Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

町田

2008年04月29日 | Weblog
「COOKIE SCENE」(May 2008 Vol. 60)の「Next Generation '08」より、そこで取り上げられたグループをライナップしてみた。あまりこの分野(ロック?)、最近聞かないので。Operator Pleaseのデブちゃんボーカリストのマッスルな肉体が完全肯定されている感じは面白い。

MGMT "Time To Pretend"
Operator Please "Leave It Alone"
Jamie Lidell "Little Bit of Feel Good"
The Last Shadow Puppets "The Age of the Understatement"
NEON NEON "I Lust U "
Cajun Dance Party "Amylase"
Born Ruffians "Hummingbird"
The Teenagers "Homecoming"
Foals "Balloons"

けど個人的には、Gang Gang Danceが好きだな、外国ものあげるなら(並べるような次元のものじゃないか?!)。4月の来日は、突然キャンセルされてとても残念だった。
ところで、nhhmbaseもd.v.dも(この2人を横並びにするのもあれですが、去年の秋に「ベクトルズ」や「Review House」で書いた二組)ちょっとまた面白そうな感じになってきてますね!d.v.dは西日本ツアーを5月にするようで(行きたいー)、nhhmbaseは、O-nestで自主企画のライヴが。

クリウィムバアニー「贅沢ラム」(@吉祥寺シアター)

2008年04月28日 | ダンス
4/27
10人ほどの同じミニドレスを来た女の子たち。ベッドと洗面器、トイレ。プライベートな部屋のイメージ。天井にはシャンデリア。照明は始終暗め。小さな倦怠、小さな妄想、ときおり下着をおろしてトイレに、ベッドに座る。基本的に、だるそうにそこここに座って、寝そべって、しかもほとんど互いの間に関係が生まれないまま、中心もないまま時間が経過する。一時間くらいの公演のなかで、二回くらいアップテンポの曲で全員が踊る、と言うところがあった。それ以外は、ゆるく間延びした時間が続いてゆく。菊地成孔「プラザ・レアル」や久住小春「バラライカ」など、ところどころで鳴る音楽の選曲には、リアリティがあるのだけれど、何か見せ所を欠いたまま終わってしまう。いや、見せ所など決して作らない、決してテンションのピークを作らないということなのだろう。ずるずると執拗に続く、薄闇の時間とか、その象徴ではあるのだろう。ただ、うん、そうなると見る者は、ダンサーの運動ではなく身体自体へと眼差しを向けだし、フェティッシュな快楽へと落ちてしまいがち、で、その傾向に好都合なことに、白い柔肌露出の、幼少の頃から恐らくダンスを続けている、それ故か美しいプロポーションの女性たちがうろうろしているわけで、そうしたフェティシズムへの耽溺を、どう考えるかということに問題がなってくる。えと、でも、そこでダンス・アート的なクールネスと対極の(一カ所、C-uteの曲かなにかがかかって、20秒くらい全員で踊って、一瞬で音が消え別のダンスへ何ごともなかったかのように切り替わったところは、この舞台唯一特筆すべきダンス的な快楽の生まれたところだった)猥雑な世界が生まれるのならば、それはそれでいいのかも知れないなあ、、、遅延もそれはそれで「じらし」の快楽に変換されるのであれば。あ、多分、ぼくが最終的に、やっぱりどうしても乗り気で見続けられなかったのは、そうした「じらし」へとぼくが巻き込まれなかった、という不甲斐ない気持ちになったことに原因があるのかもしれない。むしろ強烈にフェティッシュな瞬間があったらよかったのかも(過激であれ、と言うことではなく、仕掛けとして強いものがあったら)。単純に、久住小春がここで同じように踊っていたら、きっとその方を見ちゃうだろうな、と思った。フェティシズムへ足を突っ込むのであれば、残酷な基準にさらされることになる。どこにも落としどころを作らないことが、すべてに中途半端という感想へと短絡していかないような仕掛けが、やっぱり必要だったのではないか。
と、ずっと「プラザ・レアル」を聴きながらこれを書いたので、上記したことは、クリウィムバアニーについてというよりも、菊地について、になってしまっているかも知れない。

観劇後、吉祥寺の焼鳥屋で食事。熱心なダンスファンと、いまの日本のダンス・シーン、ダンスの批評の問題について話す。かつていろんなことがあり、いろんなことが終わり、いろんなところへと拡散している。途中で放擲したもの、について確認する。

DIRECT CONTACT VOL.1 その後

2008年04月27日 | DIRECT CONTACT
4/27
今朝、大学院生で映画の制作も行っている方からメールが届いており、DCの感想文が添付してありました。ご本人に許可をもらったので、こちらに転載することにしました。昨日の晩、エクス・ポのイベントでも何人かの方から感想を聞かせてもらいましたが、いろいろな意見が交差することこそ、ぼくや大谷さんがやりたかったことだったわけで。直接的接触の痙攣的な余韻が、あの日集ったひとたちの内側に今後一体何を起こしていくのか、、、

「体をオブジェに、動くオブジェに見せるのが、いまのダンスのひとつの表現なのかと思った。オブジェといっても、穴のあいた靴下や、普段着の洋服、すそのほつれた小道具の黒い布は、意味はなくても細部の感覚こそ勝負、というような感性を研ぎ澄ませた造形表現とも違う。
床にゆっくりと寝て足をひろげて力を抜いたゆるい形の人体、黒い布をかけられ間化したダンサーの静止形。観客の笑いを誘う意味不明の動き。

神村恵は、「そこに立つだけで空間が変容するダンサー」ではない。何かの動作を起こすことで、時代を映し込んだ表現(正直踊りといっていいのかわからない)を作っている。では何を表現したいのか? そもそも表現したいことは作品としての完結した世界なのだろうか?

私的なレベルでも私たちが日々感じている、人と人とが交差して起きる不合理や、日常的な動作の隙間に生まれる笑いだったら、変哲も無い。変哲もないことを、変哲もない体で見せる、その美意識や創造のプロセスは(個人的な欲望としては求めにくい理由として、)無・意味でユルいものだ。核のない流動体。動くオブジェ。そのユーモアや小さな生真面目さは、多様な時代を生き抜く為の方法論であるのかも知れない。けれど…。

ダンスが本来もっている精神や痛みや光や空気はどうなるのだろう。現代では自然の状態で、痛みや息苦しさや穏やかな光を抱えない生き方はリアリティがないような気がする。わたしはそれを身体でどう表現するかを見たいのだけれど、受け止めて表現するだけの想像力や世界像がない現状を提出されたような気がする。表現者の世界観ではなく、自然から逃れる或は闘うための「方法」としての、ハズし・ユルさ・キッチュが、現代を表すのにもっともふさわしいのだろうか。非日常的なヴィジョンに憧れさせてはくれないのだろうか。

強さと繊細さは相反しない。室伏鴻や中西夏之の描く「edge」―境界は、暴力的とも言ってよい轟音と対になるようなふるえ、繊細さの上に成っている。そうした、流動体のようでいて実は確固とした「強さ」と比して、漠然と足場を不安がる脆弱さ、局地性。
ジャンルも思想も関係ない、強度な美的態度ももたない、解放感に満ちた表現が時代に求められるなら、その真剣な弱さは観客たちの反映に他ならない。


白い紗幕でL字型に張られた「場」は、コンクリートの床と高い天井に挟まれ、洗練された照明ですぐにでもかっこよくなるコンテンポラリーのギャラリーの構造をもっていた。その場を異化するような、身体の表現は、まさに現代性を体現しているのかも知れない。」(永松左知/大学院生(中西夏之研究))

オトギノマキコ「チワワのゆうれい」(@渋谷ルデコ)

2008年04月26日 | ダンス
4/26
久しぶりに見た。正直、またオトギノマキコが見られた、という感動が大きくて、ちょっと「ああ、そうそう懐かしいー」なんて思いながら、過去の記憶をなぞりながら見てしまった。再び出会えたと言うことそれ自体が喜びになるような、ダンサーとして唯一無二の存在。20:00。ルデコの一階。20人ほど観客の集まった前方、小さな舞台スペースに、リアルな着ぐるみ(犬?オオカミにもみ見える)を来たオルガンプレイヤーが現れ(「ジョン(犬)」という名のミュージシャンだった)、その演奏をバックに、ろうそくの火が揺れるお盆を床に置くと、直立の状態で、そう、いつものあのオトギノマキコの姿勢で、繊細な強烈な時間が始まった。オトギノの体は、音楽とかなり直接的に反応する。けれども、その応答は硬く激しいものではなくて、むしろ紙が音に揺れて振動するみたいに、極々デリケートであり続ける。オルガンがなんともいえない不思議なメルヘンを空間に流し込むと、白いシャツと紺のパンツというほんとにいつものオトギノの体、いやなんだか以前よりシャープに目指すべきポイントへと素早く進む体が、次第にそこに委ねかかってゆく。バリのダンスのように全身の様々な場所が細かく弱く揺れる。いつの間にか、その体は、オトギノのものではないかのように、死の瀬戸際へとワープするかのように、生から切り離されて、それでも動いている。それをダンスと呼ぶべき、それをダンスと呼びたい、という体がある。バリでの記憶や暗黒舞踏の光景(土方巽が「疱瘡譚」で見せたライ病のダンスとか)とが、オトギノとともにぐるぐるとトライアングルをつくる。めまいのような気持ちでそのぼくのなかに不意に生まれた三つのイメージに歓喜する。一端、崩れて倒れた体が、あらためて起きあがってくると、それはまたなんだかしっかりした運動をみせもする。そうして運動の質が変化しているのは、頭で踊らず、音楽家と生成させている状況をきちんと生きているからだろう。後半は、ルデコ一階の客席にあったバーカウンターで新聞を読む音楽家の隣に座ってみたり、かぶり物を奪って被ったりした後、二台のテレコを出して、一台は松田聖子の「赤いスイートピー」をもう一台は、やはり同じ時代のポップスをカセットならではの速度ツマミを頻繁に変化させながらその音に反応して痙攣的に踊る、と言うことがあったり、最後は、マイクとスタンドを出してきて、アイドル歌手がふりつきで歌っているような状態で、しかし、声はほとんど吃音的というかほとんど発せられることなく、というシークェンスがあって、その後、パフュームの「コンピューターシティ」で踊る、というように進んだ。以前、ディズニーの「エレクトロニカル・パレード」の曲で踊るなんてこともあったけれど、そっか、パフュームはオトギノだったんだーなどと、妙に納得し、松田聖子からパフュームへと繋がれた線にも、そこにこのオトギノの自己をギリギリまで滅却していくような、感動的に死へと接近するかのダンスが綱渡りするという演出にも納得し、いま世間で言われているところの「日本のコンテンポラリー・ダンス」には興味が薄らいでいる一方で、こうした本当に秘儀のようなダンスが、やはりぼくは大好きなんだと思って、ダンスを愛することにあらためて確信の持てた公演だった。そう、なんかもう秘儀みたいな公演だった。勇み足でご本人に「次の公演は?」などと野暮なことを聞いてしまったのだけれど、いや、ぼくはいま、再びオトギノマキコが見られたことが本当に嬉しく、またどこかで見られたらそれも嬉しいと、そう、ぼくの気持ちは、それだけなのだ、と本人に言えばよかった。

参考資料
手塚夏子によるインタビュー面接画報
日記より オトギノマキコ「かわいい心臓」(2003年8月31日@Plan B)
日記より オトギノマキコ ラボ20#14出演(2003年1月18日)

DIRECT CONTACT 詳報

2008年04月24日 | DIRECT CONTACT
4/26(昼)
三日間続いたDC Vol. 1、昨日の神村恵「ソロ+アルファ」の上演をもってオーラスを迎えることが出来ました。お越し下さった皆さん、本当に、ありがとうございました。打ち上げは朝まで、宇波さんの演奏旅行話で腹筋が痙攣を起こすほどわらわせてもらい(あれは本にすべきですよ!宇波さん)、またいろいろと大谷氏と作戦会議をしました。このイベントのまとめ文章(あれはいったい何だったのか、、、)を早めに2人で公表することにします(予定)。しばし、お待ちを。

4/24(朝)
昨日お越しいただいたみなさま、どうもありがとうございました。DCは今晩、明晩も続きます。「室内楽コンサート」は毎晩演奏曲が変わりますし、神村さんの公演も毎日違う印象のものになることでしょう。異ジャンルバトルであることと、両者とも超ストイックでありかつ強烈なインパクトのある公演であることとがあいまって、不思議な、あまり感じたことのない空気が会場に満ちていました。

会場がともかくわかりにくいようです。会場のある建物は旭倉庫といいますが、入り口が二つあり、スペイン料理店と並んだ巨大扉が今回の入り口です。そこからエレベーターで二階に上がってください。


4/23(昼)
当日となりました!大谷さん、会場となるギャラリーのみなさん、出演者の皆さんともども、みなさまのお越しを心待ちにしております!「ギャラリー」と聞いて窮屈な観賞を強いられる不安が生まれる方もいらっしゃるかと思いますが、心配御無用、ギャラリーと言っても結構空間としては広く、また、ほどほどにリラックスして見聞き出来るベンチ状シートをご用意しています。チケットはすべて当日精算です。ふらっといらしてください。とくに、音楽方面で興味を持った方は、三日連続いらっしゃることをお勧めします。是非是非、「室内楽コンサート レトロスペクティヴ」をコンプリートしてください。

昨日、「20冊ほどの雑誌をジャンルレスでどんどん購入し、読みまくり、面白いトピックスを発表する」という三、四年生向けゼミの準備のため、あれやらこれやら読みまくっていたのですが、リニューアルした『美術手帖』には、ちょっとした違和感を感じたのでした。表紙のパロディのセンス、とか。これでいいんだろうか?これがChim↑Pomや愛☆まどんなの特集としてあるべき表紙なのだろうか。「ザ・テレビジョン」をパロディすることに、どんな意味があるというのだろう。これは、黄色いアニメのアイドルネズミをフィーチャーした作品(Chim↑Pom)とは明らかに別様の「介入」のセンスですよね。「美術界のアイドル」ということを宣言したい?って「アイドル」になりたかったんですか?そんなことではないはずだ。少なくとも、言えるのは、「ザ・テレビジョン」誌にとって、このパロディは痛くもかゆくもないということ。見る者にとっても、さしたるインパクトなし(パロった、という事実のみ)。ぼくが彼らに感じているポテンシャルはこんなものじゃないんだけどなあ。ところでここに、「会田誠問題」というのが浮上している気がしていたりするのです(なんだかぼくのなかで)。そしてそれは、文学における中原昌也問題とぼくにとっては似ていて、やっかいだけどここにある澱みは(あるいは新たな権威は)、正確に見定めてみたいものだったりするのです。要するに、非倫理的なダメさを装うことで、ダメの美学と言うよりも実のところ既存の芸術に対するアンチを表明する(「なんで制度内的な美術や文学なんか一生懸命描いて/書いているんだろう」などとぼやく)彼らは、その点において何らルーズではなく、むしろ極めてシンプルに倫理的なのであって、彼らのしていることは、ある面(全面的にそうなのかは、しっかり分析しないと見えてこないけれど)で、芸術のポテンシャルを倫理へと転化するということなのではないかと、そうなってしまっている部分があるのではと思うのです。彼らのしていることは、その倫理においてきわめてまっとうなのであり、でも、ぼくとしては、真っ当なものがみたいのではなくて、狂ったもの(芸術としてのすぐれた謎に突入しているもの)が見たいのであり、であるとすれば、ひょっとしたら『美術手帖』で、会田と議論している辰野登恵子さんとかの方が、狂っているのかもしれなくて、アートというものの狂気に触れているのかもしれない、、、などとまで思ってみたくなるのです。いや、こう書いているだけでは、適当なこと言っているだけ、状態なのですが、この辺りの問題をじっくり原稿化してみようかなと、思っているところです。

DC今日から三日間、どうぞよろしくお願いします!


4/21
DCの件で問い合わせの多いのが、
チケットはどうやって入手するのか?
という疑問なのですが、

すべて当日精算です。

入場を制限することはしません、どうぞ、直接お越し下さい。(Chargeは2000円です。)

おそらく、ほとんどの方が会場となるTemporary Contemporaryにはじめてお越しになると思います。駅から、大江戸線/有楽町線の月島駅、7番出口をでると、目の前が「もんじゃ通り」、そこに直進せずに右折して道なりに100mほど進むとスペイン料理の店のある倉庫があらわれます。その二階が会場です。どうぞ、会場地図をコピーしたりして、分からなくなったら会場に電話をしてくださいー。→03-3531-3733(Temporary Contemporary)

今日の夜、神村さんのリハーサルを見学していたのですが、そこから察するに、「相当な問題作」となりそうです。「こんな神村みたことないぞ!」というよりも「こんなダンス見たことないぞ!」という気がしました。これは、ダンス・ファンのみならず、現代美術に興味のある方たちに多く訴える何かがあるようなものにも見えました。神村さんのパフォーマンスは、すべて「必見」であるには違いありませんが、これはやはりその「必見」のひとつと言うべきでしょう。

4/20
ブログの更新が、滞っています(すいません)、新学期でばたばたと忙しくしていたのでした。
CINRA Magazine No. 17にてインタビューしてもらいました。なんか誤解されそうなタイトルがついてしまってますが、、、)
神村恵さんへのインタビューは、「前回のではまだ話したりない」という彼女からの要望もあって、第2弾も録り終えてあります。問題は、ぼくがWMAのファイルをmp3へと変換出来ないことと、mp3のデータが大きくて、分割しなきゃなんだけど出来ないことと、分割したらポッドキャスト対応のブログ(当ブログのgooは対応していないので)でアップするつもりだが準備が出来ていないこと、があり、その三重苦でとまっています(誰か助けてくださいーーー)。
この間、ポツドール「顔よ」(4/12)、ベニー・モス「フリー」(4/17)、庭劇団ペニノ「苛々する大人の絵本」(4/20今日)を見て、どれも面白く、それについても書きたかったのですが、ばたばたしていてそれも叶わず、またトヨタ・コレオグラフィーアワードのセミファイナルには、そもそもいろいろと疑問点を感じていて、そのことを少しまとめて書こうと思ったらそれも叶わず、何よりもチケットの購入にこちらのミスがあり、見ることも叶わず、、、と目下、息苦しいくらいのだめっぷりを曝してます!
今日は、ペニノを見る前に、東京都写真美術館で「シュルレアリスムの宇宙」というイベントで、鈴木雅雄と林道郎のプレゼンテーションを聞いて、とても刺激を受け(鈴木さんには『Review House 01』を献本したり)、移動する電車のなかで読んだ、リニューアル第1弾『早稲田文学』の蓮実インタビューにも新人賞の審査をした中原昌也にも、ちょっと疑問を思ったりして、それも気分が盛り上がって、あと、何よりも、ペニノ見た帰り、夜の九時過ぎ、とぼとぼと表参道を目指して青山通りを歩いていたら、ばったり大谷さんと出くわし(彼は今日、著書のサイン会を三件こなしたそう)、何というシュルレアルな日なんだろうと、驚きあきれたりしたのだった。

かなり迫ってきました。DC Vol. 1。お見逃しなく!
(左or上の写真は、上が「室内楽コンサート」作曲者の1人宇波拓のバンドHOSEのジャケ写部分、下が神村恵。参考写真として)


大谷能生&木村覚 プロデュース連続企画 

『DIRECT CONTACT VOL.1』

OPEN19:30  START20:00

Charge 2,000

会場:TEMPORARY CONTEMPORARY、月島 

会場地図
(都営大江戸線・東京メトロ有楽町線 月島駅7番出口より徒歩2分)


【公演演目】

●神村恵 『ソロ+アルファ』
23日~25日 出演:神村恵、他



●室内楽コンサート・レトロスペクティヴ 2006~2008
23日 演奏曲目
『backup (for koto)』 作曲 大蔵雅彦
『Tom & Jerry (for drums and keyboard)』 作曲 杉本拓
曲目未定 作曲 宇波拓

出演:塚本真一 イトケン 水谷隆子 上江州佑布子


24日 演奏曲目
『red scarf, red curtain (for violin and two electric guitars)』 作曲 大蔵
雅彦
『Three speakers』 作曲 杉本拓
『不在について』 作曲 宇波拓

出演:秋山徹次 千葉広樹 江崎将史 中尾勘二 泉智也 杉本拓 宇波拓


25日 演奏曲目
『outfold (for harp and ensemble)』 作曲 大蔵雅彦
曲目未定 作曲 杉本拓
曲目未定 作曲 宇波拓

出演:関島岳朗 イトケン 竹田大純 佳村萠 大島輝之 中村としまる 高良久美
子 秋山徹次 江崎将史 中尾勘二 木下和重 上江州佑布子 服部玲治 杉本拓 
宇波拓 大蔵雅彦



【出演者/演目プロフィール】

◎ 神村恵
ダンサー・振付家。幼少よりバレエを学ぶ。2000年より1年間、オランダにてダンスを学ぶ。04年よりソロ作品を発表し始め、様々なスペースで上演する。06年より、神村恵カンパニーとしての活動も開始。08年2月、カンパニー3作品目となる「どん底」をBankART1929 Yokohamaにて上演。ソロ活動では07年に、イタリア、韓国にて公演に参加。08年4月、トヨタコレオグラフィーアワード2008選考会に参加する。その動きは本当に必要なのかという疑いをもとに、カンパニー、ソロともに活動を続けている。


◎ 室内楽コンサート
2006年からスタートした「各人の作曲作品を演奏する」企画である『室内楽コンサート』シリーズのレトロスペクティヴ企画です。長期にわたって国内外で即興演奏家として活動を続けてきた杉本拓、大蔵雅彦、宇波拓による、音楽をさらに広い構造から捉える実験の結果とは? 世界初演有。

庭劇団ペニノ「苛々する大人の絵本」(@青山 はこぶね)

2008年04月20日 | 演劇
ぼくの初ペニノ体験は、「小さなリンボのレストラン」で、その作品は、今日の活躍を予感させる過剰さと異常さに満ち満ちていた。とくにおかしかったのは、小さな青山のマンションの一室が客席と舞台になっていたことで、しかも狭小空間には、モノとしての自己主張の強いアイテムばかりがひしめく気味の悪いレストランが本当に建っていて、しかも足元には畑のようなものさえあり、本物の野菜が転がっていたりして、その異常さの質は、今となってはよくわかるのだけれど、あのときは興奮ばかりかき立てられ、青山通りを歩く帰り道まで、その余韻が残っていたのを覚えている。今回、そのマンションが再び会場となった。期待せずにはおれない。
修道女のような被り物をつけた女2人が暮らす部屋。天井と床には本物の木が突き刺さっている。女たちは、その木が漏らす樹液を楽しみにしている。それをかけると食べ物の味が毎回変わるのだそうで、女たちはミルクに芋を溶かしたような液体を食べ/飲んでくらす。ボート屋をやろうかと1人が言い出す。でも、湖を彼女は知らない。何か軽くある必要な知識や知性を欠如してしまったような状態の2人。鳥が死んだと嘆く1人に、もう1人は困った末、壁の孔に死体を突き刺す。後半、床の下の世界が現れる。そこには「受験生」が制服姿、ガリバー状態で寝ている。洞窟の世界?股間の辺りに、上からつららが降りてきている。受験生は、母にも妹にも受験を口実にわがままをしているようで、ぶつぶつと話す言葉の端々にそのひとりよがり加減があらわれる。彼も標準から逸脱した人間。この三人のすれちがったままの関係が最後まで続く。
「絵本」というタイトルにも連想が促された、奇妙なファンタジー。今回僕が面白いと思ったのは、乱暴な設定であるからこそ、演劇を作ることの面白さ、というか演劇そのものの面白さがあらわれる気がしたこと。子供のままごと遊びというか、砂場でのファンタジーが演劇公演になったような舞台。いや、本当に、リハーサルを見学する限り、正にそのような発想で積み立てられたものに他ならなかった。タニノの妄想の襞を現実の空間に、現実にあるものを利用しながら具現する、その乱暴狼藉、その身振りを観客は賞味する。「このストーリーにはどんな意味があるのか?」などという問いに向かうことなく。それは、タニノが役者たちに食べさせている奇妙な食事を食べるようなものだ。目の前にひろげられた光景をただただ見ること、それが以上だろうが何だろうが。けれど、そうした乱暴が、ある種の開放感を与えてくれる、ペニノの不思議なところ。何か人間の本質を言い当てられたような、それだからすっきりとした気分になるというような(仮に不治の病だとしても、病名が言い当てられたらすっきりする、というような)。ペニノの奇妙な癒し効果は、昨年秋のイプセン「野鴨」公演で、多くの人が知るものとなったものだけれど、このことについて、いずれ突っ込んだ考察をしてみたいものだなあと思っている。(4/20観劇)

参考資料
日記より 庭劇団ペニノ「笑顔の砦」
日記より 庭劇団ペニノ「アンダーグラウンド」
wonderlandより 庭劇団ペニノ「アンダーグラウンド」
庭劇団ペニノ「ダークマスター」
日記より 庭劇団ペニノ「小さなリンボのレストラン」(2004年5月28日)

ベニー・モス「フリー」(@横浜STスポット)

2008年04月17日 | ダンス
4/17
雨の中、横浜。久しぶりに「鈴一」。早めに食べ終わり、Aが男たちに囲まれて「てんころそば」と格闘するのを後ろから見ていた。

垣内友香里の主宰するベニー・モスの新作。「フリー」というタイトルにあまりこだわりすぎない作品になっていたらと、余計なお世話を焼きながら上演を待つ。垣内は、大橋可也&ダンサーズでも活動していて、昨年末には、彼らの企画したイベント「関係者全員参加! ダンスクリティーク」でも、プレゼンターとなって話してくれた1人だった。そのとき、この作品の中間発表をしてもらったのだが、出演者全員が「フリー」な状態で舞台にいることがコンセプトになっていて、それは正直どうなのかと思っていたのだった。「フリー」であることはそんなに必要なことなのか、そもそも出演者の「フリー」を観客は見たいと思うか、などとイベントで垣内と話した憶えがある。
本番は、「フリー」というものについての話者の考えについての語りがさまざまに何度も繰り返される、そのレクチャー・トークが中心となって、その周りに、なんともいえないスローモーションな動きのダンス?が差し挟まれる、という内容に変化していた。「フリーはいったいどこにあるのか?」という問い、それを真っ直ぐに答えようとした最初のアイデアは、ほぼ廃棄され、代わりに選択された「フリー」というよくよく考えるとどこにあるんだか分からない虚焦点のまわりでぐるぐるとじたばたする様は、一時間半という長丁場の公演を成立させていた。垣内というキャラがもつ面白さも際だった。目がギョロッとしていて、美人のようで、でも体ががっちりしているから暴力的な印象もあったり、まじめなようで怒ると怖そうな、見る者を不安定な気持ちにさせる彼女が、ひとりしゃべりをつづけている様子は、それだけで面白く、その面白さが、つまり垣内が自分のキャラを積極的に生かして転がすようになったら、もっとそういう意味でわがままになったりなどしたら、一層観客を強引に振り回し、一層面白くなるだろう。

4/3-4

2008年04月06日 | 演劇
4/4
三時の回で「非現実の王国で ダーガーの謎」を、シネマライズで見る。その後、庭劇団ペニノの稽古場へ訪問。来週金曜から始まる新作「苛々する大人の絵本」のリハーサルを拝見した。前回のはこぶね(青山のマンションの一室に作られた舞台空間)公演「小さなリンボのレストラン」に匹敵する奇怪な景色(あるいは庭)。役者の身振りもその頃のペニノにあったどくとくの「くせ」があらわれていて、反応する人はそれに強烈に反応してしまうことだろう。んー、演出家タニノクロウの脳の襞が舞台空間に具現化するみたいな、彼らの舞台の秘密がちょっとわかった気がした。タニノさんにはあらためてじっくりと話を聞かせてもらおうと思った。ぼくにとって、近年の小劇場系劇団の(中堅の)中で、もっとも今後の展開が楽しみな存在が庭劇団ペニノでして、演劇を根本から更新していくダイナミズムを感じているのだけれど(昨年の「野鴨」も本当に素晴らしかった!)、今回は、あえていえば、ペインティングではなくドローイングみたいなところがあり、その生々しい手さばきを堪能するのがいまからすごい楽しみなのだ。

wonderlandでかいた庭劇団ペニノ評を紹介しておきます。
「アンダーグラウンド」の舞台評

4/3
入学式。たいそう忙しい。

4/1

2008年04月01日 | Weblog
本日より、日本女子大学人間社会学部文化学科の専任講師(専門:美学)となりました。
NWUには目白と西生田にキャンパスがありますが、ぼくはのどかな西生田に通うことになります。

どうぞ、よろしくお願いします。