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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「そうしたアプローチは、過剰なほど芝居じみている」

2008年02月16日 | 『ジャド』(4)2美術理論
引き続き、以下に、バート『ジャドソン・ダンス・シアター』の第3章の後半にある「ダンス理論と美術理論」の中盤を訳し、研究ノートにします。ここでは、レイナーの思想的背景が研究されています。とくに、
ジャッド「スペシフィック・オブジェクト」(1965)
モリス「彫刻についてのノート」(1966)
ローズ「ABCアート」(1965)
といった美術理論からの影響、そしてさらに、当時の流行していた現代哲学であるヴィトゲンシュタインの言語哲学、メルロ=ポンティの現象学などに注意が向けられていきます。ちなみに、
オースティンの『言語と行為』出版が1960年
メルロ=ポンティの『知覚の現象学』
の英訳が出版されたのは1962年でした。
ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』の英訳は1963年。
いかにアクティヴに、当時の現代思想をダンサーたちが吸収していたのかが、明瞭になるでしょう。あえて言えば、東浩紀(でなくてもいいんですけれど)などの思考に刺激を受けたダンスが出てくるみたいなものですよね、いまなら。

写真はアンソニー・カロの彫刻。これと、モリスの例えばこんな(あまりよい図版ではないけれど)作品と比べてみる。




(4)ダンス理論と美術理論(中)

 特徴のあるぶっきらぼうな率直さをもって、レイナーは、自分が「擬似的概説」を書いたとき「ドナルド・ジャッドの1965年の論考「スペシフィック・オブジェクト」、モリスの「彫刻に関するノート」、バーバラ・ローズの1965年の論考「ABCアート」に強い影響を受けていた」(Rainer 1999: 103)と述べている。一緒にするならば、これらの3論考は、その時代のニューヨークで流行っていた知的な思考がどんなものであったか、そのスナップショットを与えてくれる。コロンビア大学で哲学学士を取得していたジャッドは、行動主義者的な視点をもっていて、また今ではほとんど名の知られていないアメリカの哲学者・ラルフ・バロン・ペリー----ウィリアム・ジェームス著作集を編纂した----の思考にとくに興味を抱いていた。モリスの「彫刻についてのノート」はゲシュタルト心理学に基づく理論的なフレームワークから現象学に基づくフレームワークへの移行を示している。とくに、それはメルロ・ポンティの『知覚の現象学』に基づくフレームワークであり、1962年にルートリジ&ケーガン・ポール社から英訳書が出版されていた。ジャッドやモリスが自作の反響に向けて理論的なコンテクストを作る実務家である一方で、ローズは、批評家で歴史家であり、その論考は、ダンスを含めた広範なミニマルアートへの視点をもっていて、当時になって英訳が出版されるようになった、ヴィトゲンシュタインを含めた哲学を引用し、ロラン・バルトやアラン・ロブ・グリエの論考を含めた文芸批評を引用する、その時代の美術批評としては最初の著述物のひとつだった(see Meyer 2001: 147)。

 ミニマルアートに関する3つの論考に共通していることは、アングロアメリカンの、広くいって経験主義の哲学が確実にその根拠になっている、と言うことだった。このことは、特殊アメリカ的であり、実証的で懐疑主義的な傾向をもっており、モリスやローズのようなアメリカ人の興味をかき立て始めたフランスの理論が最初に受容される際に影響を与えた(これは、60年代の終わりにポスト構造主義や脱構築の思考がアメリカに上陸する前のことである)。既に記したように、レイナーはとりわけ身体についての理論的な考えに注目していた。このアングロアメリカ的経験主義は、心と身体を二元論的に分岐させる思考を推し進める大陸合理論とは対立するものだった。合理主義者が信じていたのは、世界についての本質的な知識に純粋な理性の働きによって到達することが出来るということであり、他方で経験主義者は、すべての知識は(具体的な)経験に由来すると信じ、実際に起こっていることの観察を除いては知識を獲得する手段はないと信じた。合理主義者は、具体的な知覚からもたらされる感覚情報を疑う傾向にある。なぜなら、デカルトが論じたように、それはイリュージョンか夢かだからである。彼の論じるところによれば、ただ考えることだけが自分の存在していることを疑いえない仕方で証すのである。いくつかの著作において、身体は純粋に機械的であり、魂は機械のなかの幽霊であるとデカルトは呈示している(その後の著作で彼は、身体と魂には一層複雑な連合があると認めてはいるけれど)。経験主義者は、そうした二元論に向かう合理主義的な基礎を拒絶する。デヴィッド・ラスキンが指摘してきたように、アメリカの行動主義者が信じているのは「内的な心理状態は外的な行動の延長である、しかし、唯一外的な行動だけが客観的に観察され研究対象となる」。それだから、行動主義者たちは「感情、欲求、情動は世界のなかの活動であり、心の出来事ではない」と考えるということである(Raskin 2004: 81)。この章で論じられてきた作品が実証するように、ジャドソン・ダンス・シアターと連関しているアーティストたちは、内的な心理状態よりも外的な行動や活動に携わっているのである。

 ダンス作品に『心は筋肉』というタイトルを与えることで、レイナーは合理的で二元論的な思考に反対していることを示唆した。先に引用した「私の身体は永続する現実に留まっている」という1968年の公演プログラムでのレイナーによる声明は、デカルト的コギト「我思う故に我あり」への直接的な異議申し立てである。チャールズ・ハリソンが指摘するように、反二元論は、ミニマルを標榜するアーティストの重要な関心事だった。彼らは、諸部分間の関係としての構成はあるという考えを、デカルト的な二元論によって知られた流行遅れのヨーロッパ的感性であるとみなしていた。ハリソンが示唆するように、モリス、ジャッド、そして彼らの仲間にとって、全体wholenessとはモダンでアメリカンなものだったのである(Harrison and Wood 1992: 798)。「芸術と客体性」という論考のなかで、フリードは彫刻家・アンソニー・カロの作品を、自分の視点で、成功したハイ・モダニストの作品の一例としてとりあげた。フリードが提案したのは、カロによって結び合わされたモダニスト彫刻は、多くの異なった要素が一緒に組み合わされることから構成されており、それらの諸要素は「ある要素と別の要素との相互変化」によって芸術的な全体へと達する、ということだった(Fried 1969: 137)。観者は、そうした彫刻を、距離をとった客観的な視点から見ることが出来る。自律性と完成性という質がその作品にあるからである(図版3.4)。モリスやジャッドにとって、カロの彫刻が諸要素を組み合わせたものであるという事実は、二元論的でヨーロッパ的であることを暗に示していた----カロは英国のアーティストだった(Harrison and Wood 1992: 798)。ダンスに関していえば、レイナーは、彫刻の空間的な質と振り付けの時間的な質との間に相関性のあることを見いだしていた。それ故、彼女はこう述べている。

「フレーズ」という語は……始まりと中間と終わりを含んだより長くあるいは完全である持続のメタファーとして働きうる。どんな高まりないし見所になるクライマックスを含んだ連続性が暗示されようとも、そうしたアプローチはいまや、過剰なほど芝居じみていて、より単純に言えば、不必要である。(Rainer 1974: 65)

そういうわけで、モダニスト彫刻における二元論的な諸部分の空間的な関係性は、モダンダンスやバレエにおける高まりやクライマックスhigh points and climaxesの間にある時間的な関係性に該当するのである。これらの高まりやクライマックスが不必要と考えて、レイナーは調節されずに統合されている調子で行われる単一的な諸活動に価値を認めたのだった。

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