Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

校正が続く

2007年10月30日 | Weblog
10/30
『ベクトルズ』は、どのコンテンツも会話を起こしてテキストにしている。なので、自分がどんなしゃべりのくせをもっているのかあらためて意識させられて、ちょっとつらい。半分くらいはわかっているつもりだけど、ぼくのしゃべりには無駄が多い。「なんていうか」は当たり前におおいけど、「やっぱ」とか「とりあえず」とか、かなり乱暴な言葉遣いがとても目立つ。あと「絶対」とか「すごい」も多い。「絶対」「すごい」は、自分が目下話したい対象へ向かってしゃべっている本人が加速して迫ろうとするが故に出てきているもの、と思う。「「絶対」だし「すごい」のだから、それについて喋ろうとしている訳なんですよっ!」という気迫のようなものを自分の中から駆り立てて喋っている。生きているというのは、そういうエネルギーの放出なのだろう。というか「エネルギーの放出」みたいな仕方でしか、ぼくはひとに対してしゃべれないみたいです。理路整然と即興的にテキストを書きつつそれを読むみたいな、そういうクールな形式などもちあわせておらず、故に一回一回エネルギーをためて出す、みたいにしかしゃべれない……。
同時並行的に大野研究発表の原稿も進める。それだけで、一日があっというまに過ぎた。

多摩美

2007年10月29日 | Weblog
10/29
多摩美講義。さすがに多忙すぎて講義の準備がままならず、こういうときのあれで、土方巽の舞踏論。しのぐ。『恐怖奇形人間』は、やっぱり笑える。ラスト、すごい笑える。実は、まだ全編通してみていない。朝、後半のところだけ流してみてみたけれど、土方大活躍の映画なのですね。拙いセリフ回しは、どうにかアフレコにすることで、聞ける程度のものにしたらしい。そんなことは、でもどうでもいいのだ。ストーリーとかある映画なのに、土方の動きは、やっぱ演技の枠を超えて踊りになっている。帰りに、Aさんに会う。テープ起こしのお礼を言うと、「ピアノをやって来たおかげで、指は強い」のだそうだ。六万字タイピングしても、たいしたことなかったのだそう。そんな効能があるんだ、ピアノには!

青梅街道と未来工房と武蔵美と西国分寺の沖縄料理

2007年10月28日 | Weblog
10/28
『ベクトルズ』の校正に追われる。ヒーッ終わりが見えない。佐々木さんとぼくとの対談は6万5千字ある。原稿用紙で162枚。テープ起こしを依頼した多摩美の院生Aさんに感謝しながら続ける。無言部分に対する処理に彼女のセンスを感じた。「ええ、ええ(笑)」「うんうんうんうん。」とかのヴァリエイションがすごい豊富かつ的確。時には、「!!!!(笑)」とかの表記もある。このときぼくはどんなリアクションをしていたんだろう!!!!(笑)

夕方、あせる気持ちを抑え、新小平へ。Chim↑Pomが宇治野宗輝さんと「VS」状態でコラボ・パフォーマンスするっていうんで、こりゃ見に行かねば、と。新小平駅に着く。何にもない。ひたすら青梅街道を歩く。車社会なのだな、洋服の青山とかがある。どこまで行けばいいのと思った辺りで、主催者に電話してみるとすぐ近くの小道を曲がれとの指示。「曲がってどのくらいで着きます?」「すぐです。」「すぐって?」「5分くらいです」。そう、「すぐ」=「5分」ってとこなのだ(実際はもっと近かったけど)。バリの村みたいな独特の空間が出現した。未来工房なるアパート的アトリエ近くの空き地が会場。パフォーマンスは30分くらい。宇治野さんのRotatorsの演奏が、ときおり後ろを走る電車の灯りと交差して、普段以上に未来派。チンポムは、カンボジアでの経験が反映されているようなところがあって、2人のソルジャーによってウォーホルの版画みたいに100缶くらい並んでいるコーラが撃たれると、缶が破裂してピューーーッと液が飛ぶ。あと、炎のモチーフ。ジッポの油を使って炎の絵を空き地に描いたり。最後は、エリィがマイクありカラオケなしであゆを熱唱して、終了。男臭いパフォーマンスを浄化するエリィの力に「マリア」的なものを、ちと感じる。

その後、Aが武蔵美の関係者に会う予定があるというので、歩いて行ってみると、学園祭のクライマックスに出くわす。にぎやかだ。向井秀徳が最後のギター・ストロークを「ボロボロボロボロボーン」とやっているところだけ目撃。そんなこんな、ぼーっとひとり見学していたら、あっという間に迷子になる。帰りは、また30分歩いて鷹の台へ(武蔵美駅から遠いナー。佐々木さんがときどき休講する理由が分かるわ)。そこでは食べる店があまり無く、西国分寺に出てみるがそこも、不二家とかしかない。うろうろ迷っている内に、沖縄元気料理と看板のある店にともかく入る。んー、ニシコクブンジ・テイスト。

帰って10時、校正作業再開。い、何時終わるんだ?

recommuni

2007年10月27日 | Weblog
10/27
recommuniのイベントをAと見に行く。Aのバイト先のMさんに誘われたのだ。その前に、T大学へ。研究室に久しぶりに顔を出すと久しぶりに会う先輩が居て、ちょっとだけど話ができて嬉しかった。沖縄の大学の教員なので、いずれ集中講義とかで呼んでくださいよーっ、とお願いしてみたら、バッサバッサとそうしたものはきられているのだそうで、難しいみたいだ。残念。自腹でもいいから行きたい、沖縄。あと、とてもめでたい話しも聞く。うらやましくも嬉しいめでた話だった。5時頃新宿へ。伊勢丹とバーニーズを見学。何分、人生史上一番金がないので見学のみ。台風が来ている。ビニール傘がクシャッとなりそう。なったらしまいだ。ビルとビルの間をひやひや歩く。

MARZとMotionの2カ所開催。大谷さんのMASを見た後(大谷さん、管楽器とドラム・パッド?とボーカルと忙しそうだった。リバーブ濃厚なマイクで吠えていて、気持ちよさそうだった)、サンガツを見にMARZからMotionへ。サンガツとてもよかった。Headzのオギさんから最近サンガツは演劇に興味をもっていて、だからかこんな感じになっていると聞いた。なんだか、音をポーンと出す、の繰り返し。リズムも出てくるが「音をポーンと出す」の重なりでリズムが生まれているといった感じて、リズミカルというのとちょっと違う。ポンポンポンポン。多様な楽器の多様なポンポンポンポン。「登場」ってのに近いかな。「登場」「登場」「登場」「登場」。うまく言えないが、身振りのようなものを強く感じる音楽で、とてもいい。Aはこのパフォーマンス、是非DVDとして、映像付きで出すべきとオギさんに提案。わかる。後は、4bonjour's partiesがよかったかな。メロディーとかは単調すぎ、にも思えたけど。ファンタジー濃度がもちっとつよいとかなり熱狂出来るグループになるかも、かも。

途中、近くのラーメン二郎へ。うまかったのだが、その後胃が負けた。

BRAINZ 第2回 レジュメ

2007年10月26日 | Weblog
10/26にBRAINZの第2回がありました。

前回同様、レクチャー後の受講者からいただくコメントの時間がとても面白くて、刺激的でした。受講してくださった皆さん、覗きに来てくださった桜井圭介さん、本当にありがとうございました。次回(「ゲーム」について)も、お楽しみに!

そのアフター・トークの時間に明瞭になったのは「タスクは知的な戦略としては分かるが、それはダンスとして面白いものといえるのか」という疑問でした。「作業=タスク」としてあるいはあえてそう動く「タスクライク」な運動としてダンスを行うことは、自発的な運動が隠しているある種の嘘への批判としては「あり」だとしても、そのコンセプトをみるのがタスクのダンスだとしたら、別に見ていて楽しいモノじゃないかもしれない。そうですよね、ストイックなところがあるのは確かな事実。で、でもそこをブレイクスルーするのが、タスクをゲーム化するアイディアなのではないか。

その点について、次回は、「ストラクチャード・インプロヴィゼイション」というキーワードを立て、ダンスをルール・ゲームとして捉えたトリシャ・プラウン(ジャドソン・ダンス・シアター)を出発点にして、そこにある可能性を現代のパフォーマンスへと繋いでみたいと思います。「ゲーム」の他にキーワードにしたいと考えているのが、「カラオケ」あるいは「エア(エア・ギターのエア)」です。取り上げる予定にしているのは、以下のメンツ。
トリシャ・プラウン
d.v.d
泉太郎
シベリア少女鉄道
小指値
むにゃむにゃ君(ボクデス)
etc.

まだ、若干お席があると思います。ぼくとしては、このあたりに今後のパフォーマンスの可能性を考えるのに重要な「鉱脈」が潜んでいるのではと考えています。ふるってご参加下さい!ご参考までに、第2回のレジュメを添付します。

第2回 「タスク」について

◎0 目標 未来のダンス(or演劇orパフォーマンス・アート)を開発する!

◎1 「タスク」の性格
イリュージョニズム(バレエ、モダンダンスetc.)/プロセス(ポスト・モダンダンス)
「自動詞」的運動               /「他動詞」的「使役動詞」的運動

□レイナー「トリオA」(1968)
□ ケージ「ウォーター・ウォーク」(1958)インストラクションとしてのスコア
アン・ハルプリンのワークショップ(タスクによる身体解放)
□身体表現サークル「広島回転人間」「ベストセラー」(2006)
「身体って自分の乗り物ですよね」「全身が操作レバーあるいはボタンみたいになり、一応自分は「人」ってことわすれちゃうんです。(……)おのおの操縦者に楽しそうな操作マニュアルというか、図面?サーキットコースを用意して、とにかく最終的に迷わないで時間をやりすごせるか。これが振付家といったら引かれますかね。もう飽き飽きなのです」 (身体表現サークル主宰・常樂泰)

◎2 真理(自然)か制度か
□森下真樹ワークショップ見学
○A指令の内在化(自発的運動:森下WS)→ドリルをはきはきこなす優等生、自然の復活
                   →「ニュートラルな身体」という理念へ?
 B指令の外在化(タスクの運動)→指令者と実行者の分離
         ↓
 A振り付け=真理(自発的な運動)
 B振り付け=制度(タスクの運動)あるいはゲーム

○ダンスとは「指令」(内在化、審美化するor外在化する)と「応答」である
□神村恵カンパニー「山脈」(2007)
□壺中天(村松卓矢)「どぶ」(2007) 支配者の顕在化(指令の外部化)
□ ザ・ガンバルマン(ビート・たけしとたけし軍団)→「ソナチネ」(1993)の紙相撲

◎3 構造主義とタスクライク・パフォーマンス
○真理から制度へ 「ヨーロッパの知のシステムは、真理をめざして進むものだった。ただひとつの真理(正しいことがら)がある。そして人間は、いつか真理(正しいことがらをのべる言葉)を手にできる。こう信じられてきた。
これに対して、構造主義は、真理を制度だと考える。制度は、人間が勝手にこしらえたものだから、時代や文化によって別のものになるはずだ。つまり、唯一の真理、なんてどこにもない。」(橋爪大三郎『はじめての構造主義』127)

□黒沢美香「WAVE」(1986)

「バルトにあって神話の核心は、神話の内容が何であれ、歴史的産物を疑似自然に作り変えてしまうことに帰着する。偶然を永遠と化すこと。意味を形式に変えること。記号体系(反-自然)にすぎないものを事実の体系(偽-自然)にすりかえてしまうこと。それはそのまま、プチ・ブルのイデオロギー的操作に等しいと、バルトはいう。」(渡辺諒『バルト 距離への情熱』38)

「いわんや、右翼神話となれば、その言語活動は自動詞的、身振り的、演劇的であり、変革ではなく、永遠化を目指すといっていい。かくして、わたしたちに必要なのは、この逆の操作であることはあきらかだが----自然を歴史に、偽-自然を反-自然に、事実を記号に変えること----、それは記号を記号として認めよ、というメッセージにほかならない。」(渡辺、同上38)

「なにゆえに構造主義的活動について語らねばならないかといえば、創造あるいは考察はここでは世界の始源的な『刻印』ではなく、最初の世界に似たひとつの世界を真の意味で作り出すことであって、そうしたことは、最初の世界をコピーするためではなく、それを理解可能なものにするためになされるのである」(バルト「構造主義的活動」)

○マルチ・タスクとしてのプロレス 「レスラーの機能は、勝つことではなく、彼に期待されている身振りを正確にやり遂げることになる」(バルト「プロレスする世界」)

□ プロレスの映像(WWC)
「レスラーたちが押さえ込みと呼んでいるもの、言い換えれば、相手を決定的に動けなくして自らの意のままにすることを可能にする、或る種のフォームのことだが、その機能とはまさしく、慣例どおりの仕方で、つまり、理解可能な仕方で、苦しみのスペクタクルを準備すること、苦しみの諸条件を系統的に設定することである。」(バルト同上)
→ガチ(真剣勝負)ではなく記号(が指示するタスク)の遂行

「プロレスでは、どんな記号も過度に明晰でなければならないが、その明晰さの意図が透けて見えてはならない。そんなとき観客は、「いんちきだ」と叫ぶが、それはなにも、彼らが実際には痛くないことを嘆いているのではなく、策略を非難しているからだ。演劇の場合と同じように、真面目すぎても、また気取りすぎても、ゲームから逸れてしまうのである」(バルト「同上」)
→記号の明晰化→次々入れ替わる記号を生きるゲームとしてのプロレス

◎4 記号(任務、役割、タスク)を遂行することの困難
○家族での役割(父、母、子どもetc.)を遂行する/学校での役割(先生、生徒etc.)を遂行することの困難→自然主義から役割を生きるゲームへ

○ KYと「小島よしお」 □ 小島よしおの映像

BRAINZ 第2回 

2007年10月23日 | Weblog
今週の金曜日、夜八時からBRAINZの第2回があります。

今回は、最近ぼくがよく言及している「タスク」というアイディアについて、あらためて、突っ込んで考えてみようと思っています。資料も豊富に準備するつもりです。恐らくまだ入れると思いますので、是非、BRAINZ(HEADZ)に連絡の上、お越し下さい!

具体ともの派

2007年10月23日 | Weblog
10/22
多摩美講義。日本の戦後美術を取り上げる。「具体」と「もの派」。来週は、土方巽含め、50-60年代ごろの日本のパフォーマンス系アートを論じます、と予告したら、「土方、楽しみにしてます」とひとことして帰る学生がいた。こういうひとことは、重要っす、がぜん張り切りたくなる。

講義後、また彫刻学科の諸材料専攻の学生諸君が学内展示を見せてくれた。もう3回目とか見せて貰う学生もいる。七ヶ月くらいの間にどんどん変化している。そういう経過を見せて貰えるなんて、なかなか幸せだ。平川君という油の学生にも久しぶりに会った。彼の思いつき能力とそれを現実化するセンスとは今後大きく転がっていくといいのに、と絵を見せて貰うたびに思う。彼ら(多摩美の学生たち)は同年代のなかでは闘う対象が明確である分、幸せなんじゃなかろうか。大抵の大学生は、「ふらふら」することが自分の仕事とばかりにふらふらと自分も対象も曖昧に生きてる。ぼくの20才もそんなところだった。だから、気持ちは分かるつもりだけれど、あれはかなりつらい。闘うつらさもあるが、闘えないつらさもつらいよな。

ぼくがいま教えているある大学で講義後に野外実習に草津に行ったという学生がいて、「うらやましいなあ」と言ったら、「楽勝っした!」と嬉しげに話してくれた。初めて話した学生だったらこうした会話楽しかったんだけれど、なんか気になった。うん、学生の頃って「楽できる」ことがよいことだという気持ちがあったりする。そりゃ、つまらない仕事(つまらない勉強とか宿題)はしたくないから、そういう意味では分かる。けど、すべての仕事(勉強)がつまらないわけではないし、やりがいというか生き甲斐のようなモノを見つけて生きていけたらいいという気持ちとか、つらい仕事(勉強)こそやりがいがあるならやりたいという思いもいつか持つことだろう。だって、死の間際に自分をふり返って「あー、楽できたっ!」と思ってそれを良い人生と思って死ぬなんてあり得ないじゃないか。「楽できた」人生の薄さに、絶望しはしないか。

フェルメール

2007年10月21日 | Weblog
10/20
近所の女子大学の学園祭に行く。なぜかはいまは言えない。昼頃に行って、二時くらいに出たのだが、次第に男子たちの群れが増えていく。みんなキメキメで、いまどきの鋭角の逆三角形の中に顔がある系の髪型の子たちばかり。ナンパというか、女子学生に会いに来たのだろうけれど(知り合いのあるなしに個人差はあろう)、ぼくはこんなべたな事出来なかったナー、すごいなーと。男子、みんな頬が紅潮してるし。その後、六本木にフェルメールを見に行く。やっばりフェルメールは、他の同時代の風俗画と質が違う気がした。展示の仕方に踊らされている面は多少あるだろうけれど。ささやかな物語を描く、のはどの絵でもやっているわけだけれど、その物語が展開する空間を描こうとしているのはフェルメールだけだ。光を劇的な効果としてのみならず「光」そのものとして描いているというか。

10/21
テレビ到着。音がなかなかに悪い。高音しか出ないスピーカーなのか。画像もぶれてたりして。リモコンの電池があまりみかけたことないデザインだったので、あれっと見ると「Made in Indonesia」。インドネシアに電池会社があったとは、、、と、あらためてテレビのブランドを見るとこれも全然知らない名前、で、マレーシアが原産国と。こ、これは。アジアの低所得者と連帯している気分になる。

M.I.A.

2007年10月19日 | Weblog
テレビが見られない分、昨日ぼけーっとラジオを聞いていたら「えむ・あい・えい」なる女性ミュージシャンの事がとりあげられていた。バイレ・ファンキのミュージシャンらしい。なんかすごい気になる。以前からバイレ・ファンキは面白いなあと思っていたので、ちょっと調べてみたら、こんなPVが。スゲーかっこいい。
M.I.A."galang"
wikipediaのデータ

まだ、どの曲がどう、なんてわからない。けど、どれもすごいふざけてて、すごいシリアス。「Galang」は、映像がよくできていて(そして他のPVも)、戦車だの戦闘機だののグラフィティはチープでいかしてて、故にか、戦争に対する距離感が絶妙な気がする。バイレ・ファンキのペラペラなセックスのためだけに存在しているようなシンプルなビート、それに乗っかる音楽だからこそギャルなセンスも戦争も身体的快楽もすべてもりもりに盛り込めるのかも知れない。きわめてリアル(かっこつけない、正直)、でかっこいい、なんだこりゃ!彼女のルックスも、すごいかっちょくてかわいい。日本で言えばエリカ様?でも、肝の据わり方が、そのスケール感が違うです。

"Sunshowers""Bucky Done Gun"
"Bird Flu"

夜が速い

2007年10月18日 | Weblog
いま、もっとも格差社会を感じるのは、テレビを買う瞬間ではないだろうか。

そう、もう随分前からテレビが音しか出さなくなった。「ながら」見をしていた罰か。確かに、パソコンに向かいながら付けっぱらしにしていると、不思議なほど依然と変わらない時間になる。が、やっぱり「えっ、なになになに」と音につられて画面に目を向けても真っ暗。

なので、三日ほど前にAと今年初鍋をしようと買い込んだ帰り、マルエツの上のノジマ電気に行くと、なんとか亀山モデルとかを勧められるが30万する。42型をやめて30型とかで考えても20万する。30型で一番安いのでも15万くらい。ただ、ぼくはテレビが見たいと思っているだけなのに、それをかなえようとするには、いまこんなに払わなきゃならないんだ。

2人でシュンとして帰り、しょっぱい鍋を食す。じゃあ、リサイクルショップとかいってみよか、ブラウン管の中古とかでいいじゃん、とか話す。でも、いまはリサイクルショップがある時期より極端に減少しており、うちの周りにはどうもテレビを扱っていそうな店はない。「あっ、そう!」というわけで、ネットで調べていま注文完了。こいつは、13280円。液晶の十分の一だ。そうか、1/10。非常勤講師と常勤教員の給与格差が1:7と聞いたことがある。に、似てる。

でも、配送予定が一週間後、クリックしてから気が付いた。おいおい。

歩く、の考察

2007年10月17日 | Weblog
最近、メールのやりとりをしている大学時代の友人からこんな手紙が。ぼくひとりで読んでいるのはなんだかもったいない気がして、本人に許可をもらったので、貼り付けてみます。友人だからかも知れないし、しかも10年は会っていないということも空想を助長しているのかも知れないけれど、文章のつづる現場の空気感を強く感じる。なんかこう、ジョギングとかする際の、季節の移りが作る空気の変化に反応している時に感じる何かみたいな。

「木村くんのブログ、結構更新されていて、感心します。知らない単語もたくさ
んあるので、気になるのは調べているけど、私の場合は、ちょっと割り切って、
とっても大きく読ませてもらっています・・・。例えば、今日、本屋さんに行く
ときに、駅までゆるい坂道を歩いていたのですが、たまたま同じ速さで、ほんと
に抜かせなくて、ずーっと同じ距離間隔の人がいて、「この人どういう感じで足
進めてるのかな」とかふっと考えるでしょ。私は歩くとき(遅刻しそうなときとか
じゃなくて、自分の速さで歩いてるとき)、だいたい昨日聴いてた曲とか、お気
に入りの曲とかが頭で流れてて、そのリズムで歩いてることが多いんですが、み
んなどういう感じで足出してるんだろうとか、思わず考えちゃうのって、木村く
んのブログのせい?でも、楽しいでしょ、こういうの考えるのって。ヘビメタ聴
いてる人ってどんな感じなのかなとか、今日会った、抜かせなかった人って、も
しかして私と似てたりしてとか。うまくはいえないけど、些細な毎日にちょっと、
木村くんのブログが影響してるのかもしれませんね(笑)」

「蛇の穴」ワークショップ

2007年10月17日 | Weblog
「関係者全員参加!ダンスクリティーク」なるワークショップというかイベントというかを大橋可也さんの「ダンス蛇の穴」の企画のなかでやることになりました。(大橋さん、これ「プロレス虎の穴」=タイガーマスクをもじっているわけですよね。タイガーマスクが山奥で修行したところ)

ダンスを作る(振付家・ダンサー、制作)立場の人にも、見る側の人(ファン、批評家など)にも有意義な時間になるように考えています。作った人と共に映像を見るなんて、ありそうでない話だし、その上でみんなでご当人と作品を素材に議論と合うなんてさらにないでしょう。詳細はまた後日に(回数の増加などありそうです)。

ソル・ルウィットなど

2007年10月16日 | Weblog
10/15
多摩美講義。ソル・ルウィットと構造主義について。
.ルウィットの言葉に反応するなどということは、ちょっとまえには考えられなかった。いまは、とても面白いと思う。

「アーティストがコンセプチュアルな形式をもちいるばあい、それはとりもなおさず、プランニングや決定のすべてがあらかじめなされるので、制作はただ機械的におこなわれるということにほかならない。観念がアートをつくる機械になるというのである」

「見る者の知的関心をひく作品をつくるのがコンセプチュアル・アートにかかわるアーティストの目的なので、ふつう彼は、それが情緒的にはドライになることを望む」

「観念は複雑である必要はない。成功する観念はばかばかしいくらい単純である。概して成功する観念は、それがいかにも必然的に見えるがゆえに単純な装いをしている」

「あらかじめプランを設定してからとりかかるのは、主観を避けるひとつの方法である。そうすればまた、それぞれの作品をいちいち設計する必要もなくなる。プランが作品を設計するのである」

「アーティストが複合的なモデュラー方式を採用するとき、彼は通常、単純でとりこみやすい形態をもちいる。形態そのものの重要性はごく少ない。それは作品全体の文法となる。(…)形態は手段となり、この配列が目的となる」
(「アート・フォーラム」1967)

「コンセプチュアル・アーティストは合理主義者というよりも神秘主義者である。彼らは論理が到達することができない結論に飛躍する」

「成功したアートは、われわれの知覚を変えることによって慣習についてのわれわれの理解を変える」

「作品のコンセプトは作品の質量やそれがつくられるプロセスをふくむことがある」

「プロセスは機械的であり、みだりに変更されるべきではない。」

「仕上げが美しくても陳腐な観念はすくわれない」

「すぐれた観念をだめにするのはむずかしい」

「アーティストが技巧に走りすぎると、見ばえだけがいいアートをつくりかねない」
(『0.9』1969)



「私はできるだけ2次元の作品をつくりたい。」

「コンストラクションをつくり、それを仕上げて壁にかけるより、直接、壁に制作するほうが自然だと思われる。」

「壁の種類が違えばドローイングの種類も違ってくる。」

「ドローイングは、視覚的に線ができるだけ壁面の部分になるよう、硬質のグラファイトを使ってどちらかというと軽くなされる。」

「単純な3次元ドローイングは、とりこわされるまでは永遠のインスタレーションである。ひとたび何かがなされれば、もしに戻すことはできない。」
(『アーツ・マガジン』1970.4)


「アーティストはウォール・ドローイングの構想を立て、その設計をする。それを具現するのはドラフトマンである(アーティスト自身がドラフトマンを兼ねるのも可)。プラン(文字、口頭、スケッチによる)はドラフトマンによって解釈される。」

「プランの範囲内で、プランの一部としてドラフトマンによってなされる決定がある。ひとりひとりがそれぞれにユニークなので、同じ指示を与えられても解釈が異なり、違ったふうにおこなわれるだろう。」

「アーティストは自らのプランの多様な解釈を許さなければならない。そしてドラフトマンは、アーティストのプランを知覚し、自らの経験と理解にしたがってその再調整をはかる。」

「アーティストとドラフトマンはアートの制作において共働者となる。」

「人によって線のひとかたが違い、言葉の理解の仕方も異なる。」

「ウォール・ドローイングは、そのプランが侵犯されない限り、アーティストのアートである。侵犯されたばあいには、ドラフトマンがアーティストとなり、その作品は彼の作品ということになるが、そのアートはもとのコンセプトのパロディでしかない」

「ドラフトマンはプランを追っていくさいにも誤りをおかすこともある。どんなウォール・ペインティングにも誤りはつきものだが、それらも作品の一部である」
(『アート・ナウ』1971.6)

『沈黙とはかりあえるほどに』

2007年10月14日 | Weblog
10/14
風邪気味。テレビは完全につかなくなった。音だけ。真っ黒な画面、その暗さほどに気分が暗くなるぼくは完全なテレビっこだ。そうだ、そうだよ。頼むから、ねえ、ついてよトリニトロン。吉祥寺で昼ご飯食べながらN社の方とミーティング。世代が違う。だから得られる刺激がある。少しづつ息が合ってくる感じとかも、なんかすごく嬉しいのだった。『サッドヴァケイション』の話で盛り上がる。見た方がいいですよ、本当に。


金魚(鈴木ユキオ)『沈黙とはかりあえるほどに』(@TEMPORARY CONTEMPORARY)を見た。
「なぜ踊るのか」という苦しい問いに、ずっと真摯に向き合い続けているというのがぼくの鈴木ユキオに対する印象だ。本作で鈴木は、その苦しさを決して安易に何かに昇華することなく、にもかかわらず、ある活路を見出したかにぼくには見えた。それは、暗黒舞踏がいまのなおぼくたちに投げかけ続けている根本的で決して色あせない問い「踊りとは、命がけで突っ立った死体である」というときの「死体」とは何か、へ何らかの返答を試み続けるという路だ。

フライヤーに用いられた冬の山脈の鋭い起伏に似た、線状のでこぼこの付いた鉛の板、それが舞台前景に膝あたりまで積み上がった木板の上に敷かれている。いつものように、気がついたらこんなところに来てしまったみたいなガリヴァーみたいな戸惑いと共に鈴木は登場して、その鉛を腕でこすり始める。平たいところからでこぼこに「こすり」が移ると、そのひっかかる感触が過剰に増幅して、とっぴょうしもない身体の運動を起動させる。何度かその「こする内に身体がはねてしまう」を繰り返すといつか身体は自律する。身体にバネがはいってて、そのバネが自分でもどうすることも出来ないくらいの「とび」や「はね」を生んでしまう、そんな強く、堅く、なのにゴムみたいな不思議な運動。自分でしているのに、自分から切り離されてもいるような。かといって、どこまでも自分から動機づけられて始まっているとしか思えない運動。

特徴的だったのは、シャツの胸の辺りを自分で掴んでその腕で自分を振り回しているかのような仕草。水に溺れて、藁にすがろうとしたらその藁が自分の衣服だったような、救いのなさ。でも、その救いのなさにしか救いはない。これが安易に救われてしまう欺瞞はかなわない、そんな泥沼に飛び込む。

それにしても、そんな鈴木のダンスがなんとシャープでかっこいいことか。強烈に見応えのあるダンサーだよ。不格好で不器用にも見える腕や脚の軌道は、しかし一貫した動因に導かれていることを感じさせる、強く揺るぎない線であって、美しい。キュビスムが1910年頃に新しい線を見出した時のような、驚異をともなった美しさがある。そして、その美しさは、恐ろしい。そこには中身が詰まっていない。空っぽ。何かの動因があることは分かるが、それを内面性とか人間性とかに還元出来ない。気づいたらただそう動いてしまっている、身体はだから内面のない箱のようにさえ見える。

「沈黙」とは、ケージのサイレンスのことかもしれない。途中、無気力なほどに日常的な口笛を「ピー」とただ漏らすその音、のサイレンス。手あかのついた楽音ではなく、ものとして自然としてある音。それがサイレンス(沈黙)だとすれば、それと「はかりあえるほど」の身体性あるいはダンスを目指すことは、そうした箱が踊る、という境位に身体をそしてダンスを置くということになるのではないだろうか。そして、鈴木はタイトル通りの、少なくともその「沈黙」と「ダンス」が等価になる「ほどに」を目指す作品を確かに提示したのではないか。

女2人(安次嶺、原田)が出てくる。膝を曲げてヘッドバンキングしつづける。そこに快楽も苦痛も受け取れない。ただ、そう、している。ただそうしているのを示す巧みな仕掛けは、おかしなポーズをすること、か。例えば、しこをふむような姿勢でじっとする横山。理由無くただここに身体があること、それを開くことが、「なぜ踊るのか」の理由なのだ、そう言っているように思えた。今作『沈黙とはかりあえるほどに』は、その苦しい答えが明るい真実に反転するための、その準備体操のような何かではないか、とぼくは思った。

『サッド・ヴァケイション』

2007年10月13日 | Weblog
10/13
朝、青山真治『サッド・ヴァケイション』(渋谷シネマライズ)を見る。すごく感動した。
三時から、佐々木敦さんと対談。三時間ほど話す。面白い話が出来たと思う。
六時過ぎ、small sailsのライブを見に行く。Ethan Roseとサンガツのライブもあった。
長い一日だった。

他人にとっては、読むに足らない話題だと思うのだけれど、いまぼくの大問題は、テレビの画像が電源onを押してから1時間くらい経たないとつかないことだ。10日くらい前からこの状態で、音だけ発しているのにしばらく付き合ってあきらめて仕事などをやり出した途中で突然ついたりする。画像なしのテレビはラジオとは違う。画像と音とが7:3あるいは8:2くらい役割分担なのだ、テレビは。2-3ではテレビをエンジョイ出来ない。塩こしょうのかかっていない料理みたい。これは買い換えのタイミングなのか、と思っていると不意についたりする。