Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ピン芸人=ネットの書き込み=被自転車泥棒

2005年04月30日 | Weblog
もう「先細り」的になりつつあるかも知れないけれど、「ピン芸人考」というワードのファイルがぼくのデスクトップにある。ちよっと、いやどうしても考えてみたいテーマなのだ。このテーマは、「プチ狂気」とでも言ったらいいような現代的な問題にゆるやかにリンクするものとしてぼくのうちにある。

ピン芸人のネタには、真っ当なことを言おうとしているヘンな人というのがしばしば登場する。「友近」などが典型なのだけれど、一部「ヒロシ」もそういうタイプ。

「真っ当なこと言おうとしているヘンな人」というのは、「常識」を説いているのにその「常識」を説いている人がそもそもヘンだから、フツーな人が聞けば常識から逸脱したことを言っているわけで、でもそのことはまったく反省できていないそういう人、のことである。フツーの人の常識からは外れたことを言っているのでその言葉は「ボケ」となり、観客の側に笑いが起きる。でも、裏っかえせば、このヘンな人は自分は正しいことを言っているとそう思い込んでいるわけである。

ぼくは、こういう笑いが受けている背景には、こういう馬鹿な奴がいてしょうがないなーと引いて笑っているというよりも、こういうことありうるよなーとどちらかといえば自分に引きつけて見ている、という感じがしてしようがない。ぼくらは自分で大丈夫と思っているだけで、ちょっとずれればすぐに「ボケ」の立場の、つまり常識を語っているようでヘンな人に陥る危険のなかで生きている、のではないか。その不安がピン芸人という存在なのではないか。

例えば、
ネットの発言などに、そういうものがよくあらわれる。

他人を批判する身振りで、近視眼的に言うと正しくもあるのだが、もう少し引いてよく見れば、偏向した発言に過ぎない、あるいは一部に過剰に反応してしまっている発言に過ぎない、というもの。

そういうものは、自分に関係ないBBSやコメントのやりとりなどをざらっと見ているとき、あらゆるところで散見される。
この現象は、実に興味深い。

コメントするというときに何かが起きているのだ、恐らく、自己形成(成型)とでもいうべきこと、が。
かつてある時期、自叙伝をフツーの立場の人が書く「自分史」ブームがあった。それって、多分、自分のことを書くというよりも、書くことで自分を成型するというか「捏造」するというか、そういう行為なのではないか、なんてあのころ漠然と考えていたのだけれど、多分、ネット上で「コメントする」というときにも同様の自己成型が生じているのではないかと推測する。

だいたいが、普通自分なんてないのである。「自分」の「コメント」が求められる場なんて、社会のなかでそうそうないのだ、普通は。それが、ちょっとブログを自分で無料で立ち上げただけではじめられる、あるいは自分で立ち上げなくても、どこかに書き込むことで「自分」の「コメント」を世に送ることが出来る。これは人類史上の一大出来事なのである。誰でも書き込みをして、人から注目を浴び、人から賞賛や同意をうける可能性を享受することが出来るようになった、のである。

でも、そこで真に生じる出来事は、「自分」というものを設定することであり、そのことの困難さの自覚なのではないか。賞賛を受けるという夢は、必ずしも成就せず、大抵は--揚げ足取りも含めた--批判であり中傷だったりする。賞賛されると思って設定した「自分」は、賛同を得ることもなく非難されてしまう。はい、ここでひとびとが陥るのは、「真っ当なこと言おうとしているヘンな人」という非難なわけです、ぼくが思うに。そりゃ、どんな発言でもある角度から見れば「ヘン」なのであって、どんな発言でも「ヘン」の烙印を押すことは出来る。でもね、ここでまた面白いのは、ひとの発言を「ヘン」というひとというのは、ある意味ではまさに偏向した、妙な角度から「ヘン」と言っている場合がしばしばあり、冷静な距離というか常識的な立場というものが保たれていないのは、発言者なのか、その発言の批判者なのか、その両方なのか定かではない、という事態がしばしば起きている、と思うのです。

うああ、思わず長い文章になってしまいました。こういうぼくを「ヘン」と言わないで下さいー。つづけます。

要するに、「常識」というレヴェルをちゃんと内に保つことが難しくなっているのが、あるいはそういうものに何ら信用をおくことなく、故に、互いが互いを「ヘン」と言ってどこにも調停者を求めることのない状態というのが、いま、なのではないかーと考えるわけであります。

まあ、「いま」と言いましたが、二百五十年くらい前にカントが「いま」の問題としてこういうことを考えていたのでありまして。人間というのは、今も昔も、という気になるというのが正直なところであります。

例えば、いまも、和光大学の図書館に本を借りに行ったところ、まんまと自転車を盗まれてしまいました。「鍵をかけなかったのは、ぼくの過ちです」と言えば、常識的な結論なのかも知れませんが、ぼくの言い分を言えば、「大学でなんで自転車が盗まれるのだ、ぼくは大学生というものが自転車を盗むとはまさか考えられない、だから安心していたのだ」、ということになるのです。ただし、こう言えば、ぼくは「ヘン」な人になるのでしょう。常識を正しく(?)設定できなかった自分は、ただし別の常識(大学生という者が自転車を盗むわけはない)に従っていたとも言えるのですが、これは「ヘン」なわけです、ね。長年親しんできた自転車を誰かに乗っていかれた切なさは、誰にも賛同をうることなく、言われなき「自責の念」へと変えられようとしているわけです。二重に孤独な「ヒロシ」なのであります。

錦会

2005年04月29日 | Weblog
という日本舞踊のグループの公演にはせ参じる(4/29)。

朝起きると、ちょっと喉が痛い。あれ、いまごろ風邪か?季節の変わり目は苦手なのだけれど、最近はそういうこと忘れるくらい健康だったのに。まあまあ、ちょうどよく、十日ほどの休みがはじまった。

さあでは休みらしい休み、ということで、おのぼりさん気分で半蔵門の国立劇場へ。

いやあ、久しぶりに(二年ぶりか、あとで自分の日記で調べてみよう)見ました日本舞踊、やっぱりいいですね。腰と背中ががっちり固まって、板入れているみたいにそこはずっしり安定しているのだけれど、その分、手や首や足などの微妙な動きがとても魅力的な愛嬌あるものに感じられる(この公演にさそってくださった、そしてこの日記にも時々登場するカント研究者「名古屋嬢」Tさんは、この会で週二回も稽古に励む裏の面もある方なのですが、彼女曰く板のように見えて、背中は柔軟に動いているのだそう、それは気づかなかった、またその分肩は完全に固定なのだという)。

微妙な首の動きなどは、「踊り」と言うよりも「仕草」という気がして、御作法などの延長線上に踊りはあるわけだよな、と思いつつ、微妙だけれど、それを置いておいたら、なんかストリートダンスのロボット系のダンスにも遠からず似ていると思えてきた。??かもしれませんが、風の音で目覚めてしまって昨日の夜中みていた、「少年チャンプルー」というダ・パンプの番組、そこでやっているストリート系の踊りのラッシュに、引きつけられてなぜか見ていた訳なのです。速い強いシンプルな動きがストリートな人たちのダンスの「味」だとすれば、日本舞踊(例えば、花柳基)の踊りは、微妙な丸っこい故に実は複雑な「味」で、でも「味」という点では同じくおいしいわけで(カラムーチョもすまし汁もおいしい味という意味では同じではないか、ただおいしいのは場広いレンジのどこに重点を置くかの違いだけじゃないか)、おいしさを単純にどんなものでも分け隔てなく快楽してしまう強欲なぼくからしてみれば、どっちにも等しくダンスの快楽を感じる、故に似たもの同じものに見えるのだ。そして、規則に対する身体の這わせ方、「キメ」を重視する点、音楽重視の点、衣裳などでかっこつける感じなどにも共通点がある。にてんじゃん、というわけなのだ。

でも、ストリートの若いダンスが早さと強さをシンプルな線で押し通そうとするのに対して、一見日本舞踊は、ゆったりと微妙な線をゆっくり引いているように見えるけれど、いい踊り手の踊りは、体のさまざまなところに気が利いているので、実は相当速く見える。細かい歯車がぎゅんぎゅん動いている、ただそこに激しいノイズが立てられていないだけ、というかね。

国立劇場は、客席の雰囲気がまたよくて、のんびりとでもところどころ集中してみるといった観客の注意と散漫の具合が面白い。真っ暗にしないし。おしゃべり好きなおばさまたちのたたずまいは、バリで小さな村の祭りを見に行った時のことを思い出させる。そこでは、客席までもが確かに見所になっていた、ぽつんと二人日本人のぼくたちだけじゃなくて、彼らにとっても。そう思うと異国気分で、お食事処「十八番(おはこ)」へ、エビフライ定食を食す。まさに、東京見物(ロスト・イン・トランスレーション)気分。

ちょっと体調が悪いので、ビールはやめて(Aは相変わらず赤ら顔になってるが)、『タイガー&ドラゴン』を見ていると、どん太のセリフで(師匠をたしなめる一言)、「あめえよあめえよMAXコーヒーだよ!」ってうあ、クドカン、つぼつぼヒットだよ!でも、日本中でこのネタで笑えるのは、ごく一部地域の連中だけだあって!


木村敏『分裂病の詩と真実』と加藤敏『構造論的精神病理学』

2005年04月28日 | Weblog
を近所の大学で借りてきた水曜日。

火曜日にあったカントの美学をめぐる研究会で、ぼくは初期カントの美学に関する発表をしたのだけれど、その際に、話題に上った加藤敏氏の本(上記したのと別の本)を探していたら、読んでいない木村敏の本があって気になってついつい、借りるべき本よりも優先してしまった。まあそんなもんです。

あっ、あまりつめて紹介しておりませんでしたが、
カント美学を研究する研究会略してKU研究会は、隔週火曜日を基本にして東京大学美学研究室(本郷)で夕方6時半から行っております。現在は1764年の『美と崇高の感情に関する観察』を精読することをしております。新しいカント像を模索しております。参加者を随時歓迎しておりますので、是非関心のある方は専門家/普通の市民に限らず気軽にお越し下さい。

また、
上智大学で行っている現代美学研究会も随時参加者を求めております。以前も書きましたが、今年度は現代美術批評を通覧するというのがテーマです。次回は5/9の五時、上智大学(四谷)7号館の三階、哲学研究室にてあります。岡崎乾二郎『ルネサンス経験の条件』の最初の章を読みます。イントロダクションのつもりです。他大学の方、一般市民、どなたも歓迎します、気軽にお越し下さい。

当日不意にいらしても構わないのですが、できれば、ぼくの方にメールでよいのでご一報を。


そして木曜日。大学の授業も今日で三週目。学生の方もぼくの方も慣れてきて、授業あとに結構気楽に学生が話しかけてくる。楽しいね。ゴールデンウィーク中に美術館行くことを勧めたり。強風だけれど、寒くも熱くもない心地よい風のなか、てくてくと歩く、帰り道、鶴川に田んぼがあることを発見し、田舎の風景のようで嬉しくなる。

宇野邦一『〈単なる生〉の哲学 生の思想のゆくえ』(平凡社、2005年)

2005年04月27日 | Weblog
を読んだんだけれど、

アルトーと共に、ここには土方巽が頻繁に言及されている。ニーチェとかフーコーとかアガンベンを通して「生」を語る場所でアルトーはまだしも「土方」がフツーに取り上げられているのは、宇野さんならではという言い方も出来るけれど、なんとも変わってる、常識的には。土方知らない人は面食らうのではないかな。でも、土方に言葉が及ぶたびに、どれどれ、と読みが進んでしまう、ぼくでして。

いやーでもね、論じ方とか論じている箇所とかが凄く似ているんですよ、ぼくの最近書いた論考と!

あの、弁明しておけば、この本は今年の一月末に出版されたもので、ぼくの原稿は昨年末には投稿してましたので、まったく宇野氏の本を読まずして書いたものです、はい。それにしても、刑務所に関するエッセイを取り上げる感じとか、生を問題にするところとか、似ているといえば実に似ています。きっと、モティベーションを共有しているんですよね、宇野氏とぼくは。そうそう、ぼくの論考でも結末部で宇野氏の昔の論考の一部を引用したりしてますから、引っ張られている面はあるのはある(またこれも、ぼくが考えていることを下支えして入れた文章として引用したつもりなんですが、ね)。

いろんな意味で、この本もお薦めします。土方を論じる、これ今、熱いです!

室伏鴻WSを見学する(4/24)。

2005年04月24日 | Weblog
学芸大学前駅から徒歩五分の不思議なビルの三階(一二階では、アーシーな人たちのネオヒッピーな音楽とおしゃべりがずっところころ転がされていた、カフェというかフリマというか)、ちょっと遅れておじゃますると、室伏氏は椅子に座って参加者と目黒大路氏の柔軟体操風景を見ている。今日は全6回の内の最終日。初日にも拝見したのだけれど、最終日何か成果のようなものが示されるのかと期待して。

ただし、室伏氏は体調がすぐれないらしく、目黒氏がサポーターになって前半基礎練をして、後半室伏氏が軽く指導、ということになったらしい、そして(らしいといえばらしいのだけれど)最終日だからといって「成果」のような考え方はしていないという、endを設定しない旅なのだ、室伏氏にとってはこのWSも。

目黒氏の指導方法は、きわめてテクニカル、体をどう柔軟にしていくか、ということに集中しており、その分、なぜ柔軟でなければならないのかといった説明は皆無、でもそういう振る舞いにもう何回かやって慣れているせいか、参加者は従順に次々と進む。

それがパチッと切れて、室伏氏が床に上がる(「ハイ、じゃあ、次室伏さんやって」みたいな目で促す目黒氏)。
正座して背中と首を柔軟にする練習を引き継いで、室伏はそれはS字(8の字)を書くことなんだと体の真ん中を意識させつつそこで軸を感じながら、軸をはみ出す運動、ねじれを意識する運動を促す。室伏氏の稽古は決してやさしく手を貸して「こうして」なんて指導をほとんどしない。軽く手で触れるくらいだ。ひたすら参加者は目で盗みながら言葉に促されながら室伏氏の考える舞踏観を注入されていく。「上を向くと天国で、くるっと回して、、、下を向くと地獄、、、」なんて言いながら。

休憩後、再び一時間ほど目黒氏の基礎練を施されたあと、室伏氏は、前にゆっくり歩く、練習をする。「ゆっくり歩く」ことのなかに何らかのゴールがあるわけではない。こういう風に歩ければいいと言うものではないのだ。そうではなくて、ゆっくり歩く中で体を感じることがここでのテーマ。でも、「体を感じる」ってどういうこと?体というのは自分のものでありながら意外と訳わかんないものだ。捉えようとしたら消えてしまうXのようなものなのだ。そこで、言葉が重要になる。「体は体液に満ちています、体液が揺れているのを感じながらそれが前に傾くのを感じながら歩いてみよう」、そう室伏氏は促す。大量に水を飲んだあとならば、おなかのタプンタプンを感じることが出来るかも知れないが、本当に「感じる」ことは結構難しいものなのではないか、そこではだから「言葉」が喚起する「イメージ」がよき導き手になるのだろう。というよりも、言葉=イメージが身体を導くこと、それがここで起きている出来事なのではないか。
どんどんその出来事は、室伏氏らしい危うげな場所に向かっていく。「「ターミネーター」みたいに水銀の体をイメージする、水銀はあるところまできたら固まる、はいそれがおまえのフォルムなんだ。それがまだとけていく、そう不定形、、、」「右足と左足の間には、、、隙間がある、その間が、、、」「ゆっくりと歩きながらどんどん固まって、死体になる、死体が前に進む、、、」こういった言葉のイメージ喚起力が身体を身体へと導こうとする、イメージが豊かに連鎖しようとしている(時間がなく途中で切れてしまったけれど)、その合間合間に身体はその相貌をあらわそうとしている(のか)、、、

WSのダンスもまた劇場のダンスに劣らずダンスなのではないか?そういう問いをもって今回、室伏鴻によるWSにおじゃました。まだまだ答えらしいものが見えてきたというわけではないが、予感はしている。少なくとも、答えを示すのではなく問いの場であった室伏WSは、劇場のダンスを見ている時の最良のドキドキ感を、実際に体を動かすことでより感じてみる一つの試みだったと言えるのではないか、と思わせた。

『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳(けい草書房)

2005年04月23日 | Weblog
と樋口圭子『メトニミーの近代』(三元社)『アジア語楽紀行』(日本放送出版協会)を大学構内本郷書籍部で購入。

「儒教における生と死」というテーマのシンポジウム。今日は会場はいいところなのだけれど、研究室からかなり離れているために荷物運びに苦労した。20くらいのころにやった肉体系アルバイトを思い出す。

MILKで東野祥子に遭遇

2005年04月23日 | Weblog
した。

といっても、ある若手制作屋さんの小耳情報で気になって。東野さんのことはでも、メインではなくて、クラブのダンスっていまどうなっているの?という興味が大きかったのだけれど。

L?K?O(これ誤植じゃないです、こういう名の人)というDJが一時頃からプレイを始めると、どんどん客が集まってきて盛り上がりだす。ホントに客は音に敏感で、ほとんど動物的な欲求でいい音を嗅ぎつけようとしている。それはでも、聞くためというよりも体感するためだ。音は、もはやビートということばでも足りないバイブレーションを体に打ち付けてくる。映画で突然なるピストルの音みたいだ。その音は、物語を語る一つの機能という役割を超えて即物的に体に迫ってきて、「ビクッ」とさせる。要するに唯物的なのだ。もの(音)がもの(体)に当たるのだ。その爆音が、レコードをスクラッチさせたり、つまみを捻ったりする微妙な指の動きによって成立させられているところが、なんとも痛快なのである。

ダンスはここではこうして、即物的な身体レヴェルでの出来事となっている。音に下腹部の辺りをジャブされ続けるような直接的な出来事。まさに「フラワーロック」状態。風圧で動くからだ。それはだから踊るというよりも踊らされてしまう。この受動性に身を任せることがここではダンスなのだ。ゆえに痙攣的であること、瞬間的に触発されるところに正直であることが大事なのである。

さて、そのようなダンスが充満したところで、東野が踊るとどういうことになるのか。

L?K?Oはさっきまでとはニュアンスの違うビートの乏しい故に絵画的?な音を繰る。そこで白い衣裳を纏って東野登場。人形的な、つまり操作されるものに翻弄させていく身体といったような動きのなかで、過剰に痙攣していくとような激しくしかしきれいに小刻みに動く動き、そういうのが繰り出されると、そこには、先に記したようなここに充満するダンスと同調する何かが引き起こされている気がしてきてワクワクさせられる。のだが、彼女の特異な長い手を使って早いけれど優雅に振り回す動きは、ややズレを感じさせる。ここにあっていない気がする。あっていないとどうなるかというと、簡単に言えば観客は引く。「引く」というネガティヴな表現を避けようとすれば、観客は傍観する。そこには「アート」のダンスがもつ限界が浮き彫りになっている。スーッと観客と舞台に線が引かれる。あーっと思う。もっと激しいヴァイヴを観客に引き起こす可能性はなかったのか、、、

客のダンスは、要するにディシプリンなど基本的に無視、あるいはそこから自由なものであって、上手く踊れることよりも、どれだけ楽しめるか、体を感じることが出来るかが重視されている。それは別の視点からいえば、ディシプリンから外れていくものにはシンパシーを感じるけれども、逆のものには振り向かない(感じない)ということでもあるだろう。といえば、客のダンスと東野のダンスは水と油なのだ。東野のダンスは彼らが暗に避けているものなのだ。

そこに同調できるダンスは、日本のコンテンポラリーダンスの世界で探せば、、、手塚夏子だ!と話したら、制作屋の方に「エーッ」と渋い顔された(気がした)。そうかな、いいとおもうんだけれど、ね。

つまり、あれくらい、どはずれちゃったひとこそ、ここに必要なダンサーなのじゃないか。ドラッグクイーンみたいなカルト・スターこそがいいのだ。だって、なんか終わり頃舞台に上がっちゃったりしてた、クレイジーな二人は、女の子の方が、麦わら帽子にタンクトップで薄い白い生地のロングスカートという「南仏???」なかっこで確実に変な踊り踊りながらヒューヒューいってるし、もう一人の男は、(パナウェーブ研究所みたいな)白装束で舌ぺろっと出して踊らずにこっちにらんでるし、変ないっちゃってる人たちが場を揺らしてる。はずれていくことは、きっと何か本質的なのだ。そして唯物論的な身体論のダンスも。ならば、ねえ、手塚でしょ。

ひゃー、朝五時。吉牛で豚丼。帰って寝よ。あっ、今日はCOEの仕事だ。シンポジウムだ。はい、二時間寝て、レッツゴ!

加藤奈緒子+Jacki Job「VS/VS--コレガ普通ノ世界ナラ、機嫌ガ悪イ訳ガナイ--」

2005年04月22日 | Weblog
を見る(4/22 @BIWAKEIスタジオ)。

その前に、下に記した白川を読みながら本郷へ。COEの仕事を二時間ほどこなして、そら、落合へ。

二人の即興、ということなのだろう。ぼくはこういう作品をみるとまず、「アートとは何か?」という問いを始めてしまう。「即興」というと「自由」なイメージがあるが、むしろそこにはある堅さが蔓延している感じがするのだ。もうひとりの踊り手という相手が舞台にいるのに、それを意識すると途端に内に向かう。この内に向かう感じは、舞踏の基本的な姿勢に通じる、そう思うと山田せつ子率いる枇杷系の「系」には舞踏の傾向も含まれているようだ、そしてそれはこういう二人の即興には、ちょっと「遅れ」を生じさせる気がする。まあ、そういうことよりも、すごく動く力のある人だなあと見ると毎回思わせる加藤だけれど、それが何か胸を打つ、引きつけるものにならないのはなぜなのか、ということを考えなきゃならない。既視感が強い。もはや人形のような昆虫のような変な角度の動きには、新鮮さよりも「例のあれ、、、」の反復という気持ちにさせられる。

ああ、何が書きたいのだろう俺は、うーん、ともかく、感動しなかったと言うことです。それは、多分ダンスの「演劇性」の問題が凄く大きいのだと思う。引きつけるのではなく、むしろ引き離す力が機能してしまっているのです。そのことが最近見る度に枇杷系の病のようにぼくが思っているものを思い出させる。

JOBさんはアフリカ系のネイティブのダンスを体にもっているようなのだけれど、ヨーロッパでそれを洗練させてしまった(洗い流してしまった)のではないか、勝手にですがそういう連想をもってしまった。それは明らかにアートの悪だと思ったりもした。

さてさて、今日は長い、恵比寿へ。

白川昌生『美術・マイノリティ・実践』水声社、二〇〇五年

2005年04月22日 | Weblog
を読む。
今月号の『BT/美術手帖』で福住廉君がこの本のことを取り上げていて、気になって速攻図書館レンタル。

「私は、作品で食べていけない事実とどう向き合い、どのように日々やってゆくかを考え、自分なりの道を進んでいきたいと思っている」

福住君曰く「負け組」の美術家が、美術市場を意識しつつも、そこへの参入の困難さを現実的に自覚しながらどう活動を進めていくのか、この本は、哲学書(ベンヤミン、セルトー、ブルデューなどなど)を参照しながらこのような具体的で切実な課題に向かっていこうとする。そのさい、彼の基本にあるのは経済に関する視点である。

「問題は、非市場から市場へといかにして流入し、さらに上昇してゆくのかという戦略的なことではなく、非市場という場においても価値形成は可能であり、その可能性をいかに実践してゆくのかということである。」

さて、そこで経済的な力を持たない、しかも辺境の地(群馬県前橋周辺)に暮らしている作家は、何をするべきか。彼はいま、無人駅を実践の場としている(無人駅のプラットホームでひとりカップ麺を食べる姿が写真作品になっていたりする)。まず「革命とは、集団の神経が隅々まで働くこと、より正確に言えば、第二の技術[自然と人間との共同の遊戯]を器官とする新しい集団、史上最初の集団の、神経を隅々まで働かせようと試みること、にほかならない」というベンヤミン(「複製技術の時代における芸術作品」)の言葉をまず挙げた上で、次のように続ける。

「このような試みと無人駅での活動とを同じ視点から眺めることが可能であると私は考えている。東京や大阪などの大都会で展開される都市の「遊歩者」的実践と、この群馬の町、村などで私が行うこうした活動は、同類の実践ということになるだろう。無人駅という剥き出しの建築物は、まさに合理的にして正統的な公共性という規範から外され、放置されたままになっているわけだが、そのことによってかえって権威、価値付けから開放されている場所であるといえる。無人駅には、集団の神経の末端が剥き出しになって出現していると言えるのだ。さまざまなレベルでの記憶が、これらの神経を通じてよみがえってくる。」「そこで次に問題になるのは、自然の制御としての技術(ART)ではなく、「無意識の知恵を働かせて、自然から距離をとりはじめ」(ベンヤミン)そして遊戯するところに目的がある技術(ART)ということになる。」

白川は、自分の切実な問題状況に向き合いながら、言葉を探している。生きる道を模索している。ときに、哲学はこのようなマイナーな生き方についての実践的な言葉を与えてくれないとぼやいたりしながら。これだけの紹介では足りないとは思いますが、コンテンポラリーダンスという市場にほとんどのっていないジャンルに生きる方々、しかも地方で活動している方々には、是非一読を勧めたい本です。答えがあるかは分からないけれど、問いは深まるはずですから。



グビグビ

2005年04月21日 | Weblog
先月から同居しているAがブログをはじめました。

ぼくをみて「あいつのとなりの女の人だれなんだろ?」とか思われていた方が少なからずいるかも知れません。そうとう一緒に出歩いてますからねー。とうとう室伏鴻氏のブログでも、木村がWSに彼女同伴で、、、みたいに書かれてあって、なんつか、うれしはずかし+ぼくのなんとかというよりも、彼女単体で受け止めてもらいたいなーとも思っていたので、そんなきっかけにしてもらえれば!って感じです。

かなり同じもの見て同じものについて書いたりしてますし(今後もそうでしょうが)、ぼくの書くものよりも丁寧に細部を眼差ししてたりしますから、ぼくよりも読み手が付くかも知れないっすね!

よろしゅうご愛顧を!
ブロググビグビ

晩は、「マイアヒー!」ヌマヌマダンスで盛り上がる。

「「死者」とともに踊る--暗黒舞踏の方法における一局面--」

2005年04月20日 | Weblog
というタイトルで五十枚くらいの原稿を書きました。是非お読み下さい!
といっても、
これが所収されているのが、『死生学研究』(春号、2005年)という東京大学人文社会系COEの研究紀要であり、非売品なので、書店で問い合わせても手に入るものではありません。
なるべくしばらくの間は、公演などに出向く時など持ち歩いていようと思ってますので、ぼくにあった時には、声をかけて下さい。コピーでよろしければ無料でお譲りします。あるいは、読みたいとお考え下さった方はメールにてご連絡を。なるべく(希望者多数なんてことになったらちょっと保証できませんが、こっちもちで)郵送させていただきます。

これまでと同じく土方のテクストを基本的なよりどころにして、土方の理論がもつ究極的なところの奥深くに迫ろうとした哲学的考察です。

この原稿のことは、今春出版予定の理論系演劇雑誌のなかで、ぼくが参加した対談でも言及しており、その一端はそこで理解できるようになっています。ただ、それは註のひとつの部分を紹介しているだけなので、どうぞ興味をお持ちの方は連絡ないし声掛けして下さい。ダンサーの方も。

どこまで狂気・デタラメの究極に向かうか、その土方のクールな前のめりにどこまでクールに追走できるか。そんな試みです。

これとは別に、
ディドロ『演劇論』(ディドロ著作集 第九巻、八雲書店)を借りる。さて、いよいよ本丸へ(個人的に盛り上がっているフリードの「演劇性」と「没入」の議論は、ここがひとつの根っこなんですね)!

「日本画」という問題をダンスに照らしてみる

2005年04月19日 | Weblog
とどうなるのか。
なんてことを、今月号の『BT/美術手帖』の「特集 「日本画」ってなんだろう?」を手がかりにして考えてみている、ぶつぶつ。

この特集の見所は、自分の作品より大きい写真が掲載されている新進気鋭の日本画家松井冬子の美貌ではなく、山下裕二、内田あかり、会田誠による鼎談。ここでの、いわゆる「日本画」の描写(by会田+山下)が興味深い。

「若手の作家の中に、明暗表現というより、もっと逆光でギラッと光るような、フォトリアリズムに通じるような表現がたくさんあって、これは流行なんですかね。日本画の中では新しいという感じで受けているんでしょうけど……。いや上手いんだけど。」(会田 院展に出品された若手作家の作品について)

「上手いんだよ。だけど雪肌麻紙に厚塗りザラザラ、最近はデコボコも多いですよね。あの統制のとれ方っていうのはすごいわけ。やっぱり日本美術界最大の力をもった組織として平山郁夫を頂点に、百貨店の美術部というシマをおさえてね」「院展のの統制のとれ方って、ある意味みごとだとだと思う。親方がよしとする範囲はけっしてはみ出さずに」「子分たちの自主規制はすごいでしょ。題材の選び方から、技法的にここまでやっていいとかまで。」(山下 先の会田の発言を受けて)

「うんと端的に言ってしまえば、日本画は制度でしかない」(山下)「絵を見る一般の人も絵描きもそんな制度云々という面倒くさいこと考えてないですよ。」(内田)「たしかに無自覚にそれに属している人が大半だと思います。そういう意味では考えていない。だからダメなんですよ」(山下)

中野で

2005年04月18日 | Weblog
秘密の会合をした。
と、いうほどのことではないのですが、あるダンサーの方がバリ(っていうか、ウブドっていうか、ユリアティーハウス)に行ってきたおみやげ話を伺いに、中野のちっちゃなカフェにて。おみやげばなしばかりでなく、さらに椰子の実を細密カーヴィングした置物(ランプシェイド?)をおみやげにいただきもして感動。ウブドの東、プリアタン村の三姉妹の話をたくさん聞く。そうかそうか、ユリアティーはいま、ちょっと前の旅のホームシックであんまり元気がなかったんだ、とか、ビダニはあんなに天才的なダンサー+美貌の持ち主なのに、自分をまったく特別視してなくてただひたすら医学の道を邁進中、とか、その大学でかかる費用にアジ(父)は、困っているのか、とか、アユの二歳になる娘はチョーかわいいだけじゃなくてすでにお母さんと一緒に踊り出してて、周りが将来を期待しまくっている、とか、近所でチャロナランダンスやっててよかったんだ、とか、あんなこんな、、、。あの、マニアックすぎて、ほとんどの人には理解不能でしょうが、いやつまり、よい旅の話を聞かせてもらえたってことなのでした。
そのあとも、ダンスの話とかで盛り上がりまして、あっそうそう、きっかけは、ぼくが日記に「誰かレスして~」と叫んだのに反応して下さったことだったりして、ああいうこともたまにはいい相乗効果を生み出すな、と嬉しく思いつつ、盛り上がり、ダンス繋がりで逸脱するも、ぼくは「ピン芸人が気になる、、、」といいお相手は「ポエトリーな人たちがあぶなくていい」という話になり、ああそれなんか「常識からずれちゃってる人」が気がかりという点では一緒??、なんてーことにもなったりして。

帰りの電車では、黒いしゃれこうべみたいなおみやげをブラブラさせ、周りをびくびくさせてましたー。ども、サンキューでした(この場を使って、トゥリマカシー)。


『群像』購入。村上龍インタビュー読みたさで。

結婚パーティと『秘すれば花/ストーリーテラーズ』

2005年04月17日 | Weblog
夕方五時、会場に到着。美学研究室に籍を置くようになってもう十年近くになるが、最初期にかなりお世話になった先輩の結婚、めでたい。ところで凄い数の人だ。結婚パーティというのは見ていてもそうとう照れくさいものだけれど、とはいえ、リアルなほんとの出来事であって、演劇なんかと(当たり前だけれど)迫力が違う。新郎(先輩)の「プロポーズ」コーナーには、思いがけず感涙してしまった。「絵に描いた幸福」はしかし、絵で描いたどんなものよりもストレートに感動させるものなのだった。

と、さらにその足で六本木ヒルズへ。路上に、ねこねこ、細い階段を上がると撮影、菊川怜って頭小さいのなー、あれ、さとう玉緒。で、どっちだヒルズ。あっ逆だよ逆。やっと着いた?A、なれないヒール痛くない?あっ、熊たちが踊ってるぞ、ではご一緒に、パチリ。
、、、さてさて。着けば着いたで。どうしてこう、ヒルズの人々というのは、ひとをかりかりさせるのだろう。驚くほどひとがひとらしく融通を利かせたりひとらしい表情を見せたりしない、ここのひとは。展覧会会場内なんて、何らかの伝令が書かれているのか知らないけれど、ノートをじっと読んでいて、こちらに全然注意を払わない監視員ばかり。過剰に注意を受けることもよくあったけれどその反面、注意をしないとなければ完全無視の姿勢に驚くというより最早怖い。すこし、しっかりしてくださいヒルズさんたち。プリーズ!
『秘すれば花』は、アジアンアートの展覧会。スゥ・ドーホーの、家の壁面を向こうが見通せるような薄い布を縫って作った作品が、とてもよかった。さまざまな境界(建築/美術、美術/刺繍、堅さ/薄さ、他の作品/自分、、、)を軽やかに縫い上げている作品。
『ストーリーテラーズ』は、最近の具象的作品のなかでも物語性を帯びた作品が並ぶ。グレゴリー・クリュードン、鴻池朋子などよし。一枚の絵における「物語」とは、余計なところに注意を喚起するものが置かれていると言うことだったりして、メインから外れているところの展開が「実はこういうこともあって、、、」などと語りを引き延ばし引き出している。なんてとこが、おもろい発見。

さてさて、長い一日が終わり、、、と渋谷行きバスのなかでAはおにぎり食べたいと主張を始める!なななに!おなかすいたの?では、松屋でもいこか、結婚パーティの華やかさと松屋での締め、そんなのもありかね、、、ってなに?!松屋の牛丼てタケノコが入ってるよ、味濃いなー、ぶつぶつ、、、えっ、おまい(A)さん、なに、完食したの!!

『エクレア*エーテル』

2005年04月17日 | Weblog
+結婚パーティ+『秘すれば花/ストーリー・テラーズ』
という超忙しい一日を過ごす(4/17)。

まずは、『エクレア*エーテル』(@アサヒ・アート・スクエア)。
ダンス・コロキウムというシリーズは、コンテンポラリー・ダンスの側から振付家を呼んで、モダンダンスのダンサーがその振り付けを踊る、という企画らしい。その第一弾は、白井剛が池上直子、遠藤文規子、小川美奈子、立花あさみ、土田千尋、松本直子を振り付けた作品、さて。

あっでも、その前に。

そもそもモダン・ダンスってなんだろ。今年の最初にもそんな疑問に突き当たったけれど、今回の作品の中にその要素を探し出すとすれば、
〈独特の様式美が浸透した身体運動のフォルム〉、
であり、その際、
〈見事にコントロールされた身体こそが理想的〉、
という独特の身体に関する観念が迫ってくる。それで、ではコンテンポラリー・ダンスはどういう要素だとしてこの作品から受け止められるかというと、
〈偶然に起こることに対して積極的に身を委ねること〉
だとすれば、その際には、
〈身体が自由であることが理想的(ただしその自由とはいかにして成立しうるのか?)〉
という観念のもとにそれがなされているという気がする。

そう考えた場合、この二つのダンスはまさに水と油、相容れない観念にそれぞれが基づいている、ということになるだろう。

で、
それならば、白井はどう、この「相容れない」ものに取り組んだのか。
といえば、正直相当疑問が残る作品だった、としか申し上げようがない。
ほとんどの動きが先に述べたようなモダンダンスの美意識と観念が行き渡った身体運動。それは、独特の一定のリズムやテンポやシェイプの型押しであって、そこに何らの破綻を感じない。ただし、前半のひとつのピークで、六人がひとつの中心に体を集めたあと、ひとりのうで(手の甲)が別のひとりの体に触れる、というのを反復し始めた、それが増幅していった。この辺りが、ひとつ、「もしや」と期待させる瞬間ではあった。つまり、「モダン」と「コンテンポラリー(白井)」が接触する瞬間?だと思わせた。もしそうなら、「接触」の瞬間を一種の「振り」へと昇華させて、あの一定の美意識ある動きに転化してしまうのか、それとも「接触」のリアリティを、その偶然を大切にしてそこから身体が動き次に進む、そんな展開に向かうのか、どちら?という分岐点のはずだ。
そう、確かにそのようなダンサーもいた、「触れられる」→「ぞくっ」→腰が引けてその引けた腰が別の部分に伝播する、という感じの。けれども、大抵はそのような「ぞくっ」が引き起こす可能性は顧みられずに、何か「演劇的」とでもいうような予定調和の関係をなんらのスリルもなく呈示するにとどまってしまうのだった。
最後は、激しいノイズ音がテンションを盛り上げ、そして再び六人は集まり腕を寄せ合って高く掲げて、、、としている間に暗転、とこれまたよくありがちな「ラスト」を展開。正直この終わりには「ナンジャコリャ」であった。

白井は、誰に向けてこの作品を作ったのだろう。モダンダンス界?コンテンポラリーダンス界?いや、そういう問題ではなく、彼は観客に向けて作品を作るべきだろう。「観客」とは、ダンス界なんて別に知らないし何とも思っていない、多くの人たちを含む。彼らに彼が何を送り届けなければならないか、それは間違いなく彼が思うところのダンス、しかもその最も強烈な部分ではないのか。こういう一見「ウェルメイド(よくできた)」作品を作って(公演して)はいけないのではないか。「内輪」はどうであれ、ダンス界外部の観客がこれを見てどう思うのか、そこを真摯に考えてアプローチしてはじめて、こういう企画は意味あるものになるのではないか。研究者としては興味深い公演であったとはいえ、正直、感動はまったく起こさなかった。

「研究者としては興味深い」とは、最近ぼくが考えているマイケル・フリード流「演劇性と没入」の対比をダンスに適用するという考えに、ある確信を与えるものであったという点に関してだ。現代美術のミニマリズムが「演劇性」をことさら身に纏うことで安住し、その問題性にはなんら注意を払わないとフリードが批判したように、モダンダンスにも、独自の「演劇性」があまねく浸透していて、それはダンスがアートであるための条件として機能しつつ、同時にその意味でしか何ら機能していないと言うことにまったくもって無自覚なのである。簡単に言えば、みていておもしろくないのに、ある種の「権威」めいたものだけが、こちらに押しつけられる、そういうダンスではないのか、(少なくともこの公演で呈示された)モダン・ダンスとは。例えば、こういうことを考えて欲しいのだ。この公演を、地方の県立文化会館で、高校生達の芸術鑑賞会のために公演する。その際高校生達は、ここからどんな「ダンス」概念をえるのか。ぼくは、どうしてもいま述べたような、「おもしろくないけれどえらい」→「アートってそういうもんなのね」というそういう感想と、「この人達にとってダンスってそういう意味でのアートとしてのダンスなの、ね」という理解と、「じゃべつにいらない、ぼかあ、ストリートダンスの方が気持ちいいし!」という納得が次々帰結するよううな気がしてしようがないのだ。ただし、さらに重要なのは、このダンスはいまの日本社会のなかでそれでも「偉い」ということになっていて、大学で舞踊科などにはいると、大抵このようなダンスとその「権威性」を受容することになる、わけで(いうてみれば、アカデミズムはアートとしてのダンスだけをみて、ダンシーなダンスを無視し続けているのだ)。

もしぼくのダンスの「演劇性」批判が、ある程度的を射たものであるならば、ルソーやディドロ(マイケル・フリードの元ネタは彼らの哲学的考察にある)が批判した、「感性」の欠如、リアリティあるコミュニケーションの欠如、からダンスを救い出して、あるべきダンスの概念をきちんと示す仕事をしなきゃなんないなー、と切に思うのでした。

スタロバンスキーに励まされながら、そんなことを思いつつ、うとうとと銀座線に揺られ、溜池山王駅から急げ、こんどは結婚パーティというリアル・ステージだ!