Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

大晦日

2007年12月31日 | Weblog
12/30
『火宅か修羅か』を見るのは、2度目だったと思うが、やはりとても良い作品だった。温泉旅館にて、二組の団体客が待合室の2つのスペースを共有している。一組は、母親が15年程前に交通事故で亡くなった三姉妹の居る家族、父は再婚相手を娘たちに紹介する。もう一組は、13年前に高校時代に友人を海で亡くしたボート部の同窓会、かつての恋人と事故で生き残ってしまった友人もいる。火宅(仏語。煩悩(ぼんのう)や苦しみに満ちたこの世を、火炎に包まれた家にたとえた語。法華経の譬喩品(ひゆぼん)に説く。現世。娑婆(しゃば)『大辞泉』)か、修羅(醜い争いや果てしのない闘い、また激しい感情のあらわれなどのたとえ『大辞泉』)か、というタイトルの言葉の強さとは異なり、舞台は日常的なテンションで進む。ただ、そうであるからこそ、恐ろしいくらいの、個人の心の中に潜む嵐のような葛藤を目には見えぬまま、想像可能にする。「心の中」が不可視のまま、舞台に立ち上がる、それにに驚く。ただし、その希有な、火宅か修羅かを秘めた「心」の出現が起こるのは、日常的な対話の社交性を一歩踏み出してしまってはじめて可能なのである。青年団の戯曲は、決してその意味で単なる自然主義(リアリズム)ではない。むしろ今回思ったのは、青年団の中にある演劇性である。二組のそれぞれの人物の葛藤が吹き出すのは「余計なひとこと」があってこそ。隣の会話を聞いてしまう。聞いてしまった心の動揺を隠すことが出来ず「お友達が亡くなったんですか」などと踏み出した発言を家族の組の一人が漏らしてしまう、例えば。そんなことは、日常ではまず起こらない。でも、そうすることで、二組を分かつ薄い膜をちょっと揺らし時に突き破ることで、内面の出来事が召喚される。他にも、見てみないフリとか、逆にちょっと他人の振る舞いを意識するとか、ささいだけれど「ことさら」な身振りが、青年団の芝居を自然主義ではない、演劇的なものにする。そこをずっと面白く見ていた。

『バレエ・リュス』は、ニジンスキーなどを輩出したディアギレフ時代の話ではなく、むしろ彼が逝去してから、1929年以降の展開をフォローした、ドキュメンタリーだった。一旦解散したロシアの前衛的バレエ団は、31年、ド・バジル大佐とルネ・ブリュムによってバレエ・リュス・デ・モンテカルロという名で再建される。この新しいバレエ団が内部分裂を起こし、またアメリカへと亡命し、戦後に生き延びつつも、62年に空中分解してゆくまでが、当時のバレエ・ダンサーたちを中心に語られていく。振り付け師や興行主は次々変わる。だが、バレエ・ダンサーは変わらない。ダンサーがいなきゃ舞台は成立しないのだから。ダンサーたちの語りは、翻弄された彼らこそがバレエ・リュス(デ・モンテカルロ)そのものだったことを告げていた。80才を超えてなお、メンバーたちの身体には、「バレエ・リュス」的なメソッドがちゃんと内在していたりする。貴重映像満載(できれば、細切れにせず、もっとじっくりと見られるものにして欲しかった)で見応えありでした。

雑記

2007年12月30日 | Weblog
12/30
これからアゴラ劇場で、青年団「火宅か修羅か」、その後、「バレエ・リュス 踊る歓び、生きる歓び」を見る予定。これで、今年の観劇、見納め。

12/29
ちょっと休みたいモードが高まり、忘年会のお誘いに行かず(八王子の学生くん、ごめん!)、ジョギングとプール。

鈴木雅雄『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』(平凡社)が届く。
ぼくは鈴木さんのファンだ。もうシンプルにそう断言したいのだ。この本、ひらくと最初にこんな一文を読むことになる。

「文学などどうでもよいと断言できる誰かのために、この書物は書かれた」

鈴木さんは、動詞を受動態にすることが多い。受動態「られた、された」などは、主体を曖昧にする代わりに目的語が主語になって、ものの存在感を際だたせる。しかし、そうであってまた鈴木さんの文章は、いつもキレのいいハンドルさばきで爆走する。

「テクストはそこで、作品の匿名性にゆだねられてはならず、書く「私」、受け取る「あなた」を巻き込んで機能しなくてはならない。そしてシュルレアリストたちが常に複数であろうとしてのは、書き手からテクストへ、テクストから読み手へという健全で白々しい回路が乱調をきたす空間を作り出すことで、テクストがその外部と取り結ぶ特異な関係を誘発するためだったのではないかという予感が、私たちの出発点である」

など、と続く。「私たち」とは、ぼくも含んでのドライヴのこと?と喜びつつ、さらにこう進んでいく。

「作品と私的エクリチュールとの中間のどこか、そのあやうい場所でだけ、「私」と「あなた」はともにあることができる」

激しいエンジンの爆音を聴くのように、そんな言葉を読んで、さらに読み進める。

12/28
佐々木さん、大谷さんと『ベクトルズ』忘年会。雨の降る中、夜中になってぞくぞくとテープ起こしなどお手伝い下さった方たちがいらしてくださる。来年の計画も幾つか話題に。大谷さん、やろうね、それほんとに。

12/27
神村恵さんが、この前の蛇の穴、ダンスクリティーク企画で、話してくださったことが、ずっと気になっていた。つまり、いまの作風に至る手前の段階で、彼女は自分が思い描く理想のイメージと現実の自分が出来ることのギャップに悩んでいたというのだった。彼女が当日配ったレジュメには、こうある。

ダンサーとしての課題=イメージが身体を置いて先走ってしまう。2つが結びついていない。

・できることを確実にやる稽古
 イメージを追うより、実際にできている動きや身体を把握すること、実感すること

「自分が思い描く理想のイメージ」が具体的にどんなものであったのかは、聞かなかった。聞くべきだと思ったけれど、なんとなくぼくなりに「こういうものかな」と想像をしてしまったので、あえて聞かなかった。彼女は幼少の頃からバレエを習っていたのだという。すると、そのイメージはバレエ的な何かを指すのではないか。妖精のような、軽やかで、柔軟な運動のイメージ。バレエをならうひとはきっと全員憧れる(憧れる以外の選択肢は用意されていないのだろうし)。けれど、誰もがそれを自らのものに出来るとは限らない。そこには、厳しいハードルがある。テクニックとか努力でカヴァーできない部分がある。もし、世の中にバレエしかダンスは存在せず、バレエ的な運動にしか人間が魅了されないのだすれば、その時点で、神村さんは、ダンサーにはなれない、ということになってしまうのかもしれない。

けれども、そんなことはないのだ。神村さんは、まず自分が出来ることを明確にしていこうとした。そして、いま自分が生きている時空を「確認」することに重点を置いた。そこから、観客や自分自身の予期を裏切る手だてを見出していく。そうして、新しい、「神村恵」というダンサーからはじまるダンスが生まれようとしている。また、そこにあるのは、「理想のイメージ」に対する到達度でよい/わるいを判断するのとは異なる(多くのダンス公演の鑑賞は、そうした「到達度」を見るものになりがちだ。だから、しばしば観客はダンサーの父的なポジションから「よかった/わるかった」などと思いがちあるいは発言しがちになる。本当であれば、そんな傍観者の立場に観客を置かずに、自分たちと緊張感ある関係へと観客を誘い込むべき、と思うのだけれど)、舞台と鑑賞者の間をスリリングに揺さぶる観賞体験である。

「理想のイメージ」の体現者になれた者は、幸いだ。それはそれで、そのイメージを最大限、クレイジーなくらいにドライヴさせて欲しい(バレエにはバレエの、恐ろしいほどの誘惑性と陶酔性があるのだから)。けれども、すべてのダンサーが、その幸福を享受する必要はかならずしもないんじゃないか。つまり、神村さんのように自分の身の丈から出発してもいいはずだ。ただ、それは自己愛、自己信頼を出発点にすることとは違う。それは、自己満足に終わるか、そのひとを愛好する親族の、あるいはファンの集いのようなものを生むばかりだろう(それでも、自己満足がそうした広がりへと発展出来るなら、それはそれでアリなのかも知れないけど)。

神村さんはいわばトラウマ的(と言ったら言い過ぎかも知れないけれど)な経験から逃げず、そこにきちんと向き合うことで「次」を、次の進むべき道を見出そうとしている。それは「傷」があれば良い作品が生まれるなんて単純なことではない。ただ、傷つかないと(自分のしていることをクールに見定める経験がないと)得られないものはあるな、と思わずにはいられないのだった。この傷は、自分を相対化し、そればかりか理想的なイメージをも相対化するようひとに促すだろう。

Luxurious Religious Cooooool Dance!

2007年12月26日 | Weblog
ゴージャスで極楽浄土のよう、けど超クールなやつ、デタラメにラインナップ。はりきって、どーーぞーーっ!

久住小春「恋☆カナ」

キュート「都会っ子純情」

「都会っ子純情」Remixed

Gurdjieff Dance

モーニング娘。「Love Machine」

Madonna "Vogue"

Madonna "Material Girl"

Madonna "Hung Up"

Madonna "Hung Up"

Micheal Jachson "Billy Jean"

James Brown "Night Train Dance"

小島よしお「Funny Guy Dancing」

M.I.A. "Bird Flu"

Crazy Indian Music Video

Indian Songs

モーニング娘。「恋のダンスサイト」

Para Para Tanzanleitung

parapara dance for Japan teen girl

安室奈美恵「girl talk」

Perfume「ポリリズム」

らき☆すたOP

年末

2007年12月25日 | Weblog
12/24-25
葉山→箱根
車中で、NHKFMをつけるとクリスマスソング特集。ゴジラとモスラがうたうクリスクス・ソングに爆笑。「ジングルベル、ジングルベル、クリスーマスー」を「ジングルベル、ジングルベル、プレゼーントー」と替え歌してる。子供って現金だなー。仮面ライダーがうたう「ライダー・クリスマス」なんて、マイナーコードのクリスマス・ソング。1952年の美空ひばり「ひとりぼっちのクリスマス」もしっとりと、戦後の傷を癒す、なんて歌声で良かった。

12/23
『Harajuku Performance+』(@ラフォーレミュージアム原宿)を見る。

その後、
ダンス蛇の穴、関係者全員参加!ダンスクリティークの第4回を行う。プレゼンターは神村恵さんと山田歩くん。決してキャパ的に「にぎやか」とは言い難いけれど、この会、静かに確実に熱が高まってきた気がする。誠実に、緊張気味に、ときに笑いを交わし合いつつ、言葉を探るときが積み重なっていく、三時間。

12/22

2007年12月23日 | Weblog
「関係者全員参加!ダンスクリティーク」の第3回、大橋可也さんの回。多摩美で彼といろいろとイベントしたときよりも、率直な発言が多く「大橋可也」という存在を立体的に知ることが出来た。なるほど!と思うことも多く、ぼくが大橋作品に感じていたある特異性に関しても、明瞭になった。(いずれ少し、まとめてみたいと思う)

12/23に、今日にひき続いて第4回があります。プレゼンターは神村恵さん、山田歩さんです。昼に「HPP」をみて、夜は森下。忙しーですが、これが終わると冬休み(10月からここまで長かった~)。


大駱駝艦『カミノコクウ』(@世田谷パブリックシアター)

2007年12月22日 | Weblog
12/20
国士舘大学の講義、最終。
荷物を自宅に置き、あらためて出かける。三軒茶屋へ。大駱駝艦。パンフレットにはこうある。

「あの日
ビッグバン以来
距離を食らい続け
距離を排泄し続けた
我々
遂にこの星から
遁走するに至った
そのモノガタリを
見届けて
聞き届けていただきたい…」(麿赤兒)

先週見た『カミノベンキ』の冒頭が、火打ち石を叩いて真っ暗闇に火花を光らせる場面だったように、先史というか古代というか「はじまり」にまつわるシーンがこの作品にも散見される。性交を連想させるシーンも、そうした「はじまり」を想起させる。ものがうまれる。その際の男/女の接触が描かれる。舞台美術や音響が徹底したあるトーンを、宇宙的で太古的なニュアンスを敷き詰める。ダンサーたちの動きは極めてシンプル。また、コンポジションがとりわけ重視される。そうであるが故に、「動」よりも「静」がきわだって、リズムとか間とかの生まれる余地がない。ダンサーは、あらかじめ描かれたイメージをただただ舞台上に具現するためのパーツとなる。『カミノベンキ』よりも一層静謐な舞台。正直、前の列の客のほとんどがコクンコクンやっていた。ある種の活人画というか、ほとんど展開や変化がない。無意味を徹底させる狙い?とさえ考えてみたくなる程に。ダンスを見る快楽は、最小限に切りつめられている。壺中天の方がその点でずっと魅力的だぞ、と思ってしまう。だから、その切りつめは若い壺中天メンバーに対する麿の父性的(去勢強要的)振る舞いににさえ見える。それと引き替えに彼らは何を見せよう(得よう)としたのだろう。身体が一枚の絵の内に吸収されていくこと、その暴力を甘んじて受け入れること、薄さに耐えること、、、最後の場面は、『カミノベンキ』も『カミノコクウ』も、中央に巨大なテーブル=小さな舞台が登場し、そこでスカートをめくる麿と3人の一角獣たちがくんずほぐれつする。そこで『カミノベンキ』では、周囲をその他のメンバー全員が囲み、椅子に座って各自オモチャをいじったり、携帯で舞台の四人を撮影したりする。『カミノコクウ』では、全員で白いカップを手に何か飲んでいる。非日常の舞台空間にぽつんと置かれたこの日常的身体は、ちょっと面白かった。携帯をしている女のダンサーは、足を組み腕を組み、まるで電車でよく見るOLのようだった。そのダンサーの素の体がそこにあった(気がした)。白塗りなのに。日常を営むの女の人と白塗りのダンサーはギャップが埋まらぬままそこにひとつの体の内にある。その違和感から解釈可能な様々なことがらが、舞踏の今後そのものなんだろう。

Chim↑Pomからのメッセージ

2007年12月19日 | Weblog
今年は、いろいろなものに刺激を受けた年だった。とくに、Chim↑Pomには随分付き合った。どの展示、どのイベントもすんごい面白かった。ところで、こんな情報を彼方からもらいました。Harajuku Performance+に行くかたは、ちょっと回り道して、神宮橋(「参宮橋」と書いてしまいました、すいません「神宮橋」と下にありますね)に足を運んでみたら?

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緊急告知 !! 12/22、23Chim↑Pom@原宿

Harajuku Performance + (Plus)参加(特別展示)記念

Chim↑Pom ゲリラ・パフォーマンス敢行!

2007年きたるクリスマス前!!!!


2007年わ一度きりィ!

1日も一度切りоいろいろゃッた、メールもぉくッた!そぅ思ッてても一歩一歩ふみしめてみるとそぅでもなぃんじゃなぃ


12月22日!!23日!!

LA チン↑ポムが原宿ラフォーレにくんりん!!くんりん!!くんりん!!くんりん!!くんりん!くんりん!くッ

合わせて原宿駅にホワイトスマクリに変わって降らせます!!!!!


22日(は「夕方」予定)、23日(は「昼&夕方」2回予定)、 神宮橋!!(※)



ぁのネーはっきりいッて13時の昼間わ難しいかもしんなぃ!!サンタ次第!!

でも大丈夫!!


普段の行いぃ-カラッてコトで


どうもぉめでとう!!!!!!!!!!!!



ァモォレ良い人生を!!!!

by エリイ




※ ゲリラパフォーマンスの時間については、22日朝までに下記の無人島プロダクションHPにアップしますので、当日ご確認いただければと思います。
http://www.mujin-to.com/toppagej.html

また、天候その他やむを得ない事情により中止する場合もあります。その際はご了承ください。



■Harajuku Performance + (Plus)のChim↑Pomのインスタレーションは12/22&23の13:00?21:00、ラフォーレ原宿5.5F階段にて展示。
どなたでもご自由にご覧いただけます。

日々

2007年12月18日 | Weblog
12/17
多摩美講義。シミュレーショニズム。シンディ・シャーマンの「アンタイトルド・フィルム・スティル」について説明している時、シャーマンのとっているポーズを描写する必要があって、言葉を探して逡巡しつつ「オナ、、、マスタ、、、自慰ですね、これは」と口が動いた。帰りに、ある女子学生(自分のヌードを写真にとってそれを絵にしているのだそう。いつも学生に言うように「作品見せて!」とは言えなかった)から茶化される。「あっ、先生「自慰」って言っちゃったよって思った(笑)」と。教員というものはときに辱めプレイを強要される。最終日1/7は、手塚夏子さんをお招きして、Tezuka meets TAMABIを行う予定です。
夜、上智大での研究会へ。イヴ=アラン・ボア「The Use Value of Formless」を読む。ロンドンに留学していた研究会メンバーが復帰。場はひとがつくるので、ひとり増えただけで空気ががらりと変わる。自分が疲れていた分、いろいろな話題を話してくれて、たすかった、刺激になった。

12/16
「ダンス蛇の穴」企画「関係者全員参加!ダンスクリティーク」があった。

進行や場の雰囲気などは、前回よりもよくなった。少なくとも来てくださった方々がまさに参加者になる場が生まれた。前半、プレゼンター3人によるプレゼン、後半、3人とぼくとフロアでトーク・セッションをした。すべての時間を通じて、いまぼくたちは本当に共通言語をもっていない、と痛感する。何かある言葉を誰かが発した時、つねに、その言葉の意味のみならず、発話者が何故今この言葉を発したのかということを考える必要があるし、その際に、発話者のバックボーンをイメージしながら考えていかなければならない。なにがこのようなディスコミュニケーションを生じさせているのか。(ダンスの)歴史が共有されていないことが問題なのか。あるいはいまの時代状況がそうさせるのか。様々な要因があるのだろう。

例えばぼくは今回、あえて「東京らしいダンス」を作ってみてはどうか、とプレゼンターにふってみた。その際に、Realtokyoに載った会田誠の文章を紹介し、現代美術のある作家はこう言っている、ではダンスの場合は、あなたのダンスの場合はこうしたアイディアを受け取るべきと考えるか、と聞いてみたかったのだった。「自分」を出発点にする創作の態度から一旦自由になることを考えて欲しい、少なくとも出発点にしている「自分」っていったい何なんだろうと反省してみて欲しい、反省した上で作品を作って欲しいと思った、というのが一番の動機で、いま「東京アート」が世界で話題だからそこにダンスものらなきゃいけない、などという単純な提案ではなかった(そういう戦略家が出てきてくれてもいいとは、ぼくは正直思っているけれど)。ただ、プレゼンター、フロアの方々が会田のテクストをよく知らないままにこうした話題を出したので、それぞれ聞き手の「東京」という記号への関心、あるいは、そうした自分を創作の出発点にしないというアイディアに対するリアクション(直接的な拒否反応とか)に応じて、議論が拡散していってしまった。かみあわず、単発的な意見の矢を投げ合うだけになってしまった。いろいろなポイントが出てきたという点ではよかったのだけれど(そのことだけで、十分素晴らしいと思うのだけれど)、あるアイディアを共有した上で、その可能性を議論していく、という類の生産的な場にはならなかった。ある振付家・ダンサーは、イベント後の喫煙所でぼくに、ダンサー(振付家)は自分の中から動機を見つけていかないと体が動かない、ダンスを生み出せないと、率直な話をしてくれた。そうなのかもしれない。自分の体をメディアにするダンスは、自分と自分の体を切り離せない、のかもしれない。でも、それはなかなか不自由な状態ではないかと思ってしまう。むしろそういう「動きの動機としての自分」から自由になったところに、ダンスの発生するポイントがあるように、ぼくは思うのだけれど(これはBRAINZ講義の基本テーマでもある)。
本当は、もっとイベントで交わされた言葉など、詳細にレポートするべきだろう。そうしないと次につながらない。ただ、ぼくにはそれをする時間的体力的余裕がない。今年はあと、12/22(大橋可也、野口千明、ほか)、12/23(神村恵、山田歩、ほか)とあります。

12/15
三時に、大駱駝艦「カミノベンキ」(@世田谷パブリックシアター)
五時半に、Chim↑Pom「サンキューセレブ・プロジェクト」のチャリティーイベント(@六本木P-HOUSE)

12/14
BRAINZ「フィジカル・アート・セオリー入門」第4回「「死体」について」
紙コップにシャンパンのアフター講義。

12/13

2007年12月13日 | Weblog
国士舘講義。最後から2回目。五年のおつきあいがもうすぐ終わる。その間に自分も学生の様子も変わった気がする。いや、そんなことはないか。たまたま集まった学生の雰囲気が各講義をつくるだけだな、きっと。去年の学生にトイレで声をかけられる。出ないようで、出て、驚く。バルトの写真論を午前説明し、午後に、未来派とダダの概論のあと、フォーサイスとバウシュのことを話す。ぐるぐる3コマ。あと一回。

告知します。
◎『QUICK JAPAN』に「笑いと忘却と小島よしお」なるエッセイを書きました。
◎連載「オルタナティヴ・ダンシング」第2回「「ゲーム」について」が載った『10+1』が近々発売されます。
◎今日からはじまっている大駱駝艦の公演で「激しい季節」という新聞が配布されているはずです。そこに壺中天公演「どぶ」についての批評文を載せてもらいました。
◎あと、いまダンスの本を紹介する文章をアート情報系HPへの寄稿のため、書いてます。
◎『レビュー・ハウス』のために書くはずの二本が書き終えると今年が終わってもいい状態になるんですかね。いや、ほんとは大きなプロジェクトを進めなきゃいけないはずで、、、

そして明日、BRAINZの4回目。
さらに、12/16日曜日には、大橋可也さん主催「蛇の穴」で「関係者全員参加!ダンスクリティーク」があります。プレゼンターは、深見章代さん、垣内友香里さん、関かおりさんです。
えと、ひとつ、申し上げておきたいのですが、この会(ダンクリ)のプレゼンター(振付家、ダンサー)は、ぼくのチョイスではありません。それはこの会が「ぼくの好きな人だけ集まれー」といった内輪の会ではないことを意味しています、すくなくともそうならないようにとぼくは考えているつもりです(自分の望まぬプレゼンターだ、などということももちろんありません)。「関係者全員参加!」は、ギャグでしかない(そんなことあり得ない!と思われる)かもしれないけれど、ぼくとしては「ダンスを生み出す際の言葉あるいはダンスを批評する際の言葉をもとめているすべてのひとに門戸を開いている会です」、ということをあらわしたく、付けたものです。だから、ダサいネーミングかも分からないけれど、ぼくとしては真面目に言っているつもりです(また、「参加しなきゃダメだよ!」などと言うつもりも、もちろんありません、よ。時間があって、その気があれば、どうぞプレゼンターの皆さんと一緒にダンスについて考え合ってみましょう、そう思っているだけです)。あと、お金を頂戴するシステムになっていますが、それはほぼ運営費で消えてしまうものです。こうした企画を進めようとしている大橋さんへの支援金という面があることをご理解下さい。

12/11

2007年12月11日 | Weblog
書評の仕事を先週いただき、そのために読んでいたベイトソン&ミード『バリ島人の性格 写真による分析』だったのだが、再読してみるとこの本はやっぱりとても面白く、そして今週金曜日のBRAINZで話をしたいと思っていたテーマとぴったりあてはまることも分かり、土方→手塚→バリのダンスと当日進めてみよう、などと考えてみている。一部予告のつもりで、図版と引用を載せます。(写真の図版は「多くの顔をもつ兵士」。体の各部位が独立して存在しているというイメージを形にしたもの)

「バリ島人は、腐ってバラバラになりそうな死骸を指してブルッという言葉を用いる。だが、ここでは、身体がそれぞれ別個の独立した部分からできあがっているという空想を集約的にあらわすことばとして使うことにしたい。この空想はさまざまな形を取るが、身体は関節をピンで留めただけの人形のようなものだという概念はその代表的なものだ。(…)ほかならぬこの空想が、エクスタシーとトランスという現象に密接にかかわっているのである。」

今年三月にバリに行った(4度目)時のこと、いわゆるダンスの観賞体験のみならず、そこではじめて目撃したトランスの様子についてなど、撮影してきた映像とともに話題にしようと思う。今回のテーマである「死体」は、語彙としては強烈だけれども、ダンスの根幹に触れる重要な概念であるように、ますます思えてきた。もちろん、これを講義のキーワードにしようと考えた最初の動機は、土方巽の「踊りとは命がけで突っ立った死体である」からきている。

昼間、新宿でミーティング。来年以降のとても大事な企画のことで。夕飯後に、和光大学の図書館へ。講義のために『明るい部屋』(自分の部屋のどこかにあるはずなのだが、しかもA所有のものと合わせて2冊、しかし出てこないので)と『ポスト・ポップ・アート』を借りてくる。人気のない図書館、ジュディマリを爆音で聴きながらコピーをしていた時、不意に気配を感じて振り向くと、ひとがいて(後で考えるとなんの悪気もない普通の女子大学生)「ハアッッ」と叫んだら後ろのそのひともぎょっと目を開いて驚いた。「驚愕」のミラー状態に、今度は二人で笑った。

12/10

2007年12月11日 | Weblog
多摩美講義。ポップアート。ポップアートと衣食住、とくにポップアートと食(オルデンバーグの「ストア」や食品ケースの作品など、インディアナ「EAT/DIE」、ウォーホル「イート」)。メンヘル。OD。スター・イメージ。ファクトリーの若者たち。マイクロポップとの違い。などなど。

「■私は誰もが機械であるべきだと思う。
 私は誰もがあらゆる人々を好きになるべきだと思う。
□それがあなたのおっしゃるポップアートですか?
■そう。ポップアートとは、いろいろなものを好きになることです。
□いろいろなものをすきになることが、どうして機械のようであることなのですか?
■そうね、それはあなたがしょっちゅうおなじことばかりやっているからですよ。繰り返し繰り返しね。」
(ウォーホルへのインタビュー 1963)

八王子の多摩美は、枯葉も一段落ついた。晩秋から初冬へ。でも、日差しはとても暖かい。講義後、自宅で忘年会をやるからと誘ってくれる学生に手を振り、別の学生から借りた学園祭のDVDについて歩きながら感想を伝える。また一人の学生が自分の作品について相談をもちかけてくる。しばらく話す。また別のもう一人の学生がDVDを渡してくれ、一人、町田の大勝軒で見ていた。ちょっと面白かった。夕方につけ麺食べたことを反省してジョギング。秋向きの曲ばかり入った「ジェット・ストリーム」企画ものCDをずっと聴きながら走る。そこに入っているプリファブ・スプラウト「クルエル」が聴きたかった。

12/9

2007年12月09日 | Weblog
引き続き『群像』(1月号)を読む。

前田司郎「嫌な話」(HP上の前田の日記を読むと、カメラへの関心のあることがわかる。その関心が一体どういうものなのかは、しかしぼくにはこれまで分からなかった。その一端を知り得た気になった。死と写真)
松浦寿輝「月の光」
舞城王太郎「舞城小説粉吹雪」
樋口直哉「アンジュール」
松井周「手癖と演劇」(「演劇は指先とモノの関係について科学的に解説することは出来ないけれど、その関係をダイレクトに提示することが出来る。身体とモノの関係と言い換えてもいいし、もう少し視野を広げると身体と空間の関係であると言える」「肝心なのは語り口である、それらがどのような音で発せられるかを空間と身体との関わりの中で考えること、そして、その効果がどこまで射程を伸ばしうるかを判断することが出来ればいい。」などとある)
伊藤氏貴「「文学の終焉」の終焉」

12/8

2007年12月09日 | Weblog
午前、Jog。

午後、松尾スズキ『クワイエットルームにようこそ』を見る(シネマライズ)。

電車の中で鹿島田真希「ゼロの王国 1」
     中原昌也「新売春組織「割れ目」読む。」(どちらも『群像』1月号所収)

『BOYCOTT RHYTHM MACHINE II VERSUS』(DVD)
『DMC JAPAN DJ CHAMPIONSHIPS FINAL 2004』(DVD)
を不意に購入。

ミーティング