある。
 だが女の子のホモ・パロが本来そのキャラの画面に現れることのないプライベート・ライフを垣間見たいというパトスを中核とし、ヒワイ画を描くのも耽美趣味の一環という感じだったのに対して、男のエロ・パロは往々にしてエロのためのエロとしてより不毛度の高いものにしかなり得ていないのも否めない事実なのだ。」(p. 80)

「例えば「サザエさん」等のほのぼのマンガをエロ化して己れのセンスをひけらかしてみせるとか、メジャーな美少女をこれみよがしに冒涜して”私物化”してみせるとか。それらを見るとき、オトコというものは二次元の世界においてさえも競争原理から脱却できないということを思い知らされるようで、暗たんたる想いにかられずにはいられないのである。」(p. 80)

富沢らしい視点の真骨頂(に僕には見える)は、第8章。

「その[ロリコンブームの]膨大な群の中には、女の子による美少女同人誌というジャンルも存在しているのだ。トラディショナルなモチーフとしての可愛い少女から詩的なメルヘン画、ロリコンブームにフィードバックを受けた女の子による美少女エロマンガまで、多彩なスペクトルをもってそれらは活況を呈している。だが、女の子にとってそれら全ては、美少年志向も含めて、広義の少女趣味の一環だったのだ。
 他方、少女趣味に相当する嗜好の様式--可愛いものを可愛いものとして愛する方法--を持ち得なかった男たちは、相変わらず対象を犯すこと、自分のビョーキをひけらかすことしか自己アピールの手段を得ずにいる。」(p. 128)

本書の最後には、編集後記(「世紀末美少女症候群伝説」)が付いていて、そこに富沢はまとまった分量で、自分の考えの形をより明確に披露している。前半、おたくたち自身が自嘲していさえする自分たちの外見を取り上げ、論を展開してゆく。

「このこと[おたくたちが外見に対して無頓着なこと]は、現実よりも二次元のイメージの世界に閉じ込もることを選択したマンガ少年たちの無意識的な自己表明ではないかと思えるのである」(p. 176)

そして、引き続く次の文章は、まるでおたくの側からの「新人類」(非おたく)批判のようにも映る。

「筆者自身に関しても、あるときタワムしに髪染めちゃおーかしら、ファッションもロンドンっぽっくキメちゃおーかしら、なんて思ってみたりして、そこですぐに気づいたことには、しかしそうしたならば行動もファッションに規制されて従来の生活--書店で嬉々として「コミックボンボン」を立ち読みすること……等々が非常に困難になってしまうであろう、と。で--マンガ少年にとってそういう”現実”への自己アピールが関心の外に置かれているということは、例えて言うとアメリカの生活に憧れを抱く日本人があえて着物を着たりチョンマゲを結ったりする必要を認めない、というのと同様のことと思われる。」(p. 176)

現実への自己アピールを欠いた存在がおたく。ファッションに規制されて自分たちの二次元への欲望を発揮したりや現実での無頓着な振る舞いが出来なかったりすることこそ、問題と思うのがおたく。だから始めから現実で「モテ」ることは、度外視している訳だ。非モテ=おたくというのは、ある意味では、自分たちの了解事項であるはず。というかむしろモテるモテないにかかわらず現実から逃避することこそが、おたくのおたくたる所以、おたくのアイデンティティである、というのだろう(ちなみに、富沢の文章から「おたく」という言葉は出てこない、代わりに出てくるのは「マンガ少年」)。

「三次元界と二次元界は、物心ついた時から目の前に並存していた。三次元の現実とは我々にこの社会内でのアイデンティティを確立せよ、”現実”の生活や家庭や出世、”現実”の女との恋愛やセックスに欲望を持て、それによって社会に帰属せよと迫る。ぼくらはどうしてもそれに対する齟齬感を抱かずにはいられなかった。この肉体が三次元界に存在しているのは残念ながら(!)動かしがたい事実として、観念のレベルでぼくらは各々のイメージの支えとして心を満たしてくれるものは何でも良かったのだ。……ロリコンというキーワードが登場して初めて、誰もが実感しうる”性”を媒介に美少女が唯一最大の共同幻想となり得た。」(p. 176)


『新人類の主張』(野々村文宏)

2009年08月15日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
野々村文宏『新人類の主張』(駸々堂出版、1985.7.25)

広義の新人類は、八〇年代なかばに20歳前後(若者)だったひとたち、ということになるだろうけれど、狭義には中森明夫、野々村文宏、田口賢司の3人を指す。この3人からさらに枠を拡げて生まれたのが前述した「新人類の旗手たち」といえるだろう。

中森明夫
野々村文宏---「新人類の旗手たち」(木佐貫邦子、平田オリザ含む)---世代としての新人類
田口賢司

ネット的には、80年代半ばに大活躍した西武ライオンズの若手選手を「新人類」と称すのが目立つ(清原ら。物怖じしない振る舞いを称して)。けれども、狭義の3人が思想的な基礎となったのは間違いない。

ということで、野々村の『新人類の主張』を読んでみる。

本書は、現在和光大学表現学部表現文化学科の教員である野々村の最初の著作である(もちろん、ぼくのこのノートは、過去のまた今日の野々村氏を誹謗中傷するつもりは全くありません。当時の言説のモードを本書から抽出してそこにどんな思考のOSが作動していたのか、それを分析することが目的です)。所収されているのは、「新人類の逆襲」「新人類の主張」「秘孔宣言」「私たちは新人類じゃない」「大リーグボール3号的言説へ向けて」「KYON2の書記法をめぐって」「RGBの共通領域」「クラフトワーク・ユーゲント」「テクノポップと未来派」「関係妄想機械」「怪獣図鑑的想像力」「ソフトビニール人形に愛をこめて」など(すべて論考のタイトル)。歌謡曲、テクノ、怪獣、マンガあたりが中心的な考察の対象。タイトルはほぼすべてすでにどこかでつけられたタイトルのパロディ。自分の言説をつくり出すのに、既出のものに身を隠しながらするというのが、まず特徴として見えてくる。

◎「新人類の逆襲」「新人類の主張」
この二本は、野々村について中森と田口が語り合うという鼎談。自分たちのアイデンティティを明記するのに、スペシャルズやYMOやセックス・ピストルズや鴨川つばめやイーターや『週刊プレイボーイ』やディーボやイーノやトーキングヘッズの名が次々とあげられてゆく(pp. 8-9)。「知ってる」ということが、自分の存在をかたちづくる。しかもひとつの対象の内に深まっていくと言うよりは、あれこれと話が飛んでいって深まっては行かない、その移動自体が彼ららしい身振りを示しているようだ。

「田口 誰がいちばん好きなの?
 野々村 もはや、そういう質問が死語と化しているところに、超ミーハー化社会の構造的不況があるわけだ。あえて言うなら、とんねるず!違うか、じゃあKYON2!違うか、じゃあ、風見慎吾!じゃあ、岡田有希子!ええい、網浜直子!!(笑)
 田口 イーノでしょ。
 野々村 僕、イーノに会ったんだよ。いや、東京で、エヘヘ。」(p. 17)

領域横断的に(歌謡曲も現代音楽あるいはニューウェイブも等価に)ミーハーであること。あいつもこいつも結局等価なんだよね。イーノに握手してもらったけど、全然感激薄くて、KYON2に会ったときの方がアガったなんて台詞も出てくるのだけれど、こうした発言には、等価じゃないはずのものが等価になっているという固定した差異が前提になっているからこその価値の逆転やそこへと感激というものあるのだ、ということが描かれている気がする。差異を決定的なものとしないという思考は、おたくの差異こそが重要とみなす思考と明確に異なるところだろう。彼らにかかれば、ドゥルーズもカントも花粉症の野々村も、「ビョーキ」という点で等価とみなされてゆく。

「田口 野々村が野々村っぽいことの決め手は、やっぱり「鼻」にあるな。
 中森 アレルギーや花粉症って、新人類の必須アミノ酸と化してるんじゃない?
 田口 鼻がつまるっていうのは、すごくドゥルーズに通じるものを感じるぜ。ドゥルーズがぜん息で常に脳細胞を刺激されたりしているとか、カントが常に偏頭痛で頭を刺激されてたように鼻がつまるっててせかいことだよ。ビョーキの勝利。」(p. 23)

こうした言説で本が出てしまうというところが、当時らしいのだろう。勢いに任せて書いたものがもてはやされた時代なのだな。大学生のレポートなどでも強引にあるものとあるものとを連関させて論じる類はいっぱいあるのだけれど、野々村の本書に載っている文章というのは、ほとんど大学生の勢い任せのレポートと変わらない。

「野々村 コミュニケーションってさ、僕はいわゆる言語的な意味のうけ答えってつまんなくてさ。別にボディ・ランゲージみたいな風にとられても困るんだけどさ。しゃべりながら無意識のうちに机をたたいている自分の行為とかさ。精神病患者が自分にしかわかんない文字とかつくったりするじゃん。文字の意味が解体していってちがう意味をもったりするとかね。すっごいよくわかるわけ。仕事しててつかれたりするとさ、文字が見てる前で、バラバラになるカンジがあって。
 KYON2で好きなのは、小鼻を指で上げるじゃない。それで同時に別のコミュニケーションが成立するようなことがあるのよね……これはものすごく好きだね。」(p. 31)

いろいろと語っているが、要は、アイドルが小鼻を指であげるという非アイドル的振る舞いをするところに、既存の振る舞いを超えた何か(別のコミュニケーション)が生じたと喜んでいるわけだ。80年代は、こうした解体を喜ぶ程に、固定した何かがあった時代なのだと思わされる。ズラしの時代。

「田口 んじゃ、野々村さ「前衛性」の問題やろーか。要するに文化人やる場合にしてもさ、クリティックにしても物書くにしても、言葉の前衛性・先端性をとりまぜた「コトバの前衛性」みたいなことがかかわってくるじゃない。そういうことに対する考えってどう?
 野々村 田口も難しいコト聞くね。も少し説明して。
 田口 うーん、自分自身への問いというか、内省のようなものがあるとか。
 野々村 何を答えていいのかよくわかんないけど、自己言及性っていうのは僕の場合はスゴクあるよ。だから僕ってすごいプレモダンな形のものを持っていてそれをやってることは確かだよ。けっこう恥ずかしいことやってるよね。
……
 野々村 モダンが欠落した思考のサーキットを使ってるんだよね。
 田口 「欠落したモダン」ってカッコイイ言い方だね。
 野々村 ポスト・モダンじゃないのよ。欠落したモダンの状態で子どもたちがこれから出てくるんだよ。怪獣って欠落したモダンだからね。
 田口 焼きそばとお好み焼きが合体したみたいなヤツ、ひとつの欠落したモダン焼き!
 野々村 焼き入れたろか、ホンマに。しかし、ニューアカ・ブームが終わった今、すごーく恥ずかしいものがあるな、この会話には。」(pp. 39-40)

まず「ニューアカ・ブーム」は、85年には終わっていたことが確認できる。83-84年に消費された「ニューアカ」。「ボスト・モダン」じゃないという発言は、結構気になる。「欠落したモダン」=「怪獣」=「子どもたち」。モダンのなかで「モダン」を欠落させた怪物的存在が自分たちだ、というのは、既存の規範には従わないけれど、「ポスト・モダン」じゃないということか。プレモダンだ、という発言もある。よく分からない。けれども、ここに浅田の「スキゾ・キッズ」との微妙な距離を感じる。「パラノ」じゃない僕は、「スキゾ」というよりは「怪獣」。そうか、そういうことじゃないのか。

新人類の主張=「パラノ」じゃない僕は「スキゾ」というより「怪獣」ですなんちゃって

「スキゾ・キッズ」は、本来、差異の差異性を徹底的に推し進める存在として描かれていたはず。「スキゾ・キッズ」というあり方に大いに刺激を受けたはずの「新人類」は、しかし、差異を「モダン」/「欠落したモダン」の差異へと固定したところで生まれる「怪獣」として自分をアイデンティファイする。「スキゾ・キッズ」と「怪獣」の距離が気になる。この「怪獣」として自己をアイデンティファイするというのは、村上-椹木的な振る舞いと似てはいないだろうか。ぼくは『REVIEW HOUSE 02』に寄稿した「彼らは「日本・現代・美術」ではない」で、Chim↑Pomや遠藤一郎のことを村上・会田・椹木ラインの「日本現代美術」とは似て非なるものだと論じた。そこで考えたのは、90年代の椹木のアイディアである「シミュレーショニズム」が90年代末に「日本・現代・美術」論へと変容していったという事態だった。「悪い場所」として「日本」を同定することと、「シミュレーショニズム」のポテンシャルは、別に一致させる必要のないものではないか、と思った。シミュレーショニズムのラディカルさ(徹底性)が、「悪い」/「良い」という固定した差異によって歪められてしまうのではないか。村上や会田や椹木がその振る舞いを意図的にやっているのならばいいとしても、少なくとも、彼らよりも若い世代の活動をそう切り取られてしまってはかなわないゾという思いが、ぼくにあの論考を書かせた。

Chim↑Pomや遠藤一郎を語るのに、80年代の文脈を導入するのはやめてくれ!

というのが、ぼくの思いだったのかも知れない。あらためて、80年代の言説をこうやって読み直してみるとぼくはいまのところ、こう言ってみたくなっている。

Chim↑Pomや遠藤一郎を語るのに、80年代半ばの文脈(「欠落したモダン」、固定した差異が生む怪獣)を導入するのはやめてくれ!


◎「おたく」との差異
では、「スキゾ・キッズ」と似て非なる「新人類」は、あらためて「パラノ」とどう違うのだろうか。

「野々村 「イリュージョニズムの発生装置」とか、「内なる外部」みたいなことって僕は相当興味あるからね。だからもう一つは外側に向かってどうやってプレザンスしていくか、中沢さんの言い方を借りて言えば。
 田口 ル・プレザンタシォンね。
 中森 そう言った方がカッコイイ。
 野々村 僕はさあ、イデオロギー操作されやすい人だと思うのね。のめりこんじゃう方だし。
 田口 わかるわかる。
 野々村 あきやすくて、ガサツでだらしないから逆に救われているとこもあるけど。
 中森 おたくになんなくてよかったよね。」(p. 46)

もう本当に、軽い(軽薄)だよなー、と思わされてしまう部分ですが、それは置いておいて(表象文化論の外部にいるからこそ、出てくる発言ですよね、「カッコイイ」って。インサイダーにならないミーハーということなのかな)、最後の中森の「おたくになんなくてよかったよね」という結論は、どう読むことができるのだろう。「あきやすくて、ガサツでだらしない」自分たちは、だから「救われている」(おたくにならないですんでいる)ということなんでしょうかね。一方「イデオロギー操作されやすい」「のめりこんじゃう」という率直な発言は、充分「パラノ」的な側面のあることが分かる。けれども、それがほどほどで、すぐに飽きて、別のものへと次々「のめりこんじゃう」のは、最も重要な価値観が「カッコイイ」か否かにあるからだろう。

とくに、アイドル歌手について言及するところは、「おたく」と共通する点だと思うんですけれど、違いはどこにあるのだろう。『おたくの本』にあったのは、C級のアイドルを追っかけするのおたくやパンチラを求めるカメラ小僧。彼らと野々村が違うのは、「スタア」に興味があるところか。スターシステムという本流に対して、アンチの身振りを無意識的にしてしまう小泉今日子に反応する新人類。

「トロトロ走るところから"カメ吉号"と命名された彼女の愛車が転倒している写真。そして路上には亀のように四ツン這いになった小泉今日子がいる。
 むろん、これは本当の事故ではない。事故をスキャンダルとして排除しタブー化するスタア=芸能人類に対して、反スタア=芸能非人類を標榜し、"あたらしさ"を路上で演じさせてみようとするハプニングの計画。」(p. 64)

「KYON2のクセは、欲望のままに、だらしなく挑発すること。
暗に何度も強調してきたように、彼女はなーんにも考えていない。「なーんにも考えていない」にも関わらず、僕らを驚かせてくれるその並はずれた才能。
 ひとつ付記しておこう。KYON2の無意識が、戸川純の無意識を気取る自意識とはまったく違うものであることを。無意識の無意識と、無意識を気取る自意識。」(pp. 64-65)

「スターシステムというゲームの規範にノリつつも、たえずはずしをかけていくKYON2の必殺ワザ」「小泉今日子の身のこなしの軽さと不確定性は、スター・システムのルールを無視した小田急沿線(ルビ:ノマドロジック)の相模原台地的で自由な運動性によってもたらされていたのだ。」(p. 69)

『新人類がゆく。』(アクロス編集室編・著)

2009年08月14日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
アクロス編集室編・著『新人類がゆく。 ニュータイプ若者論』PARCO出版、1985年9月10日出版。

この時期の資料を読んでいると驚くのは、「いま」を回顧する速さだ。85年の4月19日に『朝日ジャーナル』で「新人類」という言葉が発せられて半年経たない内に、本書は出版されている(ちなみに本家の連載が書籍化されるのは翌年の9月)。「クリエイティブビジネス情報誌」と自称する『アクロス』(年間予約制・直接郵送方式の雑誌。この雑誌がどう受容されていたのかがすごい気になる。カタカナ商売のひとたちのバイブルだったのだろうか)に、84年7月から85年3月までに載った長文の記事が、各章を構成している。8章立て。

「序」にはこうある。「頭の堅い大人たちが確信してきた生き方・考え方が、世の中の常識やモラルと面白いように符合するといった時代は去った。今や、新しい世代の未知のパワーが、時代を突き破ってめきめきと頭角をあらわす。……戦争はおろか、東京オリンピックや万国博の興奮も知らず、この新しい時代に生まれ出た新人類たちを取りまく情報環境は、そのときすでに、極限まで高められていったといっても過言ではない。こうした環境を子守歌に育ちつつある彼らは、マイコンを自在に操り、大人の知らないコトバで話し、ファッションでコミュニケートし、メディアを手玉にとる新人類だ。」(p. 1)

またこんなまとめもある。「校内暴力・竹の子族・マイコン少年などでブームを巻き起こしたニュータイプ(新人類)」(p. 11)

新人類の枠取りが、これだとヤンキー(不良)も原宿・ホコ天もおたくも入ってしまう。「ニュータイプ」という言葉は、本書で使われるけれど、他では見かけない。情報環境を生き生きと生きているファッション化した若者たち=新人類といったところか。

それぞれの章が興味深いまたかなり大胆な分析をしている。この記事では第1章を取り上げてみる。



☆第1章 感性差別化社会 新人類誕生のプロセス なぜ「ヤング」は崩壊したのか

この章は、70年代と80年代の違いを、若者を指すのに「ヤング」という語彙を用いた時代と用いる意味が希薄になった時代の違いとして捉える。そしてそのふたつの間にあるものとして、「ヤング」が多様化していった諸タコツボ化としている。そこで、三つをA-Cと区分すると。

A 1970年代 「ヤング」の時代
B 1970年代末 「ヤング」の崩壊
C 1980年代 一億総ヤング時代

となる。ではそれぞれ。

A 「ヤング」の時代
70年代は「ヤング」の時代と本書は規定する。ならば、そもそも「ヤング」とは何か?

「紛争後のラジカルな顔を卒業してやさしくなった若者も、彼らのパワーの一部始終を横目で見ながらシラケてしまった若者も、それまでの若者像にはなかった不思議な”やさしさ”をもっており、大人社会にしてみれば、同じ土俵で反抗してきてくれないので対応のしようがない。」(p. 13)

60年代までの男性的な社会から、そうした男性的なものの輪に入っていかない、そこで闘うことを望まない「やさしい」者たちが出て来る。それが「ヤング」。「ヤング」は、いわゆるベビーブーム世代(昭和22-24年生まれ)に該当する。「やさしい」以外に特徴的なのは、外見と内面の一致であると本書は言う。それまでは、ファッションというのは、単なる飾りだった。それが自分のアイデンティティを表現するものへと価値が変わっていったという。ファッション(外見)が内面を反映するの、それが「ヤング」。 

「ファッションがはじめて、ライフスタイルや思想を反映し、Gパンをはくこと、長髪にすること、ノーブラでいることで、ヤングは主張しはじめたのである」(p. 15)

とくに例としてアンノン族があげられる。


B 「ヤング」の崩壊 諸タコツボ化
この「ヤングがいかに1970年代的なものであり、しかも1970年代にしか通用しないか」を説明するのに、本書は、テレビ・ラジオ番組のタイトルに注目する。70年代の若者向け番組には、「ヤング」という言葉が頻出する。

ヤングおー!おー!(テレビ朝日69-82年)
ポップヤング(テレビ朝日70-71年)
リブ・ヤング(フジテレビ72-75年)
歌え!ヤンヤン!!(テレビ東京72-75年)
レッツゴーヤング(NHK74年-)
セイ!ヤング(文化放送69-81年)
ヤングタウン東京(TBS69-84年)

「ヤング」が見る/聞く「ヤング」番組に「ヤング」という言葉を用いるベタが可能だった時代が70年代だった。何故可能だったかと言えば、「ヤング」が「一枚岩」だったからだ。

「一枚岩のヤング層が崩壊し、一億総ヤング社会となった1980年代では、若者向け番組の『ヤング○○』というタイトルはピンボケになってしまうのである」(pp. 18-19)

この「一枚岩」が崩壊する。つまり、価値観の多様化が1980年代の初頭に起こる。それはタコツボ化を生み、同時に他人への無関心を引き起こした。

「価値観が多様化した時代背景を、自らの感性だけを頼りに生きるヤングには、日本人論につきものの”同質性”はあてはまらない。「近頃の若い者は何を考えているかわからない」と大人が言う分には目新しくもないが、ヤング間でもお互いにその思考体系、行動様式が理解できない、また、理解しようとしないというのが、1980年代の状況なのだ。あるタコツボに入った彼らは、きわめて狭い範囲を自己完結的に行動し、その範囲を超える周囲の動向にはほとんど関心を示さない。」「無関心世代、無干渉世代の名に恥じぬ振る舞いである。」(p. 19)

例えば、1981年頃には「複数のタコツボが、ヤングの風俗をきれいに分割していた」(p. 21)という。本書は、8つのタコツボを列挙している。

【トラッド派】アイビー プレッピー ハマトラ JJ 
【ニューウェイブ派】ニューウェイブ 
【代々木公園派】竹の子 ウエストコースト 50’s

正直、これは渋谷・原宿周辺の若者たちに限定されているのではないかと思ってしまうのだけれど。パルコ出版の「アクロス」故のことだと理解していいだろうか。


C 一億総ヤング時代
1980年代半ばになるとこのタコツボの併存は崩壊するのだという。それはトラッドブームの終焉として指摘できるのだけれど、ひょっとしたらその手前にあるのはJJの終焉ではないか、というのがちょっと面白い。JJは女子大生ファッション誌であり、そこにあるのは、女子大生の消費欲以上に女子大生の商品価値だった。その商品価値の消耗がこの時期に起きた。それを本書は、土曜深夜に女子大生が多数出演していた『オールナイトフジ』の展開から分析している。

「「バカでブリッ子だけどきれいで男好きのする女子大生」というJJ像が、仕掛けられたフィクションであり商品に過ぎないということを、この[『オールナイトフジ』という]番組は万人に向けて暴露してみせたのである。いきおい、JJファッションで身を固めた当の女子大生でさえ「私はオールナイターズたちとは違ってバカじゃない、オールナイターズだって本当はバカじゃないのにバカを演じている」と申し開きをせざるを得ない状況が訪れた。」(p. 25)

この文章をどう解釈すればいいのだろう。「仕掛けられたフィクション」であることを暴露され、自己暴露した「ブリッ子」女子大生は、自分たちのしていることが演技であること証したことでリアリティを保てなくなった、とまずは解釈できる。けれども、それこそがJJガールやその取り巻きたちとで行う「ルール遊び」の一環なはずで、それ自体としては、JJの終焉は、その遊びに飽き故ではないかとはいえるけれど、何故飽きたのかの積極的な理由は分からない。ひとつ言えるのは、JJの記事の中に「健康的なアメリカンカジュアルの代わりに、ビギやニコルといったデザイナーズブランドが入り込んだりしている。」(p. 26)とあって、ざっくりいって女子大生の時代から「ニューウェイブ」の時代へ、ということがあったように思う。JJたちが、タコツボ形成に一役買ったという次の解釈は、女子と男子の相乗効果というか、片一歩だけでは時代は生まれないことが分かって、ちょっと面白い。

「見方によっては、当時のタコツボ形成の原動力はこのJJたちだったということもできる。女子大生自体がボリューム化して”人並み”になり、何かに自分を同一化しないと自己確認ができなくなったことで肥大していったJJタコツボ。このJJのボリューム化は大学そのものを遊び場的なものに変え、そこからウエストコースト派のようなスポーツ大好き少年少女たちが生まれた。一方、肥大化してアイデンティティ捜しを新たに始めた大学生たちの諸タコツボと表裏一体の関係で、ニューウェイブ、50’s、竹の子といった”非・大学生”タコツボも浮上した。」(p. 26)

このタコツボの終焉とともに起きたのは、ピーターパンシンドロームのブームであり、そこでは中年のヤング化と、それにともなうヤング層の非ヤング(大人)化の無意味が露呈した。「社会のどこもかしこもヤング化しているから、若者が存在感をもつためには、むしろ非ヤング的にならざるを得ないし、非ヤング的なヤングこそを一億総ヤング社会はもてはやすのだ。」(p. 31)

「非ヤング的なヤング」とは、大人っぽいということではなく、本書では「フリークス」的な存在ということになり、その代表者としてあげられているのは、浅田彰である。『天才少年』ともてはやされた『構造と力』出版時に浅田は27才だった。もう「少年」の年ではないだろう。それなのにそう呼ばれるのは、彼のルックスと共にその独自な存在感にある。

「浅田彰は大人になれない未熟なヤングではなく、ヤングにすらなれない奇形的な神童にみえるのだ。神童は、ふつうに成長すると20歳すぎればタダのヒトとなるのが相場だが、彼は神童のまま成長がストップするようプログラムされたフリークス少年なのである。」(pp. 31-32)

ちなみに、この章は、「新人類」という語が生まれる前に書かれたので、当然のことながら、新人類がこの議論の中でどう展開するべきかは明確ではない。

ちょっとだけ第2章を付け足すと、こうしたタコツボ化の終焉した時代に生きる若者は、スタイルではなくパフォーマンスに生きているとしてこう整理している。

「情報を受信するだけの弱い消費者、一定の確固としたライフスタイルというものの呪縛から未だのがれることのできない"スタイル人間"に対して、すでに"パフォーマンス人間"という新しい消費者が生まれている。パフォーマンス人間とは、自らが情報をつくり、発信する創費者であり、多くのスタイルの間を跳び歩きながら、分裂的に自己表現をするスキゾ人間だ。彼(彼女)はひとつのスタイルの追求・確立・模倣を嫌い、多くのブランド・非ブランドを組み合わせて無節操な"自己ブランド"をつくる。こうしたパフォーマンス人間の登場は、タコツボ崩壊の大きな契機ともなった。」(p. 34)

『新人類図鑑PART1』『新人類図鑑PART2』

2009年08月12日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
この2冊は、前述したように、『朝日ジャーナル』で筑紫哲也が「若者たちの神々」以降に連載したもの。本書の中から、新人類3人組(中森明夫、野々村文宏、田口賢司)のコメントを拾ってみる。

◎『新人類図鑑PART1』(筑紫哲也編 朝日文庫 1986)
「まあ去年は、山口先生と吉本(隆明)さんに会えたのがね、やっぱり面白かったですね。あんまり会えない人ですからね。ほとんどそれは、キョンキョン(小泉今日子)に会いたいとかと同じです。吉本さんの刈り上げも、キョンキョンの刈り上げもね、カッコいいというのありますよ。」(p. 24)

「当時(中森よりも年長の人が若者だった頃)、議論するということと、今われわれが喫茶店で冗談を言うことというのは、カッコいい、カッコ悪いというレベルでとれば、、等価なんですね。喫茶店で冗談を言わなければいけない、つまり冗談を言わなければ、コミュニケーションできないし、仲間はずれにされちゃうということがありますからね。」(p. 25)

「最近、森田健作さんっていう人にすごく興味があるんですよ。なんで興味があるかと言うと、やっぱりあの人の前には、伏線として『スチュワーデス物語』というのがあったと思うんです。
 つまり、ものすごく大真面目ドラマを、今の子供たちが笑っている。ものごとの見方のパラダイムが変換されている。と言われているんですけれども、そうじゃなくて、冗談で見てて、ついマジになっちゃうとか、笑っているうちに泣いてしまうとか、泣いているうちに笑ってしまうとか、そういう複雑なことをやっていると思うんですよ。」(p. 25)

「ダサかったりカッコ悪かったりするというのは一番怖いことですからね。恥ずかしいことが一番カッコ悪い。仲間はずれにされることが。じゃ、どういう形でマジな部分が流通するかというと、ギャグのふりをしてくれたら受けましょうというのが無意識的にあると思うんですよ。」(p. 26)

「僕の友達が言うのは、俺、もう芝居しているよと言うんです。もう、つらい時には、これは芝居だと割り切ると言うんです。上司に叱られると、あ、この上司は怒る演技をしているんだ、うまいなあとかね、迫真の演技だと。俺は怒られてしゅんとしている演技をしようと。毎日そういうふうに演技していると言うんですね。」(p. 28)

「絶対的な自己みたいなものはなくて、つねに何かとの関係でしかたわむれていないということは思っているんじゃないですかね。なんでも演技といいますか、着替えができる、みたいなね。きょうは実存主義ルックできめてみようとか。車でも同じだと思うんですよ。車を着ていると思うんですよ。女の子にあれするために。あと、家柄を着てみせるとか、大学を着てみせるとかね、ブランドを。着てみせるから、脱ぎ替え自由みたいな。」(p. 29)

「筑紫 僕は世俗的に浅田(彰)くんのメッセージが一番はっきりしているのは、家の問題だって言うんだけれども。つまり少なくとも家というものに執着をしなければ、違う人生が相当見えてくる。
 中森 だから、浅田さんが出た時は、僕らがわりに当たり前に言っていたことを、ああいうふうに理論化していただいてね、すっきりしたことはありましたよね。」(p. 32)

◎『新人類図鑑PART2』(筑紫哲也編 朝日文庫 1986)
「オカマなんですよ、新人類って。メディアのなかにおける流通コードとしてはオカマと同じなんですよ。……新人類って人でなしだから、いままでの人類じゃないわけだから、何いってもいいというようなところで、だから一種の芸人みたいなもんですよね。」(野々村文宏 pp. 33-34)

「秘孔少年」(『北斗の拳』を背景にした言葉)「秘孔少年型というのは、いわゆる既成の価値観とか、パワーゲームの体系を少しずつずらしながら、誘導的に動くというような気がするわけです。」(p. 40)

「その[『朝日ジャーナル』1985.4.19号pp.10-12「新人類〈暴走〉宣言」]「宣言」の中で私は、「新人類」を気取るために六つのスローガンを用意しました。列挙してみます。
1 「連帯」から「癒着」へ
2 進歩から進化へ
3 才能から自信へ
4 反省から断定へ
5 ideal boy 観念男からmaterial girl唯物女へ
6 思考のパラドックスから思考のスクラッチへ」(田口賢司「新人類〈暴走〉宣言」から1年半 p. 198)