Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

発条ト+ボクデス+ダンサー(O)→吉祥寺

2005年05月29日 | Weblog
横浜赤レンガ倉庫での「ダンス空間の拡張--その瞬間」という企画の二日目にまず足を運ぶ。

発条ト「テーブルを囲んで」
「バネト」と呼んでいいのか今回、といった不思議なメンバーの集まりで、粟津祐介・岡本真理子(でもそういうば「バネト」HPにのってたな)・白井剛・田代裕一・村上克之・森下真樹。真ん中のちゃぶだい、四つの座布団と四つのテレビ、おちょことかの細かい小物、さまざまなものが十分な配慮の下にしつらえてあった上での、即興度の高いパフォーマンス。かおてぃく、という言葉が浮かぶがさらに言葉があまり転がっていかない。テーマが「囲んで」だから、その中ではおさまっている、けどね。

ボクデス「?」
作品タイトル不明。ひとりのメット被った女性(佐川)あらわれ、黒テープでなにやら文字を書いていく。「イマカラ 5フンマエ」。すると、手のないボクデスが顔を真っ赤にして登場。次「イマカラ 15フンマエ」。今度は、ボクデスデジカメで写真を撮る、会場を、そして観客を。執拗にひとりに向かうとそこでけんかが始まる。とっくみあい。次「イマカラ 20フンマエ」。長い腕(20メートルくらい)をふりまわしてときに踊る、絡まる。で、時間が混乱してきて、さっきのけんかが再燃して、とっくみあいがエスカレート。砂を喰わされたり、プロレス技の連続。最後は、女性が看板と共にあらわれ「ドッキリカメラ」。オチ。(後半トレースが不十分だったかも知れません、あしからず)
見いてた印象としては、「うす味」。プロレス的バトルのところなど、暴力的だったり、小浜氏が出演していた頃のニブロールの奔放な暴力とかを思い出させもする、その意味では強烈なのだけれど、どうにもうす味。色は濃いのに味の薄いスープみたい。そこねらってたりする(のかな?)ボクデスのつかみどころのなさは、ほんとに無に極めて近く、いやほんとに「極めて近く、しかし!」と「しかし」のいらない「無」、なのだ。「へたれ」度は満載。もう踊ってもなんにもしてない。ほんとにアルテ・ポーヴェラ???

そこから、渋谷へ。あるダンサーのビデオ撮りに参加。新作の練り上げにちょっと顔を出す。素材は十分に面白いし、テーマ性もいけそう。後は本番までの十分な時間の中でゆっくり醸成されていけばいい。とわくわく。さて、ちょっと風邪気味を吹きとばせと、吉祥寺リベンジ。民民で餃子とチャーハン、とビール。帰りに本屋。何々、最近は、近田春夫はトランスやってんだ、毎朝プールでクロール(うらやましい)、何々、ゴダールの新作は、ネタばれ禁止なほど物語のある作品か(by菊池成孔)、と雑誌で情報ゲット。

この土日は、ぐるぐると東京近辺めぐって、目が回った。

井手茂太『井手孤独』+水と油『不時着』

2005年05月28日 | Weblog
を見た。

午前中は、同居人Aさんが学会に赴くというので見送り、一人で世田谷シアタートラムへ。世田谷線の中で、突然無表情で大きな声を上げる御婦人。ipod越しにも聞こえる声。なにいってんのかは分からない。前の女子高生二人組はそっち見て笑っている。どうも聞いていると「どうせわたしはちえおくれよ、わかってんのよ、わるいわねえ、、、」といったことを暴走気味に誰かに(?)向けて発している。多分、具体的に誰かが今何をして、ということではないようだ。こういうとき、とまどう。このとまどいは、広い愛などというものが彼女を抱擁することで昇華してくれるものなのか、否か。御婦人の叫びは個人にではなくひろく人間一般にむけられている、そこにとまどいの強い核がある。多分。でも、彼女もそういうこと一般に向けて叫ぶということをする甘えのなかにある(あるいはそういうこと発してしまう自分をもう彼女も自分で止めることが出来ないのか、、、ならば「甘え」というよりも「苦痛」を読みとるべきかも知れないけれど)。頭がパニックになる。前の女子高生の笑いもとまどい故の、致し方なしのものだろう。御婦人が降りる。また静かになる。

ということがあったり、日常は微弱にさまざまな出来事を抱えて進んでいくんですよ。

井手茂太『井手孤独』(@シアタートラム)
ダンスの「中音域」にあるツボを連打する井手の動きは、ギャグでというよりシグサの一発で見ている体を笑わせてしまう。腕がちょっと前にピッと振れる、それだけで体が「ブフッ」と反応してしまう。ダンスはこういうツボの発見をみんなでギャハハ言いながら和気藹々交換しあって、できあがってきたものなのじゃないかな。そういうあったりまえの基本地点をしっかり見失わない人、ということで、井手茂太はもっと普通に評価されていい人だろう。野村萬斎とかをひとびとが口にするくらいには。
「俺」という掛け軸があのトラムのどでかい後ろの壁のどでかい赤いジップの上に掛けられる。これは、実はなかなかに凄い一言になってくる。そういや、ぼくが20くらいの頃、ぴあのアワードを取った園子温の『自転車吐息』という映画には、「俺」という旗を掲げた男が街をさまよい走るシーンがあった。なんてことを思い出しながら、これは静かにしかしがっちりと世間に対して、井手の孤独を語る公演に他ならなかった。この点を強調しすぎるのも良くないことだとは思うのだが、それは端的に言って彼の「性的なアイデンティティ」に関すること(ぼくの過剰な読み込み、勘違いがなければいいのですが)。「炊飯器」を手にあらわれ、踊り出す。これは間違いなく「おかま」だ。それは最後には、猛烈な蒸気を噴き出して舞台を真っ白にする。あと、最後の最後、ひととおり踊って歌った(?!)後、汗かく背中を剥き出しにしてしかし、おもてを見せずに佇んだあたりは、男性ダンサーがしばしばイージーに上半身裸になってしまうことへの静かな抵抗のようでもあり、また丸い背中のセクシーさを訴えるエロティックなシーンともとれた。最初の、舞台にゆっくり上がって、足さばきに没頭し、盛り上がってきてさあ踊ろうか、と言う時に、フトンをたたく「お母さん(?)」が現れて邪魔される当たりなどは、意外にさまざまなイメージがかきたてられて重要な一場面だったようにも思える。
ともかく、本気の一発を見せられたと思って感動しました。

次、は、新大久保まで。まず渋谷まで歩いて、ツタヤ寄って、てくてく。

水と油『不時着』(@グローブ座)
基本は、翻弄されるひとを中心に、翻弄する人がめまぐるしくものを動かしあったり、体を動かしあったりしていく、という感じ?
普通、パントマイムで翻弄されるのは、舞台上の誰かではなく観客でしょ。でも、翻弄され役は、舞台上にいる。あれあれあれ、さっきここにあったものがない、はて?、、、というわけだ。それを「八時だよ全員集合」のように、観客はだまされ男とだまし組の関係を眺める。その回路を見ている感じ、機械をスケルトンのケース越しに眺めているようなもの。そういう機構を眺めること自体は、人間の欲望に備わっているものだから、ついつい見ちゃうのはそうなのだけれど、ハッとするほど面白くはないのだ正直。でも、そういう約束事のもとで転回されているということは、ひとを安心させる。観客は安心している。ひとは案外安心したいものなのだろう。そういう意味で、固定ファンはいるのかな、土曜の午後の娯楽、であった。

その後更に中央線乗って40分ほどのところへ。海の幸三昧をごちそうになる。庭で取れたというイチゴの酸味にうなる。膨らんだ腹押さえながら最終電車に間に合うか?と走る。長い一日であった。

四谷ダンス教室

2005年05月27日 | Weblog
に潜ってきました。

はじめて体験の桜井圭介「○○ダンス教室」。ヴィデオを駆使して、桜井さんのおもうダンシーな動きを観察していく。JBのヒザあたりのガクガクした痙攣とか、グルーチョの骨なしな足のダンスとか、それにはさまれるピナ・バウシュの手だけのダンスとか。踊りを見て笑ってしまうと言うのは一体どういうことなのか、この問は結構ダンスを見始めた初期にすでに気になっていたことなのだけれど、それは必ずしも単純にギャグのダンスってことじゃないのだよね。ダンスのなかのギャグで笑うんじゃなくて、ダンスで笑っちゃうのだ。まさにそのツボのラッシュ。笑っておなかが痛くなる。

(閑話休題   ああでも、ところで。ピナ・バウシュの魅力は桜井さんが言うとおり、ぼくもシグサのダンスにあると思う。しかもそこで重要なのは、それを戦略的に観客との親密な関係を取り結ぶきっかけにしていることだろう。桜井さんもシンプルな振付でそれを群舞でやると、統一性よりも個々のダンサーの身体の個性が出てくることがあると言っていた。それは、個々のダンサーに観客がいわば没入してしまうのだ。そういうところもそう。またただみんなでぐるぐる舞台上をゆっくり巡る時に、微妙に観客を意識したような、「後ろ髪ひかれる」みたいなところがあって、こういうところじっくり研究してみたいものだ。要するに、観客との関係に自覚的な作家としてピナ・バウシュを評価する。このあたり、ぼくは相当重要な論点だと思っているのだけれど、まだあんまり議論されていないよねえ。フリードが現代美術に観客の問題を持ち込んだように、ぼくもダンスに観客の問題を持ち込みたい、のだ。つーか、振付家の皆さんも是非自分の作品において観客とは何か、考えてみて下さい。多分それで作品が一新することがあると思う)

ってことで、別に桜井さんから何か言われてってことではなく、6/16に始まる「南烏山ダンス教室」行くべきッスよ、楽しいッスよ。きっと。レク、すでにいまから(一回聞いた見たばかりなのに)楽しみです。

そういえば、
ぼくが小四のとき、RCサクセションにいかれてしまったとき(1980年頃)、キヨシローの地団駄踏む、じたばたするダンスが大好きだったのを思い出す。もともとはあれはオーティス・レディングお得意のダンスだった。すでにあのときに、はじまっていたんだなあ、ダンス好きは。

その後、吉祥寺へ。何故?はい、民民というラーメン屋で、餃子とチャーハンを食べに。ときどき猛烈に食べたくなるものってありませんか?その「ときどきメニュー」のひとつが、民民のこれなんですよね。でも、すでに店じまい(8:30クローズのラーメン屋って)。気分を変えて「いせや」へ。なかなか心地よい、風の美しい夜だった。

深く潜る

2005年05月25日 | Weblog
日々。カントのなかに、深く沈潜。

水曜日は、一番ディープな精神状態になる。午前中に次の日の講義(三コマ分)の準備を終えると、午後にはじっくりと入っていく。そこそこストレスのかかることなので、ときどき休憩(睡眠)を取りながら進む。

ときどき、昨日菊池本と一緒に買った、

松田行正『目の冒険 デザインの道具箱』紀伊国屋書店
を斜め読み。ともかく、ホガース的線の叛乱、ときどき文章、といった高山宏的快楽本。

そういえば、カエターノの日本公演、結局見に行かなかった。あまりに豊穣な日々でさらにここにカエターノを挟んだら、ちょっと贅沢すぎるだろ、いまはあうタイミングではない、なんてへんな理屈で、棒に振ってしまった。あとで激烈な後悔が始まるかも、、、そこここで、最高だったという話を見たり聞いたり(著名なミュージシャンさんたち情報)。ぼくの近所で見に行った方がいらしたら、感想を聞かせてぼくを後悔させて下さい。

かねてから

2005年05月24日 | Weblog
気になっていた、彼の本、

菊池成孔『東京大学のアルバート・アイラー』を購入。面白い。基本的にはジャズの理論を東大で講義した講義録なのだけれど、いままで漠然としていた、ぼくのジャズを聴く行為が、今後随分整理されることだろう。あと、講義の仕方も面白い。参考にしたい、と思った。


上智で研究会

2005年05月23日 | Weblog
の前に、図書館で本を借りる。

1矢橋透『仮想現実メディアとしての演劇』水声社
2マティ・カリネスク『モダンの五つの顔』せりか書房
3ジョージ・R・カーノードル『ルネサンス劇場の誕生 演劇の図像学』晶文社

1は、かねてから気になっていた、「ルイ十四世はなぜ踊らなくなったか」という問に対して、ちょっと答えている本。でも、近年出た本でこれくらいのことしかわかっていないのだな、ふむふむ、まだまだ謎の多いのが現状のようだ。
3は、これもかねてから気になっていた、「ダンスの劇場構造はどう変化していったのか」という問に対して、ちょっと答えてくれそう(未読)。絵画(遠近法)と劇場の相関関係について、詳細な研究が成されている。
2は、次回からグリーンバーグの「モダニズムの絵画」を読むので、それのための予習の一つ。あっ、えっと、現在、現代美学研究会は、現代美術批評(米)の専門家がいません。専門家で(「だいたい専門家」大いに歓迎)隔週の月曜夕方、四谷にいらっしゃれる方は是非、ご一報下さい。いろいろ勉強させて下さい。ぼくもなんらかの刺激を与えられるよう尽力しますので。

新しく慶應義塾大学の学部生(男子)が参加してくれた。今後とも随時、新参加者を募っております。どぞ、よろしく。

NUDE『自分が殺される日、サン』

2005年05月22日 | Weblog
をみる(5/22@西荻WENZスタジオ)。

目黒大路、金野泰史、三上周子の三人がNUDEと称したグループの一時間。
基本的には黒と白、そして「サン」のイメージなのであろう、強いひとつのライト。シンプルな舞台。真ん中で黒い幕をつけた巨大なユニットを縄で目黒が引き回すところは印象的。
さて、イメージとしてはかなり異なるけれど、作風としてはモディリアーニなどの一時期の近代絵画をなぜか思い出す。作品と踊りを作るものたちとの距離がそういう連想を引き起こす。舞踏というスタンスから出てくる動き、とはいえじっと待つ、ことはなく、するすると滑らかに動いていく。このつるんとした感覚はなんだろう。強力にぶつかってくる他者、強力にぶつかってゆく他者がない、という我々の生きる状況から引き出されてくる動き、なのか。「ロック」という言葉も浮かぶ。ロックはアヴァンギャルドのようで実はその前線的な要素よりもポップだったり明快さだったりに集中する。そしてそこには基本的に自分探しのモチーフが漂う。そんなロックに似ている。体を強烈に痙攣させて、暴れまくる目黒には、はらはらする興奮する。体という最も基本的な「生」の現場をリアルに感じたくてどこまでも追いこんでいこうとする。その確認の猛烈な勢いは、「自分探し」の問題となって舞踏をロック化させていく。

プログラムの言葉がその点で印象的だったので転載させて貰う(問題があったら関係者さんご連絡を)。

「太陽と黒点

 心臓と情念

なぜ踊るのか?
よくよく考えると、生きたいため、という答えしか出てこない
しかも、激烈に生きたい

なぜそう思うのか、自分でもよくわからない
多分、生きている実感がほしいのだろう
なぜ生きている実感がほしいのか?
それもよくわからない
無意味ゆえに、儚いゆえに、激烈に生きたいのかもしれない

生きること以外に縛られたくないし、生きること以外に何ができるわけでもない
そうして生きることに殺されてゆくのだろう」

シンプルで明快なマニフェスト。正直感動してしまった。そしてこの言葉が伝える彼らの閉塞感に驚いてしまった。「生きる」という問題だけが残されている、しかしそれだけ、という閉塞感。そこに真摯に向かう公演はその意味では切なく苦しく儚く美しい。

体は、どこまでも道具として乱暴に執拗に扱われる。金野のカエルのようなロボットのような精巧なムーヴは、切ないほど金属的な無機質を湛える。もう暗黒舞踏はこのラインでしか成立しないと宣言したいかのよう。身体を極端なまでに管理していくこと。これもまた暗黒舞踏のひとつのベクトルではある、確かに。

さて、このように「自分探し」として暗黒舞踏がいわばロック化することは、それ自体としては問題ではないかもしれない。暗黒舞踏の「活用」はいたるところで起きている、事実。だとすれば、願わくば、観客(オーディエンス)もロック化するといいと思う。目黒ファンとでいうべき集団が出来るくらいに一種の市場が確立されるとこのような方向性は活きてくるのではないか。そこんところが、作品の観客への効果を考えることとして、またプロモーションの問題として、今後煮詰まってくると(また荒削りの部分に対して十分な解決が図られるとすれば)面白い。


『ルーブル美術館展』+『public=un+public』

2005年05月21日 | Weblog
朝、原稿がようやく軌道に乗り出す。少しほっとする。ぼくなりに新しいカント像を示す発表が出来そうだ。あとは、その場で起きること。

リラックスして、横浜へ。いつもの横浜駅前「鈴一」で天コロそばを食し、ゆっくり散歩しながら横浜美術館へ。どれだけこんでんだろと思って警戒していたが、20分待ち(竹橋)ほどではなかった。アングル、ダヴィッド、ドラクロワ、ジェリコー、シャセリオー、コロー、ミレー、、、所謂近代絵画(フランス系)のイイお勉強になる展示。混んでいるのでいいことは、おしゃべりオッケーになっているところ。ユーロスベースでは出来ないけれどいまはなき渋谷東急の映画館ならおしゃべり可といったみたいに、リラックスして、かるいおしゃべりしながらみる。つやつやと白い肌の質感にこだわるアカデミズムの絵は、エロティックと言うよりもエロだよなーとか、アングル『トルコ風呂』は意外とデッサンが雑だ、胸の造形とか、上体と腰のつながりが変だとか、それより何より、ダヴィッドの絵の背景部分(「マラーの死」の背景や浴槽に敷かれた緑色の布)はマークロスコだとか(このことは誰か言っていたっけ)、あるいはドラクロワの布の描き方はゴッホそっくりだとか、プリュードンの肖像画の襟の緑は、ポスト・ペインタリー絵画みたいだとか。後の現代美術の先駆者として彼らをみる、と言ったことがどんどん広がっていってなんとも面白い。そういう意味では、近代のこういった絵の方が多面的に見えて魅力的だったりする。

満足。んで。

Off Nibroll+Jo Lloyd & Shio Otani『public=un+public』
会場の1929ホールは、元銀行の横浜らしい古き良き造り、天井が非常に高く、柱が非常に太く、全体に白く清潔感のある空間はフラット。いいとこと、使いづらそうなところがある、そこをどう工夫するかで作品は大きく左右すると言った場所だろう。今回二人のダンサーを小さい二つのスペースをつくって、そこで交互に一人ずつみせる、という趣向は、観客に肉迫する極パーソナルな空間を生み出そうとしている点で十分に興味深かった。ぼくが座ったところにでまず、ジョー・ロイドが踊る。ワンルームで本を読んだりゲームをしたり、ソファでゴロゴロしたり、次第にニブロール的な素早い動きが繰り出され始める。二人が交差すると今度は矢内原がこちらの舞台で踊り出す。小さい空間にところかまわず振り回す腕、足。魅力的でないはずはない彼女の動きに、しかし既視感が漂う。ある一点に向けて放出されるエネルギー、そこに強さをいつも通り感じるものの、そこにないものに気が向いてしょうがなくなる。それは、ぼくの言葉では「ユーモア」。
効果を期待しないダダを捏ねる、みたいなそのかたくなさは、ジョーが踊ることよって中和されるところがあった。ジョーの身体は、大きくて円くて否が応でも一見ハッピー。その身体が「トランスレーション」する矢内原のダンスはどんどん「ロスト(迷走)」していく(何故かあの映画のタイトルが頭から離れず、でもその連想自体はいいなと思っていたのだけれど)。激しくではないが、微妙に早さが足りない、角度がしなりが足りない。でも、そのこと自体がどうして悪いことになろう、これがジョーの身体だとすれば、それこそがどうフォローされうるのか、「public」というタイトルからして、このことこそ、考えられるべき点だったように思ってしまうのだ。

「public」というタイトルと矢内原のダンスはどううまく関係しうるのか、とそのことが気がかりだった。桜井さんのキーワードを借りれば、矢内原のダンスはコドモの身体(あるいはダメ身体)の一表現だとすると、コドモが「public」をどう樹立することが出来るのか、そのことが懸案事項になる、ように思う。コドモがつくる社会とは。これはコドモ身体論の議論の中でぼくが一番知りたいとおもっていること。だから、その点に関心が向かっているのだとすれば非常に興味深い、とはいえ、それは相当困難なイバラの道なのではないか、そう考えていた。

で、今回の公演の感想としては、「public」という言葉はどうにも不似合いだったのではないか、と思わざるをえない。もし上記したようなテーマがこの公演にあったとしたならば、なおのこと、ストレートなこういう言葉ではなく、なにか「つなぎこ」になるようなキーワードがあったらよかったのでは、それがタイトルであるべきだったのでは。

そしてそれは多分、「ユーモア」のある一言ではないか。ひととひととが接触する時のスリルは、暴力のなか以上にユーモアのなかにこそあるのではないか。ボーンとひっぱたく、その余波がお互いに響く、その余波にたたいた自分が浸食される、それが次に他者へのベクトルに繋がるのではなく、自分の方に向いてしまっている。抽象的な表現になってしまったが、こういう流れを感じてもどかしかったのだ。感情とか情念的なものへ一点向かうところは魅力的であると同時に限界点にも見えてしまう。切なさは、他者との関係ではなく、自分との関係のなかに発生するもの、この切なさに留まる限りは、「public」の問題の場で踊ることはありえない。

再び口福へ。やはり美味い。間違えちゃってとかいって、店じまいの手前、馴染みになった店員のコがジョッキをおいてく(二人で計五杯!)。今度は、知人諸氏を無理矢理でも誘おうとAと誓う。

ただいま潜水中

2005年05月21日 | Weblog
ということで、日曜日にちょっとこれは潜水艦の旅になるかな、と言ったらほんとにそんな風にずんずん気持ちが内側に膨らんでいってしまって、日記どころではなくなってしまった。それでも、頻繁にあちこちメールは書いてる。いろいろと進んでいくものあり。

昨日は、早朝起きて、築地へ。あこがれの店「大和」で寿司をいただく。口に放り込むとそれが口から消える間の十秒ほどは「メディテーション」「トランス」の時間。やばい食べもの。美味という毒。それに翻弄されるジャンキーは、早起きだろうと厭わずまっすぐ目的地へ向かう。そんな輩が、すでにゴロゴロ。約半数は外国人。イイ思いして帰ってね。

その後、急速にテンションが下がり、帰宅。

あっでも、途中で銀座の演劇専門古書店に寄り、三冊ゲット。

1フィリップ・ハートノル『演劇の歴史』朝日出版社
2江口隆哉『舞踊創作法』カワイ楽器
3福田定良『記録と人間<演劇と教育をめぐって>』法政大学出版局

1は単純に勉強不足を補うためのもの。劇場の図版がちょっと使えそうだし。2はモダンダンスとはなんぞやの自習。何で彼らはあれほど空間とかフォーメーションとかを重視するのか。などなど知ることか出来るか。3はもはや、ぼくの師匠、福田先生の「演劇」論(!!!)。切ないくらいに素晴らしい。

収穫有り。夜は最近週に二回は来てる「デニーズ」へ。「ようこそ!」というよりは、「忙しいのに来たの?」みたいな対応で、順番待ちは後の人に先こされるは、ビールは出てこないは、唐揚げは冷えているわで、ここはしばらくいかないよの刑に処すこと決定。帰ると『タイガー&ドラゴン』。感動。素晴らしすぎる。クドカン君はこれを毎回一人で書いているのか?信じられない!落語であって、実はロックなドラマ。加速するリフレイン。

今日は、これから横浜。ニブロール関係とできれば、ルーヴル美術館展行ってきます。混んでるかな。混んでる美術館って世界一嫌いなんだよなー。本物のルーブルの方が断然空いてるって、行ければ行ってるって、行けないんだって!


もろもろ

2005年05月15日 | Weblog
朝、超長い論文のことでしばしワープロと格闘、かなり見通しが立ってきたように思えてワクワクする。そろそろ序論書いてみようかな。最初の最初の書き出し、さてどうしようか。こういうこと考えると、自ずと、否応なしに、勝手にワクワクしてしまう。さあ、本気でこの旅をスタートさせますか、潜水艦の旅だ、きっと。

昼頃、非常勤の仕事をしている大学の学園祭があり、ちょっと行ってみた。
基本的には、「スピードワゴン」目当てだったのだけれど、群衆が取り囲んでいてどうにも本人たちの表情が見えない。退却して、カポエイラをやっているというブースに行ってみる。なにやら周りの大学生ののんびりムードとは一線を画する雰囲気、でも凄く楽しそう、フレンドリーに声を掛けてくれる。一時間後に屋外でパフォーマンスをするそうで、あらためて会場に足を運んでみた。

いやあ、かっこよかった。本物のカポエイラは、簡単な楽器とシンプルな歌を歌いながら、円陣をつくるすべてのひとがかわりばんこに二人ずつ、真ん中で踊る=闘う。踊りであって闘いであって闘いであって踊り、そのスリルはなかなか、そして歌のなんともサウダージな抑揚が晴れた空にあう。表情のいい人達で、ちょっとアクセスしたくなってしまった(いやほんとに格闘技だったので、参加するのには相当な心構えがいるでしょうが)。写真は準備中のカポエイラの皆さん、日本で一番大きいグループだそう。

その後、「異種格闘義戦」だのストリートダンス・ショーだのを見て、帰路へ。途中、ヒョウとニジとカエルで自然も相当いいパフォーマンスした。

『ライフ・アクアティック』

2005年05月13日 | Weblog
『ライフ・アクアティック』美味なり。『ブギー・ナイツ』の時に感じたような感情、でも、こちらの方がより味わい深いのは、ビル・マーレイ演じる主人公のオッサンぶりに魅了されてか、オッサン演じるマーレイに魅了されてか。

午前中の回にはいると、終わりは午後一時半。さて、昼食は、、、近所の壁中に大きな花と蝶の描かれたフランス系料理屋で。
そこからてくてくと目黒川まで下り、。ミズマ・アートギャラリーにて、鴻池朋子の作品を見る。これはいま展開している作品全体の第二章ということらしい。タイトルは「草原に不時着」。絵のダイナミズムも何か「物語的な何か」へと奉仕しているように見えるのは、絵本的ということでもあり、またそれ以上の何かであるようにも思う。はて。無数のナイフが飛び交う空間(ある作品では少女から豹変したオオカミがこれを吸ったり吐いたりしている)。けれど、このナイフは色がカラフルな蛍光色であったり、形状に独特の丸みがあってニュアンスを感じさせたり、とてもユーモラス。少女がオオカミに豹変の切迫やナイフ飛び交う戦慄とともにこういうユーモアが共存しているところには、何かしらの「余裕」が漂って、結果それが「物語的な何か」という距離感を作っているのではないか、と思ったりする。

ギャラリー前の駒沢通りで一服、では、次は。

一応竹橋に向かうが行列を前に尻込み(入場20分待ちだったのだが、中の様子を想像して断念)、『ラトゥール展』もあきらめて何故か有楽町駅ガード下の天ぷら店「末廣」で、天ぷら丼をいただく(850円安すぎます)。入ると、銀座のサラリーマンのおじさんたちが、実に楽しそうにしかし決してはみ出すことなくおしゃべりしている。店内には音楽はない。自分たちのおしゃべりと他の客達のおしゃべりとがBGM、基本シーンとしたなかにいる居心地の良さ。ワタミとかで切なくなる余り楽しくない喧噪はここにはない。おばあさんがトイレ前の階段手前の小さなスペースに、ネコみたいに腰を下ろしている。天ぷらだけはおばあさんの仕事らしくじっくりと揚げてくれるその横顔がわずかに微笑んでいるようにみえる、それは皺のせい、だけれど、そんな皺が出来たひとということにまたジーンと来て、「はい名物の天丼よ」と本人から渡されたどんぶりが何かとても大事なものに思えてくる。

さて、ちょっと買い物したら帰るか、ああ朝からずっと外にいてリフレッシュしたな、ちょいと寒い日だったけど。
(写真は、末廣前で舌をべろべろさせていたグルメネコ)

こきざみにつづく「へま」

2005年05月13日 | Weblog
GW以前からそりゃもうどうなってんだ?と自分でも困ってしまうくらい、こきざみな「へま」がつづいて、これは来る「大地震」の前触れかも知れないと思ったり(「大地震」てじゃあ何だろう!)。自転車が盗まれ、車をおかまし、戻ってきた自転車で一周してくるとシャツの胸のあたりに「天敵(ある虫の類)」がついてたり(気づいたAが「見ないで!」と叫んで取ってくれた、ああ、新たなトラウマになるとこだった!)、Aは定期を落とし(でも三日後くらいに発見された)、今日は講義のプリントをプリントアウトし忘れる(でもいまは便利ですね、ノートPCもっていってるんで、ブロジェクターで画面出して急場を凌いだのでした)。

不思議なのは、不運のあとにそれをリカバリーする何かがきちんとあるということだったりする、のですが。


くるくると言われてこない彼の地の大地震みたいでありますように。あっ、ずっとこないという希望のもとで、ということで。




『文学界』

2005年05月11日 | Weblog
最近、派手になってます、ね。

文芸誌で一番面白いのは新人賞の選評。間違いない。今回もかなり面白い。北野武インタビューの聴き手がハスミ先生とは、これも読まないわけにはいかない。阿部×中原の映画対談とか、もうかなり「よみで」あり、なのだけれど、今回ぐぐっと来たのは、高橋源一郎の連載「ニッポンの小説」。これについては、宮沢章夫さんのブログ見てたら話題に出てきて、昨日買ったばかりのこれで読み飛ばしてたと捲り返して、さっそく読み出したら、うお、相当面白い。

猫田道子『うわさのベーコン』

についての書評(?)である。これを読むと「トカトントン」(ダザイ)が聞こえてくるという高橋は、あらゆる「間違い」を含んだこの文章に、「気をつけろ、文学などというものに」という警告音を聞きつける。どうもそれは高橋の整理によれば、「コミュニケートする力」の不在、あるいはコミュニケートの「必要性」を作者が感じていないことに由来するものらしい。

ぼくは、まだ高橋が長く引用した一部分しか読んでいないわけだけれど、この面白さは「へたうま漫画」の魅力に近いように思った。プロがその道を極めようとしてやるような類ではなく、子供のただ誰に見せようと言うのでもなく天衣無縫に描かれる「絵」に近い。そういう絵の、お姫様の顔の輪郭線とかに、もやもや「へんな気持ち」を感じてしまう、そういったものに。あるいは、手癖むきだしの手書きの文章のような。ぼくは講義のあと10分くらいでその日の講義の意見などを学生に書いて貰うのだけれど、そのとき、何人かのレポートの文字に独特の質を感じることがある。なんともいえない、のたうちまわった言葉(あるいはその文字の表情)。

難しいのは、こういう文章を、作為あるもの=芸術(文学)として扱うべきかどうか、と言うことだ。文学を見つめ直すことにはなるだろうけれど、それが文学になる、と即断してしまうのは、いろいろとまずい、と思う。やはり、「コミュニケートすること」をどこか徹底的に拒否しているからこそ、なんともいえない唯一無二のものである、のだから、それをコミュニケートする媒体である文学の冠を被せるのは「困る」のだ。とはいえ、この猫田さんは文学新人賞にこれを送ってそれでここまで話題になったのだから、「コミュニケートする」気が全くないわけではないこともまた事実だ。その辺りが、最終的には焦点になるのだろう。

けれども、ともかく、こういうものをただただくまのぬいぐるみを愛でるようにただただ愛でていればいいのではないか、ぼくのすることってそれくらいしかないのでは、というのが唯一ぼくのほんとの気持ちだったりする。



time and locus『透きまサロン』

2005年05月09日 | Weblog
を見た(@ウエストエンドスタジオ ただしゲネプロ)。

振付 高野美和子
出演 伊東歌織 河村篤則 林貞之 高野美和子


月火と研究会が続く関係上、本公演に行けない、そのために、お願いしてゲネを見せて頂いた。
では以下、まとまりなくべらべらいきます。

高野美和子は非常に繊細で明確な線を描くひと、というイメージがぼくにつよくある。「繊細」とは、ディテールまでも味わい尽くすことのできる動きだということ、「明確」とは、それがあるはっきりしたストロークをもって描かれるということ。奇妙で独特な動き、なのにそれは揺るぎがない。

奇妙で独特な動き、それは端的に言えば、「強迫的な美compulsive beauty」である。何か強い圧がかかっていて、それに反発しながら耐えきれずに始動してしまう動き。一種痙攣的なのだが、アンフォルム(非形体)な状態でぐずぐすになることはない。ブランクーシというかモダン建築のなかのシンプルな曲線というか、「衛生的」とでも言いたくなる美しさは保ち続けている。痙攣的でありかつ美しい、という細い通路を通って高野の線は繰り出される。

もともと、髪の毛への異様なほどのオブセッションとか(林貞之や河村篤則にも付け毛が施され、林などは坊主頭の長髪になっている。あるいは前半はブルネット、後半は黒髪の高野にもそれを感じる)、赤と黒のイメージ(これ途中から敷かれた絨毯の赤と周りの黒のイメージだけではなく、それが反映したかのような高野の70年代アメリカみたいなワンピースもまた赤と黒)とか、落とした皿が床で回る音を使ったりなど、基本的に記憶を逆なでしたり、無意識をもてあそぶ要素がそこここに散らばっている。ただし、問題はやはり動きだろう。

強迫的な動きは、そういえばKATHYに関しても当てはまる。ただしKATHYはそれを三分間ひとまとまりのポップスのなかにパッケージする。「パッケージ」するってあたりがKATHYの楽しくて恐ろしいところでもあるのだけれど、さて、高野はそれを延々とドロー(draw)し続けるのである(本公演は約一時間)。

それは人形とか機械を連想させる。とはいえ、「人形」「機械」の役を演じる演劇に陥らないのは、まさしく痙攣性のある動きがただここにある、それだけだからだろう。機械や人形とは、シュルレアリスム的なアイテム。そしてもちろん、痙攣も。ふらふらと連想はそちらへ。(ここからは作品見ながら勝手に生まれる連想の自動記述)、、、なぜ、シュルレアリスムの芸術は具象的だったのか。それは、彼らにとって身体こそ問題だったからではないか。「夢」への興味も身体なしには具現化しない。コラージュもデカルコマニーなんてのもやっばり身体問題だったのでは、、、。ならば、ダンスがシュルレアリスムに接近するかのように見えるのも、身体という次元を考えれば、当然と言うことになろうか。ただし、高野のダンスは決してシュルレアリスム的といって片づけていいものではないよな、、、むしろダンスというものがそもそも、シュルレアリスムのテーマと呼応する部分を含んでいるのであって、高野はそのダンスそのものの問題に触れているからこそ、一見シュルレアリスム的に見える仕方でいまこうやって作品を作っているのではないか、、、で、ダンスそのものの問題というのは、そう、飼い慣らされた身体(土方巽)という奴だよ、ダンスは身体を飼い慣らすプロセス、であるとすれば、そのプロセスのなかで暴走したりまた暴走を抑圧したりして美しく動くことが、高野作品のなかで起きている出来事なのではないかな、、、どうかな、、、。

なんてこと考えてみていた。

上記したような奥行きと、でも別にあそんでるんですよ、ってな余裕がどこかそれぞれのダンサーにあって、とくに後半、皿とその上にのった菓子(ポップコーン?)で、全員がきまじめさとふしだらさの同居する遊びをするあたりでの、どこかすっとんきょうな林の振る舞いは特徴的だった。「食べる」と身体への反省が生まれてそれまでの執着からふと醒めてしまう、ということなのか、このあたりからの展開は、それまでのイメージに対する自己批評的なものへ向かう予感が漂いだしていた。ただし、実際は、はっきりと突き抜けるような出来事には至ることがなく(そうなれば、林の作品ということになりかねない、ということもあるかもしれない、し、でも、高野らしいユーモアがこういうことへの推進力を生み出してもいいとぼくは思う)、その点では、「もったいない」という気がした(情景を浮かび上がらせるのに巧みなひとでもあるのだから)。ダンス作品にストーリーは必ずしも必要ない。なくていい。けれども、ダンスはまた時間芸術であってだから、これが、こうなって、最後にこうなる、という連なりをどうしても観客は感じることになる。それをどうするのか、という課題、なのだけれど、その課題の克服で作品はより強くなると思うのだけれど、、、それはそれとして、動きにはやはり強い魅力があった、これはこれで事実。ただね、そこでも欲を言えば、「繊細」さがより加速していって、もはやどこにも行き着かないようなただの線の戯れの暴走を見せてくれるなんてのも、あったらいいのにな、とも思ってしまう、個人的には。

その後、上智での現代美学研究会へ。岡崎乾二郎の文章には、そうとう色々な知識が無節操と言っていいくらいの仕方でばらまかれている、その絵解きに奔走する(なにこの部分、ジャスバージョーンズ=宮川淳のことじゃんか、なんにも明示してないけどサー、みたいなみたいな)。学部生(一、二年)が三名きて下さったが、さぞかし頭くらくらしたろうなー。

秘密の試演会

2005年05月08日 | Weblog
におじゃました。「秘密」なので、あまり詳細は書かないけれど、ダンスを原理的に捉えようとしている方達(ぼくはそう思って誤解を恐れず「原理主義」と以前ここで言ってみたことがあるけれど)が、あるひとりの呼びかけでぞろっと集まった、という一日だった。彼らにそんな大それた気持ちがあったとは思わないのだけれど(つまらないナルシシズムとは無縁の方達ゆえ)、端から見ていると「夜明け前」の雰囲気があった。この一日から、今後さまざまな「新しいダンス」が飛び出していくのじゃないだろうか。いやもう、彼らに対しては、ぼくはただの応援団です。がんばって欲しいです、ただただ。

えっと、そのなかのひとりとして試作品を見せてくれた山賀ざくろ(このひとのことは書いてもいいですよね、試演会の皆さん)。まさに「一応援団」として、このひとの7月の公演を後押しする役をつとめることになりました。「ダンスが見たい」の企画にて。そういうぼくが言うからじゃありません、いま温めている山賀新作、凄いです。凄い玉投げてしまいそうです、コンテンポラリーダンスのグラウンドに。いや、もうそういう枠からも自由に、フツーにポップなフィールドでもいけそうなくらい「イイ」です。推薦者として本公演楽しみです。詳細は後日。乞う御期待!!(課題はただ集客、たくさんのひとに見てもらいたいものです)。

夕方試演会におじゃました足で、下北沢のピザ屋に久しぶりに行く。ホントにおいしい。となりの三人組がブライダル系の仕事をしているひとたちか、そんな仕事の愚痴をいいながらタバコをプーカとこっちに煙まいてくる。なんで、食事の場所でとなりに煙ふくんだろう?むかついてささやかなアピールをしたけれど、後で考えたら、「タバコ控えて下さい」とか口頭で言えば良かった、と思って反省。理性を信じるべきだった。

と半分しょげて半分満足して帰る。と『LEON』の編集長が情熱大陸(TBS)に。情熱と冷静があの紙面を作っていた、納得。そんなこんなで、今日いっこ年増えた。