Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

鶴川→駒場→鶴川→東金(九十九里→勝浦→白子)→与野→王子→鶴川→下北沢→鶴川

2007年07月31日 | Weblog
忙しい、楽しい、痛い日々。
7/27
黒沢美香&ダンサーズ『ダンス☆ショー』
7/28
早朝にAのご両親とともに帰郷。昼に東金一の中華屋蓬莱閣にて会食。午後はAのご両親に九十九里など紹介のドライヴ。写真は雀島。サッカー、日韓戦を見ることもなく就寝。夢の中で敗戦を知る。
7/29
朝、勝浦は鵜原というところに泊まって貰ったご両親をピック・アップし、九十九里の隣の隣町、白子へ。地引き網体験。途中かき氷を食べるもそそくさととんぼ返りで埼玉へ。
サシャ・ヴァルツ『ケルパー』
小指値『Mrs Mr Japanese』
7/30
朝からどうも親知らずが痛い。うずうず。Aが編集委員をしている批評誌の打ち合わせ。インタビュアー担当予定のIくんから『パンク・ロック/ハードコア史』(行川和彦)を教えて貰う、面白い。

期日前投票

2007年07月27日 | Weblog
7/25
大野一雄の資料の件でBankARTへ。ありがたい『ラ・アルヘンチーナ頌』ばかり十本弱も。その後、BankARTで行われているボルタンスキー展を観る。伊藤存のアニメーションがとってもとってもいい。デジタルの鹿がこちらに気づいて立ち止まる。それだけでとてもとてもいい。田中功起はいつものようによくわからない。電車の中ではゴダール『Made In USA』を見る。渋谷に出て、いろいろと必要なもの余計なもの購入。
アゴラへ。『一人に一曲』(「なんという寛容な肉」)を見に行く。

7/26
今日は、黒沢公演の休みの日。
K大学でテスト。終わって、Aの夕飯をいただき、ぼーっとしているとまだ7:20。なら、いくか、ということで新百合ヶ丘へ。麻生区役所で期日前投票。なんと簡単なことだろう。その後、普段朝歩く道をAとゆっくり逆走(正確には逆歩)。これで今日は往復したことになる。

7/27
寝坊して、でもいつものWalking。J-WAVEで別所哲也がDJだとちょっと寝坊ペース。で、すでにちょっと暑い。
テストの採点。単調で苦しい時間。
『ダンス☆ショー』(「なんという寛容な肉」)を見に行く。
明日、明後日は久しぶりに帰郷予定。Aの両親を九十九里の地引き網漁に連れて行くことになっている。ようやくちょっと夏休み。でも、明後日の午後にはサッシャ・ヴァルツ『ケルパー』を見に、とんぼ返りで埼玉へ行かなければならない。『ケルパー』面白くなかったら、許さないぞ。

タスクとゲーム

2007年07月24日 | Weblog
7/23
雨。ウォーキング+ジョグ断念。くやしい。

多摩美講義。この日は、ラウシェンバーグの版画的(複写、転写)な作風に芸術と生活の間を曖昧にするアヴァンギャルディズムがあるという話をささっとした後で、ジャドソン・ダンス・シアターをごく簡単に紹介。これで多摩美の学生200人弱に、「タスク」「ゲームとしてのダンス」というアイディアが浸透した(少なくとも右耳から左耳へ抜けていった)。トリシャ・ブラウンは、ぼくが「いいでしょ!」と強調したこともあってか反応がよく、講義後何人か残って感想を言ってくれた(この時間、とっても楽しいなあ。かならず4、5人残ってコメントをしてくれるのですよ)。あ、そうそう、どういうわけだか、浴衣の学生が3人くらいいて、最前列に座っていてくれてた。ちょっと面白かったんだけれど、あまりつっこめなくて残念でした!いやいや、納涼納涼。

その後、完全に恒例となった「アトリエ ワン・サード」での展示を見に。ここは、彫刻科の青木野枝さん(先生)がもっている研究室の三分の一をホワイトキューブ化したもの。なんども紹介してますが、そこで隔週交替で学生たちが展示をしているのです。この日は、山内さんという彫刻専攻の学生によるラバーの皮を床に敷いた作品が展示してあった。敷いてあって、観客はその上に乗っかって鑑賞というか足で賞味する(裸足になって感触を確かめたりして)。カール・アンドレ的なミニマル・アートな作風。どうも多摩美の学生はこのあたりに興味をもっているよう。本人に言いそびれたのだけれど、何故にラバーを選んだのかの理由付けがさらにひとつふたつ転がっていくと、単に「ミニマル」ということで片づけられないものへとステップ・アップしていきそう。

帰宅後。完全に身体が疲弊して、今日は電車に乗って外出するのを断念。近所のコメダ・コーヒーにクリーム・コーヒーを飲みに行った。

7/24
早朝。ウォーキング+ジョグ。夏っぽい日差しは暑いが、風が乾いているのでことのほか気持ちが良い。J-WAVEのラジオを聞きながら。6:35ごろのビジネス系の成功者を招いたトークのプログラムが好き。

キアロスタミ『オリーブの林をぬけて』をひっさしぶりに見る。なにやら、いま自分が考えていることのルーツにありそうな気がしている作品。確かに。フィクション(イリュージョン)とノンフィクション(プロセス)の永遠に反復する入れ子構造。

町田で『シグルイ 8』『オトナアニメ』など購入。『シグルイ』はえぐさが薄くなった?

言葉は△心は□

2007年07月20日 | Weblog
近所のW大へ。

ラク=ラバルト『歴史の詩学』(2002年邦訳は今年)がルソーを回避したハイデガーを批判した本であると同時に、ルソーの演劇批判が主題であることを(最新刊の置いてある貸し出しカウンター向いの書棚で流し読みして)知っていたのだが、借り逃していたので。「演劇(性)」はほんといまホットだ。安倍晋三総理がどうして不人気なのかを説くのにも、直接語りかけるストレートさをねらった(ねらいがバレバレの)彼のカメラ目線のわざとらしさを言い立てるべきだと常日頃思っているのだけれど(そんな記事のオファーはどこからも来ないので、ここで垂れ流し)、そんなこんな演劇コンシャス濃度が高まっている昨今。『新潮』の最新号では、斉藤環の連載で再びフリードが取り上げられているし(『カラヴァジョ鑑』所収の「カラヴァジョ考」未読)、図書館の棚を貪り歩く。

ところで『新潮』には岡田利規のエッセイも載っている。ドイツなどにチェルフィッチュで遠征した回想記である。彼はいま、本当に売れっ子。彼をポスト・パフォーマンストークに呼ばないと公演が完成しないという不文律があるのかと思わせるくらい、公演チラシの裏には岡田さんの名前が頻出している。でも、その理由が分かる、と思わせるエッセイだった。内容は、海外公演で、役者が日本語でいつものように喋ると観客が理解していないということをあらかじめ意識してしまうので、発話に対して身体が弱くなってしまう、ということが前半で語られている。いかに言語(日本語)が身体に大きな影響を及ぼしているか、ということをこういう海外公演の場で敏感に感知する岡田君の鋭さと正直さは、さすが。意識-身体の関係というフレームで身体運動に内在する装置を仮想する手塚が、実のところ、格闘しているのは意識についてでも身体についてでも、その関係でもなく(「なく」というかそれ以上に)、それらを語る言葉についてであることと何やら重ねて考えてみたくなる。言葉に身体と意識を並立的に捉える可能性を見出した岡田くんの開いた活路に、ダンスは何か学ぶことが出来ないのか。手塚が最近、作品作りに導入している映像というやつは、この言葉の位置にあるものと言える。意識と身体の関係は、それをどこまでフラットな地平で考えようとしてもどうしても観念的(理想的あるいは恣意的)になりがちだ。その関係を装置としてがつっと取り出してくるためには(手塚がいま道場破り企画で画策しているように)、言い訳無用の客観性が必要で、それを可能にするのがきっとひとつは「言語」なのだろうし「映像」でもあるのかも知れない。

まとまりなく、そんなことを帰り道につらつらと考えて帰宅する、その直前、家の前まで来たあたりでくるりの新曲がラジオから流れてきた。「言葉は△で心は□だな~♪」おっ、いま考えていることじゃん、と思っていると「涙をふいて~♪」とか歌が続いた、って「ふいて」=身体の身振り?くるりも「言葉-意識(心)-身体」を歌ってました。

ぼくはいま何度目かの思春期を迎えている

2007年07月16日 | Weblog
90年代に聞きまくっていたGreat 3の片寄明人が佐野元春の新作に寄せている文章を読んでいると、中学時代にNHKFMの「元春レイディオショー」をベッドで聞きながらぞくぞくしてきて眠れなくなった時のことを思い出してしまった。今度の作品は、何やらヤバイ気がする。「君が気高い孤独なら」がラジオでかかると聞き入ってしまう。
佐野元春『Coyote』批評集

愛の育たない街で早朝ジョグ

2007年07月16日 | Weblog
さきほど、五反田団・前田司郎さんのブログを見ていたら、芥川賞にノミネートされ、取材で忙しいと。そうか、明日発表なんだ。どうなるんだろ、わくわくする。しかも、ノミネート作品は「グレート生活アドベンチャー」。舞台はぼくがいま住んでいる鶴川。明日とか明後日とか、カメラクルーが駅周辺に来るかも、ジョギング姿で映るかも(早朝ウォーキングは早朝ジョグ化して継続中。今日も、台風一過の空を眺めながら気持ちいかったです)。
今回の芥川賞ノミネート作品

ひろいようこ『状態系 ノリガール』(@Studio Goo)

2007年07月15日 | Weblog
前半は、ミクスチャーなロックをバックにタイトル通り「ノリ」で即興ダンス。後半は、山賀ざくろが登場して、女子制服姿で二人でなにやらはしゃぐ。山賀は二人で最初持っていたバトミントンラケットを置いて、赤いパンツだけになってほぼ全裸のベジャール状態で、踊る。全体が、なんか生煮え。即興というのは、実は振付よりも単調でスリルのないものになりがちなのだ。だいたい癖でからだが動くだけで、それ以上の意外な動きというのは出てこない。自己表現、以外の何ものでもなくなってしまうのだ、たいてい。自己から超越しようとして音楽で踊る(=ノリガール)ということなのかもしれないが、そうは問屋が。そもそも音楽と踊るというアイディアはなんら特別なことではない。特別なことと思うのは歴史を知らないからだ。2000年以降の日本のコンテンポラリー・ダンス史を振り返ってみても、塩澤典子なり、康本雅子なりを検討した上で、自分はこうやる、ということでなくちゃ、前進など無論のことどんどん後進するばかりではないか(二月の「超詳解!20世紀ダンス入門」の成果はまだ出ていないと言うことか!つーか、あのときダンサーの受講者が僅少だったのだ、、、残念)。山賀からもなにか浮ついた感じしか受け止められず、今回はどうしてもこれを見せたい、という強いものが見えてこない。いいのかこれで。会場の空気も何やら内輪のりが濃厚で、ダンサー同士でちゃんとだめ出しをし合っているのかなあ、と思ってしまう。なかよしこよし会?
最近ダンス公演を見に行くたび、切ない気持ちになる、悲しくなる。
(写真は、多磨美大生作品のつづき)

タイトル(必須)

2007年07月15日 | Weblog
って言われても。ブログの「タイトル」項目ってめんどいですよね。すごいめんどい。

7/9
多摩美講義。ジョン・ケージの「スコア」はインストラクション(指令)である→ラ・モンテ・ヤング『コンポジション1960』とオノ・ヨーコ『カット・ピース』へ。と、この日話すはずだったジャスパー・ジョーンズ+ロバート・ラウシェンバーグは、時間切れでジョーンズにちょっと触れただけ、結局次回に。

その後、ほとんど恒例となった多摩美学生の校内展にお呼ばれする。彫刻専攻の菊川亜騎という四年生の作品。六畳ほどのホワイトキューブ(でも、床はコンクリむき出しでしかもいろいろと汚れてたりする)に入ると、目だった作品らしき物体がない。下を見る、と小さい、紙で出来た立方体を開いたようなもの(実際は面がひとつ多くて完成しない)が、立っている。そこには、波の模様が細かい鉛筆の筆致で描かれてあるのだが、直に描いてあるのではなくて、描いたものをコピー機で紙にプリントしてあり、そんなノイズが、精密であるはずの模様をぼかしている。面白いのは、これ、10×10cmくらいの小さな箱形(を開いたもの)なので、見るためには床にかなり屈まなければならないこと。見ている人はみんな背中をべろんと見せて覗き込んでいる。この観客に対する作品の独特の(簡単に言えば「イジワル」な)距離の取り方が、作家の性格の悪さ(事実そうであるか否かはここでは問題ではない)を想起させて面白い。あとは、やはり床に透明の下敷き大のプラシートが無造作に落ちていて、それを拾うとニードルでひっかいて描いた、あまりに面が多くて絶対出来上がらない展開図が。それも、拾わせたりとか、見てみると透明で見えにくかったりとか、イジワル。「作品」というものが観客にサーヴィスをする存在であるとすれば、そんな権力関係を逆なでさせる、そんなところがよい。いや、これはむしろひとつの今日的サーヴィス?すなわち「ツンデレ」な。

その後、上智大へ。現代美学研究会。スタインバーグ「他の批評基準」を読む。ただ、この日は送別会を兼ねていたので、早く切り上げる。ボストン大へ旅立つ友人、四年ほど前か、はじめて会った頃は、無頼な性格の人間だった。クレイリーの『知覚の宙づり』を読み出した頃からか、彼のなかに一種、リズムのようなものが生まれた。鋭い質問、ユニークな角度で刺激的な存在になった。いつか一緒に仕事をしようと約束。飲み過ぎた。

7/10
まだまだ続いている朝のウォーキング。
『涼宮ハルヒの憂鬱』を何本か借りてみる。面白い。でも、ほんとハルヒはずっと怒っている。自分勝手でわがままで、まわりは振り回されている。ハルヒのいだくすべての欲望は肯定されている。というか、この映像自体、そもそもハルヒの脳内映像、ってことなの(ごめん、こんなきっと基本的なこと、分かってません!)、だってハルヒはオープニングのテロップでは「超監督」という肩書きになっている、し。Aとは、ハルヒの顔の話になる。正面向きだと鼻が低く、丸顔で、クマっぽい。この顔は珍しいんじゃないか、と。

7/12
K大講義。笑いの講義では、チャップリンの名作『街の灯』(1931)を見せるが、なんとなく学生の反応はいまいち。それが不満で、レポートを書いている学生にうるうるした顔を隠しながら、ここがすごいだろ、あそこもさあ、と補足(ほとんどノムさん的ぼやき?)。

7/13
朝は歩かず、代わりにティップネス新百合ヶ丘で汗流し。どっぷり。

最近、仕事の依頼を毎日のように頂く。まだここに詳細は書けないが、わくわくというかドキドキというかなイベントとかの話しもある。嬉しいことだ。でも、本当に、ダンス関係者からのものは薄く、そのことが何だか面白いが切ない。この日も、あるダンス関係のイベントでのレクチャー依頼がキャンセルになったとの知らせ。ぼくの愛情はあちらにはあまり伝わらないのか。ぼくの努力がおなか周りの脂肪には伝わっていないように。

日本代表のサッカーを久しぶりに見る。サッカーというのは、そんな簡単にイノベイションするものではないのだろうか。最初の点が入るまでの日本の闘いはなかなかダメな感じだった。結果としては勝利になったわけだが。

7/14
久しぶりに、wonderlandに寄稿するダンスの批評文執筆。

ついでに言います、ここでのダンスなどの記事、復活させます。ファンメールが来たわけでは全然ないんですが(涙)、それ書かないとほんっと、このブログを書くぼくのモチベーションなくなっちゃうので、再開します。

道場破り企画showing(@渋谷ル・デコ)

2007年07月08日 | Weblog
7/7
手塚夏子が主宰するWS、それがいまどのような試みをしているのかについて紹介するイベントを見てきた。Abe "M"ARIA、福留まり、有田美香子、スズキクリ、コリー・ベフォート、エノモト・ユキがこれに参加しており、この日はAbe以外のパフォーマー全てが集まった。

具体的に言えば、それぞれのダンサー(スズキ・クリはこの中で例外的に楽器のプレイヤー)がもつ手法(何の手法なのか、振付を解釈する仕方なのか、即興の仕方なのか、それ以外なのかいささか判然としなかったのだが)を明確にし、他人の手法に触れ、しかも実際にやってみる(それを道場破りといっているらしい)ことで、自分の手法の限界を破る、という企画。各人の手法が実演+手塚の解釈によって明らかにされ、その後、実際に、それぞれが他者の手法をやってみるパート、あと、手法への意識をはずして自由に「かかわり」を意識したインプロのパートと続いた。

個人の方法(手法)というのは、自覚していない面がぼくたち多分多いのだろうと思う。それは、例えば、話し方とか他人への対応を自覚化することに恐らく似ている。それを明らかにしていくこと。バレエとかモダンダンスの場合、外側に身体運動の理想的イメージを置いて、それへと身体を合わせていくところに方法が見出されるとすれば、手塚が引き出そうとしているのは、個々人が自分の身体とどう付き合っているのか、その内的感覚の内に見出される手法なのである。前者が理想的なイメージの具現する場所として身体を捉え、身体がどう矯正されればそのイメージが生まれるのかという点でしか身体は考察の対象とされていないのに対して、後者、手塚の場合には、もっと原理的に、意識と身体の関係が一体個々のダンサーの内でどう把握されているのか、どういった関係が理想的と考えられているのかを問う。

トップ・ダウン式の規範の呪縛から自由になったその後、あらためて、私たちは身体と意識とをどう関係づけるべきか、いや、「べき」といった価値判断はとりあえず置いて、事実どう関係づけているのかに注目することは、モダンからポスト・モダンへと(あるいはバレエ、モダンからコンテンポラリー・ダンスへと)思考を移す際の、ひとつの重要な試みだと思う。それは、自分を知る試みであると同時に、自分という枠を知った上で超える、そこから自由になることでもあるだろう。手法は自分の形であり、自分という名の呪縛の形である。案外、自分に囚われがちなのだ、「私」というものは。とはいえ、そこで、囚われをとくことばかりを目指すと言うよりは、囚われの状態を微細に意識化すること、そこに自分なりの責任を持つことが、手塚のこの道場破りの目指すべきところなのだろうと、ぼくなりに考えながら見ていた。

なかなか、成功しているとはいいにくい点もある。とくに、ダンサー同士が共有する言葉を整理するのにとても苦労していて(表層、深層、意識、自我などなど)、実際のところ、きちんと共有できているのかなと思ってしまったこととか。自分の内的な感覚を言語レヴェルに引き上げること、それが出来ないと手塚の試みは十分に進んでいかないんだけど、でも、それはとても難しいことだ。とはいえ、ここのところで踏ん張らないと、コンテンポラリー・ダンスは「なんでもあり」なまま、地盤をうることが出来ずに、あいまいで怪しいものでしかなくなってしまうように思う。ぼくは、見る側の問題からダンスと関わっている面が大きいので、手塚がぼくのあまり主題としていない踊る者の側からこうした手法への反省を通してダンス言語の創造を画策していることは--きわめてつつましやかな状態であるとしても(お客が10人ほどというのは、どう考えても少ないよ!告知の方法とか、上手くいかないものか)--、尊敬に値することだと思うし、大いに期待していきたいと思ったのだ。

7/5

2007年07月05日 | Weblog
いやもうすごく続いていて奇跡。早朝のウォーキング。絶対、足腰鍛えられる。本当にダメになっていたんだ、ということに気づく。ときどき、目が覚めたようにフィジカル・コンシャスがはじまったりする、いつまで続くんだろう。夏休み明けくらいまでいけたら、すごい体変わりそう。あと、早朝に通勤する仕事ではないので、早朝にこんなに多くの人たちが、毎日ほとんど一分の誤差もなく暮らしているということに驚く。いや、ただ、単に二日連続同じ時間に出発し、同じ時間に電車に乗って帰ってきたということだけなのだけれど、そうすると、デジャブみたいに昨日のひとに出会う。楽しい。明日も同じ時間にスタートしてみよう。

K大講義。なぜか、余計なことをしこたましゃべり過ぎて本題に入ったのが残り時間十五分前。なんで最近こうなんだろう。

帰って『涼宮ハルヒの憂鬱』の0回目のDVDをいま見た。主人公ハルヒが文化祭に向けて作った映画という設定で登場人物たちがある役柄をまとって登場。ナレーターがツッコミ入れたりして出来上がったそれは、もう、(初期ドイツ)ロマン主義の精神そのものみたいな批評的な何か(批評の累乗的な何か)だった。ええっ、こんなことやっているんだアニメ界、なんだよ、スゲー。こんな面白いものをぼくはまだ見ずにいたんだ。『らき☆すた』のDVDをある知人のおかげで見始めてから、このあたりのこと本格的に調べたくなっているのだ。いやあ、超面白い。でも、どうして、こんな面白い素材、ドイツ文学者はほうっているのだろう。東浩紀の専売特許にしておく必要なんて全くないのに。不思議だっ。

吉報届く。

『パルマ』『New Born』『10+1』『日本ロックフェス』

2007年07月04日 | Weblog
7/3
先週の火曜日、体調が優れず病院に行く。体質改善の必要有り、と。体脂肪が多い、と。そこで、毎朝、鶴川から新百合ヶ丘まで歩くことにした。45分。FMラジオを聞きながら、黙々と、ただ車道の一本道をずんずんと進む、ときどき山あり、谷あり。体が変わると気持ちも変わる。土曜に初めて今日で四日目、一週間は続けられる?

昼。明大前の香港で焼肉定食(ご飯半分)。電車の中では山登敬之『芝居半分、病気半分』を読みながら。人間は日常において演技者であり、精神的な疾患は演技の失敗である、といった内容のエッセイを東京乾電池に在籍する精神科医が話す。テーマはとても魅力的だし、ところどころ自分の講義でとかで使えそうなネタもある。ただ、タイトルに連発する言葉のように、なんだか「半分」な読後感、残念。その後、上野・国立西洋美術館の『パルマ』展を観る。マニエリスムは好きだな。パルマはどうも東京に対する横浜とか埼玉、あるいは銀座(渋谷、新宿)に対する秋葉原みたいなところのようで、フィレンツェという中心からはずれているということをむしろ積極的な要素としている。そこに、マニエリスムの奇妙で魅力的なセンスが花開いた。ヤンキーというか、オタクというか。うん、だって、パルミジャニーノの『聖カタリナの神秘の結婚』に描かれた頭を付き合わせているような子供たちの瞳は、何だか一様に黒目勝ちで切れ長で、ラファエロよりもハルヒとかなんとかとかの瞳と横並びにした方がいいと思わせるものだったりするのだ。あえてシンメトリーをはずし、平面性をはずし、中心をずらす構図とかなんて、正しいものにのらないのれないヤンキーのテイスト?なんて、テキトーなこと考えると分かった気になったりするものだし。まあ、うん、でも、今回の最大の収穫は、なにより、「マニエリスムにおけるおまたの開き加減」でしょう。えっと、キリスト・ベイビーとか、クピドたちとか、女性像とか不用意にまたを開いているんですよ、もちろん全てではないにしても「特徴的」とは言えるくらいに。それは、ベタに言えば、ミケランジェロ以降に加速する「運動」表現の一展開だとみなすべきで、不安定なポーズはそれによって次の動作を予感させる「運動」の表現になっている、わけです(その端的な例は「ねじれ」なわけです。ここに展示してあるどの絵の中でも大抵、人物像は首捻ったり胴体捻ったりしてますよね。それ)。あるいは、構図(ポーズ)の柔軟化という言い方をしてもいいかも知れないけれど、ともかく、ユルユルなマニエリスムのそのユルユル性のもっとも端的なポイントをみつけてしまった、という気がしましたね(ゲット!とAに言ったら「あっそれ誰かが言ってたよ」とのこと、、、涙)。これからみるひとは、是非、そこんとこよろしく。

そこから、神楽坂の山本現代へ。小谷元彦『New Born』を見る。すばらしい。美しいものは、残酷で冷酷で繊細でシンプル。最近見せて貰っている多摩美の学生の作品は、やっぱ、これに比べると生半可だな、と思わされる。身を削って出てきたみたいな「すごみ」が学生のにはないがここには、小谷のものにはある。これは、年齢の問題ではない。

さらに、四時、新宿で雑誌の打ち合わせ。もう多分言っていいと思うのだけれど、『10+1』という雑誌で、一年(季刊なので計四回)連載の仕事を頂いた。初の連載、率直に嬉しい(それにしても、ぼくは他の分野の方たちに支えられて生きるのですな、これまでもこれからも)。編集の方とオープン・ソースとかゲームとか、スコアの活用とか、『らき☆すた』とかの話で盛り上がる。ダンス縛りで、でもかなりクロスジャンルな縦横無尽に最近見ているものについて書く、しかも、本質的なことを掘り下げる、連載になるはずです。力入れて書きますよ!うん。

さらに、さらに六時、Aと高円寺で合流し『日本ロックフェスティバル』を見る。場所は、無力無善寺。いろいろと聞いていたが、今回初めてここに行った。何組かの演奏を聞きながら、ケージのサイレンスがひらいたことと、ヘタの問題についてずっと考えていた。ノイズを肯定しても、ヘタまで許容しなくないなー、と。ウマけりゃいいって問題じゃないとして。そのあたりでいえば、おそらく、芸術を批判しオルタナティヴとして日常(生、生活)を肯定しようとするケージの生活はそれ自体でエクセレントだとする考え方に対して、その無邪気さを批判して、日常の中に潜む力関係こそ問題にするべきとしたイヴォンヌ・レイナー(60年代アメリカのダンサー、振付家、ジャドソン・ダンス・シアターのメンバー)のこととかを考えに入れなきゃいけないのだろう。帰りに、翌日から始まるChim↑Pom『オーマイゴッド』展の様子を見て(メンバーが黙々と作業していたので、なかは見られず)、その後、だちびんへ。久しぶりに食べただちびんのゴーヤ・チャンプルーは、「別にい」な味になっていた(ショック)。

7/4
霧雨の中を今日も早朝ウォーキン。気持ちいい。