Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

生牡蠣

2006年10月31日 | Weblog
10/30
昼にM先生を頼って日本女子体育大学の図書館を利用させてもらう。しばらく研究のために毎週通おうと思っている。もちろん「ダンス研究のために」であって「九割五分がトレパンとジャージ姿の女子大学の学生の生態研究のために」ではない。個人的に探していても限界があり、さすがに舞踊科のある大学は違うと無知の涙をところどころで流す。本当はビデオを見せてもらおうと思っているのだが、蔵書を見ている内に時間は過ぎ、来週に持ち越しとなった(図書館所蔵のビデオ、モダンダンス関連はあるのに、ポストモダンダンスは皆無。バレエはすごいたくさんあるやっぱアートなんつーものよりエンタメが圧倒的に強いのだな)。

夜に銀座でAの父君におごってもらい生牡蠣をたらふくいただく(昼はM先生に「特定」=特別定食ごちそうになったから、今日はご飯代0円の日だ!)。あまり頻繁には経験できないのではありますが、経験するたび思うのは、旨いものというのはなにやらドラッグ的ですね(って風邪薬くらいしかドラッグ知りませんけど)。口に入れた瞬間、まず黙る、そして目をつぶる、すると眼の中がチカチカ光る気がしてくる。時間の進み具合がおかしくなる。なんかささやかながらぐっと来る短編物語でも読んだような充実感がひろがり、あっという間に口から消えてしまったものへのちよっと切ないようなメランコリックな気持ちと満足感がエンディングを飾る(ああ、いつか味覚論やりたいなあ、誰か研究費を!)。まさに「トリップ」ですね、こりゃ。それにしても、牡蠣が胃をかけめぐり白ワインのプールで暴れたかしたようで、帰りはずいぶんな酔っぱらいになってしまった!


10/31
岩渕さん、コメントありがとう。レスします、しばしお待ちを。

斉藤美音子「整形」(@スパイラルホール)

2006年10月30日 | Weblog
何度か公演に足を運んで、ダンスに興味もって、それでちょっと「てつがくてき」にダンスのこと考えてみたいというひとが、一体どのくらいこの世にいや少なくともこの日本に存在しているのかは皆目分かりませんが(10人?3人?2人?、、、やっぱいないか)、そんなあなた(そこの!)に例えばこんな文章読むといいのではといま思っているのは、Ramsay Burt, Genealogy and Dance History: Foucault, Rainer, Bausch, and de Keersmaeker (Lepecki (ed.), On the Presence of the Body, Wesleyan University Press, 2004)です。あ、英語のテクストです。翻訳ないです。でも、いいんですよ。

で、それ読みながら考えていたんですけれど、ダンスというものの本質はないかもしれないです、というかまずない。つまり「ダンスとはかくかくしかじかなり」という本質を示す客観的な定義は存在しない。けれども、ぼくたちはあたかもそう言うものがあるかのように思いこんでしまう。なぜかというと、ぼくたちは「ダンスと思われているもの」に反復的に接しているから。反復が本質(の仮象)を生む。本当はそのものの本質などないのに、何度も繰り返しそう思われているものに出会っているとそれがその本質だと思ってしまう。公演とかに行くぼくたちは、そういう「ダンス」につきあっている(だけな)のかも知れない。そこにはダンスはないかもしれない。そこにあるのは反復によってあるかのように思われている観念としてのダンスだけなのかもしれない。

ということに対する危機というか批判性がない限りは、「ダンス」からはずれて踊ることは出来ない。「ダンス」から完全に自由に踊ることは出来ないかも知れないけれど、「ダンス」を疑いながら踊ることは出来るはず。で、ぼくはそれを見たいから公演に行く。でも、大抵はそんなトライアルなんて見られない。裏切られる。もうダンスなんて見ないと思う。ちょっと浮気して演劇とか美術とか見に行くと、なおさらダンスの後進性にうなだれる。観客の笑い声に、えっ、これでいいの?と思ってしまう。例えば、残念ながら、実に残念ながら斉藤美音子の「整形」はぼくとにってそういう気持ちにさせられた「ダンス」だった。


セキュリティの時代

2006年10月30日 | Weblog
いま上智大で行っている現代美学研究会はコプチェク『〈女〉なんていないと想像してごらん 倫理と昇華』の第四章を読んでいる(正確には来週から読み始める)。それはピーター・ブルックスのメロドラマ演劇論とフリードのシアトリカリティ/没入論とをラカンを通して理解するという議論で、もちろんぼくとしてはフリードの没入論をどうラカン(研究者のコプチェク)が批判・吟味するかに楽しみがある。読んでいくにつれ、フリードが不十分にしか展開しなかった問題とコプチェクの挙げるものは、どうも東浩紀がかねてから論じているセキュリティ論に関連するんじゃないかと気が付く。で、わくわくしている。

「リアリズム的世界が聖なる彼方の崩壊から出現するとき、主体は、固定不可能な眼差しの監視に服従し、みずからが見ている世界の内側から可視化されるようになるのである。すべてを見ている位置にあった者がその場所から姿を消すとき、観者は、すべてを見ている世界のなかで可視化される。主体は、世界のなかにあるとらえどころのない眼差しに出会うのであって、世界を超えたところから見ているものに出会うのではない。」(156)

観者(主体)が劇の登場人物や絵画の人物像に没入できるのは、単にそこに表象された人物像がまるで主体が存在していないかのように振る舞っているからのみならず(確かに、そうでないとつまり観者がそこにいることの意識があからさまになるとわざとらしくなり観者はその人物像に容易に没入することが出来なくなる、というのはフリードの没入論の基本ではあるけれど)、そればかりかその没入する対象を観者が「たまたま見つけたと感じる」ように設えられていなければならない、という点をコプチェクは付け加える。コプチェクは、観者を監視しする機構としての「眼差し」への理解とその監視に服従する「観者」という論点を追加することによって、フリードの没入論をセキュリティの論理へと展開する。

なるほど、ぼくたちが何かに「のっている」=没入している状態というのは、監視社会のシステムに生かされている(服従させられている)状態とパラレルと考えることが出来るのだ。だから、ダンスにのる、音楽にのる、の「のる」も、この点から注意していなきゃならないことなのだ。そうか。

ということが分かったのは、昨日の朝、そのコプチェクを読みながら、東浩紀のレクチャーを聞いていたからだ。

セキュリティ社会の怖いのは、自分の自由な意志のもとに行っていると思っていることが実は監視とそれへの服従の結果に過ぎないかもしれない点にある。スイスイとスムーズにコトが進んでいるとき、その容易さや自由の感覚は、自分の自発性や個性の反映であるかのように思うかもしれない、がしかし、本当のところは監視の下にある社会がノイズをリダクションした結果起きているだけのことかもしれないわけである。

ところでこの記事を書こうと思った動機というのがひとつフリード云々とは別にある。

ぼくが今住んでいるところから駅に行く途中に悪名高い鶴見川が流れていて、その畔には毎日、オンボロの車を使って浅黒いおじいさんがこれまで八百屋を営んでいた。彼はぼくにとってこの町の象徴的な人物で、根本敬の漫画から飛び出したようなルックスと乱暴なしゃべり声やしゃべり方と彼をとりかこむこれまた不穏なダメおじさんたち(昼間からカップ酒を飲み、ぶらぶらしている)とが、ヤンキー発祥の地町田周辺らしい人間性をあまりにもストレートに体現しているのであった。脇を通り過ぎる五秒くらいしかつきあいがないんだけれど、漏れ聞こえてくる感じでは悪い人ではないんだよね、優しい人みたいなんだよね。でも、二歳くらいの子供におまけでバナナを渡そうとして「おい、ほら、こっちこいよ!ほらよ、こいよ!」とか怒鳴っても子供ビビルだけじゃんって、要領が分かってないっていうか社会性がない。こんな感じだから人がたくさん通るところなのに売れてる様子じゃないし、むしろ住民にとっては煙たい存在でもある。要するに、ノイズ駄々漏れなのだ、このおじいさん(とその取り巻き)。

で、結局、どうなったか。市はおじいさんが車止める辺りに人は通すことの出来る柵を張ってしまったのだ、昨日突然。おじいさんが仕事をしない日曜日に。どうするんだろ、今日おじいさん。こうやって、セキュリティ社会は、ノイズをカットする。ちょっと不便な柵があるな、と一瞬不思議に思うが、それも慣れればなんてことはなくなる。じいさんは邪魔だったが、邪魔者がこうやってカットされる社会の方がずっと恐ろしい、とそこを通り過ぎる時思うのはぼくだけなんだろうか。

五反田団「さようなら僕の小さな名声」(@こまばアゴラ劇場)

2006年10月29日 | Weblog
つづき。金曜日ワタリウムの後、今度は五反団の新作を見に、駒場へ。時間があったので、大学に行ってみるとこれまでの雰囲気とは大違いの新しくできた建物にちょっと驚く。建物が新しいと学生もフレッシュに見える。なんか青春ぽく見える。

五反田団の新作は、この劇団の演出家で脚本を書く前田司郎が前田司郎を演じる(パンフのキャストの欄には「僕-前田司郎」とある)という仕組みを見事に遊びまくっていた。いかにも前田司郎という人のキャラに相応しい自嘲と自尊が絡まり合った、でも「自尊」の方はつまり岸田戯曲賞をとったというエピソードはリアルには嘘なので(前田本人はこの賞を取っていないので)、きわめて屈折していてそれ故に抱腹絶倒の芝居になっていた。面白かったのは、前田本人が前田を演じることで、両者が一体になるどころか、むしろ逆に戯曲中の前田とそれを演じる前田との距離が見えるところ。まあ、そもそも相当おかしいのだ。前田が前田の脚本と前田の演出で前田を演じているのだから。まじめにやればやるほどばかばかしくなるし、ふざけてみてもまさにふざけるということをまじめにやってるみたいになる。妙におかしかったのは、とくにひとの芝居を前田がにやにや笑いながら見ているときとか、その距離の感じがあらわれるところ。「このひと自分が書いたくだんないセリフまじめに演じながら喋っているよ」と思っているみたいな。芝居をすることの自尊と自嘲といってもいいかも知れない。ひたすらふざけてるようでもあるし、けれどもだから芝居そのものが出現した時間だったとも言える気がしたのだった。

「ボロボロ ドロドロ」展

2006年10月29日 | Weblog
金曜日の昼にある方と渋谷でミーティング。「富めるものが貧しきものに施しを与える」とのありがたきモットーからその方に天ぷらをおごって頂き色々と大事な話を進めた。1時半、別れるとさて、どこか久しぶりに美術館でも行こうかと思い、上野のベルギー王立美術館展も気になるものの、近場でワタリウム美術館「ボロボロ ドロドロ」展に行くことに決めた。ぴあを見てもどんな作家なのか余りよく分からず、ほとんどタイトルの珍妙さだけで期待をかける。78年大阪生まれの河井美咲と76年シアトル生まれのテイラー・マッキメンスの作品が2-4階を埋める。二人とも活動の拠点はニューヨークのブルックリン。河井の作品はドローイングというよりも小学生のお絵かき。ノートにちょこちょこっと放心状態で描くときのような。スカートが翻ってそれにドキリとする男の子なんてモチーフはリアル小学生なら描かないだろうと思うけれど、あとはほとんどまんま小学生の落書きなのだ。「エッジ」(批評性?)のようなものはどこにもない。ただドローする個人的な楽しさを転がし続ける。テイラーの方は、キャンバスを使ったりと美術作品らしさは増しているが出てくるのは、うんこのようななまこのような形状のものばかりで、それが部屋にいる人間の周りに漂っていたり、あるいは漂っているものをそのようにエフェクトさせたりしている。このなんかうんこみたいのは、根本敬の作風ににてるなとぼんやり思っていたら、まさにズバリ。というのも、地下一階のオンサンデーズ脇でやっているこの二人の作家がキュレーションした展覧会というものがあって、そこに彼らの作風のルーツになった作家の本とか作品が展示してあったのだけれど、そこには湯村輝彦、根本敬はじめ、日本のいわゆる「ヘタうま」なイラストレイターや漫画家がラインナップされていたのだ。また、海外の雑誌がこうした動向をすでにフォローしていることもそこで同時に紹介しつつ。この展覧会は、つまり、ニューヨークの若手の作家の展覧会を上で行い、彼らを紹介しながら実はそうした「ヘタうま」なセンスは日本初のものであり、しかもそれがいま世界的な規模で広がりつつあるのだということを、地下で種明かしする、そういう仕掛けのものだったのだ(だから副題は「帰ってきた日本のサブカルチャー」なのだ)。「ヘタうま」はもはや日本人にしか分からないローカルな感覚ではなく、グローバル化しているというわけ。

それにしても、どう捉えたらいいんだろう。強い意志が託された美しい線ではなく呆けた状態でいつのまにか現れたしまったかのような線の「ゆるみ」。ときどき猛烈に反応してしまうそういう線の魅力って何なのだろう。ゆるんだ線のブレは意志に統括され普遍化されていない分その場の出来事性を多く含んでいる、ということなのだろうか。線の身体性がそこに生き生きとある、というか。

relation to relatives

2006年10月24日 | Weblog
土曜日に、A方の親戚の方たちとお会いした。いや、親戚なんだから「お」とかは余計か?ん、でも、それにしても、初めてお会いするの方たちなのに、ぼくと他人ではない関係(relative)がすでに出来ているということに驚く。すごい。だから当然のように、Aの父君の仕事先である汐留のビルの47階にあるイタリア料理の店の夜景を存分に楽しむためだろう薄暗い状態の長テーブルに座ったとき、自分が選んだ一歩が持つ波及効果に少し眩暈のようなものを感じたのだった。90才になる祖父と86才になる祖母にお会いしたのも感動的だったのだけれど、とくに、Aのいとこにあたるしかし年齢差甚だしい小2の女の子が小4のお兄ちゃんと共に、花束を持ってきてくれた時などは、感動と驚きとでもはじめて会ったの5分前だよねっていう事実とがないまぜになって、訳の分からぬ涙なんぞをまなじりに湛えてしまったのでもあった。この二人、なおちゃんとてるちゃんは、いかにもな都会の子風情でこちらに興味なしなのかと思いきや、「なんで二人は結婚したの?」と兄の爆弾発言に始まり、Aが選んだハロウィン企画のボクシングするドクロとカボチャがくっついたペンをプレゼントするとさすが子供らしい興奮を示して、あっちこっちにジャブをくらわし、すきをみてこちらにも攻撃をしかけてくるようになると、血は繋がらなくてもやっぱり親戚、すっかり心通い出してしまうのだった。残念至極なのは、そのペンでなお(妹)ちゃんが書いてくれた4コマ漫画をテーブルにおいてきてしまったこと。ごめん、なおちゃん、いつかまたあったとき--きっと乙女な問題がその頃には幾つも勃発しているんだろうな--あやまる、でもそのときに思い出し笑うエピソードをなおちゃんはプレゼントしてくれたんだと思う、ので、それをもらったと思ってます、ので。

そろそろ、ダンス公演足繁く通うことにします。いくつか大事なもの見逃してますかね?

雑誌とブログどっちの方が読者は多いのか?

2006年10月20日 | Weblog
火曜日は大学の研究室で事務の仕事。昼休みに生協書籍部に行き新刊書などをながめつつ不意に『舞台芸術10』を手に取る。皆さん読みました?いや、その前にこの雑誌ご存じですか。買ったことございますか。舞台芸術(舞台で行う演劇とダンスを指すらしい)の批評的な文章が毎回ラインナップされる雑誌なのですが。ぺらぺらめくってると、内野儀さんと桜井圭介さんの対談が載っていて、ちらと読み始めるとそこに、BBSで昨年末か交わされた桜井×武藤のコメント合戦のことが語られていて、驚いた。内野さんの発言(黒沢美香と康本雅子を同列に扱うことは出来ない云々という、あの)なんだけれど、それはもはや雑誌や本で交わされたそう言う意味で「オフィシャル」なものであるかのように、言及されていた、ぼくはそのことに驚いた。

それで、なんだか「予感」がして先を読み進めると、(やはり)次にぼくの名前が内野さんの発言に出てきた、それも同様に雑誌に書いたものとかではなくつれづれに書いている当ブログ上での記事に関してだったのだ(前回の吾妻橋についてのぼくなりに気になる問題を書いたもの)!ウオ。これが今という時代か、と感慨。そんでまずは、そういう「今の時代」問題としてここにこのことを記事化したいと思った。ブログやBBSの発言は、もう高度な批評誌で取り上げられちゃったりする類のものなのですね。

というかそもそもブログの読者と『舞台芸術』の読者どっちが多いんだろう?ってことが次に気になりだした。ブログはマイナーなメディアではなく、むしろ雑誌の方がマイナーなのかも知れない。いやきっと事実そうだろう。実際問題ぼくは『舞台芸術10』6月発売のものなのに今週の火曜日まで読んでなかった。たまたまめくってなかったら、ずっと読まないままだったかも知れない。きっとそうだ(自分のことが言及されているにもかかわらず、だ)。この事態は、ぼくのチェック力不足に非難が向けられることかも知れないけれど、実際読んでなかったというそのことに関心を向けるべきだ(つーか、誰かぼくに言及されていたこと伝えて下さい!え、誰も読んでなかったから誰も指摘できなかったって?だとしたら批評というやつはもうほとんどのひとにとってア・プリオリに「スルー」状態なものなのか)。

で、こういったことについて今朝、Aとパン食べながらおしゃべりしていたのだけれど、そこでぼくが連想したのは、五六年前、キムタクが『anan』のすでにその時で何年か連続いい男ランキング一位になったときのインタビューで自分よりも渋谷で歩いている男の子の方がカッコイイし、自分もマネしていると言っていたこと。コピー(あるいはサブ的ないし私的存在)と版元(あるいはメイン的ないし公的存在)のヒエラルキーが逆転している、と言う意味でキムタクの話と雑誌-ブログの話が似ていると思った(まあ、どーでもいい連想ですけど)。

雑誌に書く意義というのは、なくなってきているかも(とかいって雑誌編集の方々に総すかん食うのは嫌だ!けど)。どうなんだろ、実際。とかいって、こういう記事を書いている裏の魂胆は、内野×桜井対談読んでない人に読んでみたら?と勧めたいということだったりするのですが。

でも、「面白いなあ」なんて他人事にして楽しんでいられるわけもなく、対談の末には叱咤激励というかなんというかなエールが語られてたりして「やります、よ!」という気にさせられたりしているのではあります。で(もそのこととはあまり関係なく)、もっと瞬間的に感じたことをメモするような記事をブログ上でどんどん書いてみたいなと思ったのでした。

例えば、
■最近ラジオ番組のポッドキャスト・ヴァージョンをよく聞く。テレビがもう括れなくなった大衆になおも焦点を絞ろうとして機能不全の不毛番組ばかりになっているのとはことなり、聞き手を限定している分、ラジオは元気だ。TBSラジオ、特に(といってあくまでもポッドキャストしか聞かないんだけど)。今年はテレビ(とくにドラマ)も新譜もダメな一方、ラジオの年だったのかも。それはラジオによるコラムの復活でもある。

■『STUDIO VOICE』今月号は「今、いちばん大切な本」という特集。伊藤存が『枯木灘』を選んでいて驚く。けど、あまり読みたいなと思う記事がない、正直。なんでだろうか。全く個人を知らないブログが紹介している本をついついアマゾンで買ってしまうことよくあるのに(そういう理由で今日届いたのは高橋世織『感覚のモダン』)。そのなかでいちばん欲しいと思ったのはKATHYが推薦するジャネット・ボード『世界の迷路と迷宮』。というか、KATHYしゃべってる!

浅田、藤幡、斎藤、宮台

2006年10月18日 | Weblog
ヨーロッパに行っている間に、まあそんなに長期じゃなかったので仕方がないけれども、浦島太郎状態にはほとんどならなかった(ちょっと期待していた)。けれども、一点成田から上野に向かう電車のなかで見た公告に「山本モナ」という文字が躍っているのは新鮮だった。不倫疑惑で新番組を休んでいるというニュースだったけれど、最近になって過剰な中傷というか「からかい」「いじめ」に発展している、それが気になっている。中学生が担任も荷担したいじめで自殺した事件のニュース流れる最中でのこと。スケープゴートを探して都合がいい獲物がいると一斉に糾弾、というかいじめる。そもそも、山本問題は、五反田団の前田さんの日記にも出てくるけれど、不倫問題の衣を借りたやっかみだろう。倫理の問題にするのはおかしい。山本は個人的には不倫相手の家族に対してトラブルを抱えることになるとしても、そんなに悪くない。少なくとも、週刊誌を読むどんなひとにも悪いことをしていない。ここまでひとを中傷していいのかと思う記事が電車広告で踊っている。そのことの方がいじめに深く関わっている倫理的問題とみるべきではないだろうか。そういうことをもう公に誰も口にしない社会に自分は生きている。いじめで心を消耗し欲望を消費するサイクルから抜け出す道は個人で求める他にはないのだろうか、社会はいじめを享楽することをやめないのだろうか。

と考えていると、別役実『ベケットといじめ』のことを思い出した。読み返してみようと思う。でも、今読むとリアルに描かれたいじめの構造がいじめの肯定とか承認に繋がってしまいそうな気がする。どうなんだろう。そういえば、来ないはずのゴドーが来る芝居を別役が作っているとどこかで読んだ。そこには、こういったぼくの危惧への何らかのアンサーは含まれているのだろうか。


ところでネットワーク社会の文化と創造」第一回「ネットワーク社会の文化と創造―開かれたコミュニケーションのためにというシンポジウムの二時間半の映像がすべて見られる、非常に面白い。

山本ムーグ『Red, Naked!Naked!』

2006年10月16日 | Weblog
今月の『美術手帖』はエッシャー特集でそれはちょっとどうでもよくていま別の記事、つまり大竹伸朗と後藤繁雄の対談を読んでいたんだけれど、そこには「落書き」が現代美術館に展示される重要性について大竹が語っていて「あ、これだ」と思った。

「O 今回の展覧会がやっぱ西洋美術の展覧会でないのはさ、たとえば12歳の時にピカソが描いたデッサン画とかいうのはあるけれど、俺のは「落書き」だから、こんな展覧会はないと思うんだよ。美術館クラスの展覧会で、俺は「落書き」が大切だと思うわけ。
 G 美術の時間に描かされたものじゃなくてね。
 O それを展示しなきゃダメだと思うんだ。
 G 電話しながら描いたり、授業中に描いたりすることの快楽が基本ってことでしょ。
 O そういうとこに出るのよ、実は。制度からはずれたもの。そういうのは展覧会ではずされる。俺はあくまでも落書きで行きたいわけ。我慢したくないのよ。」

「落書き」が美術館に展示されるべきと思うか思わないかの分岐点がさ、ほんとに気になるよ。ぼくは「落書き」が好きだ。落書き性がいまここにあることがとても大事なことだと思うんだよな。

で、ぼくはダンスというジャンルは普通にアヴァンギャルドな世界で、そういうことはデフォルトなんだとずっと思って無邪気に追っかけてきたんだった。でも、それはぼくの半分誤解で半分期待し過ぎだったんじゃないかな、とこのごろちょっと懐疑的になって、へこむこともあって、だから今回の『吾妻橋』とか久しぶりに痛快な気持ちになって「これだよね、これが普通」と最後の鉄割の「一発」のせいで(おかげで?)長ネギの汁が充満したアサヒのホールで目から涙をにじませながら思っていた。

そんでまさに「落書き」しつづけるみたいな一時間半だった、山本ムーグの企画『Red, Naked! Naked!』(10/15)について書いておこうと思う。山本ムーグはbdのメンバーでDJ担当、でも最近はbdで歌うたっているらしい。そこに、小田島等、HARCO、KATHYがゲストに加わってやるのは、いわゆるライヴとか講演とか公演とかとはまったく違う、そういうくくりにしたら絶対消されてしまうような、だから一種の「落書き」だった。

小田島はトップバッターで山本と一緒に登場するんだけれど、楽器やターンテーブルを前に演奏する気配なく、ただ20~30分くっちゃべる、それだけ。しかもほとんど唯一のトピックが二人とも明日誕生日という話(ほんとかうそかは不明)で、ビニールの買い物袋を取り出すとそれを客席に回し、何か入れて、と。次に小田島がビデオを流して、テレビ番組の出演者(マツケンとかホリエモンとか)にみんなでアテレコしたりする。音楽史的に言えば、これはケージの沈黙の音楽?音楽なしひたすらノイズばかり。中身はくり抜かれ、ただ時間を共有するという出来事だけが続く。なんか、でもそれが、とてもよかったのだ。なんにもないんだけれど、その分ひとの交信の感触だけが微少だけど鮮明に浮かび上がってくる。最後の方で、回ってきた袋からチョコとか飴とかが出てきて、それを再び客席に配ったり、山本がそれを「原始共産制みたい」といったり。

ニート時代のケージ?っていうか、大事なものが何なのか、誠実に考えるとこうなるって、そういうことに思えたすごくなっとくしてしまったのだった。伝えたいことなんてない、ただここにこうしていることだけが意味、って感じのところ。

後半登場の、渋谷界隈では小沢、カジに続く三男坊的存在らしいHARCOは、自分のオリジナルを演奏することよりも、ひたすら山本のリクエストで、自分が関わったCMソングを次々と披露させられる。これも、なんだか「音楽」らしかなぬただの断片の集合なんだけれど、それを楽しませる時間は、即興的にどんどん歌っていく誠実なHARCOの佇まいとそれをやんちゃな子供みたいにリクし続ける山本の佇まいとが相まって、なんだか唯一無二の時間になっているのだった。

最後のKATHYは、登場したガキ男たちを束ねる姉さん的な役割をしつつ、キメキメのバレエを踊り、それがここに場違いであることによってなにやら強烈に愛しくさせる一場を生んでいた。

要するにタイトル通り、表現とか何とかといわれるものの無駄を排してただ「赤裸々」である状態に誘われる時間だった。「赤裸々」を表現するんじゃなくて「赤裸々」であること。それが誠実な態度と思え純粋にハッピーな気持ちにさせられたのだった。よかった、行って。

『エッセンシャル・ペインティング』

2006年10月11日 | Weblog
学会の全国大会で大阪へ。もちろん何度か来たことのある大阪や神戸。けれども、気分がきちんと旅モードであれば、異国のように違和感に酔いしれることが出来る。最初の印象は、韓国ぽいなということ。地下鉄の内壁がコンクリートにペンキをぬっただけのところが多くて、そんな風情が韓国を連想させた。それに古いビルがしぶとく使われているところとか。東京は中身のみならず建物の新陳代謝も激しいが、大阪はまだ昭和の多分高度経済成長の時期に建てられた建物をいまでも使っている。チェーンではない個人の喫茶店が多いことも東京とはかなり違う。ひととの接触がマニュアル的ではなくまだ人間的だ。いちいちの公告にだじゃれがつかわれているのは、どうしたものかと思ったりもしたけれど、なんかあなたに今触れていますよ、と伝えたい気持ちがそこここに感じられる。東京にはそれがいまない。一番印象的だったのは、神戸にいたときに、女子学生のスカートがロングだったことだ。日頃、東京近郊で見かける学生のスカートの短さはいくらなんでも異常だろ、と思っていたので、新鮮だったしこれでいいじゃんと心の中で密かに支持してしまった。あの短さは、他人に対して魅力的であろうとする意識を超えてただ短いことがいいという基準に従うだけの暴走に思えて仕方がないのだ。いや、「密か」に出来ずにAにしゃべる。「この丈ってさ、ワイズとかみたいでいいじゃん」というと、「だから、80年代臭がすごいし、いま誰もこうしないのよ」などと言い返されてしまった。しゅん。

国際国立美術館にて『エッセンシャル・ペインティング』展を見た。『アイドル!』展と比べると(比べなくてもいいのだけれど)その見応えと充実感で圧倒していた。欧米で90年代に再興した具象的絵画に焦点をしぼった展覧会。イメージの再現前であることから自由な抽象絵画にはない自由が、実は具象画にある。何かのイメージを喚起させつつそのうえで、どこまでも絵の具の遊びのレヴェルを忘れずにいること。何かがあるという縛りは、むしろそうした自由を可能にするし見る者との関係を抽象画の場合より豊かなものにしうる。「遊び」というのは、メインからはずれたところにいろいろな仕掛けがあるということでもある。例えば、ジョン・カリンは、写真などで見かけたことのありそうなアメリカの典型的な女性たちを描くのだけれど、どうも描きたいのは彼女たちの胸で、それは超巨乳だったり逆に貧乳だったり垂れてたりする。女たちの表情が伝える個性とは無関係に胸は胸でそのひとの個性を勝手に主張してしまう。そうした多視点的な読解を喚起する試みが、魅力的と思わせるどの作家にも見られた。多視点的な読解は、一面的な解釈を許さない分、絵画をクールにし、またそうした意識が漂わされるところがリアリティを生んでもいる。ペイトンはやっぱりよくて、ベルナール・フリズはすごくよくて、アレックス・カッツは「発見」って感じで、その他にも面白い作品が多数あった。あと、印象に残っているのは、美術史を非常に丁寧に研究していてさまざまな参照と応用と再解釈がみられたこと。


Happy Birds

2006年10月08日 | Weblog
もはやKATHYが指令を受けるということは、ぼくがKATHYから見に来いと言う指令を受けると言うことでもあって(笑)、夕方、忙しいもなんのそので横浜美術館まで。

横浜美術館『アイドル!』展初日。これは多分ぼくの個人の偏った見方でなく誰もがそう思うことに違いないのですが、この展覧会は「ハズレ!」です。広い展示室がなんかスカスカに見える。単純に作品点数が少ない、ということもあるのかも知れないけれど、見応えのある作品がないというのがそのスカスカ感を確実に助長している。「アイドル」というキーワードはいろいろな可能性を想像させる。でも、その可能性に対して真摯に知恵を絞った形跡が、ない。ぼくなどは、アキバのアイドルのコンサートを毎週やって、ここをアキバなひとたちが通う不思議な空間にしちゃえばよかったのではなどと思ったりした。あと、アイドルというのはしぐさなんだと思うんですよ、しぐさの採集をいろいろな形でするとか。そういうことを作家に依頼して作品化するみたいなことを例えば昨年の『ガンダム展』みたいなエナジーをもってやる、というのならよかったのに。ところで、どうもいろいろひとの話を総合するに「女の子が憧れるアイドル」というのがここで言われる「アイドル」のピントみたいです。

文化祭のポスター展示みたいにクールな(さむい)展示室とは異なり、KATHYのパフォーマンスは、コヨーテならぬ鳩というパートナーによってカワイイ妄想の凶暴さを熱く炸裂させた。それにしても鳩って!

CKB『GALAXY』

2006年10月07日 | Weblog
『Soul Punch』は聴き潰した。聴き倒した。ipodを持ち歩いても結局聞くのはこのアルバムばかり、という日々がずいぶん続いた。アメリカへのあこがれと憎悪というリアルでシンプルなテーマが音楽の「魂拳(soul punch)」となって心に響く。「心」っていうか、体っていうか、記憶というか。「はーみがきみたいなルートビア」(『American Dream』)ってとこなんかは、ルートビア飲んだことないけれど(まずいんですよね)、まずいからこそあこがれとか「近づきたい」「近づけた?」なんて気持ちが盛り上がる、けど正気に返ったら「はみがき」みたいじゃんだめじゃんってことも残るつー、そんな「アメリカ」への微妙な屈折した思いが、曲の冒頭で横山剣が歌い上げた瞬間こみ上げてきて、なんだか「うるっ」と来てしまう。

けれども、『Soul Punch』のすばらしさがそうしたアメリカという父に対する複雑な思いに起因するとすれば、もはやそうした父(の喪失)の喪失したところから始まるのが『GALAXY』なんじゃないだろうか。まだ、ちゃんと聞いていないけれど、タイトル通り天の川の星々がめいめい勝手に煌めくみたいに煌めく多彩な音楽的快楽を感じそれにおぼれて聞く、というのがこのアルバムなのではないかな。さまざまな風味がところどころから香ってくるスパイスの海で、もはやいちいちの風味を確認するなんてコトしないでひたすらおぼれる。70年代に細野晴臣がやったことを、さらに過激にいまどきの情報過多な社会に相応しく雑多な仕方で展開した逸品。というか、軸なしでひたすらたゆたう、その寄る辺なき感じが際だってる。

ところで、ぼくはこの『GALAXY』というタイトルは、黒人ディスコ文化での「ギャラクティック・ソウル」という世界観に由来しているんじゃないかと思っていたのだけれど、横山剣によれば、射精の瞬間だそうです。ミルキーウェイ。

ポルトガル国際コンテンポラリーダンスフェスティバル2

2006年10月06日 | Weblog
で、ぼくは「土方巽と21世紀の新しい世代Hijikata and New Generation in the Twenty-first Century」というタイトルのエッセイを書きました。ぼく以外には、乗越さん中西さん、立木さん、西田さんが執筆者でした。いずれどこかに英語版か日本語版をアップしたいと思ってます、個人的には。どこか載せてくれないかな。けっこう重要なことを書いたつもりです。そうそう、『TVBros』に載せてもらった「プロフェッサー・ギルは土方巽だった!」エッセイに繋がっていくような内容なんですよ。いま日本の魅力的なダンスはキモかわなモンスター・ダンスだ、と。主に取り上げたのは、土方はもちろんのことKATHYや壺中天、身体表現サークルにチェルフィッチュ。写真で頑張れば読める?そんな奇特で好奇心旺盛な人はいないだろうなー。

ポルトガル国際コンテンポラリーダンスフェスティバル

2006年10月06日 | Weblog
のために、7月頃原稿を書いてました。ポルトガルの国際コンテンポラリーダンスフェスティバル、毎年一国を決めてカンパニーなどを招いているそうです。最近帰国した笠井叡のプロモート担当者Hさんから掲載されたパンフレットを送ってもらいました。十回目だそうです。

ところで、このパンフ、真っ赤な表紙に「きしめん」って書いてある。な、なんだ?さらに、なかをめくっていくとなんだか意味不明な感じで、そばとかうどんとかの日本語パッケージがデザインで使われている。まじ?ウーム、これが「ポルトガル」らしさなんでしょうか。ちょっと前までフランスなんていうおしゃれ・洗練を本領とする世界にいたものだから、このダサさはちよっとすごいと思ってしまう。いや、行ってみたらそこにいたら納得しちゃうのかもな。「花粉革命」を公演したという笠井叡の他にも、モノクローム・サーカスとか、ルーデンスとか出ていた(あるいはこれから出る)そうです。