Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

諸々

2008年12月21日 | Weblog
先日アップしたDC批評文募集第二席(大谷)の黒川さんは、自己紹介用のブログアドレスを送って下さっていました。こことあと講評を載せたエントリーページに記しておきます。

黒川直樹さんのブログ

昨日、「grow up! Dance」プロジェクトのサポートアーティスト、捩子ぴじんさんと石川勇太さんと浅草でお会いして、初めてのミーティングを行った。本番までは四ヶ月しかない。短い期間ではあるけれど、優れた作品、野心的な作品を作って欲しいなあと切に願っている。「サポート」なんてとてもおこがましいことだと思っている。けれども、誰もやらないなら、そしてこういう企画に声をかけてくださるなら、自分のできる限りをやりますと、そういう気持ちでいる。ぼくの野心は、ダンスをよく見ている観客にインパクトを与えることのみならず、ダンス以外の分野の関係者・観客にちゃんとアピール出来る公演を打ってもらうことにある。もっと知的で、かつもっとポップで。脱自己表現。脱自己満足。

そして、来年の1月10日、11日には、このプロジェクトでミーティング&トークを行います。選考委員やサポートアーティストと来てくださる皆さんとで、ダンスをめぐるあれこれについて「率直なところどうなのだろう」「率直なところどうすればいいのだろう」とお喋り会う場です。レクチャーの企画もありますが、主となるのは、各人が気取らないで自分の考えを吐き出すことです。ここには誰もえらいひと、えばっているひとはいない。ただダンスを愛しているひと、ダンス公演の制作に悩んでいるひと、ダンスって一体何なのだろう、何が出来るアートなんだろうと疑問に思っているひとが、集まってくださればと思っています。今回、応募してくださった方は是非、みなさんお越し下さい。「なぜ、私を選ばなかった!」と訴えてくださって結構です。まさに、そういう具体的で個別的なことから話していきたいと思っています。詳細は、GUDPのブログにて、発表しています。よろしくお願いします。



黒川直樹「黒鳥グラジュアル」(第二席:大谷)(4)

2008年12月17日 | DIRECT CONTACT
【この文章は、黒川直樹「黒鳥グラジュアル」(第二席:大谷)(2)のエントリーから(3)(4)と続けてお読み下さい。】

「えっと、俺ら、ってスンマセン静かに見てらっしゃったのでもしかしてこんな話しかけたりしたらご迷惑ですよね、あ、そうですか、よかった、でも集中したかったらすぐ止めるので仰ってください、あの、それでここで初めて、俺ら、彼らと、彼らが演じるなにかを見てるんスよね。それなのに、これまで見たことなかったはずなのに、もう、ここで、始まって四十五分くらい経つとはいえ俺はもう、もうなにか見たことを見て感じたことをコッキにしようとしている」
 エエ、ソウデスネ。
 「いや、俺がまだ間奏なんか聴きたくないんだって引証なんか押さないんだって、そうやってストイックにいるってことじゃなくって、もちろん禁欲としてじゃなくったって時間割いて確かめてくしかないって気はしてるんだけど、そうそう、一つ一つっス、目の前にあること、いま起きてること、これから起きていきそうなこと、それから、ウチから月島まで出てそこから歩いて来たところから、たぶんこれを見終えてそれで駅まで歩いてそこからウチに帰ってからのことまでもを、ここに座りながら一歩引く感じで見渡して、これからだってそうやって感じ得たことを反芻していくつもりではいるし、俺ははそうやってこれまでもやってきたんスけど、だけどそれで、あ、もしかしたらいまここで試されてるのって、ひょっとした彼ら彼女らに晒されつつあるのって、まさにそういった観衆なんじゃないか」
 エエ、ソウデスネ。
 「ということはもしかしたら我々は常に見てきたんじゃないのか、そうでありながら見てないことにしてきたんじゃないか?わざわざ丘をゆき海を超え川を遡って繁みに踏み入る必要など全くなくって、いつだって俺らはここに繰り広げられているどれもこれもをいつだって目の当たりにしてきたのではないか、だとしたら参条は始まりに空に粒か、役者の肌に汗や屑、ときおりの呻きに身震いと荒い息、そのうち粒が瞳のように見えたかと思いきや、見つめ合うこと疎まなければあとはペンとカメラさえあったらそれで澄むのだからと、暁には波紋だけが裸にした透明、それだってああして汚してしまった、じゃあ、どうやってせめて記憶にだけは留めておけるかっていう、今じゃ観衆そのものが着弾寸前の爆弾っスよ、いや、そっか、もしかしたら六十年前にはこうやって神体が微塵になった」という終りの数行は口に含んだまま「だっておそらく三回くらい噛み砕いて撒いた神体を沼に見ようとしたところで、翼をひろげたコッキの影絵が俺の黙視を遮るんスよ、そもそも、おかしいんスよ、ここに座ってたら視界が広がってきてるってわかってんのに、やべー、なんでなんスかね、見えなくなってきてるとしたら」
 エエ、ソウデスネ。
 「それってダメかもって」

   役者
          その足裏のチリ
     それはおそらく
     昨日の舞台にはなかった
   ひずみ

   啓示を得たんだろうか
       意思でないようにと
     意図された彼らであろうに
       その足裏にさらに偶然の付着か

   いつもそうやって逸れてくよ
     だってそうでしか
    まあ、いいけどね
       終わりまでも
     言わせてくれないか

    言いたいことなんかあるの
      言いたいこと、じゃない
   
   ああ、そうか、そうかもしれない

     言いたいことでなく
     行きたいところはあって
    そのためにはね
      そうだね
   言葉ではそこまで
   辿り着けないのだとしたら
      言葉でないものでしか
   見つけられないこと
    あるとしたら

   ここに封じられない
      とてもじゃないが捉え切れない
    でも封じられたものを
    解けるとすれば

   わさっ

      あ、動いた
    なんだろう

   懐かしい
     陽だまりみたいな
         血だまりの感じ
   付け根かな
   
   舞台では
    女「くくくくくく」
    (あきれ果てた笑いのよう。希望がない)

        その近く、はいつくばる男の役者

    そんなことしたらいけなかったんだ
   けど

   わたし、いけないことから生まれた

 「見えなくなってるんじゃないの」
 妨げられていて、営みでも瞼でもない何かに、それで手前から、近いところから、どんどん霞んでくるのでしょうか。
 「ほら、やっぱりじゃない。見たことないはずのものだったんだから、君はそんなに素早くなにか口にすること、できるはずないのよ」
 そうかもしれない。今こうして目の当たりにしてるこれは僕がいままで見つけることできずにいた真諦かもしれない。
 「これまで、やってきたじゃないの。深いところに届けなくったって、あなた待って、嘴、そうやって浮かび上がるまで、待っていたじゃない」
 千切っては捨て、千切っては棄て、契っては棄ててきて、気づけば辺りが繁みでした。とにかくなにかしなければって鼻を利かせてみたけれど、フロアには錯乱しているように感じられてた役者の立ち位置と身構えに微妙なバランスが見とれ、それがこの時は左から右へなだらかな山型だったので、私はそこで肩をシーソーのように静かに傾けて、その上をするすると転がっていくにつれ「鼻でなく耳を頼ればよかった」と悔いましたので、嘴、水面にゆらいで、そういるだけだって水中じゃ両足が忙しくってさ、たた、ゆらゆらしていたんでもなかったんだけれどねって転げ落ちてから分かったんだ、やっぱり彼らみたく上手には回れなかったよ。欠けた意思だからこそ復讐を思わせる神体よ。

   男が椅子を弾き
     男がその男に触れる

 「掻き分けたとき茨で肘を傷つけたのって何時頃だったか覚えてるかな」
 ええと、もしかしたら、コンクリートの床に裸足が冷たくはありませんか、きき耳をたてるでなく、くくられた翼のまま漕ぎはじめるほうが貴方に障らないのではないかしらと、君の汗かく無言と同じだけの沈黙で追い、だけれどもしかしたら裸足にとって冷たいそれがコンクリートかもしれませんねと、一歩、二歩、三歩目からさきは人の歩みとして眺められてしまうことを識っている役者に見蕩れることもありましょうし。
 「ほら、法螺」
 そのように遠目のまま見つめた頃もありました。それに、日暮れみたく心の沈む、果てない夜更けに震える睦みというものもまたありまして。
 「法螺、ホラ、ごらん」
 汚れぬようにと逃がした心の白壁なら、どれだけ仕切られようとこの身の空くまで受け入れますけれど、
 「上手から下手へと移ろうばかりの進退でありますか」
 はざま、むざむざと、ぶざま、街路に軋む物音に、屠ったはずの私が撥ねられたのです。だから君は茶系のパンツで上半身を露にね、そうしたらコンクリートにサバンナが見えるようなるし、君の肌が褐色でよかったよ、ほんとうだ、雨のよく沁みる土であるよ。鍛え抜かれた筋肉はところどころマチズムの手触り。昔々この繁みでね、音の網にかけられた息吹があった、終わりまで語られることなかった告別を聞きなおすためにはどうしたらいいだろうと地の襞まで探し巡るうち羽ばたきを忘れてしまった音楽は今じゃ音になってしまったよ、うん、よかったよね、それであったって響き、乾いた土は地平の鱗、僕はアフリカに出かけたことがない。ところでちょっとだけ舐めてみてもよろしいか。焦げた舌先が熱り、その代わりといってはなんだけれど君には陽の汗をあげよう、そうか、あの子のこと、まだ忘れられていないんだね。でも、それならば、なぜ。
 「君はあの角を右に曲がったりした」
 そこに僕の家があると知っていたのだろうってそんなこと今になって告げるズルを聞かす記録的なレコード、ギリギリ歯軋りと役者になぎ倒されるパイプ椅子とのコード、おそらく四つの尾骶骨から延び壁際をつたって天井を超え夜を通じ記録につながっているコード、もうありったけ煩わしくって蹴破る蓄音機にどこまでも回るレコード。
 「あ。うるさかった?」
 いいよ。すこし。声、ちいさくして。
 「うん」
 もうちょっとだから。
 「肥、地位、策士の手、見て」
 そうね、きっと、誰しもがそうなんだわ。

   舞台で
      椅子にななめに腰掛けた女
         歌、はじめる

   「買ったばっかりのTシャツに穴があく

   ヤツがあ
   ロケット花火を打ち込んでたかって

   おかえしに
   (パイプ椅子を蹴るギャンギャン男)

   一束まるごと

   線香花火に火をつけて

   ビーだまくらいの
   火の玉を放ち

   起こしてやる
   (ガン、ギャンギャ)

   少年花火

   夏の
   夜、夏

   少年花火

   夏の(ギャンギャン椅子をギャン暴れる男)夜

   腹が立ったからといって人を傷つけては
   (ガガンギャ)
   いけないよ
   でもなにも(ガンンギャガッ)
   へらへら笑っている僕よりはギャンッギャギャぼうなんだ
   (パイプ椅子をギャンギャンけり倒す男)

   たとえば
   ここをギャギャガンギャン曲がらず

   走りぬギュアけていガンギャくバイクの少年は

   恥ずかしながら
   いつまで経っても、ぼくの
   (パイプ椅子をガンガン蹴るギャン男と床に倒れてる男)
   ヒーローなんだ」

     女、うた、終わる

   いいや終わったのか

     ここで聞き取れた言葉
   これまで口にされることなかった言葉
   
     響き
   歌として

    歌として?
    
   どうだろうね
    どこからが会話で
       誰かと誰かはたぶんそれで繋がれて

   繋がる?繁る?

     どこかで誰かがそれを聞いていて
    歌われたとして
      歌としてみるけれど

     それのどこからが?
     それのどこからを?

   どうして歌といえるの
         ねえ、いまのなあに?
       うん
       いまどこ?

    うん、もうちょっとだから

   行って
   待ってて

   待っていて

     ああ、そうだったよ
  
    ふわぁ、ふさっ

  まるまるのだ

 もうみんな一緒に泥沼に沈めちゃおうかなと、だって見えないしいいじゃないねと、思ってもいないこと口にするかわり身振りを揺らす女の足踏み、そこは南、三つの白波、ひとりはどこにいったんですか?ああ、弓なりの男、蛙とびの女、舞台上に視線は交わらず、睦んだ頃だってあったんです、男も女もないんじゃない?そうね、今頃はあのひと、どこかできっと毛繕いしていて、揺らした身振りに揺さぶられる女、もうひとりはどこいった?もちろん覚えてるよ、君が口ずさんだフォークはいま猪の肉に碑、そうじゃなければ新体なんかなかったのかもしれないしね、ああ、どこへいくの、見つかったっていうの、そうでないならば、また新しい所へ届くかな、いつか出した手紙のこと思い出したりしてね、宛名は覚えてないけれど、もちろん忘れてはないの、そうね、みんなそうだった、見えない底、抜け落ちた羽、いつか届くかもしれないわ、忘れずにね、ここに来たこと、ここから飛んでいくということ、あなたがかつてここに草を食んだこと、露のような汗をかいたこと、もがくなら水中がよかったね、浚われたから晒した、いつからだったろう、泳ぐだけじゃだめだったから「いつか撃つから、必ずと、それは約束だから」ねえ、そのときまで待っていられるかな、沈まずにここに居られるかな、どうですか、させてくれますか?と沈黙を解いたところでなにも届かないよだって宛名を記した言の葉なら枯れた、いつかふたりで聞けるとしたら、絶滅した鸚鵡だけが囀ることできたという愛のよろこび、ところで嘴はいつか骨になるのかしら、それとも、ああ、そうなの、そうだったのね、ううん大丈夫よ、それに、書けなくなるまでの君がそうしていたように印を矩する「わたし」であるのだから。

   取っ組み合う男
      ふたり男
   たち
         戦う
     格闘する
       組み合う

   歌の
    女のそばで
     一人の女
     二人の男

    フロアに二人の男
            倒れ、倒され
     ひとりづついなくなってく

       息切れ
         痺れ

     途切れ

     舞台に、喘ぎ
     椅子をなぎ倒した男も

   午後九時三分

    「大橋可也&ダンサーズ
            パフォーマンス
         ブラックスワン」

     ここを捨てるように
        車の音がして

    男は出てく
   
              出て行く
            押される
          導かれる

        ひかれる

      こっち?

    懐かしい

   ぬくい
   
 ここは白くて窓をあければ風があって、そろそろ秋だからわたし半そでを仕舞い長そでを備え、君はどこかに失くした懐中時計に狽えるんだ、ううん。でもいいの、そんなのね、啼きかたなんかね、アァ、クアなんだってカアカいいの啼きかたなんかァクアただこうして鳴いているクカァそれだけクワなのアクアァクァよ、それだけとしてのクイアであるよ。

夜闇を眠る形影も、羽ばたきその投影も、鎮める沼に湖の沈み、どれも一様にみな黒鳥よ。

   バリバリッ、ふふわぁ。

 くぁ。






黒川直樹「黒鳥グラジュアル」(第二席:大谷)(3)

2008年12月17日 | DIRECT CONTACT
 「嘘じゃありません。仕掛けたのは女です」
 それから、ちょっとちょっと、聞いてくれませんかね、わたしたちはみんな裸だったんですよ、さいしょ、それで、うろうろしている黄色を哂ったりしたらいけないじゃないですか、うろたえることなくこの日の衣装を身につけてメイクをするとようやくいつもの私になれた気がしたので旋回してビルの表に向かうとエスカレーターの前に大きな彫像のオブジェがあることは想像していなかった。つまり、私はまだ、神体を見つけてはいなかった。
 「今だったら。そう言いたいと」
 そうですね。今なら分からない事があるということも判りますけれど、進みましょう。「進退とはそうして極まっていくようですし」という啓示的な小言だって枯れ散った言の葉に走り書きすれば叱られぬうち沈めてしまえる。
 「そこ、何処か教えてちょうだい」
 いいよ、ここでなら、よいかもしれない風邪ひくほど寒くもないしね、ただね「呼びかけたので応える」というフレーズを日本語的に間違いとする現代であると真諦せず、呼び応じるなにものかがそこにあるのだからと確かめてみれば私にも分かることあるのかもしれないからね、うん、そうですね、喩えるなら神体がどこにあるかについて、楡、それが路傍の菱みたく私たちの浮き具になってくれないとしても、私は「繁みに入ったでしょう」みたく振り返ればなんとでも言えてしまうよ、はじめから、コッキ、なかったのかもしれないし、ひねってみて臭ったらどこかから漏れているんだ。

   飛び跳ねる女
        あかりが照る
      舞台をうろうろする女
    止まって、まっすぐ遠くを見る

   跳ねる
   跳ねる

      そうやって舞台上を回る女

     ぜいぜい喘ぐ
         男と女

    ・女「ワ」「オー」
   (「ワ」を強く。「オ」は「ワ」より少し小さく)
    ・男「ワ」
   (女の「ワ」よりはっきりと、短く)

       一人の男
                     床に
                   字を書く
            振り
     そのとき別の男
   パイプ椅子に
         絡みついた

 あなたの手先とわたしの敵、その憂鬱。
 「だけど俺、飛んでるの見つけたら必ず撃つから」
 それを信じていたのかもしれない。信じようとしていただけかもしれない。どちらにせよ、わたしはそのときにもう繁みにあって、だからエスカレーターの下にあんな大きなそれも光るオブジェがあるなんてこと知れるはずもなくって、もちろんそこにあるならばそれを知りたかったよ。いつか飛べるかもしれないならそれはじゃあいつ頃なのかって知ろうとしてここまで泳いでだって来て、だけど、だからって明日を歩くための足だとか私の指先の血管を守るためのこの爪だとか喜びに弾けさせる跳躍のための筋肉であるということの、それぞれを、あらためて考えてみたりもせず、わたしはただ君が「いつか撃つから」って話してくれた「こと」ではなく、あの時のそれ丸ごとを、あなたが私を楽にさせようと思っていること感じさせる時間そのすべてを私は信じていたつもり、つもり、つもりに積もった塵を掃き、掃いた塵がこんどわたしに手先を奮わせるから敵ったらいつまでもいなくならないよ。
 そうね、どうして?わたしたち、似たもの同士。
 撒かれた餌がいつしか火種として鳥でなく同志でなく氷嚢を散らすようになる家庭を敵というのでしたら、僕はいつまでも過程、貴様が回した腕を風景としては許せないでしょうから、それじゃ苦しさにいつか堪らなくなって飛ぶよりも沈むそれでいいと諦めてしまいかねないからさ、ともかくまず一度「ねえ」と呼びかけ、そしてさらに応じてもらいたければ私はまず君の名を口にして、それから耳、澄まそうと思ったのです、だってどれだけ濁っていたんだとしたってさあ、私そんなに嫌いじゃないし、ふふ、隠したって見つけられちゃいがちじゃないそういうことって、それに、ナントナクワカルノヨネ、どちらにせよ、もうそこに繁みがあって、君、そこにいるしか他にやりよう無かったんじゃないのかなって。
 「ところが、魚が海水から飛び撥ねるしらべ、君はそこで胸をおどらせる私に忍んで」
 ええ。それから掴んで落すつもりだった。でも、ここの、結びのところ口に含んでおいて、二三度噛みしめてから、落とすつもりだった君に代えて終わりまで沼に吐き出した、から、今でもどろどろしているから底だって見えやしないから、どこまで潜ったらいいかだってわからないけどね、ところが、貴方には、わかったんでしょう、伝わったのでしょう、わかってたのでしょう、それならばいいじゃない心構えってね、放たれるのと、逃げ出すのと、鼻垂れるのとじゃ、ぜんぜん違うのよ。

   舞台に
     便器に水が流れる音
          「流れる」
   そこにたった一文字
      「さ」
        を組み込めば
     「流される」
     になるということ

    流れていかずに
   反復を続ける彼ら
    もちろん差異はあって
       運動が
     差異が差異でなくなるまで
      反復され
    存在的な距離が近づくとき
      あらたに差異が
     つくられる
      あらたな差異に
         あらたな彼らが
      つくられる
   
   オブジェ
 
          椅子に巻きついている男
      彼はもう転がってないよ
          転がり椅子に巻きついた
       彼はいまそこに居ない

      座りっぱなしの女
    女の臀は
      椅子の天板
      接している
           女は膝に
             手を
             添え
   前方を見つめる

    というのは偏った認識であると
    伸ばされた女の
    背筋が
    教える
   
   気配がない

       彼ら
     そこにいるのに
    触れようとすればそれだって
    叶う
     のに

   そこに居ない

   気配がない

      「そんなもの失くしなさい」
   意思を感じさせたらいけない?

     いけないの?

   ううん、そうじゃないかもしれない

 「けど。危ないところだった」
 だから?
 だから、って。それはちょっと、あんまりじゃない。
 「そうは言ったって、呼びかけたから応じたっていうのは、やっぱりおかしいよ。たとえば進退というものがあるとして、僕たちはそのどちらかにしか爪先を向けられない」
 どちらかって、なによ。
 右を向けば左に背だろ。
 「上手、やって来た。寄り添い合うように、ふたり」
 そう伝えると踵を返し、反対側の白壁に倣って心を空けたけれど、事実、そこで私は君に、そうじゃないこと、なんだか、わかりきったことをわざわざ言うねってことだったんだよ、白け、誘蛾灯、粉雪のように集まれば焦げる蛾の、ね、わかってもらいたいことについては、君、想像すらしてくれなくってだって私の目を見つめてくれるのって私のウブを詰るときばっかりでね、そういうのって自分じゃわからないものだったりするんだよね、もういいよ「呼びかけたから応じた」んじゃなかったんだって、これじゃ可笑しな日本語になってしまうものだってね、わかる、だけど始めから考えてみたらさ「呼びかけられたから応じた」と言っても「呼びかけたから応じてもらえた」と言い直すにしても、私には君があって、君には私がなかったよね。一昨日に甘噛みされたつま先は、もうマニキュアで隠した。その目隠し剥がせれば見られるけれどね、蔦みたくパイプ椅子に血管をまもる肉と皮膚を絡みつけたりして、後手に縛られた沈黙の君に雄たけびでない別の何かが出来るかしら。
 私は手にした鋼鉄を筒状にし、その穴に忍ばせた真諦を彼のこめかみに当てる。
 もうちょっとだけでも。感じてくれてたらなあ。

   いや、そうであるはずである

    ・わたしたちはここにいる
    ・わたしたちはそこにいた

     わたしはここ
      あなたはそっち
     わたしとあなた
       そっちとこっち

    そういった兆し

   抗おうと
      してるのではないか
     そう見せるのは
       ひとの輪郭か
      そうである限り読みとらせてしまうか
       凹凸
       おうとつ
       おうおう、とうとう

   「逃げ出すことができないか」

       生きている限りそうか

              もう許そうか
   
      そのまえに
      近づいてくる
      砂嵐のような
      音だ

     蝗?
     その襲来?

    舞台に轟く

   男が一人舞台から出てった

 ためらいより先にやってきたのは意思の欠けた存在だった。うん、あれは左手の入口からだったからね、だからといって進退だけに極まるのかというとそうではない猪であるのだから、そこに意思が感じられないないからといってひょっとしたら石に躓くかもしれず、ということはもしかすると意思でない猪であること読みとらせる市史であるならば、しかし所はコンクリートのフロア、いまでは志士ですらある役者の数は目の前に四人として数えられるけれど、そもそも彼らは、数として意図された擁立なのだろうか、わたしは彼らを彼らとして捉えていいのだろうか、彼らは彼らかもしれないけれど、それは四人の彼らではないのかもしれないじゃない。

   菓子袋を開けた女
         ボリボリ
     物が噛み砕かれる
       無表情で貪る女

         客席  真ん中 通路を進む

    男はまだ椅子と一体

       腰掛けの女が
    他の椅子のこと
     三つの空白とする

   外の音、行き交う車に外が知らされて
 
     ここどこだろう
     外?
     「内と外」の外としか言えないわ

                  底?
             そこってどこ?

    「どこだろう」

       わかんないから
          行くしかない

    かもしれないよね

   パリパリ
   油であげられたジャガイモ

     ・女に噛み砕かれる
     ・噛んで喰らう女

           椅子に浅く腰掛け
              両あし投げ出した

     いま、四の意味は?

      ・四人の役者
      ・四つの椅子
      ・内と外
      ・街路の喧騒

   立ち上がる女
      壁際にうなだれてるのは男のほう
               うなだれの男
    しゃんとして

      座る
      立つ
      座る
      立つ座る
      立つ座る立つ
      座る
      立つ

    なんども繰り返し

   うなだれてた男
        いまじゃ
      うなだれは壁際に置き棄てて
         転がりながら
      舞台から
               消えてった

   あ、出てった

                   床
          食べ終えられた菓子袋

      車の音
         エンジンの音

   ここでいっぺんに明かりが消える

 どこまで触れられているのだろうか、なにか聞き取れているだろうか、嗅ぎ分けられていないとしたら、それは彼らと彼らの語りかけと彼らに作用するありありのそのどことどこを混ぜ合わせてしまっているからなんだろうか、野菜と辞書にたっぷりの油、見つけられないうちは私だって見つけられずに居られるからいいとするそれはふしだらか、澄めばよかった、そうしたらどれくらい潜ればいいかわかった、水中じゃ息をよす代わりにもう一度だけでいいから数を挙げさせてはくれないか、そのために躓いてもらいたく疼くのだ、君は彼か、それとも彼は彼らかい。
 「もう。誰とも繋がないと決めた手の平なら、どれだけ柔らかくったって神体と呼ぶべきじゃないのかもしれないわ」
 彼らは君じゃないのか、いや、そうだ、そうじゃありませんか機能である真諦であるとしたらそれはまやかしではありませんか。

   ヴァララララララああヘリか
     ヘリだ
     プロペラ
   旋
   廻
   す
   る

   ヴィララララアアララ
   爆音が網を張る

   空が囲いになった

    役者に椅子
       倒された

   羽化した
      割れた卵
         棄てられた
            蛹のよう

      女、舞台奥に進み、立ち止まり
                振り向く
      斜めの肩の支える
            見返りの面

   右から役者
      このとき舞台に

        ・うつ伏せ
      ・座位
   ・直立
    ・中腰

    紙飛行機の飛跡のような線
     舞台上に重力が作用していると知らす
   
   でも今は穏やかでない
      ヴィララララアアララ
     つづく轟音ィラララ
    みみ、つんざく
   ちりぢりに

   ヘリ
    ヘリ
      ヴァララララララ
      ヘリ
    ヘリ

    逆巻かれる
   先にあった紙飛行機の
          曲線は
      水
      平
      に
      分
      け
      断
      た
      れ
      た

   ヘリ   ヘリ
     ヘリヴィララララアアララ
   ヘリ、ヘリ
   ァィラララヴィヴィヴィアアララ
      ヘリ
    ヘリ

                倒れた女
              斜めに廻る男
      椅子に座る男
      ァィヴィヴィヴィアアララ
    もうひとりの女
     ィラヴィヴィヴィアラ

   もう飛んでってくれないかな

   ヘリ
    ヴィヴィヴア
   ヘリ、ヘリ
     ァィアアララ
      ヘリ、ヘリ
   ヘリァィヴィアアララ
    ヘリ
   
   もう充分燃やしたんじゃないかな

     廻った?
        回された
         倒されるように倒れたから
            きっと倒されたんだ

   内も外も
    どちらもカタキ
    ァィヴィヴ
   ヘリ、ヘリ、ヘリ、ヘリ
    アアララ

       あんな姿勢することってある?
    だってときどき彼ら人じゃない
      人じゃないなら「彼ら」と呼べない

   そう
     だからフォルムがいる
   そう
     フィルムがいる

   照明は暗転~点灯へ
     ガヴィガヴィィアアラィィ

   ヘリ、ヘリ
   そしてサイレン



   轟音去って




   「世界は醒めましたか」

    ねえ、いまどの辺りなの
    ん、ちょっと待ってて

     もし今ここに
        なにか
       過ぎてったのならば
     そうだったんだとしたらさ
      それってなんだったんだろう 

    過ぎてったものって

 でもね、もう見つかってしまったって、さっき信号が届いた、だからそろそろ此処も焼き払われてしまうから急ぎで伝えなきゃならないことが悲しいのだけれど、手短にね、閉じた手の平は無理にひろげなくていいから、これだけは聞いていってね、あのね、もしいますぐ応えてもらえなかったとしても、それでも諦めずに呼ぶのよ、それとね、茨がどれだけ鋭い棘であったって傷になるくらい大丈夫、でも、茨をその身をくくる縄にしてしまうのも、また、あなた自身のコッキなの。だから繁みは屈んで進むこと。さもなくば「振り回される」そうでなくても「退かされる」ことはもう知れている進退でしょうけれど、飛ぶ、撥ねる、飛ばされれる、撥ねさせられる、飛び跳ねた、飛び跳ねさせられたと伝わってきた、飛んだ跳ねた、跳ねてから降りてこんどは飛ぶ、跳ぶんだ、飛ぶんだ、跳ぶんだからって羽で飛ぶ、跳ねて飛ぶ、飛んで跳ねた、飛び跳ねて富んだ、富んで刎ねられたので飛んだ、富んだら羽、羽で飛んだら撥ねられた、撥ねた、飛べずに跳んだ、挑んだ、ほら聞こえるでしょ戦闘機よラヴァリヴァリアリアリリリリヴァリもう時間がリヴァリリヴァリヴァ無いのねヴァリア会えなくなっても出会えたヴァリヴァ二人のリアア記憶にはいつだって会えるからァリアリアだから忘れないヴァヴァリアリヴァリアうちに言うギャンギャギャガガンわ。
 「ここは湖じゃないの」
 走りなさい、撥ねられるまでなら貴方にだってゆける。そのために紙じゃなく音に倣いなさい。記譜すればそれが自由よ。

   誰かが動き、誰かが止まる
          倒れて立ち、立って倒れる
    でもその役者の動きの繰り返しは
     「また」を
     感じさせないのだ

   (ここまでのこれは描写か?)
   (それとも状況か?)
   
        あるようでなさそうな物語

 あくび、おめおめと、灯火は儚き、破ったビニールに油菓子を頬張る演者が舞台から客席に直線を引く、それは作品の流れにとって膠であるしィィィヴイイヴイイィヴィィィィンとエンジン音が消え跡に倒れし女の首裏に汗粒、ほら、苔むした姿態を隠す礼服が桟橋に下げ墨、椅子の男、触れず、振り向きもせず、まだ触れず。芳しき鬼火、おめおめと、はくび。

   彼らは動きの最中にいる
     また動きそれ自体でもあって
    どちらでもあるときがある
      なんにせよ
       彼らはどれだけもがいても
        そうしたくても外との繋がりから
    離れられないでいるんじゃないのか

   離れないからこその
     ではないか

 「息を静めて遠くを眺めてごらん。そうしたら君が最も思い出したくない記憶につきあたるから、そこを右に曲がってちょっと歩くと僕の家があるので、君、息を潜めて近くを均したら服を脱いでから躊躇いなさい」
 こうして、演じ手として身振りするように見える人間がひとり、明日にしか進むことのできない血と肉と骨の分節をもって、地面とも地平とも地上ともちがう平らな面に「己」の字を与えることになりました。するとどうでしょう。演じ手でない時も過ごしているかもわからない女を輪郭させることで宙を宙たらしめる人間がひとりここに、平らな面から「己」の文字の報礼として「乙」を受け取るかそれとも拒み抗うか選べるようになりました。
 「見て欲しい、ううん、見て欲しくない、どちらでもない」
 上体を隙間なく包む黒い衣の金糸の繍が、宙の故に彼女の弧をしならせます。

   彼らの動きが動いてる
   (いいやそうでない)
     彼らが動きは
      動きに動かされてのことでもあり
    どこへも進まないときは
   中空に
   もがき
     もがくことで彼らはなにかであり
          彼らでありながら
     なにかであり
       彼らでもなにかでもなく
     別のなにものかを
    読ませる
   何か
     であることも
         またあり
      読みとらせる何かを
   越えた
    なにかそのものとしての
         手触りを訴えもする

    訴えられた私は
       視覚の機会を得る
      私は世界に対する視覚を
          こうして彼らから
   彼らから視覚の資格を授かる
  
   そのことを彼らは自覚しているだろうか

   彼らは
     舞台上にいる時間には
       どこからも
       なにからも
   一切を借りない

   すくなくとも

      そうであろうと
        放たれら彼らの心が
      白壁の向こうに

   晒されている

   午後八時四十二分
      そのように見えるのだ

    もしかするとそれら
      野晒し 彼ら 白い心は

   かつて

   逃がされたのかもしれないが

   それは

   盗まれたものかもしれないが

黒川直樹「黒鳥グラジュアル」(第二席:大谷)(2)

2008年12月17日 | DIRECT CONTACT
Parallelizm to Black Swan
「黒鳥グラジュアル」  黒川直樹
 

「くぁ、ふふわぁ、バリバリって、あああ、いくらかまだ眠いッス昨日ちょっと夜更かしがっていうか大丈夫です、ちゃんとパリパリってこうして出てきたっスよ、飛んで?いやーそれできたら楽ですけどココまでは電車で、ええ、ってあれあれなんだよウェブに載ってた入口と違っちゃってるじゃないッスか、しかも張り紙されてるこの入口ってひょっとしてココから大回りして反対側じゃーんマッタクどーなんってんのよーしかもなんかアッチに駐車してるワゴンの車内で白人のグループがこっち見ながらゲラゲラやってんだけどおいおいオメーらなんか注射してんのかよなに笑ってんだよコンニャロウって、ああまあとにかく歩こうか、だから今晩はそんなに暑くなくってよかったです、暑かったらいくら夜の八時前だからって月島からここまで歩くのだってけっこうきつかったし夏の埋立地って海のに匂いするんですよ、会場の入口が違ってたって知ったとき、水掻きでもあれば、滑るように、ひとりでだって、進めたかもしれないし、入口におれの姿を見つけてくれた方がいたんです、でもそうですね、空はもう諦めてる、だからせめて湖に招待したかったな、あなた、そのためには海を渡らなければならないとそれまでは思い込んでいた、待ってくれてたんだね、エレベーター、乗り込んだらそこにもう六人くらい乗っていて、ああスミマセンなんか待たせちゃったりして、それで、八月の中ごろってなにしてますか、あ、身構えないでくださいね、もちろん恋人としてとか急にそういうんじゃなくって、ええ、部屋だってふたつ取ろうと思っているしね、うん、そのころなら忘れていた歌だって思い出せているかもしれないし、今ここから離れるって、ああ、そうだよね、はまだそこまでは考えられていないって、うん、聞いていた、耳を澄ませたのはそのためだったしね、空に飢えなければそれなりにやっていける、でも僕は君を湖畔に招きたく思っていて、そうか最終日なんですね、今夜、イベントの終わりだと集客よいのかもしれないです、会場は二階、あ、どうもありがとうございます、すみませんちょっと待たせてしまって」

   会場はギャラリー
    「テンポラリー コンテンポラリー」
      中央区月島
   倉庫の二階

 「そうですよね、開始二十分前じゃもう舞台近くの席は埋まってるかもしれないので少し離れたところから見ることになっても仕方ないですね、こんばんは、わたくし批評文エントリー者の黒川直樹と申します、頂戴しているナンバーは9です、はい、はい、そうでした、乗換えで思ったよ時間かかってしまったんです、便利なのはいいんですけど駅の中にもうひとつ駅があったりして地下鉄ってわかりにくかったりして、はい、そうですエントリーナンバー9なのでこの上に6を付ければそうなりますね、4と6だとその反対で、ええ、そこまでの違いがあるかとか、ほんとうに違うのかとか、別々の事柄としてやっつけてしまっていいかっていうことを、見に来た、うん、そういうところもあるかもしれない、黒川君は今日はそのまま書くのかな、いや、どうかなまだ自分でも分からないんですけど準備はしてきたんです、そっかそっか、けどたぶん、こうして9からはじまったから、このまま最後から着いてくことになるのかなってことですよね、追い掛けてここまで来た、季節だったらいつ頃がいいんだろう、昼よりは夜がいい、そうなれば私だけ可笑しくなくって誰もみんな一緒だしね、いちばん好きなのは秋から冬にかけて、そうそう、あの頃がいいのだけれど私はここに閉じ込められるようにしてさあ、うん、いつまでも悔いてばっかりじゃね、とはいえ、そうなっちゃうんだよね気を張ってないと、ここまでは、なんとか大丈夫かな、とりあえず手首を回して深呼吸してみるよ、作品がはじまるまでのウォームアップみたいなもの」
   
   今夜は
     九月十一日
    あれから七年目の

 「ええ、これからです、紙と筆、インクはたっぷり沁み込ませてきました、あはは、そうでした、奇しくも名前が黒川ッス、あ、どうもご無沙汰してます、忙しそうッスね、挨拶だけしか出来ないッスねーいくつか本読ませてもらって聞かせてもらいたいことが沢山できたので残念ですけれど、こないだは有難うございました、あの帯び文に痺れたっす、今夜は赤のTシャツに赤のシューズですね、このギャラリーはあちこちみんな白ですね、そういえばおれのナンバーって9だったんですよ、そうそう、ははは、繁みッスよマジおかしいんスけどホントはここにパソコン持ってきて、それで、パフォーマンスを追いたかった、でもそんなことやったら作品におかしなテンション持ち込んじゃうんじゃないかとか、観に来てる方におれのパソコンのモニタの明かりが目障りかなとかですね、あとは、そうだな、追いかけたら逃げられてしまうんじゃないか、じゃあそうか、逃げてもらいたければ追いかければいいのか、なんてこと、あれこれ考えてしまって、そうやって思い耽るんならせっかく目の当たりに出来るパフォーマンスについて集中したらいいんじゃないかなって、ええ、だから今夜はひさしぶり、囲という籠、湖畔に落ちていた羽、そうですね、9だからあと6があればよかったのかもしれないし、4でなければならないときだってあるんじゃないか、ううん、沁みたならいつか枯れるでしょう、君に連れてってもらったあの古沼の底みたいになってしまっているよ、今頃どうしているのかな、私の過ごすこの部屋も大窓ひとつあるだけであとはどこもかしこも翻る仕切りのカーテンですらも白だよ、見せたいな、見せたかったな、そして見つけてもらいかったんだなっていうところからきっと始まるのでしょう、ああ、会場が静まってきました、予感と期待それと幾らかの畏怖にギャラリーは気体、今夜はとりあえず走り書きだけはやるつもりです、午後八時四分、月島からここまでは、ええ、歩きました」

   大橋可也&ダンサーズ
      パフォーマンス

 「あ、そうそう黒川さん聞いてくれますか、なんかビルのエントランスのとこに駐車場あってそこに停まってたワゴンに白人が三人載ってたんですけど、ヤツらにすげー笑われちゃって、うん、でもここまで泳いできた、いえ、今日はもう夜も更けていく時刻ですし、だから明るくも澄んでもないから、どちらかというと、ええ、そうですね、みんな一緒です、撃ち落とされないために夜を選ぶことがあった、見ること頼りにしてると見落としてしまうときってあるんですよ、もう空は諦めました、だからここにいる、もうすぐ舞台が始まる、これが三度目でこのシリーズ最後のライブ、うん、大橋可也&ダンサーズをライブで観るのって初めてだから、どんな感じか楽しみです走り書き始めます、あと、やっぱり此処ってそうなんじゃないかって、コンクリートと白壁と黒い梁の空間だけど、きっと時間が経つにしたがって、そうなってくんじゃないのかって、それに、あれじゃないですか、灯りがなければそこって、そこって何処であったって、明るさがなかったら、そこにある誰しもがみな一様にって、あ、そうですね、はじまるみたい、薄暗くなってく」

   ブラックスワン開演

 沈む沼、髄が管。
 また堕ちたらもうそれからは鳴けぬからと諦めた、あのときの羽ばたき何処いってしまったの。耳を澄ます。ええ。源は濁るわ。沁みてた印矩が切れたからといって、水掻き、それくらいあったならね、意思を欠く谷間じゃ憎しみの対象にならないし、こっこっこ、滑稽、コケーッコッコ。
 あ、よかった。
 あの子はまだ、歌えるみたいね。

   溶けない厚い氷
           そのような舞台の
    四方の壁

 はじめ、音も音楽も聞き取れないフロアは、でも、とても静か、もしかして生き物が息を潜めているのかもしれませんね、水掻きのある誰か、段々に敷かれた座席と抽象絵画のような四壁、午後八時七分、どこかに毒や罠がありますか。

         床

   ところどころに

         平
         置
         き
         さ
         れ
         た
         パ
         イ
         プ
         椅
         子

   数えで四つ

         床

 追わなければ逃げさせてあげられないじゃない、奈落のように吹き抜けの天井、逃げなければ追わせることさせてあげられない、その、黒から闇へのグラデーション。
 踏み入った。
 板状だったパイプ椅子を折るでも咥えるでもなく、そこに挟まるでもない貴方、あれ掴み組み立てたの貴方でしょう、今そこで、組み立てたように見えましたので、私はこれからなにかが始まるのかもしれないと予感しましたし「組み立てられた」とは、組み立てられようとしていたことと、やがて再び折り畳まれてしまうこととの兆しですから、あなたが上手、やってきて、私たちの座り並ぶフロアを初めての恋人のように緊張させたとき、私はこれから何かが終わっていくこと忘れたらいけないのだ、甘やかした未来に別れ、ところで繁みはそれでどこからが繁みか。
 離水の音。
 それだけ耳にしたところで、私には聞こえなかったよ、君、澄んでいるかそれとも濁りであるかどうか。

   午後八時十一分

    わたしたちはこうして
     眼差しを棄てる

      そういう黙視として
   われわれになる

  格子状に組み合わされた
      天井の黒い梁
   左の入口から男が入ってきた
     上下ベージュの衣服

 それが稀有でしたからもうそれだけだってよかった、それだけで澄めばよい沼だった、だってそれでみんな済んでしまう繁みかもしれなかったのだから、文脈より文法を重んじるというかそうでないものは間違いとして哂われてしまう駐車場というか、ワゴンでなく、バンでなく、白人の運転手に拠るでもなく、あそこになにを停めたらいいんだろうと惑わせる現代において「どう振る舞うべきですか」という息の根を、上手、いま現われた役者が懐に忍ばせた匕首があったとしたら、そいつに仕留めてもらえはしないだろうかと期待したからって髄を管にしちゃうだなんてね、誰の入れ知恵よ。

   つぎに現われたのは女
            両手
      そう思わせる
   その身振り

 いや、それはひとつの期待であり気体、組み立てられた椅子、組み臥された白猫がフッフと毛並みを荒げるの無視しながらいまでは二人の役者がフロアに並び立ち、誰もいなかった舞台だったのにね、まず一人、そして二人、組み立てられた椅子に腰掛けて振り返り見つめるその一人の裸足、パイプ椅子、入口のほうを見ればそこに意思の欠けたコッキである。

   男は床に激しくのたうつ

 沈まずに居るにしたって風が強くって木々のなかった夜の淵、そっと、そおっと、できるだけ柔らかく辿る月明かりのほころび、ほら、こおろぎよ、そこには音楽でなく音がありました。
 「耳が濁るよりはよいね」
 もう殻は爆ぜ塵になってしまったけれど、きよらかなよこしまに、きみ、いま湖面に、こぼれ落ちた時とおなじ丸みとして孤絶するのですか。
  
   それから男は直立
                舞台に響く
     役者の背景として挿れられる
                エンジン音
      それと
    空調の音

 見上げたら飲食店の看板に蔦がからまっていたのだから、もしかすると水面には照明だけでなく星月もまた明るかったかしら。手触りなくして実感を得ることはとても難しいよと、そう記した手紙をあなた、交わした約束を破るように千切りましたね。

   胴部を叩く女
      照明は
    小さな暖色系のライト
   それだけ
              ぼんやり
          浮かびあがる

   舞台
   
 私はふたつの瞳孔をカタキとして閉じるところからはじめてみれば目視と黙示のどちらを選ぶつもりかと迫られたような気持ちがして、すこし焦れたのです。ところが空を見ていると地を探れませんので、わたしは月島からホールまでマンホールがいくつあったか私にはわからなかったということはここで嘘なく言わなければいけないね。
 「はい。駅からは歩きでした」
 明日はそうするか決めかねているという表情で彼は言った。

   天井から
      白色のライト
     舞台に
                  注ぐ

   空の登場
   天の発見

   空間の拡張

       位置的な物差しとして
   上方の露呈

   闇を読ませる梁
          消えた

     まだ座られない
              はいずって
            パイプの椅子は

           それから
   飛び跳ねる
       男

 私は茶色の服にしました。わたしは黒。それらは身につけると他の誰かになった気にさせることがある。だから服を脱いだときにもひょっとしたら自分じゃない誰かになれるかもしれないと思うたび私は生ぬるいベッドに耽りたくなって困らせられちゃってヤぁねぇっていうほど嫌いじゃないのよ、むしろどちらかというと好きなほうだったりするし、月島までは電車でした。樹があって風がなかったらそこは別のどこかだったろうか。音のする音楽だってきっとあって、だけれど貴方は今日までそれを耳にしたことがなかったから嘘だってじょうずにつけなくて、それにウェブに載っていた入口からはフロアに上がれなかったのですって噂を隣り合った長髪の男性に小声で聞かせると、
 「あんたそこで一つ悪態を垂れ、駐車場に停まっていたバンにはしゃぐ三人の白人に哂われた」
 あれナんでお前それ知ってンの。
 「隠し事、ううん」
 そんなに嫌いじゃないのよ、ふっふふ。

   ふたりの男が茶色
      ふたりの女が黒色
   
   かれらの動き
     ときおり重なるが
   それは意図されたものじゃないか

         静と動、そのリズム

   ・四つの椅子
   ・四つの人
   ・四人の男女

    でも本当にそうだろうか

     性別は便宜的な呼称
   便宜をはかるだなんていう滑稽
   
   人とは、そもそも

 誘蛾灯のように白ける自販機に効果を入れればそこで物語が立ち上がってしまうということが気にかかるからと、じき、糸くずがこびり付く役者の足裏なのだ。
 「あなたは冷えてたっていうけれど」
 たしかに冷たくなくたって構わないのかもしれないわね、どちらかというと私はね、それならばなにかを見るということをじゃあどう考えようかと、そんなこと妄じているうち世界が回る、廻る、周ると指される新体はこうしてコンクリートのフロアに巡るまえ、それもずっと昔に、
 「マワサレタ。ブルブル。フルエタ」
 仮名、かな、それとも、チラとじゃよく見えないけれど、始まってからずっと何か一生懸命に書き取っている隣の男なら、長髪だ、気取りやがってボケ、いやちょっと待って、そうじゃなくって彼ならすこし話しかけても嫌がられないだろうか、むしろ書き留める邪魔になるからと煙たがられるだろうか、いや、彼女たちだってきっとわからないことだからああやって飛んだり跳ねたりしているんだから、私だってここでコッキに挫けず試みて私の輪郭をたしかめるのだ。わたしのためのきみよ、きみのために私はここにいないけれど、きっと君のための誰かがどこかで微笑んでいるよ、そうやって懸命に書くのも悪くないんだろうけど、見えなければ耳を澄ませてみるってことも大事だったりするんじゃないかしらって突然そんなふうに私に喋りかけられたって困るだろうからいくら彼だってね、なので終わりまでは言わず、
 「あの、ちょっとゴメンなさいって割り込んでしまうけれど、私たち、ここで彼女たちが演じるのを見るのって、初めてじゃないですか。それなのに、これまで見たことなかったはずなのに、ここで、始まって二十分くらい過ぎるところまで眺めたからといって、私は彼女たちを見ました、彼女たちの作品を私はもう知りました、そうコッキにできるのかなって」
 ええ、そうですね。
 「これって勘違いされちゃうかもしれないんですけど、私、ここで頑張って、もちろんなんだってそうだって思うんです、たとえばこれからここで見ていくじゃないですか、この舞台、作品を、見ていきますよね、これから、たぶんあと四十分はパフォーマンスが続くので終わりまで見せてもらうとして、その後でちゃんと時間作ってきっと考えてはみます、わからなくっても、わからないところはなんでわからなかったのか、わかるようになるにはどうしたらいいか、わかろうとしてもわからないならそれはどうしてかって一つ一つやってみると思います、そのつもり、でも、ウチから月島までタクシーで来たんです、それでこのビルの中庭までは歩いた、あの、そういえばサイトに載っていた場所から会場への入口が変わったのって、もしかして今夜だけだったんでしょうか、そうだとしたら、なんかそういう差異に遭えたってラッキーだなって感じる私ってポジティブですか、あとで調べてみなくっちゃ、それと役者さん、男の人はベージュで女の人はああいう衣装ってやっぱりそういう意味でしょうか、ブラックスワン、そして衣装といってもそれは普段着でっていうことの意味のフィットとギャップ、あ、けど男とか女とかじゃないのかもしれないですね、よくわからないのかもしれない、もしかしたらいまここで試されてるのって、ひょっとしたそういう慣習のことかもしれないんだ、でも、やっぱりそうじゃないかもしれないですね、気をつけたいな、そう思う私って、ポジティブなんでしょうか、つまり遅れたって引き離されてしまったってなんとしても終わりまではとにかく行ってみるけれど、はたしてそこがコッキかなって」
 ええ、そうですね。
 「はっきり見えるって、見えてるってことかなって」

   ヴーン
      空調の響き
      街路を走る車の音
     車の行き交い
    此処でなく
   向こうの出来事
   此処という
      その自覚によって
      向こうが
         察知
         できるけれど

  天体がない

 だけれど、ここなら大丈夫。
 「ほんとにぃ、ここで脱がなきゃダメですかァ」
ウン、そうだね、両脚をぴったりくっつけて、気をつけの格好、右手の平は水平に伸ばされ額にくっつけられることはなく「悶えたりするんじゃないよ、決してそんな素振り、見せるんじゃないよ」その忠告に制服を拒んだ姿態、拒んだことによって裸にされてしまったみたいなの、困った、囲った、固めた、だから気をつけの姿勢に君は身振りを征服できたんだよね、太ももの外側、添えられた手の平は誰を守るでもなく君を強いた、強いた、強いられた君が今更むずかるなんて未練を垂らす醜態は添わせた踵に封じてきたことは僕にだってよくわかるのです、そして「脱いでみてくれないか」と訴える僕を疑いたくなる気持ちもやっぱり分かるよ、だってもし私が同じようにそこにいて同じようにそう言われたら、あたし、そうやってきっと、コッキ、きっと振り回すように振り回されてたんだろうなって、今になってみればわかるんだけれどね、やさしくされたのはそんな時だった。
 「だって、ねえ、ほんとよ」
 耳もとで聞かされるから囁きなのですよね。それが歌になれば私だけのものでなくなってしまうかもしれない。どこまでも繁りだから先なんかほとんど見えなくて聞こえないはずの音や声がうるさくって茨に傷つけられたりもして、でもここで止まったらそれこそもう動けなくなってしまうからって無理して運転してやっとここまで来たのに聞いていた入口の在りかが違っていて、ああ、もう、どうしてこのタイミングなのって、諦めるように仰げば、うん、それって外圧や外敵に動かされているみたいに晒される喉笛ですよねピューピュー坊や此処はねピューピュー大人の縁日なんだからね、ほおら、踵をそろえて揺れてみれば案山子になった気分だから鴉のことも愛らしく見えてくるだろうアイツらすぐ君のところにやってきてよいところもそうじゃないところもみんな突付いてくれるから君はもうすぐ還れるよ「うん」じゃあやってみる、でもここに来るの初めてだから、やってみる前に入口だけ教えてくれたら嬉しいです、ここからじゃ上に行けない、あ、あとオジサン、指笛だったらぼくのが上手だねピューピュピュー。

   反復される運動
     いつのまにか密室でなく
    外へ投げ出された彼女
     外出によって
   それまでの空間を
     密室とした彼女

   ところが
      それでも
         われわれは
   交錯する
    交錯しているのに
               四
               の
               椅
               子
    座られず
      ただそこに天板として
   
     着衣はヌードを妨げない

    クロス、クローズ、クローズド

        すぐそこで転がってるのは
   どう見たって
                それは裸

    ところが三秒後に役者は
            着膨れした中年
     それだって
   六秒後には着痩せした若者

    ・そのものであることの強い
    ・そのものではないものへの詰り
    ・そのものではないということの示し

   作用する
     攪拌
      作用される
    「ときどきそうやって煽てるよね」
        粘りつくように動き
 
      役者は二人が男
    二人が女

     現在
   九月十一日
      あれから七年の

   午後八時二十八分
  
     これ見始めた、おれ
       「ねーいま何処らへん?」
      んっと、ちょっと待って

 意図しなければすべて無意識とされてしまいがちです。でも、もう、それはいいかなって。諦めてるっていうか、すごい深い繁みだったって、こうしてなんとかここまでは這ってきて、果てた草臥れに仰向けにされたら空が覗けてホッとすることだってあるし、それに、無意識と無意味ってきっと、違うことであるからって、うん、床がコンクリートでよかったんです。これがもし絨毯だったら、やわらかくってたぶん、ああ、それに、毛糸って良いモノだったら静電気は防いでくれるけどそうじゃないシロモノなら埃たくさん吸い込むことになっちゃうしィィィヴイイヴイイィヴィィィィンとエンジン音が消え跡に倒れし男の足裏に糸くず、こんなタイミングだったら足裏に付いてればそれがどんな糸くずだって全部みんな文学にされちゃうっていうのも可笑しい話だよねってニットのクオリティについて話し始めると嫌われちゃったりしてね、ううん、アタシ嫌われ慣れてるから結構ダジョーブあはは、それにほら、苔むした肢体を覆う喪服が玉砂利に埋もれ、椅子の女、触れる、振り返り、また触れる。


黒川直樹「黒鳥グラジュアル」(第二席:大谷)(1)

2008年12月17日 | DIRECT CONTACT
第3弾は、黒川直樹さんの批評文です。投稿時は、縦組みで応募されました。今回、ウェブ上での公開と言うことになり、方法はあるのかも知れないのですが、書き手の黒川さんに了承をいただいて、横組みヴァージョンを公開することになりました。

□黒川直樹「黒鳥グラジュアル」

黒川直樹
(仮)黒川直樹の妄想劇場

講評
大谷能生
 ある「時間内」で起こった出来事の、その時間の幅、出来事の大きさを、なるべくノイズを拾いながら思考しようとしているのは面白い。しかし、やはり語りかけるための「君」あるいは「あなた」を無理にでも設定しないと、自身の言葉のイメージが茂ってゆく先を確保出来ない、という状態が時折見られ、その分だけ読み手がここに書かれてある空間と時間から取り残されてしまう可能性が高いです。語りかける場合は、語りかける対象が自身の言葉の外にきちんとあることが必要であって、自分だけのものであるかもしれないイメージを、対話の相手を作ることで語りとして成立させようと思っているならばそれは弱い。自分のイメージはそのまま読者にむけて書くべきだ。あと、この長さを読ませるためにはもうちょっと要素が必要。アンデルセンから広がる豊富な作品群を、長回しのフレームとして使うともっと引き締まると思う。

木村覚☆☆☆
黒川氏の文章は、西中氏のと同様いわゆる批評文とは呼びがたい。ただし、「お話」というよりは公演を見たある人物の一夜のルポであり、西中氏の文章とは異なり、文章の主人公(「書き手」のキャラ)が明確になっている。大橋作品を批評するというよりは、大橋作品を見ている自分を記述していく。「記述」といっても、創作への欲望が記すことの生真面目さをときどき上回って、言葉が当の大橋作品から離れていきがち。創作的な言葉の放り投げ方(箇条書きだったり、詩のように段落替えをするところだったり)は、批評の起点を示しているのに展開が回避されているようで残念だ。約二万字という規定を超えた長大な言葉は、作品を丁寧に追走している。その丁寧さは粘り強さでもあって、好感はもてる。けれども、規定範囲内で納めなければならなくなったときにこそ、つまり、追走した結果をそのまま読み手に放り投げるのではなく、あらためてこの作品はいったい何だったんだと整理するときにこそ、黒川氏の力量が発揮できまた試されることだろう。そうして欲しかった。

永松左知「~大橋可也&ダンサーズについて」(第二席:大谷、木村)

2008年12月15日 | DIRECT CONTACT
二本目です。ちなみに、第二席は三名おりますが、アップの順番は、そのなかの優劣をあらわすものではありません。


永松左知「Direct Contact Vol.2 大橋可也&ダンサーズについて」

講評
大谷能生
 自身の感想をはっきり文章にしていて、また、ステージの描写とそこからの想像力が言葉の中で緊密に結びつけられており、ああ、あの公演がこの人にはこのように見えたのだな、ということが一番伝わってきた批評でした。ただ、自分の作品の捉え方をほとんど疑っていない、まったく感覚にブレのない文章なので、たとえば「無表情での痙攣」または「不安を噛み締めて体を震わせる」という動きが、本当にあの公演の中にあったのか? そのように見えてしまっただけで、実はそこで振り付けされているものは、そういった「都会の実写」とはまったく関係のないものなのでは? といった可能性に対する不安が足りないように思います。こういった感想を抱くことになった自分が、実際には何を見たのかを、自分から離れて、構造的な側面からその設計図を描写してみるという作業がもっとあった方がいいと思います。そうすると、多分文章が歪んでしまうと思いますが、できればそっちのほうが読みたい。公募作品のなかで手を加える部分がなさそうな唯一の作品でした。

木村覚☆☆☆☆
ぼくがこの批評文を評価するのは、作品と永松氏との距離が丁寧に測定されながら文が進んでいくところ。「無表情での痙攣には、少し飽きたというところがある」と始まるとき、舞台上で何が起きていたのか、それに対して自分がどう感じているのか、さらにダンス公演が近年どういうものであるのか(筆者にとってどう映っているのか)があっという間に明瞭になっていく。「不気味さとわかりやすさを抱えている」という表現などで、作品を簡単によいともわるいとも言わない筆者の慎重さ頑固さが示される。世代の違いも意識している。小林嵯峨、中西夏之、寺山修司という参照項は、筆者のキャラクターを明かすものだが、出来れば、なぜ彼らと大橋作品を比較するのかが、客観的に説明されていると、よりよいはず。筆者の認識が、個人のではなくより大きな集団の知となることが示せるだろうから。出来ることなら、もっと作品を描写するべきだったろう。公演を経験しなかった人も読んで批評に参加できる空間を生み出す唯一の手段が描写だろうから。とはいえ、ひとつひとつの言葉は、かなり正確で、リライトすれば、より一層筆者の正確さは、明確になってくるだろう。

本文 永松左知「Direct Contact Vol.2 大橋可也&ダンサーズについて」
無表情での痙攣には、少し飽きたというところがある。
舞踏では、痙攣に対置されるものは優雅やポエジーのようなものであったかも知れない。
大橋可也&ダンサーズの痙攣の前と後には、無気力さや悲嘆のような沈黙を感じる。
無言の(無表情の)言葉は、壁に突き当たって消滅していくか、突発的な暴力に転じるか。
自殺や無差別殺人へ走るような、不気味さとわかりやすさを抱えている。

今夏、神楽坂ディープラッツの小林嵯峨は、踊りの表情の豊かさと、恐いくらいの情感、情景が圧巻だった。
中西夏之は、「土方さんの舞踏は、涙が出るようなもの」だったと語る。
現実から遠いはるかなイメージと、そこへの憧憬や幻想は、ひとに勇気を与える。
ロマンティックということだけではなくて、繊細に走る痛覚や、情熱や冷静は、
無表情の現代人が不可思議な感受と、可能性を感じるべきところだ。
古いものとして懐しむのではなく、決まりきった感じ方しか出来ない現在の感覚に、対して。

本公演の、ダンサーたちが、不安を噛み締めて体を震わせるのは、現代の都会人の実写だろうか。
筆者より年上の世代の実写だと感情移入すれば、痛々しい。
と同時に、普段自分の周りに溢れすぎている感覚なので、なんだか既視感にシラけてしまうところがある。
それは、笑えもしないのだけれど、小さく収束してゆく、ものの見方・感じ方の反映である。

グレーの床と蛍光灯の白い光に挟まれて、ひらべったい女と焦る男が2人ずつ、4つのステンレス製パイプ椅子を転がす。
ここにテレビのノイズなどが流れていてもきっと、既視感の強い情景としての無機質な世界だろう。
打ち放しの天井と白い壁が人間を囲んで、緑灰色の海面の下のような空気をつくりだす。

空気をつくっているのは、一個ずつの身体ではない。もっとばらばらのパーツのような何かだ。
コンクリートの素材や洋服の布地や無表情な眼や、白い光。無言の苦しさ。
光源は動かず影を圴一におとして、何の象徴も救いも示さず一方的に明滅する。
観客席の前列の足下におかれた白熱蛍光灯はわずかな温度と振動を伝えてくる。

ダンサーたちは、何度も、飛び起きては走り、もつれて転び、後ずさり前につんのめる。
この日本で、いくつもの部屋の中で、同時に
多くの女がぼーっと身体感覚を失って部屋を眺め
多くの男が焦って身震いしていることを考えると
彼等が息を吸える酸素ボンベは、TVや、ネットに繋がれた画面でしかないようにも思えてくる。
何をそんなに恐がっているの、とふと問いかけたくなる。
先の見えない不安や、被害者意識は、生きている若さの現在から短い将来を思うことから出来する。

寺山修司は、ひとは不完全な屍体で生まれて、完全な屍体に還ると言った。
何も人生を虚構とおもう必要はないけれど、
生を死のほうから見つめれば、そこに残るのは生活への不安よりも、仕事も想いも残せないような生き方ではないか。
しかし、ある種の暴力や、自他の抱える闇や傷には、共通の哀しさへ同調出来てしまうのも事実で、
だがそれを描いて人に勇気や温かさを与えられるのかと気になってみたりもする。

体は健康に硬直したまま、すれ違ったり突き放したりを繰り返す。
柔らかい、溶けていくような流動感や 震えるほどの陶酔は、彼女たちをおとずれない。
外に出て強い日射しや猥雑な感性に触れるエネルギーは、彼らにはほとんど無いし、欲しいとも思わない。

向かい合った者たちの綺麗な足の間でひかる
緑の「→出口」の表示、転がるオレンジのスナック菓子袋。
それを見つめた果てに生まれるものは、なんだろうか。
わたしたちの求めるものが変質してはじめて、こちらの身体感覚を変えるようになるのだろうか。
フィクションの積み上げや、カタルシスのないダンスは、続く電子音の超高音演奏に繋がれていった。


中条護「ねじ式と性欲、国とマスキング」

2008年12月13日 | DIRECT CONTACT
お待たせしました。今後、投稿頂いた批評文を続々紹介させてもらいます。まずは、中条さん(第二席:大谷)。

□ 中条護「ねじ式と性欲、国とマスキング」

講評(大谷、木村の順)

大谷能生
 今回舞台で自分が見たものを、自分がこれまでに見てきたものと接続させることによって考えてゆこうとするそのプロセスが繊細に展開されている前半はとっても良いと思います。一文ごとにきちんと思考が先に展開してゆく文体もいいですね。その後、ステージ上の出来事を「夢」と結びつけて語る部分に、一瞬転調感というか、再び一般論として、ある作品というものが「夢を見た/夢から覚めた」ような印象を与えるとするならば、それはどういった条件が必要であり、どのような形式が必要であるのか、ということの考察を挟んで、その後に再び、では目の前の作品はどのようなものなのか。具体的なメソッド分析などを通して自分の印象を伝えるほうが良かったでしょう。
 後半部分、出来事の描写とそれから得た感想がきちんと伝わるように書かれており感心しました。ただ、最後の「マスキング」からの話が分かりにくい。ここできちんともうひとふんばり要素を加えて論旨を展開できる足腰の強さを求む。

木村覚☆☆
 中条氏は、批評文を類比(アナロジー)をもって進めようとする。大橋作品にはつげ義春『ねじ式』を、秋山&中村作品には「国土」を重ね合わせる。類比は、説明しにくい対象を説明しやすいものにする。ただし、説明しやすくなることで、誤解が発生することもあるし、対象から文章が逸脱していってしまう危険もある。類比の関係に置かれた二つのものは、決して同一ではない。そのことがきちんと明瞭にされていることが重要であり、なぜ(例えば)大橋作品と『ねじ式』とが類比的だと考えたのかということが、大橋作品の評価そのものにも反映し、また批評文そのもののクオリティにも反映する。大橋作品の今日的意義、また中条批評文の今日的意義がそこに賭けられている(さて、、、)、と読まれていくはずだ。そう考えて、『ねじ式』とのアナロジーは適切だったか、と中条氏に聞きたくなる。「各コマの背景を無理やり借景して繋ぎとめた」という点において『ねじ式』は、大橋作品のあり方と類似的だとする見方は、さほど無理がない。けれども「月島のTEMPORARY CONTEMPORARYであの日に立ちあがった余白は、まさしく夢のようであったのだ」以降、『ねじ式』を夢のような世界とみなすことで、大橋作品もまた夢のようであるとするのは、明らかに飛躍があると思う。それは類比が自動的に生み出した思考であって「それらの動作は、普段の生活では無視されるものが夢の中で主権を握ったように振る舞いだしたよう」という文は作品から離れてしまっていて、その手前で「ひとつの文脈のための動作がそこにあるのではなく、すべての動作に固有の文脈があり、それをつぎつぎに見せられているような気持ちになる」と、せっかく作品と向き合い豊かな混乱の状態にあったのに、そこから離れきわめてわかりやすく作品を片付けてしまった。
 秋山&中村作品を「国土」と呼ぶ試みは、反対に、「国土」から出てくるイメージを十分に生かせていないのが残念に思う。「秋山徹二、中村としまる両氏の国土を片鱗ながらも紹介されていくかのようだ」というイメージが「彼らの演奏を披瀝していくことによって彼らの演奏はマスキングされてしまう」という「マスキング」(相手に覆いをかける)というイメージを生み出しているのだけれど、せっかく「国土」という言葉をおいたのだからそこから引き出されてくるイメージでつないでいった方がよかった。また「国土」と呼んだことが、音楽を「地政学的」「地理学的」、、、に見る視点へと発展していくなら、すばらしい類比の呈示となっただろう。
 中条氏のじっくり作品とつき合うさまは「このとき、NIMの轟音の波を潜り抜けてきたように淡く響いてくるアコースティックな音色を耳が捉えたときの気分というのは何とも気持ちのよいものである」や「NIMのブラックボックス性」などの言葉に十分にあらわれている。こうした着眼点をじっくりと考察することで、出てくる文章をこそ読みたいと思う。


本文 中条護「ねじ式と性欲、国とマスキング」
 Direct Contact vol.2にて発表された、大橋可也&ダンサーズによる『Black Swan』で立ち昇っては消えていく音はほとんどがロードノイズだ。このロードノイズと照明の明度がダンサーたちの外部であり、もしくは内面の意図的なタイムラグを含む描写だ。私はコンテンポラリー・ダンスというものを全く知らなかったし、今回の公演を見ただけではコンテンポラリー・ダンスのことは何も分からないままだ。主催者大橋可也の意図どおり、そもそもダンスとは何か、Black Swanという公演は果たしてダンスの公演だったのかということを考え出してしまう内容のものを私は体験した。それは体を動かして何かを表現する、ということの極端な分かりやすさと謎が迫ってくる内容のものだった。この演目に明確なストーリーや情況を観客に説明する場面は、一切ない。男2人と女2人が現れ、「踊り」、終わる。Black Swanの説明は以上の一文で事足りる。しかし、この舞台において「踊る」とは何ぞ、という問いかけの複雑さ、難解さ、こう言ってよいなら豊穣さは他の舞台と比べたときに差がつくのではないだろうか。私はこの舞台を見た後、新国立劇場で「DANCE EXHIBITION2008」を観に行ったのであるが、これはコンテンポラリー・ダンスを扱っているといわれれば大抵の人は納得がいくものだったはずだ。もっと単純に、出演者は踊っていたかと訊かれれば私ははっきりと踊っていたと応えることができる。しかし、Black Swanの出演者は踊っていたかと問われれば、一瞬間を置くか、語調をやや変えて確かに踊っていましたと今なら応えるだろう。体調や相手によっては踊っていたと思います、と曖昧な返事になる可能性は十分にあるのだが。前出の新国立劇場で見たダンスは、なぜ、今この踊りをするのかという自問自答にある程度回答を導き出せるものだと思う。作品にはタイトルがあり、ダンスらしいと感じるダンスでそのタイトルとストーリーを遂行するための演出を施していく。形式がかなり自由だとは雖も、何をしているか、何が起きているかは大体見当がつく。しかし、Black Swanはタイトルがあるが、何が起きているのかそして何をしているかがわからない。もしかしたら何も起きることなく、何もしていなかったのかもしれないと思わせるものである。そこではっきりと分かることはただ2つ、舞台の明度と音量の変化のみである。そこで男女各2人が飛び跳ね、ある動作を繰り返し、固定し、空間を痙攣させ、笑い、歌い、転げまわる。ものを食べたり相撲をとったりもする。こう書き出してみると分かりやすい動作をいくつかやっているようにも思われるかもしれないが、前後の文脈があるようでないので安心してみるわけには行かない。それぞれの動作が、ひとつの文脈に回収されるのを拒んでいるようだ。あるいはこう言い換えられるかもしれない。ひとつの文脈のための動作がそこにあるのではなく、すべての動作に固有の文脈があり、それをつぎつぎに見せられているような気持ちになる、と。ダンスのミュージック・コンクレート。ダンスだと呼べる動作、ダンスとは呼べないが日常に常駐する動作、そのどちらでもないある具体的な動作、それらあらゆる動作を次々に並べて時間と空間を埋めていく。それは普段の生活では得られない余白をそこに立ち上げることだとも言える。月島のTEMPORARY CONTEMPORARYであの日に立ちあがった余白は、まさしく夢のようであったのだ。気付けば男が右腕で左腕の二の腕辺りを抑え、体の軸がぶれないように直立の姿勢を保ちながら一箇所で旋回している。それを見て私は、ああなんかこれねじ式みたいだなと思った。思えばねじ式は作者つげ義春の夢の中の出来事を基に描かれたもののようである。あの話も、各コマがひとつのコンテクストの組成に用いられているというよりは各コマの背景を無理やり借景して繋ぎとめたような印象を人に与える。夢は作者の手に負えない。そして誰の名を出すまでもなく夢は多分に性的なものだ。男が急に駆け出しては急に立ち止まり、女は突然居眠りから目覚めたように動き出し、男は椅子と絡み合いながらしばらく微動だにせず、女は神経質に掌を洋服で拭い続ける。それらの動作は、普段の生活では無視されるものが夢の中で主権を握ったように振る舞いだしたようで、その多くが静的/性的な印象を与える。ほぼ全編に亙って舞台の人物が直接関わりあうことはない。みな思い思いに振動する分子のように不干渉(不感症?)なのであるが、舞台の最後のほうで、女が一人消えたところで、椅子と絡み合っていた男をもう一人の男が引きずり出す。2人の男は喧嘩なのか何なのか相撲を始める。引きずり出された男はまるで相手にならない。男2人の間で女が1人歌いだす。家にロケット花火を打ち込まれた、あいつに特大の線香花火を落としてやる、とかいう歌。ひとしきり歌い終わった女は相撲で挑み続ける男の邪魔をする。ただでさえ勝てないのに男はなお惨めになって終わる。こうして夢から醒めるのだ。この舞台は即興ではない。徹頭徹尾筋書きのあるものを再現している。この正確な再現に私は夢を見たような気持ちを得たのだ。
 もうひとつの余白は、秋山徹次と中村としまるによって作られた。秋山はアコースティックギターをPAに通さず生の音で鳴らし、中村はノー・インプット・ミキシング・ボードをスピーカーに通して鳴らした。演目名は「The Stake (for acoustic guitar and electronics)」である。中村のノー・インプット・ミキシング・ボードとは以下のものを指す。「市販の小型オーディオ・ミキサーに無理な結線を施し、ノー・インプット・ミキシング・ボードと名づける。それを用いて即興演奏をおこなう」(以上、中村としまる日本語ホームページより:http://www.japanimprov.com/tnakamura/tnakamuraj/index.html)。今回のこのライブで筆者がまず驚いたのが、アコースティックギターがアコースティックギターだったということだ。それはPAによる一切のアンプリファイが為されていないことを指す。ライブ会場の広さを考えれば、これは珍しいケースではないかと感じた。ノー・インプット・ミキシング・ボード(以下NIMと略記)はスピーカーがなければ意図する音が鳴らない。このNIMは自身の音を出すものとしてスピーカーしか舞台上にはなかったので、意図的にアコースティックギターの音を増幅するシステムは現場になかったといってよいだろう。この、電気的な音の増幅の有無がある2つの共演自体が興味深い。会場にいた人間は、みなアコースティックギターそれ自体(と、その周辺の空間)が作る音と、NIMがつくったある電気的な信号の電気的な処理が行われた音を一緒に聞いていたことになる。端的に言って、NIMのほうがより大きい音を出せるし、実際に出していた。アコースティックギターとNIMが同時に音を出してしまえば、アコースティックギターの音はかき消されてしまって、一定以上の音量を出されてしまえば全く聞こえなくなってしまう。実際にこの状態になることがしばしばあった。しかし、このことはアコースティックギターが鳴っていないことを指すわけではない。秋山氏はアコースティックギターを鳴らし続けていた。鳴らし続けていたのだから、秋山氏には自身のギターの音が聞こえ続けていたのかもしれない。更に言えば、他の観客には聞えていたかもしれないギターの音、あるいは聞かれることのなかったギターの音は無数にあるはずだ。こういった状況でギターの音色を聞き分けようとすると聴覚に意識を集中させていくより他ない。このとき、NIMの轟音の波を潜り抜けてきたように淡く響いてくるアコースティックな音色を耳が捉えたときの気分というのは何とも気持ちのよいものである。一方、NIMの音色は一言で言えばノイズである。無理な結線から導かれる雑音の粒はしかし端整である。聞きやすいノイズといえるかもしれない。そもそもはミキサーから出てくる音だから意外と調整が施されている可能性もある。ところで、このNIMの操作方法を知っていて、なおかつ使いこなせる人間はどれほどいるのだろうか。私はこのライブでNIMのブラックボックス性にも興味を覚える。観客として、あのNIMという「楽器」の操作方法はあまり見当がつかない。ミキサーのつまみをいじって音を調整しているのだろうかなどと想像するが、実際のところは誰にも分からない。ここで私は、中村氏がNIMを楽器として演奏していたのかと疑問を抱くことになる。これはラップトップミュージックのライブパフォーマンスにも言えることなのだが、操作方法が判然としない楽器によるパフォーマンスは演奏か否か、ましてやそれが即興演奏か否かを観客が判断するのは容易ではないと思われる。ある一連のプログラム、シーケンサーを出力しているだけでパフォーマーはスイッチの切り替えをしているだけという可能性を排除することはできないのだ。このような楽器NIMと、アコースティックギターが共演することが違和感を醸し出すことなく調和しているのは、演奏家2人のキャリアによるものであろう。2人とも世界各地で演奏してきた即興演奏家であり、実績を残してきた証拠がこの共演から感じ取ることができる。そこでは秋山徹二、中村としまる両氏の国土を片鱗ながらも紹介されていくかのようだ。国土の成り立ち、現在の地形や歴史、そしてたった今何がそこで起きているか。大仰な比喩ではあるが、従来の楽曲や音楽といわれるものよりも何か大きなものを扱う演奏している印象を受けたのも事実だ。しかし、彼らの演奏を披瀝していくことによって彼らの演奏はマスキングされてしまう。一方は共演者の演奏によって、もう一方は自らの演奏によって。だがしかし、そのマスキングが、恐らくは意図的に完璧なものではないために一層彼らの演奏は印象に残るものとなる。聞こえなかった音、見ることのできなかった演奏によって両者の演奏はよりよく聞かれ、これからも見ていくことができるのだろう。
 ロードノイズのごとく、現れては消え、あまりにも普段気に留めないものに焦点を当て、その豊穣さを(再)認識していく。今回のDIRECTCONTACTは、まさしくすべて平等に感じるため、同じ空間に置かれた演奏行為と身体表現を行い、その目的を達成する糸口を見つけることに成功した。

乗越さんにあてたメール

2008年12月13日 | ダンス
DC2批評文応募に関する講評や投稿文の掲載は、早急にします。その前に、以下に、ダンス評論家の乗越たかおさんにぼくがあてたメールをアップします。ご本人に直接送った後(そしてお返事をもらった後)で、一旦、乗越さんに悪いと思ってアップを中止していたのですが、乗越さんとのやりとりのなかで(どうしてもアップするようにという命令めいた指示があり)あらためてアップすることにしました。ぼくの気持ちは、下記にあるとおりなのですが、出来れば乗越さんに「連中」「ヤツら」と具体的に議論を交わしてもらいたいという思いが強くあったわけです。いまでもその気持ちは残っているのですが、、、先述したお返事が乗越さんのブログに載るそうです。
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乗越たかお様


突然のメールにて(しかも長文になってしまいました)失礼します。
貴連載『ダンス獣道を歩け』、拝読しています。TENTARO!!について伊藤キムとの違いを通して分析した文章など、刺激を受けることがしばしばで、最近は、ほぼ毎月読んでおります。
以下に書くことは、私として、乗越さんの文筆活動に圧力をかけるという意図はまったくありません。仮に乗越さんにそう思わせてしまうとしても、こちらとしてはそういうつもりではないこと、お断りしておきます。むしろその正反対で、ますます乗越さんのダンスへ向けた考察を明確化して欲しいと思う、『ダンス獣道を歩け』の一読者であり、またダンスについて批評文などを末席から執筆・公表などしている私のような立場から、ひとつご提案を差し上げたく、メールをお送りする次第です。
簡単にもうしますと、「連中」とか「ヤツら」「アレ」「キミら」「プロデューサーやオーガナイザー」などと伏せ字的な表現になさらず、具体的に名前や団体などを明記なさったらどうでしょうか、という提案です。
乗越さんの文の特徴として、「オッチョコチョイ」で「奇形的に肥大した妄想でパンパン」な「どーでもいい議論」に邁進する「連中」を批判することで、乗越さんがお持ちのダンスに対する「自分自身の目」を輪郭づけ、正当化するというところがあると拝察します。その論拠は、以下に取り上げさせていただきました乗越さんの文章などを読むことで、明らかになることと思います。こうした自分とは異なる視点への批判を通して、自らの観点・論旨を明確にしていくやり方は、批評というものの常套手段だと私は考えています。その点では、文章における乗越スタイルに同意する者です。
ただし、残念と思うのは、私が文筆の際に心がけている〈出典を明らかにする〉という点について、私と意見を異にしていると拝察される点です。「残念」と申しますのは、単に私と意見が異なるからではなく、〈出典を明らかにする〉ことが、言説空間において必要な手続きであると一般的に考えられているのでは、と思うからであります。もちろん、このことを「一般的」と考える木村が特殊的なんだと批判を受けるかもしれません。けれども、私が例えば、大学で学生達に口を酸っぱく言うのは、この〈出典を明らかにする〉ことであり、客観的なデータを出すことであります。このことは、私個人の考えではなく、大学というところで論文執筆のスキルを学習してもらう際の不可欠な提案・指示であるはずです。妄想で書いたものは論文とは呼べないからです。
例えば、「これがダンスへの批評だ」「とにかく技術があるのはダメなんだ」というのは、誰のどの文章を想定しての文章なのでしょうか。私は、自分の知る限りこの字面通りの文章を読んだことがありません。いや、私の読んでおらずしかし乗越さんは読んでいるという文章がどこかにあるのかもしれません。であるならば、是非、出典を明らかにした上で、その当の言説をご批判なさることを切に期待いたします。
私が、なぜこうしたことをもうしあげるのかと言いますと、客観的・具体的に出典を示した上での批判であれば、再批判が可能であるというきわめて単純な理由からです。つまり、いわれた人が乗越さんからの批判に応答することが出来ると思うのです。そうして一種の論争が生まれた時に、その場は活性化し、明るくなると思います。
ダンスの批評的言説のなかで、なかなかそうした論争が生まれていないのが、私としてはとてもよくないことと考えています。意見の相違は、どのアートのジャンルを見ても起こっています。大塚英志と東浩紀の新書などは、その一例でしょう。意見の相違は、互いが互いを明示して初めて論争化すると思います。そうではない言説というのは、中傷に対して中傷をもって応じる言論というのは、ダンスシーンという場を暗くしてしまうと思うのです。
あと、いまひとつの理由は、乗越さんが論じられている「研究者」と「ジャーナリスト」のハイブリッドが評論家であるべきとおっしゃられていることに関係しています。「ハイブリッド」の言葉が何を意味し、「評論家」という言葉が何を意味しているのか分からない(とくに私が「評論家」ではなく「批評」と自称している点に関わっています)ところはありますが、私の考えるところでは、一般的・理想的には「研究者」も「ジャーナリスト」も、先に述べた〈出典を明らかにする〉作業を繰り返すことで、自らの論を公表する仕事です。裏のとれた情報に基づいて証拠を重ねていくことが、彼らを研究者にしジャーナリストにするのだと私は考えています(そうではない研究者、ジャーナリストが現実にいるとしても)。
乗越さんの文章のなかで、先に触れた「連中」「ヤツら」「キミ」などの言葉が出てくると、文は批評というよりも扇動の色を帯びてきます。「扇動」と考えるのは私の読書経験に基づいているのですけれど(誤解がありますか)、もし「扇動」が評論家の仕事であるとすれば、それは私の考える批評とはずいぶん異なるものだと思います。乗越さんのなさりたいことは、世間を煽ることなのでしょうか。あっちの水は苦くてこっちは甘いということを、論争的な仕方ではなく語ることで、読者を誘導することが、乗越さんの評論なのでしょうか。私の読む限り、以下の文章は、「研究者」的でも「ジャーナリスト」的でもありません(「勝手な想像」に基づいた文章が、「研究者」的、「ジャーナリスト」的あるいはそのハイブリッドのいずれなのかが正直分からないのです)。
年長の方に対して、突然、不躾なメールを差し上げていること、恐縮です。ここからさらに上を目指していくことが(私の言う「上」が「獣道」とルートを異にしていないと信じています)、ダンスのシーンを明るくすることにつながると、切に信じ、その一心で書きました。どうかおゆるしください。
「論争」という言葉を乱暴に使いました。定義とは言いませんが、「論争」という言葉を使う時、私が毎度思い出す場面があります。2000年頃、原宿フラットというイベントで、まだまだ新人扱いされていた椹木野衣さんに対して、徹底的に厳しい言葉を浴びせ続けた浅田彰が、あるとき、「トムとジェリー、なかよくけんかしな、だよね」と口にしたその場面です。「なかよくけんか」これが、私なりの論争のイメージです。これが出来たらいいのにと思うのです。もしよろしかったら、論争のコーディネート、未熟者ですが私が務めることも可能です(もろちん、乗越さんのいう「連中」が複数グループあるかも知れず、またその「連中」が論争に乗ってくれるかはまた別の問題としてありますが)。

  木村覚

追伸
一、いうまでもないことですが、このメールは、誰かに扇動されてのものではありません。私の判断で、自分自身の目からもうしあげていることです。
二、ひとつ残念と思うのは、「連中」「ヤツら」「キミ」と呼んでいらっしゃる対象に私が含まれていないだろうことです(あくまでも私の勝手な想像の範囲ですが)。もし、私も含まれているのであれば、私と論争してくださっても結構です。
二、このメールは、まさにダンス批評の論争化のために、後日拙ブログでアップするつもりです。ご理解下さい。


「勝手な想像だが、いろんな意味で山賀の持ち味である「何にもなさ」を、「これがダンスへの批評だ」とか「とにかく技術があるのはダメなんだ」と無知を露呈してやまぬオッチョコチョイな連中に担ぎ出されたのではないかなぁ」(『DDD』2008年9月号、p. 117)

「ダンスを頭でばかり考えすぎ、奇形的に肥大した妄想でパンパンのヤツら、仲間内だけで通用する「自称・素晴らしい言説」の傍証にダンサーを利用するヤツら……。」(『DDD』2008年9月号、p. 117)

「オレは「何が人をダンスに駆り立てるのか」にしか興味がないので、こういう連中のどーでもいい議論には与しないが、けっこういるのだ」(『DDD』2008年9月号、p. 117)

「アレとかアレとかあんなのとかがハバを利かせているダンス界の現状を打破するような、じつに骨太の可能性を東野は感じさせてくれた。そしていまや活躍の幅を世界へ広げている」(『DDD』2009年1月号、p. 94)

「こういうダンサーの評価がのちのち高まってきたとき、かつてイチャモンを付けた連中の常套句は、“前よりも良くなった”というやつなのだが、ダンサーや振付の本質なんて、そうそう変わるもんじゃねえよ。変わったのはダンサーじゃなく、見ているキミらの目のほうだ。」(『DDD』2009年1月号、p. 94)

「プロデューサーやオーガナイザーの中には“オレのところに出てから良くなった”とまで言いだす輩もいるしな(ごく一部だけど)。」(『DDD』2009年1月号、p. 94)

「“評論家とは、研究者とジャーナリストのハイブリッドであるべき”と書いたことがある。“すでに評価が固まっているものばかりを対象にしている「研究者」は、しばしば知識ばかりで知的体力がないため、新しいアートが出てきたときに受け止めきれない”という主旨だ。」(『DDD』2009年1月号、p. 94)


DC2 第1回批評文募集応募結果と総評

2008年12月08日 | DIRECT CONTACT
DC第1回批評文募集、応募結果と総評をアップ致します。

期日に遅れて投稿された方も含めて、10本ほどの批評文が寄せられました。
この場を借りて、共同企画者の大谷能生と共にご投稿された皆様に、厚くお礼を申し上げます。

なかなか時間が取れず、メールでのやりとりでの審査となりましたが、真摯に取り組んだつもりです。結果は、

【審査結果】
第一席 なし

第二席 (大谷能生による)
中条護「ねじ式と性欲、国とマスキング」
永松左知「Direct Contact Vol.2 大橋可也&ダンサーズについて」
黒川直樹「黒鳥グラジュアル」

第二席 (木村覚による)
永松左知「Direct Contact Vol.2 大橋可也&ダンサーズについて」

となりました。
後日、第二席となりました批評文の本文と大谷・木村の講評をこちらに掲載することにします。その前に、大谷、木村による総評を載せることにします。

【総評】
 まずは審査が遅れてしまって、投稿者の皆様には大変失礼致しましたことをお詫びします。もっぱら大谷の責任です。すいません。過去、某エスプレッソ誌上で同様の募集をした時には見事に投稿がゼロだったという経験があり、今回も、まあ一通でも送られてくればめっけもんだと思っていたのですが、箱を開けてみると締め切りまでに10通前後の投稿があって非常に嬉しかったです。内容も多岐に渡り、3日間別内容だった秋山徹次コンサートも、各人をあわせると全ステージが俎上に乗っていて、ライブを見た人にとってはそれぞれ読みがいがある批評が集まっていると思います。
 ただ、レポートとしては非常にみんな良く出来ているのですが(黒川・西中両氏のものは別として)、例えば、ライブを体験していない人に向けて、自身が得た経験をさらに広い文脈に置きなおして、長い射程でもって語るという手続きがあまり上手く出来ていないなあ、という感想を覚えました。目の前にあった作品を言語の力で切り捌いて、周辺の他の作品との相違点を見い出し、あらたな文脈を発見して、世界の新しい見方を提示してみる。こういった作業にまで踏み込んでいってみて欲しいと思います。ダンスと音楽の並置について考察していた文章が少なかったのも残念でした。
 観察力、文章力、構成力。独自の視点が提示できているか、イマジネーションの豊かさはどうか。そういったものを含めて、完成度の高さはどうか。といった点でみて、残念ながらズバぬけているものがなかったので、第一席は空欄とさせてください。第二席の三作品は、それぞれ別な方向を向いているけど、上述した要素の二つ以上にマルを付けられた作品です。全作品をマッシュアップしてあらためて一作にまとめると完璧なものになる気がします。そりゃ無茶な。でも、そういったものが読みたい。ともかく、投稿していただいた諸氏に感謝を。次作も読みたいです。(大谷能生)


 大谷さんは的確に講評のポイントを書いてくれているので、総評としてぼくは大枠の話を書かせてもらいます。
 ダンスや演奏という表現は、恐らくその他の芸術ジャンルよりも言語から遠いところがあって、故に、言語による批評活動とこういった表現との相性は、よくないと思っています。真剣に見ようとすればする程言語化出来ず、あらわれては瞬時に消えてしまう対象を、どう言語によって捕獲し、どう自分のフィールドに鮮度を残したままもってくるか。ダンス批評・演奏批評というのは「バケツリレー」みたいなもので、時が経つ内に中身はどんどん消えてゆき、それと反比例して、バケツに入っていただろうものを自分勝手に捏造することになりがちです。そう考えると、捏造を退ける程度、対象に向けて誠実さを見せる姿勢が今回の批評バトルのポイントだったと言えるでしょう。
 ぼくもえらそうなことはまったく言えません。捏造を欲する自分(のある部分)にいつも警戒しながら、薄れゆく記憶を手がかりに、言葉を並べてゆく、その一回ごとがとても不安だし、一回ごとダンス(or音楽or演劇or、、、)という神に対して一種の信仰告白を求められているような気がしています。そのひやひやを隠さず露呈すること、自分にはここまでしか書けないと告白しながら書くことしか、誠実さを見せる方法は自分にはないとさえ考えたりします。
そこまでしてする批評って何でしょう。ぼくは、批評とは対象を愛するひとつの方法であると考えています。自分の限界まで相手の細部に宿る何かへと眼差しをむけ続けようとすること。そんなこと、愛なしにはできないっすよ。「愛」(笑)かもしれないけれど、こんな説明するの恥ずかしいけれど、自分の実存を危うくするぎりぎりまで対象に迫ってみたいという無邪気な熱意が、批評には必要だとぼくは思わずにはおれず、反対に批評文は自分を誇示する場と考えているひとを、別に批評家と呼ぶ必要はないと思いこんでしまっているわけです。
 なんか、そういう「愛」の爆発みたいな文章を書くひとが出てくるといいなと思っていました。いまも思っています。うわ、こんどこのひとと一緒にダンス見に行きたいぜ、演奏聞きに行きたいぜ、と思わされるような。愛は凶暴で執拗なのでどこかに「ねじれ」を生むでしょう。それが書き手の個性だったら、それを書き手の個性とみなすのなら、ぼくはその「ねじれ」を「すごい!」と絶賛することでしょう。
 もちろん、大谷さんとぼくとが書いた各講評が批評の水準をもつものであるならば、それは上記したことに関連していないはずはありません。批評は批評を批評するのです、そしてさらにその批評を批評するのです。それが批評の力でしょう。ドイツロマン主義を引き合いに出さなくても、今風に言えば、「レス」とはそもそもそういうもののはずです、きっと。
 ぼくは、各批評文に☆を付けました。永松さんが四つで最高でした。ただし、一席には出来ませんでした。
 大谷さんも書いていますが、みなさんの次作(批評文)が読みたいです。そのために、DC3やらなきゃと思うくらい。(木村覚)

DC2+帝国ナイト+GUD

2008年12月03日 | ダンス
いくつかお知らせを。

DC2で募集していた批評文の審査が終わりました。投稿してくださった方には、随分お待たせしてしまいました。締め切り後にご投稿してくださった方も含めると10人超の批評文があつまりました。4000字というハードルにもかかわらず、、、これは、なかなかすごいことです。三日間で二百数十人のお客さんがいらしたとして、20人にひとりが文章を寄せてくださったということになります。観客と公演とのダイレクトなコンタクトを起こしたいという企画・出演者側の思いが実現出来ました。
審査結果は、近々、このブログとDIRECT CONTACT専用ブログで公表いたします。乞うご期待。

大橋可也&ダンサーズ「帝国・エアリアル」のプレイベント「帝国ナイト」が12/9に青い部屋で行われます。そこに私も参加することになりました。超左翼マガジン『ロスジェネ』の浅尾大輔さんと大澤信亮さん、大橋可也さんとトークをします。どんな話になるのか皆目分かりませんが、どうぞこちらもよろしくお願いします。

「grow up! Dance」プロジェクトですが、急な募集にもかかわらず、多くの方が応募してくださいました。ダンス公演の可能性について、率直に意見を交わせる場に出来ればと思っています。かっこをつけずに、いきます。ワークショップ/セミナーなどのイベントも準備しています。こちらも、よろしくお願いします。