Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ありがとうございました。

2006年07月19日 | Weblog
湘南の「新江ノ島水族館」前の海の家で結婚パーティをする、というぼくとAの夢が叶いました。本当に、実現できてよかったです、天気も味方してくれました。
お越し頂いた皆さん、お越し頂けなかった皆さん、またお招きできなかった皆さん、これまでどうもお世話になりました、これからもよろしくお願いします。

追伸
お越し頂いた皆さんの撮った写真、見せてください!携帯の写真でも構いません。メールでおくってー!

湘南でお待ちしております。

2006年07月15日 | Weblog
天気はなんとかなりそうです。気温もむちゃくちゃは暑くならなそう。ちょっとほっとしてます。

お越し頂ける皆様、写真のオブジェ(通称「噴火くん」)が皆様をお迎えいたしますよ。結婚パーティではきわめて例外的なことだと思いますが、イベント・キャラクターを作りました!(というか、最初の発注では「ウェディング・ケーキのオブジェ」だったのですが、、、)作者は、分かるひとには分かる、あのかの西尾さんです。

ぼくは今日(7/15)から現地入りです。その前に、この「噴火くん」とウェディング・ドレスを東京に取りに車を走らせなければならないのですが。

とうとうあしたかっ!



シベ少

2006年07月13日 | Weblog
シベリア少女鉄道「残酷な神が支配する」(@吉祥寺シアター)を見た。

感想は、またあとで書きます。


ともかく、いま忙しいのです。


あの、日曜日湘南にお越しの皆様、本当に水着もっていらっしゃいませんか。シャワー室、会場にありますし。

観念論と唯物論

2006年07月09日 | Weblog
ダンスと「唯物論」との関係を考えた記事を以下にまとめてみた。

2005.4.23
2005.8.15
2005.8.28
2005.8.28
2006.4.2
2006.4.23

読み返すとまだまだ議論が出来てないですね。反省。でも、このあたりのことがやはり重要かと考えているのです。

ところで議論が迂回しますが、最近ぼくは本田透『電波男』を読んでいたく感動しました。オタク的心性がきわめてクリアに呈示されていて、フィギュアや「萌え」概念について考えていた昨今、ひとつの啓示を与えられた気がしましたし、もはや生き方の知的指南の書としては現代の『構造と力』と言うべきじゃないか、とさえ思ったのでした(あと、さらに余談ですが、これほど読んでいて楽しい本も最近なかったと思いました。何でしょう、しゃべり口調の文体で、「な、なんだってー?」「~なんだYO!」「ドーンドーンドーン!」なんて頻繁に出てくるキメぜりふは、読んでしばらくの間感染してひととしゃべっているとつい出てしまいそうになったり。このしゃべり軽妙さ面白さは何だ?そうか、これはおすぎとピーコ的なる何かだと思っていると、両者には、マチョな男-性を降りているという共通点があることに気づいた。マチョから降りたひとのおしゃべりは面白いと、これはきっと真理です)。

本田氏は、恋愛資本主義に毒された状態、つまりDQN(モテ男?)に翻弄されて結局は性欲の奴隷になっている男女関係から降りて、脳内恋愛に向かえと読者に諭します。そこにしか真に純粋な恋愛はないから、と。つまり、オタクは純粋な恋愛を求める探求者なのだと、そして「萌え」とはプラトニック・ラヴなのだというわけです。それはつまり、観念の中に作った聖域の中で、社会の「嘘」に抵抗しながら自らの理想を築きあげようとする営為であるというわけです。

極めてクリアだし、道理の行くところもある考えなのですが、読んで感動して4、5日たって何か違和感を感じている自分に気がつきました。その理由がさっき分かったのですが、要するに、本田氏の思考、そしてそれが描き出す「萌え」の思考はあまりに忠実に哲学的(観念論的)なのです。そこに強い不満があるのでした。彼は頻繁に哲学者の名前を挙げます。そして挙げた哲学者がほぼ全て童貞だったことに注目し、哲学的真理探究とオタク的恋愛探究の相似性を説いていきます。それが説得的であればあるほど、オタクの限界と今後の流行の可能性も見えてきます。簡単に言えば、オタク的心性は「形而上学的」なのです。要するに、独り言であり、「脳内」的自閉であり、その意味で極めてマチョです。「他者」がそこにはいません。自分に都合の良い「萌え属性」があるだけです。であるからこそ、今後時代を牽引する思考がここにある、といえるかも知れません。そして、であるからこそ、なんかまずいなーと思ってしまうのです。

ダンスはこの「萌え」の感性とどうつきあっていくのか、このことに興味はあります。けれども、いまは「萌え」=「観念論」と対蹠的な思考をダンス見出すことが出来るのかにまず言及したいと思います。

ぼくにとって矢内原美邦『青ノ鳥』は、ぼくにとっていわば「唯物論」的な公演でした。そこにはセンチメンタルな「観念論」に陥りそうになりながらもこらえ、むしろそれを蹴り飛ばそうとする姿勢があったと思います。ぼくは先日書いた拙ブログの感想で、今作は「マンガ」だ、と書きました。けれどもそれは「萌え」とはほとんどまったく関係がない。なぜならば、それは「マンガ」の擬人(ダンス)化ではなく、ダンスのマンガ化だったと思うからです。換言すれば、ダンスをマンガという「もの」の次元に接近させること、そうぼくには見えたのです。

誤読かもしれないけれど、この感覚は『駐車禁止』で感じた「何か」です。「何か」とは、JCDNのレヴュー・コーナーに投稿してある文章に書いたのですが、そこで、ダンサーは路上の「もの」(車など)を擬人化したのではなく、自分を車(もの)化させたのだとぼくは評しました。

『青ノ鳥』はぼくにはマンガみたいだったけれど、それは「マンガ的なるもの」の観念(ないしイメージ)を反復していたということではなく、マンガが表現する身体や吹き出しの長ぜりふやコマ変わりなどに身体をそわせようとしていたように見えたと言うことです。それは無茶です、不可能です。誰も、どんなダンサーもマンガのキャラみたいな身体にはなれないし、あんな風に動いたり体をデフォルメさせたり出来ません。でも、そうした「縛り」を課したことが、あの舞台をいきいきとしたものにしたのではないか、と考えたいのです。ダンサーはともかく課せられた仕事を一生懸命こなしていく、そのことに一途になっていく。そうすることで、身体が「もの」レヴェルに近づく。そういったことがおきていたのではないか、と。(もちろん、そうぼくが深読みをしているだけで、かなりの確率で「誤読」だと、つまり必ずしも接近しようとしたものが「マンガ」ではない可能性はあると思うのですが。)

ポツドール『女のみち』(@シアター・トップス)

2006年07月08日 | Weblog
主宰の三浦大輔ではなく、溝口真希子が脚本・演出。AV撮影現場とか、そのなかでのさまざまなイメージとかはポツドールらしさをかもしているのかもしれないけれど(開演前に岡村靖幸がかかるのも)、方法が全然違うのではないかと思った。ポツドールと言われなければ、そのまま普通の演劇として見てしまっただろう。ネタはAVの現場というちょっと角度をつけたきわもの的なものであるとしても、語りは実にベタ(「女」の「みち」)。ただしそのベタがすごく丁寧な叙述なのではあって、ある二人の女(AV嬢)がいさかいを起し興奮を高めていくその過程が、その他の人たち(他3人のAV嬢とひとりの男性マネージャー)との関係(限りなく薄くでも現場を作るための最小限の絆をもった)とともに実に微細な力学を示しながら描かれていくのだった。その力量は見ている者を飽きさせず、演劇ってこうした微細な諸々の力の流れをどう捉えるかなのだろうな、などと終演後すぐには感心していた。けれども、次に沸いてきたのは「で、それがどうなの?」という質問。描くと言うことは、描いたものへの批評性とともになければ「芸術」としての意味はない。普段どんなに「芸術」と言われているものの自閉的な側面に嫌悪していてもやはり、批評としての芸術性がないものについてはぼくはどうしても不満を感じてしまうのです。帰り、紀伊国屋あたりで「直木賞文学」などというワードが頭に明滅。自分たちのいまをAV現場に託して描く、あるいはAV現場を微細に描くことで自分たちのいまを見つめる。そのどちらであるとしても、今作がもつ批評性の薄さ、ベタさは、ぼくが以前見た『夢の城』でのギャルたちの動物的乱交の光景の描写とは似て非なるものだと思ってしまうのだった。

最近のこと、まとめて

2006年07月04日 | Weblog
6/28 今年担当しているある私立大学のゼミではじめて「飲み会」をやった。突然提案した割には、八割方学生が参加してくれて、それに普段教室でははなせないこともたくさん話せて、誠にうれしかった。それにしても、こういう機会に毎回思うのだけれど、いまどきの学生ってなんてシャイでまじめでいいひとたちなんだろう。気づけばすっかり酔ってしまった。

7/1 ヤン・ファーブル『主役の男が女である時』(@彩の国さいたま芸術劇場大ホール)。
1時間の上演中、最後の15分くらいが全裸でオリーヴオイルがまき散った床の上でソロのダンサー(コリアンのスン・イム・ハー)が踊るシーンだったのだけれど、そこだけが面白かった。すべる勢いで流れる体からは、ふつうの床での動くのとは違うキャラクターが生まれていたからだ。ぬるっとして、つるっとした体は、なまめかしいと言うよりもかわいらしく「卵」のよう。ある曲が始まるとそれが流れる間、きまって憑かれたように激しく踊る。それが繰り返される。前半もそうで、執拗に曲がなると体が勝手に動くといった設定を反復する。ぼくにはそれ自体があまり説得力がなく、ダンサーにもそういうフォーマットにも惹かれるところがなかった。ただ、この全裸のところだけは、どうしようもない脆弱な、羊水の中の赤ん坊のような柔らかな、不確かな体に魅了された。でも、タイトルにもある「男」についての男=銀色の玉(タマ)とかのアイディアには、全くもって醒めてしまった。音楽も含め、全体的にセンスというか批評性が感じられなかった。

7/2 矢内原美邦プロジェクト『青ノ鳥』(@STスポット)。
医学部系の学生たちが登場人物。「やせいねこ」という名のいえねこが野生化してしまったのを探そうとする者や、実験マウスの死に過剰に敏感になっている者とか、社会に巻き込まれるときの一個の生の脆弱さなどがベースになって「劇」は展開している(?)ようにも見えた、とくに前半。少しセンチなセリフに並んで過剰に動く体。それによって、演劇とダンスの関係を今回の矢内原はどう料理する?とか、そんなことを頭で理解しようとしていた前半は、正直あまり乗れなかった(マイクの前でしゃべる、とか、どなるのに声の出し方はウィスパー、とか、早口で入れ替わりしゃべりまくり動きまくりの背景にテロップでセリフをフォロー、とか、いろいろな試みも目立ったりしたので、なお考えてばかりいた)。
ところが、後半、3人の男たちが森に行く、という場面のあたりからか、とくに彼らの意味なく数字にこだわるセリフが、こだわりすぎてて妙におかしく思えて、つい吹き出してしまったあたりから、ぐーんと面白くなった(乗れた)のだ。3人のしゃべりながらの激しい動きが即興的に交錯する瞬間にぞくっとする。その時不意に「これ(ギャグ)マンガみたいだ」と思った。セリフの表情を体で伝えようとマンガのキャラがどんどん自分をデフォルメさせていく、あの感じ。すると、超早口でしゃべりまくるのなんかも、漫画を読むスピードを再現しようとしたと考えれば、合点がいく。これは、演劇でもダンスでもなく、あえていえばマンガだ。無理にこじつけるのもいけないが、そう考えたとたんに、いろいろなことがクリアになって(マンガなんだからセリフはいるよな、とか)、どんどん楽しくなっていく。下北の「漫読」の男の不思議な抑揚、みたいな不思議な抑揚だらけの身体、そうあれはマンガ的身体を上演する舞台だったのだ、きっと。
『3年2組』に乗れなかったぼくとしては、痛快(!)な気持ちだった。また、ニブロール(矢内原作品)を愛せる!考えてみればSTの狭さも良かったのかも知れない。激しい動きに体がデフォルメして見えるなんてのは、遠目で見たらなかなか難しいだろうと思う。

ニブロール(矢内原作品)を見る前に、しばし来年のイベントのためのミーティングをST脇のドトールでした。面白いことが出来そうだ。ところで、そのとき話題になったのは「浅田彰が、チェルフィッチュは「ゴミ」と一蹴した」ってやつ(@駒場、表象文化論学会)。ヤン・ファーブルのチケを先に取っていたために、見に行けなかったのだけれど、だからこまかいニュアンスは分からないのだけれど(でも翌日には、ゼミの学生がメールで報告してくれていた。きっとそんな感じでこの話口コミでもうずいぶん出回っているんじゃない?)、浅田氏が賞賛するひとたちの枠からチェルがはずれたことは(「ゴミ」ってそういうこと?そういうこととすれば)、時代を画する事態、という気もした。ちょっと。むしろ浅田彰がチェルを絶賛していた!なんてエピソードが残る方が「チェルやばい!」ってことになっていたかもしれないわけで。この話、今後、どう転がっていくのだろうか。

さて、今度は、ニブロール(矢内原作品)観劇後、湘南へ向かう。2週間後に迫ったプライヴェート・イベントの打ち合わせ。風は強かったが、雨の予報ははずれ、6時半頃には波に映えた、とてつもなく美しい夕日が見られた。当日も、こんな感じでよろしくお願いしますよ、神様。楽しみにしててください、ご来場予定のみなさん(写真が会場です)。