Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

今日は

2010年02月28日 | ダンス
今日は、森下スタジオで大橋可也&ダンサーズ『春の祭典』のワークインプログレスの上演のさらにゲネプロを見せてもらい、その後、神楽坂のセッションハウスで『動くポリへドロン』を見た。両作品とも、作家の強さを感じた。よかった。何かメモを残したい。だがとても疲れているのだった。

一昨日は、チェルフィッチュ『わたしたちは無傷な別人であるのか?』を見た。なんだか、会場に向かう途中の横浜線で出会ったヤンキーたちのことと舞台とが重なって見えて、そんなことをメモしておきたいのだけれど、疲れすぎてて書けない。

昼にKATのメンバーからメールをもらった。太宰治を読みつつ、そこから繋いで、ブログ的人間性とでもいうべきことがらについて考察した文章だった。面白かった。転載してもいいか打診中。

Kポップ(ガール)追記

2010年02月26日 | Weblog
Kポップ(ガール)の追記。
興味深いのは、日本の男子以上に女子の動向。「なぜ???」ってくらいこれまでガールズのKポッブは日本に流入していなかった。この状況が今年以降変化するようだ。思うにその状況に敏感に反応するのは男子よりも女子なんじゃないか。女の子が女の子を愛好する時代ということもあり。そうだとすると『小悪魔ageha』がKポップにどう応答するのかが気になる。何か起きそうな予感。ところでKポップ=ファスト・ファッションって思うんだな。軽快な「ファスト」テイストは、決して質の低さをあらわすものではなくて、むしろ低価格高品質でなければという価値観に応えているからこそ人気があるのだろう。例えば東京事変がなんとなく重厚な高クオリティ(「高価格高品質」)に価値を見出そうとしているように見え、また例えばレミオロメンやヒルクライムが低品質であること(「低価格低品質」)で若者に取り入ろうとしているように見える、そんななかで「ファスト・ファッション」ライクなKポップのあり方は、まっとうで今日的だと思う。

Kポップ(ガール)

2010年02月25日 | Weblog
「Music Magazine」今月号は、とうとう「特集 燃え広がるKポップ」と、とくにKのガールグループを大々的にフォローする特集を組んできた。ぼくのKガールグループ情報は半分以上MMからのものなので、詳しくはMMの今月号とバックナンバーをお読み下さいとしか言えないのだけれど、ぼくは好きだなあ。なんとなく、東方神起にはまる大学生(周りにとても多い)の気持ちが分かってくる。日本のなかで欠けた部分を補うような気持ちなんじゃないだろうか。別に日本が嫌いで韓国が好きって話じゃなく、こんなのあったらいいなと思っていたものがここにあるという気持ち。日本のアイドル歌手は、ほとんどAKBの一人勝ちで、AKB以外に求めようとすると途端に路頭に迷うことになる(現状は、アニソンとかいろいろな展開が起こっているだろうけれど)。韓国にいました。

KARA
KARA/ Honey
KARA/ Rock U
KARA/ Mr.

Girls' Generation(少女時代:ソニョシデ)
Girls' Generation/ Oh!

Wonder Girls
Wondr Girls/ Nobody

2NE1
2NE1/ Lollipop

まああれなんですな、Kのガールポップは「セクシー」が基本なんです。キュートなソニョシデやKARAも出てきたけど。キム・ヨナのセクシーはこんな環境を背景にしているのでしょうか?キム・ヨナのセクシーと浅田真央のかわいいの対決は迫っていますが。
と、Kポップを聞き続けるとじゃあ日本のアイドルソングってどんなだったっけと箸休めしたくなる。例えば。
渡り廊下走り隊/「完璧ぐ~のね」

今月号のMMにこんな記事が。「ちなみに「Genie」を楽曲提供しているDサイン・ミュージックは安室奈美恵の新曲「FAST CAR」も手掛けている」。安室はひとり突っ走っているなーと思っていたら、Kポップの方向だったりする。
安室奈美恵「FAST CAR」

Girls' Generation/ Genie

「パクリ」問題も賑やからしいKポップ。でも、ファスト・ファッションが今期のセンスを安く軽快に取り入れるように、そして新しいセンスがあらわれたら節操なく乗り換えるように、Kポップの最新の音楽を摂取する際の軽快さは、なんだか元気があって良いのではないかと。Lady GaGaも何かのパクリかもしれないけど、そんな彼女の匂いがKポップのそこかしこに薫る。その香り方がいいなと。

Brown Eyed Girls (BEG)/ Abracadabra

分類、というよりは

2010年02月23日 | ダンス
ダンスの分類というエントリーを書いてみました。

書きながら考えていたんですけれど、ぼくの欲求はいまの状況(や可能性)を分類してしまいたいというのとは違います。例えば、コンテンポラリーダンスの作家Aをこのマップのどこに配置することが出来るか、とAの名前をマップ上においてゆくことは出来ないわけではないと思うんですけれど、そうして、「彼/彼女はここのポジションであるからしてかくかくしかじかである」と判断してしまうことは、事態を分かりやすくはするけれど、むしろその人物の活動を深く考えないようにしてしまう可能性があります。少なくともいまはそうした作業はしないようにします。大事なのは、例えばこういう4つのポイントがあると考えてみること、そのポイントに自分はどう関係しているかと考えてみることで、そうすることで自己への反省が出来るんじゃないかと思っています。黒沢や室伏という名をあげましたけれど、どんな作家にも、この4つのポイントが深く関わっているなんてことはありうるでしょうし、作品毎に力点が違うということもあるでしょう(わかりやすい例か分からないけど、トリシャ・ブラウンの「アキュムレーション」には彼女のダンス作家振りがより反映されているが、「ウォーターモーター」を踊るブラウンからは踊り子性も天才性も強く感じさせられる、なんてことはあると思う)。

もちろん、この4つのポイント以外にもあげるべき事柄はあるのかもしれない。(例えば、お稽古モデルというのはダンスの現場をとにもかくにも強く縛りつけている人間関係のモデルだ、こういうものとか)でも、さしあたり横軸が作家のあり方(そう観客が読み取るという事態も含めて)を、縦軸が観客とのあり方を反映しているというのは、それなりに有効性をもったものとなるかもしれない。

またこういうマップを描いてみることで、批評の立場の者も自己反省することが出来るだろう。自分を相対化すること。相対化しつつ、その上で何が自分にとってかけがえのないものなのか、考えること。

自分がどんな「たこつぼ」にいるのか。「たこつぼ△」が「たこつぼ□」を批判するとして、それが何を意味するのかをあらためて反省すること。例えば、ぼくは比較的A象限にあるものを評価したり批判したりし、その分B象限にあるものを評価しなかったり評価できずにいる、ということが見えてくる。それがなぜなのかを自分なりに反省することが出来る。ちなみに、AとB象限はぼくは審美的にまた芸術論的に批評できるけれども、CやDは社会現象として興味深くは思うがAやBを見るのとは違う眼差しでしか見られない、ということも考えられる。でも、例えばCやDをAやBが牽引することもあるだろうし、CやDのポテンシャル(その社会現象的な意味を考察しつつ)をAやBの作家が活かすこともあるのではないか、なんてことも思う。そこにはどんな可能性があるのかと考えるその能力(想像力)が批評家に問われるだろうし、その基準から批評することもあるだろう。ダンスの作家も同様のことを行うだろう。その基準を意識しつつはぐらかすこともあるだろうし、批評のぜんぜん追いつけない素晴らしい想像力を発揮することもあるだろう。そんな風に、ダンスをめぐって創造性を競うゲームが生まれたらいいなと思う。もちろん観客もそのゲームのプレイヤーであるはずだ。あいつはダメだと自分の「たこつぼ」の論理から批判しててもあまり幸福にはならないだろう(ぼくのブログ上での振る舞いがそう見えたとしたら反省しなきゃいけないと思っています)。とはいえ、いろいろな趣味があるのだからそれぞれはそれぞれを楽しめばいいというのも、むなしい。もちろんすべてを公平に見る判断基準なんてないだろう。

重要なのは、現状がどうかということよりも、これからどうしたいのかどういうことができるのか、「想像力」を発揮することだと思うんです。雑な言い方だけど、想像力は自分の枠の外に出る能力ですよね。外に出ることから活発な状況が生まれるといいのではと思いながら、いまの作業を試しにやっています。ダンスの上演は、想像力のゲームであり得るんじゃないかと思うんですよ。

2月21日(日)のつぶやき

2010年02月22日 | 80年代文化論(音楽)
08:17 from web
おはようございます。なんか思いつけた気がする。拙ブログにいまダンスの分類(マップ)アップしました。どかな?
22:06 from web
今朝、出生誕一ヶ月お誕生会を妻の実家でするので、京王線に乗っていると山田当たりで、五人家族が乗ってきた(父母娘息子祖母)。3人がイヤーフォンをして、1人がPSPをして、1人がおにぎりを黙々と食べていた。どんな親かとつい見ると、あどけない顔のママ&パパだった。
by kmrsato on Twitter

ダンスの分類

2010年02月21日 | ダンス
コンテンポラリーダンスの状況(いや、現状というよりも存在していないけど可能性として存在していてもいいものまで鑑みた上で)を、例えばこんなマップに転写してみることはできるか?


            踊り子(王子/舞姫)
               |
               |
      B        |          A
               |
天才 --------------------------- ダンス作家
               |
               |
      C        |          D
               |
             同人ダンス

□縦軸/横軸について□
縦軸(踊り子--同人ダンス)は、観客がどう受け入れているかを示す。上に行けば行くほど観客はダンサーに萌えている(憧れている)、下に行けば行くほど観客はダンサーに仲間(同人)意識をもっている。
横軸(天才--ダンス作家)は、作家の作品作りへの意識を示す。右に行けば行くほどコンセプチュアルなアプローチを志向している。左に行けば行くほど自分のダンスが自然、天然、無意識的であることを重視している。

□このマップの問題点□
さて、このマップでしばらく考えてみるとして。
難しいのは、一番すごい(例えば、すべての要素を兼ね備えている)存在が真ん中に位置され、消極的に見えてしまうということ。黒沢美香や室伏鴻は、すぐれているが故に真ん中あたりに位置されることになる。これは単純にこのマップの形式的問題。

□各象限の特徴□
Aは「踊り子/ダンス作家」で、優等生的、批評誘発性が高い。
Bは「踊り子/天才」で、もっともダンサー主義的な存在。
Cは「同人ダンス/天才」で、「天才」というより「天然」「不思議ちゃん」がそれに該当しようか。ネガティヴに捉えられるかもしれないけれど、ネタ的な存在感は圧倒的かもしれず、「同人」といってもその枠は、文学フリマで同人誌10冊売れました的な枠を想定せずとも、ニコ動アクセス数十万という枠を想定してもよいはず。現状は、ダンサーが見に行くダンス公演というイメージ。
Dは「同人ダンス/ダンス作家」で、Cが「オタク」と類似点をもつかもということでいうなら(優等生の「踊り子」に萌えるのとは違うとしても、萌え要素を振りまいている)、「サブカル」に類似点をもつかも。萌えないが支持したい、という気持ちにさせられる。

□各象限の「自己批評性」のあり方□
例えば、このマップでダンサー、振付家の自己批評性のあり方を(可能性として)考えてみるとどうなるんだろう。
Aの自己批評性は、コンセプチュアルな作家性を明確にすること(作家としての評価)と、ダンサーがきちんとポピュラリティを獲得することと、両方をどう目指したらいいか反省するところにあるだろう。作品の評価を求めるタイプ。
Bの自己批評性は、自分の求める「ダンス」へと邁進するところにある。求道的。直感的。言葉に出来ないアレがもっとも重要なのだ、という語り得ないところにいつも自分を置こうとする。
Cの自己批評性は、もしあるとすれば、自分の天然性を「天然キャラ」として意識して、「同人」の萌えテイストに応答しようとするところに見いだせる。
Dの自己批評性は、もしあるとすれば、自分の憧れる「ダンス作家」像に自分がどれだけ近づいているかを反省するところに見いだせる。

□マップから分かること□
昨年あたりから個人的にずっと気になっていたこととして、これまでだったら[A-B]の象限だけを考えていれば良かったんだけれど、それだけではコンテンポラリーダンスの状況を語りえないのではってことで、それは[C-D]の象限の台頭ということになるのではないか。この象限についてまだあんまりみんなが意識できていなくて、少し混乱があったり、展開が消極的だったりするのではないか。[AーB]は優れていて[CーD]は劣っているという発想は、多分その発想それ自体が批評されるべき事柄になるだろう。「踊り子」がモダン的で、「同人」はポストモダン的なのは言うまでもない。

Bしか意識されていないのがダンスというジャンルの基本的特徴ではなかろうか。バレエ、日本舞踊、ストリートなど。そこに、やや強引にAの可能性をひらこうとしたのが拙書かもしれない。もちろん、Aの可能性を考えるよう促す存在が日本のコンテンポラリーダンスのなかに出てきたということもある。でも、AとかBとかを云々している場合ではなく、今後考えるべきはむしろCとかDとかの可能性ではないか、と現状認識することができる。

2月20日(土)のつぶやき

2010年02月21日 | 80年代文化論(音楽)
21:36 from web
出(EX)は、最近泣き方が猛々しい。夕方おっぱい銜えながら泣いていると、遠くで八王子の暴走族が爆音を鳴らしていて、ふたつの猛々しさが妙な感じで響きあった。赤子のような暴走族と暴走族のような赤子。明日で誕生一ヶ月どす。
21:42 from web
「室伏鴻さん、ぼくは気づいたら息子の名前を「出」=EXとしていました」と、さっきほとんど信仰告白のようなメールを送った。
22:07 from web (Re: @masanori_okuno
@masanori_okuno 「「同人ダンス」について、この問題は僕もとても興味があります」の言葉に興味があります。
by kmrsato on Twitter

ご質問に

2010年02月19日 | ダンス
ある方からtwitterで打診があり、TORAO.doc:「We dance」と「蛸壺」を拝読した。以下の部分に返答しなければと思う。

/////////////////////////////
私は、手塚夏子のパートナーとしてではなく、またWe danceの主催者でもなく、We danceの企画の一部(「試行と交換」の記録)に参加した一人として、木村さんの意見を謙虚に受け止めつつ、木村さんに問いたくなりました。
一つ目は、「社会が求めているダンス」とは何なのか、ということ。二つ目は、「自分の人生」「自分の好きなもの」に徹底的に固執することが、世の中に繋がる可能性もあるんじゃないか(たしかに、そこには自己批評性は不可欠だとは思うけど)、ということ。三つ目は、「社会が求めていないダンス」を作り続けているダンスの作家がいることが、社会にとって役割を持つこともあるんじゃないか、ということ。
こうした問いのすべてで、「ダンス」を「アート」に置き換えられると思うし、私も当事者として、問いに対する答えを探し続けています。
/////////////////////////////

三つの質問に取り急ぎ、以下のように返答します。

(一つ目)「社会が求めているダンス」とは何なのか:
これは「社会」をどう捉えるのか、各人の解釈に関わってくること。だから積極的に「いま社会がこうなっているんだから、こうした方がいい」とぼくが言うようなことではないと思う。「社会が求めているダンス」の反対概念は、「(ダンサー)個人が求めているダンス」。でも、その上で、「社会」をどう解釈するのかという点で、社会的に解釈する仕方と個人的にする仕方とがあるように思う。自分にとって社会とはこういう姿でここにダンスが求められているというのと、どうもある種の人々にとって社会とはこういう姿でここにダンスが求められているというのと、違いがある気がする。「ある種の人々にとって」と書いたのは、「すべての人々とって」とか「社会全体にとって」などと「すべての人々」や「社会全体」に共通する何かを想定するのがとても難しいから。ただし、「ある種の人々A」と「ある種の人々B」と「ある種の人々C」が、重なりあうポイントを見定めてゆくというやり方はあると思う。「おたく」と「サブカル」と「アカデミズム」とが重なりあうポイントとか。例えば。

(二つ目)「自分の人生」「自分の好きなもの」に徹底的に固執することが、世の中に繋がる可能性もあるんじゃないか:
ぼくもそう思う。徹底的に固執すると自分の問題から人間の問題へとスライドしていく可能性はあると思う。ぼくは手塚夏子の「私的解剖実験」の「私的」をそう理解している。だから徹底的に固執して欲しいと思う。ただ、(問題のレヴェルが全く違うと思われてしまうかもしれないけれど)ぼくがゼミの学生などによく言うのは、自分の好き嫌いからでは卒業論文を書くのはとても難しい、むしろ対象との違和感とかずれとかに注目するべきだということ。また、研究対象となる個別的な作品とか作家だけではなく、対象が所属している分野全体に興味をもったりそこで起こっていることを分析するべきだともよく言う。

(三つ目)「社会が求めていないダンス」を作り続けているダンスの作家がいることが、社会にとって役割を持つこともあるんじゃないか:
ぼくはそれを否定しないけれど、でも、「社会が求めていない△△」を作り続けている△△の作家がいることが、社会にとって役割をもつこともあるんじゃないか、と定式化してみて、△△にはいろんな言葉が入れられだろうと思う。「BL」が入るかもしれないし、「コスプレ」が入るかもしれないし。それとも「ダンス」は「BL」や「コスプレ」(いや、別にこの二つを特化するつもりはないのだけれど、例えば)とは違う社会的な役割があると言いうる、と考えるべきか。「コンテンポラリーダンス」のある部分は「同人」なのかもしれないと書いたのは、そうしたことを考える契機に少なくとも自分はしたいと思っているからで、「同人」としてわいわいと何かやることでパワーが出てくるのかもしれない(それを「社会にとって役割を持つこと」と言っていいかはよく分からないけど)。

ひとつコメントしたいです。

ぼくはこのブログを書いていらっしゃる大澤寅雄さんの奥さん、手塚夏子のことをずっと考えながら上記の文章を書いてました。拙書『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』のなかでも、大きく取りあげた作家ですので、ご存じの方も多いと思います。彼女こそ、社会と自分のダンスの思考との接点を模索している作家であり、ぼくはその点に関して大きな関心と尊敬を抱き続けていて、そのことはいまもまったく変わらないということは付言しておきたいです。まさに、その信頼と期待があるからこそ、昨年の七月には、日本女子大学に手塚さんを招いて、ダンスのワークショップを二週にわたり行ってもらったのです。手塚さんの「試行と交換」は、残念ながらスケジュールが合わなくて見ることは出来ませんでした。だから、基本的には、手塚さんのことを念頭に置いて先のことを述べているわけではないです。

手塚さんに関して言えば(手塚さんだけというつもりはないですが)、ぼくはもっと注目されて然るべき存在だと思うし、ぼくは非力ながらそう思って拙書で言及したりワークショップをお願いしたり、手塚さんの力を社会の中で活かす道筋を模索してます。そのうえで、今後どうしたらより一層然るべき仕方で手塚さんの試みが社会の中で活かされるのかと思っています。余計なお世話だと思われてしまうかもしれないけど、ぼくはそれなりに真剣に考えています。

いや、でもそれ、本当にそうで、「プライベートトレース」で試みたことは、とくに最初の頃にビデオで撮った過去の会話をダンサーの身体にトレースして上演するなんてアイディアすごすぎるし、そのインパクトを忘れてはいけないと思うんですよ!映像に映された身体に向けてアクセスするダンスというものを、こういう時代ですから真剣に考えるべきだと思うんですね。録音された音に向けてアクセスする音楽が音楽において当たり前であるように、写真や動画に映された身体イメージに向けてアクセスする絵画が美術において当たり前であるように。例えば、そうした映された身体について考察して生まれたダンスは、「社会が求めるダンス」となる可能性が高いし、またそうしたことを手塚夏子がすでにしているのであれば、そうした手塚の活動をきちんと振り返った上で自分のダンス作品をつくるという姿勢は、社会性のある振る舞いといえると思うんです。

「プライベートトレース」の可能性について、集まった全員で議論などしたら(議論でなくてもお題として投げてそれに答える、とか)生産的だと思う。(ある意味では、「試行と交換」の「交換」とは、ぼくのいま書いていることに似て、相手の方法を自分でやってみるという意味なのかもしれない。手塚の行ってきた「道場破り」はまさにそんなことするイベントだけれど)

あんな興味深いアイディアが日本のコンテンポラリーダンスの歴史にはあって、なんでひとはそれに自分なりのチャレンジをなげてみないんだろう。例えば、演劇界隈では、いま、複数の役者がひとつの役柄を次々と入れ替わり演じるなどというアイディアが一種の流行を起こしていて、もちろんそれは岡田利規がはじめたといっていいものだと思うんだけど、それを岡田のものだからやらないとかじゃなくてむしろ積極的にそのアイディアにのっかり、そのヴァリエーションを見せることで自分のクリエイティヴィティを提示しているわけだ(それにしても岡田のこうしたアイディアと手塚のトレースは結構似ていて、比較などされていてもいいはずなんだよね)。柴幸男や快快など。例えば、それは「アーキテクチャ」というキーワードにのっかることである種の言説界にアクセスするやり方にも似た振る舞いだと思うし、古くは、バラバラな趣味のおたくたちが八〇年代に「ロリコン」という一点でつながり、本当にロリコンであるか否かというよりもそれを利用してコミュニケーションを活発にしていたなんて話が思い出される事柄でもある。

ダンスの分類の前に

2010年02月19日 | ダンス
Aと話していたら、「天才」が抜けていることに気づいた。でもこれ志向性じゃないね。でも、ずっと、天才の踊る奇跡の瞬間が見たくてダンス見てきたんだよな~そういえば。

踊り子(舞姫/王子)志向 / ダンスオタク(同人ダンス)志向 / ダンス作家志向

天才

ダンスとダンサーは切り離せる/切り離せない

2010年02月19日 | ダンス
訂正→反省は残るとして、あらためて自分が書いたこと、中西さんの文面を振り返ってみると、それなりに考えるべきことがあるように思うのでそのことについて書いてみたい。中西さん(的な観賞姿勢)と木村(的な観賞姿勢)との違い。それは、例えば、ダンスとダンサーは分かちがたくくっついていると見る見方と、ダンサーを切り離してダンスを見ようとしている見方との違いと言ってみることが出来そうに思う。

例えば、中西さんは自身のブログで「彼女を無名時代から評価してきたものとして許しがたいと思う。そういうことはないと信じたいけれど。」と書いている。(ちなみに、その文章の後でぼくの文章が引用されていますが、ここに出てくる「あなた」はきたまりだけに向けられているわけではありません。一応コメントしておきます。)ぼくの見方とちょっと違うなと感じるのは、中西さんの文面からはきたまりという人間に対する愛情(応援する気持ち)がつよく反映されているところで(だから悪いと言うつもりはないですよ)、ぼくが同様の文章を書くとしたら「彼女を無名時代から~」ではなく「彼女の作品を無名時代から~」と書くように想像する。あるいは、ぼくは前述したように、どんなに評価している作家でも個別の作品の中には評価できないものもあり、一貫して評価してきたみたいなことはあまり言えないという姿勢のもとで(そんなことがあったら幸福かもしれないけれど)作品(や作家)とつき合っている。

この違いは、単純にどちらがいいという話ではない。ぼくはこう書いて、ダンサー(人間)とダンス(作品)を切り離さない見方は全然間違っているというつもりはない。けど、ぼくはなるべく切り離そうとして見ているなと自分を振り返る。

なんてこと昨夜、晩ご飯中に話していたら、Aが中西さんの見方も分かると言いだした。作家はダンス(作品)を「見せる」こともあり、しかしそればかりではなく、ダンサー(人間)として「見られる」ことも起きているはずで、作品を「見せる」ところだけに注目することは観客のリアリティに反するのではないか、という内容だった。「見せる」というのは意識的な行為で作家のコンセプチュアルな行為といって良いだろう。一方、作家にとって無意識的に(自分はそこを見てもらおうなどと思っていないところを)「見られる」という事態も起きているはず。身体はさまざまな情報を見る者に(意識的/無意識的に)発信していて、それはコンセプチュアルな「作品化」の営みをはみ出してどんどん勝手に展開されてしまうところがある。おおよそ、そんな話で、例えば、美人のダンサーというのは案外大変なのではないか、なんてことが話題になった(えっと、もうこのあたりきたまりさんも中西さんも関係なくなってます、いや、きたまりさんが美人ではないということではないです、もちろん。)。

あらためて整理すると、ぼくたちはダンスに何を見ているかということが気になる。誰々の作品を見に行くということのなかに誰々を見に行くということがどれだけ含まれているかということ。康本雅子の作品を見に行くのに康本雅子を見に行くということがどれだけ含まれているかということ。手塚夏子の作品を見に行くのに手塚夏子を見に行くということがどれだけ含まれているかということ。こういう問題はあまり他のジャンルでは起こっていない気がする。音楽演奏というのはでも結構そうなのかな、嵐のコンサートに行くことは嵐の作品を見に行くこと以上に嵐に会いに行くことだったりするだろう。コンサートに行ってみたら、本人たちしか居なくて、演奏も歌もないとしても、観客はある程度は満足して帰るだろう。「でも、やっぱり歌聞きたかったな、」とかおしゃべりしながら。極論かな?例が嵐じゃなくてもいいんですが。

ときどき唖然とするのは、他の表現ジャンルでは手厳しい批評をするひとがことダンスにかけてはきわめて甘い発言をするなんてとき。例えば、そういうときのダンスは何を見る者に与えているのかということ。ダンスとダンサーの危うい混同がそうした評価のなかで起きていると思うときがある。

ときにダンサーは作品のノイズになることもあるだろう。それが甘美なノイズだとして、その甘美さに耽溺するべきかその甘美さをノイズとして退けるべきか。例えば、美貌のダンサーの美貌は作品の一部か作品を時に疎外するノイズか。

ぼくがAに答えたのは、ダンサーが作品に作用するそうした部分も含めてコンセプチュアルであるべきではないか、という内容だった。先の話で言えば、美貌は「美貌」として意識された上で作品を構成する仕掛けの一部になっているべきだ、ということ。観客は自分勝手に沢山の情報をダンサーから読み取る。基本としては、ダンサーの身体が体現しようとしている振り付けを見ようとするだろうしその達成度を見ようとするだろう、けれども、そうしたまっとうな眼差しだけを観客は持っているわけではなく、観客は自分の都合で多くの情報を読み取るものである。そうした観客が抱えている(可能性のある)多様な読み取りのベクトルを意識しながら、それを可能な限りコントロールしようとする必要があるのではないだろうか。このコントロールに仕掛けを凝らすことこそがダンスの作品を作る醍醐味だったりはしないのだろうか(コンテンポラリーダンスとは直接関係しない存在かもしれないけれど、マドンナを見る度にそうしたことをぼくは思う)。

無防備だなと思うことがある。この無防備さを愛でることがコンテンポラリーダンスを愛する方法なのではないかとさえ思うことがある。のんきでかわいい、つっこみどころ満載。天然。ただ、だだもれ状態でやっちまったおこないを、しかし、批評することは出来ない。そうだ、あらためて考えると「ダンス批評(家)」と自称することの葛藤はぼくのなかにずっとあったけれども、葛藤の原因はこのあたりにあるようだ。天然でたまたまやっちゃったこととコンセプチュアルに「たまたまやっちゃたこと」を見せることとは違う。たまたまやっちゃたことをそのひとの「アート(芸術表現、技巧)」として評定することは、難しい。

ところで、コンセプトというものはどこにあるのか。

作家がコンセプトを設定するだけではない。作品を通してコンセプトを読むこと、深読みすることもコンセプトのひとつのあり方だ。作家の行いと見る者の読み取りがずれることは当然ある。(このあたりに「マイクロポップ」問題と呼ばれるものも位置している、ひょっとしたらあるひとたちから「木村の快快評価」問題と呼ばれている(呼ばれてないか)事柄かもしれない)


あ、そうそう。
ここまで書いてきて思い出したのですが、このエントリーを書こうとした時に、

踊り子(舞姫/王子)志向 / ダンスオタク(同人ダンス)志向 / ダンス作家志向

という3種類のコンテンポラリーダンスの作り手(の志向性)が想定出来そうだと思ったのでした。いずれ整理してみようと思います。