ぼくのなかで、室伏はソロのダンサーである。Ko&Edgeというカンパニーを四、五年前からかはじめており、その成果はもちろんいくつかあげているのだけれど(最近でも「踊りに行くぜ」のアジアツアーに彼はこのカンパニーで出場している)、とはいえ、彼の強烈に残酷で、ソリッドな時間が出現するのは、ソロでなければならないと思っている。
『Quick Silver』、初演は横浜BankART(2005)だった。そのときにも、室伏の緊張を強いる、そして予測不可能な即興の時間に眩暈させられたけれど、今回は、なんだか別の作品を見ているみたいな躍動感が強烈だった。
最初、舞台であるはずのガラスの壁面がある巨大な建物の空洞には室伏はあらわれず、代わりに、ガラス越しにつまり、学生が帰路を歩くにわのような空間に突如、黒い帽子とジャケットを身につけた銀色の男が、口に芝藁を噛んでいるのが目に入ってきた。変だ。相当変だ。もうギャグマンガだ。そう思った途端に、斜めの角度で腕を大きく振りかぶりだした。アクションマンガにある「シューーーッ」ってオノマトペの隣に走る曲線のような腕の動き。深刻さとばかばかしさが、かっこよさと場違いさが絶妙な出会い方をしている。こういう室伏はなんというかもう、すごくポップだ。と、思うと今度は隣の木の枝を掴んで、ぎゅーっと樹を揺らし始めた。大樹がたわみ、空間が揺れる。ばかばかしい、けど、そこには猛烈にシビアなテンションがみなぎっている。ふらふらと歩いているだけなのに、こちらに向かってくるそれは、見ないことを許さない力に溢れている。顔をガラスにくっつける。歪む怪物の顔。いや、そいつは怪物なのか。怪物ならば、そこには何やら物語が、意味が取り囲んでいるはずだ。どうも、読めない。というか、読む気が起きない。得体の知れない存在が、不穏さだけを形にして、舞台へと入ってきた。
今日の室伏は、大声で吠えることが多かった。それは、地響きのような、すべてが台無しになってしまったことを嘆く神のような子供のような叫び。それと、何度も倒れる。立てないところから舞踏ははじまるという、土方巽の教えを、14才の少年が真っ正直に受けとめて、必死にやっているといったようなフレッシュな立てなさ。これも、一度間違えば、なんかそういう身体に障害のある状態のひとを踊っている?と意味で捉えてしまいそうなそのすんでのところで、「倒れる」という踊りがそれとして成立している。照明とか音響とかが加えるスペクタクル性(とくに激しいノイズなどこれまで同様の音響的側面など)は、いらないといえばいらない。けれども、あえていえば、そういう演出もある意味では装飾的なばかばかしさとして機能していればよくて、ぼくとしてはあまり気にならなかった。
よいときの室伏鴻というのは、ひとつのアイディアに固執しないでどんどん捨てる勢いがある、ということに気がついた。室伏から受け取る希有な力というのは、そういうやめる勢い、なのではないか。それは、ふっと溜める、時間を伸ばすということでもあって、最後に、真鍮板の上にもった白い砂を激しく掻きだす手前、そのシークエンスに向かうのにつくったささやかなタメは、ぼくにとってそういうとても大事な、希有な時間に見えた。我に返って、息を整えている(舞台上で我に返るって!)。その、待つ時間が、若手にはなかなか真似出来ない、ある到達点においてのみ起こる時間なのでは、と思った。(終了後のレセプションで、桜井圭介氏が、本公演について、淡々と仕事としてやっているように見えた(仕事なのにひょいひょいすごいことをこなしてゆく)、といった趣旨のことを述べていた。「仕事」という言葉のニュアンスを先に述べたような素の状態の内に見るとすれば、桜井氏の読みにぼくは共感出来ると思った)
「quick silver」に寄せた言葉(ぼくは「quicl silver」BankART公演についてここに書かなかったのかな?これしかみつからない)。
『Quick Silver』、初演は横浜BankART(2005)だった。そのときにも、室伏の緊張を強いる、そして予測不可能な即興の時間に眩暈させられたけれど、今回は、なんだか別の作品を見ているみたいな躍動感が強烈だった。
最初、舞台であるはずのガラスの壁面がある巨大な建物の空洞には室伏はあらわれず、代わりに、ガラス越しにつまり、学生が帰路を歩くにわのような空間に突如、黒い帽子とジャケットを身につけた銀色の男が、口に芝藁を噛んでいるのが目に入ってきた。変だ。相当変だ。もうギャグマンガだ。そう思った途端に、斜めの角度で腕を大きく振りかぶりだした。アクションマンガにある「シューーーッ」ってオノマトペの隣に走る曲線のような腕の動き。深刻さとばかばかしさが、かっこよさと場違いさが絶妙な出会い方をしている。こういう室伏はなんというかもう、すごくポップだ。と、思うと今度は隣の木の枝を掴んで、ぎゅーっと樹を揺らし始めた。大樹がたわみ、空間が揺れる。ばかばかしい、けど、そこには猛烈にシビアなテンションがみなぎっている。ふらふらと歩いているだけなのに、こちらに向かってくるそれは、見ないことを許さない力に溢れている。顔をガラスにくっつける。歪む怪物の顔。いや、そいつは怪物なのか。怪物ならば、そこには何やら物語が、意味が取り囲んでいるはずだ。どうも、読めない。というか、読む気が起きない。得体の知れない存在が、不穏さだけを形にして、舞台へと入ってきた。
今日の室伏は、大声で吠えることが多かった。それは、地響きのような、すべてが台無しになってしまったことを嘆く神のような子供のような叫び。それと、何度も倒れる。立てないところから舞踏ははじまるという、土方巽の教えを、14才の少年が真っ正直に受けとめて、必死にやっているといったようなフレッシュな立てなさ。これも、一度間違えば、なんかそういう身体に障害のある状態のひとを踊っている?と意味で捉えてしまいそうなそのすんでのところで、「倒れる」という踊りがそれとして成立している。照明とか音響とかが加えるスペクタクル性(とくに激しいノイズなどこれまで同様の音響的側面など)は、いらないといえばいらない。けれども、あえていえば、そういう演出もある意味では装飾的なばかばかしさとして機能していればよくて、ぼくとしてはあまり気にならなかった。
よいときの室伏鴻というのは、ひとつのアイディアに固執しないでどんどん捨てる勢いがある、ということに気がついた。室伏から受け取る希有な力というのは、そういうやめる勢い、なのではないか。それは、ふっと溜める、時間を伸ばすということでもあって、最後に、真鍮板の上にもった白い砂を激しく掻きだす手前、そのシークエンスに向かうのにつくったささやかなタメは、ぼくにとってそういうとても大事な、希有な時間に見えた。我に返って、息を整えている(舞台上で我に返るって!)。その、待つ時間が、若手にはなかなか真似出来ない、ある到達点においてのみ起こる時間なのでは、と思った。(終了後のレセプションで、桜井圭介氏が、本公演について、淡々と仕事としてやっているように見えた(仕事なのにひょいひょいすごいことをこなしてゆく)、といった趣旨のことを述べていた。「仕事」という言葉のニュアンスを先に述べたような素の状態の内に見るとすれば、桜井氏の読みにぼくは共感出来ると思った)
「quick silver」に寄せた言葉(ぼくは「quicl silver」BankART公演についてここに書かなかったのかな?これしかみつからない)。