Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

今月号の『BT』

2006年06月23日 | Weblog
は、ゼロゼロ・ジェネレーション特集で、そのなかの椹木野依氏や松井みどり氏の論考はやはり面白いのだけれど、なかでも、もう一人の論考の執筆者、東谷隆司の視点がとても啓発的だった。以前から、東谷さんからよいといわれていたノイズ系のパンク・バンド「Struggle for Pride」のことが冒頭に挙げられるという、美術に関する論考としてはずいぶん大胆な文章なのだけれど、その大胆さにちょっと「勇気」のようなものを与えられた気もした。

で、「視点」というのは、今日の情報化社会において、その時その場に行かなければ見たことにならないはずの芸術ジャンル(東谷さんはそこに「美術」「音楽」のみならず「ダンス」も挙げている)は、きわめて厳しい状況に置かれているけれども、むしろそうであるところにそれらの芸術の意味(芸術性)はあるはずなのであるからして、その点に際だったトライアルをするべきだ、と概略的に言えばそういうものだ。

そこでしか経験できないもの、その一種の秘教性こそ、駆り立てるべきものであり、その駆り立てる方法こそが様々に試みられるべきだ、ということなのだろう。そして、もちろんそこでは、パフォーマーとオーディエンスの関係が、何を理想として考えられているのかということが、まず何よりも考えられていなければならないに違いない。

そういうわけですっかりミーハー的にSFPのavexからのメジャー第一弾『You Bark, We Bite.』とDVD『Struggle For PVHS feat. Raw Life 2005 Live』を購入。何か、自分が本当に興奮するものは何だったのかを少しずつ、ほとんどリハビリみたいな感じで思い出しながら見た、聴いた。

シュートの不在

2006年06月20日 | Weblog
ガゼッタ・デロ・スポルトも「攻撃の4人はシュートしようとしない。日本選手はゴール前20メートルで姿を消す」と評した。(Yahooのニュース・ソースより)

クロアチア戦についての伊紙の評。確かに。ゴール前20メートルから、日本はサッカーでなくサーカスを始めてしまう。なぜだろう。

白井剛in 水上バスなど

2006年06月17日 | Weblog
今年の前半は、すごく忙しい、それに緊張を要する出来事が続く。今日の第八回舞踊学会例会での研究発表もそのなかのひとつといえばそうだけれど、これはそれほどプレッシャーを感じることなくやや和やかに進めることが出来た。午後の第一弾担当、早口の発表の後、松澤先生や国吉先生から啓発的な質問をもらい、なんとかそれに応答して無事に終了。発表内容は、「二〇世紀のダンスにおける観客論」で、モダンダンス、カニングハム、暗黒舞踏、三者が観客をどう位置づけているのかについての考察をまとめたもの。今年春に出た『上演舞踊研究』(vol. 6、お茶の水女子大学上演舞踊研究会編)に寄稿したものをほぼそのまま、口頭で発表したのだった。

いやあ、何より、ともかく会場がすごかった、というか遠かった。早稲田大学の所沢キャンパスだったのだけれど、緑豊かな大自然のなかにぽつんと立っている。門をくぐると両側に陸上競技場と野球場があるのだ、それらをまたぐように橋が架かっていて、それをわたるとようやく校舎がある。こうした設備は人間科学部のあるキャンパスだからなのだろうけれど、学会の会場を示すポスターを見つけるまでは、会場が本当にここなのかとずっと不安だった。もしぼくだけ間違えてて、ほんとは早稲田キャンパスだったら、もうこの時間では戻れないな、、、とか思い、冷や汗をかいたり。

あと、西武池袋線の小手指というところが大学の最寄り駅で、そこに行くまで、登戸から南部線で府中本町へ、そこで武蔵野線に乗りかえ新秋津へ、で、徒歩で六分、西武池袋線に乗りかえ小手指という、多摩川近辺をひたすら北上する道のりだった。そのあたりの一貫した寂れた感じは、すごい印象的だった。よく言えば、本当の武蔵野の「野」が感じられる景色といえるかも知れないが(と言っても、住宅地多いのだけれど)、都心の狂騒から取り残された東京がここにある、と思わされた。

発表の後、失礼をして会場を後にし、今度は白井剛の水上アートバス、ダンスパフォーマンスを見ようと、浜松町の日の出桟橋まで急ぐ。大学のバス停でじりじりとバスを待っていると、大阪のDance Boxでスタッフをしている女性の方がやはりバスを待っていてしかも同じところに向かうというので、ご一緒する。関東と関西のダンスシーンについて、いろいろと話をする。どうも、インフラが整備されてきた分、「レール」というか出世コースというかがあたかも存在するかのような誤解が若手の振付家(志望者)に起きているようだ、という話になる。関東で言えば、STの「ラボ20」or「ダンスが見たい」の新人企画→「踊りに行くぜ」のオーディション→ソロ・デュオ→トヨタ、みたいな、例えば。そんなもの、ないよ。つーか、そんなことよりも一回一回の公演に全霊を込めて欲しいよね、との話で盛り上がる。あと、関西で壺中天が人気という話も面白かった。関西人として、彼らの客をつかむセンス、笑いのセンスに嫉妬する、と。なるほどなー。

日の出桟橋発のバスで、白井剛のパフォーマンスを見た。終始、表面が鏡のようになっているバルーンと白井とが「対話」するダンス。バルーンとの関係に没入する自閉は、ときに見応えがあった。バルーンの「ふわり」とした動きに、白井の体も「ふわり」となって床に倒れたり、とか。でも、それを100人は乗船しているだろうバスのなかでやることの意味とか、刺激とかは生まれなかった。結構、乗客から放っておかれてしまった。

ところで、この企画が面白いのは、ダンスが見たい人以外の人の気分みたいなものが観察できるところだ。バスの後部デッキは、やや広い床があるため、白井でなくてもここで踊ることになったダンサーが舞台としてしばしば使うところである。でも、そこはまた、広い視界が得られる観光客にとって都合のいい場所でもあり、すると土曜日の午後を楽しもうとするカップルなどがそこに居たりする。忘れられないのは、デッキの端に座るカップルの女の子が、見返りの姿勢で、白井のことをやや冷たく「何?」と見ていたその表情だ。この表情が示唆するのは、表現行為というものはそれをそのとき欲していない人にとってはどれほど煩わしいものであるか、ということだ。表現行為というものそれ自体は、基本的に迷惑なものなのだ。「めいわくだなー」「押しつけがましいなー」と思っている人がいること、そこから表現行為ははじまる、と考えてもいいのではないか。いかにそうした人を乗せることが出来るのか、その「招き」そのものがダンスなのではないか。(このことは、水上バス企画批判では無論ありません。むしろこの企画を通して、ひとつの知見を得ることが出来たと思っています。一応、お断りしておきます)。

その後、アサヒビール本社脇にある鰻屋「鰻禅」で、鰻を食べた。小さな、いかにもな鰻屋。いいなあ。何がいいって、鰻が焼けるまでみんなで待っているときの店全体に漂う空気がいい。普段、安いチェーン系の居酒屋とか行って料理の出が遅いと「まだ?」とすぐに怒ってしまうぼくでも、その時間を風情として味わってしまう。サッカーなんかつまんないね、との話でその間盛り上がる。ここに連れてきてくれたSさんが、大体点があまりはいんないのがいやだ、8対9ぐらいじゃないと、と真顔で提言するので他3人で爆笑。そこからSさんのせっかちばなしへと以降。ぼくは「竹」で、Aは「上」を頼み、食べ比べる。確かに、「上」は柔らかさや味わいが違った。そうかー。

Robert Morris etc.

2006年06月12日 | Weblog
最近読んでいる本と言えば、
Sally Banes, Democracy's Body: Judson Dance Theater, 1962-1964, (1993).
Robert Morris, Continuous Project Altered Daily: The Writings of Robert Morris, (1993).

Yvonne Rainerの小論考をかじっている内に、ぞくぞくとそのあたりへの興味が増えていくのだった。
(ほんとはそれだけじゃなく、『身体のエシックス/ポリティクス』ナカニシヤ出版などに所収されている、永野潤というひとの論考が面白くて、その発見がやや最近の収穫なのだった。サルトルのなかに身体論を見る。「吐き気」とかを進退の問題として捉えれば当たり前の視点だけれども、案外読み応えのあるものに出会ったことがなかった。「違和としての身体--岡崎京子とサルトル--」上掲書所収の論考の「見られる身体と見せる身体」なんて小見出しに親近感を感じる。)

ところで、You Tubeに、「Olimpia」いうタイトルの、モリスによるパフォーマンス映像があった。マネの『オランピア』をもじった作品。舞台上のモリスの動きは、この時代に独特の「覇気のない動き」、ダイナミズムを欠いた動きをよく例示してくれている。工場労働者のようなtasklikeな動き。これを「没入」の状態と見るべきか(そこに「自律」を見て、フリードの賞賛するモダニズム美術と本人が言っているよりも親近性があるじゃんと見るべきか)、わざと「覇気のない動き」をしていると見るべきか(そこにフリードがミニマリズムの作品に見た「シアトリカリティ」のとくに「押しつけがましさ」を見るべきか)。どうでしょ。

室伏鴻『quick silver』(@麻布die pratze 6/9)

2006年06月12日 | Weblog
ぼくが強烈に良いと思ったのは、中盤、「衰弱体」とでも形容すべき、つまり『疱瘡譚』などで土方が見せたごとき、立てない、病を負った身体の微動がテンションを増し、ただ体をゆっくり起こすだけの所作に一瞬も目を離す隙がないように思えたその直後、背中から床へとダイヴしたその極端な素早さだった。彼のトレードマーク、故に見慣れてしまった感もあるそのダイヴは、今日はとりわけ強い説得力をもっていた。始まった瞬間に終わってしまう出来事は、終わってしまう前に始まってしまう出来事でもあった。前後を切り裂く、その時間の内にだけ一瞬、異なるもの同士の接触が、単に再現=表象による物語とともにではなく、反復(=運動)がもつ一つの可能性として生じた、という気がした。
すべてが出来事であれ、と念じる意志によってしか、ダンスが出現する可能性はない。ダンスは故に、意味を捉える目には見えない。ダンスへ向かう意志、すなわち見えぬものに向かう意志は、観客がもつもう一つの欲求である意味理解への欲求を常にすり抜け突き進まなければならない。
危ういときがある、例えば、冒頭の黒い帽子に黒いコートでの登場は、あまりにたやすく一定の意味を観客に理解させてしまう。前半最後の顔の所々を指で押してぐちゃぐちゃにするところも、猛烈に興奮するのだが、同時に危ういと思うときがある。最後の、砂山に頭をめり込ませる、最後の最後、立ち上がって進もうとするたび何度も脚がもつれて倒れてしまうところなども、危うい。出来事が、観客が恣意的に読み込む物語(意味の理解)へと移行する余地を生んでいる。その余地は、これまでだったら、「笑い」が帳消しにしてきたものではなかったか。一定の方向へと客をディレクションするたくらみは、それを打ち消しにして、からっぽの空間に観客共々立つために用意してきたものであった。
間違いなく、強烈なテンションが今回の公演の最大の見所だった。ただしそれが、「室伏の美学」などといった固定した理解を破裂させるものとして機能しえたのか、反対にその理解を最大限ふくらませるものとして機能したに過ぎなかったのか、この点については、ぼくはまだ判断を決めかねているところがある。

reset-N + Theatre de Ajmer, "ADAGIOS"

2006年06月08日 | Weblog
を見た(@駒場、アゴラ劇場)。

女二人(町田カナ、ムニラ・シャレド)だけの舞台。ほとんどすべてが白く塗られた静謐な空間、それは物語から病院(治療室)を思わせる。キャシー・アッカー(『血みどろ臓物ハイスクール』)などが元になっているという脚本は、女性の体へ向けた性的な暴力とその結果に再度ふるわれる暴力、つまり中絶の暴力とを語り続ける。その「絶望」を語る際の身体が気になった。それはきわめて強く抑制されていて、それによって安易な共感を拒んでいるけれども、とはいえある種の必然性を帯びて舞台にいる。セリフ(ほとんどはモノローグ)を語る傍らで、縮こまり怯え、寄る辺を得ることが出来ぬまま曖昧に漂い続ける身体。彫刻のように「ある」ことの説得力をもっている、ただし簡単には何かに「昇華」してしまうことを拒む身体。それが、セリフとの関わりの中で生まれていることを考えるなら、こういう身体の存在を呈示できるのは、ダンス以上に演劇なのかも知れない、などと思う。


イヴォンヌ・レイナー研究ノート

2006年06月06日 | Weblog
これを読んでくれる読者が一体何人いるのか皆目分かりません(!)が、イヴォンヌ・レイナー研究ノート(もちろん暫定的なメモ)です。


0  まず、あらかじめひとつのまとめをしておきたい。
レイナーが「ミニマル・アート」と類比的だと考えている(自身の)ダンスは、ニュートラルなパフォーマンス(キャラクターをあらわすパフォーマンスではない)であり、パフォーマンス(再現=表象)と言うよりも純粋に行為そのものないしは「タクスあるいはタスク的なもの」である。それはまた「フレーズ」というもののもつダイナミズムを廃する(あるいはこういうことも出来る、レイナーのパフォーマンスは「いかなる固定した焦点もあるいはクライマックスも削除したeliminated any fixed focus or climax」)代わりに、反復の動きで時間を作る。

以下に、各論を三つ(1, 2, 3)。

1レイナーは「フレーズ」を分析し、それを放棄ないしは隠蔽しようとする。なぜならば、フレーズは「過剰にドラマティック」(=シアトリカル)であるから。

1-1フレーズは過剰にドラマティック 「「フレーズ」という語はまた、始まり、中盤、終局を含む長く全体的な持続に対するメタファーとして用いられうる。高まるポイントあるいは重要なクライマックスを含んだ継続というものがどんな意味をもつものであれ、そのようなアプローチは今や過剰にドラマティックexcessively dramaticであり、またより簡単に言えば、不必要である。」(267)

1-2-1レイナーの取り組み1 「各フレーズ間にどこも休止がない」「フレーズそれ自体は、ちょうど手足が関節でつながっているように分離した部分が連続している」「肉体は常に移動の状態にあるという印象を与える」(270)「連続性の円滑さに貢献する別の要素はその連続した動きのどの一部も他のものと比較して重要であるよう作られてはいないということである。」(270)
→身体をつねに等しく移動の状態に置く

1-2-2レイナーの取り組み2 「身体の(実際の)エネルギー源になされる要求が、そのタスクと等しいように思われるのである。床から立ったり、腕を高く上げたり、骨盤を傾けたりすることは、椅子から立ち上がるとか、高い天井に手を伸ばすとか、また急いでいない時に階段を下りたりするのと同様のエネルギーを必要とするのである。」(270)
→日常の動作と同じエネルギー量で動作をする

1-3努力の露出とフレージングの隠蔽 「私は、伝統的に隠されてきたある種の努力effortといったものを表面に押しだし、伝統的に呈示されてきたフレージングを隠してきたのである」(271)
→「フレージング」の隠蔽=シアトリカルになることからの回避→モダニズムとの親和性
→「ある種の努力」の露出=行為そのものの露呈→ミニマリズムとの親和性?


2では、レイナーの方法とミニマリズムとの親和性はどこにあるのか
2-1モダンダンスとの対比「モダンダンスの短い歴史において恐らく前例のないものは、ダンスと造形芸術という二つの分野で同じ時代に繰り広げられているものの間の照応性である」(264)
→ここは、自分たちこそ同時代の造形芸術、例えばミニマル・アートと照応性をもった初めてのダンスである、と自信たっぷりに述べている感じのところ。確かに、バレエリュスでも、モダンダンスでも同時代の芸術との関わりはあっても、強い照応性は実はなかった(あるいはごく限定的な照応性しかなかった)、と言うべきだろう。

2-2反復について 「反復は、ひとつの動きが他とは分離しているということを強調し、動きを客観化し、一層オブジェ化するという役目を果たす。反復は、また、素材を配列し、文字通り素材を見やすくするもうひとつの方法を与えてくれる。劇場でダンスを観る客のほとんどが反復される動きにいらだつからと言って、反復のもつこれらの特徴が何の価値もないということにはならないのである。」(271-272)
→「代わりになるものsubstitute」の2はObjectの場合unitary forms, modulesであり、一方Dancesはequality of parts。3はObjectsの場合uninterrupted surface(とぎれない表面)であり、一方Dancesはrepetition or discrete events(反復あるいは別々の出来事)
→具体的な類似性は表以外ではあまり語られないのであるが、この部分についてはミニマリズムとの親和性が意識されているのではないか。


3観客との関係の問題、あるいはレイナーの方法のどこにミニマリズムと類比的なシアトリカリティが指摘できるか?
3-1 worklike 「パフォーマンスという課題は、パフォーマーが観客と決して向かい合わないというやり方で扱われた。観客の注視を逸らすか、あるいは頭を常に動かしておくという方法がとられた。効果として望まれたのは、発表会で披露するexhibitionlikeという表現の仕方ではなく、むしろ、作業をしているようにworklike見せることだったEither the gaze was averted or the head was engaged in movement. The desired effect was a worklike rather than exhibitionlike presentation.」(271)
→ここのことは、表で言えば、5に該当か。つまりDancesの場合task or tasklike activityになるんだけれど(ちなみにworklikeの語は表に出てこない)、さてObjectsの方で5はと言えばliteralness。深読みをしていくと、フリードだったらこのあたりに「シアトリカリティ」=「押しつけがましさ」「わざとらしさ」「芝居っ気」を嗅ぎつけるのではないか、と予想したくなる。
→で、モダンダンスまでの「フレーズ」重視のダンスは、あからさま「わざとらしい」(つまり「過剰にドラマチック」)のであって、例えばロココ美術のような、あるいは19世紀ならばドラローシュの作品のような、シアトリカルであることを本領とする美術に近いのであって、彼らのシアトリカリティは、ミニマリズムのそれとは当然、違う。
→その上で、ミニマリズムがシアトリカルであるように、レイナーのアイディアもシアトリカルに陥る可能性があるとすれば、このtasklikeのもつある種の「押しつけがましさ」の内に、ではないだろうか。舞台に上がっている以上何かありげな、しかしとくに何もない状態つまり単にtask or tasklikeの状態にあるダンサーの身体を見る者に「見るように」と強制するところ、ではないだろうか。フレーズにはシアトリカリティがやどりうる。それはそうとしてさらに、フリードがミニマリズムを批判した意味でのシアトリカリティをレイナーのアイディアのなかにも見出そうとするならば、「わざと」淡々と日常的な動作というか日常的なエフォート(努力)の運動量で動くと言うことをやるその姿勢の内に、指摘出来るのではないか。


Yvonne Rainer, "A Quasi Survey of Some “Minimalist” Tendencies in the Quantitatively Minimal Dance Activity Midst the Plethora, or an Analysis of Trio A," in Minimal Art (1968).

東京デスロック「3人いる!」

2006年06月04日 | Weblog
を見た。

東京デスロック初見。小さなカフェスペースで、そのテーブルを使った3人芝居を観客がすし詰めでのぞき込む。萩尾望都『11人いる!』が元にあるらしい、部屋にいたら「自分」だと称する男が一人あらわれ、また同じことを言う女も一人あらわれ、誰が一体「自分」なのかと言い争う一時間。複雑でかつロジカルな分、身体のレヴェルでの出来事は希薄、でも小説でも恐らく映画でも成立しない演劇の「ここに体があること」の力で、複数の自分が居るという事態を説得する。それが一番効いていたのは後半、「「こいつ」がいて「おれ」がいるだろ、ねえ「こいつ」見える?」(とでも言うような)セリフをしゃべるとき、役者は「こいつ」「おれ」「こいつ」と言うたび自分の頭を指さしながらしゃべる、そのところだった。自分を僭称する「こいつ」もまた「おれ」も同じ身体をエージェントとしてもつ。それまでは、「こいつ」と「おれ」は二人の役者が別々にやっていたのだけれど、この瞬間「こいつ」と「おれ」はひとつの身体の内に重なってしまった。(多分、これだけの説明では何が何だか分からないだろう、な。非常に複雑な瞬間瞬間に関係性や論理が変化する舞台だったのだ、それを丁寧にトレースすることは出来ない)
演劇を批評(反省)する演劇。これは、ぼくから見れば、「代理=表象representation」そのものの演劇だ。誰が「自分」なのか、ここでは決して決することがない。それはそうだ、だってここでは「代理=表象」のレヴェルしか存在しないのだから。役と役を演じる身体との二つしかないのだから。それを捨象しても残る「自分」などはここにはない。演劇の哲学とでも言えるものを、存在しない「自分」というものをめぐる物語にすることによって「演劇らしさ」を残すことになった、それはともかく、最終的には「自分」は消えるものである以上、そして残るは役とその身体の緩いつながりである以上、出てくる形式がもつベクトルはチェルフィッチュの方法論がもつそれに重なる。などと言うことを考えた。

ところで昨日、NHKで「千年の帝国ビザンティン」という番組をやっていて、いまちょうど大学で中世美術を教えていることもあり見た。いやあ、モザイクというのは、すごいいいなあ。かけらの一つ一つが欠けた面を表にしてるそうで、そのせいで鋭い光をそれは反射しやすくなっているのだという。サン・ヴィターレ聖堂(ラヴェンナ)のユスティニアヌス帝のモザイクがドアップになった、それは実にグロテスクで美しいかけらの集まりだった。歯みたい?そう、「すきっぱ」みたいな、かけらとかけらの隙間が、連続の中のかなり大胆な非連続を示していて、その乱暴さがむしろ魅力的に見える。こんな映像(ちなみに写真は大帝の目のあたり)、本物見に行ったって見られない。カメラアイのデタラメ振りのなせる技でもある。


暴れる神経

2006年06月03日 | Weblog
十年ぶりくらいで、昨日、歯医者に行った。最近肩が凝るのはどうも歯が原因だったらしい。いま、治療してもらった後で、どのくらい患部が熱をもっていて腫れていたかが分かる。楽だもの。肩も。医者からは、どうしてこんなになるまで放っておけたのか分からない、と言われた。いろいろと忙しくて鈍感になってたか。ともかくも「歯痛」の実感に乏しかったのである。少ししみるな、とか、ちと痛いな、くらいは感じても子供の頃の、生まれてきたことを後悔したくなるようなあの「ガーン!」っていう痛みじゃなかったのだ。
それにしても、ねー。最近の歯医者さんはすごいですね。その一、受付の若い女性たちがなんか過剰に化粧気があって、病院の受付って感じじゃない。その二、診察室に入ってみたら横並びに診察台が十台もあり、雰囲気もなんか「てもみん」みたい。その三、出てきた医者が「ちょっと前まで現役だった野球選手」みたいなルックス(ex.色黒、単発、まつげの長い目)で、流ちょうに患者(ぼく)をてなづける。「うがが、こっぽびびまっ(ちょっとしみます!)」とバキュームを助手に施されながら痛みを告げると「そうか、そうか、ちょっとがまんしてっ、ねー」と5歳児みたいな扱いをする。しかも、治療中に女性の歯科助手となにやら楽しそうに話しているし、その「余裕」の感じとか、お客さん商売を弁えている感じとか、「ホスト」なんて言葉も不意に浮かんでくる。ここは、どこだ!と、麻酔の効いてきたちょっと鈍感な頭で思う。で、ちょっと楽しい。拘束されて、励まされて、優しくされて、でも、脇でいちゃいちゃされている、ってなんとも訳の分からないシチュエーション、なのだった!
でも、この「ホスト」先生、治療は抜群にうまく、また説明も丁寧。ぼくのかなり重傷の虫歯は、その中で神経が熱を帯びて暴れている状態だったのだそうだ。しかも、そうした狂った神経は、一本のひもの形状をもう留めていなく断裂していて、それぞれが暴れているらしい。そのバラバラな神経を(歯科助手とのおしゃべりを挟みながら)細い針でグリグリ掻きだしていたのだそうだ。ぼくには、何か歯に指を何度も押しつけているけれど、それは綿で薬でも塗ってる?くらいにしか思えなかった。麻酔ってすごいな。気がついたらぼくの「暴れる神経」は、掻きだされてぼくの一部ではなくなっていた。

盗作問題

2006年06月02日 | Weblog
和田義彦氏の盗作疑惑問題が最近、話題になっている。ぼくとしては、盗作云々と言うことよりも驚いたのは、こうした作風の画家が芸術選奨という場で讃えられている、ということだった。寡聞にしてぼくはこの和田の作品を見たこともなければそもそも知らなかった。知らないことは恥ずかしいことかも知れないが、この人の作品が優れた現代性や、多くの新しい技法的挑戦をしているとはあまり思えない、少なくとも何度かニュース番組でちらと見ている限りでは。

和田氏の作品のもつ現代性とは何だろうか。このことと、ある種のダンスを見るときにここに現れている現代性は本当に現代と言う言葉にそうものなのだろうかと問いたくなることとは、何か符合する点がある気がしてしまう。芸術のメインストリーム(権威による評価において)は案外とマイナー(内輪)だったりする、のか。

そんなことよりも、夕方近くのある大学の図書館に行ってずっと古代ギリシアの彫刻を見ていたのだけれど、なんていいんだろう。ゆったりした衣服の揺れる襞感は、ダンス、だと思う。ゾクゾクする。写真のこれの、うねるくねる線の爆発、とか(横向きですいません)。