Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

福住廉さんの発言

2008年03月31日 | Weblog
土曜日のイベント「ダダをこねる」についての追記として。

Command Nのイベント「オルタナティブ東京 ダダをこねる/01」にて自分の批評観についてプレゼンテーションをしていた福住廉(ふくずみ・れん)さんは、ぼくが美術出版社主催の「第12回 芸術評論募集」でともに入選したことで、個人的にはずっと気にしてきている文筆家(評論家)である。最近では、Chim↑Pomをいち早く評価したこと、六本木クロッシング2007をいち早く批判したことで、有名な存在だとぼくは認識している。意見の細かいところは違いがあるのだろうけれど、注目する対象は、ぼくと重なるところがあり、いつかちゃんと話をする機会があればと思っているのだけれど、そんな福住くんの10分間のプレゼンテーションは、当然のことながら興味深いものだった。
彼の主張は、いま批評家(彼の主眼は「美術批評家」に向けられている)と称する者はあまたいるとしても、実際、批評的な仕事をしているのは、ほとんど皆無であり、そんななか、いわゆる素人のひとのレポートの方が率直で内容豊富で、実際、経済的に豊かな点もあるから海外の展覧会もチェックしていたりするので、いわゆる「批評家」に期待するものは、もうそうしたひとたちの仕事で十分なはずである、というものだった。
「批評的な仕事をしているのは、ほとんど皆無」という例に、彼は、2006年の横浜トリエンナーレをあげた。「批評家と称する者」が新聞や雑誌で書いたのは、結局のところ、「川俣正よくやった」という美術関係者の内輪でしか機能しないことがらに過ぎず、外に向けて明確な評価(批判も含めて)を表現することはなかった。その一方で、「学園祭みたいだったね」といった批判的な意見が、業界内のうわさ話として耳に入ってくる。新聞・雑誌での文章が、批評家の表現する場だとすれば、「批評家と称する者」は、その名に値する仕事をやっていない、というのが福住くんの具体的な批判の内実だった。
こうした問題は、ぼくも強く感じていることだった。批評家とは何をするひとなんだろうか。名称に「家」がつくから、なんだか「そういうポジションを得た人」だと思われがちだけれど、そうではないはずで、というか批評家は「批評」を生業とする人(「家」)ということであるはず。批評を書かなければ、批評家を名のる意味がない。けれども、、、
このことは、ぼくの現場でも同様のことが言えるだろう。ぼくは「ダンス批評」としばしば名のっている。「家」を付ける自信も必要もない気がして、それは付けないようにしているのだけれど。そうした肩書きの人物が行うべき、ダンスの「批評」とは何だろう。それは、ダンス公演を高みから評価することなのだろうか。それは、ダンス公演に前宣伝記事を書くことなのだろうか。それは、ダンス公演を未知の観客に向けて紹介し業界を応援することなのだろうか。
ぼくはこれまで、とくに2005年に「美術手帖」でのダンス特集を組むという仕事の辺りでは、「脆弱なしかし可能性があると思うコンテンポラリー・ダンスという存在を紹介し、応援したい」という気持ちで、しばしば批評文を書いたり、インタビューや雑誌の特集企画に携わったりしてきた。しかし、その後辺りから、そうすることが批評の仕事なのだろうか、とか、そうした応援団的な仕事がそれだけが批評の仕事なのだろうか、と疑問をもつようになった。逡巡しながら、いつかダンスへの興味が、コンテンポラリー・ダンス業界全体にではなく、本当に自分がユニークだと思える作家たちに限定されるようになった。そして、そうした視点の移行は、単に上演された作品について言葉を費やすという以上に、観客とパフォーマー(振付家・演出家)の関係とか、上演をめぐる環境自体へと批評的な言葉を紡ぐ必要があるのでは、と思わせることとなった。しかし、そうした文章を載せる媒体など、どこにもない。前宣伝記事の依頼はあっても、そうした記事をあるヴォリュームをもって書く、という場はなかった。ないから書かなかった、という怠慢があった。
福住くんに戻ると、彼はプレゼンの冒頭、このイベントのタイトルにかけて「だだをこねる」ことが批評だろうと漏らした。そうだ、本当にそうだ、と思った。批評の仕事は、嫌われる仕事である。多分、嫌われないでこの活動は出来ない。けれども、たいていの場合、業界関係者のなかの自分のポジションとか、均衡関係とかを意識しながら文章が書かれていたりする。それは、何となく、今日の永田町演劇に似ている。本当に何か価値あることをしようとか、価値あるものを讃えそうでないものには過大評価をしない、という気運が希薄な場所は、何も生産的なものを生み出さないだろう。政治の停滞を模倣する必要はないはずなのに、多くの場合、そうした反復を気づけばしてしまう。そうした無反省な場所に対して、「だだをこねる」(自らのパフォーマンスを通して反省を促す)ことこそ、批評の仕事なのではないか。
それは、傲慢と称されることも、スタンド・プレーと揶揄されることもあるだろう。でも、多分、そうすることへとコミットすることなく、自称「ダンス批評」「舞踊批評」「舞踏批評」、、、を名のることには、ほとんど意味がない。ただ「批評」という地位をほしがる権威主義に他ならないだろう。
こうして目深にニット帽を被った福住くんから、結構な刺激を受け取った。ただ、ぼくは福住くんの主張の後半は、あまり賛同出来なかった。つまり、批評家の名に値しない人ばかりが批評家ならば、素人の書き手に期待した方がいい、という発言。ぼくは、福住くんの言う「だだをこねる」ことが出来るのは、やっぱり批評家以外にはいないと思うのだ。正当に誠実に辛辣に「だだをこねる」才能と経験と知識が批評家というひとには必要である。少なくとも統整的理念としては。その使命を自ら負うエネルギーとそれを支える対象への強烈な愛情を携えたひとを、「批評家」と呼ぶのだろうし、才能のみならずひとはそうした勇気と愛情を期待してそうした名を使用しているのだと思う。

3/29

2008年03月30日 | Weblog
ひとの話を続けて拝聴する一日だった。

午前、来年度からお世話になる大学の研究室をチェックしに行く。前任の先生が残した骨董屋のようなアイテムの数々に驚く。窓の外には、桜が咲き狂っている。

午後、二時から、新・岸田戯曲賞作家(倉持裕+岡田利規)によるトークイベントというものがあるとお誘いがあり、聞きに行く。池袋コミュニティ・カレッジってほぼ初めて行った。チケット一枚買うのに、10分くらいかかったのには、驚いたが、インディペンデントな学校(「西武」という資本力、ブランド力の賜であるとはいえ)がこうしてしっかり回り続けているというのは、凄いことだと感心。二時間ちかくのトークは、面白かったけれど、聞き手という者は、忍耐強い者だなと、どちらかといえば聞き手よりも話し手の方になりがちな昨今、聞き手を(学生を)もっと尊敬しないとなと思った(1時間半1人で喋るという大学の講義というものは、考えてみれば随分、乱暴なパフォーマンスだよな、とも感じたり。ワンマンショーですからね)。

四時半頃、電話をチェックすると、最近寄稿した雑誌から電話が入っていた(数時間中に校正をして欲しいとの)。次の用事にちょっと間があったので、出版社(太田出版)に行ってみることにした。社会科見学のつもりで心躍ったのだけれど(吉田豪がいたらどうしょう!とか、いるわけいないか)、がらーんとした仕事場に、編集担当者さんがひとり。二日は寝てないなと慮られるご様子。ホイットニー・ビエンナーレでもエントリーされていたGang Gang Danceの話で盛り上がる(「来日中止になったのでは、、、」と担当さんが話していて、まさか、と思っていまチェックしたら、やはり、、、残念至極!)。

6時頃、「オルタナティヴ東京 ダダをこねる/01」というイベントを見に行く。→ KANDADA
以下のひとたち(ぼくが聞いた前半のメンツのみ。この倍くらいの出演者が居た)が10分のプレゼンテーションをして、それにコメントや質問を最後に加えるというセットをひたすら行う企画。最近、こういうプレゼンのイベントが多いなあと感じる。みんなで各自の知恵を寄せ合うということから何かを生み出そうとしている、しかも、かなりポップなセッティングにしており、集客力がかなりある(150名くらいは入っていたかも)。

福住廉
新宿眼科画廊
Survivart
第0研究室
高橋慎(クラインダイサムアーキテクツ)


DIRECT CONTACT VOL. 1

2008年03月27日 | Weblog
告知です!

4月23、24、25日に、月島のギャラリー・スペースで、DIRECT CONTACT VOL. 1と題したイベントをミュージシャンで批評家でもある大谷能生氏との共同企画で行います。

音楽とダンスを単ににわか仕込みのコラボではなく、同じ空間に置いて一緒に観賞してみたらどうなるのか?というのが、最初に2人で話し合った企画意図でした。まず、第1弾は、ダンスは神村恵、音楽は宇波拓らの室内楽コンサートを接触(コンタクト)させます。今後、良質な諸々のジャンルのコンタクトの場、方法的な実験の場としてシリーズ化してこうと考えています。

詳しいことは後日。とりあえずフライヤーが(左上の画像をクリックすると拡大されます)出来ましたのでご覧下さい!!!

「オルタナティヴ・ダンシング」最終回

2008年03月26日 | ダンス
建築雑誌『10+1』にて、昨年夏から連載させてもらっていた「オルタナティヴ・ダンシング」が、今週中頃から発売の第50号で最終回を迎えます(タイトルは「「死体」について」。もちろん主たるモチーフは暗黒舞踏の土方巽の思考です。「踊りとは命掛けで突っ立った死体である」というあの一句)。本来はもう一回書く予定だったのですが、『10+1』が出資者側の意向できりのいい50号で終刊にしようということになったそうで、残念ですが、今号でぼくの連載も本雑誌自体も最後になります。「終刊」とか「休刊」とかというものにぼくはなんでか仲がよくて、はじめて雑誌に寄稿した『バレエ』は書いた号が終刊号だったし、先日ニブロール「ロミオORジュリエット」の前宣伝記事を書いた『トキオン』も、その号で終刊してしまった。雑誌というのは、どんどん新陳代謝するものと考えればいいのかもしれないですが、批評文を雑誌に寄稿したいと希望をもつぼくより若い人にとっては、なんかあまりいい気分にはならない話でしょう。こうなったら、自分自身で場所をつくるしかないじゃない、という気持ちが『ベクトルズ』や『Review House』(この雑誌の編集にぼくは関わっていないけれど、脇で見ていて)などをつくらせているのだと思うのだけれど、それにしても、あっさり終わってしまうものだなーと、悲しくなりますね(そうそう、昨日もあるパフォーミング・アーツ系の雑誌のことで同様の話を聞いたばかりだ)。

『10+1』はこの一年くらいの、ぼくの主たる寄稿対象だった。ラインナップしてみます。

「コレオグラフィとしての都市・東京」(No. 47)
「「タスク」について」(連載「オルタナティヴ・ダンシング 第1回」No. 48)
「「ゲーム」について」(連載「オルタナティヴ・ダンシング 第2回」No. 49)
「「死体」について」(連載「オルタナティヴ・ダンシング 第3回」No. 50)

『10+1』はいまどき珍しい、「批評」を掲載しようとしてきた雑誌です。だいたい、よく「ダンス」を中心とした批評文の連載などオファーしてきてくれたことと思う。今号含め、過去のナンバーも是非チェックしてみてください。

もっとも強力で深層にひそむ検閲は、自己検閲です

2008年03月25日 | Weblog
「人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。注意力の形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。検閲を警戒すること。しかし忘れないこと--社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、自己検閲です。」

「この社会では商業が支配的な活動に、金儲けが支配的な基準になっています。商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さなかたちではあれ、この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して拮抗する力になることができます。暴力を嫌悪すること。国家の虚飾と自己愛を嫌悪すること。」

『小説トリッパー』(SPRING 2008)では、高橋源一郎が「13日間で「名文」を書けるようになる方法」という連載をはじめている。その最初の方で高橋があげていたこのソンタグの文章がとてもとても素晴らしかった。死の10ヶ月前に書かれたこの文章(上記はその抜粋)は高橋曰く一種の遺言。




ところで、帰国後「ニューヨークどうでした?」といろいろなひとが聞いてくれる。けれど、正直恥ずかしくて、あまり上手く答えられない。何分、一週間しか居なかったのだから、「○□△だったよ、あそこは」的な知ったかぶりをするにはあまりにも短い。一年も二年も在住している/していたひとからすれば「戯れ言」と一蹴されかねないことしか言えないなーと思っていると、メールの返信は滞り、あるいは隣の質問者にもごもごと無言のまま動かす口ばかりをみせることになってしまう。大体、36年生きてて初NYというのが何とも恥ずかしい。この一年、多摩美術大学で現代美術を講義しておきながら、メトロポリタンもMOMAもWhitneyもGuggenheimもチェルシーも行ったことがなかったのだから。恥ずかしい。
けれども、どんどん記憶は曖昧になり薄れる。ぼくの心にインプレスされた何ごとかは、そのプレスの跡を次第に弱めてゆく。それはもったいない、ぼくとしては。で、備忘録的にここにメモのようなものを書いてみようかと思う。といった程度のものです、以下。あしからず。

・一週間過ごしたインウッド(Inwood)は、とても静かな(しかし、夜中の三時、四時でも、外では時折誰かの話し声や歌い声や喧騒が聞こえる)住宅街で、ぼくがAと借りたアパートメントの裏には、まさに「森」と呼んでもいいような木々の茂る丘があった。今回の旅は、ほとんどAが手配してくれて、このアパートメントへの宿泊というアイディアも彼女のものだった。彼女曰く、「みんなそうしているらしい」。四時半頃、ニューアークのリバティ空港に到着するとその足で、列車に乗り地下鉄に乗りかえて、6時半頃か、マンハッタン島の最北端に位置するインウッド、207st駅に着いたのだった。ぼくたちの住むことになる部屋のオーナーは、NGOOHと表記する人物で、どうこれを発音したら分からないのだけれど、それでもともかくNGOOHに電話を掛けなければならなかった。ホテルとは違って、アパートメントにはフロントはない、もちろんフロントマンもいない。部屋の鍵はこのオーナーと直接電話で話をしてかり出さなければならない。でも、公衆電話がどこにあるかもわからず、そもそもどうやって公衆電話をかければいいのか(25セント硬貨が必要だったけど、もちろん行き当たりばったりが得意な、いやどうもそうとしか生きることのできないぼくたちはそんなことも知らないし、持ち合わせもなかった)わからなかった。アパートメントの前で立ちつくしていると、玄関から誰かがひとり出てきた。多分、ゴミを出しに来たか何かで、とても身軽な格好をしていたヒスパニック系の女性で、恐る恐る事情を説明して、電話を掛けたい旨を伝えると、一階に住む女性にぼくらに電話を貸すよう促してくれた。彼らが最初にコンタクトしたニューヨーカーだったことは、この旅の方向を決めた気がする。親切なのかニューヨーカーは。あらわれたオーナーのNGOOHはアフリカ系のかわいい表情をした大男で、彼も非常にやさしい、安心感を人に与える人物だった。彼は10才くらいの娘を連れてきていた。とても聡明で陽気で愛嬌のある娘は、名前を聞くと「サロメ」と答えた。Aが後で教えてくれたのには、サロメちゃんの口癖は「and」で、つまり父親が部屋の説明をしている間、必ず説明の最後に自分で父の捕捉していたらしい。かわいい。こうした家族ぐるみの応対というところでは、ついついバリ島のロスメン(民宿)、行けば必ず泊まるユリアティ・ハウスのこととかを連想し、重ね合わせてしまう。そんな連想がわき、はじめての異国でちょっと安堵感が生まれた。
・インウッドでは、ほぼ毎朝、ランニングをしていた。2.5KMのときもあれば、7KM以上走ったときもあった。坂の多い街、朝の気温は零度くらい、それでも走るのは楽しかった。到着した翌日は、森に面した公園で走った。7時頃だったろうか。ipodではスティービー・ワンダーを聞いた。途中から女性ランナーが増えた。犬の散歩をする人がランナーの三倍くらい居た。5時くらいに走ったときもあった。24時間営業の雑貨店には、人が何人か居た。インウッドにはぼくの走って知った限り、いわゆるコンビニがなかった。チェーン店よりも個人経営の店が目立っていた。そこはサロン的な空間になっていた。その多くは、ヒスパニックの人たちがたむろする場所だった。
・店のことで言うと面白かったのは、金曜の夜だったか、マンハッタンの中心部から1時間弱地下鉄に乗り、遅く帰ると、床屋が繁盛していて、髪を切り終えた人も、あるいはただそこにいる人も含めごったがえしていた。にやにやと何やら楽しそうな景色。それに引き替え、小さな中華料理店はどこも閑散としていて寂しい感じだった。
・インウッドでは、モロッコ料理を食べた。ニューヨークでの食事はほぼどれもとても美味しかった。「不味い」と思ったものはなかった。意外だった。とくにパーク・テラス・ビストロという名のモロッコ料理店は、プライドのある店で(それは、ウェイトレスのてきぱきと丁寧な対応にもっともよくあらわれていた)、味もとてもよかった。アスパラガスの入ったリゾットが絶品だった。
・地下鉄は、危険ではなかった。いや、乗客全員で危険にならないように注意を払っている、という感じだった。寝ている人は居なかった。日本ではよくある、無防備に他人をじろじろ見ると言うこともここでは誰1人としてしていなかった。ただしそれは、他人を意識していないということではない。「ソーリー」「エクスキューズ・ミー」と頻繁に声を出し合うのは、もしそうしなかったら、途端に互いが互いに対して狼になってしまう人間の宿命をよくよく分かっているから、という気がした。乱暴な振る舞いをするサラリーマンなどの乗った日本の電車よりは、遙かにセーフティと思った。ただし、シートは硬く、クッションはなし。
(続)

3/22-23

2008年03月24日 | ダンス
3/22
早朝、呼びブザーで目覚める。しばらく事態が飲み込めなかったが、ああそうか、以前教えていた学生と約束していたんだと思い出しあわてて着替え、近くのスタバでちょっとだけ話す。いまから卒業式だと言うスーツ姿の彼は、いろいろ不安そうだけれど、ぼくもあの年齢の時はまったく「不安の塊」だったから、そういうものだよと言いながら、励ます。卒論をもらう。その最初の一枚には、ピカソの「アヴィニヨンの娘たち」が。

午後に、来年度からお世話になる大学でぼくと入れ替わりで退官される先生が以前から関わってきた市民運動のようなもののイベントに参上する。そこでも、お別れ会。退官される先生に30年後の自分の姿を思う、、、思おうとするが、いや、まったく思えない。イメージがわかない。ただ、先生のデリケートな身振りのいちいちが、これから自分が身につけねばならないもののように思える。憧れることしかできない。

夜、黒沢美香×野口実ダンスプロジェクト「牛」(@セッションハウス)を見る。
白い全身ストッキングを身につけた黒沢が、何度か異形のコスチューム(背中に銀のトゲが連なり、髪は剛毛な長髪、とかのし袋の帯のような形状の物体とか)へと着替えていく。激しい動きはほとんどなくて、衣裳の奇妙さとは裏腹に、静かな運動の印象を受ける。回る(体の角度を不意に変える)ところとか、妄想乙女な状態とか、黒沢公演でしか決してみることのできない、しかし何か本質的なダンス的状態と思えるポイントは幾つも見つかるのだけれど、見る自分の目が本当の意味で魅了されていない、引きつけられていないと感じる。ぼくの眼が節穴なのか?帰りながらふと思ったのは、腰に魅了されなかったということだった。黒沢の腰に引きつけられていた、これまでは。今日は、腕とか首とかの動きに意識が向かっても何かフックがなく、すっぽぬけ感が否めなかった。途中に本当に本当に絶妙なタイミングで舞台空間の余白に置かれた「ありがとう」という言葉(音声)、最後の梯子に登っていく場面は、印象的だったけれど、とくに梯子は見上げたとき頭上のスポットライトが眩しすぎてよく見えなかったので、またやってください、見せてください。


3/23
今日も午前中から学生に会う。というか、今度はこっちが会いに行った。多摩美の卒業式。22才くらいの才能は、ビビッドだけれど、それが30才くらいどうなっているのかの方がずっと重要。だけど、ともかく、いまの輝きを応援することも大事だろう、なんて思いつつ、お別れという儀式に翻弄される。昼、おだやかな風。オベント箱に詰めたAのお母さん特製ちらし寿司が思いがけず場にフィットする。

二時に新百合ヶ丘に戻り、ピナ・バウシュ(ヴッパタール舞踊団)「パレルモ・パレルモ」(@テアトロ ジーリオ ショウワ)を見た。1989年の作品。ブロックの壁が一瞬にして轟音と共に横倒しになり、そのがれきのなかでそとで舞台がはじまるという冒頭のシーンとか、複数回鳴らされたピストルの銃声(火薬の音)などが印象的だった、それと関連するだろう、100はあったかもしれないいつものショート・コントのなかに、高濃度で散りばめられた「死」のモチーフ(「自殺しようとビルの屋上にいる男を下の者たちは、「ジャンプ」とはやしたて、実際ジャンプした」話とか、「狐に自分の物語を語る間生かしておいてやるといわれて喋り続けるガチョウ」の話とか、例えば)が、この作品の特徴であろう、と思った。最初の方の印象的なシーンは、女が男を呼びつけて「テクイ・マイ・ハンド!」と叫び、男が女の手をつかむと女は男の手を引き剥がそうとし、「ハグ・ミー」と叫ぶと抱きつく男をはねつけようとするところ。これは後半でも反復されるのだけれど、男にしてみれば、ダブルバインドな状況で、女の一種のヒステリーがせり立ってくる。ピナ・バウシュを見るというのは、こうした両義的でどっちにも行き着かない行き着けない状況を見つめると言うことだったと、最近の作品ではやや薄まったこうしたテンションを確認するように見た。前半の終わり(全長は3時間)、アップテンポの曲をバックに、かなり即興的で爽快なダンスをどんどんダンサーが入れ替わりつつ踊られるところで、後ろでは瓦礫の舞台を整理して後半に向けてセッティングしているスタッフたちが労働している。なにやらこのコントラスト込みでぼくはこの時間が一番気に入った。労働の身体運動とその前で展開される遊戯的なお気楽な雰囲気のダンス的運動。このコントラストを「シリアス」と「戯れ」として見た場合、ピナ・バウシュのコントは、いつも「シリアス」な状況を十分意識させながら、それがひとつの答えではないように丸め込み=「戯れ」の次元をいつも開いている。例えば、5、6人の男たちが1人の女を追いかけているように見えるシーンは、戦禍の暴力を想起させる「シリアス」さを具備しているのだけれど、その直後に、男たちは軽々と女を抱えて女を空中へ飛び上がらせてやってる「戯れ」の次元へと向かう。これは、観客の解釈を一元化させず、そうすることで観客が考えることをやめさせないための方途だとぼくは(あるいは大方の人たちは)理解しているのだけれど、一方でその戯れの次元は、ピナ・バウシュが狙っていることとは正反対の事態を、つまり考えないことを可能にする装置としても機能してしまっている。つまり「ああ、あのシリアスな状況はただの遊びだったんだあ」と。そこに、その安堵に、いわば「オチ」を見つけて笑いを漏らす観客の雰囲気がなんとなくピナ・バウシュをショート・コント(お笑い)的な存在に仕立て上げているような気がして、それならば、それでもいいんだけれど、なんだかピナ・バウシュという存在が小さいもののように映ってしまう。いや、ピナ・バウシュは悪くない。彼女はどこまでもプレずに「死」のモチーフの周りにダンサーたちを引き留め続けようとしているのだから。相変わらず音楽がとてもよかった。


夜の7時半に、

「スリー・スペルズ」(ダミアン・ジャレ+シディ・ラルビ・シェルカウイ+アレクサンドラ・ジルベール+クリスチャン・フェネス)を見た。寓話的な要素が濃密なダンス公演。以前どなたかが、最近のヨーロッパの流行としてそうした「寓話(物語)」的要素というものがあると言っていたのだけれど、なるほどと思う。非常にシャープで、余計な(余計にダンス的な)ことはしないと決心しつつ、ダンス作品であろうと(純粋に運動する身体が媒体の芸術であろうと)しているところが印象に残った。寓話性は、白い毛皮(奇妙でイソギンチャク的な2つの口のついた)のなかにすっぽり身を隠していたり(「毛皮のヴィーナス」)、鹿の角を頭に付けていたり(「ヴェナリ」)、長いヴォリュームのある髪をつけていたり(「アレコ」)といったところから醸し出されてくるものとしてある。寓話性は、見る者個々人のファンタジーに訴えてくるところがあり、そういうファンタジーを喚起させる点で魅力的なものだなと思いながら見ていた。それと、ダンサーの体のあり方が面白かった。ぺらぺらな感じ、鍛えられているのに。アメコミとかファッション雑誌のような、キャッチーだけれど実体が希薄なゆえに「ペラ」い身体、というか。どのダンサーとも、バレエやモダンダンスに限らない多様なダンスの素養が体に浸透しているようなのだけれど、それをダイレクトに表にだすことはなく、むしろそうしてできた体を一種の柔軟なメディア(変幻する楽器)にして、遊ぶ、ということが達成されていた、と思った。衣裳を介した異形性と素のダンサーの身体がもっている質とが等価にユニークだった。


来年度、大学のゼミで「クロスジャンルで雑誌をともかく読みまくる」というのをやろうと思っていて(『新潮』から『CanCam』まで)、そのウォーミングアップのつもりで、文芸雑誌など大量に購入。暇があると読むようにする。

ホイットニー・ビエンナーレのパフォーマンス系アーティストたち

2008年03月22日 | 美術
GANG GANG DANCE
Rita Riddim excerpt
GANG GANG DANCE

LUCKY DRAGONS (Luke Fischbeck)
lucky dragons
Lucky Dragons at Cinder Gallery
Lucky Dragons using touchers

KEMBRA PFAHLER
KEMBRA PFAHLER IN CONCERT

MARINA ROSENFELD
Sheer Frost Orchestra

Mika Rottenberg
Mika Rottenberg, Dough, 2005
2008 WHITNEY BIENNIAL The Camera is Off Part IV

DJ OLIVE
Sex Mob w/ DJ Olive - Martin Denny

NY

2008年03月21日 | Weblog
3/12-20とニューヨークに旅行に行ってきました。マンハッタン島の北端に位置するインウッド(Inwood)というその名の通り森に囲まれた静かな街にアパートを借りて、そこから1時間弱地下鉄に揺られて毎日、美術館、ギャラリー、ダンス公演、ミュージカルなどを見た。ともかく、毎日10kmは歩き回った。一週間乗り放題24ドルというメトロカードを使って(安い!)、地下鉄で最寄りまで行くとそこから歩いて歩いてひたすら歩く。

◎メトロポリタン美術館
「プッサンと自然」
「ギュスターヴ・クールベ展」
「ジャスパー・ジョーンズ グレイ展」


◎グッゲンハイム美術館
「CAI GUO-QUANG I WANT TO BELIEVE」

◎ニューヨーク近代美術館(MOMA)
Color Chart: Reinventing Color, 1950 to Today
Design and the Elastic Mind

◎ホイットニー美術館
WHITNEY BIENNIAL 2008

◎その他チェルシー地区とソーホー地区のギャラリー(例えば、、、)
Michel Gondry Be Kind Rewind

◎ダンス
Paul TaylorThe Dream Season
Hunter College"Sharing The Legacy" Concert

◎ジャズはのんきな店に行った
Garage


帰国後、いつも聞いているストリームをチェック。これは聞くべきでしょう。NYに居て日本のノンポリ(非政治)性についてずっと考えていた。

3/9-10

2008年03月11日 | Weblog
3/9
自宅に振付家・ダンサーの神村恵さんをお招きして、拙ブログに載せてきた『ジャドソン・ダンス・シアター』の研究ノートをさかなに、『Review House 01』編集長の伊藤亜紗とぼくとを話し相手におしゃべりをしていただきました。神村さんとジャドソン系ダンスとの重なる点、異なる点がかなりクリアになった気がします。3月中くらいには、三人の会話の模様(音声データ)を公開したいと考えています。

3/10
『CINRA』から取材を受ける。「批評」について話をした。そこで「踊りに行くぜ!」の話題が出て来た。話し相手の女性(大学生)は、KIKIKIKIKIKIの「サカリバ007」は、「ひなぎく」がモチーフなのではないかと解釈をしていて、ああいう部屋をひっちゃかめっちゃかにしたい欲求というのは理解出来るし、友達といつか旅行の際にでも「ひなぎく」ごっこをしたいとの意見を聞かせてくれた。そうした共感は、いまの(もう若者とは言えない、いっても誰も認めてくれない)ぼくにはできないので、興味深く、参考になった(ちなみに、この意見にぼくは「ひなぎくごっこ」はひとまえじゃなく家でやればいいじゃん?と返答した)。当たり前といえば当たり前だけど、ぼくが感じることには、限界がある。作品の受け取り方に、唯一の正解があるわけじゃない。だからといって、人の感想がぼくの感想を無効にすると考えるのも極端だろう、ぼくはぼくの視点でしかものを見られない、ともかくも。



3/12-20の間は、Aともども日本にいません。メールも見られないと思います。諸々ごめいわくをおかけしますがよろしくお願いします。

3/4-8

2008年03月09日 | 演劇
3/4
『ベクトルズ2』(仮)へ向けたミーティング。ベクトルズは(批評の)バンド。

3/5
古巣の研究室で祝ってもらう。

3/6
髪を切る。下北沢のプレゼンスという店に行っていたのだけれど、いつも切ってくれた若い男の子が、ヘアメイク・アーティストを目指し独立するという話を聞かせてくれた。インディペンデントで、貸し美容室を借りて今後切ってくれるそう。その後、立川で沢山のサインをし沢山のはんこを押す。

3/7
昼間、所用で役所巡り、都庁とかも(なぜあんなに立派な建物を造ったのか何度行ってもよく分からない)。その後、中野のタコシェに行く。『Review House 01』発見(平積みであと4,5冊になっていた)。『奇刊クリルタイ2.0』『コルプス 三号』『PLANETS』などを購入。六本木は、雨、ヒルズのエストネーションで「4:33」と宮島達男みたいな文字をソル・ルウィット的に並べたTシャツがあり、面白そうだと手にしてみたが18000円。買えるわきゃない。
チェルフィッチュ「フリータイム」を見る(@スーパーデラックス)。

3/8
JCDN「踊りに行くぜ!」を見る(@アサヒアートスクエア)。
KENTARO!「東京で会いましょう」
KIKIKIKIKIKI「サカリバ007」
プロジェクト大山「てまえ悶絶~3000円くらいの自己肯定~」
白舞寺「過火Crossing Fire」
今回出演された方たちが「コンテンポラリー・ダンス」の代表者なのならば、ぼくは「コンテンポラリー・ダンス」はあまり好きではない、ということを確認しました。恥ずかしくて、どうしても頭が垂れてしまいました(白舞寺の前半は、執拗な反復がダンス的な快楽にふれていた、けど)。総称としての「コンテンポラリー・ダンス(日本)」とは「ちょっと」ふざけてて「ちょっと」まじめで「ちょっと」かなしくて「ちょっと」くるしい、、、みたいな「ちょっと」感が構成するもののように見えて、それとぼくの好きなダンスとは、クリスチャン・ラッセンとピカソ(でもなんでもいいんですが)くらい違うのではないか、などと、、、きっとぼくじゃないしかるべき書き手がその価値を語ってくれることでしょう。それは読んでみたい。

五反田団「偉大なる生活の冒険」を見る(@駒場アゴラ劇場)。
その後、知人とミーティングす。

「ものは感じる」 オルデンバーグ

2008年03月04日 | 美術
オルデンバーグって、とても気になる作家である。50年代末から60年代にかけて主要な仕事をしたひとで、ポップアートの1人とみなされることもあるけれど、決してそこにはおさまらない個性がある。いま一番、日本で個展が見たい作家です、ぼくとしては(受けると思うんだけどな)!

左(上)の写真みたいに、彼の作る作品で有名なのは、ソフトスカルプチャーというやつで、固いものをすべて化学的な柔らかい素材で作ってしまう(柔らかいものは固い素材で作って、ペンキでドロドロに塗りたくったりする)。あと、もとの寸法を逸脱して、巨大にしたりするのも、彼の得意技。この「くたっ」とダメな感じ、へたってて、見る者を脱力させる感じが、前から好きで(写真の歯磨きチューブ、これとかもいいでしょ)、でも、どうして好きなのかが自分でいまいちよく分からなかった。対象となるのはたいていが日用品で、でも、巨大でソフトになるだけでそうとう非日常的になる。なんか反転したマグリットみたいなシュルレアルなところがある(イリュージョンにイリュージョンを重ねて現実の非現実を生むマグリットと違って、オルデンバーグのは、日常の模作を日常に置いて非現実を生む)。でも、昨日『クレア・オルデンバーグ:アンソロジー』というすっごいぶ厚い本をめくっている内に、なんかちょっと分かってきた気がした。

簡単に言うと、人間の格好をしているわけじゃないのに、こうした彫刻に、見る者は「人間」を見てしまう。へたった鈍いおじさんみたいな風貌を感じたりする。
そうした人間を読み込んじゃう面白さがまずあると思う。しかも、萎縮したペニス?みたいな独特のセクシュアリティさえ、そこにはある。

例えば、Germano Celantというひとは「クレア・オルデンバーグと諸物の感情」という文章で、そうした、見る者が「もの」に意識をよみこんでしまうオルデンバーグの作風に注目している。ものが人間のように感じる(とつい考えてしまう)と言うことと、人間が「感じるもの」として人間的な内実からかけ離れた存在になることとを、オルデンバーグを見る者は、行ったり来たりして、するとどんどん、ものも人間もあまり区別のないもの、どちらも等しく「感じるもの」になってくる。オルデンバーグの面白さ、へたりの効果とは、そうした「ものが感じる」という次元へと見る者を導くことで、ひともまた「感じるもの」でしかないことを、そしてそう考えれば両者は等価であることを告げ知らせてくることにある。しかも、彼の場合、そうしたことがコンセプトとしてトップ・ダウン式に届くのではなく、むしろオブジェに視覚的にふれることからそれが感じられてくると言う点を、評価しないではいられない。

そして、そうした身体性へとアクセスする点で、オルデンバーグの作品は、ポップアートのひとたちの絵画や彫刻作品とは一線を画するのだろうし、またそれを絵画や彫刻という舞台を基本に(彼はそうした下地をもちつつ、パフォーマンス・イベントも多数行っていた)考察している点で、同時代のパフォーマンス・アーティストたちとも異なる力を感じさせるのだろう。ジャドソン・ダンス・シアターにちょっと先行し、同時代の感性を共有した、非人間的な人間のかたちを浮き彫りにするオルデンバーグ、とても今日的な作家と、ぼくは感じる。

「ものは感じる。これは、クレア・オルデンバーグがモダン・アートを先導してきた偉大な発見である。オルデンバーグは自分の彫刻のなかで、人間的な感情とものの物理的な特性とを連合させつつ、有機的なものと非有機的なものとを織り合わせる。これらの新しい、感じるものたちは、アートとして提示され、私たちはそれらを、もはや超然としたものや非人間的なものとして理解することはできない。むしろ、それらのものたちには、官能性や性欲が染みこまされており、それだから、ひとは「もののもつ性欲について話し」をすることができるのである。

 1960年代のパフォーマンスや彫刻に類するものへと広がったオルデンバーグの関心領域において、ものは人間の身体に取って代わるものだった。ものは心の動揺や情念をあわせもっていて、誇張した態度をみせたり、落ち着きがなかったり、せり上がったり、気分が高揚したり落ち込んだりする。同様に、人間は感じるものへと変形させられるのである。こうした滑稽な状態--人間がものへと還元される一方で、ものが人間のようにドキドキするといった状態--は、オルデンバーグの見解や活動の最重要点である。つまり、生命がもののなかで失効されてしまう一方で、ものに生命が与えられるのである。

 こうして、オルデンバーグは、美術史のなかで無限に繰り返されてきたひととものとの間の対面状況をあからさまに示し、そして解決する。ものとその制作者との間の関係は、つねに垂直的であり続けてきた。つまり、芸術家は上から作品を見おろしている。たいていの場合、隠喩的にそうであり、またジャクソン・ポロックと彼のドリップ・ペインティングの場合には文字通りそうであった。(ジャンバティスタ・ティエポロや彼の天井フレスコ画のように、あるいはアレクサンダー・カルダーと彼のモビールのように、時折、この視点は反転されてきた。)オルデンバーグに関しては、ものはもはや私たちの下にも上にもない、私たちの隣にある。そう、ものはそれ自身の生命をもつのである。

「生命と運動を愛しながら、私はつねに運動を見てきた、生命のないもののなかにさえ。私はただ、世話を焼くことの不可能な生命を創造したかった。その結果が、滑稽であろうと、アイロニックであろうと、バカげていようと、私の作品の素材にある生命のイリュージョンなのである。それは運動を止められ、あるいは運動の反対物となる。
 これは、私の素材が生き物、人造人間people fexであるときに起こる。
 空間のなかで凍りつくことは、無論、他ならぬ[私の]アートの特徴であり、私の方法である。」(オルデンバーグ)」(Germano Celant, Cleas Oldenburg and the Feeling of Things in Cleas Oldenburg: An Anthology, New York, 1995, p. 13)