Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

続「トヨタ」問題

2008年06月30日 | ダンス
パフォーマンスが始まる前、客席をぼくは2階席から見ていたのだけれど、これまでの「トヨタ」と較べてなんだか静かな感じがした。客に身内が多いように思うし、対して美術系とか音楽系とかテレビ系の各「業界関係者」はあまり見かけない。前回はそうじゃなかったよな、などと思い返すと、その穏やかな感じが目立って見えてしまうのだ。

ぼくが重要だと思うのは、この六組をコンテンポラリーダンスの関係者たちが選んだという事実。

つまり、このアワードがいまの「コンテンポラリーダンスの関係者」の考える「ダンス」なのだということ。

もしそんなこと言われちゃ困るよ、というのであれば、セミファイナルの審査後に、自分はこう考えてこう投票したのだが、結果はこうなった云々と公言するべきだったろう。

ぼくは残念ながら審査員に選ばれなかったので、そうした見解を述べたりする立場になかった。そうしてファイナルステージまでにアワードを盛り上げることが出来る立場になかった。(「トヨタ」が選択した関係者として、是非、審査員の人たちにはいろいろと頑張って欲しかったなーと思ってしまうのです。少なくとも、振付家たちダンサーたちは、その動向を見守っていたと思います、彼らはどうこの「お祭り」を盛り上げるのだろう?と)

なぜ審査員同士で論争をしなかったのだろうか。その論争がアワード最大の焦点になったろうに。

多分、ぼくが審査員に選ばれなかったことは、意図的なことだろう。あるいは、そもそも木村という人間の存在を「トヨタ」側が知らなかったこともあるかもしれない、とすれば、それはもうぼくの方としてはどうしようもないことだけれど。(たら、ればを言うのは醜いことと思うけれど)ぼくが選ばれれば、論争をしていたと思う。少なくとも仕掛けていたと思う。そういったことをあらかじめ牽制して、選ばなかったのだとぼくは考える、考える(憶測する)ことしか出来ない立場なので。

鈴木ユキオが受賞したことは、昨年の本公演を見て感動したぼくとしては正当だと思うし、そうじゃなかったらどうしようとも思っていた。ただ、あの上演は、完璧なものではなかったと思う。だから、「受賞者なし」という選択肢もあったはずだ。岸田戯曲賞は、少し前、そういう決断をした。そうした水準の呈示をファイナルの審査員がすることもありえたわけです。

ぼくは「トヨタ」外部の一観客として提案します。

是非、石井氏と伊藤氏でどういった審査をしたのか、いまの「ダンス」の状況をどう捉えているのかについて、対談をしていただきたい。それを、文芸雑誌か『ダンスマガジン』『DDD』かに掲載して欲しいです。文芸誌、ダンス雑誌の編集の方、どうかご一考ください。これが出なければ、「トヨタ」は「単なる内輪の発表会」になるでしょう。「コンテンポラリーダンス」は「同時代の」という言葉の意味が薄れ、単なるそういうダンスのジャンルと化すことでしょう(もうほとんどそうなっている気がしますが)。リアリティのあるアートとして外部の人たちからみなされることがなくなり、単に大学の舞踊科が支える「オーセンティック」なものとなり「現代舞踊~」とさほど変わらない存在と化すことでしょう。

ここまでこう書いてきましたが、ぼくは「コンテンポラリーダンス」の外部に自分はいる、という気がしています。

トヨタコレオグラフィーアワード2008

2008年06月29日 | ダンス
6/28
今年のトヨタが終わった。結果は、
「次代を担う振付家賞」 鈴木ユキオ「沈黙とはかりあえるほどに」
「オーディエンス賞」  きたまり「サカリバ007」
            KENTARO!!「泣くな、東京で待て」
「審査員特別賞」    KENTARO!!「泣くな、東京で待て」

ということに。

山賀ざくろ・泉太郎「天使の誘惑」
巨大な白いボードの前で踊る山賀を、ビデオ撮影したモニターに落書きすることでちょっかいを出す泉というのが、この作品の個性的なところで、しかし、冷静に見る限りでは、その個性は、十分に発揮出来たとは思えなかった。きっと山賀と泉を知らないひとたちには、下手なダンスと下手な絵という以上の化学変化を見せつけられなかったのではないだろうか。残念。ぼくとしては、泉のちまちましたちょっかいは、彼の自宅で自分の家のテレビモニターにツッコミを入れるという設定が全うされてこそ(このアイディアの発端に位置づけられるだろう「キュロス洞」がそうであるように)、出てくる意味があるはずで、つまり、2人の空間は、仮に舞台という空間を共有してしまっているのだとしても、可能な限り分断させて、勝手に踊っているひととそれに対して自宅の部屋からツッコミ入れているひとという「さみしー」2人が対比されるべきだった。そうした極めて「マイクロポップ」なコンセプトが十分に説得的に具現化されて、はじめてこの作品のポテンシャルが、「誘惑」とは何であり、「天使」とはどんな存在なのかが見えてくると思うのだが。

得居幸「Bring Me a PPPeach(もももってきてちょうだい。2)」(yummydance)
日常的な動作がある衝動をともなって思わず不意に勝手に動く、などということへ移行する、と、それが「ダンス」になってくる、というある種の「コンテンポラリーダンス」がもっている概念を丁寧にトレースしていく。わっわっ勝手に動いてしまうー。という自分でも分からない自分の何かこそがダンスの核なのだという思想は、ダンスの「内発性」を信仰する20世紀のある種の傾向にきわめて従順だな、と思い、その生真面目さは尊いがおどろくほどいまのぼくのなかでそういうダンス観はうまく機能してくれない。ヤミーに対して拙ブログの中で書き続けてきたことのように思うのだけれど、その「衝動で動いてしまう」という発想が舞台をきわめて「芝居がかり」に見せてしまっているのだ。モダンダンスのようなスタイルから自由な、しかし、エクスプレッショニズムに相変わらずがんじがらめのダンスは、どうしても「わざとらしい」と気持ちが萎えてしまう。何を自分が見たのか、ほとんど記憶にない。

鈴木ユキオ「沈黙とはかりあえるほどに」
冒頭の、バカ太郎(?「肉体の叛乱」の土方が「馬鹿王」だとしたら)みたいな素っ頓狂な動き、腕や脚がつっぱらかって、思うように動けないー、前に進もうとすると十個くらい余計な動きを経ないとならないーといったあの3分くらいのシーンが圧巻で、ほぼそれに対して賞が捧げられたのでは、と思うくらいそれは強烈だった。残念ながら、その後は、とくに真ん中あたりの鈴木が舞台から消え、代わりに安次嶺のダンスが時間を構成するところは、鈴木のダンスが単に即興的ないし個人的なものではなく、方法を含んだ振り付けであることを告げるという意味では重要な場面だったし、安次嶺のダンスは、鈴木の方法をきちんと咀嚼したものと映り、それ自体見応えはあるにはあるのだれど、やはり鈴木のダンスの極端な面白さにはかなわず、だから頼むから鈴木のダンスを堪能させて欲しいと希望しつつも、そうした冒頭に匹敵する瞬間は訪れぬまま、終幕。

KENTARO!!「泣くな、東京で待て」
ヒップホップ的なヴォキャブラリーを用いつつ、康本雅子的なリズムあてメロディあてのダンス。そこには、一定の快楽はあるけれど、だからといって、康本のような批評性や艶っぽさに並ぶ何かがあるわけではなく、彼の頭の中にあるのは、なにやら路上で自分の絵を売ってたりするような類のアーティストのような何か(に思われた)。こんないきいきとしたダンスを踊るぼくも日々悩んだり迷ったりしながら生きてます、そうした悩みにもめげず頑張って生きていきます、あ、ところでみんな大好きです、、、みたいなメッセージが舞台に充満。すごいうすーい内容に驚くのだけれど、同時に、この薄さがちょうどいいと思うひとも居るんだろうなと考えてみたり(今日のある種の日本語ラップの人たちの薄さに相通じるような)。自分の踊る身体の実存に苦悩するといった初期型にも似た苦悩を感じるが、しかし、その苦悩が初期型のようにこじれるのではなく、実に明快に舞台化される、そのさじ加減に、要はあまり見る者を悩ませない演出に、今日的な何かを感じる、かな。コンドルズがビジネスマンだとすれば、KENTARO!!は露天販売人?これが近々吉祥寺シアターでソロ公演を打つというのだから、「露天」なんて次元ではもうないのかもしれない、けど。

北村成美「うたげうた」
白い服を着た北村が口から赤い薔薇の花を漏らしその花が人生のさまざまなフェイズを照らしていく、、、といえばいいのだろうか。自分の内側に溢れてくる思いが体を踊らせるといった得居のところで書いたようなダンス観がここにも。ぼくはもうそこに何かを感じられなくなっている。不感症になってしまった。傍観してしまう。ひとつ思ったのは、北村はここで何がしたかったのだろう、ということ。トヨタに出ると言うことに対して、何か新しい挑戦とか、アイディアの呈示とか、自分を説得させようとか、野心があったのだろうか。ぼくはそうした強いものが感じられなかった。いつものしげやんが出て来て、いつものようなことをした、というものに見えてしまった。

きたまり「サカリバ007」
ドレスにしろ、マイクにしろ、最後の方に出てくる花にしろ、誰もが思い起こすのは、「これ、ピナ・バウシュじゃん」ということに相違なく、ただし、この作品を締まったものにしているのは、こうしたある意味べただとしてもバウシュの方法論を自分なのに丁寧に応用した、その方法的姿勢にあるとぼくは思う。とくに、最後の方の、ひとりの胸の辺りをひとりが後ろ手に拘束されながら蹴りを入れるシーンは、なんどもなんども繰り返される内に、なんとも言えない充実が起こってきていた。なんていうのは、いかにもピナ・バウシュ的。「キスしたい」という女の子の性欲がときに高ぶり、ときに停滞し、その上げ下げによって舞台が転がっていく。得居や北村のような内面というか、身体の生理への眼差しは共有しているのだけれど、その見せ方は方法論として一貫していて、見るに値するシーンをいくつか作っていたと思う。けれども、もうちょっと言えば、そうした「女の子の性欲」がダンスとして描かれたからと言って、それがなんだというのだろう。批評家は、こう書ける。「きたまりは、激しい情念に揺れる華奢な体を存分に振り回しながら、今日の女の子が抱いている欲望(性欲)に向けて、ストレートな、しかし十分に見応えのある方法的アプローチをもって迫った」。批評家がこう書けるために、彼女がこうした作品を作ったのでないとすれば、彼女がするべきことは、もっと真摯で残酷な視点を設定し、それをダンスの新たな方法を介して(他人のアイディアを単に応用するのではなく)具体化することだろう。

初期型、群々(むれ)

2008年06月28日 | ダンス
6/27
群々(むれ)「あたらしい世界」(@アサヒ・アートスクエア)を見た。
岩渕貞太、関かおり、ミウミウ、尾形直子、原田悠、長谷川寧、松本梓出演。と、初期型同様、これまでの日本のコンテンポラリーダンスを踊ってきたダンサーたちが集まって作ったグループ。ニブロール、山田うん、大橋可也&ダンサーズ、など。振付家というよりも、ダンサーたちが集まった集団という点も、初期型と重ねてみてしまう点である。どうも、アイディアが平板過ぎたように思うよ。つまり、「何かの刺激があって、それに応答する」というのの繰り返し。「群」というグループ名にある言葉を反映したものか、観客は、10人くらいずつ、ホールに入れられるんだけれど、その際に、照明の当たったところへ歩いてください、などと言われ、照明があちこちに流れていくたびに、それを追うように促されたりする。そういった「センサー」的な指令→応答がいたるところに張り巡らされていて、その実行が時間を構成する。ルールを設定するというアイディアは、神村や手塚と似ていなくはない。けれども、結果が大いに異なるのは、ルールを実行するに際しての態度が、クールではないという点に起因する。なんと言えばいいのだろう、指令→応答関係が貧困な気がした。応答の結果が豊かになる余地を残していないということでもあるし、応答のダンス(要は、タスクのダンスでありゲームでありうるのだけれど)であるならば出てくるべき運動の質が看過されているということでもある。残念ながら、タイトルにあるような「あたらしい」要素をぼくは感じることが出来なかった。
ともかくも、ダンスのクオリティが低くて、何を見たのかが思い出せない。いまするべきことは、地道な方法的探究なのではないか、とやはり痛感した。「見せるべきもの」は何なのか、ということが自分たちのなかで不明確なのだろう。それは、ダンサーが作ったグループということの難しさ、弱さが出ているのではないか。つまり、運動をかっちり見るべきものへと仕立てるための方法論が練りあげられていないのだ。すると、例えば、ダンサーが激しく暴れていても、本人達が思っているほどに、「暴れている」というダンスになってなくて、ただ「とっちらかっている」感じに見えるだけだったりする。その暴走が見る者に迫ってこなくて、傍観してしまうのだった。
ぼくは個人的に岩渕くんをよいダンサーだと信じている。今回の公演の中でも、彼の動いている姿はずっと見てしまう。何か希有なみずみずしさがある。一年前の「yawn」のような作品を岩渕はコンスタントに作らなきゃいけないんじゃないか、そこへと捧げるべき熱を、彼はここで消耗してしまうのだろうか。充実したソロ公演が個人的に見たいです。


6/23
初期型「MELEE」(@シアターイワト)を見た。カワムラアツノリ、アゼチアヤカ、カキウチユカリ、シゲモリハジメ、ヒラサワヨウ、フカミアキヨ、ネギシユキ、マツザキジュンらが出演(フライヤーの表記が全員カタカナだったので、、、)。何かを「新しいもの」として呈示することが新作公演の目的であるといった類の思考にもう乗る気になれない、、、というような気分が舞台に満ちている。そのもっともキャッチーなところは、若手の演劇出身というダンサー(名前が分からない)にカワムラが暗黒舞踏を教示する場面だった。パロディは、何かある内輪にいるものを「そのテンションはたからみるとばかばかしいよっ」なんて感じで批判するところで機能する。けれども、そうした「からかい」が機能するのもある内輪にいるものたちなのであって、つまりパロディが成立するには元を知らなければならないわけだけれど、そういう意味でパロディは内輪批判であると同時に内輪を強化する機能ももっている。要は、ばかばかしいことをやっている彼らのばかばかしさは、ある内輪にとってのみ「受ける」ものであって、ぼくとしては、そういう内輪を強化することになる自分たちのアプローチに対して初期型はどういう意識をもっているのか?なんてことが気になってずっとみていたのだった。要は、それをぼくは笑えなかった。けれども、どうも爆笑しているひとが客席にいる。ぼくはなんとなく、そのひとたちはダンスを踊る人たちなのではと思っていた。踊り手にとってのツボに何かしらヒットする身体動作なのか?と思いつつ、笑えないぼくには、それがどんなツボなのか見えてこなかった。総合的には、きわめて荒っぽい身体動作の連続で、そして力が強く入っている身体でもあり、何やら自分の肉体をこの場に見せつけたいという気持ちなのかも知れないのだけれど、そして、そうした肉体の実存とでもいうべきかの肉体性に、何かしらいまダンスの世界で起きているひとつの脈のようなものを感じたりもするのだけれど、簡単に言えば、それは「ギャーギャーなんかやっている」というもので、そのテンションの高さは、ぼくの見るエナジーを萎えさせた。

なんか、すごい、まだろっこしい文章になってしまった、、、
ぼくとしては簡単に言うと、いまなぜカワムラアツノリという日本のコンテンポラリーダンスのなかでとても重要なダンサー(山田うん、高野美和子などの公演でダンサーとして踊ってきた人物)がこのようなダンスへのアプローチを選んでいるのかがよく分からないのだ。コンテンポラリーダンスというものの輪郭を自らの身体を通して極めて正確に実現してきた男が、なぜ、パロディというか、「ギャーギャーなんかやっている」ダンスをやっていなければならないのか。よく分からないのだった。分からない僕の目からは、肉体をもてあましているダンサーの苦悩がじわじわと帰りの電車の辺りで感じられた、ということが印象的で、そうしたダンサーの実存はそれとして問題にすべきだろうけれど、ぼくはそれを見にお金と時間を費やしたいかと言えば、正直そうじゃないのだ。初期型が出て来たときの脇の下をパコバコ鳴らすアイディアには、見る側の楽しめる要素もあったのに。



nhhmbase(@O-Nest)

2008年06月22日 | Weblog
6/22
久しぶりにジョグ。浅川の土手をてくてくと。帰りは昨日買ったスクーターで坂を上る。

6/21
引っ越しをした先は、トトロの森のような森を背後にしていて、その斜面にそって階段状になっている建物にいると、鳥の声がかまびすしく、虫たちの侵入もにぎやかで、窓の外から見える木の葉の揺れているのとか、ともかく自然が主役で人間はその脇で暮らさせてもらっているなんて感じで、その主客の転倒がさしあたりとても気持ちいいのだけれど、そんな暮らしがぼくの耳になんらかの作用をしたのか、久しぶりにライヴで聴いたnhhmbaseの音色は、なんだか、ひとつひとつ粒だっててそれぞれが自己主張していて、さながら近景遠景から聞こえてくる鳥たちや虫たちの声(サウンド・スケープ)のようで、にぎやかなのにクリア、クリアなノイズってところが、これまで以上に印象に残った。独特の建築。スケルトンで作った戦闘機のプラモデルみたいな。攻撃的なのに、澄んでいる。凶暴なのに、繊細。今回目立ったのは、観客にごくごく普通の格好をした女の子が多いことで、彼女たちは、しずかに腕を組んで聴いたり、頭を軽く揺するくらいで、例えば、ブルーハーツのカヴァーを演奏している時(エゴ・ラッピンのヴォーカリストがゲストで演奏)でも、そんな風情で変わらずじっと聴いている。リスナー傾向の強い観客が増えた。ということが、「波紋クロス」というアルバムのクオリティの高さを物語っているようでもあり、今日的なパンク(エモコア?)の聴取というものが、そういうリスニング化の傾向をもっているということでもあるのだろう、と思えて興味深かった。

その他、にせんねんもんだい、ooIooが出演した。

自分に送信する

2008年06月18日 | Weblog
ある雑誌に打診して途中までオッケーが出て、結局没になってしまった原稿がありまして、出来の悪い息子かもしれないけれど、かわいいガキなので、ここで日の目を見せてあげようかと思い、アップします。ぼくとしては、この原稿のポイントが今回の秋葉原の連続殺傷事件の容疑者が行っていた3000回にも及ぶ、ほぼ自分しか読まないブログへの投稿という出来事と重なるように思えて仕方なく、その意味もあって、「たんに没」にしたくない文章なのですが。携帯という極めてパーソナルあるいはプライヴェートな側面と広く他人に開かれたパブリックないし演劇的な舞台空間に似た側面とがくっついたメディアが、わずかな救いをひとに与えているようにも思え、それが最後の救いなのかよと絶望的な気持ちになる。クレバの「あかさたなはまやらわをん」の歌詞にある「再現出来なくなるぬくもり」は、ベタだけど携帯の時代にひとがその便利さと快楽とを引き替えにして捨ててしまった(携帯では十分には再現出来ない)何か、だろう。

KREVA「あかさたなはまやらわをん」
KREVA「アグレッシ部」


自分に送信するメッセージ(の輪廻から抜け出るために)
KREVA『クレバのベスト盤』

 「クレバ面白いよね」って話はちょっと前からぼくの周囲の共通了解で、そこでは、明らかに「なんだそれ?」っていう言葉選びのセンスが失笑+称賛の対象になっていた。
 後日あらためて『クレバのベスト盤』をTSUTAYAで借りジョグ中に聴いてみた。「今日は俺が俺の味方/広い世界 ただ一人になろうが/オレは決めた/そうだアグレッシブ」(「アグレッシ部」←誤植ではない)。ジョグのストイシズムと合わさって、妙にフィットする自己肯定性。ラップ=エゴって等式はありふれているけど、ここまであからさまなのは珍しい?自己肯定というより、ただもう自分しか話し相手がいない、自分しか肯定してくれない、けどそれでいいそれでも幸福という、そうとう切なくギリギリな気分が「応援ソング」と化す。いまの青春のキツさを証している気がする。
 「言うことはもうない何も/もうというよりももともとないのかも」(「スタート」)。そもそもからっぽで、けれどもいま自分がこうして生きていることを確認したくて、とはいえ誰にも頼れず、だから「他の誰でもない オレがキーマン/背中押す手求める前に/オレがオレの悪いとこ直すぜ」(「アグレッシ部」)と言う。言う他ない。そうした自己言及性(自家中毒性)がタイトルやジャケや、いたるところに暗示されている。
 今年の3月、土浦で8人を殺傷した金川真大容疑者は逃走中「オレは神だ」とメッセージした、自分のもう一台の携帯に向けて。この絶対的孤独に失笑しても、他人事とはとうてい思えない。「あきらめる事もできたあの日/正気 狂気 境目辿り」(「ひとりじゃないのよ」)。そう、だからひとの「ぬくもり」(「あかさたなはまやらわおん」)が欲しい。けど、自家中毒から抜け出て他人と気持ちを合わせるのは至難の業。で、あ、だからそうか、あのダサめな言葉遣いって、失笑させ安心させて他人と繋がるKREVA流のテクなのかもしれない。

ベジャール、匿名的断片

2008年06月18日 | ダンス
6/14
大学の学科主催の学会で、渡辺章一郎氏の講演会を拝聴。「お宝探偵団」に出演されている版画のギャラリスト。その後、鶴川の旧自宅に行き、扉に掛かっている荷物をとる。『クイック・ジャパン』の新刊が届いていた。今号でぼくは、nhhmbaseの新譜「波紋クロス」のことについて書いた。その後、門前仲町へ。

手塚夏子「匿名的断片」(出演、捩子ピジン、神村恵、スズキクリ、手塚夏子、@門仲天井ホール)を見る。主として三つのパートに分かれていて、最初は、小さなちゃぶ台を真ん中に置いて、手塚と神村が向かいあったりするなか、捩子が脇で「プライベートトレース」を行っている、スズキが彼らの周りで鶏と卵の形をしたタイマーを置いてゆく時間。真ん中は、ものを順次交代で空間に配置していく時間。最後は、トレースの作業をみんなでやる時間(捩子がしたポーズを手塚が声でなぞり、録音したその声に従って今度は手塚がトレースを行い、さらにそのポーズについて捩子が声でなぞるとその声にあわせて全員がトレースを行う)。複雑といえば、きわめて複雑に出来事が重なり合っているし、それがある団子状の塊となって見る者に迫っているという点では、シンプルにも映る。これをある大きな括りでまとめるのはとても難しい。むしろそこに自分の身も置かれていて、その瞬間瞬間に自分がさまざまなことを感じその現在をどんどん消費し続けていった経験だけがじとっとぼくの体に貼りついている、ということがともかくどんなことがらより確固としてある(それ以外のことは、なんだかあやふやだ)。手塚夏子の試みは、もう本当に加速し続けていて、ゆっくりと反省する間も与えてくれない。「体で遊ぶ」ということの、あるエクストリームがここで験されていると言うことは間違いない。

6/11
モーリス・ベジャール・バレエ団「ボレロ」ほかを見た(@東京文化会館)。演目は、「イーゴリと私たち」「これが死か」「祈りとダンス」「ボレロ」。


知らなかったんだけど、

2008年06月12日 | ダンス
あるひとからのMLエントリーで知った。DCについて手塚夏子さんがしゃべっている!(&6/14の彼女の公演「匿名的断片」は必見ですぞ!もうこういうのを別に「コンテンポラリーダンス」とか「ダンス」とかとカテゴライズしなくてもいいよね!カテゴライズ嫌いのわくわく好きにこそ!)

匿名的断片についての匿名的放談


私事ですが、わたし引っ越ししました。川崎市麻生区の(愛の育たない町)鶴川から八王子に越しました。郵便物などは、新住所によろしくお願いします(メールをいただければ、新住所の情報返信致します)。今度は、そうとう山ん中。

ターナー賞

2008年06月05日 | 美術
6/4
免許更新で、半日を無駄にした後、八重洲でミーティング。その後、ターナー賞の展覧会を森美術館で見た。なかでも、マーティン・クリード「The lights going on and off」(2000)が面白かった。ただ、部屋の照明が五秒つき、その後五秒消える、ということを繰り返す作品。on and offのルールだけで構成される作家のコンセプト。ぼくがそこにいたときに、2人の客が同居していたのだけれど、2人とも音声ガイドを聴いていた。こんなに作品がミニマルなのに、ガイドとか聴いたら比率的にそれの方が上回ってしまうじゃないかと思ったりして、そのon and offを感じると言うよりは、そのコンセプト知ることにひとは邁進するのだなとケージの「4分33秒」のこととかも思い出しながらその景色を見ていた。(まあ、そういうぼくこそ、on and off以上に観客のそうした身振りに注目したりして、作品どころじゃなかったとも言える。というか、こういう作品からは、そうした作品鑑賞のノイズが際だってくる、ってこと?)
クリードの他の作品には、Work No. 503 (2003)というのもある。Chim↑Pom「ERIGERO」に似ている。

Saskia Olde Wolbersは、きわめてデリケートな映像に、ナレーションがきいていて、そのナレーションというあり方に興味をもった。

大澤真幸『不可能性の時代』(岩波新書)がとても面白い。帰りの電車でずっと読んでしまった。その電車で、新百合あたりで乗ってきたOL風の女性がちょっとあやしくて、ぼくの隣に座ったのだけれど、母親らしきひとからの電話にかなりムキになって、公衆の面前であるのも構わず語気を荒げていた。斜め向かいの男がいい加減切れて批判の声をあげたりしていて、車内はもうなんだか不思議な空間になっていたのだけれど、向かいの女子高生が笑いを噛み殺しているのに、ぼくも何だか同調して笑いあってしまった。その笑いの延長で、帰り際、彼女にちょっと話しかけたりしてしまったが、そういうある種の気持ちの同調っていうものが、もっと軽くできる世の中だったら、救われるんだよなあと思ったのだった。女子高生と30代の男は、別に「援交」なんか関係なくとも、笑いあったりちょっと話したりするのだ。そういう共感の笑いがときどき出来るのならば、ぼくたちは孤立せず生きていける、そう思うんだけどなあ。

faifai民家公演

2008年06月05日 | 演劇
6/2
下井草の民家を会場にしたfaifaiの公演「Chotto DaKeYOn~」を見た。ストーリーの細部は、彼らからのお願いで(公演後にそのような話があった)書くことができないのだけれど、ぼくは前作「ジンジャーに乗って」でも興味深く感じた、「自分たちについての語り」という形式をいま彼らが選んでいることについて、観劇後ずっと考えていた。基本的に、faifaiメンバーたちの過去の経験や現在の暮らしが話の素材になっていて、彼らはその自分が経験したこと、いま直面していることを観客に話し、その経験を追体験するような一種の遊びを用意する。
チェルフィッチュにとくに顕著な、観客に向けて自分のことを話す、というスタイルが、どんなポテンシャルを秘めたものなのか、ということについて、faifaiは、いま、取り組んでいるのではないか、となんてことなのか?とも思ってみている。チェルの場合には、観客に役者が語ることもあれば、役柄が語るということもあり、そして両者ははっきりと切り離されているわけなんだけれど、faifaiのこの公演や「ジンジャーに乗って」のとくに後半は、自分たちが自分たちを演じつつ、自分たちとして観客に話しかける。演劇の可能性というのが、演劇という形式の内部で更新されようとしているのがチェルのなかで起きている出来事だとすれば、faifaiでは、より現実に出会っている役者と観客との間で、だからもう演劇という芸術ジャンルの形式的なあり方というよりは、それが観客の手にわたり観客との共同作業として成立しつつある出来事が問題になっている。ほとんど、演劇のファンや関係者にとっては「意外」と言うよりも理解不能だろうし、そもそも未知の存在に相違ないchim↑Pomメンバー林が不意に登場したことは(chim↑Pomとfaifaiにある接点って???)、しかし、その点を考える上で、今後、とても重要になってくる気がしている。