Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

いやいや

2006年02月22日 | Weblog
あの、ですね。忙しくしております。睡眠不足で眼精疲労しまくりですが、楽しいです。楽しくしてます。

なんかこう、ブログがかけないときに(そういうひと、ボク以外にもいると思うんですけれど、でも、それにしても宮沢章夫さんってすごいですね、忙しいって時こそ、ブログが更新されている!って)、いちばんそのブログを無視している人は、多分その当人じゃないかと思うんですね。ぼく、ほんとに自分のブログ最近見てませんでしたから。コメントとかで変ないたずらしているひとがいても、当人見てないモンだから当人には全然効果なし、なんですよ。

最近、屋根裏さんのあの有名なサブカル(アングラ)ブロガーの日記とか見ていて(ね、ひとのは見るんですよ、でも自分のは、、、)You Tubeなるものを発見。これ、スゴイですね。ビデオ投稿サイトって言えばいいのか、素人の「なんとかちゃんが踊れるようになりました、えへっ!」ってなビデオもあるけれど、ミュージシャンのライヴ映像とかテレビ出演ものとかも見られるんです。見つけた最初は、YMOとかThe Smithsを見たりしてましたが、さっき「Fishmansはあるんだろか?」と思ったら、ありましたです。しかもNHK出演のときのとか。佐藤さんは変な動きをしていていいですね。テレビで変な動きする人、最近見ないもんな。それだけで痛快、新鮮。

ところで、冬季オリンピックの種目って言うのは、「失敗/成功」の基準が前面に出すぎで、疲れちゃいますね。スポーツって言うのは、ギリギリ過ぎる!そんな「高度」じゃなくていいよって思いません?失敗が9割で、成功以上がメダル、って感じは、ストレスフルになりますね、なんか。

それってのは、大抵の種目が「線を描く」だからだと思うんですよ。どういう線かは、大抵任されているわけですが、「こう描く」と決めた線があって、それが描かれるかどうか、に身体が集中する。その描く線の難易度がその選手のメダル可能性を左右するわけだ、けれど、本当に「金」とかの選手は、その線、本当はギリギリの綱渡りの筈なのに、易々とときにはちょっとはみ出したりして、その線を遊んでいるんですよね。で、その「遊び(玩び)」に見ている方は感動させられてしまう。モーグルとか、ハーフパイプとか、ね、そういう感じですよね。スノーボードのクロスはちょっと遊びすぎだよ、ってものでしたが。

でも、今朝ライブで見た(なにせ、最近起きるの四時半ですから、ぼくいまおじいちゃん状態ですから!)サーシャ・コーエンはよかったなあ。四年前からちょっとだけファンでした。演技が始まる前の、ペコちゃんみたいな歪んだ笑顔が、アングルの絵画みたいでぞくぞく。終わった瞬間にでたガッツポーズの「やっ・たあ」みたいな腕の振りもやんちゃな感じで。スルツカヤも柔軟なゴムみたいな感じで魅力的なんだけれど(表情もいいですよね)、個人的にはコーエン(!)ですね。でも、村主さんまでの四人は自分の「見せ所」をきちんと掴んでいて、「みて!」「みて!」と言っているかのようで、そういう踊り手と関係をもつというのは(もちろん、観客として、テレビ越しでってことですが)、いいな、素敵なことだな、と思ってしまいますね。

ああと、R-1も日曜日見まして、いろいろ考えさせられました。あべこうじは、凄いな、尊敬するな、凄すぎてちょっと面白くなかったくらい。混乱が累乗していって、知的すぎました(で、良かったわけです)。

そうだ、幾つかダンスとかパフォーマンスみたんでした。それについて書こうと思って、かなり時が経ってしまいました。あれ。

というか、書いていると意味なく元気が出てきますね、そうかこんな感じで宮沢さんは忙しいときこそブログに向き合っているのか、きっとそうだ。

The smiths

2006年02月09日 | Weblog
シャイネス話の続編といえばそうなのだけれど、
(ところで、シャイネスと似た言葉でコイネスってあるんですね、「コイ!coy!」)

例えば、

Shyness is nice, but
Shyness can stop you
From doing all the things in life
That you'd like to
So, If there's something that you'd
Like to try
If there's something that you'd
Like to try
ASK ME - I WON'T SAY "NO" - HOW
COULD I!?
シャイネスは素敵だ、でも
シャイネスは君を踏み止めてしまう
君がしたいと思う人生のあらゆることどもを君がすることから
そう、もしやってみたいことがあるなら
もしやってみたいことがあるなら
ぼくにきいてくれよ、ぼくは「ノー」とは言わないよ、言うもんか

(...)

Spending warm, Summer days indoors
Writing frightening verse
To a buck-toothed girl in Luxembourg
ASK ME, ASK ME, ASK ME
ASK ME, ASK ME, ASK ME
Because if it's not Love
Then it's the Bomb
That will bring us together
Nature is a language - can't you read?
Nature is a language - can't you read?
ASK ME, ASK ME, ASK ME
ASK ME, ASK ME, ASK ME
暖かい夏の昼間を部屋の中で
ぞっとするような詩を書きながら
ルクセンブルグにいる出っ歯の少女に向けて
ぼくにきいてくれよ、きいてくれよ、きいてくれよ
きいてくれよ、きいてくれよ、きいてくれよ
だってもしそれが愛でなければ
じゃあそれは爆弾だ
ぼくたちを一緒にする爆弾だ
自然は言語だ、君にはそれが読めるかい
自然は言語だ、君にはそれが読めるかい
ぼくにきいてくれよ、きいてくれよ、きいてくれよ
きいてくれよ、きいてくれよ、きいてくれよ
("ASK")

あるいは、

I was happy in the haze of a drunken hour
But heaven knows I'm miserable now
I was looking for a job, and then I found a job
And heaven knows I'm miserable now
ぼくは酔っぱらってもうろうとしている時間は幸せだった
でも、神は知っているよぼくがいまみじめだって
仕事をさがして、それでぼくは仕事を見つけた
それで神は知っているんだぼくがいまみじめだって

In my life
Why so I give valuable time
To people who don't care if I live or die
ぼくの人生
一体どうしてぼくが生きようが死のうがお構いなしの人間たちにぼくの貴重な時間をあげなきゃならないんだ
("Heaven Knows I'm Miserable Now")


あるいはまたこういうのとか、

Punctured bicycle
On a hillside desolate
Will Nature make a man of me yet?
パンクしてしまった自転車
さびれた丘の上で
自然はまだぼくを一人前の男にしてはくれないの?

Then in this charming car
This charming man
そのとき、このチャーミングな車に乗って
このチャーミングな男が

Why pamper life's complecities
When the leather runs smooth
On the passenger seat?
なぜ人生の厄介事で一杯にしてしまうんだい
助手席が皮ですべすべだっていうのに (*自問自答している)

I would go out tonight
But I haven't got a stitch to wear
This man said "it's gruesome
That someone so handsome should care"
ぼくは今夜出かけていきたいんだ
でも、身につけるステッチの服をもっていない (*「チャーミングな男」に話しかけている)
と、この(チャーミングな)男は言う、「なんてことだ
こんなにハンサムな人物がそんなことを気にするなんて」
("This Charming Man" )

近所のスポーツジムに向かうとき、駅周辺で女の子たちを取り巻きにしながら男の子たちがバンドをやっていた。けれど、なんか、聞き手とやっているほうとのあまりに強い共鳴関係に、ちょっと不満を感じて、そのとき耳ではこんなものを聞いて通り過ぎていた。あれだったら、普通にナンパしたりする方が男子にとっていいんじゃないか。その方がまだかけひきとかスリルとかあるのでは。少なくとも、音楽で何かをやりたい感じはない。観念(イデオロギー)の反復。多分、こういう歌を歌える可能性のありかがあるときから隠蔽されてしまったからだ、この(小泉長期政権の)日本で。こんなデリケートで奇矯なことが歌に出来るんだ、ということを知らないのだ。イライラとか、うっとりとか、そわそわとか、普通に直に感じていることを歌ってもいいのだ。「励ましソング」なんて歌わなくていいのだ、もっとパーソナルな小さいものへの偏愛を歌ってもいいのだ、強烈にユートピア的な世界を歌ってもいいのだ、ということを。

タイトルを付けるのが

2006年02月06日 | Weblog
そんなに簡単な日々ばかりではない。が、そういう日々こそ本当は何かが動いている。

多分600枚ほどになる論考がなんとかあと一ヶ月後の締めきりに提出出来そうだ。でもまだまだチェックする項目は山ほどある、数えたことはないけれど、1000位はきっと、ある。こつこつとそれを塗りつぶして、クリアーして、とうとうひとつの形になる。それは、なかなか凄いことだ。まだまだきっとよくなる、面白くなると思うと椅子から離れられなくなる。気づけば12時に昼食べるはずが2時になっている。

600枚の論考なんて、大蛇みたいなものだ。鱗を見ながら大蛇を成型する。


おかずがやたらと甘える。ネコのことである。手を差し出すと耳の下辺りを押しつけてくる。なでていると寝っ転がって「もっと」とねだる。それでもノラネコ、長続きせず、ビクッと体を起こしてしまう。甘えるポーズがいちばん危険なポーズなのだから、致し方ない。


CHUNKY MOVE「Crumpled & Corrupted」の前に『オリバー・ツイスト』

2006年02月04日 | Weblog
を見たんだけれど、さらにその前(午前中)に、本郷にある大学に大事な書類を提出。一ヶ月後に重い冊子を提出する約束手形みたいなもの。やるっす。いや、この一ヶ月はこれに集中したい。ぼくの人生のひとつの大きな結論。ということで、今月は大事な公演が多いにもかかわらず、「いかにみないか」の考えを凝らさねばならない。

その後横浜に。鈴一でやっぱり「てんころそば」の後、みなとみらい線で「みなとみらい」駅へ。Strange Fruitの公演がクイーンズスクエアのクイーンズサークルで行われるからだ。一時に「The Three Belles」二時に「Cupidity」六時に「The Field」を見る。基本的には垂直に伸びた5メートルほどのポールのてっぺんに「串刺し」みたいにパフォーマーが刺さり、ポールがしなることでいろいろな動きが生まれる、といった趣向。サーカスとダンスの中間?「いろいろな動き」といっても要は、串刺しのおでんの動きであるからして限定されている。大きな揺れはあっても、「折れそう!」「地面に着いちゃいそう!」とか「おっこっちゃいそう!」などと声が漏れる危険が不在で、サーカスならば本領であるはずの「スリル」がほとんどない。足を固定するベルトをつけたり外したりする瞬間だけ、スリリングでわくわくした。「中空に浮くひと」をみるファンタジーはあるのだけれど、ファンタジーが安定しているのだ、景色の奥で浮かんでいる5メートルくらいのスヌーピーの風船と、故にファンタジーの度合いとしてはあんまり変わらない、のだ。それでも、道化た「笑顔」が振りまかれるとお客さんは大喜びする、実にストレートに。この観客の「コンタクトへの欲求」が何か観客論的に気になる事象ではあった。「ニカッ」はそれ自体、エンタメなのだ。

二時公演と六時公演の合間に、『オリバー・ツイスト』(ロマン・ポランスキー監督)を見た。これがなかなか凄かった。ディケンズの原作を恥ずかしながら読んでいないのだけれど、19世紀ロンドンの現実が実にリアルに描かれる。「リアル」というのは、生活の真実を描いているように見えると言うことで、孤児として生まれたオリバーがこれでもかと他者に翻弄され利用され傷つけられ殺されかける様が凄かったと言うことだ。その裏にあるのは、「理性」がお題目でしかない世界の互いが互いにオオカミな状態。「生き地獄」とはこういうものか。歴史物語の体裁を借りた児童虐待映画。もう最後の最後は、逃げも隠れもしない放心状態でぼーっと佇むオリバーが切ない(あっ、もういま、にげろよ!と叫びたくなる気持ちは「ホラー映画」でもつ気持ちに似てさえいる)。最終的には「理性」=「富裕の紳士」に救われるのだけれど、「子供」というステイタスの脆弱さは、でも一寸先のぼくたちのようでもある。理性なき世界の闇は、未来のようでもある。いや、現在か。

『プライドと偏見』など他にも18-19世紀を描く映画が最近多い。自分の専門の時代を絵としてリアルに理解するためにもいろいろと見たい(が、二月はそれどころではないのだ、本当は)。

で、7時半には赤レンガ倉庫でCHUNKY MOVEを見た。感想は後日。オーストラリアのダンスシーンの一端が分かります。この国に、あるいはこの国のダンスシーンに関心のある方は是非是非足をお運び下さい。昨年八月の「ボクロール」公演に出演したダンサーも見られますよ。

そうだ、先月のよしもとばななのブログでしょこたんのブログは何故幸福な気持ちにさせるのかと書かれていた。うん、ぼくもそれは同感。なぜなんだろう。マミタス(ネコ)の写真によるもの、だけじゃない気がする。うれしい、すき、たのしい、かんどう、などという超ポジティヴな感情がそこに定着されているからだろう。「超ポジティヴ」というか神学的というか。何か希有なものがそこにある気がする。

ピンクのまえに『エリエリレマサバクタニ』

2006年02月02日 | Weblog
を見た。ピンクは「ダンスが見たい 新人シリーズ4」内にて。

滝田高之(スピロ平太)「蘇る陰嚢」
は、舞踏的な身体に長く伸びた「陰嚢」の張りぼてを鎖に縛り引っ張ったりする。黒いゴミ袋を被る上半身、袋が破けると二つ目の張りぼての体が現れる。それに激しい攻撃を与えたり。「ンアアアッ」みたいな奇声が延々添えられる。一見、「得体の知れない奇妙な身体」があるように(つまり、一見エキセントリックに)見えるが、観念は「自己の存在証明」に邁進する「尾崎豊」みたいな形。それを何で観客に見せたいと思うのか。やっている方は随分気持ちがいいんだろう、虐待的で自虐的なことというのは、でもそれはうちでやってなさい、という気にさせられ続けた40分。

ジュ-ルモンデンキント「Peacock-Ray」
は、詳しいプロフィールを見ていないのだけれど、勅使河原三郎のような速く柔軟な独特の動きをするスキンヘッドで小太りな一人がちょっと面白かった(二人組)。フォーマットは「作品」。つまりテーマがあって、それを踊る。故に、何か物語的なものがあるのだろうけれど、それが何なのか判然としない。判然としないままにみる「象徴的」「記号的」な動きは、分からない故無意味に近いのだけれどそれ自体として案外面白い。けれど、そんな気にさせたのもこのダンサーの身体的キャラクターのなせるものだろう。自分がどう観客に見えているのかに自覚的になると面白い人になるかも知れない。

ピンク「子羊たちの遊覧船」
は、昨年末のペッパーズギャラリーでの公演とトーンは一緒だけれど、やっていることは7割方違うというものだった。最後のチアガールはなかったし。淡々と曲を流し続けたり(編集がほとんどなし)、荒々しい構成。故に「作品」としてどうなのか、などと問われたら言葉に窮してしまう、けれど、むしろそのことが彼女たちらしい奔放さの一端であり、そこをなにやら構成的にしてしまうことは、ぼくは余り意味がないと思う。きれいな色紙を手の内でもみ、くしゃくしゃにしてひらいたかたちみたいな、ダンス。「くしゃくしゃにしてひらく」という実に乱暴な身振りが見せるものとして魅力的であり得ているのは、もちろん彼女たちの身体性(技術のみならず、柔軟な身体)に負っているところは多いに違いないが、やはりリズムへの執着、ハズシ=ダンシーのコンシャスの高さがところどころで「コト」をささえているのが重要だ。ここにダンスの未来があるような気が、やっぱりするなあ。

神楽坂ディ・プラッツに行く前に、雨の中、四谷に行っていた。上智大の図書館で作業。ストイック。
の前に、テアトル新宿で青山真治『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』を見た。久しぶりの映画館。邦画の予告編を沢山見たが、いま日本映画界というのは一体どうなっているの?見るにたえない予告編ばかりだ。映画じゃないね、みたいなこといいたくなる。『エリ・エリ』は、ぼくはある種の純文学(大江・中上系)とある種の映画(ゴダール・タルコフスキーなど)とがブレンドされた作品という印象をもった。つまり、それぞれのジャンルである独特の評価を得ているものたちを巧みに咀嚼して、秀才君の学生が映画にした「学生映画」のような気分にさせられる。でも、「絵」でスゲーって思わなかったんだよなー。廃墟も、海辺の道も、海辺も、ノイズ系音楽も、男二人的(ヴェンダース「さすらい」?)風景も、あおいも好きなのに、それらがはっとする瞬間にめぐまれることはなかった。ネタとしては実に漫画的な何かなのだから、そのチープさを「高級」なものでコーティングしようとせずに、むしろチープのほつれを隠さずに突き進む映画であったら、よかった。きっとそれは相当良かった、ろう。

生田に校舎のある大学で「ゼミナール」の授業を四月から受け持つことになりました。シラバスを見ると同じタイトルのコマのところに、貫成人先生や香山リカ先生の名前も出て来る。頑張ろう、いまから楽しみです。多分、最近気になっている(ここでも何度もしゃべっている)「観客論」をダンスという枠に限定せず広いフィールドに持ってきて、学生たちと議論するような授業になると思います、いまのところ。

ところで、

講義(単発のレクチャー含む)やゼミナール等の(大学でのものに限らず)依頼、大歓迎です。ご用命の際にはメールなどで連絡頂ければ。

小刻みに

2006年02月01日 | Weblog
いろんな方面の様々な事柄が前進していて、身が引き締まる。

A、B、C、あと多分数日後にはDの件の結果も出る。

そのなかのひとつには、家族、親戚、友人、知人、関係者のみならずいろいろな人に参加(観覧)してもらう「イベント」の予定がある。まだなんにも決まっていないが、場所だけはほぼ確定(昨日の晩はそのために、恵比寿のneufというカフェに行った)。どこかといえば湘南江ノ島脇の海の家。ときはおそらく7月中旬。「トヨタ」の少し前という時期ですが、楽しい「イベント」ができたらいいなと思って、イメージトレーニングしてます。制作していただけるひと求めています(これだけじゃ、なんのこちゃらでしょうが、、、)。

でも、こうやって何かが「結実」するとき(いやでも、まだ何も完結していないのですが、八合目)っていうのは、なにやらその高揚感とは反比例する感情がわいてくるもの。雨と相俟って、代官山はメロウな痛飲。