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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ダンスと「結び目」 「編むこと」と「解くこと」への愛着

2011年01月12日 | 身体と映像
「ダンスと色」という話を書きましたら、そこそこ好評だった(気のせいかも知れませんが、、、)ので、さらに。

ダンスと「結び目」について。

エイゼンシュテイン「無関心な自然でなく」(全集9)より。

エイゼンシュテインは、人間の本能として2つの原理が捉えられると見なして、その一つを追跡のうちに見る。この追跡の本能について、主な典拠にしているのは、ホガースの『美の分析』のなかで展開される考察である。(ホガースのことは、「舞踊学」に以前書いたこともあるし、このブログ(昔のHP)でちょくちょく書いてます、チェックしてみて下さい)

「追跡にあたって日々直面する困難及び絶望が絶えず増大していくことがないならば、狩猟、射撃、釣り、その他多数のゲームの魅力は、一体、何に支えられるのか?兎がその巧妙な狡さを十分に発揮する可能性を与えられぬならば、兎狩りのスポーツ愛好者は、どれほど退屈なことか!」「このような追跡への--追跡そのものへの--愛着は、人間固有の本能であり、疑いもなく、必要かつ有用な目的に役立っている。」「理性は、複雑な問題の解決に立ち向かい、それと苦闘することを好む。つまり寓意や謎は、いかに無意味でつまりらぬものであっても、常に理性を引きつける。理性は、筋立ての複雑な戯曲あるいは小説の、多数の事件の糸が絡み合った過程を追跡して楽しむ習性がある。最後に謎が解けてすべて明白になるとき、理性の喜悦及び充足感は、非常に大きい!」(p. 58)

そして追跡と並んで、人間の本能としてあげられるのは、編みそして解く本能。追跡が男性的本能であり、女性のものとして編み籠の本能は構想されているようだ。エイゼンシュテインは、次の文章を引用しながら論を展開している。

「デューラーが描線にたいして非常に愛着した源泉は、さらに深部に探さなければならない。つまり、それは、古代ゲルマンの遺産である。デューラーのそのような愛着は、形の絡み合い及び相互吸収の作用(プレイ)、交差しながら発展する帯状の紐の絡み合い(プレイ)、及び自由に運動する線の果てしない旋律の遊戯(プレイ)などに北欧人が味わった原始的な喜悦及び充足感を、後期ゴシック的ヴァリエーションにおいて復活したものであった……」(ヴェツォルト『デューラーと彼の時代』1935、p. 62)

そこでエイゼンシュテインが注目しているのは、デューラーの「六つの結び目模様」という六枚の版画。レオナルドの「有名な網目模様」が元になっているこうした表現を集めた著作を愛好するものたちについて、「全く単純な「縄紐」を複雑に絡み合わせたりといたりするゲームに愛着をもつ相当多数の読者層の存在を物語っている」といい、エイゼンシュテインは、こうした読者というのは、「さまざまな形式のミステリ小説にも愛着をもっている」のではないかと推測している。

デューラーの結び目模様の例

そうして具体的に、縄紐の図を書きながら、紐の進行が、結び目を作るそのループによって、一旦反対方向へと進み、そして戻るという運動を行うところに注目する。その結び目には、一直線に進んでいく運動のなかに潜んでいる「潜在的な」流れの存在が意識されるのだとエイゼンシュテインは捉える。

「引き締められた縄紐の結び目は、常に、複雑に絡み合ったその線条の、一点に圧縮された「潜在的な」流れでもある。つまり、結び目を解く場合には、交叉及び絡み合いなど、複雑な縄紐の動きがあるので、それを一直線に伸ばす--「結び目を解く」--ために、複雑な過程を必要とする。結び目とは、そのようなものである。」(p. 63)

また、エイゼンシュテインは、この結び目というものが、結ぶ際に反対方向からの力を加えることで出来上がっていることにも着目する。「縄紐の両端に反対方向の二力を加える」ことで、結び目は締められている。面白いのは、そうした結びのように、スリリングな物語の展開というものは、複雑に絡み合っているのではないか、と物語論へとこの結び目が展開されているところで、

「真のドラマツルギー的結び目とは、複雑に絡み合うドラマチックな出来事の何本もの縄紐の複雑な交錯及び交叉の可能性を多数はらんでいるものである。」(p. 64)

こうやって、具体的に、紐の結び目として、時間の進行を考えてみるというのは、いいのかもしれない。どこに力の拮抗を作るか、力の拮抗をどういうものとして作るのかで、運動にスリルを与える(エイゼンシュテインが思うところの人間の本能に訴える)ことが出来る。けれども、さらに大事なのは、結び目を作ることのみならず、結び目を解くことなのかもしれない。解くのには、反対の2つの力に第三の力が介入する必要がある。

「結び目は、その内部で葛藤する反対方向の力が強く働けば働くほど、それだけ堅く結ばれる。……結び目を解くことができるのは、複雑な過程のみである。それは、ほとんどの場合、反対方向に働く基本的二力に打ち克つ「第三の力」の介入によって行われる。」(p. 64)

エイゼンシュテインの議論は、ここから小説の事例をあげ、フーディーニという奇跡的脱出のプロの話に移り、さらにバッハやピラネージの内に「フーガ」(追跡から逃れること)へと進んで行くのだけれど、このあたりで、ダンスに戻すと、たとえば、こうした「二力」の話でぼくがとっさに思い浮かべるのは、舞踏の方法論で、なかでも鈴木ユキオの踊り。

こうしたものとか。

あるいは黒沢美香。この映像で考えるならば、20秒くらいで前進をやめて反対方向へ行く(それは2つの力の存在を暗示することになるだろう)。そして、24秒くらいで反対方向に進みながら右腕を後ろにした状態で手のひらを返しなどしている(ここにも2つの力の存在が感じられる)。黒沢の動きは「ため」が利いている。この「ため」こそエイゼンシュテインのいう「結び目」だろう。面白いのは、黒沢の場合、きっちりと拮抗した力の関係を発生させながら、同時に、「第三の力」を置くことで、それによってそこにあった緊張が一瞬解け、魔法から解放され、別の魔法に吸いこまれていく(52秒ごろの「トントントントン」)。

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