Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

雑記

2010年10月31日 | Weblog
最近のことを書きます。

□先週の日曜日と月曜日(10/24-25)に、金沢に行ってきた。学会などの機会に何度か行ったことがあったけれど、金沢21世紀美術館が出来てからは行くことがなかった。と、ということは、実ははじめて行きました、この美術館。今回の目的は、フィシュリ&ヴァイス展にかこつけてこの美術館を見に行くことと、育児ストレスを抱えているだろう(なんて本人は一切言わないのだけれど)妻の慰労をかねての1泊旅行。フィシュリ&ヴァイスについては、もう少ししたらartscapeにレビューを書いたので、そちらを参照していただきたい。それにしても、金沢21世紀美術館、お客さん入っていたなー。これは、すべての現代美術系の美術館は嫉妬しているのだろうなー。午前10時、まだ開館したばかりの時間に行ってみると(四時起きで、羽田発7:20の飛行機で行きました、ねむねむ)、すでにレストランは満杯、ひっきりなしにバスから観光客が団体様ご一行で降りてくる。「現代美術で街を活性化!」の最良の例なんですね、ここは。普通考えると明らかに「???」なゲンダイビジュツ。それが集客を誘う人気者になっている理由は、「現代美術の美学化」にあると思いました。まあ、難しいことはおいといて、「かわいいー」「きれー」といってそれで完結しうる作品を上手く選定して、上手く展示してあるのだ。いわば「美学の回帰」が、いま起きているわけですね、こういうところで。ある意味で、フィシュリ&ヴァイスもそんな受け止め方が出来るように展示してありました。

□金沢の目的の裏第1位は、「のどぐろ」を食べること。頑張って、「料亭」なるところに行ってみようということになって、泊まった片町のAPA HOTELから歩いて5分の、なんていったけな、ああ、勝一、ここに行ってみました。おいしかったけれど、赤ん坊がいるので、座敷でのんびり食べていると、カウンターでは、店主とお客二人がなんというか、マッチョな政治話に花を咲かせていて、なんとなく耳に入ってくるたびにお酒がまずくなり、どんどん酒が進んでしまった。金沢は文化的な街なのだ、とかつてそんなことを聞かされたのを思い出した。いやいや、それにしても、金沢は上品な文化の街だと思った。堅町というエリアの通りは、2泊目の早朝に散歩したのだけれど、とても洗練されていて、雰囲気は裏原宿に似ているのだけれど、ずっとおしゃれで、東京のごみごみした感じがない。なんだかそう思うと、男の子も女の子もとてもおしゃれだ。女子高生のローソックス人気は、なんとなく理解しがたかったけれど(大抵の女子は健康的に日焼けしている)。散歩の後、2日目は、白川郷へ。とてもよく整備された「日本の田舎」のテーマパーク。リアルだけどなんだかヴァーチャル。少なくとも、昔の日本人はみんなこういうところで暮らしていたんだ、なんて思っちゃいけない、これは宿場町としてまた養蚕などで成功した裕福な町の一例。

□そうそう、ひとつ考えてしまったことがあったのでした。ひがし茶屋街というエリアで、とても綺麗な町並みにあるカフェにいたときに、背の高い女装の男性と会いました。畳敷きの部屋とその並びにいろりのある木の床の部屋があり、ぼくらは畳、彼はひとり木の床で二組、同じ時間を過ごしていました。その後も、通りで彼とすれ違ったりしたんでけすが、彼の衣装が女装であったことは個人の趣味の範囲として別段問題にするつもりはないのですけれど、その衣装がミニスカートで時折パンチラしていたんです。ポリティカル・コレクトネス的には、彼の異性装に寛容であるべきだと思うのですけれど、エステティック・コレクトネス(なんて言葉はないですけれど)からすれば、ちょっと参る、やめて欲しいと思ってしまったのです。個人の生き方に対して社会が寛容である必要はあるけれど、社会が見たくない気持ちに対して個人はまた寛容であるべきではないか、なんてこと思ったのです。(ぼくはパンチラまで寛容であるべきなのか、と悩んだのです)









untitled

2010年10月17日 | I日記
岩渕貞太ソロ・パフォーマンス「untitled」を昨日見た(10/16@STスポット)。

ぼくは岩渕作品を正確に語る言葉をもっていない。

見ていながら自分がうまく目の前の光景とつきあえていないと思い、その気持ちのまま終演してしまった。以前もそういう感じがあった。

ぼくだけがそうだったらいいのだが。
「岩渕言語」が理解できる者にはちゃんと理解できるのならばいいのだが。

ダンスを見ていると、ときどき、はじめて接する外国語を聞いているような気持ちにさせられることがある。意味が分からない。けれども、見ている側はどうにか接点を求めようとして、この響きはなんだか好きだなとか、迫力のある声だとかみたいにして、分からないなりに理解可能な何かに変換できるところを探して、楽しみを見つける。それで作品に接したことになるのか分からないけれど、自分としてはこの印象を持って帰ろう、そうするしかない、という曖昧な思いで帰路につく。ダンス作品を見るたび、ぼくはこんなことばかりこのブログに書いてきたのかもしれない。ダンスの公演に少ないながらもそれなりの人数の観客が足を運んでいる、現状そうである限り、ぼくこそが少数派なのだ、と最近は思うようにしている。ぼくのダンス公演とのつきあいは、以前ほど「まんべんなく」という感じではなく「ぽつぽつ」になってきている。

いや、大谷さんの音楽はなかなか素晴らしかったと思うし、岩渕くんの鍛え上げられた肉体、端整な顔立ち、眼の美しさ純粋さ、奇妙な衣装、シルバーに統一された空間などひきつけられるところはいくつかあった、ダンスでもこんがらがった紐がほどけるような解放感を感じさせる瞬間などは見所だった。強く激しく真っ直ぐな岩渕の肉体は、それ自体面白いとも言える。

でもぼくにはなにをしているのかがよく分からない。ほとんど恥ずかしい気持ちで正直に言うのだが、よく分からないのだ。ダンサーだったら、なにに立ち向かっているのか(そこで試みられている課題はなになのか)分かるのだろうか。

ぼくと大谷さんはある時期よく「記録された身体」というテーマについて、もっと振付家の試みがあったらいいのに、と話していた。もちろん、それはいまでも思っている。20世紀の芸術が試みたある種共通のテーマだった。ダンスにおいてそれがどう試みられるべきかという課題は、自分でもよく考えるし、そうした課題に関わる作品があれば見たいと思っている。

端的に言えば、いまぼくは「未知のもの」へ向かう表現よりも「既知のもの」を利用した表現に興味がある。「未知のもの」へ向かう探究というのは、どんどん難解になっていく傾向がある。その難解さに意味があるのか、そこで生じているものが過渡的であるならば、いずれそれがするりと分かりやすいものへと変化し、なるほどそういうことだったのね、となるかもしれない。だといいけれど、難解さそれ自体に意味はない。しばしば難解さは「難解だなこりゃ」というある種の不快感を観客に催させる信号としてしか機能しない。

大谷さんの音楽などそういう意味ではきわめて分かりやすかった。例えば冒頭のノイズ。「鉢に球を入れて回し、ごりごりと音を立てている」なんて状況ははっきり分かるし、その音は、聴く者の記憶のあれこれを引き出し、そうして観客の関係をつくりだしていた。具体音を重ねつつも、構造が読みとれ、リズムも感じられ、素材の割にポップとさえいえるものだった。

けれども、ここまで書いてきて、ああそうかと思うのは、岩渕くんはきっと、そうした観客との関係にはあまり興味がないのかもしれないということで、彼の目指していることを昨日の感想をもとに仮に言ってみるなら「奇妙な踊る彫刻になること」なのではないか。この世の中にあって徹底的に浮いた存在としての奇妙な、踊っている彫刻。そうした彫刻を彫り上げる目標の最中にあって、ぼくの考えていることなんていうのは不純なアイディアに過ぎないのかもしれない。

仮にそうだとすれば、室伏鴻もそんなことを考えているダンサーかもしれない。室伏だったら、独特な奇声を伴う呼吸音や不意打ちのリズムをつくるだろうところで、岩渕は淡々とある一定のテンポで動き続けるのだなと思ったところがあった。その一定のテンポが気になった。観客をダイナミックに自分の世界に引き寄せるのではないやり方をあえてとっているのだとすれば、、、そうしたポイントから、岩渕のダンスとぼくは接点をもつことができるのかもしれない。

Corinne Baily Rae

2010年10月10日 | I日記
昨日は、久しぶりに林さんとお話しをして、もちろん研究者として素晴らしい人物でいらっしゃるのはそうなんだけれど、ポップスにも詳しくて、レミオロメンの「粉雪」は構成が不思議でいいとか、いきものがかりは最初よかったとか、そんな話題が出てきて驚かされたのだった。で、とくに共感したのは、コリーヌ・ベイリー・レイいいよねという話で、ぼくはたまたま数ヶ月前にラジオでこの曲を聴いて、「すごい」と思ったのがはじまりだった(横山剣が紹介していた)。この曲もとてもいい。

Like a Star

大学の学生の何人かはこのブログを読んでくれているらしいのですが、ときどきはそんな読み手に向けて、どうですか?


I日記
先週の日曜日は、府中市美術館にて行われた快快のパフォーマンスに、Iとぼくとで車で出かけた。はじめての男二人旅(大袈裟?)。片道三十分くらいのドライブの後半は、行きも帰りもIはぐしょ泣きでになってしまいかわいそうだったけれど、いろいろなところにでかけた方がいいので、その点ではよかったかも。快快のパフォーマンスは、小沢剛のワークショップの一環で行われたもので、小沢が小さなスペースの壁にものを並べ、その壁に縦長のカラフルなバーが横に流れてゆく。快快メンバーは、バーがものの上に来るとそのものの色とかものの名前とかを声に出す。そんなアイディアを中心に構成された小品で、何人かのメンバーがその声を出すプレイヤーになって行われた。目に見えるものの名をひたすら口にするなんてのは、篠田の「アントン、猫、クリ」で見られたアイディアに通じていて、ちょっと面白い。ただ、「アントン」はあらかじめ脚本にあった「雨、雨、雨、雨」なんてセリフを口にするものだったけれど、今回のは、即興的に、バーとものが重なった瞬間に声が出るといったものだった。「シンプルな名詞の連呼ってそれだけでちょっと面白いけど、なぜ?」って思った。KATメンバーも3人見に来ていて、しばらくおしゃべり。イクメンな姿を見られてしまった。




「大丈夫」と現代日本のポップス

2010年10月10日 | Weblog
昨日の上智大のワークショップで伊藤が「ヒルクライム問題」「レミオロメン問題」と口にしましたが、このテーマはぼくも気になっていて、今年の頭に出産後産婦人科を毎日通っていたとき、J-WAVEであまりに頻繁にレミオロメンの「花鳥風月」がかかるので、そしてその歌詞があまりに貧しいので、二人で「問題」と呼んで笑っていたのに端を発するものです。

それ以来ずっとになっていた「問題」ですが、あらためて考えてみようかなと思って、いまヒルクライムの「大丈夫」の歌詞ってどんなだったっけと調べていると、歌詞の情報の脇に「大丈夫」というタイトルの別の歌手、別の曲のリストが出てきて、こんなに多いのかと驚きました。夏川りみ、古内東子、斉藤和義、ウルフルズ、たむらぱん、その他にも何曲かある。さらに、You Tubeで「大丈夫」と検索してみるとあるある。(「大丈夫だよ」というタイトルの曲もたくさんある)

気になる点は二つで、
ひとつは、描写が貧しくなる傾向と貧しいことの効果
ひとつは、三人称から一人称/二人称で語りかける「大丈夫」へ
ということ。

描写が貧しくなるといわゆる芸術性(作家の技量の呈示)は低下する。また、表現の個性が減少する(表現が陳腐化する)。その一方で、それは敷居が低くなりまたある特定の状況が歌われるという限定性が減るから聴き手がアクセスしやすくなり、また聴き手の勝手な解釈が可能になる。

それはまた、曲中で展開される物語を聴くという傾向が減る分、聴き手各人が求める欲求に応えやすくなっているということでもある。音楽のドラッグ化なんて話がここにある。

そして、それはまた、物語をある情景の描写を通して堪能させるのではなく、むしろ聴き手を登場人物の一人にして--聴き手を「あなた」と呼びかけて--送り手と受け手のダイレクトなコンタクトを生むことを目指すということにもつながってゆく。

じっくり考えてみたいテーマ。でも、正直、そんな暇はない。誰かやってくれないだろうか。ゼミの学生でもいいんだけど。

それにしても、聴き手(歌詞のなかの「君」)に「大丈夫」と語りかける歌い手は、一体どんな存在なんだろう。なんで「大丈夫」なんて言えるんだろう、ちょっと尊大すぎやしないか。普通、そんな批判なり警戒なりが起こると思うのだけれど、それどころじゃなく、ともかく誰かに「大丈夫」といって欲しいのがいまのこの世ということなのだろうか。だとすると、宗教の時代あるいは絶対者を希求する時代ということ、なの、か。

ヒルクライム「大丈夫」

「俺が大丈夫っていえば、きみはきっと大丈夫で」「そして世界は君に告げる/「あなたはきっと大丈夫」って/心を開いた君に世界中が愛をくれる」

FUNKY MONKY BABYS「大丈夫だよ」

「君が今 夢を目の前に立ち尽くしていても/大丈夫 大丈夫 みんなが君の努力を分かってるから/今日はゆっくり休んで 明日頑張りなよ/大丈夫 大丈夫 明日がやさしく君を迎えてくれるから」


ところで、こういう批評っていまとても少ないと思うんだけれど、ぼくの勉強不足でしょうか。音楽批評って、自分たちの好きな音楽を理屈でを作って好きだというものになっていませんか?時代が要請する問題を設定するというよりは、自分の属する趣味の共同体の枠のなかで言葉を生成している気がして、ぼくは行かないつもりなのですが、明日のエクス・ポナイトではそうした点は話題にならないのでしょうか。

梅津×森

2010年10月10日 | 美術
アラタニウラノで10/16まで行われている梅津庸一と森千裕の展覧会を見てきた。タイトルは「cosmetic girl and tired boy」。

狭くてワンルームみたいな空間。壁面がレモン色に塗られている。同じ色のカラーボックスがぽつんと置いてあったり、ピンクのスリッパが何足も連ねられて円になっているのが床にあったり、彼らの部屋に訪問したかのよう。梅津の油絵は、点描を効果的に用いる。点たちは絵画空間をときにノイジーに、ときに柔らかく暖かさや湿度の伴ったものにしている。街中の植栽、バスマットに触れた片足、ぽつんと一個ポンデリング、ふいにフォーカスしてしまった「なんてことのないけれどもなんだか気になってしまった対象」が一枚一枚の絵のなかで見つめられている。ドローイングもあった。もじゃもじゃと線は毛というか陰毛というか、独特のうざったくもひきつけられる感触があって、ちよっと面白かった。森千裕は「瞬間」を描く。「あっ」とか「ギャッ」とか、聞こえてきそうな、なんてことないけど平衡感覚がさっと奪われた瞬間。その運動感が画布に凝固している。ふざけているようで、そんな感覚あるある、分かる分かると納得させられる、そんな瞬間を拾ってくる器用さが、一見ラフで不器用に見えるドローイングに透けている。

と、とても個性的で魅力ある二人の展示だったのだけれど、その個性や魅力がややもすれば「そういうのが好きなひとの趣味」という話で完結してしまうような気がして、いや、完結できる魅力があるならばそれで十分ともいえなくもないのだけれど、それだけに、なんとなく「停滞」として感じられなくもないところが気になった。

その最たる部分が「彼らの部屋に訪問したかの」という印象だったように思う。二人はまるで「無防備にも自分の部屋を鍵なしで開放してありますので勝手に見て下さい」みたいに展示している。その無防備さは「わたしは裸で寝ていますので、どうぞご自由に」と言われているようでもあり、見ている側としては、「裸で寝ていられても、、、ちょっと困るな」なんて思うところが出てくる。見る者に対して無防備で、率直で、おそれがない、ということは、見る者を自由にするというより、むしろ無防備なひとを前にどうすればいいと緊張を強いるところがある。友だちの家は、必ずしもコージーとは限らない、という感じ?緊張を強いるという束縛性がなんらか意図的なものであったらいいと思う。けれど、そこはやや曖昧だと思った。

「マイクロポップ」な作家が、日常というか、プライベートというか、身の回りを出発点にしているとすれば、その振る舞いがどういった展開を今後見せうるのかといった興味は、おそらく多くのひとがもっていることと思う。その点で、泉の最近の傾向に注目している。ぼくは来月行われる「こねる」展のカタログに泉=野生の小動物と書き、彼の展示の仕方を「巣」と捉えてみたのだけれど、泉の「巣」=展示空間(とくに「こねる」展で示される最新の泉の展示)が「友だちの部屋」とどう違うのか、なんてことが気になるのだ。

その後、上智大学で林道郎、鈴木雅雄、近藤学さんと妻が行ったワークショップへ。「関係の美学」の問題圏が話題に。なんでもつながってしまうのがよかれ悪しかれ現代的な状況だ、という認識から出発すること。ちょうどぼくが8月に「美術手帖」に書いた、遠藤一郎や快快について「彼らの活動には外部が設定されていない」と考えていることと関連しているな、と思った。