Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

室伏鴻『quick silver』(@日吉、慶應義塾大学)

2008年05月28日 | ダンス
ぼくのなかで、室伏はソロのダンサーである。Ko&Edgeというカンパニーを四、五年前からかはじめており、その成果はもちろんいくつかあげているのだけれど(最近でも「踊りに行くぜ」のアジアツアーに彼はこのカンパニーで出場している)、とはいえ、彼の強烈に残酷で、ソリッドな時間が出現するのは、ソロでなければならないと思っている。

『Quick Silver』、初演は横浜BankART(2005)だった。そのときにも、室伏の緊張を強いる、そして予測不可能な即興の時間に眩暈させられたけれど、今回は、なんだか別の作品を見ているみたいな躍動感が強烈だった。

最初、舞台であるはずのガラスの壁面がある巨大な建物の空洞には室伏はあらわれず、代わりに、ガラス越しにつまり、学生が帰路を歩くにわのような空間に突如、黒い帽子とジャケットを身につけた銀色の男が、口に芝藁を噛んでいるのが目に入ってきた。変だ。相当変だ。もうギャグマンガだ。そう思った途端に、斜めの角度で腕を大きく振りかぶりだした。アクションマンガにある「シューーーッ」ってオノマトペの隣に走る曲線のような腕の動き。深刻さとばかばかしさが、かっこよさと場違いさが絶妙な出会い方をしている。こういう室伏はなんというかもう、すごくポップだ。と、思うと今度は隣の木の枝を掴んで、ぎゅーっと樹を揺らし始めた。大樹がたわみ、空間が揺れる。ばかばかしい、けど、そこには猛烈にシビアなテンションがみなぎっている。ふらふらと歩いているだけなのに、こちらに向かってくるそれは、見ないことを許さない力に溢れている。顔をガラスにくっつける。歪む怪物の顔。いや、そいつは怪物なのか。怪物ならば、そこには何やら物語が、意味が取り囲んでいるはずだ。どうも、読めない。というか、読む気が起きない。得体の知れない存在が、不穏さだけを形にして、舞台へと入ってきた。

今日の室伏は、大声で吠えることが多かった。それは、地響きのような、すべてが台無しになってしまったことを嘆く神のような子供のような叫び。それと、何度も倒れる。立てないところから舞踏ははじまるという、土方巽の教えを、14才の少年が真っ正直に受けとめて、必死にやっているといったようなフレッシュな立てなさ。これも、一度間違えば、なんかそういう身体に障害のある状態のひとを踊っている?と意味で捉えてしまいそうなそのすんでのところで、「倒れる」という踊りがそれとして成立している。照明とか音響とかが加えるスペクタクル性(とくに激しいノイズなどこれまで同様の音響的側面など)は、いらないといえばいらない。けれども、あえていえば、そういう演出もある意味では装飾的なばかばかしさとして機能していればよくて、ぼくとしてはあまり気にならなかった。

よいときの室伏鴻というのは、ひとつのアイディアに固執しないでどんどん捨てる勢いがある、ということに気がついた。室伏から受け取る希有な力というのは、そういうやめる勢い、なのではないか。それは、ふっと溜める、時間を伸ばすということでもあって、最後に、真鍮板の上にもった白い砂を激しく掻きだす手前、そのシークエンスに向かうのにつくったささやかなタメは、ぼくにとってそういうとても大事な、希有な時間に見えた。我に返って、息を整えている(舞台上で我に返るって!)。その、待つ時間が、若手にはなかなか真似出来ない、ある到達点においてのみ起こる時間なのでは、と思った。(終了後のレセプションで、桜井圭介氏が、本公演について、淡々と仕事としてやっているように見えた(仕事なのにひょいひょいすごいことをこなしてゆく)、といった趣旨のことを述べていた。「仕事」という言葉のニュアンスを先に述べたような素の状態の内に見るとすれば、桜井氏の読みにぼくは共感出来ると思った)

「quick silver」に寄せた言葉(ぼくは「quicl silver」BankART公演についてここに書かなかったのかな?これしかみつからない)。

トヨタ問題

2008年05月28日 | ダンス
トヨタ・コレオグラフィーアワードの話が、ぼくの周りのダンス関係者たちと会うたびに話題になっている。ぼくは「トヨタ・バッシング」ならぬ「トヨタ・パッシング」しようと思っていたのだけれど(実際、セカンドステージはみなかったし)、それはよくないと知人から言われたりもしている。いや、以前からトヨタのことは幾つか問題があると思っていた。ぼくが審査員に呼ばれていないこととか、、、というのは冗談ですが、そういうことよりも、大きな問題がある気がするんですね。審査員として関わらなかったアウトサイダーの立場から、気楽に、日本のコンテンポラリー・ダンスにとってもっとも大きなイベントとなってしまっている、にもかかわらず(!)のこのアワードについて考えていることをメモしてみます。

ぼくの考える問題とは以下の点です
・今回から、一次審査→セカンドステージ審査→ファイナル審査と審査が三段階になり(つまり、セミファイナル審査が今回から増えた)、審査が長期化した。それによって、出場者は、長期、このアワードの準備(稽古やスタッフの確保etc.)などに縛られることになる。
・セカンドステージの作品は、15分。多くの場合、作家はショート・ヴァージョンを作らざるをえない。完成作をもって審査するということがない。
・セミファイナルの審査員が27人と多く、彼らには、点数(各作家に対して最高10点)だけが与えられていて、審査員同士のディスカッションのチャンスはない。また、点数を含め、審査員がどういう審査をしたのかについて選評を公表するシステムがない。また、審査員がどういう過程でどういう理由で選ばれたのかも明確ではない。(このあたりのことは、『DDD』の七月号に、乗越たかお氏が言及している。「細かく配点する人の意見が埋もれやすく、「好きな作品は100点、それ以外は0点」という極端な配点をした意見が通りやすい。こういう憶測が湧くのも、採点結果が一切公表されないからだ。選手にとっては自分に対する評価を知ることが、そして審査員にとっては自分の評価を表明することが、責任を全うすることだと思うのだが」p. 97ごくまっとうな意見だと思うし、ぼくも同じような公表すべきと言うアピールをしようと以前から考えていた、乗越氏に先を越された気分だけど、はい、本当に公表した方がいいと思います。すべての審査員の方々、いまからでも遅くないので、ネットで構いません、自分の審査内容を、選評を公表することを提案します。ぼくの知る限り、武藤大祐氏は自分の審査内容についてネットで公表しています)
ちなみに、セカンドステージのデータ(W1D)
・ファイナルに関しても同様の危惧がある。どういう理由で審査員があのラインナップなのか、また彼らの審査結果が芥川賞や岸田戯曲賞と同じように選評という形で公表されるのか否か、不明である。

乗越氏も連載「ダンス獣道を歩け」(『DDD』)のなかで言っているように、アワードは「無名の若手にとって作品を発表し世間にアピールするチャンス」であるかもしれないけれど、しかし「賞による権威付けよりも、ディレクター自身が才能を見つけ出し、その責任においてしっかりとした予算と場所を与えて作品を作らせるフェスティバル形式の重要性」(同上p. 96)こそが唱えられるべきだろう。ぼくが大谷さんと企画したDirect Contactはたまたまトヨタのセカンドステージと時期的に近かっただけですが、それでも、トヨタのオルタナティヴ的存在であろうとはちょっとだけ考えていた。神村恵がどちらにも出場していたということもあったし(タイトなスケジュールはトヨタへの集中力を削いでしまった可能性があり、神村さんには申し訳ないと思っていたりもします)。トヨタうんぬん以前に、少なくとも、コンペじゃなくイベントという気持ちはとても強くあった。そして、乗越氏の提案する「フェスティバル」という形式だと大規模であるのはいいこともあるけれど、同時に、作家の意志やアイディアが必ずしも十全に発揮出来ない場合もあるだろうと思って、小規模であることの可能性をDCでは狙っている。

アワード主導の芸術ジャンルというのは、他にあるだろうか。文学や演劇は、賞が大きなウエイトを占めているのは確かだ。ただしそれは、やはり審査員が身を削って自分の主張をする、からこそではないか(以前ここに書いたように、ぼくは文芸誌の誌面のなかで賞の選評が一番面白いと思っている)。審査員批判とかしばしば起こるし(石原バッシングとか)。4月に、五反田団の前田司郎が岸田戯曲賞を取った時の授賞式はとても面白かった。先輩作家達がどんな風に前田を見ているのか、ということがやはり興味深かったからだ。そうした新旧のつばぜり合いが、賞を面白くするし賞の価値も高めているのだろう。
あるいは目を転じて、美術ももちろん賞を与える機会はないわけではない(「VOCA」展とか)。けれども、案外とステイタスは決定的なほどの価値をもってはいない。むしろ、どの展覧会に招聘されたかなどのことの方が、インパクトが大きい。

ぼくはトヨタにはあまり期待していない(だから基本的には「パッシング」でいいと思っていた)。けれども、なにやら内部が疑問点ある状態で賞だけきまっていくのは、やはりいかがなものかと思うし、それって何だか永田町的なものとあんまかわんないじゃんとも思うし、で、多分、多くの今回トヨタに関係した方達も同様な不満をもっているのだろうけれど、インサイダーの立場からはいいにくい点もあると思うので、ぼくの審査員ではない特権を活かして、コメントしている次第です。

トヨタには問題があるとしても、ファイナルに残った方々やこれから賞を取る方々にはまったく問題がないことは申し上げておかなければなりません。貪欲に、もらえるものはもらうべきです。また何度も「トヨタ問題」と書いてきましたが、それは「トヨタコレオグラフィーアワード ネクステージ」問題なのであって、トヨタ自動車株式会社の問題という意味ではないことを、あたりまえですが、はっきり申し上げておきたいと思います。レンタカー会社から借りてGWに乗ったヴィッツはとても乗り心地のよいものでした。さすがでした。

さて、ファイナルステージは見に行くべきでしょうか。あのラインナップがいまの日本を代表するものとは、ぼくにはちょっと思えない(「次代を担う振付家賞」という趣旨にそって若手が選ばれていると考えてみたとしても)。あるいは、受賞者はほぼ決まっているのではないだろうか(図抜けた作家がひとりいる、とぼくは考えている)。だとすれば、見なくてもいい、と言うことも出来る。審査員の方々の意見が、率直に誠実に、観客の側に届くようなものとなるのであれば、行く価値はあるかもしれません。海外の審査員のことはあまりよく分からないので省くとすれば、石井-伊藤の発言バトルなど、是非して欲しいです。伊藤キムさんは、最近、アフター・トークのあり方について丁寧に考えていらっしゃるのですから、期待しています。

ところで、なぜ、作品そのものを評価するシステムを作ってくれないのだろうか。鈴木ユキオであれば、昨年の単独公演をこそ評価するべきではないか、PINKについても、神村恵にしても、単独公演をしてるのだ。振り付けというよりも作品を評価するような発想は、ありえないのだろうか。

壺中天「ソンナ時コソ笑ッテロ」(@吉祥寺シアター)

2008年05月24日 | ダンス
5/23
壺中天村松卓矢の新作を見た。昨年の「どぶ」という作品がとても素晴らしかったので、村松による壺中天公演を心待ちにしていた。今作でも、「どぶ」で感じた彼のテイストは存分に発揮されていた。

舞台に転がっていた4、5個箱が黒子によってどかどかと音を立てて揺らされる。闇に鳴るその音から舞台ははじまった。「箱=からっぽ」といったイメージは、同じ吉祥寺シアターで見た大橋可也「明晰の鎖」のやはり冒頭にもあらわれていた。「似てる」とまでは思わないけれど、共通の意識を感じさせはする。後ろでは、白塗り男達がキャッチボール。舞台の後景と前景を分断するように巨大な赤い格子がつくらている。さながら一面のみのジャングルジム。スポットが当たるとその中央に男達が体をちぢ込ませて固まっている。黒い点が二つ見えるなあ、と思っていると全員で一つの顔を作っていたことに次第に気づき、苦笑。歌川国芳、ベタに。集団を塊化させて、個性をいじめちゃう感じが、「どぶ」だとドブ板を渡る男(村松)の下で下敷きになって苦しむ者たちだったんだけれど、やはりそのあたりのセンスがこのひとの持ち味だななんて思った。

田村一行など、ひょうひょうとシャープな運動を見せる年長組3人が箱のなかにいる村松にちょっかい出すあたりも、その後、向雲太郎が少女となって、ジャングルジムを上下行ったり来たりしながら、無垢で残酷で軽快なまた奇怪な乙女となってやはり村松をひやかす場面も秀逸だったのだけれど、中心であるはずの村松がほとんど箱の中からでることなく、部分的に体を見せるだけっていう、その中心の空虚それ自体が圧倒的におかしい(棺から、突然死んだ子供が顔を出し、列席者の板尾にちょっかいをだす、松本人志のコントを思い出した)。やっぱり、たけし軍団的な何かなんだよなーと思わせる若手の男達とのシークェンスが、ぼくとしてはやっばり一番面白かった。10人くらいの集団が、「キーッ」と壺中天一流のかけ声によって、何をしてても履いたおむつを頭に被るか、頭に被ったそれをまた履くかとなければならない。箱=棺というイメージが展開していて、集団はお祈りをしたり、ジャングルジムの上方にいる村松に迫るように上ったりするのだけど、その度に「キーッ」という合図がかかり、進行はその都度中断する。こうした中断は、出来事を一元化する力を挫き、多形的なものにする。からだをちぢ込ませて泣いているかと思うとそのまま体を開けば、泣くというよりただ大きな声を上げているひとに変貌してしまう。そうした物事を無意味化するような仕掛けが随所にあり、そうしたセンスは、ほとんど「お笑い」のものだと思うのだけれど、村松は的確に、慎重に、舞踏をそうした「お笑い」のフォーマットの上に置き直してみせる。それは、中心が空虚であることについての徹底をめざしたそのベクトルの果てで起きている。だから、ダンスがお笑い化したなどといった、単純にそういう話ではないはずだ。最後は、舞台中央で、ひたすらペンキで体中を塗りたくられる村松。ドロドロの姿でちょっと踊る。この存在観なのだから、じっくり踊りを見せる場があってもいいのにと思うが、徹底してそうしたベタなダンスを村松は拒んでいる(ように見える)。

ようは、ずっと村松は「いじられる」存在なのだった。諸々の者たちにちょっかいだされ、最後は、ペンキ。このいじられることの舞踏性は、深い。「さらしもの」としての身体を目指した土方の思想的な流れの中に、この「いじられる」を入れることは、間違いなく「あり」だ。

波紋クロス

2008年05月19日 | Weblog
5/19
國學院での講義。6回目、ロマンティックバレエをめぐって、クライストの優美論と「ラ・シルフィード」と「ジゼル」を中心に。講義後、熱心な学生と教員室で会話。帰宅後、ティップネスに。解約願いがてら。「なんか、こちらにいたらないことでもありましたか?」などと聞かれる。どうも、丁寧な対応=客と会話するという方向で会社が教育をしているんだろうな、などとイメージしつつ解約届けを書いていると「りっぱなお名前ですネ!いやあ、私じゃ気後れしちゃうなー」などと得難き持ち上げかたをされ、「はい、気に入っております!名前負けせねよう生きていきたいと思っております。あ、まだ、さとっておりません」と真顔で答えた。夕食前に、和光大学の図書館へ。湿度の高い空気もこの気温ならば、気持ちいい。


夕食後、7/2発売予定のnhhmbaseの新譜「波紋クロス」をいち早く聴かせてもらう。


スススススス、スバラシー!!!!!!

近況

2008年05月19日 | Weblog
5/14
快快「ジンジャーに乗って」のゲネプロを学生と共に観覧。

5/16
再度、快快「ジンジャーに乗って」を見に王子へ。帰りに広島風お好み焼きの店に行くが、蕎麦入りじゃないものを頼んでしまい(「蕎麦入り」と書いてあるものを頼まなきゃならなかった、言わなくても入っているものとばかり、、、)、なんだか寂しいお好み焼きが登場。焼きそばを追加。

5/17
コンドルズ「大いなる幻影」(@彩の国さいたま芸術劇場)見る。結構前からチケットをとってしまっていたので、同じ時間にやっていた、O-Nestのnhhmbase自主企画見逃す。残念。

5/18
朝、コンドルズのことを原稿に書く。wonderlandに掲載してもらう予定。
昼間、引っ越し業者のひとに来てもらう。ねぎる。
夕方、中野にて、大橋可也さんとルノアールで会合。「ジャドソン・ダンス・シアター」研究ノートをめぐってブログのためにおしゃべり。最近の大橋さんは、率直に話をしてくれる。「~問題」という言い方が大橋さんのなかで流行っていて、沢山の「~問題」を上げてもらった。ブログ掲載は後日(まだ神村さんの第2弾がアップされていないので、そちらが先になります)。その後、タコシェで会田誠関係の書籍とDVDを購入。あそこにいると、黙っていたらいくらでもお金を使ってしまいそうだ。もう個人的妄想では予約済みの札をつけているものが幾つもある。夜、新宿で誕生会。

快快(faifai)「ジンジャーに乗って」(@王子小劇場)

2008年05月18日 | 演劇
2幕構成。1幕は、ジンジャーに乗った男2人が、いつ降りるのか何をするのか決めかねている内に、強盗に襲われたり、「金持ち」と「ホームレス」があらわれたり、デモに遭遇する。2幕目は、どうして1幕目では何も起きなかったのかをめぐって議論をするかに見えて、役者たち本人が「焼酎ナイト」という飲みをしたときのことを中心におしゃべりをすることになる。
「あて振り」(『Review House』)とか「カラオケ」(「ベクトルズ」)とか、小指値(現快快)のことをまとめてきたぼくにとって、本作「ジンジャーに乗って」の何も起きないという事態(こーじは芝居の冒頭でこの作品のテーマは「無駄」と言う)は、これまで形式として示してきた演じることの、生きることの空虚さに、より具体的な肉付けを与えることになった気がしている。何かの出来事と何かの出来事が重なり「物語」といえるものが展開する、そうした展開の皆無な芝居は、もちろんベケットとか連想させるわけだけれど、一瞬一瞬のひとがひとと接触する際のすれ違い、出来事のおきない状態が、非常に丁寧にトレースされ、戯画化され、記号化され、遊びの道具になっていく。そこには、もう「あて振り」などととりたてて形容する形式など無くても、その方法の根底にあった、「何もやることがないけれども、それなのに生きている」とでも言っているかのような余剰感、あぶれ感が強烈なインパクトを見る者に与えている。なんだか強烈に切ないが、同時になんでか異常に躍動的な舞台。「芝居という嘘の場に何を持ち込んで遊ぶか」という演劇ゲームに対して、小指値から改名した快快が最初にしたのは、そうか芝居を演劇にすることも日常を演劇にするのもそんなに変わらないし、セグウェイ(ジンジャー)に乗れる未来といまもそんなに変わらないし、この変わりなさ(永劫回帰)がデフォルトなのだとすれば、さて、ぼくたちは「安楽死」と「国会自爆テロ」以外の希望をどうもてばいいのか?という問いかけとそれに対するひとつの回答だったのではないか。(途中)

快快「ジンジャーに乗って」のゲネプロを学生は見た

2008年05月17日 | 演劇
元小指値、現在は快快(faifai)と名を改めた彼らの新作「ジンジャーに乗って」が始まりました。当然の事ながら、相当な問題作ですが、それについてぼくがコメントする前に、いまぼくが勤めている大学(首都圏の女子大学)の学生を招いて、本番が始まる前日のゲネプロ公演を見てもらいました、それを見た彼女たちの感想をここに転載したいと思います。

これは「批評」という名にはほど遠いものなのかも知れない。けれども、同時に思うのは、ぼくでは絶対書けない何かがひとつひとつのコメントに絶対にあること。そこにあるのは、ぼくの盲点だとぼくは思いながら読みました。やや大げさかも知れないけれど、その点で彼女たちのコメントはぼくを批評しているようでもある。

ちなみに、ゲネ公演の後、ちょっとしたアフター・トークをしました。あと、セグウェイの試乗コーナーも。

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私は、プロの演劇を見たのがfaifaiが初めてでした。
他に比べるものがないので、良し悪しは言えませんけど、私はfaifaiの劇を気に入りました。
表現力のすごさに驚かされました。
こんな素人の意見は参考にならないかもしれませんが・・
劇終了後の質問タイムのときに、製作者は観客の”?”を解消しようとしてましたが、私は”?”が頭の中に浮かぶことは、この演劇にはあっていいものだとおもいまいした。”?”が心地よいというか・・・
同じ年代の人たちがこんなものを作れるなんて・・と、自分の凡人さも改めて思い知らされました。

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小劇場での公演を観るのは初めてだったので、舞台と客席が地続きなことからまず驚きました。
演者の方と目線が同じなので、こちらが見ているのと同時に、観客の私たちも見られているという
感覚があって、大劇場では無いことなので、どきどきというか、緊張しました。

無駄がテーマということで、会話のぐだぐだっとした感じが、例えるとしたら、
バンドのライブの間のMCを引き延ばした感じかなと思いました。

その感じは好きなので、決着がつかないまま流れていく会話とか、突然話が切り替わったりというのが
おもしろかったです。救命胴衣の方?が話していると、だんだんみんないなくなっていくというのは、
自分にも身に覚えがあって、若干切なくなりました。

一幕と二幕の間が、切れているのかいないのか分からなくて、ちょっと戸惑いました。

衣裳がすごく可愛かったです。

セグウェイの乗り心地は立ち乗りブランコみたいで楽しかったです。

遅くなってすみません。
夜分に失礼致しました。

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昨日はゲネを見学させていただくという機会を設けてくださってありがとうございました。私は劇団四季、東宝、宝塚などのミュージカルしかみたことがなく、演劇を生でみるのは初めてでした。とても面白かったです!ストーリーがどんどん展開して人の環境や心情がかわっていく…というストーリーではありませんでしたが、なにもすることがない空の時間の中でも会話は続き、動き続けているとおもうと不思議な舞台だな、おもしろいなと思いました。同じ会話がたびたび繰り返されていて初めはその会話によって時間の経過の仕方がよくわかりませんでした。しかししばらくたった今なんとなく分かってきた気がしました。やはり最後のお話の(セグウェイに乗っても乗らなくてもかわらなかった)という言葉をきいて時間の経過の流れがひとつにつながった気がしました。
面白い舞台を見させて頂きありがとうございました。またこのような機会がありましたらぜひ参加させていただきたいです。

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 無駄がテーマであるという舞台のコンセプトはとても面白いと思いました。そうした行為を通してさまざまなモノが見えてくるように思います。

 最終的に無駄をして、何が残るというか、感じるのかという問いが私には生まれました。しかし、最後に無駄は何の意味があるのか理解できませんでした。
無駄は無駄だっただけですか。それとも、飲み会の最後に主人公の一人が感じたように、生きていることを実感できる感覚を得るのは、人と人が関係性から生まれ
ることを意味しているのでしょうか。そして、最後にみんなで踊って、無駄だけどやっぱり人といるのはいいよね!ということを伝えたかったのですか。

 この演劇が伝えたかったことは、観客に楽しんでもらえるということだけでなく、「現代社会の私たちがいかに生きているのか」ということを伝えたかったのでしょうか?
若者の日常を内面・外面ともに如実に表していました。人と人とが生きていくには、コミュニケーションは不可欠です。
しかし、主人公二人のやり取りを見ていると関係を築いていくのさえ難しい、面倒だという内面が浮かんできます。
これは、とても変なことだけれど、だれも答えてはくれない。現代は、不安に不安を感じずにはいられない社会になっています。
そして、それは私たちの言葉の中に現れています。今回の舞台のワンシーンでは、役者が口々に「・・・・かもしれない」と言っていました。
まさに、社会や人への不安、自信をもてないことをこの言葉は表しています。そのような背景を含んで演じられていたのでしょうか。

 また、間によく、天気の話が出てきますが、これは何もないときによく天気の話を持ち出す・・・つまり無駄話?ということでしょうか。
または、富士山という象徴があるように、日本人の特性(天気の話しをよくする)ことを含んでいるのでしょうか。
そして、人は自然によって大きく左右されていくものであるという見解があるのでしょうか。

変な質問ばかりになってしまい、申し訳ありません。
ジンジャーやアスレッチクのような舞台は、観客を引き付け、とても面白いと思いました。
激しいダンスは、舞台ならではの迫力があり、とても楽しむことができました。舞台が現代の社会をこのように訴えかける場でもあるという新しい発見ができました。
ありがとうございました。
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ジンジャーに乗っての感想を送ります。

ダンスがすごく楽しかったです。
確かに、「ジンジャーに乗っても何も変わらなかった」ということを
言ってくれたら、とても分かりやすくなる気がします。

あと、これはすごく書いていいのか悩みますが・・
私は学校で人権を勉強するゼミに入っています。
人権といってもいろいろな問題がありますが
自分のテーマはホームレスです。
ゼミに入る前からホームレスに興味があり
その頃からホームレスへの夜回り(パトロール)に参加していました。

私の場合、ホームレスはさすらい人というイメージが強かったです。
たしかに、夏は野宿がしやすく
ブルーシートでテントを張るホームレスに自由や幻想を見た気がしました。
しかし、冬場になるにつれて
ホームレスの生活はとても厳しくなります。
さすらい、自由など
そうした憧れを表面部分だけ見ていた自分がとても情けなくなりました。

そして、何よりも思うのが
ホームレスは社会のゴミでは決してありません。
現在の社会の問題、あるいは社会構造が生んだ
私たちと同じ普通の人であって、被害者なのです。

そうしたゴミとか普通じゃないものが、社会一般の常識なのかもしれません。
「社会のゴミだから殺してもいい」というのが
ホームレスを襲撃する子どもの言い分であることが多いです。
けれど、それが当たり前となっている部分があるからこそ、変えたい
そんな風に思い、ホームレスをテーマに卒論へ取り組んでいます。

ホームレスがいい人ばかりではもちろんありません。
怒鳴りつけてくる人、アル中の人・・いろいろいます。
さすらい人もいます。
ゴミをあさる人もいるでしょう。
けれど、それは本当に仕方がないんです。
死ぬわけにはいかないのです。

快快さんの劇の発言に、私は悪意を感じません。
しかし、悲しくはなります。
ホームレスの人は劇を見に来ないでしょう。
だから問題ないかもしれません。
けれどもし、ホームレスの支援団体や人権にかかっている人がきいたとしたら
問題となる発言だと思います。
同時に深く傷つくかもしれません。

とても生意気ですみません。
あまり劇の感想ではないので、役に立たないのですが。
快快さんの劇自体にはメッセージがあって、とても考えさせられます。
何より、表情が生き生きとしていて大好きです。
明日からの公演も頑張ってください(といっても今日ですね)
今日はありがとうございました。

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 今日の快快の公演は想像より(失礼かもしれませんが...)かなり面白かったです。小劇場系の劇団というと、なんの意味もなく、何も考えず、ただの自己満でやっているというイメージがありましたが、今回はいくつかのテーマがあり、面白いと思いました。
 凄いなと思ったのは、まずデモのシーンです。手を広げてウヲォーと言うだけで大勢の人々が行進して押し寄せてくる感がありました。また、特に2幕目では、ただしゃべっているだけでなく、体で表現している事で、観せるという点でかなり楽しかったです。あまり変化のなく、普通のセリフだけでは面白くない所をあのように体を動かしてやると、観ていても面白かったです。次どのように動くのかある意味スリリングで、緊張感と脱力感が交互に来ることで面白かったのだと思いました。
 しかし、いくつか気になった点がありました。
 �劇場でも言ったのですが、最後の質問タイムで「ジンジャーに乗っていても乗っていなくても結局何も変わらない」ということを言いたかったと聞いて、やっと芝居後に1幕目と2幕目が繋がりました。ずっと2幕目は「どうやって1幕目ができたか」という説明だと思っていたので...だから、一番最初に何を伝えたいか遠まわしに言ったらどうでしょうか。例えば、劇の内容とかぶるような歌を流したりするとか...(←これはあまりいいアイデアではないですが。涙)それか、幕間か最後に主人公(?)以外の他の子達に「結局何も変わらないじゃん」みたいな事を言わせるとか...あまりいいアイデアは出せないのですが、テーマが伝わりにくく、それだけで面白みに欠けてしまい、残念だと思いました。
 �いまいち、いつから劇が始まって、2幕目はいつ始まって、最後はいったいいつ終わったのかメリハリがつかなく、劇がすこし締まりが悪かったと思いました。どっから真剣に見ればよいのか戸惑って、最初は内容に入れなかったのが残念です。
 �最初のダンスですが、「無駄」というのがテーマなら、もっと振りを崩して、もっと馬鹿馬鹿しい感じでやった方が面白いんじゃないかと思いました。先生のダンスの授業で見た、路上で素人がダンスしてて、MTV か何かに取り上げられた人達のダンスっぽくすれば良いと思います。あれこそかなり無駄であり、でも面白いから、その要素を取り入れてみたらどうでしょうか...?意外と皆、ダンスが揃ってたり、上手い人もいるので、逆にいまいち無駄というものは感じられなかったです。
 �「ゴドーを待ちながら」を参考にしているのなら、パンフレットか何かに、あらすじを載せておくとかしたら、それを基盤にして見るからより面白く、伝わりやすくなるのではと思いました。
 �何度か同じ事を繰り返しているとこがありましたが、もうちょっと最初と二回目を同じにすると面白いのではないでしょうか?特にヤンキーが出てくる所で、赤い子が「あぁーー」って叫ぶことがありましたが、あれが最初と二回目が長さが全然違い、「?」と思いました。そこで、一気に引いてしまいました。でも、同じセリフを繰り返すという意味によって、まったく同じにするべきかしないべきか変わってくるので、その辺は明確にしとくと分かりやすいなと思います。
 �あれだけのセットがあるから、もっと活用したらどうかと思いました。逆さまにぶら下がるとか。...でも、それが無駄という事で、テーマに沿っているから良いのかも...とそこは分からないのですが。笑

私は普段あまり小劇場系は観ないので、これらの意見が間違っていたり、失礼に当たりましたら本当に申し訳ありません。

最後に質問なのですが、
・何で「無駄」というテーマになったのですか?
・演劇というのは例えば「何かを人々に伝えよう」とかインドの演劇なら「神への祈り」や「伝統継承」など色々な思いがあると思います。今回の芝居では、今まで私が考えていた「演劇」という定義というか常識とはまったく違うものだったので、疑問を持ったのですが、今回の芝居は何の為の演劇なのでしょうか?「何かを伝える」という点が今回の芝居に当たるのかとも思ったのですが、「無駄」ということを伝えて受ける側として何を感じてほしいのか?正直、見終わった後、何を感じたのかいまいち分からず終わってしまって...例えば「何も感じない」で良いとしたら、演劇であるべきじゃなくて良いのではないか。極端に言えば劇場がなくても客がなくて照明がなくても良いのではないか。そこで、じゃあなんで芝居にするべきなのか?と思ったのですが、そこの所はどうなのでしょう...?(こんな事を考えている事自体「何かを感じた」という事になるとは思うのですが。笑)

自分の考えを文章にするのはとても難しいと今回、この感想を書いていて思いました。また、明日も公演があるようなので、早めに送らなければと思い、いまいち考えがまとまっていない所もあって・・・意味不明な所が多々あると思いますが、大目に見てください。

それでは。

PS・ジンジャーに乗れたのはかなり楽しかったです。小泉さんが乗っていたのをテレビで見たときから、憧れていたので・・・笑

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今日はお疲れさまでした。

わたしは最初の「ムダなこと」っていう言葉を聞いて、すんなり劇をみれました。

後半のも、ジンジャーがなくても、仲間がふえても相変わらずな感じで、ステキでした。


みんなで共食い?からどんどんといつめあってたシーンとか、ホームレスのところとか、がなんかいいなと思います。

実際の出来事の入れ方もよかったです。
あと、鉄の骨組みとか、タイヤのセットに登ってるときの雰囲気がすごく好きです。
それに、映像がながれるのも、映像とかとても好きで、興味があるので、不調だったみたいですけど、でも好きです。

みた感想というか、どう思ったかとか、何がのこったとかが、まとまってないというか、はっきりとはいえないんですけど、何かはしっかり感じたし、残りました。

演劇をちゃんとみたのは初めてで、でも初めてみれたのがこんなおもしろいと思える作品でよかったです。
ありがとうございました、明日からの公演もがんばってください。

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一番わかりやすかったのは、2幕で「なんで?」って鬼ごっこしているところ。

全体的に「よくわからない」という印象を与えるのは悪い事では無いと思うけれど、わからないまま放棄されないためのお土産というか時限爆弾を見に来た人に渡せたらいいと思います。

テーマである「無駄」の印象を最後まで強く残せたらもっと良くなるのではないでしょうか。


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劇団員の人はわかりやすい方が親切だからと言っていましたが、分からないままの方が私は面白いと思います。観劇後、色々と考える事ができるからです。自分なりの解釈を楽しむのも観劇の魅力の内だと思います。(演出家的には微妙でしょうか?)私は今日でた質問によっての変更はいらないと思います。
…でもビデオの音量はあった方がいいかもですが。


後先ほどは言うタイミング逃しましたが、焼酎ナイトぐらいは理解しました。説明は不要ですし、あるとむしろ微妙です。


批評の批評の不在

2008年05月10日 | ダンス
最近、ダンスの批評文をあまり書かなくなりましたよね、ブログもそんな精力的ではないし、、、的なご批判をある熱心なコンテンポラリー・ダンスのお客さんに言われ、そうだな、ちょっといろいろ考えなければと、でもどうするのがいいのかななどと思案している、昨今です。単純に、時間的な配分として、見ることの面でも書くことの面でも、ダンス以外にかける時間が多くなっているのは事実かも知れない。

「批評不在」って言葉は、ダンスの関係者の内部でずっと言われてきたこと。けれど、それはいま、どのジャンルでも言われていることだったりする。文学とか映画とか音楽とか、、、

でも、ひとつ疑問なんですが、そもそもそんなにひとはダンスの批評をちゃんと読んでくれているのだろうか?ぼくのもぼく以外のも。ぼくがあまり精力的に書かなくなった主たる原因の一つは、リアクションの乏しさだった。もうひとつは、ときどきあるリアクションが匿名で建設的な意見の含まれていないあまりにも切ない内容だった、ということだった。最近は、上記したようなパワフルな観客が読者でいることが分かったので、ちょっとちゃんとやりたいなとは思うようになったけど。リアクションというのは、ひとを動かすものですよ。よくも、また、悪くも。

ところで『舞台芸術』という雑誌では、稲倉達という人物がダンス時評を、たしか季刊ペースでやっている(ちなみに同誌の演劇時評担当は小澤英実)。実は、ぼくはこれつい最近まで読んでいなかった。2週間くらい前に、はじめて稲倉『舞台芸術』批評文を読んだ。それ以前、この誌面は、國吉和子、桜井圭介が埋めていた。これ、みなさん読んでますか?
『ダンスマガジン』にも、岡見さえというひとが先日のピナ・バウシュについて文章を寄せていたり、石井達朗(トヨタの審査委員)が康本雅子「チビルダミチルダ」について書いてたりする。石井氏がどんなことを発言しているかは、トヨタ問題のひとつの傍流として重要だと思うのだけれど、そういうことを最近ぼくの周りでおしゃべりしたりする雰囲気はなくなってしまった。
あるいは同人誌的なテイストのものだけれど、この一年くらいの間にでた『コルプス』という雑誌がある。これも読んでますか?どう読んでますか?

個人のブログを除けば、最近こうしたサイトが批評文を掲載している。
コムコム.com:クリティーク・言ってクリ!
下記のは二年くらい前からか、九州の方の大学の方たちが中心になって、ダンス、演劇の感想文を載せている。
donner le mot(ドネルモ)

他にも重要な批評サイトがあるかもしれない(もちろんwonderlandもある)。で、ぼくの周囲でも、批評(時評)サイトを作りたいあるいはコンテンツとしてそうしたものを充実させたいという話はよくでる。けれども、ひょっとしたら、今大事なのは、批評の拡充ではなく、批評の批評の充実なのかも知れないなーなどと思う。「読んでますよ!」というメッセージも含め、互いが互いの批評をさらに批評するような気運がいま足りなくて、けど本当はあった方がいいもの、なのかもしれない。

やるべきでしょうか?

岡田智代「十六夜びろうど」(STスポット)

2008年05月10日 | ダンス
5/9
過去にはトヨタコレオグラフィー・アワードにもファイナリストとして出演し、また最近では「おやつテーブル」公演でもメンバーのひとりとして活躍している岡田智代の単独公演があった。

岡田智代が踊る時間には「踊り手の空間との関係」がきわだってくるときがあって、そうしたときというのは、なんら抽象的ではない、具体的な仕掛けが用意されている、それは「眼差し」だ。不意に、気づくと眼差しは、遠くに向けられていて、その目によって、そこにひとつのある景観が存在している、なんて気にさせられるのである。ぼくはそうした岡田の眼差しの「仕掛け」が好きで、公演があるといえば、見に行く。その眼差しは、架空の空間を出現させることもあれば、現実の空間(舞台と客席、あるいはその外を合わせた空間全体)を見る者に強く意識させることもある。そのことで、踊り手の空間との関係ばかりか、いろんな関係(過去と現在とか)が意識させられる。そういう見どころ(複数の「関係」)がバチッと決まったときの岡田は、とても見応えがある。

それは、しかしとてもデリケートな仕掛けだ。眼差しが単なる目になってしまうことがある。「何を見ているんだろう?」と思わせるに足りず、ただ遠くを見ているらしき目になってしまう。今回、なんどかそんな眼差しの時間があり、すべてが「眼差し」になっていない気がして、目を見てしまった自分にいらだったが、少しフォローすれば、この作品は、タイトルで分かるように、ときは「夜」なのである。眼差しがその対象を見失う時間なのである。すると、どうしたって目は内側を向くことになる。

冒頭、あらわれた岡田はただひたすらSTスポットの狭い舞台空間の周囲を走る。確かな足取り、余計な肉はあまりない、けど、そんな感想のなかには、「年の割には、、、」みたいな言葉が隠れている。濃紺のジョギング・ウェア型の衣裳は、からだを露出させている。次は、短距離のスタート練習、筋肉が意志に反応する。反応してプルッとなった肉のダンス、というところか?他にも、アップテンポの曲を背景に、太ももを素早く揺らす、プルプルなダンス?もあった。結構、そうした自分の肉体を遊ぶ的なアイディアが続く。「眼差し」の岡田はまた、「テンション」の岡田でもある。シンプルな動作が曲などと連動してあるピークへと坂道を上っていく、みたいな部分を大事にしているダンサーだ。けれども、最近のぼくの関心があまりそのあたりになくなってきてしまっているからだろうか、今作のなかのそうしたポイントには、ほとんど反応出来なかった。露出した肉体は、眼差し同様何らかの関係を意識させる、独特の色気がある。あるんだけど、それが何か差し迫った気持ちを喚起させることはなかった。微弱な何かでも別にいいと思う。けれども、何かこう、なんて言うんだろう、しっとりとした気持がぐっと見ているぼくのなかでさまざまなものと関係して乱反射みたいになってくれたら、と思いつつ、見ていた。

あと、印象に残ったのは、STスポットの小さな白い空間に、黒いカーテンを少しずつ引いていって、最終的に真っ黒(夜)にしていくんだけれど、それは思いの外、効果的なものだった。「しん」とした気持ちになった。最初にカーテンを1メートルほど引いた時点で、「これは最後には真っ黒にするな!」と予想が出来てしまったが、実際に黒が充満すると、ぽつんとひとり立つ岡田の「ぽつんと」感は強くなった。こうしたアイディアも、彼女が本来もっている「空間との関係」への意識が生み出したものに相違なく、そうした強い思いと考察があったからこそ、効果的だったに違いない。

参考
STスポット通信(聞き手・手塚夏子)

手塚夏子「道場破り」第2期/後半戦

2008年05月07日 | ダンス
5/5の夜と5/6の昼の二回に分けて、手塚夏子は、現在居住している藤野周辺の施設「しのはらの里」を利用して第2期の後半戦に当たる「道場破り」イベントを行った。

「道場破り」という企画は、コンテンポラリー・ダンスのダンサーたちがもつ手法を取り出して、それぞれが自分のではない他人の手法(道場)に門を叩き、その手法を実践し、道場を破ろうとする、という趣旨ではじめられた。2006年10月に第一期が行われ、第2期の前半は今年の2月に同じの藤野の公民館のようなスペースで行われた。今回は、その後半戦に当たる(詳しくは手塚夏子のブログを参照のこと)。

コンテンポラリー・ダンスというのは、定義は難しいが、ひとつに、モダンダンス、バレエなど既存のダンスの方法には従わずに、自分の動機、やり方を模索しながら新しいダンスを開発していくという側面がある。すると各人には各様のダンスがあり、そのそれぞれには他とは共有し得ない独自の「手法」がある、ということが帰結する(論理的に思考を進めていくと)。コンテンポラリー・ダンスは、だから必然的に、多元的な環境のもとにあり、それはよい面でもあるが、互いにディスコミュニケーションが進んでしまったり、それぞれが趣味の次元でやっているだけだという孤立を生んだり、要は「コンテンポラリー・ダンス」=「なんでもあり」といった風潮とその一方で、というかそれ故に、いまはやっているものを安易に雰囲気のレヴェルで(ベタに)模倣してしまう傾向が生まれたりするという恒常的な問題をはらんでいる。

本当の意味で、コンテンポラリー・ダンスがある未知のダンスの開発というベクトルをもつというのであれば、それぞれが、どうしようもなく逃げ切れずそこへと向かってしまう自分の動機、やり方へと向き合い、自らの手法を明らかにしていくこと、そして複数の者たちがそれを行うことで、いまコンテンポラリー・ダンスが抱えている手法にはどんなヴァリエーションがあるのか、そして、そこから見えてくるコンテンポラリー・ダンスの今日的姿とは一体どんなものであるのか、こうした点を明らかにしていくことが、さしあたり「道場破り」の主題から引き出されてくる可能性だとみることは出来る。

とはいえ、実際の「道場破り」を見ていて分かることなのだけれど、手塚がトライしているのは、あるダンサー(振付家)の「手法」を、他のダンサーが単に習得することではない。道場破りの実践は、他人の道場(手法)をマスターしてそのマスター(手法の主人)を打ち負かすことを目的としていない(仮に名目上そうであったとしても、安易にそんなこと出来ないということがすぐに明らかにされる)。むしろ浮き彫りにされるのは、どうしようもなく、それが「他人」の手法であること、そしてそこへとアクセスする際に、自分の手法はしばしばその道を邪魔してしまうということ、である。従って、他人の道場を破る云々以前に、自分の道場からひとは早々に逃れられないという事実に出演するダンサーたちは向き合うことになるのである。

進行は次のようだった。5人のダンサーの手法がひとりづつ紹介される。例えば、冒頭には手塚の手法がパワーポイント画面で説明される。次にその手法がよく現れている映像が映写される。その次は、手塚以外のダンサーたちが同時に(あるいは1人ずつ)手塚の手法を観客の前で実演する。最後に、手塚本人が登場し、自らの手法を実践する。このセットが二日間で計五回おこなわれた。1日目は、手塚夏子の手法、捩子ぴじんの手法、中村公美の手法が、2日目は、黒沢美香の手法、山賀ざくろの手法が紹介された。この人選は、手塚が魅力的と思ったダンサーを集めた結果だという。

一回二時間強で2回分、ひとりの手法に対して、5人が実践したから、5×5=25回のダンスを(同時のもあったけれど)見たことになる。どの瞬間も興味深かった。それをひとつひとつ記していたら、途方もない(それを行う価値はあるものだと思うけれど)。なので、ここにはメモ的に記すだけにする。

前回の第2期前半戦の感想としても記したことかも知れないけれど、興味深かったのは、「手法」というものを言語化してみるということだ。自分の動機ややり方が各人のダンスを決めるのがコンテンポラリー・ダンス、と先に書いたけれど、そうだからといって皆が皆、自分の手法に自覚的ではないし言語化出来ているわけではない。言語化出来なくても手法に自覚的でなくても、踊ることは出来る。だから、言語化してみるということは、ダンサーにとってかなり「あえて」なことだろう。その「あえて」は、ダンスとの葛藤であると同時に言語との葛藤を引き起こすに違いない。言葉を生む作業。それはまた、言葉の可能性ばかりかその限界をも意識させる(こう考える先に、ダンスと文学との関係という問題もきっと開けるに違いない)。実際、言語によって切り出されてきた「手法」は、実際他の者や本人によって実演されると、「足りない」気持ちにさせられる。「手法」のフレームは、あるダンサーのすべてを包括出来ているわけではないのだ。それでも、そういうフレームを設定する意味はある気がする。それがあるから「戦う」などという設定が展開する土俵も生まれるからだ。そして、この土俵は先に言ったように、勝敗が目的ではなく、他人のみならず自分の土俵も「破」ることが目標になっている。だから、「手法」は最終的に「破」り捨てられるためにあるわけだ。

だから、「道場破り」は「破」って行く行為のためにこそあるのであって、そうした行為、つまり他人に接近し自分を分解していくことのために、そこから身体が動くとはどういうことなのか、あるいはもっとシンプルに言うなら、ぼくたちの身体は一体何ものなのか、ということを探究するためにこそあるのだ。

なんとも奇妙なダンス合戦だった。要は、全員が失敗(敗戦)を前提とした上演(戦い)をしたわけである。どんどん不十分な状態へと進行するなんてことがある、けれども、そういう時にこそ、他人と自分とのバトルが当人の身体上で繰り広げられている興味深い瞬間だったりする。

2日目の山賀ざくろの手法は、単純な言い方で一番面白かった。山賀は、ダンサーがもっぱら自分に禁じていることこそやっているらしい。舞台上で舞台にいることを恥ずかしがる、観客を意識する、観客の前で自分のいまの気分を告白する、、、そうした手法へ逡巡しながら乗り込んでいく山賀以外の四人。黒沢美香のトライアルが、爆笑もので、怖ろしいくらいに面白くそして面白い以上に怖ろしかった。「照れる」とか「喜ぶ」とか「ためらう」とかという感情を、舞台を熟知している黒沢があらためてやってみるとき、それは相当不気味なものとなる。それは徹底してコントロールされた「ためらい」「照れ」「喜び」のようでもあるし、コントロールの先へとぽつんと落っこちた本当の「ためらい」「照れ」「喜び」のようでもあり、舞台空間というものがどんなふり幅をもったものなのかを計測するような時間だった。いや、上手く説明出来ない、ともかくも久しぶりにダンスを見て胃が痛くなるほど痙攣的に笑った。

今回は、2月の前半戦に較べて観客の数が数倍になった(前回は純粋な観客が片手くらいしかいなかった、確か)。しかるべき研究者・批評家が見たという点では、とてもよかったし実りあるものだったことは間違いがない。ただし、20代前半くらいのこれから作品を作る/ダンスを見て批評する世代は少なかった。手塚の試みは、とてもハードルが高い。でも、ここで起きていることが、世界なのだとぼくは思う。藤野で行う意義は、ある。環境が素晴らしいだけでなく。だから、ここでのイベントは継続するとしても、山を下りて、人々のなかでこれ、番外編、出張編を考えてはどうだろうか。少なくとも、何らかの手段を使ってこの記録は後世に残しかなきゃいけいない。

帰り、やまなみ温泉に行く。その帰り、レンタカーで一時間とカーナビに表示されたのに、結局二時間かかってようやく新百合ヶ丘へ。

トーク・アバウト・「ジャドソン」

2008年05月04日 | 『ジャドソン』研究ノートについて
〈「ジャドソン・ダンス・シアター」研究ノートをめぐって〉という名のブログを特設しました。

以前、木村自宅に神村恵さんをお迎えして、「REVIEW HOUSE」編集長伊藤亜紗さんとぼくとで、おしゃべりをしました。その模様がmp3の音声ファイルにてアップしてあります。フルヴォリュームで二時間の、とりとめのないトークです。「研究ノート」のサプリメントとして、どうぞ聞いてみてください。

目下のところ、トーク全体の内の前半が公開してあります。後半の公開は、GW明けくらいを予定しています。

そして、実は二時間では足らず、4月12日に3人は新宿歌舞伎町のルノアールに再結集、2度目のトークをしました。その模様も、いずれ公開するつもりです。