Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「@@ has a headphone」(STスポット)

2008年07月29日 | 演劇
7/27
チェルフィッチュの山縣太一とfaifaiの野上絹代と山崎皓司ら(あとパパタラフマラの松島誠)が出演するグループの1st live。演出はfaifaiのシノダ。STスポットの空間をオールスタンディングにして、ある一角を舞台とし、その一角を取り巻く壁に映像をディスプレイする。クラヴのパーティのなかに劇団が紛れ込んだような世界。観客とプレイヤーの隔たりが希薄な親密的空間は、ワンドリンク付きというライヴ的な演出が促してもいた。物語の断片がおかれる。だいたい二つ。ひとつは、友人と遊びの待ち合わせをするが相手にドタキャンされたという話。もうひとつは、バイクに乗っていたら交通事故にあったひとを一瞬みかけたという話。だから、どうしたということではない、「物語」というレヴェルから見たら破片に過ぎないような出来事が、「物語」へと結実しないからこそ、リアリティあるひとつの現実として浮かんでくる。そうした出来事とそこに漂う感傷にだれもが思い当たる節をもっていて、けれども、それは泡のようなものだから、だいたい不意に浮かんで消えていく運命程度のもの。こうした「泡」のようなものへのまなざしを丁寧に舞台化する力がfaifaiにはあるんだよなーとあらためて思う。

もうひとつ思ったのは、映像がとても効果的に用いられていたんだけれど、そうした映像に映る身体と舞台上の生身の役者たちがなんかほとんど等価なんだけれど、でも、絶対に等価ではあり得ないというなんだかとてももどかしい不思議な感覚について。今回に限らず、faifaiの身体は、とても映像的あるいはアニメーション的だ。いつも過激なディストーションが身体にかけれていて、その無理を笑ったり、その無理に非現実的なマンガ的身体を見たりしてきた。しかし、それは当然映像化された身体やアニメーションの身体がもつ「2次元性」には、とうていかなわない。どうしても、目の前の舞台上の身体は汗かくし生々しいし「3次元性」をともなってしまう。現実の身体は、なんか現実感の希薄な2次元性を帯び始めているのに、それでも実際はどうしようもなく2次元性をまっとうしきれないままでもある。このなんともいえない、じりじりするような「2.5次元」な位相こそ、ぼくたちの身体がいまおかれている現実なのかもしれず、そして彼らは、映像と身体とを乱暴に舞台上に共存させることで、その現実を意識させるのだった。

あと、以前から思っていたのだけれど、野上絹代のダンスは、これはとてもいいのではないか。オリジナリティの有無とかいっている視点からではこぼれてしまう、野上的ダンス(小指値→faifaiのダンス)の魅力について言葉が尽くされる必要があると今回強く思った。レディメイド的なダンスだということと、なんかとてつもないポジティヴな感じというのが、ぼくがいま思っていることで、どこにでもあるようでどこに行っても見られなかったダンスを野上のダンスに見ている。ユーモラスでかわいくてフレッシュなのだ。日本のコンテンポラリーダンスを語る際によく出てくる手垢のついた言葉ばかり並べてしまったけれど、そうした言葉の本当に純粋な部分にふれているような気がするのだ。もっと、じっくりと作り込んだものが見てみたいです。


「おやつテーブル vol.3」(Lucite Gallery)

2008年07月26日 | ダンス
7/25
まえだまなみ主宰の企画「おやつテーブル」第3弾、「秘密の応接間」を見た。

せまい現実の空間だからこそ見えてくるものがあって、それは身体の「動く」ということがもつ表情の感触だったりするのだけれど、今回も、そうしたことの可能性を痛感させられた公演だった。たとえばピナ・バウシュは、舞台上に現実のものをしきつめる。対して「おやつ」は、現実の空間をかりそめの舞台とする。見ているうちに、なぜバウシュは「おやつ」のアイディアを採用しなかったのだろうなどと思う。ここに、コンテンポラリーダンスのもうひとつの水路があったのでは、などと思う。いや、バウシュがやらなくとも「おやつ」がやってくれているのだから、それでよいのだ。手がものに触れる。その表情だけでダンスとなりうる。ひとりいるだけでダンス、いや誰もいない瞬間も空間がダンスとでもいいたくなる表情をみせている。そこに、いわゆる踊りはない。あっても滑りやすい床はそれが滞りなく進むのを拒む。あるいは、ソファに座ってしまえば、それは、ダンスとして自律したものではなくなる。けれどもそれでも、そこにあるのはれっきとしたダンスじゃん、とぼくたちに教えてくれたのがピナ・バウシュだとすれば、その視点を実に正しく豊かに展開している「おやつ」という企画が「日本のコンテンポラリーダンス」の代表的な存在でなくてなんなのだろう。歴史は複数形であるはずなのだ。とても誤解されやすいのだけれど「コドモ身体」論が、歴史の複数性への気づきを含んでいたことは、是非忘れない方がいいと思う。10月におこなわれる新しい吾妻橋ダンスクロッシングにも出演する「おやつテーブル」が、まさに桜井圭介的なダンス論のポテンシャルから(純粋に「コドモ身体」論の文脈に乗っているか否かは別として)出てきていること、そして、それがこんなにも豊かな作品を上演してきていることは無視出来ないと思う。

(5)メルヴィル「恐るべき子どもたち」(1950)

2008年07月25日 | Weblog
7/25
同性愛的な傾向と姉との間の緊密な関係。閉じること。ひらくと途端に破綻がはじまる。「行く」という言葉が印象的。夢想的な世界へと「行く」。何故子供の時には、あれだけで日曜の午後を生きることが出来たのだろうか。いや、芸術に求めていることはほとんどこの「行く」ことなのではないか、などと。

(4)宮崎駿「崖の上のポニョ」(府中)

2008年07月25日 | Weblog
7/23
リアリズムを追求していた「もののけ姫」あたりのとはずいぶんと大きく異なった、マテリアルな感触(クレパスな筆致のテイストとか)とアニメーション的なダイナミズム(海のうねりのへんてこなヴォリューム)とが、まずともかくも驚き感動させられたのだった。ファンタジーは暴走をひらくものであって、それが例えば異常な心理であってもなんらかの通俗的に流布している神話を再生するといった類の装置であるひつようなどはまったくないのだ、という表現の「原点」とでもいう他ないことがらをストレートに示してくれる。要は、この映画はクレイジーな暴走そのもの、そしてそれをみんなで見るというとてもなんというか健全な時間が夏休みの子どもたちばっかりの映画館に流れているのだった。最大の暴走は、恋の瞬間を描くということ。この映画をみた子どもたちは、ロストジェネレーションの女の子たちがみんな自分をナウシカだと錯覚したように、自分をそうすけかポニョと錯覚し「恋」をすることへのファンタジーを抱き続けるだろう。イケてるかどうか(神話に乗っかれているかどうか)を云々する類の恋ではなく、他人に触れてそれに巻き込まれてどうにもしようがなくなってしまうというブルトン的な恋を、狂気の愛を抱き続けることだろう(そうかあの大嵐のうねる波は、ひとを巻き込んでいく恋のうねりか)。魚が人間になるということは、これはポニョという存在から人間をもう一度やり直していくことなのか?そうすけがポニョにいろいろと教えるその身振りからは、人類をこの聡明な男の子のような存在からやり直したいという宮崎の思いを受け取った。「ポニョ」と命名するのもそうすけだし。ポニョが自分の魚としての名前を拒んで自分はポニョなんだと宣言するところも、そういう創世記的なことを感じさせた。

セッションハウス レジデンスアーティスト公演 「4 [four]」

2008年07月21日 | ダンス
7/20
鹿島聖子「17」
杏奈「嗚呼(仮)」
ホン・ヘジョン「Hybrid」
鈴木ユキオ「言葉の先」

鈴木の作品は、ソロ。冒頭舞台奥に尻を突いて倒れた姿から始まる。基本的に四つのシークェンスに分かれており、正面向き、横向き、後ろ向き、舞台奥から前進する。舞台の中央に四角くライトの当たったところがあり、そこに入って出るまで。鈴木は身体の質が問える(動くことの動機へ見る者が関心をもつことの可能な)希有な存在、その身体がじっくりと堪能出来た時間だった。

(3)コクトー『オルフェ』(1949)

2008年07月21日 | Weblog
7/21
コクトー『オルフェ』(1949)
亡き妻を、彼女を「見ない」という条件によって取り戻すが「見ない」ことが出来ずに失うという竪琴奏者であるオルフェウスをめぐる古代ギリシア神話を元に作られた作品。昨日の『美女と野獣』についても書いたように、コクトーは「見ること」の作家である。それについては、谷川渥(『鏡と皮膚』)や宮川淳(『鏡・空間・イマージュ』)などがすでに解明した歴史がある。死の世界は鏡を入り口に現実の世界と繋がっている。この鏡にまつわる様々な映像的な仕掛けがこの作品を見る楽しさになっている。ぼくは、仕掛けのなかでも「逆回し」が気になった。死神が何か現実の世界でまた死の世界で魔法をもちいるとき、その働きはしばしばフィルムの逆回しによって映像化されている。とても素朴な技法だな、とはじめは思っていたが、次第に何か本質的な問いが開けてくる「入り口」のような気がしてきた。妻を救出しに鏡を通り抜けるとき、主人公の詩人(ジャン・マレー)は、手袋を嵌める。この嵌める場面が「逆回し」で映像化されている。つまり、手袋を脱いでゆく手が撮影され、それが映画内で逆に回されるので、手袋を嵌めている場面に見えるのである。しかし、まず不思議なのは、ただ嵌めるだけなのだからとりたてて「逆回し」にする必要はない気がする。それにもかかわらず、この技法をあえて採ったのはなぜか。うまく言えないのだけれど、すでに終わっている時点から始まりへと遡る、その時間的逆転を体験させようとした、それが理由なのではないか。死から生へ、終結から発端へ。そして、それは映画というジャンルがもっている「終結してしまった(撮影され終わってしまった、過去になってしまった)出来事を再生する」というフォーマットを自覚させるような、そんな手法であるような気にもさせられた。そう、そうなのだ、どうしようもなく芸術というものは自らの術を媒介にして自らの語りたいことを語るほかないのであり、死と生の境界を説く映画は映画というものの死と生を語ることによってしか(例えば「逆回し」という手法を顕在化させることによってしか)、それを説くことが出来ないのである。さらにいえば、美学的に見ることを解明する際に、『オルフェ』はまず何よりもそれが上記したような映画というフォーマットの問題に自覚的に取り組んでいくことは、無視出来ないと思うし、それが加味されたときどんな美学がたちあらわれるのかと(なんだかとても漠然としているけれども)考えてしまう。
あとは備忘録的に。美女とは何?見ないことを許さない存在/若い詩人が書いたという「ヌーディスト」という詩集は白紙の冊子/『美女と野獣』にも出て来たタイムワープの道具としての手袋とは?→手袋=リバース/若者映画

(2)ジャン・コクトー『美女と野獣』(1946)

2008年07月20日 | Weblog
7/20
夏休みの映画第2弾。あまりに、野獣=キモメン、美女が恋する男=DQNの図式がうまく当てはまり、最後までそのラインで読み切れてしまうので、面白いんだか困るんだか(本田透はこれ見ているんだろうか)。コクトーは、「見る」ことをめぐる作家といえるのだろう、現れる/隠れるの場である扉を含め、目や見ることに関わるシーンによって映画が進んでいく。間と言うよりも醜い男(醜い男は人間にあらずということなのか?)というキャラの野獣が、美女のことを見たいのに、見ると美女に見られることになるので、目を伏せ「見るな!」と叫ぶシーンは、その点で最も印象的。野獣の館にあるシャンデリアは人間の手が握り、内装の彫刻は時々目を開けてみせる。映像の美しさは耽美的とも言えるが、なにやらそうしたギャグ的な要素がつねにある。なんだか、そういうぼやぼやしたところがあるかと思うと、不意にとてつもなく美しいシーンが出て来たりする。最後の、イケメンに成り変わった野獣が美女と空を飛んでいく、摩訶不思議なラストには、『恐怖奇形人間』のラストに通じるところあり、と思う。ああ、なんという適当な感想文なのだろう。

A-things トークイベント

2008年07月20日 | 美術
7/19
夕方から吉祥寺へ向かう。京王線の聖蹟桜ヶ丘あたりで、自閉的な傾向のありそうな短髪のおじさんが乗ってきて、比較的すいている座席に座ると鞄から、まずは鉄道の写真集を取り出して、めくりだしたのだけれど、めくるというよりもパラパラまんがやるみたいな強烈なスピードでぱーっと紙を走らせ、そればかりか顔をその紙の運動にくっつけるみたいにしているから、明らかに読んでいるはずはなく、そうしたパフォーマンスに見てみないふりしながら魅了されていると、今度は、白いくまの小さなぬいぐるみを鞄から取り出してきて両手に取り、目の高さに掲げると、ニコニコ顔で踊らせ出した。あまりのことに、あまりの個人プレーに感動と爆笑が抑えられず、途中の分倍河原でぼくは降参、降りてしまった。いやあ、電車で他人を無視して化粧したりとか鼻をほじったりとかするひとはいても、ぬいぐるみ踊らせるなんて!と驚きまたなんだかうらやましいような気持ちになって、けれども、あれはきっとそうとう電車の中がくつろげなくて、その極端な反動なのだろうな、と思ったり、あるいはどこかで「見られたい」という欲求もあるのではないかと思ったり、考えが忙しくなってしまった。そういうハプニングがあり、南武線に乗りかえ、立川で今度は中央線に乗って吉祥寺へ。ギャラリー・スペース、A-thingsにて行われた近藤学さんのトークを聴くために。抽象表現主義の代表的作家であるデクーニングは、過去に描いた自分の絵画を部分的にトレースした、トレースペーパーをアーカイヴ的にストックしていて、それを組み合わせながら、それを元にして(しかし、完全にそれを写すというよりも創作の霊感源としつつ)描いていたのだ、ということの紹介が中心にある、なかなか刺激的な発表だった。デクーニングのみならず、マティスやボナール、ピカソにも言及して、モダニスティクな絵画の巨匠たちは、実はルネサンス以来の標準(Canon)なき自らの時代にとまどいながら、自分の作品を一種の霊感源にして、そこから複数回の制作を行うなどということをしたのだ、という話しもあった。標準なき時代に、画家は自らの天才を頼りにして縦横無尽な活躍をしたなどというイメージはかなり幻想なのではないか、むしろなんらかの仕方で自分を縛る規則を設定する必要があり、それがあって画家は、「強い主体」を顕示しなければならないなどと言う創作への不安から離れて、自らの制作の動機づけをえることが出来るというものなのではないか。この考えは、ぼくのタスクについての考察と重なる面が大きいと思って、とても刺激的でまた励まされたのだった。

「金森穣の新作」について

2008年07月19日 | ダンス
7/19
今朝も六時から北野街道。けど、さすがに4日連続の疲れが出ているのか、ジョグというよりウォーキング。今年はあまり夏休みという感慨がない。借りてきた猫みたいな気分、で土地にまだ慣れていないからか。この辺りは、城下町だったこともあるからか、小川が石造りだったりして、とても美しい。バリを透かし見る。

帰って、シャワーを浴びたあと、Realtokyo での小崎さん(面識無し)のコラムをたまたま読んだ。「コラム」という体裁の文章に対して「批評」の水準を求めるというのは問題があるかも知れないけれども、いくつか気になったことがあったので、メモを書いてみようと思う。

読むと、小崎さんが、金森穣を推したいのだが、推せるポイントはどこなのか書きながら探しているという印象をもつ。「探しあぐねている」とまでは思わないけれども、最終的にどこを推したいのかがぼくには明瞭に理解出来なかった。例えば、

(1)「ファン」の「意表を突」く「演劇性」や音楽の扱い、「見世物小屋」という語彙まで登場する「猥雑」さは、それ自体として、推すべきポイントではきっとあるまい。

あるいは

(2)小崎さん曰く「我々は時代の中で踊っているのか、踊らされているのか。前者だとしても、我々に真の主体性があるのかという問いは残る。後者だとすると、我々を踊らせているのは誰なのか?」などという問いを喚起させる「黒衣」の「支配人」と「人形」=ダンサーとの関係が次に説明される。この点は、きわめてバレエ的な主題(クライスト「マリオネット芝居劇場」などのテクストはもとよりロマンチックバレエの政治学というものは、つねにこのあたりのラインが問題になる)であろうと思う。また、その今日的な解釈が今日のダンスが生まれるひとつのトポスであることは間違いない(『ブレードランナー』への言及は新しい身体のあり方が示唆されているようだ)。問題は、「我々は時代の中で」というときの「時代」に対するアプローチだろう。

(3)ゆえに、小崎さんが推すのは、「時代」を映す鏡として、この作品が機能していたという点についてである。「現代日本の病は的確に捉えられていたのではないか。現実を映す鏡は、大人の手できちんと磨かれていた。」と小崎さんは述べている。この文章にあらわれる「きちんと」や「的確に」という言葉がこの文章を批評文ではなくコラムにしていることは間違いないが、つまり、出来ることならば、どう「きちんと」鏡は磨かれどう「的確に」現代の「病」が捉えられていたのか、「きちんと」「的確に」描写するべきだろうと思う。もしそうでなければ、この文章のすぐ上の文こそがその「鏡」を内実を捉えたものとなってしまうだろうからだ。「物語の途中で、「国産」「偽装」「毒」「期限」「CO2」などのカードが説明も脈絡もなく提示されるのは単純すぎて芸がない」。まじめに読めば、「芸がない」ことが「鏡」の本質となり、「子ども身体」(桜井圭介氏の呈示したキーワード「コドモ身体」を指すものだろうと思うのだけれど、わざと何か揶揄をこめて「子ども身体」などと書いているのだろうか、さもなければ編集者の手落ちか、あるいはダンス批評の言説などまじめにつきあわないという宣言か)の定義とさほど変わりのないものになってしまうではないか(と、ツッコミを入れるのは、批判のための批判みたいになってしまうけれど、ぼくが望むのは先のような「きちんと」「的確」という言葉の内実が知りたいと言うことだ)。

ぼくなりに考えてみた結果、小崎さんが金森を推している最大のポイントは、

「何よりも身体が伸びている。すなわち、体力と技術の極限までを用いて踊りきっている。」

というところにあるのではないか。「戯れ」ないで頑張っていると。でも、頑張っていればいいのだろうか?「ある評論家」という文章中の人物がいう「幼くてイタい」という言葉は、そのあたりに向けられてはいないだろうか(推測ですが)。ぼくは頑張っているからそのひとを見に行くという「応援団」的な気持ちで観劇するタイプの観劇はやめました。「応援団」的な観賞がこれまでのダンス公演を支えてきたのは間違いないと思うのですけれど、ぼくはやめました。「体力と技術の極限」というとき、それは主観(各ダンサーごとの極限)にもとづくのか客観(ダンスの極北にある例えばフォーサイスが引いてしまったラインとしての極限)にもとづくのか、ぼくが「頑張る」という言葉を用いているのは、今整理した「主観」の「極限」の方を指して「極限」という語を小崎さんが用いているように思えたからです。もしそうでない「客観」だとすれば、金森はフォーサイスレヴェルに達したという話になるのですが。

(1)も(2)も正直、新しいか古いかで言ったら、「古い」観点だろうから(「見世物小屋」って60年代ですよね、ぼくは『恐怖奇形人間』をまず連想します。そのものズバリをあげるのならおととい見た1974年の『田園に死す』はベタです。「ブレードランナー」は80年代ですか)。手あかのついた新しさを、身体を「伸」ばして「極限」まで踊るダンサーの上ににコーティングして作られた作品?ということならば、いままでの金森作品とそんなに変わらない気がするんです、が。

ぼくがこんな文章を書いたのは、別に小崎さん個人を批判したいためではない。全然そんなんじゃないです(とはいえ、「子ども身体」については、問題があるのではないかと。忙しいだろう編集者の単なる誤植であることを祈ります。あと「戯れ言」と書くのは相当挑発的だなと思います。ぼくは桜井言説の単なる擁護者ではないですが、このような発言の真意はもう少しクリアにして頂けたらと「ダンス批評」を名乗っている立場から思います)。ただ、ダンスを語る言語をもう少し高めていけないものだろうか、と常日頃思っているので、つい、です。あと、金森穣を推す言説をぼくはもっと読みたいです。ぼくはいま金森作品を見なくなってしまったのですが、誰かが的確な批評を書くことで、それを読んだことがきっかけで、また見に行ってみたいといつも思っています(そんな気持ちから「金森穣の新作」も読み始めました)。

朝六時、高幡不動

2008年07月18日 | Weblog
7/18
朝六時、高幡不動尊の前。結構来られるものなのだな。ここまでスタートしてから30分かかった。コンビニにスクーターを置いて、北野街道をてくてくと走るんだか歩くんだか、適当なスピードで、少しずつ体が眠りから覚めるのを待って。帰り道、中学の時、陸上部で仲間だった1人を思い出していた。ヒジの辺りがこわばって曲げられない病気の彼が涙を流しながら、腕を不器用に動かしながら、ほとんど根性で走っていた時のことを思い出していた。自分は何でこんなに根性なしなのだろう、なんてぜーぜーいって途中から歩いて、なんてときに思い出した。彼のことを思い出すと、いつも切ない苦しい気持ちになる。がんばろうと思う。きっととてもやさしいいい男になって、慕われて生きているのだろうなあなどと予想する。戦争体験のようなものはないけれども、ぼくの世代だって、悲しい経験や苦しい記憶がある。それが共同体の記憶として統合される類のものでないとしてもそれでいいじゃないかと思ったりする。各人が大事にしている記憶を大事にすることで、日々生きている。各人のスピードで。犬と散歩に出るひとを、コンビニでポカリ飲みながら眺めていると、通勤に向かう歩くテンポがすごくマイペースな女の人が視界に被ってくる。今日は1時間弱。ジョン・川平(J-WAVE)と一緒に走った。


新聞に取材された記事

2008年07月17日 | ダンス
7/17
7/16付け朝日新聞朝刊の文化面にインタビューを受けた記事が掲載されていました。昼に大学に行ったら、助教さんが教えてくれました。タイトルが「魅惑の"落第ダンス"」とは。1時間くらい受けた取材で、お話しした5分くらいが紙面化されるわけで、ちょっと事実問題で気になるところもあったりとか、ともかくこういうものは記者さんの文章であって、ぼくのものではないのだなーと感じた。けれども、とにもかくにも「トヨタ問題」なんてトヨタ自動車には迷惑な問いを立てたことが、こうした余波を生んだ、ということですかね。

無題

2008年07月17日 | Weblog
7/17
昨日の晩は、寺山修司『田園に死す』を半分見た。夏休み中に、一日一本映画を見ようかと一応思っていて、最初の一本目まあなんでもいいや、じゃあ、ホイ!(DVDをデッキのプレートに載せる)と見始めたが、どうにものれない。なんだこの白塗りの学生服は、なんだ「犬神サーカス団」って、八千草薫はとびきりかわいいなあ、恐山で踊りまくる半裸の女のダンスはなんだかひどいなあ。土方巽のフェイクのフェイクくらいに思われる……などと、十年くらい前ならば、まだなんらかしらのひっかかりを持ちながら見ることが出来ていたはずなのに、いまのぼくの目にはとても不十分な作品としか見えてこない(でも、後半もちゃんと見よう)。

今朝もジョグ。今日は、南平→高幡不動手前くらいまで、往復50分くらい。南平の辺りで、Tシャツ+半ズボンの集団に遭遇。近くに代ゼミの寮があると聞いていたがその学生たち?六時半に、でも、こんなにうろうろしているものなのだろうか?朝帰りな大学生と、仕事に向かうおじさんたちにすれ違いながら走る。暑い。湿度にまかれる。その分、帰りのスクーターが気持ちいい。

無題

2008年07月16日 | Weblog
朝、久しぶりにジョグをする。川沿いまでスクーターで行って(何分建物が丘の上に立っているために、行きはまだよいが帰りは「しごき」と呼びたくなる級のハードトレーニングになってしまうので)浅川の土手を走る。七時くらいだけれど、ぼくよりも十歳くらい年上のおじさんたちが結構走っている。川沿いには工場がいくつもある。市場もある。必然、ブルーカラーのひとたちが多い。コンビニの脇を通るとき、綺麗なシルバーカラーのモンキーを止めて牛乳を飲んでいる腹の出た30才くらいの男のひとを見かけた。Tシャツが着古したものだった。仕事の前ののんきな時間をきっと毎日ここで過ごしているんだろうなあなどと、妄想してしまった。八王子の「フリータイム」といったところか。そう、思い出しながら走っていた。ファミレスでちょっといらいらしながら自分のささやかな自由の時を大事にしようとする岡田君の戯曲、あれはファミレスとかがメインの街がもつ独自の病を一種のエネルギーにして、生まれたものだろう、などと。そして、そうしたある特定の場に限定することで、そこへと閉じることで、ある病はその気密性によって圧力を増し、ある独特の力を獲得するのだと思う。岡田君の素晴らしいところは、そうした力をきちんと気密性のある空間を設定することで生み出している、そこにあると思う。そして、ぼくが思うのは(ここもジョグ中の出来事)、とはいえ気密性のある空間の外に出さえすれば、その病の大半は解消してしまうのではないか、ということだったりする。ファミレスの憩いと苛々感は、そこから抜け出せない焦燥感が増幅したもので、そこから抜け出せないことで戯曲はある効果を獲得するわけなのだけれど、けれども、ぼくたちは、こうも言うことが出来るのではないか、と思ってしまうのだ。「そこから出て、八王子のコンビニで牛乳飲む人生だってあるんじゃん」と。

芸術とは、効果の技を(作り手は)披露しまた(観客は)愛でるものである。内容そのものというよりも、その効果、あるいは効果ある内容(設定)がどうして出来たか、を楽しむものではないか。「効果」とは、ここまでのまとめで言うならば、気密性を高めたある空間を設定して、そこに起こる圧力をコントロールすること、そこにあるものである。だとすると芸術(家)のすることとは、ある空間を絶対のものとして(とりあえず。それが生みだす効果のために)設定すること、である。芸術の怖いのは、その設定が効果のためであるにもかかわらず、しばしば設定が抜け出せない本質として語られてしまいがちなところだ。

ちょっと脇道に逸れるけれど、昨今の「非モテ」論壇(?)は、そうした間違いをおかした(勘違いを誘発した)のかも知れない。「非モテ」という設定をすることで何が見えてくるのかということを語るための場であったはずなのに(おそらく)、自分を「非モテ」と思いこんで疑わないひとを生み出してしまう(それが「秋葉原での連続殺傷事件」を生んだというのは、過剰な読み込みだとは思うけれど)。そもそもゲームであるはずのことを閉塞した事実であると思いこませるところが、芸術にありまた批評にもあるのかもしれない。それは怖い。

八王子のコンビニ脇で朝の時間を過ごすことが、仕事先の手前の(確かそうでしたよね)ファミレスでコーヒーを飲むことに較べて、よいかわるいは分からない。優劣の話ではない。どこかある場に閉じたときに、芸術は始まるのかも知れないけれど、人生は、必ずしもそうして閉じる必要はないのかも知れない(ぼくもたまたまだったけれど、新しいマンションがどんどん建ってゆく川崎の街から、やや取り残され感のある八王子の山に移って、移ることが出来るのかと知った気がしたのだった)などと、思って走ってくたくたになってスクーターを止めた空き地に戻って、八時、工事のお兄さんたちが集まっているところでエンジンをかけて、今日のジョグが終わった。

「ろくよん」「しぶろく」を生きる時代

2008年07月13日 | Weblog
7/12
Chim↑Pom→ヤナイハラミクニプロジェクトとはしごをした帰り、井の頭線に乗る。なんてことないいつもの土曜の夜。込んでいた。立っていると、前の女の子に足を踏まれた。ほんの些細な接触。「踏んづけられた」ほどではない。けれども、「触れた」程度ではすまない痛み。いや、これは物理的痛みと言うよりも精神的な類。で、彼女はどうするのかと思って、こちらとしては、振り向き掛けた相手を無視するのもあれだと思いつつ、なんとなく「目は遭わせぬがそちらの方に向く」くらいで応答、していたつもりだが、彼女ははっきりとした何か言葉を発することなく、ほぼ「無視」といった振る舞いへと自分を決め込み、友達と「こんでていやだネー」的な会話へと潜り込んでいった。

なーんてこと、よくあると思うのですが(説明分かりにくいですかね?)、こんなときにある演劇、こんなときにある社交、こんなときにある関係にこそ、興味があったりする。芸術表現なんかよりもこうしたときのひとの振る舞いの方がよっぽどリアルじゃんと思ったりする。当たり前か、リアル(現実)そのものなのだから。じゃあ、もうぼくはこういう現実の演劇だけを楽しんでいよっかな、なんてことも思う。あるいはこういう日常の演劇と舞台上の演劇との間にある違いって何だろとか思ったりする。

そう、ぼくはこの女の子の「無視」は、演劇だと思うんですよね。

「誰かの足、踏んだ!」→「あ、向こうも踏まれたと思っている」→「ちょっと見てみよ」→「やっぱなんか相手の男、意識してるぞ、、、」→「「無視」することにします」→「友達と喋っちゃお」

というプロセスの中にある心理劇。これをしばらく解釈していたんですけど、彼女は二重に気を遣ったのでは、と考えました。ひとつは、

(1)踏んだ、悪いコトした!

というポイントで。もうひとつは、

(2)踏んであやまんなきゃいけないかもしれないけど、ここ(電車の中)で「すいません」と声をあげるのはKYだぞ!「すいません」なんてあやまったら「あやまる/あやまられる演劇」をしなきゃいけないから、自分もめんどいけどこの男にも面倒を掛ける

というポイントで。
まあ、興味のあるのは、もちろん(2)のあり方なんですけど、あの女子大学生らしき女性はあやまる作法を知らない訳ではないと思うんですよ。なぜかというと、ぼくがいま勤めている女子大学では、何か相手に気を遣わせたり自分に非のあるときはまあたいていの学生は謝ります、謝れます。いまの若い者は、あやまることを知らない!なんて話ではなく、謝ることは知っているはず、でも謝らないことがある。つまり、電車の中で正しいのは、足を踏んだら謝ることではなく、足を踏んだらあやまんなきゃならないけれど、あやまると電車でのくうきが読めない身振りになっちゃうので謝らないことなのではないかと思うんです。何かが正しいか否かを決めるポイントは、道徳的な規範ではなく場の空気にある。道徳的な自分を脇に置いてまで、貫かねばならない正しさが、「くうきを読む」ことの内にある。

それに対する僕の返答は、

「なんかめんどくせー」

です。はっきりいって。謝ればいいじゃんと思います。そういうおおらかさがない世界ってキツイよなと思う。地方にいけばそんなことは無くなっていって、気軽に声かけ合ったりするのだと思うのだけれど。

でも、そんな話を明大前の広島風お好み焼き屋でしたら、Aは、別の解釈を提出してくれたのでした。

つまり、彼女曰く、その子が謝らなかった理由として、もうひとつあり得るのは、自分が足を踏んでしまったのは、自分が悪いんじゃなくて、自分の足の辺りまで足を伸ばしていた相手の男の方が悪いと思っているという可能性だと。んーなるほど。踏んだけど踏むようなことしたお前が悪い!というわけです。確かに、込んだ電車の中で、踏む足が悪いか踏まれる足が悪いかは、きわめて微妙。もうほとんど「6:4(ろくよん)」あるいは「4:6(しぶろく)」です。「ろくよん」で相手が悪いなら謝る必要はない。「よんろく」で自分の非が大きければ謝ってもいいけど、、、。

なるほどなー。この「ろくよん」と「しぶろく」への感性がいまの世の中なのではないか!なんて思ってしまいます。どっちが悪いなんて永遠に分からない、完全に正しいことも完全に間違っていることも世の中にほとんどない。「大きな物語」の失墜とは、正しさの失墜だろう。だとすれば、どっちもどっち、という感覚のなかでぼくたちは生きている。「ごぶごぶ」でもないと思うんですよね。そういうダブルバインドよりも、勝ち負け的なマインドが支配的なわけで。「ろくよん」か「しぶろく」かは、解釈次第ってところがあり、まさにそうした解釈に委ねられてしまう今、というのが「諸現実の時代」というものの証左ではないだろうか。

Chim↑Pom、ヤナイハラミクニ「5人姉妹」

2008年07月13日 | 演劇
7/12
ようやく講義がほぼ一段落した(國學院の講義を月曜に一コマ残すのみ)。あ、ゼミはもう一回残っているか。ゼミでは学生と雑誌を読みまくってきた。なにかしらぼくの中で、彼女たちの視点が内在化してきたような気がする。いずれ、どんなゼミだったのか書き残しておきたいと思う。

午前は引っ越しダンボールをともかく片づけまくり(といってもまだまだ30箱は中身が詰まった状態で部屋に、廊下にある)、午後に恵比寿へ。Nadiffが再開した。小径を下って、ひょいと曲がる。と幽霊が出てもおかしくなさそうなアパートの隣に目新しいビルが建っていて、その地下にChim↑Pomの最新展示があった(Nadiff a/p/a/r/t)。「日本のアートは10年おくれている」というのがそのタイトル。ホワイト・キューブではなく、そうなる前のコンクリむきだしな空間に、スプレーで落書きがいたるところにしてあり、真ん中には、ションベン小僧がおしっこし続けている。床は水浸し。工事現場の足場を通路にして、そこから観客はその「いたずら者が夜中したい放題をした現場」みたいな場所を眺める、という作品。あまり、ぼくには正直「ピン」とこなかった。タイトルがそうであることにひっぱられ、「(日本の/世界の)アート」を相対化するような作風と解釈されがちなことだろう。けれども、不断に相対化するべきは、自分たち自身ではないだろうか。「アートを相対化するアーティスト」とみなされることは、Chim↑Pomを「アート」というものの内部で理解されることになろう。要するに、これを見た観客の多くは、こうしたタイトル、展示だと「ああこれがうわさのChim↑Pomかあ。なるほど会田誠の弟子たちという話の通り、偽悪に満ちていて、いまどきのアートって感じね、、、」と安全な、安易な解釈を容易に誘発してしまうことだろう。上階での書店の売り方と連動して、そう見られてしまうだろうことに、なんともいえず苛立ちをぼくは感じてしまった。むしろするべきは「アート」についてではなく「自分たち」についてであるだろう。自分と恵比寿とか、自分と書店とか、、、。そうした「自分たちへ向けた不断の相対化」こそがChim↑Pomの恐ろしさ、爆発力だとぼくは思いこんでいるのだけれど。「万引き」とか地下に書いているならば、是非、展示期間中Nadiffで彼らが万引きしたものを最後に展示会場の水たまりに放り投げるとか、そのくしゃくしゃになった図録だかから何か作品をつくり上げるとかして欲しいものだ。

帰り道、Aがアイスクリームのなかに鯛焼きを乗っけたカップをもつひととすれ違う。そ、それはなんだ?ということになり、うろうろすると、こんなところに!というところに、鯛焼き屋を発見。美味でした。Nadiff帰りの定番になりそう。

夜はアゴラ劇場でヤナイハラミクニプロジェクト「5人姉妹」を見た。
矢内原の「演劇」をみるといつも思うのは、演劇というのは、絶対的な存在である台本に対してそれをどう役者に読ませるのか、その形式に対する遊びなのだなということ。少なくともそこに「演劇」の遊びがあり、少なくとも矢内原や岡田は、あるいはファイファイなどは、そこにある「演劇という遊び」を遊ぼうとしている。さて、矢内原の「遊び」には、ではどんな特徴があるかというと、ぼくには、それは「漫画」のモードに近い何か、という気がするのである。以前「青ノ鳥」をSTで見た時にも、そんなこと思った。ギャグマンガや少女漫画(ラブコメ?)を実写でやろうとしたら、吹き出しなら一応収まる長いセリフは、役者に喋らせようとしたら、超早口でないとリズムが出ない。コマ割りのテンポが出ない。だから、ガンガン早口でどんどん展開する。過剰な舞台上の動きも、そうした漫画モードとして見るとそんなに違和感なく見られる。とはいえ、「漫画」を実演することがもちろん目標ではなく、いわゆる通常の「演劇」のモードを別のモードに切り換えてみること、切り換えても全然見られるし楽しいし、切り換えたって演劇じゃんということが言いたいというか、矢内原が最も言いたいことかは分からないけれども、そういうことになっているのではないかと思う。

そんで、ぼくは今回のこの「5人姉妹」を、とても楽しんで見た(とくに後半)。面白かった!5人娘のかしましい、かまびすしい感じからは、これまでの矢内原演劇の「群」のような役柄たちにはあまり感じられなかった類の「個性」が強く出ていて、それぞれの勝手な様子が演劇のキャラを読み取り味わう楽しみを与えてくれていた(前夜たまたま『ひぐらしのなく頃に』コミック版を読んでいたので、とくにそうしたゲーム的漫画的キャラ性に敏感になっていたこともあるのだろうけれど)。前半は、まだそうした個性が意識出来なかったのだけれど、一日6時間しか起きていられないという設定のひとりが目覚め、唯一の男である召使いを姉妹たちがいじめたおすあたりから、それぞれのキャラは見えやすくなり、激しい振り付けも、矢内原のスパルタ性(?)よりは、各個性がときおりはっきりと顔を見せる運動として、見る者が「つぼ」を得やすくなっていった。その「眠り姫」状態だったひとり(役名失念)の役者がなんだかとてもよかった。これまでの矢内原のダンス作品にも芝居作品にもいままであまり出てこなかったようなマイペース(おっとりさん)系(に見える)。そう、矢内原さんに縛られすぎないわがままさを役者がはっきしてくると舞台はすごく生き生きとしてくるのではないか。その点では、最初期の「駐車禁止」を見た時に感じた奔放さが、今作にはあったようにも思う。極めて一貫したテイストで構築された振り付けの完成度は、その時期以上に高まっているのはそうで、そうした点では明らかに異なっているのだけれど。

「アルプスの少女ハイジ」や「グリーングリーン」とか、世代を感じさせるネタよりも危うく交通事故死するところを助けてくれた「広島東洋カープのキャップを被って通勤するおじさん」という話の方がいいと思う。つまり、矢内原さんの世代から自ずと出てくる話題は、世代限定感を醸してしまうけれども(そして、そういうところに矢内原さんの実存というか作家性というかが色濃く出てくることになるのだけれど)、むしろ世代に閉じないネタこそ、舞台を推進させていたのでは。ぼくはそうした方向に突き抜けていく矢内原作品が見たいし、そんなこと平気で出来るひとのように思う。シリアス傾向が強くなって観客が固まっていく作品ばかりが矢内原さんの本領ではないはずで、簡単な言い方をすれば、ラブコメも出来るひとなのではないか、今作を見て、そっち方向への期待が強まったぼくなのであった。