Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

画面を覗く体は画面からはみでたまま、だから

2007年11月29日 | Weblog
11/29
昨日、考えていたこと。

電車に乗っている時に、ふっと気づいた。ケータイやDSに熱中している乗客は、画面を凝視していて、この現実世界よりも画面のなかに自分をほぼ全部飛び込ませている。画面の中身と自分との間は、隣の乗客と自分との間よりも親しくて重要、なんて事がそこに起きている。こりゃ、結婚とか恋愛とか興味ないひとが沢山いても無理はないよ、と思う。リアルの現場が、そもそも外ではないのだ。内、というか妄想(脳内恋愛)というか、そちらの方がリアルなのだ(なんてことは『電波男』にすでに触れてあったことか、この文章は前半は新味なしかも)。二次元がリアルで「生きている女の方こそ幻」(「女」のみならず、あらゆるものが)。であるとしても、仮にそういうひとたちがわたしたち(の少なくとも一部)だとしても、そのひとは二次元の中にではなく、どうしようもなく外にいる。本人はあたかもその内側にいるように思っているかも知れないが、事実どうしようもなく外にいるのだ(こうした内側へのリアリティこそある種の「オタク」に不可欠のものだろう、けれど)。例えば、首ごと壺に突っ込んだクマも体は外に出ている。そんな状態で、ケータイとかDSとかをやっているようにぼくには思えて観察していた。

体は残っちゃう。ヴァーチャルなリアリティに埋没していても(『マトリックス』とかが描くように)。完全に脳内妄想がすべからく間違いなく、自分の快楽に忠実に展開されるのであれば、それは当人にとって望ましいこと、どらえもんを飼っているようなもの、というか。いや、そうなんだろうか、本当に。すべてが叶ってしまうそんな神になれることは、嬉しいことなのだろうか。

すべてが叶うと言うことは、そこにゲーム(遊び、即興、失敗の可能性)がない、ということである。

前田司郎は、小説「誰かが手を、握っているような気がしてならない」で、そうした神の絶望を記述している。

「少し屈んで、ベンチの近くに生えた草を掻き分け小指の先ほどの小石を拾って、湖の縁の杭に向かってそれを投げる。外れた。タバコを咥えなおし、もう一度、今度はさっきの小石ほどの大きさのものが見つからず、ちょっと小さすぎて当たったか見えない。また石を探す。今度はもう少し大きいのを見つけないといけない。
 私はこの遊びに出来る限り集中してこれを楽しむように努める。ちょっとでも気を抜くと、この遊びのバカバカしさを、思ってしまう。そうなっては遊びが台無しになる。ちょっと面倒くさい話になるが、私には小石を見つけそれを拾い、投げて杭にあてる事など造作もない。私には小石を杭にあてる能力がある。そんなことは簡単に出来るのだ。しかし、それが達成されては遊びとして成り立たない。だから私は、私で私を騙しながら私と遊ぶのだ。わからないかな?私のこの遊びは本当は遊びとして成立しないんだ。だって本当にやったら100発100中だからね。だから私は遊ぶ前にまず私を騙さないといけない、つまり私は何度も出来るから、遊べないってことなんだよ。遊びを厳密に定義していくと、私は遊べないってことになる。つまり全知全能ゆえに全知全能ではない、ということになってしまうんだ。寂しいよね。」(前田司郎『誰かが手を、握っているような気がする』)

神にはゲームが出来ない。「全知全能ゆえに全知全能ではない」。神が全知全能ではないのは、身体をもっていないからだ。身体があって、身体がヘマをする可能性がない、からだ。前田はさらに神のボヤキを書く、自殺したい、と。自殺は身体がないと出来ない。ゲーム・オーヴァーが存在しないのだ。

なんてことを、明日のBRAINZで話します。

タニノクロウ演出『野鴨』+BRAINZ第3回迫る

2007年11月29日 | Weblog
11/28
庭劇団ペニノ+メジャーリーグ『野鴨』見る。素晴らしかった!とてもとても。

今度の金曜日(11/30)はBRAINZ「フィジカル・アート・セオリー入門」の第3回です。テーマは「ゲーム」についてです。これは、是非聞いてもらいたいテーマです!!!話題としては、d.v.dとトリシャ・ブラウン(アメリカの60年代に登場したジャドソン・ダンス・シアターというグループの中心メンバー)+α(?!)といったところになる予定です。あと、ゲストと話す予定でもあります。今回も、もりもり盛りだくさんでいきます。この回だけ受講の方も大歓迎ですよー(詳しくはBRAINZまで)。

『ベクトルズ』ネット販売開始

2007年11月28日 | Weblog
HEADZ on line shopにて『ベクトルズ』をネット販売することになりました。初秋のあの日あのときに、しゃべりながら考えたことがパッケージになっています。佐々木さんとぼくとで話した最近の演劇について(チェルフィッチュ、小指値、ニブロール、宮沢章夫、、、)や、大谷さんが身体表現サークルの常樂くんと対談しているものとかは、今の演劇・ダンスシーンを考える際に、是非参照してもらえればと思う内容が詰まっています。ぼくのd.v.dインタビューも、音楽関係者によるものとは異なる(専門家ではない故の)新鮮な問いかけが出来たんじゃないかなと思っています。そして、ともかくヴォリュームがすごいことになっていますので、佐々木さんの言う「オーラル・クリティック」というか、うねりうねり進む言葉のアスレチックを楽しんでもらえたらと思っています。

11/27
夕方から渋谷・國學院大學へ。来年度から半期の講義を担当することになり、打ち合わせに。いまのところは、ダンスについてしっかり議論する場所にしようかと思っています。渋谷なので、興味のある方は、密かに教室の幽霊になりに来てください。来年また、このことは。

藤田博史『人形愛の精神分析』

2007年11月27日 | Weblog
11/26
多摩美講義。ロバート・スミッソン。

講義後、新宿方面へ。時間があるので、念願だった神田巡りをする。かげろう文庫に以前行った時、その品揃えに感動したので、再訪するタイミングを心待ちにしていたのだった。今回は、写真に関する資料を集める。あとは、名前を忘れてしまったが、いつも行く明大脇の古書店で、藤田博史『人形愛の精神分析』とルイス・キャロルの子どもたちに書いたラブレター集(『少女たちへの手紙』)、などを買う。藤田の本は、鈴木晶との対談が所収してあり、そこでダンスの話をしている。知らなかった。こういう不意の出来事があるから、古書店巡りは大事なのだ。その後、四谷で研究会。スタインバーグ『他の批評基準』を読む。帰りは、早稲田の油そばの店で夕食。

「畳delicacy」のこと、wonderlandに書きました。ご一読下さい。

あと、五反田団+演劇計画2007「生きてるものはいないのか」クロスレビューをいま、ちゃんと読んでみたんですが、面白い(笑)ですねー。自分が書いてて手前味噌ですが、これは素晴らしい発明ですよ!こんなに書き手によって感想が違う。見てない人でも、充分に読んで楽しいはず。今後、思いも掛けない書き手の乱入も楽しみ(だって、どんなひとの400字も基本受け付けているのですよ)!

岡田利規「ゴーストユース」

2007年11月25日 | Weblog
11/24
夕方、原稿をなんとか編集の方に送り、一段落。ジョギングに行く。今日は全然走れないのだった。5kmを30分、ときどき歩いてしまう。二日連続走れない。走ると肉体的のみならず精神的に疲れていることが分かる。足がぐずる。精神的なポイントでぐずっているのが分かる。などと走りながら自分をふり返る。秋の冷たくなってきた空気を、林の脇のきれいな空気を飲み込んで走る。

写真は、原稿のために買った資料。この『Cawaii』の表紙がいつも机の脇にある。最近、このモデルさんたちのような、かわいいとされる若い子のかわいさがわからなくなった気がする。何度見ても、惹かれないのだ。ど、ど、どうしよう!

ジョギング後、急いで淵野辺へ。「ゴーストユース」へ。以下感想文ですが、異様に長くなってしまったので(とはいえ1時間くらいで、書いたメモに過ぎません)、ブログなのに、番号ふって、小見出しつけておきます。

0.大学主催公演に思う(興味なければ、とばし読みを)
「ゴーストユース」は、岡田君が、桜美林大学の学生たちと作った公演で、なんというか多分、大学のさまざまな力の中から生まれたものだ。まず、会場(PRUNUS HALL)の立派さに驚く。昔、ぼくが大学生の頃、学生劇団の上演といって行くと、大学の教室だったり、狭いところを工夫して、しょぼくとも楽しい雰囲気で公演を作っていた。15年程前の話。今でも、そういうサークル劇団の公演は行われているだろう。でも、今回のように、こういう大学の強力なサポート、というか恐らくカリキュラムの一環で行われる公演というのも、いまの学生公演にはあるのだ。それは、学生にとってとても素晴らしい機会ではあるけれど(そんな簡単にチェルフィッチュに入団出来るものでもないだろう)、けど、その素晴らしさは、なんというか、自分が地道に活動してその結果得たものではないわけで、どうだろう、一番いい(かもしれない)瞬間をこういう形で経験してしまうことに、若干、かわいそうだなという気持ちを抱いてしまう。

いま、ともかく大学という組織は文化活動を行う団体の中で圧倒的に一番金を持っているのではないか。それは、「大学=いかないといけない」という幻想の基に成り立っている。ぼくも、それでお金をもらって生きている人間の一人ではあるけれど、その幻想を超えて、本当にいま考えるべきことを一緒に考えていこうという気分を学生も講師側も抱いて進めていけたらいいし、そうでないとちょっとマズイと思うし、そして実際のところはなかなかそのまずさから抜け出せないでいることの方が多いのが事実だと考える。佐々木敦さんの講義でも、学生とのつきあいに苦労していたりしているよう(ブログを拝見する限り)。あと、さっき菊地成孔さんの日記を見ていたら、国立音大の講義では、出席しなくても優を与えるから来たいものだけ来いということにしたら、ガラッガラの教室になってしまったようだ。写真が貼ってあった。いま学生は、大学に何を求めているのだろうか。大学は、人気取りにあくせくしているが、その空回りについて学生たち本人は何を思っているのだろうか。

1.自己反省する(メタ)演劇の到達点としての「ゴーストユース」
35才の主婦が日常の何気ないことを思ったり、夫や友達とお喋りしたりする、それを20才くらいの役者たちが15人くらい舞台に上がってやる、ということについての演劇。ほぼ全員がほぼ同じ台詞を、つまり主人公ユミの台詞をしゃべる。それで、ある台詞を絶えず反復することになる。一回聞けば大体分かる30秒くらいの台詞が何度も異なる役者によって繰り返される。それは、ソル・ルウィットのジャングルジムみたいな作品をぼくにずっと思い起こさせる仕方だった。同じだけど、空間の配置とか、役者の佇まいとか、照明とか、ビデオカメラの使用とかで若干の違いはある。けれども、ここに、役者の個性を感じる余地はあまりない。というのは、チェルフィッチュらしい体をぶらぶらさせる動きに象徴的な演出法がすべての役者にあまねく、ほぼ均等に入っているから。つまり、これは、あくまでも、演劇であって、仮に若者の身体性のリアリティを示そうと言うよりも、そういうメソッドを実行しているだけであって、当たり前だけど、ただの演劇であって、演劇が演劇を反復する、あるいは自己反省するということをかなり淡泊に進めていく、ということの一つの反映に見える。

ときどき携帯の画面をカメラで写して「私たちは35才に見えますか」とか「私たちが35才になったときにこういう主婦になれると思いますか」とか「私たちが結婚を望んでいると思いますか」などのような言葉をスクリーンに映していく。そうして、観客に、これが35才の主婦を20才くらいの役者たちが演じているのだと言うことを意識させる仕組みが設定されている。また、自分のこととして、役者たちは自分の名前を明かしたりしながら、観客に似たような内容について話しかけたりする場面もある。岡田君がここで目指したことは、明瞭に思う。35才を20才くらいの人間が演じているということのズレを消さずに意識してみて手下さい、ということだろう。そのズレを岡田君の戯曲は、実は35才の人間(役者)が20才くらいの自分を想像している、つまり35才が20才くらいの人間を演じている、といったようなねじれた設定へと反転させたりもする。そうして、また実に構造主義的にというか、さまざまな組み替えのバラエティが展開し、難解と言うよりも、複雑な舞台を作っている。この点は、きっと高く評価されるところだろうと思う。強烈な形式主義=ハイパーモダン、というか。演劇で行うリミックスの今日的達成というか。そう、なんだか音楽に似ているとも思ってみていた。背景音としてビーチボーイズとかかかっていて(あるいはハイラマズ)、そうしたところから、リミックスとかミニマルな反復とかは、ぼくにはすんなりと理解出来るものになっていた、し。

2.演出家・戯曲家と役者の関係は
ここまでで、感想終了!としちゃえば、いいのかも知れないんだけれど、見ていて、何だか途中からどんどん釈然としない気持ちになってきてしまったことは、嘘つけない。岡田君が20才の役者に対して戯曲を書くということに意識的であるがために生まれた複雑な構造なのではあるけれど、そしてそれが実に見事に戯曲化され、舞台化されたとも思うのだけれど、見事にいっちゃった分、結局これは、35才くらいの戯曲家・演出家の仕事にはなっていても、20才の役者の仕事にはなっていない気がしてしまうのだった。ずっと気になっていたのは、台詞のなかの人称名詞「私」は、誰なのかということ。それが「ユミ」という役柄を指している分には問題ない。けれども、携帯の画面に現れる「私たち」「私」とか、本人の名義でしゃべっている(ことになっている)ところに出てくる「私」とかは、一体誰の発言なんだろう、と思ってしまう。もちろん、これは実際の20才くらいの役者たちを指すものなのだろうが、そう設定されているのだろうが、しかし、そう設定されていることによってそう当人を指すことが出来ているという時点で、それは「演劇」というものの中にくるみ込まれた、これもまたただ「私」という「役柄」を指しているに過ぎないもの、なのではないだろうか。つまり、ぼくが言いたいのは、すべては岡田君が書いたセリフだろう、と思ってぼくは見たと言うことです。「私たちが結婚を望んでいると思いますか」なんて画面がディスプレイされたとき、ぼくはそれを役者たちの発言として受け取れなかった、戯曲の一部としてしか受け取れなかった、ということです。

つまり、岡田君が20才の役者たちに戯曲を書くという状況を真摯に考えたからこそ、ああした台詞が生まれたんだろうと思うんだけれど、20才くらいのひとたちのリアリティをぼくはそこに感じなかった。コラージュみたいに20才のリアリティがバチッと貼り付けられて、岡田演出の独自のイリュージョンが歪むなどということはなかった、ということ。

一番そう感じさせられたのは、台詞うんぬん以上にそれをしゃべるときの身体が、先に書いたように、あくまでもチェルフィッチュ的な演出法に貫かれてあったというところだろう。何をどう、個人の発言として喋っていたとしても、それがああいう統制の効いた身体で話されては、個人の発言として受け取れない。個人は立ってこない。

3.「リアリティ」について(かな?)
でも、これは演劇なんだから、戯曲を上演しているだけで、役者が何かを発言する場ではないんだから、当たり前ジャン、といわれればそれまでなんですよ。そうなんだけれど、岡田君が20才くらいの役者と接触したポイントから、何か別のルートが生まれるような気がしてならなかったんですよ。正直、ぼくは役者本人たちに、インタビューしたくなってしまった。例えば、「君達は、この作品のことどう思う?」「35才になって専業主婦になれないかもって話題とかってどう思う?」って。そこであらわれるだろう多様な表情を見ることの方が、チェル的な演出を黙々と実行している表情以上に、ぼくには興味がある、と思ってしまった。

あ、こういうことだ。35才(くらいの岡田君)に20才(くらいの私たち)の何が分かるって言うんだよ!って発言が漏れる場面が見たくなったってことです(ぼくは大学での講義で、しょっちゅうそう学生から言われている気がしているのです、、、)。それが、最後の最後の方に出てきた、未来のことは分からないしね、的な内容の台詞に現れているとも、言えなくはないけれども、そしてそういう徹底的に構造的な作品を作りつつ、そのことに対する反省もきちんとしている岡田君には、ほんとに信頼してしまうんだけれど、役者は舞台上でゴーストであるということが、ゴースト(役者)側のコメントとして見えてくる瞬間が見たくなってしまったということです。

ああ、でも、こんなに色々なことを突っ込んで考えさせられると言うところからして、もうほんとに岡田君のスゴさを思わずにいられないわけでありますです。

レッドロブスター江ノ島店

2007年11月24日 | Weblog
11/23
朝、久しぶりにipod nanoを片手にジョギング。実は、買って三日くらいで壊してしまい、修理に出していたのだった。今日は、8.6kmを45分で走った。Aが、今日の午後、編集仲間と自宅で『レビューハウス』の編集作業を行いたいという。2Kの狭い間取り故、ぼくは自主退去することに。締め切りの過ぎた原稿がまだ書けていないので、遊びに行くことも出来ず、ともかくibookを抱えて電車に乗る。最初に着いたのは、片瀬江ノ島駅。駅の近くの横浜中華街の中華料理屋が出しているしらす丼の店(?)で昼食。で、デニーズとかが落ち着いて書けるかなとおもいきや、大変混雑していて、さらにてくてく国道一号沿いを歩く、とレッドロブスターを発見。ログハウスで室内はとても雰囲気がいい。店員も気さくで愛想がよくいごこちが良さそう。と、黙々と作業をする。途中で、あるグループの名前を忘れたので、店員の方(きっと地元の高校生、明るかったなー)に聞くと「あ、ハリセンボンです、それ、ギャハハハッ」と教えてくれた。隣では、サーファーのカップルが今日の波の話をしている。家族連れは、ちびちゃんを中心に話が弾んでいる。そのなかを、黙々。四時頃、太陽の光がオレンジ色になってきたあたりで、辛抱堪らず海辺へ。山の稜線に沈むまで夕日を見る。さて、と、ここから戻り加減で町田へ、オトナ系マンキツへ。仕事。途中、何故だか『働きマン』を読む。個人主義とチーム力の案配が素晴らしく上手く描けていてちょっと感動する。ぼくもチームで仕事したいなあと、思いつつ、一人で黙々とibookに向かう。夜は町田の大勝軒へ。美味いの、かな?一日、ワープロに向かった、が、まだ書けず、、、。

神村恵『斜めむき』

2007年11月23日 | Weblog
11/22
国士舘大学で3コマ講義した後、青山へ。日韓ダンスコンタクトVol. 9(第21回韓日ダンスフェスティバル)プログラムにて、神村の新作を見る。すべての時間が素晴らしく、恐ろしく、すっとぼけてて、ふざけている。ほんとに、いまの作家だなーと思う。音楽だったらHOSEとかと横並びに、美術だったらなんだろう鬼頭くんとか(かな)と横並びに出来る、とてもリアルなダンス。バタっと倒れ、マグロみたいにごろごろしたり、続けてうつぶせで足と首をばたばたさせたりしていたあの時間は「ありえない」って。ほぼはじまった時からずっと、震えていたんだよね。あれ、何だったんだろう。ずーっと何かが内側で起こっている。それが何なのかが分からない、分からないので見てしまう、どんどんほっとけなくて、見てしまう。フラットな照明、ジーンズにくたっとしたTシャツ、裸足、古いラジカセ、会議室にあるテーブルの二段重ね、これでいいし、これがいいんだよ。来年の2月に、横浜での公演が企画されているようなので、ダンスまだ見たことない方は、是非この機会に神村の公演を見てみてください、必見ですよー。

あと、3組が出演。ユン・ソッテ『Turning Point』、大竹千春「Activate」、キム・ヨンミ「ノイバラ」。ユンとキムの作品は、韓国ではどのような位置づけにあるものなのだろう。ぼくには計り知れないローカルな評価軸が何かあるような気がして、それが何なのかが気になった。普通に考えれば、大学生の卒制みたいなレヴェル、と思ってしまう。大竹は、いわゆる現舞系(現代舞踊協会系、なんだっけ「モダン=コンテンポラリー」とかって言うの?)の作家、らしい。お茶の水女子大卒で、片岡康子のカンパニーにいて、二見一幸のカンパニーに所属している、ということはこの辺りのことほとんど知らないぼくだって、だいたいどういうポジションのひとか分かる。彼女の作品にも、強烈なローカルルールの存在を感じる。それがその内部でしっかり機能しているのならば、それはそれでいいと思う。演歌は聴かないが、演歌の内部で氷川きよしが優れているならば、それについてそれはそれでいいと思う、みたいな(?)。ちょっと違うかな、氷川くんはそれはそれこの時代の何かを体現してはいるわけで。ただー、大竹さん。なんと言えばいいか、ぼくにはそのルールによって展開されることがらのすべてがある時代の価値観というかセンスにすぎず、いまそれを上演することにどんな意義があるのだろうと思わざるを得ないのだが、ある内部ではそれこそがダンスなのであれば(そう言う意味で今のダンスのある部分を体現しているのであれば)、本当にそうその内部の皆が感じているのであればそれでいいのかも知れない。ちょっと考えてひやっとするのは、実は内部の誰もその価値を信じていないにもかかわらず続いてしまっているのかも、という可能性(だとしたら、それを延命させている力学は何か?)。


久しぶりに、表参道のタイ料理店、チャオ・バンブーへ(水餃子がとてもとてーも美味しい)。さらにその近くのスタバでコーヒーとチャイ・ティー・ラテでデザートをちゃちゃっと食べ(入店して十分で閉店時間になってしまった)。なんだか久しぶりに、Aと二人で遊んだ。

ヴィト・アコンチetc.

2007年11月21日 | Weblog
11/19
多摩美講義。二十世紀のパフォーマンス・アート、とくにその発端に何があったのかをふり返った。ヴィト・アコンチの魅力について、多摩美学生に説得したかった。伝わっただろうか。その後、新宿ロフトへ。あ、その前に、明大前に途中下車して、香港なる中華料理店へ。ここは、ぼくが二十歳の時から愛好している店。頼むメニューはひとつだけ、焼き肉定食。うまい。いつものようにとても美味いのだけれど、声の通る親父さんがいない。ちょっと、心配になる。けど、そんなこと聞けない。こういう関係。アンフラマンス。七時に、新宿ロフトに着く。『レビューハウス』の若き編集者たちは、今日、nhhmbaseのライブ撮影のために、先に来ていた。着いたらもうはじまっていたgroup_inouは、夏のフジロックがらみの盛り上がりは過去のものとなり、何やら秋っぽい(?)、ややクールめのパフォーマンス。いやいや、でも全然かっこよかったけど。彼らのテクノ+ゲーム系音楽とダンスの関係は、マリオの音響とマリオの関係に似ている、なんて気がしてみていた。nhhmbaseもいままで見たことないような丁寧な、故にクールな演奏だった。レコーディングの影響だろうか。その他のバンドでは、the telephonesが面白かったなー。ヘビメタとディスコ(トランス)の融合というか、ロックがダンスの要素を吸収している。となると必然、メロディーはシンプルに、また反復が多用される。内面性よりも快楽が追求される。キーボーディストが、長身超痩せで、背筋をピンと反らせながら、くねくねと痙攣して踊るので、「江頭の影響有り」と面白がってたら、背筋伸ばすののルーツはマーク・ボランですよ、と『RH』の気鋭編集者(であり批評家)に諭された。そ、そだね。

teenage riot:
mass of the fermenting dregs/group_inou/the telephones/nhhmbase/sleepy.ab/BO-PEEP
スペシャルゲスト:WRENCH

11/20
書きものに集中。いや、銀行とかに行ったんだ。ぼくより十歳くらい若い銀行員とお金の話とか自分の仕事の状況とか話すのは、なかなかストレスが溜まる。大人になんなさいと自分に言い聞かせてこなす。間にジョギング。この辺りの仕事が終わると秋の忙しかった諸々はほぼ一段落、ということになる。小島くんのこと考える。笑いと忘却の永劫回帰としての小島くん、について。

大野一雄国際シンポジウム(二日目)

2007年11月18日 | Weblog
11/18
おわったー。最後の総合討議ではあまり上手く話が出来なかったが、ともかく無事に終わった。
今日の研究発表は、笠井叡さん、柳澤田実さん、渡辺保さんが発表者で、どなたのも実にユニークで貴重なものだった。渡辺さんのお話は、その抑揚というかリズムが邦楽的というべきか、独特で素晴らしかった。あのような話し方はぼくは一生出来ないのだろうな、と思う。

この一週間は、シンポジウムもありながら、ほぼ一日一本ペースで原稿を書いていた。あと数日で、wonderland誌に「畳delicacy」の記事が載ると思います。そうそう、この公演に出演していたおださちこさんもシンポジウムに来ていらしていた(おださんのパフォーマンスは記事にもとり上げました)。勉強熱心だなー。

大野一雄国際シンポジウム(一日目)

2007年11月18日 | Weblog
11/17
このシンポジウムは、今後大野一雄を研究する際の基礎となるものではないか、と自分が発表している立場(=手前味噌)であることも忘れて、思ってしまいました。充実の内容。今日のハイライトは、細江英公が撮った蘇我瀟白と大野のコラボダンス写真(数十枚)だったろう。スライドで映写した瀟白のグロテスクで超かっこいい(まさに、もう一人のゲストだった辻『奇想の系譜』系の)絵図の前で踊る大野は、画の中に入り込んだり、大野が絵図のスクリーン(刺青のように見える)になったりと「入我我入」とこのシリーズのタイトルの一部にあるのにちょうど相応しい写真だった。

いろんなひとが来てくれて嬉しかったです。多摩美の学生くんとか、横浜のスタジオのスタッフの方とか。どもども!

先週は『ベクトルズ』で文学フリマ、今週は国際シンポジウムと、もう自分でも自分が何だか分からなくなりますが、こういう状況こそこれまで自分が求めていたものだよなーと思い、ちと、自分の発表後、感慨深い気持ちに。品川にあるのに、明治学院大学の裏には、鬱蒼とした森があって、少しそのあたりをうろうろしたりなどして。一日目が終わって、主催側の先生方(四方田犬彦+山下裕二というすごいラインナップ、岡本章先生お世話になりました)、スタッフの方(すごい機転が利いて優秀で感動)、発表者などが集まりワインで乾杯。その後、タクシーでオータニへ。年に一度のAのおじいさまおばあさまとのパーティ。95才のおじいさまはとてもダンディーにジャケットを着こなしているので、その気持ちをお伝えしたら、着けていたネクタイをその場でとってぼくに渡してくださった。恐縮。あと、Aのいとこにあたるちっちゃい子たちがとてもかわいくて、別れ際泣きそうになってしまった。また来年、会いましょう、、、

今回、ずいぶん大野のことがぼくの中でクリアになりました。良い機会でしたーっ。まだ、今日もあります。今日も盛りだくさん(研究発表が、笠井+柳澤+渡辺保、ぼくは実は柳澤さんという南山大の研究者の〈キリスト教的側面から解明する大野〉というテーマの研究が楽しみです。キーワードは「魚釣り」!その後、総合ディスカッション)なので、是非、お越し下さい(ぼくも最後のコーナーでパネリストとして出演します)。

文学フリマ→「ダンス蛇の穴」

2007年11月12日 | Weblog
11/10
国士舘大学の教員会へ。年に二回の常勤と非常勤合同の会議である。合同で、気になる学生のことなどをみなで話題にして、対策を考えるという他の大学では行われていない、地味だがしかし意義のある会だといつも思う。就職率のことなど聴き、いつものことながら考えさせられる。その後、いつもの食事会。ぼくの送別会もかねてくださった。教育という仕事に関して鍛えられた現場だったので、感慨深い。

11/11
ちょっと遅刻して文学フリマへ。秋葉原はすっかり様変わりしていて、駅から一分の範囲をほぼ一周してようやく会場を見つけた(涙)。『ベクトルズ』を買いに来て下さったみなさん、本当にどうもありがとうございました。自分の作ったものが目の前で売れていくというのは、なんだかとても感動的なことだった!!この方が読んでくれるんだーとか、思ったり。「日記よんでますよ」と声かけてくださった方も、いらした。こういう原始的な作業に可能性有り、と強く思う。それと、佐々木さんの『赤面』に対抗するわけではなかったんですが、刺激されて2003-2007年までに書いたダンスと美術関係のとくに長めの論文を集めた『木村覚 論文集成』(笑)なるものを16部刷って持っていったんですが、早々に完売して、うれしかったなー(総ページ数約80頁で200円)。『ベクトルズ』もほぼ完売。増刷されるか分かりませんが、とりあえず、貴重な逸品(珍品)であることは間違いないでしょう。

その後、へとへとになって(座るところがどこにもなかったので)なぜか本郷のハンバーグ店で早めの夜ご飯を食べ、ダンス蛇の穴企画「関係者全員参加!ダンスクリティーク」へ。パネラーになって下さった、滝田高之さん、清家・岩渕組、どうもありがとうございました。いろいろと課題も見つかりましたが、よい回になるよう一層努力していきます(大橋さんもまたよろしくです)。次回は、12/16。

『レビュー・ハウス』という来年一月に創刊する批評雑誌(ひ、「批評」雑誌!)に寄稿すべく、小指値の新作公演を中心に原稿を書きました。キーワードは目下のところ「カラオケライクなアート」。この雑誌、志が高く、編集者がどんな原稿にも一回スミを入れるという方針なのだそう。案外、大手の雑誌に書いても意見・感想とかもらえないことが多いので、厳しいとツライですが、言葉をもらえるのは嬉しいです。今日送ります。厳しくしないでね(編集の方々へ)。あと、『レビューハウス』には、nhhmbaseについて書くことになっており、のみならず、いま進めなきゃいけない書きものとして、小島よしお論(?!)と「おやつテーブル 畳delicacy」批評文(wonderland 予定)と『10+1』連載(今回は身体パフォーマンスにおける「ゲーム」「プレイヤー」概念の可能性について書きます)、あと週末には明治学院大学で行われる大野一雄国際シンポジウム『舞踏と生命』での発表(タイトルは「「死者」と一緒に踊る老体 『ラ・アルヘンチーナ頌』の分析」)が待っている。原稿はこちら、素晴らしいことにほぼ書けていて、当日流す映像の準備をするだけなんですが、大野の狂気というか、ゾクッとするところがあぶり出し出来たように思っています。大野一雄に興味のある方は、ぜひお越し下さい。と、ひっちゃかがめっちゃかですが、楽しいです。

インバルピント・カンパニー「Hydra」(@さいたま芸術劇場)

2007年11月09日 | Weblog
モードに忠実(?)な「ノワールなゴス」といった作品でした。前半は、多幸症的で審美的なところがもう本当に最近の傾向だよなー、と思わされ(最近のピナ・バウシュを見て感じさせられるような直感的で審美的で反反美学的な姿勢)正直うんざりだったのですが、最後の5分くらいで、「黒」という色が立ってきて(照明が邪魔してダンサーたち、男たちも女たちもモノトーンの服装だったことがカーテンコールの際に分かったのですが)、とくに、背後の一文字の枠がロバートモリスの作品みたいにぬぼーっと浮いているのが印象的で、ぞくっとするような自閉がファンタジーの核心にあると感じ、そこが(そう感じさせられたことだけ)面白いと思いました。あと、恐らく、いやほぼ間違いなく、ニジンスカ(バレエリュス)の『ノーチェ』が参照されていることも、興味深い点です。10人程の顔を上下一文字に並べるとか、終わり頃に出てくる口に長い結った髪をくわえたところとか(確か似たような長い髪が『ノーチェ』にも出てくると思うんですが)。以前この『ノーチェ』を見た時に、あまりに現代的で驚いたんです。そしてそれが現代的に映った理由の多くは、そのゴス的なテイストにあったのですが。

ところで、夏休みに「さいたま」から依頼があり、以下の原稿を書いたのでした。しかし今日、会場ではとくに配布されておらず(笑)、あの苦心した自分とこの原稿がかわいそうなので、ここにアップします。いろいろあって、最初のバージョンではもっとゴスロリのこととか確か書いていたんですが(内向的な彼らの作風に一番反応出来るのはゴスロリ系だろうと思っていたので)、今にして思えば、そのことこそ書き込むべきことでした(嗚呼)。

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空想癖のあるふたりの女の子と男の子の手による1冊のスケッチブック----イスラエルの振付家・インバル・ピントが演出家・アヴシャロム・ポラックとつくりあげるのは、そんな舞台だ。コミカルでちょっとグロテスクなイメージが、インバルとアヴシャロムの心のなかからこぼれて、舞台の上で生命をえる。『Oyster』(1999)では、背中にロープの括られた人形っぽいキャラが宙を舞い、『boobies』(2002)では、スカートに何匹も子ども(?)を隠した巨大な怪獣が長い腕を振り回し、最近作の『shaker』(2006)でも、スリップドレスのダンサーと交替で全身タイツの異世界人たちが手をつないで踊りに耽る。それにしても「~になりたい!」とか「もし~が…だったなら!」とか無邪気な子どもっぽい願いを、絵画や映像ならともかく舞台で叶えようなんて、なんという無茶をやってしまうことか。

「ヒト」というものの輪郭を崩して「異形の物体X」に変身したい。そんな願望はでも、彼らのみならず、人類がダンスというものへずっと寄せ続けてきた思いというべきなのかもしれない。

例えば、19世紀のロマンチック・バレエの時代、バレリーナは舞台上にふわりと浮かぶ妖精でなければならなかった。あるいは、20世紀の初頭----アンドロイドやロボットが流行しはじめた時代----、ロイ・フラーは身の丈を超える大きな布を蝶のようにはためかせ、オスカー・シュレンマーはダンサーに幾何学的な形状のコスチュームを着せることで、ともにヒトの輪郭をはみだした奇妙なキャラを踊らせたのだった。戦後の日本に生まれた暗黒舞踏も同様で、創始者・土方巽は、けものや幽霊や剥製の状態に、彼の理想とするダンスの姿を見たのだった。あるいは、アフリカ大陸にいまでも残る、仮面や奇抜な衣裳をまとった伝統的で祝祭的な踊りを振り返ってみてもいい。そう、ダンスとはその本質においてトランス(忘我)することであり、トランスフォーム(変貌)することなのだ。

さて、彼らの場合、舞台上に展開するファンタジックな変貌はすべて、インバルとアヴシャロムのきわめて個人的な空想に端を発している。彼らのユニークで現代的な点はそこにある。作品を構想する際、2人は多くのデッサンを描く。それらはどれも摩訶不思議な、しかし気取りのない等身大の魅力を湛えている。スケッチブックに引いた奔放な1本の線が、まるで飛び出す絵本のように舞台に飛び出す。その線をたどって、ダンサーは変身する。

『ベクトルズ』パッケージはこんなです。

2007年11月09日 | Weblog
完成したと佐々木さんからメールが。11/11には文学フリマでおめにかかれればと。

あと、11/11には、大橋さんの「蛇の穴」企画がはじまります(11/10には牛川さんの音響をめぐるレクチャーもあるとのことです)。こちらも、是非是非。とくに、ダンスの観客の方、あるいは批評文を書いたり書きたいと思っている方、来て下さいー。

ダンス蛇の穴第一期
~ダンスを語る言葉を見つけ出す、アーティスト自身によるビデオ上映と批評の試み~

「関係者全員参加!ダンスクリティーク」
しゃにむに踊っていても、自分だけを信じて振り付けしていても、きっと自由にはなれないし、観客やダンサー同士と共感し合うに足る何かを生み出すことは難しい。型に向かうのではない(コンテンポラリー)ダンスにも押さえるべきポイントはあるし、そこに集まる者同士で共有するべき感性とか知性がある。ざっくばらんに笑ったり話し合ったり悩んだりしながら、未来のダンスの向かう先へ抜け出る穴を参加者全員で探してみたい。具体的には、自作のビデオを持参し参加者の前でプレゼン(作品紹介)、その後みんなでそれを素材に批評し合う、あるいは作家に創作の過程を聞く、という形式(予定)。ひとのふり見て我がふり直す機会(お互いに)。経験不問。ダンサー、振付家のみならず、プロモーターや観客、(自称)批評家も歓迎、だから関係者全員参加!

司会:木村覚

2007/11/11(日)18:30-21:30 岩渕貞太/清家悠圭、滝田高之
2007/12/16(日)18:30-21:30 深見章代、関かおり、ほか
2007/12/22(土)18:30-21:30 大橋可也、ほか
2007/12/23(日)18:30-21:30 神村恵、ほか
2008/1/13(日)18:30-21:30 手塚夏子、捩子ぴじん
参加予定アーティスト:野口千明、垣内友香里、山田歩、ほか

会場: 森下スタジオBスタジオ
http://www.saison.or.jp/studio/access.html
東京都江東区森下3-5-6
地下鉄都営新宿線、都営大江戸線「森下駅」 A6出口徒歩5分

料金:1000円(ドリンク代込み)

問合せ:
大橋可也&ダンサーズ
mail: office@dancehardcore.com

Nike+iPod おやつテーブル

2007年11月07日 | Weblog
11/6
Nike+iPod(詳しくは、Nike+Sports KitとNike+専用シューズとiPod nano)を購入。これすごい。走ると速度や距離が自動的に計算され、iPodにリアルタイムで表示されるシステム。いずれ、紹介します。
昨日早速走ってみた。いつものコース、8.5kmもあった。それを47分で走り、平均速度5.30min./km(大きな坂が二つあるから平坦な道では大体4.3min./kmだった、速すぎないか?)、消費カロリーは587Kcalだった。で、走った履歴がituneを経由して記録される。走ることがゲームになってしまうすごいおもちゃだぞ、これ!!!

11/7
ダンス企画おやつテーブルvol.2 「畳delicacy」を見た。
感動した。後半ずっとウルウル泣いてみてしまった。踊った4人の女性たちに「泣かなくても、、、」と驚かれたが、ほんとに良かったのだ。ロケーションがまた、素晴らしかったんだけどね。あらためて、詳細書きます。