Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

シグルイ

2005年12月14日 | Weblog
先日、観客論についてのひとつの視点を書いてみました。読んだ方々、とくにダンスについて興味のある方の感想が聞きたいものです。もし良ければ、教えて下さい。このことについては、さらに続編をここに書いていきたいと思いますし、多分いずれ、どこかの紙媒体にのせることになるでしょう、というかのせたい(掲載して下さる雑誌ありませんかね、どこか声を掛けて下されば。でも、まだまだ考えるべきコトはあるでしょう、ね)。

トラックバックしてくれたsocksさん、感謝です。今度、プロレスのこと教えて貰いたいです。今後ともよろしくです。


話は変わって、昨日の夜、スタン・ゲッツの『Stan Getz and the Cool Sounds』と山口貴由『シグルイ』第五巻がアマゾンから届きました。『シグルイ』!これは、ひとつの皮膚論だ!と熱く説きたくなる。狂気とエロとスピードと力と残酷と絶望とが享楽となって押し寄せる。実に、じわじわと、終末が迫ってくる。ああ、あっという間に読んでしまった、次巻は?あと半年後かよ!

マトリックスを考えてみた

2005年12月12日 | Weblog
昨日の観客論の続き、
仮のマトリックスを考えてみた(何とも汚い手書きのチャートですが、右参照)。

ひとつの軸は芸術主義(技術主義)-観客主義(1)
ひとつの軸はダンシー-非ダンシー(2)

(1)芸術主義(技術主義)は、ダンスを芸術として強く規定しようとする傾向(表現主義のダンスとカニングハムの形式主義、コンセプト主義を念頭に置いている)とダンスを技術のレヴェルで捉えようとする傾向(バレエ、ストリート系のダンスも)を指すものとする。反対の観客主義は、ダンスを芸術としてよりもエンタメ(あるいは芸能)として捉える傾向、あるいは自らのダンスの内に観客との関係を反省する契機をもつものを指す。両者の中間には、従って、芸術(技術)としてもエンタメとしても不十分なものと、その逆で両者を巧みに総合させているものとが位置づけられる。
さらにこの軸は、ダンサー(振付家)側の論点として見るべきかも知れない。

(2)ダンシーは、単に「ダンスっぽい動き(一般的にダンスと呼んでいるものを想起させる動き)」ではなく、見る側をのせる、震わせる、驚かせる動きの魅力を指す(音楽で言えば、グルーヴ、ビート、スイングなどの概念がそれにあたる)。美学史上、「優美grace」という概念は、こうした動きの美の一端を説明してきたと考えられる。それは総じて、規則とともにありながら同時に規則から自由な動きを指してきた(もちろん、暗黒舞踏のダンシーを考える際には、優美では限界があるに違いない)。非ダンシーはこういった側面を欠いた動き、規則の履行にただ邁進する動き、動きの上で魅力を感じることのない動きを指す。
さらにこの軸は、観客側の論点として見るべきかも知れない。

こう仮にマトリックスを設定してみると、以下のような類別を考えることが可能になる。
(A)技術的ないし芸術的に見えるダンス、でもダンシーに見えないもの
→芸術的-非ダンシー ex.モダンダンス、形式主義ないしコンセプト主義ダンス(カニングハムを除く)、技術的-非ダンシーex.バレエ
(B)観客を魅了する楽しい時間を提供しているかに見えるダンス、でもダンシーが欠けていると思われるもの
→ex.コンドルズ(近藤良平を除く)、よさこい、エイサー
(C)観客のことはほとんど無視しているけれども、実にダンシーに見えるもの
→ex.フォーサイス(フランクフルト・バレエ団)、カニングハム本人
(D)技術(芸術)的にも説得力はありながらさらに観客に対するなんらかのアプローチを含んでいてしかも(いや、ゆえに)ダンシーであるもの
→ex.室伏鴻(暗黒舞踏)、黒沢美香、セヴィヨン・グローバー(タップ)、フレッド・アステア
(E)観客をわかせるエンタメでありながらダンシーにも見え、しかし技術(芸術)の要素はないように(希薄に)見えるもの。
→ex.お笑い(アンガールズ、南海キャンディーズのしずちゃん)、ピナ・バウシュ(ブッパタール舞踊団)

もちろん、この例示には多数の例外がありうる。モダンダンスやバレエでもダンシーだと思わせる瞬間はあるだろうし、室伏鴻のすべての公演がつねに(D)の位置を占めるに足るものであるとは、言い切れない。

ぼくがこのマトリックスで最も指摘したいひとつの点は、芸術(技術)主義に観客主義を対置する必要があるだろうということである。観客論に対する顧慮を促したいという気持ちがある。その上で、ダンシー/非ダンシーを考えること。ぼくのいま現在の考えとしては、ダンシー/非ダンシーの軸への問は(1)の軸を通してはじめて意義あるものになる。

そしていまひとつの点は、このマトリックスで最もよいダンスと考えられるのが、(D)に位置づけられるものだということ。ダンスというのは、(D)でなきゃだめだろ、というのがぼくのテーゼであり、ここにダンスを認めた上で、それがいかにして可能なのか分析することを、ダンス美学の研究とみなそうと思っている。いまのところ例としてはいわゆる日本のコンテンポラリーダンスシーンで活躍する黒沢美香、室伏鴻の名を挙げているが、彼らのダンスを分析することで、この芸術(技術)主義的で観客主義的でもありながらダンシーである(D)が、どういう論理のもとでそれを可能にしているのかについて理解を得られると、ぼくは思っている。また、コンテンポラリーダンス以外でセヴィヨン・グローバーを挙げてみた。『ノイズ&ファンク』をみただけであるが、彼のような角度からのアプローチも(D)の内実を理解する上で無視することは出来ないと思う。いうまでもなく、黒沢と室伏のアプローチはまったく異なる、それぞれが実にオリジナリティに溢れた方法を持っている。それはアステア、グローバーしかり。ぼくがしたいのは分類=mappingではない、このマトリックスを通してダンスの諸要素を整理すること、重要なポイントを絞っていくこと、そこでのさまざまなトライアルを分析出来るようにすること、である。

ダンスの観客論

2005年12月11日 | Weblog
つい三時間前からYahooで「観客論」と入れ、検索してみている。
驚いた。
観客論と言えば、どのジャンルが最もヒットするか、演劇?ダンス?パフォーマンス・アート?いやいやまずは、

プロレス、次は
サッカー、その次が
映画、なのである。

人気に比例しているとか、いろいろと言えるかも知れないが、ダンスの観客論など皆無に等しい。あってせいぜい伝統芸能の観客論(これはそこそこ文献がそろいそうだ)。演劇は平田オリザの『演劇入門』の一章に観客論とあるようで、それがヒット。あるいは寺山修司の観客論、、、とあと目立ったものはない。まあ、でも別役実には何かあるに違いない。唐十郎にも。さあ。でも若手で観客論を語っているあるいは明らかに作品の中に独自の観客論を秘めている演出家はいるのだろうか(まあ、演劇については経験が足りないところがあるので、誰かに教えてもらいたいところだ)。

プロレスの場合、この「おまえらの好きにはさせねえ!」ブログの書き手がめだつ。ここにあるチャートは彼のものなのだろうか、だとすればなかなか秀逸ではないか。プロレスのファンというのは、ブログで見る範囲でも、(よい)書き手が多い。プロレスというものが自ずと批評を要求してくる、ということもあるのだろう。

socksという名の「おまえら~」ブログの書き手が提出している、技術論---観客論という軸とそれに直交するノン・フィクションーーーフィクションの軸に興味がわく、とくに前者。技術か観客かというのは、テクの追求かエンタメの追求かと読み直せば、これはダンスの世界にもあてはめることの出来る軸だろう。ただし事態は検討すれば錯綜してくるはずで、技術が観客を唸らせるエンタメになることもあるだろうし(例えば、ある種のフォーサイス)、観客を楽しませる技が観客を唸らせるということも起きるだろう(例えば、ある種のピナ・バウシュ)。とはいえ、こういった軸を検討してみることがこれまでダンス批評の中であまりに希薄だったのではないか。この辺り、考察する意義がありそうだ。

技術論---観客論を、アート主義---観客主義などと修正してみたらどうだろうか。で、これに直交する軸をダンシー---非ダンシーとするのは、、、いや、どうだろ。

でも、こまった。モダンダンスの観客論、カニングハムの観客論、土方巽の観客論はだれも研究していないのか?ダンス研究とは!

ブルース・スプリングスティーン

2005年12月11日 | Weblog
について、村上春樹『意味がなければスイングはない』に一章がある。タイトルからしてジャズの文章ばかりだろうと思っていたらスプリングスティーンが!と読み始める。進むと「スガシカオ」の章もある。

「救いのない町に生まれ落ちて
 物心ついたときから蹴飛ばされてきた。
 殴りつけられた犬みたいに、一生を終えるしかない。
 身を守ることに、ただ汲々としながら、

 俺はアメリカに生まれたんだ。
 それがアメリカに生まれるということなんだ」(「ボーン・イン・ザ・USA」)

1984年今の言葉で言えばメガヒットした同タイトルのアルバムの一曲目、国威発揚に利用されもしたこの曲の冒頭の歌詞がこれ。やっぱり、凄い歌詞だと、そしてその不理解の結末は切ないことだと思い、昨日の横浜に向かう電車の中でうるうるしてしまった。スプリングスティーンは、非常に大きな誤解を受けた人だと思う、とくに当時。彼の「ボス」というニックネームは、彼の書く歌詞の繊細さとはずいぶんとずれたところがある。よく言われることだけれど、当時の彼のファンは、このアルバムよりも「ネブラスカ」や「リバー」や「闇に吠える街」が好きだった(ぼくは「闇~」を高校の頃よく聴いていた)。暗く繊細で希望のない日々、そこでかりそめの救いを期待して夜のドライヴをする、そうする他ない人々が主人公の歌は、そういった「地味」めな彼の作品にこそじっと潜んでいた。

村上の着眼点で面白いのは、彼とレイモンド・カーヴァーを重ねてみる点だ。そうか、どちらも未来のないワーキング・クラスのアメリカ人が見る景色を、単に労働者階級の歌(小説)というのにとどまることなく、普遍的な人間の問題として展開した二人なのだった。そうか、この着眼点は、やはり、スプリングスティーンの本質をちゃんと見定めないとでてこないものだ、んー、面白い。

あとひとつ。

「「ハングリー・ハート」の出だしのヴァースとコーラスを客席の聴衆にそっくり歌わせてしまうのは、ブルース・スプリングスティーンのコンサートの定番のひとつだが、八万を超える数の聴衆が声をそろえてこの曲を合唱するのを実際に耳にすると、何度となく彼のコンサートに足を運んだ人でさえ、「おきまり」とわかってはいても、その迫力に背筋がぞくぞくするということだ」

この章はこう切り出され始まるのだが、この「ハングリー・ハート」の歌詞はこう、

「ボルティモアに女房と子供たちがいたんだよ。
 あるとき俺は車で家を出て、そのまま戻らなかった。
 行く先もわからずに流れていく川みたいに、
 まずい方向に折れて、そのまま流されてきたんだ。
 
 誰もが飢えた心を持っている。
 誰もが飢えた心を持っている。
 賭金を張って、とにかく役をこなし続けるしかない。
 みんな飢えた心を持っているんだよ」

八万人が歌う歌詞とはとても思えない、がこういう「とんでもなく暗い」絶望状況をみんなで合唱することには何かしらスゴイ意義がある気がする。村上はこれを「物語の共振性」と指摘したけれど、歌の力というのは、多分こういうところにこそ探し求められるべきだろう。いまの日本の歌には相当絶望してしまう。ラジオから流れてくる新曲はほんとに表層的な恋愛の歌ばかりだ。いや「恋愛の歌」のコピー(のコピーの~)でしかない(自分より若い人がそういうコトしていると思うと、シンプルにむかつく)。歌がない国に、悲劇が連続している。毎日のように小学生が大人の力で殺されている。事件の悲劇だけじゃなく自分の絶望感をこういう形でしか補填出来ないと思ってしまう加害者の悲劇。世間は「臭いものにふたをする」方法ばかり話をしているけれども、きっと足りないのは、「歌」なんじゃないかと思う。

若干でも、そういう「歌」のようなものを感じるのは、ドラマ「野ブタ。をプロデュース」だろうか。ここには、絶望感をトレースしようとする意思が感じられる、チト。

[ラボ20#18]AプロBプロ

2005年12月10日 | Weblog
を見てきた(@STスポット)。

ラボ20は、若手の登竜門的役割をこれまで果たしてきた。けれども、最近、コンペ形式などで新人が公演する機会は増え、そういう状況を受けてということなのか、あまりここでどうしてもこれを表現したいといったような、切迫した意欲のようなものが今回見えてこなかった。残念。ラボという企画は悪くない、でも今回の薄さはそれで隠しようがない事実。

Bプロ
KeM-kemunimaku-Project 「この冷えきった 指先に、あなたの肌は 熱すぎた。」
ひたすら狭いSTの舞台の奥行きを行ったり来たりする三人。ときおりため息だったり、何かに気づいたりの「あ」を発するけれど、それ以外はほとんどなしで歩いたり走ったり行って戻る。この「行って来て」をもってなにやら表現しようというのは、いまの世の中の空っぽ感の反映なのだろうか、彼らは小泉自民党に投票したのだろうか、、、などと夢想したがそれはともかく、これだけで何かを伝えようというのは、何とも拙い切ない。何よりも生成のワンピース着るなんて、ブリッコだろ。ダンスの時だけこういうのを着るのは実に良くない。

山縣美礼×矢萩竜太郎「What Lies Beneath」
サランラップで体をグルグル巻きにした男と女がうろうろと踊りみたいなことをする。即興。即興で何かしら動けば何かしらになるかも知れないという甘えた憶測。

きこり文庫「月が出ていた。少しこころが救われた。」
女の子二人。ともかく動きました。動きの断片、「断片」でみせる、というイマドキらしさは心得てますよ、と言われている感じ、言われても、ね。なにかちょっとやってみました、で客前に置かれる体。

Aプロ
高市知美「からめる-ふんわりとあのにほいまであと少しでゆける-」
記憶にほとんどないのだけれど、、、柔らかい感じの動きがあってでも、それはほとんどがこちらに向けてのものとは思いがたいものだった。

神村恵「入り込まれること」
不意に打たれるピストル音にビクリとするようにビクリとさせるスリルがあった。悪いところは安定した出来というところくらいか。顔や目を意外に使っている。こちらを向く目、とか。レリーフが立体彫刻になる、みたいな多面性がさらに出てきたりなんかすると、ほんとに凄いことになるのだろう。

三枝はな「冬の空のにおい vol.2」
即興的なダンス。自分のための踊り、を人前でしていることに対して、是非反省を向けてみて欲しい、三枝さん。観客は置いてけぼりの気分になるのだ、横浜まで来て迷子かよ、みたいな気持ちに。

岩崎一恵「あむねじあ-mapping inside & outside-」
いろいろと本人の中にはイメージが広がっているのかも知れないけれど、それはこちらに伝わってこそこの舞台にそれがおかれた意味が発生するというものなのだ、よ、と岩崎さんに伝えたい。

原田香織「KIKI」
ヘッドバンキングする前半。赤ワイン飲みながら椅子の上に乗ってあやういバランスを取る後半。でも、それが何をこちらに差し出してきたかというと、何だったんだろう。


Bプロが3時、Aプロが5時15分と夕方に計七組を見るという強行スケジュール。町田で昼ご飯を食べると少し早めに横浜に着いたので、HMVに寄ったりブラブラしていた。そこで、フィッシュマンズの『記憶の増大』(2001年)LIVE DVDをみつける。これ、確か廃盤状態だったのでは???以前調べたときそうだった。少し悩んで、でも購入。今そのDVD聴きながら見ながらこれを書いている。凄い、「Weather Report」で、佐藤伸治は緑のダウンジャケットに黄色いリュックしょってギター弾きながら歌ってる!

村上春樹『意味がなければスイングはない』

2005年12月10日 | Weblog
をいま読んでいる。

ウィントン・マルサリスを論じるところで、「ウィントン・マルサリスの音楽はなぜ(どのように)退屈なのか?」と問う村上。面白い。あまり真面目なジャズ・リスナーではないけれども、ぼくもマルサリスの退屈さには思い当たる節がある。そういえば、20才くらいのころ付き合っていた吹奏楽部の彼女がマルサリスを勧めてくれたっけ、「いいね!」と言いつつ、ほとんど聞かなかった覚えがある。

この退屈さは、どういう「意味」から発しているのか。村上はこう説く。

「演奏の自発性と、音楽構造の整合性は時として反撥しあうことになる」

すなわち、マルサリスはジャズのスイングが生まれるために必須の雑駁さのみならず、知的な音楽的整合性も重視し、理論的に納得しようとする、そのあまり「低燃費高性能スポーツカー」を作ろうとして、そしてどちらかといえば理屈を優先するために「退屈」になってしまう、と。うん、シンプルだが上手い説明だと思う。

やや冗長な面があるけれど、村上の批評文は面白い。あと、新しい言葉の発明もある。例えば「ツイスト(テンション)」。「彼ら[ポール・マッカートニーやブライアン・ウイルソンなど優れた音楽家]の音楽には、メロディーラインとかコード進行とかに、個人的イディオムのようなものが盛り込まれており、それがシグネチャーの役割を果たしているわけだ。そしてその結果、ひとつのトラックの中に、うまくいけば一カ所か二カ所くらい、「おっ!」と思わせられる固有の音楽的ツイスト(テンション)が作り出されることになる。こういうツイストは優れた音楽にとって、おそらくなくてはならないものだ。そしてそれはときとしてリスナーの神経系に、一種の麻薬的な効果を及ぼすことになる」

ダンスならば、即座に「ダンシー」と称すだろうポイントに「ツイスト」という言葉を使っているのは面白い。「ねじれ」とは聴く者の琴線の「ひっかかり」を上手く伝えてくれる。「ぐっ、とくる」の「ぐっ」なんかもツイスト的な何かだろう。

『森下真樹ダンスショウ!!』

2005年12月09日 | Weblog
を見た(@こまばアゴラ劇場 Aプロ)。

「なにやら面白そう」という気分を振りまくことが上手な彼女の舞台を「面白い」と強く思うことはなかった。これは、ぼくの好みに合わなかったというだけのことかも知れないし、一方で森下にとっての理想的な観客には「面白い」と強く思わせるものであったのかも知れない。けれども、「なにやら面白そう」という気分が蔓延する中でひとり孤立していた立場から少しこの公演を整理してみたいと思う。ちなみに、基本的には『デビュタント』『コシツ』をアレンジした一時間半。『デビュタント』は楠原竜也ver.と森下ver.がみられる。ちょっとした芝居めいた部分もある。

彼女の手法は、言葉と動きの関係の内にある。ある単語や音の意味が何か別の単語と思わず繋がったりする面白さや、その単語の意味ばかりではなく発声すると生まれる独特の表情に注目することで、声の多様な響きの面白さを引き出したりする。この言葉のレヴェルをさらに体の動きで増幅させる、あるいは変な繋がりを作る、そこにダンスというか身体の動作が生まれる。「とうだい」と言葉を発すると腕でY字を作ってポーズをとる、の次に「こんぱ」と発して、「ぱ」のところでピンクレディーの「UFO」の「フォー」の動きを頭の上でする。意味(「こんぱ」)からはずれて、音(「ぱ」)のもつ表情を体でこねる。この「こねる」は、この言葉にはこの動作がリンクしていて、というレヴェルからひとつ進んで、その身体の動作それ自体の面白さが浮き立ってくると、途端に面白くなってくる。リンクが意識されている間は規則的なんだけれど、動作それ自体が浮き立つときには、いわばダンスが生まれてくる予感がしてくる、予感。

最近、モダンダンスのこと考えているので、こういう「言葉に連動する身体」というアイディアは、ダルクローズやラバンが考えていたことと緩やかにではあれ連関するように思えて、気になる。ダンスを生みだすやり方としては分かりやすい。小学生でもダンスを作れる、そういう装置かも。そして、森下にはこういうものを面白くする言葉のセンスが凄くあると思う。でも、この「連動」が創るダンスとは、もうすでにかなり古い考えではないか。少なくとも、ぼくたちの目は、チェルフィッチュを知ってしまっているのである、言葉から自由になって、饒舌になった身体を。

あと、テンポとかリズムとかについても、気になった。すらすらと言葉がまたそれに連動する身体の動きが連なっていく。けれども、そこに意外性があまりないからか、ハラハラとするようなリズムを感じことがない。これは、『デビュタント』男性版をやった楠原竜也にも感じたことなんだけれど、練習しすぎだったのではないか。からだが「こなす」ことに集中していて、あることとつぎのあることとが接続する違和感というかオドロキが出てこない。「だんどり」に見えてくる。

最後に、鏡を見つめる、また似顔絵を観客に書いて貰うという一種のナルシシズムが展開されるのだけど、その意味がぼくには見えてこなかった。少なくとも、ナルシシズムに対して批評的に迫っている感じはしなかった。

雑文

2005年12月07日 | Weblog
いま思いついたことを、つらつらと。

(1)
ダンスを見るということは、ダンスする身体を見ながら、そのダンサーの自意識を読みとることなのではないか。つまり見えている動きを通して見えていないものへ反省を向けること、ぼくたちがダンスを見るときしていることの内実はこれではないか。

ただきれいな運動とか規則をはみ出す動きが見たいだけならば、CGで構わない。i tunesのビジュアライザを眺めていればそれで十分楽しい、ということになるだろう。でも、動きのうちに「硬さ」とか「柔軟さ」とかを読み込んでしまう場合、見る者はそこに硬さ/柔軟さを生む動き手の意識を意識してしまう。あるいは、意識せずに踊り手の動きを見ている時は、この踊り手への意識を反省する作用がマヒするくらい(意識を意識しないくらい)踊り手の意識が気配りされているのではないだろうか。うっとりする、というのは、そういったマヒの状態の意識をともなうものだろう。

動きがこういった動き手(踊り手)の意識を意識させること、その点を省みることなしには、例えば、大野一雄の踊り子になる踊りは説明できないだろう。彼の手はただ震えている、いやただ震えていることが見る者のこころに響くのではない。その「震え」が観客の目に、大野がなろうとする対象と大野自身との距離(ずれ)を感じさせ、そのことがこころに響くのだ。

こうした踊り手の意識を感受するプロセスとしてダンスを見る、という行為を説明すること。そのことは、ダンスが他ならず社交であることを確認することである。身体を媒介とする意識と意識のコンタクト。多分、この点をもってダンスは演劇と区別されるべきだろう、あるいはいわゆるパフォーマンス・アートと。

* でも、CGをダンス的に見る、ということはありうるわけで、最近学生から借りたファイナル・ファンタジーの映画版で、やたらと目に付いた髪の揺れは、ぼくの目にはわざとらしく映った。このわざとらしさは、その髪がただCG的の技術的限界としてよりも、むしろ「風に揺れる髪」を通してことさら映像をリアルに自然らしく(現実らしく)見せようとする「魂胆」の反映と感じさせた故に、そうぼくの目に映ったわけだ、きっと。

(2)
ダンスが意識の問題と深く関わっていると思うもう一つの点について。例えば、ストリッパーは何故踊る必要があるのか、ということを考えてみる。ストリップ小屋において観客の欲望はダンスにはないはずだ、端的に言って踊り子のからだ、に相違ない。よいダンスを見たいなんてもしそう言う客がいるとしたら「口実」に過ぎないだろうとぼくたちは思うだろう。けれども、その苦し紛れの「口実」こそがまさにストリップにおけるダンスの役割なのではないか。

欲望の中心にある女のハダカはそれがそのまま露出されてしまうと「困る」。そこでは、自分の欲望と鏡像的関係に入ることになる、そうなると実は客は女のハダカだけではなくそれを見たいという自分の欲望そのものに直面しなければならなくなる。マン・ツー・マンならともかく少なくとも、周りに他の客達がいる前では、自分の欲望をそのまま顔に描くことは、つらい。

その「直面」状況を上手くかわしてくれる口実に、ダンスがあるのではないか。だから、ハダカが仮に見えにくくなったとしても、ストリッパーには踊っていて欲しいのではないか、客は。欲望を成就することと自分の欲望を反省してしまう自意識から逃れることとをダンスは二つ叶えてくれる。(ちなみに、ぼくは一度しかストリップ小屋に行ったことがない。だから、そのときのことを思い返しながら書いてみた。そのときには、二時間分のワンステージでへとへとになってしまった。なににへとへとになったのかは謎である。)

とすれば、ダンスは客の意識をコントロールすることでもあるのだろう。客の意識の前で踊る、ということがどれだけ意識できているのかが故にダンサーに求められている、そう言い換えることが出来るだろう。

もちろん、ストリップ小屋では、観客をシンプルに喜ばすことが目指されるだろうが、コンテンポラリー・ダンスがそれをする必要は必ずしもない。むしろ、そういった状況を逆撫でしたっていいし、この構造を意識しつつ「ポン!」と投げ捨ててしまうことも、「あり」だろう。すなわち、この関係性に対して批評的に迫ることが、コンテンポラリーダンスのトライアルの場所、と言えるかも知れない。

モダンダンスとは何か

2005年12月07日 | Weblog
を考えることになぜかいま集中している。

19世紀までのダンス(バレエ)から突然コンテンポラリーダンスが生まれたわけではまったくない。その間には、ポストモダンダンスとよばれるカニングハムなどや土方巽を創始者とする暗黒舞踏などがいて(1960年代~)、彼らは今日のコンテンポラリーダンスのシーンに直接影響を与えている。しかし、その彼らの前史(20世紀前半)もまた無視できない、はずで、というかバレエや社交ダンスをはじいたとき人がダンスと言って考えるイメージは大抵モダンダンスが担ってきたものではないだろうか。学校教育であるいは大学の舞踊コースで学ぶダンスと言えばいまだに(恐らく)モダンダンス(ベースのもの)だろうし。

ぼくが気になっているのは、観客論を通して理解されるだろう彼らのモダニズム。彼らモダンダンスの関係者はダンスをアートへと牽引したひとたちの一グループだとおもうのだけれど(この点については、バレエ文脈ではノヴェールのことを反省する必要があるだろう)、そこで決定的ななにかが欠落してしまったのではないか、それは観客に対する意識の変容(端的に言えば観客の忘却)として指摘できはしないか、こう見通しを立てている。このことは、カニングハムにも受け継がれていった、ある種のコンテンポラリーダンスはいまでもそう。彼らは、観客の存在から基本的には自由な、その点で自律的な作品を目指してきて/いるのではないか。

このことに対する問題意識がいま顕在的になっているように思う。観客の前で踊っている点を無視しない作品が面白い。それは単に、観客に直接的なアピールをするということを意味している訳ではない。むしろそういった場合には、そのシンプルさが批判の対象になる。観客との境界線を揺さぶるような巧みな仕掛けが、ダンスの問題として顕在化している。これが現在の(日本の)コンテンポラリーダンスのもっともエッジの部分で起きていることなのではないか。

という見立ての中で、モダンダンス批判(分析)をいま画策中。ともかく論考を集めている。

レッシャーヴ『カニングハム 動き・リズム・空間』(新書館)
『モダンダンスの巨匠たち』(同朋舎)
ラバン『身体運動の習得』(白水社)
海野弘『モダンダンスの歴史』(新書館)
Alter, Dancing and Mixed Media, Peter Lang, 1994.
Howe, Individuality and Expression: The Aesthetics of the New German Dance, 1908-1936, Peter Lang, 1996.

Howeのがいちばん哲学的に考察しているようだ。でも、これではまだまだ足りない。もしおすすめの本があったらお知らせ下さいませんでしょうか。

kiiiiiii

2005年12月05日 | Weblog
ガールズ二人組バンドkiiiiiiiの初7インチシングルを吉祥寺coconuts diskにて購入!!!!!!!
いいッス、そしてキレイだ!限定五百枚のカラー・レコード。

JCDNのダンス・ビデオ配信

2005年12月04日 | Weblog
一週間ほど前、そういえばJCDNダンスアパートメントというページを紹介するメールがJCDNより送られてきていました。実際の配信は12/15以降。公演情報などが動画映像で見られる、という企画のようです。見ないと分からないダンス、とはいえお金払って知らないダンサーや公演を見に行くのはリスクが高い。そういうマイナスポイントをあらかじめ抱えた日本のコンテンポラリー・ダンスの世界で、ダンサーたちや彼らの作品を紹介するよいページになってもらえれば、と期待します。現在は「踊りに行くぜ!!」シリーズ出演者のメッセージが見られます。

『フェデリコ・エレーロ』展

2005年12月03日 | Weblog
下のガンダム展からの続き。珍しく外に出たこともあり、まだ夕方だったことも手伝ってさて、じゃあ梯子しようということになる。ワタリウム美術館のフェデリコ・エレーロ展へ。

かなり寒くなってきた。外苑前を降りたらスタバを探す。ちょっとぬくまねば!チャイ・ティー、プリーズ!!
電飾すだれが並木道を彩る。いや、ぼーっとしている場合じゃない着いた着いた。

初めて見たエレーロ。1978年生まれという非常に若い作家。コドモ的なセンスは二年前だったかこの時期ここでやっていた伊藤存を思い起こさせる。伊藤が刺繍やドローイングだけではなくアニメーションとか「どうつぶ図鑑」とか盛りだくさんだったのに比べれば、非常にシンプル、ひとつのアイディアでひたすら見せる。でも、それが結構いい。油絵、スプレー、ボールペン、それらの線や面の表情がそれぞれとしては実に幼児的な振る舞いをみせているのだけれど、いざそれが構成されると彼の巧みさが強く感じられる。キレイに整えるわけでじゃないけれど、奔放さをただ野放図にしておくのではない構成の妙がある。その秘密は、「顔を作る」やり方にあるように思われる、ひとつには。小さめの絵だと、基本的にいろいろなパーツは顔の一部にさせられている。その約束は拘束というほど強くなく、観客にとって見やすい「表情」を生んでいる。でも、大事なのは一個一個のパーツの自由(副題が「ライブ・サーフェス」とある通り?)、で、それがきちんと守られているのだ。いい、また見に行きたい。

『GUNDAM 来るべき未来のために』展

2005年12月03日 | Weblog
土曜日、新しく差し込まれた原稿依頼にうんうん唸りながら午前中を過ごし、昨日の晩Aと作った餃子の残りを一緒に食べた後、芸大での研究発表を聞きに行った。で、その足で、上野の森美術館で開催中のガンダム展へ。

ガンダムの知識のない希有な三十代日本人であるぼくがこの展覧会を見に行くのは本当に場違いな感じではあるのだが、今年の冬にお世話になった東谷さんがキュレーションしたものであることもあるし、ちょっと混んでるのもなんのそので。圧倒的だったのは西尾康之『crash セイラ・マス』。巨大な女の四つんばい姿に怖じけていると、その肌が実は全部指でなぞった形が浮き出ていることにさらに恐ろしくなる。凹ではなく凸の指跡が蛇のようなうどんのような形状で皮膚を形作っている。凄い迫力、久しぶりに美術作品でヤバイものを見た感じ。

あと小谷元彦の写真作品も良かった。基本的に前半の「戦争」をテーマにした展示が見所。帰りにガンプラが売っていてつい購入。ガンプラあるいはプラモデルへの郷愁というよりは、パーツがバラバラな状態でお行儀よく並んでいる感じが面白く、またそれがホガースの図版のようにも見えてきて、そのことが面白くて。

アングル

2005年12月02日 | Weblog
先週の日曜日、横トリの帰り、山下公園からゆっくり歩いて馬車道通りのはずれまで来たところに、古本屋があった。ちょっと覗いてみることに。その階段脇にアングルの図版が置いてあった。購入。これが、すごく、いい。

アングルの魅力は、誰もがそういうように、ちょっとクレイジーなところだ。新古典主義の巨匠ダヴィドに学んだ生粋の古典主義者はラファエロを信奉するそんな「まっとう」なひとのはずなのに、いざ筆を握ると本人の中に眠っているなにやらおかしなところが滲み出てきてしまう。彼のそういうおかしさが現れているのは、「ユピテルとテティス」とか「アンジェリカとルッジェーロ」などの歴史画に違いないのだけれど、肖像画もなかなかえぐい。例えば、青い服の貴婦人は、艶やかな肌とか聡明そうな表情とかその辺りには素直に古典主義的な魅力が現れていると思うのだけれど、ね、その、あの髪型何なんですかね。過剰な装飾的な髪型、それを実に楽しそうに描くアングル。あと、白い手。長く見ていると、ちょっとクる。

で、もっと凄いのは、赤い服の婦人。まずこの女性の目が怪しい。少し、目がずれている。ずれている事実をリアルに描かなくてもいいじゃないか、と依頼主からはクレームこなかった?、いや画家の関心はまさにそこに集中しているよう。そのずれを、そこに起きる奇妙な感覚を嬉々としてあらわす、そこに幾分かの悪酔いを感じた人は、もうその額にある「うずまき」に目がいってしまっているに違いない。これ、なに?少し前に『うずまき』って恐怖映画があったけれど、あの恐怖感に似た感触。いやー当時はこういうのが流行ってたわけでして、、、なんていい訳がましい説明に納得するよりも、このビザールにただオドロキ+魅了されていたい。

そこで思ったのですが、アングルの女性たちはまるで「金魚」ではないか。ひとの欲望のために人工的に加工された愛玩動物の愛くるしさのむこうにある異常さ。これを、木曜日の美術史の講義で学生達に力説してしまった。さぞかし変(ビザール)な先生と思われたことだろう。