Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

1/28

2008年01月29日 | Weblog
1/28
新宿にてBRAINZ関連のミーティング。

その後、思いの外時間が空いたので、伊勢丹などでぶらぶらする。セール期間が終わったショップは、もう春である。カラフルなジャケットや半袖Tシャツさえ出ている。気分の落ち込んだひともきっとはげまされる。

神楽坂にあるdie pratzeというスペースに「ダンスがみたい!6」の審査員たちがアフタートークをするというので、聞きにいった。

帰りに、Aと合流し、新宿3丁目のBriccolaで食事。もう完全にミーハーで「パリ新宿」(『Hanako』)論者なるなるさんの言うが儘に行ってみた。久しぶりに、外で美味いッと満足するご飯を食べた、かも。美しいものとか美味いものの凄いのは、余計なことを考えなくなること。つっかかりがなく、ただただうっとり出来る。個性がないわけではないのだ。むしろ強烈な異物感がある。にもかかわらず、するっと入り、納得する。なんだか悲しいような気持ちになったりもする。感情が揺さぶられる。数皿注文しどれも美味しかったが、最後に食べたティラミスが、素晴らしく、エスプレッソのしみたケーキ部分が「しみた」以上に「ひたった」といった感じで、口の中で苦みのあるソースが漏れてくるのだけれど、それを宿していたケーキもやや大きめの塊が口の中でごろごろと主張し、インパクトを与える。やわらかでまろやかでしかしきりっと男性的でもあるティラミス。

1/24-27

2008年01月27日 | Weblog
1/27
久しぶりに走る。10.75kmを54:02で。後半の方が断然気持ちいい。脳を刺激するいろいろなものが出ているのだろう。冷たい空気を入れたり出したりする肺もかなり喜んでる。タバコより空気がおいしい?
ランニングでこつこつやることの面白さと収穫の大きさを学習したので、Sarah R. Cohenのテクスト「Art, Dance, and the Body in French Culture of the Ancien Regime」(Cambridge University Press, 2000)を一日2頁ずつとか翻訳していくことに決めた。

ある方からどっさりCDを頂いた。細野晴臣「FLYING SAUCER 1947」とてもいい。60になってこういう域に達することが出来るならば、生きてみるのもいいもんだ。Kotringo「Songs in the birdcage」気の小さい矢野顕子みたいな歌だと思ったら坂本龍一がプロデュースしているものだった、ってどう解釈すればいい?中納良恵「ソレイユ」とてもいい。ituneのカテゴリーではJAZZなのだけれど、クオリティの高いポップス、ちょっとブルージー。最近は、こういうメロー気味の曲聞きながら走るのがぼくのなかで流行っていて、これ、いいかも。などなど。

1/26
銀座のINAX:GINZAにてLIVE ROUND ABOUT JOURNALなるイベントを見に行く。藤村龍至(1976年生まれ)と山崎泰寛(1975年生まれ)という若い建築家が企画・編集を務めるこれは、彼らと同年代かそれよりも更に若いブレゼンターを中心に、いまと今後の建築のあり方を議論するイベントで、ぼくが行ったこの日はドミニク・チェンが司会をし、また「ライブ編集」といって、ライブで話していることを奥に特設した編集室で即座に原稿化し、そして帰りにはフリーペーパーの状態にして配るというかなりアクティヴな趣向もあったりして、かなり熱い場所という印象をまず抱いた(お客さんも随分入っていた、100人近くいただろうか)。とりわけ「10+1」で最近盛り上がっている「批判的工学主義」というアイディアが聞けたことがとても刺激的だった(途中退出してしまったが)。帰宅後あらためて「10+1」の最新号(No. 49)を読み返してみた。藤村、柄沢祐輔、南後由和が提唱しているそれは、これだけだとちょっとわかりにくいかも知れないが、とりあえず南後氏のテクストからその核となる部分を引くとこういうものである。

「批判的工学主義は、場所など、建築をめぐる被制約性の社会的条件を明らかにするリサーチと、その社会的条件の再構成と形式化である設計とを不可分なものとして位置づける」(南後「「批判的工学主義」のミッションとは何ですか?」「10+1」No. 49。98頁)

「批判的工学主義は、資本の膨張にもとづく建築の規模に直截に同調することはせず、都市空間を編成する速度、量、規模を現前させている背後の不可視のコード--経済原理、法制度など--へと接近し、それら工学を取りまく社会的条件をいかに差配するかに論点をシフトさせていく必要があると考える。それにより……都市の統計的、社会的、造形的な側面を統合しうるような媒介行為として建築的思考を拓いていこうとするのである」(同上)

それは、建築が生まれる際にそこに影響を及ぼしてくる「深層」の諸々の社会的な条件(周囲の環境に対してどうリアクションしていくかということはもとより、彼らがとくに重視しているのはレッシグが今日の四つの権力としてあげる「法」「規範」「市場」「アーキテクチャー」であるところが興味深い)を、設計の過程に積極的にフィードバックさせて、深層へと積極的に介入していこうする態度のようだ。建築というものそのものだけではなく、その外側との接触を重視し、しかも単に表層的関係ではなく関係を成立させている深層部分の再構成へとアクセスする。

面白いのは、建築家の作家性を前提とした建築の作品主義に対する警戒心がこうした態度の背後にあることで、ぼくはそこにとくにシンパシーを感じた。つまり、南後氏は、

「唯一の生産者としての建築家と単線的に結びつけられた作品を建築物A」
「設計、構造、設備、施工、管理からなる建築生産の分野が扱う建築物をA’」
「竣工後のプロセスや「時のかたち」をともなった集合的作品および政治、経済の網の目に埋め込まれた建築物をA”」(同上99頁)

として、これまでAを中心に取り上げてきた建築ジャーナリズムに疑問をもち、A"へと関心を持つスタンスの発展こそ今後の進むべき道として称揚している。

最近(といってここ二年くらいかな)ぼくもダンスの公演を見ているなかでそれが生まれてくる環境に注意がそれていくことが頻繁にあって、ダンスを振り付けると言うことは、実はダンサーに振りを与えるのみならず、舞台空間やそれに対する客席の状況やそもそもその両者を取り囲んでいる劇場の運営環境、そして更にその外部にある社会全体との関係を振り付けているのではないか、と思い始めている。ただ身体に振り付けを与えるだけがダンスと思っている思考は、無邪気な作品主義に陥っているのではないか。作品主義を無邪気と言いたくなるのは、それがそのように成立している環境を無前提で受け入れてしまっているからで、例えば「喜び組」のダンスを単にフォルマリスティックに優美だと言って評価してしまうのが無邪気すぎではないかと思うのと同様の意味で。ある存在(建築、ダンス、、、)が成立する際に交差している複数(無数)のコンテクストにどこまで敏感であり得るのかということがその存在の評価となるはずだ、ということになる。

あと、面白いと思う点は、彼らが主たる考察対象としてあげる建築はスーパー、コンビニ、マンションなどこれまでは重視されてこなかったきわめて資本主義的な傾向の強いものだということ。そこにある「売れること」至上主義をネガティヴにではなく、建築の可能性を深めていく条件と考える仕方は、ぼくが「フリーター」としてのパフォーマンスを積極的に考えるべきではないかと以前ここに書いたことと重ねてみたくなるところがある。「フリーター」と言うと問題があるならば「今日的ー日常的に出会う労働形態」が身体に作用する際の様々な深層で働いている力を、否定的に捉えたり無視したりするのではなく、むしろ積極的にその可能性を掘り下げてみること。それは、単に優劣の逆転、ということではなく、そうした身体が生まれるところに何がどう働きかけているかについてまさに批判吟味してみること、そうして今日の身体行為のリアリティを炙り出してみることにこそ価値がある。それを単に「作品」というフォーマットで従来通り呈示するのではなく、呈示の仕方を含めその考察が様々な部分に変容を与えていくことが起こらなくては意味がないのだけれど。

1/25
BRAINZの最終回。極寒の渋谷。何か、昨年の「超詳解!20世紀ダンス入門」から始まった一連の流れがひとまずゴールを迎えたみたいな気になった。いやいやまだまだこれからだ、と思いつつも。

1/24
国士舘大学でテスト。これで最後か。任意の課題だった美術館レポートをほぼ全員が提出してきた。このクラスの最後の講義の日に、聴講の態度が悪いので学生に注意したことがこういう形で帰ってきた。さて、これから合計約250人の答案を採点することになる。どこにそんな時間があるのだろう。

1/21-23

2008年01月23日 | Weblog
1/23
明後日、金曜日(1/24)はBRAINZの最終日です。「観客」をテーマに前半ぼくが話し、後半は、受講者の方々による「新しいダンス、演劇、パフォーマンスetc.の発明」発表会の予定です。初めての方も、どうぞ興味があればお越し下さい。

wonderlandに大橋可也&ダンサーズの企画「ダンス蛇の穴」にて行われた「関係者全員参加!ダンスクリティーク」についてまとめの記事を書かせてもらうことになりました。三回にわけて掲載させてもらいます。今回は、どうしてこういうイベントを実施しようと思ったかについて整理しました。目下MLのみですが、数日後にHPにアップするはずです。ご一読を乞います。来週には、実際このイベントがどういうものになったのか、再来週には、このイベントがさらにどんな「ネクスト」へと繋がっていくべきかについて反省する予定です。また、いずれ、現場での模様をネットでオープンにすることも協議中です。

雪。夕方それでも走る。5.24kmを27'37"。こんなに寒くても、走れば汗をかく。雨もウェアを濡らす。10分くらい走ってからのあの気持ちよさは、ちょっとすごくて、はまる。


1/21-22
洋書など届く。『ユリイカ』のマドンナ特集[2006.3]を送ればせながら読む。三田格の論考「窓女」がとても面白くて刺激を受ける。マドンナの「見せる」生き方の変遷を論じて、いつか、渋谷の街中(いまのぼくたち)に行き着く。

「誰かのことを「見る」のは、前にも書いたように、もはや「見せられている」ことと同義なので、渋谷などを歩いていても「見たら負けだ」という感覚の方が強く、誰もが「見せる」ことには頭を使い、お金を使っていても、その成果を「見る」人はほとんどいないという場所になっている」「どう考えても誰もが視線には飢えているのに、誰もそれを分け与えようとはしない。ただひたすらプレゼンスを高めあっているだけである」(140)

自分もこうやってブログを書いたりするので、他人事ではないのだけれど、三田さんの言うようにいま「誰も」が自己顕示欲に燃え、ストリップティーズに意欲を燃やす。けれども、そこには観客はいない。自分を「見て!」と言う一方で誰かを「見るよ!」とは言わない。いや、一層進んで「見て!」ともとくに欲求しないまま、ただただ「プレゼンスを高めあっている」のがいまなのでは。自分が「見られる」ことを必要としない「見せる」振る舞いの自己満足。となると、作家の死というよりも、観客という存在の死が、いま起きていると言えるのかもしれない。

1/18-20

2008年01月20日 | Weblog
1/20
午前中、wonderlandに寄稿する原稿を整理する。
夕方、10.7kmを53'23"。4'59/kmはさすがに嘘だろと思うが(Nike+マジック!いやまだ微調整をしていないせい?)、走れるようになってきてどんどん走ってしまう。走りたくてウズウズしているぼくはいまランニング・ジャンキーってな感じですか。ぐんぐんスピード上げる時とか、ちょっと狂ったように加速させたりする。中学生の時は、短距離走の人間だった。いま、こうして長距離にはまることになるなんて、思いもしなかった(そういえば、中学生くらいの頃は、三十代半ばで死ぬんだと思っていた)。何故か、走る時聴くのは、ミディアム・テンポの曲だったりする。今日は、ニック・デカロ「イタリアン・グラフィティ」。いいなー、と思いながら、肉体エンジンを燃やす。

1/19
午前中、wonderlandに寄稿する「関係者全員参加!ダンスクリティーク」のまとめ原稿を書く。思いかけず長大な文になってしまった。
四時、康本雅子+井手茂太「日本昔ばなしのダンス」(@さいたま彩の国芸術劇場)
六時、HOSE×田中功起(@東京都写真美術館)
八時、小指値の稽古見学

今日は、とてもスプレンディッドな一日だった。どれも、等しく素晴らしかった。田中功起の展示してあったビデオ作品が、サッポロ・ビールで撮影した工場の映像で、それがよかった。ベルトコンベアの上で微妙に揺れるビンのキュートなこと。あたらめて、三つの感想を。

1/18
ニブロール「ロミオORジュリエット」を見る。


1/16-17

2008年01月17日 | Weblog
1/17
国士舘大学テスト。
夕方、ジョグ。11.52kmを1:00'05"で。二回山を登り下って、リス園とぼたん園を脇で見て、下校帰りの中学生をかきわけて。最近、走ることに狂ってる。

1/16
しばらく自分の読みたい本を読んだり、とくにあてもなく図書館をぶらつくなんてことが出来なかった。ようやく!
和光大で借りた、カトリーヌ・クレマン『フロイト伝』(青土社、2007)、流れるような文章でぐいぐい読まされる。フロイトに「あなた」と語りかける女性哲学者による文章。軽く驚いたのは、妻マルタと四年もの婚約の期間に(その後半の2年間に)、しかも婚約者と離ればなれだったその間に、彼がコカインを常用していたという逸話。冒頭から彼の最晩年の(あごの癌であることから生まれる)口臭の臭さを話題にしたり、「精神」分析の創始者であるフロイトの「身体」との関わりに、クレマンはしばしばフォーカスをあてる。

「シュルコーの家でのパーティが不安なとき、フロイトは一服、「舌をなめからにするためにコカインをちょっぴり」服用する。自分をより〈男〉だと感じるために、一服、用いる。悲しいときに、用いる。そして二年の間、マルタに手紙を書くとき、フロイトはドラッグ常習者だった。」

フロイトは、コカインを研究した。それは麻薬常習者の友人が、麻薬(モルヒネ)から自由になるために。しかし、その友人は「恐るべき苦しみ」の内になくなる。

「あなたは麻薬中毒だった!ずっと続けていた!かの物質と手を切れなかった!やめたのは、やっと十年後だった!ほんとうですか、教授。あなたはジャンキーだったのですか。」


1/13-14-15

2008年01月15日 | Weblog
1/15
午前中は、前日に原稿を提出した「レビューハウス」からゲラが届き、チェック。ようやく、のんびり出来る、テストとかその点付けとか残っているけれど、ほぼ春休み状態、Inputする時間的余裕が、やっとやって来た。

シアター・テレビジョンのダンス番組を立て続けにチェック。金森穣「no・mad・ic・project 2005」モーリス・ベジャール「ベジャール!」など。ベジャールのは彼を紹介するドキュメンタリー番組なんだけれど、良くできていて、貴重映像も満載。

今日も夕方ジョグに励む。9.5キロを51分で走る。666キロカロリーの消費。ビールが美味くなる、それがとてもいい。

1/14
ちょっとずつ、ちょっとずつ仕事が片づいていき、その分、ちょっとずつ、ちょっとずつ気分が軽くなる。

ジョグに励む。iPodの記録で見ると、2週間以上、ちゃんと走っていなかった。夕方、スティービー・ワンダーのバラード・アルバムを聴きながら、わっせわっせと一人走る。近所は、平坦なまま走れるルートを見つけるのが極めて困難、どうしても、一部坂道を走らざるを得なくなる。そして、どうしてもそこは歩いてしまう。そして、そうなるとどうしても、iPodに残る成績は、よくないところが残ってしまい、平均のポイント(平均速度とか)が悪くなってしまう。といって、坂道のところは、Nike+を一時停止にするっていうのも、どうかと思う。10キロを55分で走る。700キロカロリーの消費。

Chim↑PomのマネージメントをしているFさんからメールと電話が立て続けに来た。「レビューハウス」原稿のチェックを依頼していたのだった。Fさんによれば、先週末開催されていた、ART@AGNESで、Chim↑Pomは、こっくりさんを6人でやって、こっくりさんにうんこを描いてもらったそのドローイングを福袋として出店していたのだという。ほ、欲しかった。つーか、そのアイディアって、ぼくの原稿の見事な裏付けになるものじゃないですか。霊媒をアートに用いたひとたちと言えば、あのひとたちがいますが、ぼく、そのひとたちとChim↑Pomとの連続性を、今回恐る恐る書いてみたんですよねー。

1/13
「関係者全員参加!ダンスクリティーク」の最終回、捩子ぴじんさんと手塚夏子さんをプレゼンターに迎え、今日も充実した会となった。どんな話題になってもブレない手塚のトークは、在野の哲学者という閾に達していると感じた。これはいつか彼女の本を作らなきゃだ(ぼくが非力ならどなたかの力で!)。捩子さんの話しもとてもクリアだった。すぐれたダンサー、振付家は、明晰に喋る。これ、ぼくが今回知った格言。帰りは、大橋さんやダンサーズの皆さん、スタッフの方と「牛角」で打ち上げ。

「ダンスクリティーク」へのお誘い

2008年01月12日 | Weblog
明日、1/13に大橋可也&ダンサーズによる企画「ダンス蛇の穴」でぼくが司会を依頼された「関係者全員参加!ダンスクリティーク」の最終回があります。今回のプレゼンターは、手塚夏子さんと捩子ぴじんさんです。五回に分けてダンサー・振付家から自らの作品の方法論を聞き、そして皆でその可能性などについて批評し合ったきたこの会も、明日で最後です。これまで四回が終わり、ふり返ってみると、いろいろと貴重な意見が飛び交う、良い時間だったと思っております(司会の至らぬところは、多々ありましたが、、、)。場所は、森下スタジオ、時間は6時半からです(チケットは当日券のみ1000円です)。お時間のある方は、どうぞ気軽にお越し下さい!

1/12
久しぶりに泳ぐ。
帰るとマドンナの写真集『SEX』(古本、CDなし)が届いている。

Improvisationに関する映像を調べていたら、パクストンやフォルティなどジャドソン派の重要人物の映像がYou Tubeにアップされていた。
Steve Paxton: Material For The Spine
Steve Paxton
Simone Forti
こんなものもあった。
Paradise Now: The Living Theatre

1/11
服を買いに行くと股下とか測られて、しょげる。自分が「標準以下」であることを思い知らされる(背丈とか、足の大きさとか)。

どうにか『レビュー・ハウス』に寄稿するChim↑Pom原稿が完成した(ほっ!)。年末年始に依頼されたアンケートをどんどん返信する。

1/10
この日は、シアター・テレビジョンで録画した番組をDVD-Rに焼く方法がようやく分かった日。「吾妻橋ダンスクロッシングThe Very Best Of AZUMABASHI」などを見る。

『マドンナ madonna: the ultimate collection』(DVD)を見る。二枚組で、一枚は80年代、もう一枚は1993-1999年のマドンナのPVが見られる。80年代の映像は、ともかく感動的だ。同時代の美術作家・シンディ・シャーマンのこととか、あるいはマドンナに影響をもろに受けていた当時の日本のアイドル(松田聖子など)、歌手(渡辺美里、レベッカのNokkoなど)のこととか思い返す(いま起きているさまざまな事象の原型がここにあるのだなー)。二枚目の方は、クラブ・ミュージックの傾向が強まり、やや模索している感じが伝わってきて、それもまた面白い。当時、90年代、マドンナのことほとんど無視していた。あらためて見直し、いろいろと考える。ダンス・ミュージックを作り続けてきたミュージシャンだということを確認。それが最近では「ディスコ」だったり、というわけで。

1/9
専修大学講義最終日。昨年のぼくのゼミをとってくれた学生がこの講義でも来ていて、毎週、黒板を消してくれていた。講義の後にちょっとだけおしゃべりして元気をもらってた。ささやかな出会いだったけど、最後の日はちょっと寂しい。 -->

1/7

2008年01月08日 | Weblog
1/7
多摩美講義(最終)は、手塚夏子さんを迎えて、彼女の身体へのアプローチの変遷を話してもらい、ささやかながらワークショップもしてもらう。

その後、上智大で現代美学研究会。

1/6

2008年01月07日 | Weblog
1/6
ようやく、声が出るようになる。

新人シリーズ6を見る。
米倉和恵「TEAR 子宮のラビリンス」
心の中にある絵を舞台化したいという欲求は、相当程度のダンサーが共有している願望のようだ、けれど、相当のセンスがない限り、まず成功しない。それは、何かの動作を何かとして見せることをスムースに観客に行わせる力量がまず基本としてあるかどうかに掛かっており、でも、それは全然「基本」であって、そこからどれだけことを転がし、際だったイメージを展開などし、観客をどこか彼方へと連れて行ってしまえるか、そのあたりが勝負のしどころになる。そのレヴェルにについてどうだったかなんてことが見る者の話題になるように作らないと、ちょっとひとに見せるもの、つまり作品などと言えるものにはならない。羽毛が舞う、床に散らばる。それが、とても汚く見えた。つまり、見せたいイメージをつきに阻害するだろうものでありながら、安易に、不必要なところで、それが床に散らばったままになっていた。どうしてそれでいいと思うのだろう。自分の心の中のイメージに、観念に酔いすぎなのだ。その分、本当はそちらが主であるはずの現実の舞台がおろそかになっている。

斎藤麻里子「パラダイス」
黒沢美香&ダンサーズに参加しているダンサーらしく、舞台はきわめてストイックでデリケートに構成された。音響なし、照明もまったく変化なく、明るくフラットなまま(本当に、これで何の問題もないのだ、ダンスの公演は。しばしば問題を引き起こすのは。むしろそうじゃない場合なのだ)。ギョロッとした目とか、おかっぱの髪型とか、顔に興味を湧かずにはいられないルックス、そのことを本人がちゃんと自覚していて、顔の角度を小さく変えるだけとか、ぎょっとする表情で静止とかを繰り出す、うまいなと思う。ハエよけの傘をさかさにしてそこに折り鶴を沢山乗せている。それをこぼし、あらためて、拾っていく。間、リズムが絶妙。身体にスリルを湛える力量は、黒沢系と呼びたくなるほど、黒沢的であり、充実している。もっと見たいと思わせると同時に、斎藤らしさというものが一体、どういうものとしてせり上がってくるのか、今後の活躍にとても期待したくなる。

磯島未来「Matilda」
磯島も黒沢美香の薫陶を受けているダンサー。PINKという女の子三人組のグループも組んでいる。最近、Chim↑Pomとか小指値とか、集団で活動をしている、あるいは集団であるからこそ個性が発揮できていると思える若い作家たちに、自分の興味が高まっていると感じているのだけれど、PINKは、そうした興味をダンスの分野で感じさせる人たち。若いひとにとっては自意識とどう戦うかという問題が余りに大きいので、一人での活動だと、どうしてもそこに突き当たり、前進できなくなりがちで、しかし、集団になることで、その悶絶から自由になるということがあるのではないか、なんて思ったりする。
つまり、何が言いたいのかって言うと、磯島はソロよりもPINKの方がいい、で、今回もやっぱりそうかなと思ってしまった、ということ。振り付けの基本はふたつ、旋回と落下。磯島は、繰り返し舞台の外周を走ってめぐってみたり、回ることに集中する。そして、椅子に乗り、かなり危険な状態で、膝ごと落下したりする。「葛藤」とか「模索」とか、そんな言葉が浮かぶ、それが若さを表現していると言えばそうだし、若い磯島ならではの舞台になってはいるのだけれど、それは一方で「若い」ということに無反省な感じ、にも見えてしまう。ひとに自分を見せる、ということは、例えば、何か巨大な「真実」を隠しもって「嘘」を飄々とつく、そのくらいの「駆け引き」がないと成立しないようにぼくは思っている。そうした、見る者を引き込む仕掛けを用意することが大事なのではないか。

1/4-5

2008年01月06日 | Weblog
1/5
午後、西荻窪にて、新年会。いまだ風邪直らず、声出ず。

die pratze新人シリーズ6を見る。
ユマニネマyeux manie-ne (ma)「endleofan minutes over aphorism」(これまでグループ名を間違えて記載してました、すいません)
ヴォキャブラリーは既存のダンスを踏襲していて新味はない。ジャズとかストリートとか。ただし、そこで展開される事柄が何かこれまでのダンスの分野にはあまり見かけないようなものに映る。悲しいような、救いのない、いたたまれないような気持ち。マインドとしてのゴスというか。そう思ってくると、出てくる振りのありふれた感じが、ダメと言うよりもライトノベル的、あるいはキャラや表現スタイルに個性をあまり感じない類のマンガ的とでも言うような、既成的なものの執拗な反復をしているものと似ているものに思えてくる。その点で、ある種のリアリティを体現している気がした。何がしたいのかは明確ではない、けど、何か興味深いものを今後作るような予感を感じる。

川上暁子「苛性ソーダ」
暗い舞台が次第に明るくなり、静止状態から次第に激しくなっていく。よくある感じの進行。

坂本典弘「spot」
神村恵カンパニーで「ビーム」に出ていた坂本。音響は、一定の間隔で切り替わる。テンポのいい音楽と、お喋りのテープが2つと、キースジャレットのジャズ・ピアノ(あとでも言うようにジャレットだけ他の倍の時間)。それに応じて、ダンスの印象が変わったりもするが、基本的にやっているのは、終始、ごくミニマルでシンプルな動作。運動の流れ、瞬間に出てくるポーズにセンスを感じる(見ることを誘発される魅力的な奇矯さがそこに含まれている)。ただ、「はずす」という仕方が「自分の隠れ蓑を用意する」なんて状態へとやや安易にスライドしている気がして、結果、「照れ」というか「自分問題」に過剰に意識的になっているように感じ、気になる(「照れ」「恥ずかしさ」はすぐれたダンスの必要条件ではあると思う、のだけれど)。とくに、一定の長さで、音響が変化してきたのに、最後のジャレットだけ執拗に長く、そしてその分、ピアノのデリケートな旋律に呼応するように、「変にナルシスティックな没入が起きてます」的な見せ方が高まる。そうした演出があって、さらにそれをやっぱり「はずす」ように、手が鼻へと向かいそして鼻を吊る、と、突然脇から女の人が出てきて、坂本の頬をひっぱたく。すかさず反撃に出た坂本は、女の子の胸にぴとっと手をやり、暗転、終幕。その、終わりの仕方の、「なんちゃって」と手前に作ったテンションをあっさりひっくり返すなんてところが、坂本の鋭さを物語る部分であると同時に現時点での限界を示しているようにも思ってしまった。次回作が見たい。


帰宅後、NHKトップランナーに出演する康本雅子を見る。

1/4
風邪直らず。

1/1-2-3

2008年01月04日 | Weblog
1/3
後楽園ホールに「マッスルハウス5」を見に行く。

1/2
五反田団、ハイバイなどによる新年工場見学会08を見に行く。
ザ★天井「珍徳丸」作・演出 岩井秀人
ザ・ノーバディーズ(演奏)
劇団黒田童子「思いやりをすて、母を出よ」作・演出 前田司郎

1/1
名実ともに寝正月。風邪で熱が出る。

2008

2008年01月03日 | Weblog
大晦日から今日まで風邪をひいてしまい、コンタック(風邪薬)で朦朧としていました/いますが、この本に励まされながら生きていました。年始にこのような本に出会えて、本当に幸福だ。鈴木雅雄というシュルレアリスム研究者のこの本は、ぼくにとって、シュルレアリスム研究の書であるのみならず、他者(公演という名の、あるいはその他のあらゆる)とどう関わるかへ向けた批評論であり、優れたゆえに「愚か」さを隠すことのない恋愛論であって、不意に拾った下記の引用文をもってぼくの新年の挨拶とさせていただきます(お会いしたことのない「あなた」である鈴木雅雄様、どうか「私」の愚行をおゆるし下さい)。


「シュルレアリスムとは真実と現実との齟齬としての痙攣を指し示すことだと----シュルレアリスムにはそうした側面があるというのではなく、端的にそれこそがシュルレアリスムなのだと----結論することは可能だろうか」(298)

「シュルレアリストたちにとって夢を語ることは、いわば現在のなかで「私」と夢との還元できない距離を提示する実践であると思える。」(299)

「なぜかはわからないがそうでなくてはならない具体的な細部」(302)

「私はあなたの聞いた声を聞くことはできない。しかしそれにもかかわらず、私はあなたがその声を聞いたと思わずにはいられない。私はあなたの語った言葉とあなたとのあいだにいかなる結び付きも見出すことができないが、まさにそのゆえに、私はそこにあなたの痙攣があると思ってしまう。そしてそう思ってしまうことこそが、私の痙攣なのである」(313)

「語る対象に対し、自分をメタ・レベルに置こうとする意図ほどシュルレアリスムに無縁のものはない。だがまた対象と同化し、ついにその秘密を分有したという特権者の自尊心も、そこでは決定的に排除されていた」(321)

「シュルレアリストたちは痙攣者へと盲目的に接近し、共有しえない真実のありかであるはずの彼/彼女の身振りをただ反復することで、彼/彼女とはまったく異なった何かを生み出そうとする。「まず、愛すること」とは、直観による伝達の神秘化ではなく、結果を予期しない狂おしい反復への誘いなのである」(321)

「解釈投与が症状を解消できないとすれば、とりあえず症状のまわりに任意の言葉を巻きつけていくよりほかない。そうした言葉、解釈ならざる解釈は、真実と現実との距離を決して埋められないのであり、したがってそれは「解釈」としては常に挫折すべく運命づけられているのだが、しかしその失敗だけが新たな真実である出来事を生み出す条件となることができる。だからおそらくこう結論できるだろう。もし出来事を呼び出す方法がありうるとすれば、それはただ「私の真実」について、誰かと何かを語ることなのである」(328)

「私の言葉と私の真実との不一致を利用して、無時間的な時間----作品の時間----のなかで書き手と読み手がその「私」を重ね合わせようとする契約関係こそが、近代的な意味での「文学」であるとするなら、どこまでも作品の時間を拒絶し、文学になりえない私の真実をはさんで他者と向かい合おうとすること、まさに文学の不可能性であるこの関係を隠蔽すまいとする契約関係こそが、シュルレアリスムの複数性である」(330)

「いうことの不可能性を共有するのではなく、私とあなたとははじめから向かい合っており、その関係の非対称性によって働きかけ合うことができる。顔を失う必要も供犠を介する必要もなしに、さらには一旦意識を失って恍惚のなかに投げ出される必要すらなしに、真実と現実との齟齬という形で、私とあなたとは痙攣を受け渡しあうことができる」(331)

「精神分析は、それが不可能であることによってこそ美しい。そうでなければ私たちは再び、あなたの真実はどこから、なぜやって来たのかという問いを立ててしまうことになる。私とあなたとは、共有しえない真実を前にして、その共有不可能性によって否定的な共同体を作ってはならないが、終わりなき分析----なぜを問い続けること----に陥ってしまえば結局あの距離の体験は解消されてしまう。共有できない真実をいかに機能させることができるかという問いを問い続けることでだけ、私はあなたとともにあることができるのだ。」(332-333)

「シュルレアリスムが私たちに教えているのはだから、ある単純な事実、なぜという問いにからめ取られてしまったとき、私たちはそれを解決することができず、ただ忘れることができるのみであり、そしてそれを忘れるために私たちが手にしている唯一の方法は、愛することだという事実なのである」(333)

「シュルレアリストたちには、何か決定的な愚かさの印象がつきまとっている。作品などどうでもいい、私は愛さなくてはならないのだからと、そんなふうにいえてしまうあの性急さは、たしかにさまざまな理論的ディスクールとの対峙を迫られたとき、きわめてもろい。私はだから、その愚かさこそがシュルレアリスムの可能性であることを証明したいと思った」(366)

「意図して愚かであることは不可能だが、誰かとともにあることでそれは可能になる場合があり、またその可能性がゼロでない程度には、私たちはみな愚かなのではなかろうか。自分についてなら確信がある。いえることだけいおう。いずれにしてもエルモアの名前を口にするだけで充分だ」「実に馬鹿げた話だが、私は自分がいつかクラシックやジャズを愛聴する誰かと、(友人になることはあっても)ともにあることはできないという確固たる確信があるし、そうでない世界を想像することはできない。エルモアという名のティッシュペーパーが大量に積まれているのを見ると、私は今でもいくらかたじろぐ。」(366-367)

鈴木雅雄『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』より(著者による傍点は割愛させて頂いた)