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前日拙ブログで大谷presentsのことを書きながら思っていたことのなかには、大学の講義も、イリュージョニスティックに観客を説得するのではなく、プロセスとして話をする仕方がよいのではないか、ということがあった。一方的に先生という立場のスピーカーが「君達は知らないだろうけれど、世の中にはこういうことがあってね」みたいに上段からプレゼンするのではなく、聴講生と常に具体的に何かを共有しながら話をするというのがいいな、と。理科の実験みたいに、というか。そういう講義がしたい。「立て板に水」な、すらすらと流暢なお喋りは、その「流暢さ」を芸として楽しむことはあるにせよ、案外話の内容は覚えてなかったりするものではないか。
そんなこと話すたび、よくAがぼくに言うのは、余計な脱線話こそ学生は記憶に残すものだ、と。確かに「あのさあ、くだらないことなんだけれど~」と前口上切った瞬間に、学生の顔がぱっと上がったり、表情が変わったりする。じゃあ、すべてが余計な脱線話のように講義が出来たらいいんじゃないか?全部「余談なんですけど」と言いながら進むみたいな講義。「余談」であることが大事なんじゃなくて、余談を話す話し手のテンションが聞き手を変えるんだと思う。「余計なことをでも言わずにいられない」といった「言わずにいられない!」のテンション。それが重要。ということは、自分がフレッシュでいることが重要と言うことで、それが難しいのはまさに、アーティストと同じなのだ。講義空間(教室)のシアトリカリティについて、、、
昨晩は
cinraのexpopという企画に行った。理由は、Aがwonderlandに書いたd.v.dとnhhmbaseの原稿が評判良くて、感想メールをもらったらしく(激賞な感じで、いいな、、、)、そのなかにcinraの方がいて、イベントがあるというので行ってみた、というもの。トーク・イベントが6Fで、ライブが5Fで行われていて、トークは、音楽配信の問題を現場の人たちを招いて議論するというとても真摯なテーマ。ライブは、テーマが次世代シンガーソングライターで、青空ドライブ、沼田壮平、まつきあゆむ、→SCHOOL←の4組だった。まつきあゆむがちょっとだけよかった。顔は水道橋博士みたいなんだけど、そんなにかっこよくないが彼女がいないでもないというイマドキ一番表象されにくい若者の日々を、フツーに切りとる。わすれていたひとの名前を思い出した!という歌とか。「村上春樹」「ipod」「マルボロメンソール」とか、出てくる名詞が面白い。そうそう、以前から思っているんだけれど、ポップスの歌詞は、名詞が重要。名詞がぽんと置かれると、それがそれ自体として多様なイメージを勝手に光らせたりする。作り手の「自己」などとは自由に、名詞が自分勝手に運動しはじめると、聴いていて楽しくなる。キリンジとか好きだったのもそういった理由だった。今でもよく聴くCKBも、名詞を運動させるのがうまい。考えてみれば、未来派もシュルレアリスムも、詩において名詞を尊重し副詞や形容詞を軽蔑していたのだった。詩におけるもの化のベクトルは、名詞を重視する仕方の中にあるのではないか。なんて、まつきを聴きながらときどき考えていることをまた考えていた。
それにしても、観客が明らかに変わったわけですね。90年代初頭にインディー系(当時の言い方における)のライブをよく見ていたぼくとしては、女の子が少ないということが、まず驚きなわけです。イカ天ブームあるいはバンド・ブームの頃のライブではパンク系でも7~8割が女の子だったりして、よく言われることでしょうが、そんな「女の子のデマンドにサプライするのがバンド」になったときに、バンドというものは明らかに魅力を喪失してしまったわけです(いまでも、新百合ヶ丘の駅前で、コブクロみたいな男の子二人組withフォーク・ギターに女の子が取り巻きを作ってたりしてます。あれ見ると、母性本能のようなものに演奏している方も聞き手も相互に依存している気がして、いやなんですよね。音楽を楽しんでいると言うよりも、癒しあっている、、、社会が心理学化しているってあれ)。じゃあいま、女の子じゃなく男の子が沢山集まっているかというと、両方そんなに集まっていないというのが現状で、故にフロアの前の辺りがスカスカな状態で演奏しなきゃなんないかわいそーな状態だったりするのだけれど、それでも、ちよっと奥田民生というか押尾なんとかに似たルックスのボーカリストが歌い始め女の子が10人ばかりフロアで揺れてたりすると、「あのとき」のことがフラッシュバックしてきて、嫌な気分になって出て行ってしまったのだった。
そこでやっていた物販で、
狩生健志率いる国(というバンド名)の「国ドットコム」(DVD+Tape+CD-R、1500円)を購入。彼のことは、大谷さんの
フランス革命を聴きに行ったらたまたまそこに出演していたことから、それ以来気になっていたのだった。このDVDまだ全部見ていないんですけど、いいです。演奏スタイルは「何も用意せずライブに挑み、実際に困る」(架神恭介)。30分話すネタもなく、楽器もなく、けれども見ている人は居て、だから何もしないわけにも行かず、、、という「見る者がいるので何か見せなきゃならない」=「シアター」の根源にある事態こそ、狩生が観客と共有しようとするものなのだ。何も起きないと言うことが不思議と面白い。せっぱ詰まったところが、なさけなくて可笑しいのだけれど、同時に「人間とは何か」とか「脳の運動」とかそんなデカイものまで意識させる。100%「芸」を取り除く=100%「ライブ」。
夜こうして渋谷に行く前に、多摩美で資料収集。最近、John Cageの「スコア」論に興味があって(というかここに60年代的芸術の議論が詰まっている気がする)調べている。
それとは間接的には関係するAllan Kaprow, Essays on The Blurring of Art and Lifeの「ジャクソンポロック伝説」を訳した。