Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ダンス

2006年08月31日 | Weblog
大橋可也&ダンサーズ『明晰さは目の前の一点に過ぎない』についてここで何を書くべきかまだ決まらず滞る。昨日、本郷2丁目の商店街に居たら、ある友人から電話が、内容は『明晰さ~』の感想を聞かせて欲しいと言うことだった。その友人の意見とぼくの感想とを重ね合わせると大体同じだったので、少し安心する。でも、電波が悪くて細かくは聞き取れなかったりした。電波め!

昨日はある雑誌の取材だった。というかあるテレビ局の撮影に同行してその番組の主人公(ダンスのグループ)を紹介する記事のインタビュー取材だった。はじめてちゃんとお話しする方だったので緊張したが、実によいエピソードがたくさん聞けた。グループを主宰するその方Iさんが最近グループ内で話題になっているビデオのダンスを紹介してくれた。ひとつは、ハルハートリー『シンプルメン』に出てくるダンス・シーン、またひとつは、ファット・ボーイ・スリムの『プレイズ・ユー』で踊る人々(これはぼくも大好きでここでもそのことは言ったことがあると思う)。でもうひとつあって、それがOK GOというグループのダンスだと。これがサイト。Iさんは「音楽はね、別に、たいしたことないんだけれど」と力説していたけれど、確かにダンスは面白い。というか、こういうのを面白いと言ってつまんでくるセンスにいまのコンテンポラリー・ダンスの一傾向が如実に示されていると思うのです、このことをもっと紹介したいです、はい。

と8月も最後の一日なので(?)、すこしはめをはずして。町山智浩さんのUSA娘の話を聞いていて(何を今更と思うかも知れませんが、いまアメリカでモー娘。ブームだそうで、それで)、YOU TUBEでモーニング娘。の映像が見たくなり、しばらく色々と見ていたのだった。なんだか困ったことにやたらと感動する。例えばこの練習風景なんか。あるいは「peace」の練習風景(なぜか今回練習の映像にやたら興味をそそられた)。身体の動きの全てがダンスであり得るわけで、この練習風景を見ていると隣の相手と目を見合わせるとか、ちょっとした仕草、些細な出来事のいちいちが全てダンスとして振り付けられていて、多彩な動きの全てがあるエッセンスを伝え観客と共有するための企みとなっている。一瞬の動きの「表情」に徹底的にこだわる感じは、尊く魅力的だ。ダンサーは、ファンを踊らせ熱狂(萌え)させるモー娘。に嫉妬したりしないのだろうか。ハイ・アート云々の理屈ではなく、あと「モー娘。」というブランドとか全く無視して、いいなと思ってしまうのだ。

ミーティング二件

2006年08月29日 | Weblog
新しいひとに会う。夏休みは基本的に「ひきこもり」状態なので、新しいひとに会うのは新鮮であり緊張もする。ダンス関連の新しい仕事の話が二件。一件は、普段全く使っていない脳の部分を必死に使ったのでかなり疲労し2時間でずいぶんおなかがすいた。その後、新宿南口に以前見つけていた「やすべえ」へ。つけ麺屋、渋谷の店は何度も既に行っている。新宿では結構食事に困っていたので、楽しみが増えた(いや味の点では増えてない、食についてはきわめて保守的なのだ、美味くないと嫌なのだ)。カウンターだけの店内でぼくもAもその他のお客さんも黙々と太い麺と甘い汁を味わう。それにしても書店に行けばやたらとダンス特集とかダンスがらみの記事とかが目立つ。『プシコ』は、心理学化する日本社会を代表する(!)雑誌だと思って以前から気になったりふざけてるなーと思ったりしていたのだけれど、それがダンスを特集(こりゃまたタイトルは「ダンス!ダンス!ダンス!」)。すると「癒し」「自己発見」がテーマと言うことになるわけで(「心に効く」とか「私を変えたダンス」とか)、、、イデオロギー的には百年たったいまでもダンスと言えば「モダンダンス」なのですよ(ぼくに依頼があったら「プロザックとしてのダンス」なんてタイトルで、踊ることはうつに効く即効性のドラッグだなんて踊ることを勧めるかも、Fatboy Slimとか讃えたりして、、、同じ「効く」でもベクトルがずいぶん違う)。『ART IT』も康本雅子+津村耕祐のコラボ記事があったり。これも、イメージとしては一頃の「歌姫」と似た扱いに思えてあまりわくわくしないんですよ。ダンスへの注目は高まっているのに、それをどう扱うと楽しいのかというアイディアはいまだ古色蒼然たるもの、という思いを禁じ得ない。

セレノグラフィカ『それをすると』『終わらない段落』

2006年08月26日 | Weblog
最近、頻繁に記事を書いている。これでも、ニブロールの妻有公演はまだ書けてないし、シンポジウムのこと、三日前に見た『マッチポイント』のことなど書き残しておきたいことは多々ある。書けるだけどんどん書きますので、是非、下へとスクロールしていろいろと読んでください。

昨年のトヨタ・コレオグラフィー・アワード受賞者である隅地氏のいわゆる受賞公演。
『それをすると』
迫田浩一の多種多様なリコーダーと暗めの照明のなかで、テーブルとか椅子とか、シンプルな小道具とともに二人で踊る。阿比留修一の動きに、マイムのようにもストリートダンスのアニメーションのようにも見える(とはいえどちらでもない)「なめらかさ」があって、飄々とした顔つきと相まってちょっと特殊だ。派手さはなく、大きな動きもない。基本的にはテーブルをこする、相手の体をなでる、指人形を相手の腕に這わせるなど、触れることに集中している。だからか、何らかエロティックな余韻がある。セックスに還元されないじゃれつき、というか。デュオということでどうしても砂連尾+寺田を思い出してみてしまう。彼らのようなシンプルで際だつ関係性の提示はここにはない、などと思う。それでいて、飽きてしまうこともない。不思議な充実感がある。それはやはり「なめらかさ」が可能にするものだろう。ときどき文芸誌を読んでいて、あまり内容に共感できないのにすらすらと読めてしまう文章に出会うことがあるが、そうした「すらすら」感がある。それは言い換えれば「秩序」あるいは「統制」であろう。多分ここに、昨年の受賞の理由がある気がする。欧米の審査員にとってこうした運動は好感が持てるのだろうし安心するのだろう。
『終わらない段落』
二口大学の落語のようなリーディングとパフォーマンスがあり、その脇で3人のダンサーが踊る。踊り自体はどうということはない、ときにバレエ的なポーズや「ひっくりかえり」みたいな動きなどがあらわれる。それよりは動いた際の「波及」が見せ所になっているようだ。その「波及」は、相手にとまどったり相手を差し置いたり相手に注目したりする、相手との距離の間に漂っているもののこと。ただ、実にそれはよく言えば繊細で悪く言えば伝わりにくい「小声」なのだ。だから何だ、という気がしてくるときもあり、そう言う気持ちなのね、と寛容に受け止めたくなるときもあり、見ているぼくはとまどう。押しの強さを感じないのは、洗練を示しているようでもあり、切実さを欠いているようでもあり、余裕を感じるようでもあり、淡泊な安定を生きている実感を伝えているようでもある。程のよさを感じる。あえて言えば、中年紳士向けの月刊誌のような(ちょい不良系ではない)、、、いやそんなこともなく、きちっと「毒」が相応にある気はするのだ。しかしそれをどうしようとするのか、毒にとまどう感じは明確に描かれない。それが大人というものなのだろうか。つまり「大人のダンス」だということなのだろうか。

伊藤キムのエッセイから

2006年08月25日 | Weblog
『view point』というセゾン文化財団のニュースレターが届いた(no. 36)。噂には聞いていたが、伊藤キムがこういう発言をそこにしている。「私はカンパニー主宰者であり、ダンサーとしても活動するが、創作からは距離を置く。つまりメンバーが振付けをし、私はダンサーとしてその作品で踊る。私はいわば監修者的な立場となる」。昨年の秋から半年、世界一周の旅行に出て、その間にそうした結論が出てきたのだという。とくに大きかったのは次のような経験らしい。「「ダンスに新鮮味を感じなくなった」と書いたが、それは自分のことだけでなくダンス全般に及びつつある。帰国後、人のダンス公演を観に行くと、愕然とすることがある。「あんなに手や足をいろいろ動かして、いったいあんなことして、何になるんだろう」と。これはもう根本的な問題。「ダンスなんかしている場合じゃない!」というのが、今の正直な思いだ」。まさに正直な感想でドキリとする。ドキリとしてしまうぼくが今度は問題に思えてくる。今年前半、ぼくも同じような思いをダンスに感じていたのだ。画家(音楽家も映画監督も、、、)もそう言う気持ちになるんだろうか、と思う。そうかも知れない。けれども、自分の身体の確信を常に求められるダンスというジャンルは、特別こういう崖っぷちと境を接しているものなのかもしれない。距離を取りにくい、ということがあるのではないか。伊藤のエッセイを読んでいると、世界旅行で経験した社会のあり方と自分のダンスとがうまく重ならないもどかしさを感じたのではないかと察する。この点は、下記のダンスと観客との関係の問題にも繋がっていくことだろうし、大橋さんが特に批評(家)に焦点を絞って指摘してくれたことでもあるだろう。そして、最も根本的な問題として、社会の中にダンス(アート)はどう位置づけられるべきなのか、という疑問に収斂していくことのように思う。

ダンスは観客とどんな関係を取り結ぶのか

2006年08月25日 | Weblog
以前から考えていたことで、拙ブログでもたびたび言及していた「ダンスは観客とどんな関係を取り結ぶのか」という論点について若干の整理をしたいと思う。どうもぼくだけが考えていることではなく、むしろ観客の立場で劇場に足を運ぶ人なら当然感じる事柄らしく、幾つかのブログでまた雑誌で、この論点に関わることが語られているのである。

最初に気になったのは、稲倉達さんの『演劇人』022号(2006年)に載った原稿である(「他者への回路としてのコンテンポラリー・ダンス公演」)。稲倉さんは2004年のピナ・バウシュ公演において舞踊団達が「仲良しサークル」のように映り、「ダンサーたちが形成する集団を社会や共同体のアナロジーとして見ることができなかった」という。公演で示されるもの(とくにその個と集団の関係)と我々の社会との乖離、稲倉さんはそこに、かつて感じていたバウシュ公演への強烈な印象と現在とのズレの根拠を見る。確かに、かつてのバウシュの公演では、シアトリカルなシーンの中に「いじめ」のような場面がしばしばあって、それを見るとき、ぼくも何か差し迫ったもの、自分の現実と区別することの出来ないリアルで切実な何かの表象として受け止めていた。いまでは、そのようなシーンはやや乏しくなりまたその分ソロで踊るシーンが比例して増えている。ひととひととの(また個人と社会の)関係の呈示がじりじりするような痛みを見る者に与えることは減り、その代わり、ひとつのトーンの中に個々人は溶け合わされていく。

さて、この乖離の意識はしかし、「私たちの実生活における周囲への感受性を新たなものにするような公演」を予感させるものとして稲倉さんは捉える。「雇用の流動化」「生活の個人化」が進む社会の中で、ダンスの公演が示すひととひととの(また個人と社会の)関係も変化しているのではないかというのである。つまり、バウシュ公演におけるソロの踊りの増加は、その端的な表れということになる。

問題はならば、バウシュのソロ・パートに我々は現代的なリアリティを感じているのか、と言うことになりもするだろう。ぼくは残念ながら、あまりそこに(例えば)「雇用の流動化」「生活の個人化」が呼び起こすたぐいの現代的リアリティを感じることはない。そこに個人の妄想、個人の暴走が看取されるならば、話は別であろう、が。彼らは実に立派な「ダンサー」であることを我々に誇示するだけなのである。

いやいや、重要なことはそこではない。稲倉さんの指摘で重要なのは、いまの社会状況に親和性のある関係の呈示が行われているのか否かという視点からダンス公演を分析する必要を唱えていることである。そしてそれは、恐らく、単に舞台上での「関係の呈示」と言うこと以上に、観客との関係が「今の社会状況に親和性のある関係」となっているのかどうかを分析することだろう。例えば、コンドルズに関して、

「「流動化」「個人化」を経験した観客には、コンドルズの提示する共同体の心地よさを享受したい、祭りに身を委ねたいと思う一方で、共同体的快楽に没入することへの抵抗感もある。そうした抵抗感を中和し、ベタな事態の回避を担保してくれるのがB級テイストなのだ」

あるいはまた、藤田一のデュオ公演について、「息のあったデュオ」とはほど遠い分、それによって相手の大歳との間に「他者とのコミュニケーションの姿」を露わにした点(稲倉さんは、あまりに稽古の出来た二人だと息が合う分他人同士がそこに対峙しているといった状態が消滅してしまうと考える。だから練習不足にも一分の価値はあるという。まっとうな見解だと思う)に注目して、

「藤田は、藤田・大歳・観客の三者の関係を、「創造者の共同体-観客」という対立関係から、三者が他者として認め合う「公共圏」へと調整を図ろうとしている」

と捉えている。

藤田公演をぼくは見ていないし、コンドルズへの理解は意見を異にする点もあるけれども、稲倉さんの視点は良く理解できるし重要なものであると思わずにはいられない。そうだ、あと、稲倉さんのブログでは、まことクラヴ「シカク」公演に感じたシニシズムの不快感を、昨今の「和食ダイニング」に行ったときに感じる感覚と重ね合わせてみている。興味深い視点だとおもう。

「和食ダイニング」アナロジーに引きつければ、それはまた、公演を「サーヴィス」モデルで見る見方でもある。そう考えると、福岡在住の方達による(らしい。面識なし。その点稲倉さんも同様)このブログでも、今月行われた若い世代の公演が「アングラ」を標榜していることに注目しながら、それが「サーヴィス」の点で反対しようとしているエンタメに負けていると論じている。なるほど、

「そういう「アングラ」はもうダメだと言いたい気がします。なぜなら、アングラ表現が、サービス業資本主義に対する「反抗」として、観客への「サービス」を拒否する「野蛮」となるかぎり、それは既存のサービス業の水準を下回ることになると思うからです。サービス業が感情と身体を拘束し類型化するとするならば、自由な身体はそれに対する「反抗」として野蛮化するのではなく、むしろその産業の先を、それを上回るさらに「洗練されたサービス」のイメージを、観客に与えるべきでしょう。」

この筆者にとって、公演は「サーヴィス」なのだという視点は揺るぎないもののようだ。ぼくにはその理解が興味深い。「サーヴィス」モデルとは別のモデルも考えれば幾つも想定できるはず。リアリティあるパフォーマーと観客との関係は、「サーヴィス」モデルだけではないだろう。ぼくは基本的にはそう思っている。つまり新しい「モデル」をリアリティを湛えつつ提示することがトライアルするべき、新たに公演を行うに値するポイントだとさえ思う。しかし、むしろ現状は、パフォーマーと観客との関係は多様化ではなく偏狭化してきていると見るべきなのかも知れない。先に稲倉さんの原稿に関してあげた雑誌『演劇人』には、菅孝行「新しい観客への旅 他者を素通りする演劇を超えて」が載っていて、そこで菅氏はまさにその狭い(一定の、一義的な)関係を憂うのであるけれど、さて、観客はまさに「サーヴィス」関係以外の選択肢を求めてもいないし、それ以外が有るとも思っていないかも知れないのである。(続)

ピンク『We Love Pink!』(18日 @神楽坂 die pratze)

2006年08月23日 | Weblog
ひと様々思うところは違うのだろうけれども、ぼくにとってピンクの持ち味は「ふてぶてしいほどのかわいさ」なのである。今作で「かわいさ」はことあるごとに炸裂しつづけたわけだけれども、「ふてぶてしいほどの」という点では惜しい!と思わずにはいられなかった(その点、タイトルは十分ふてぶてしい)。
ぼくはこれまでピンクを押してきた一人である。ピンクにとってはめんどくさいファンかも知れない。けれども、ともかく応援せずにはいられないのである。それは言わずもがな、他のグループにはない可能性を感じてしまうからに他ならない。
「ふてぶてしさ」の戦略が豊かに展開されればほんといいのになあと思う。それだけ。その「毒っけ」というか観客を巻き込みつつ無視してるみたいなことが起きてくると、いいのになあ。以前、Aが彼女たちを「パンダ」と表していましたが、そのくちゃくちゃっと一体になって一心不乱に遊んでいる=こっちを無視、ってところが今のところのピンクにおいてぼくの感じる最大の魅力なのだ。それは最後から二番目くらいの夏をテーマにした歌(ノーナリーヴス?)をバックにした時間、やや出てきたものではあるのだけれど。「美しさ」に落とし込むのではなくて、何かもっと不思議なところに動きの落としどころが有るといいのに。

どうもそう考えていると、暴走というか妄想の暴走というか、これが炸裂して見ている側を置いてきぼりにする瞬間というものにぼくは何か強いリアリティを感じている気がする。というか、この「妄想」の話は、実は20日のシンポジウムのときに触れたことでもある(そこではそれ以上話題にはならず、一蹴されてしまったのだけれど、残念)。標準的で正常で誰もが共有可能なイメージに収斂していくことよりも、独りよがりの身勝手な「妄想」の暴走に強い誘惑を、今日的リアリティを感じるのだ。もちろん「暴走」に何らかの引っかかりがなきゃそんな誘惑されないのは当然なのだけれど。後日、この「妄想」のことは、どこかに(ここか、あるいはどこかに)書こうと思います。

48個の石

2006年08月22日 | Weblog
18日には、ピンクの公演(「We Love Pink」)を見たその足で、新宿のニッポンレンタカーに向かった(ピンクについては別記事で書きます)。越後妻有に行くためだ。まずは三時間乗りっぱなしで越後湯沢まで。湯沢に近くなるとどんどん道が暗くなって、トンネルも多くなって「スペイシー」な気分になった。でも、すごく眠くて、それなのにとなりのAは寝ちゃうし、意識を保つのが大変だった。どうにか天国に行くことからは免れて、今日のお宿は「湯沢健康ランド」。湯沢の出口を降りるとすぐにあるここは、休憩室があってそこの利用代込みで2000円。本当は、アブラモヴィッチが制作した「夢の家」に行くつもりだったが、一時頃につく、といったら無理と断られた。そりゃ当然ですわな。

翌日(19日)、朝早くにそこを出て、一時間半ほどで「まつだい駅」へ。八時半頃だったか、今晩のニブロール公演の会場となる農舞台では、トリエンナーレのスタッフさん達がミーティングをしていた。その回りをしばし散策。棚田の細い道を歩くと、イナゴがババババーッと幾つも飛んでいく。昆虫天国なのだ、ここは。とんぼも大きく勇ましい。水も綺麗で、無数の緑色が景色を彩る。でも、ちょっと、暑すぎないか、熱中症に早くもかかりそうだ、とすでに若干うだり気味。近くの川岸でタバコ吸っているSさん(ニブのダンサー)を発見、少しお話をすると、数日で熱中症になった人続出だったそうな。気を付けなきゃ、と二人で駅のショップに行き、帽子と頭に巻く手ぬぐいを購入。十時頃、ダンス公演オーガナイザーのSさんと雑誌編集のSさんと合流。今日は四人であちこちを回る予定。最初に行ったのは「FUKUTAKE HOUSE '06」、廃校になった小学校に東京のギャラリー(小山登美雄ギャラリーなどなど)が入っていたりする。そこから今度は「キョロロ」へ。でも、「キョロロ」内部には入らず、目的はジェニー・ホルツァーの「ネイチャー・ウォーク」を見ること。森の奥深くにどんどん分け入りながら、道ばたに落ちている石を見つけ、そこに刻まれた英語のフレーズを読んでいく。最初はどこにその石があるのか分からないまま、ただひたすら歩き続ける。道脇の小池とかがキレイだったり、真ん中に緑のラインが入った珍しいカエルがいたりして楽しいのだが、 どこまで歩けば石に出会えるのか四人とも分からず、次第に不安になる。しばらくして一個発見。見るとそこには、「I FORGET MY NAME」とある。?自然のど真ん中に落ちている文脈の取れない言葉というのは、「?」ではあるがなにやらファンタジックでもあり、気づくとジャンキーのようにどんどん石を探しまくってしまう。「I RAISE MY ARM TO HIM」とか「BIRDS EATING THEM」とか、歩き続け読み続け。それは、言葉を見つけていくという意味ではネットサーフィンのようでもあり、けれどもそれを自然のど真ん中でやっているというのがきわめて新鮮で、また自然の中なのに気分はロールプレーイング・ゲームをしているような感じでもある。自然と人為のコラボ。歩くことと読むことのコラボ。一時間半ほど、歩き回って、ぼくたちが見つけた石は「48」だった。これ、何個がコンプリートなんでしょう。誰かご存じでしたら教えてください。
そして、昼ご飯を食べた後、例の「夢の家」へ。途中、車のサイドミラーを壊してしまったぼくは少ししゅんとしてここに到着。全体、まったりとしたムードに。棺桶のベットに寝てみるA。寝心地は「暑い!」との感想。最後に松之山で温泉にはいる。薄い緑色で少ししょっぱいお湯は、効きそうって気がした(温泉は「気」が重要)。

さて、七時半に農舞台でニブロール公演が待っている。

神村恵+種子田郷「うろ」(@ダンスがみたい!8 批評家推薦シリーズ)

2006年08月17日 | Weblog
最近二度ほど神村の公演を見逃していて、ようやく見られると期待した今作。普段とは異なるやや暗めな照明に普段とは異なる背中の大きくあいた黒いドレス、で普段とは異なる音響(種子田郷)。ジーンズ姿で明るめな照明、アクセント程度の音楽の使用といったいつもの神村とは異なるとはいえ、神村の本質がいままで見えてこない仕方で見えた公演だった。

それは簡単に言うとこうだ--神村のダンスはホラーである(であった。いま気づいた)。

神村のダンスは、表現的でも音楽に合わせるものでもない。ポスト・モダンダンス的にシンプルな規則(フレーズ)を反復し、その規則のヴァリエーションの展開によって時間が進む。てのひらを前にすっと差し出すとか、足先だけでくるっと半回転するとか、そうしたことを淡々と繰り返す。動いて止まるのシンプルな連続。それがなぜ「ホラー」であるのか。見ている側にもルールは分かっているのだ、けれども、そのルールがどういまこの瞬間瞬間に履行されようとしているのか、それが読めない。いつ動きだすのかが分からず、気づいたら始まり終わっている。思いの外、動きが速いのかも知れない。人差し指を伸ばした手をもう一方の腕の二の腕あたりに持っていく、という動きなど、その意味するところの不可解さはもとよりそれが気づいたら行われてしまっていることにひたすら驚愕。からっぽな脱力した体故の速さか。ともかくも、意志を欠いたつまり無頭のダンス機械が勝手に作動している、そんな感じなのだ。そしてその予期せぬ動きには、名サッカー・プレイヤーのフェイント・シーンを連続で見ているような何とも言えない快楽がある。けれども、それは同時に背筋がぞくぞくする無気味さでもある。

この無気味さは、見覚えがある。とくにあの指し示す指の感じには、、、と考えている内に分かった、これはあれだ『リング』の見てはいけない映像の質に似ているのだ。冒頭の、新聞の文字がそれぞれ大きさを変えたり蠢いたりしているあの感じ、脈絡のつかない映像の連続とその何とも言えない無気味さ。その連想が始まってしまうと、自然音、環境音を用いた種子田の音響がポルターガイストの音に思えてくるし、暗い舞台奥に何かが動いているような気がしてみたり(!)、予期できぬ動きを繰る神村が「ホラー」「心霊」とかのキーワードと重なって強く明確なイメージとなって迫ってきたのだった。

本当に、後半の真ん中あたり、体を左右に揺する神村の体が左に強く揺れて大きく傾いたとき、炎の揺らめきのように揺れながら体が飛んだ(気がした)。それは重さを持った肉体とは思えない心霊現象としか思えないような瞬間だった。本当に怖かった。「コワかわ」とかじゃなくリアルに怖いダンスというものがあるとしたらこれだ、神村の読めない動きではないか。

20日にシンポジウム(麻布die pratze)

2006年08月12日 | Weblog
下記の会に出ます。ぼくはパネラーの中で最年少なので、末席にぽつんと座りつつ、無邪気に言いたいこと言って帰りたいと思います。ダンスというジャンルのなかで世間から一番期待されていないのが批評の立場の人たちだとぼくは感じていますが、しかしそれなりの役割もあるだろうし、責務もあるだろうと思ってもいます。どういう進行になるのかはよく分かりませんが、出来るだけ、今自分が考えている「コンテンポラリーダンスの現在とこれから」についてちゃんと話そうと思います。ぼくとしては「観客(論)について」「劇場という場とダンスとの相性」「国際交流イベントと化すダンス公演の問題」などを話題にしようかと思っています。こういう機会は案外なかったので、興味のある方はご参加頂き、多分、フロアからの質問・意見タイムもあるでしょうから、そういうところなどでどうぞご発言して、盛り上げてください。特に(ぼくよりも)若いひとたちの率直な意見をぼくとしては聞きたいです。




ダンスがみたい!8 シンポジウム
     「コンテンポラリーダンスの現在とこれから」
■…………………………………………………………………………■
★シンポジウム行います。他にも批評家、ダンサーなど多数集まっ
てディスカッションできればと思います。よろしくお願いします。
見た「ダンスがみたい」の半券があれば、無料で入れます。
この20日夜はジャッキー・ジョブ、遠藤寿彦の舞台もあります
★シンポジウム「コンテンポラリーダンスの現在とこれから」★
 日 時:8/20(日)15:00 会場麻布die pratze
 パネラー 前田允 貫成人 木村覚 原田広美
 司会 志賀信夫
 入場料¥500 「ダンスがみたい!8」の半券持参は入場無料

★プロフィル
前田 允(Maeda Tadashi)1940年生。舞踊批評家。舞踊批評家協会
員。舞踊学会員。元日本大学経済学部教授。『ユーカラ'79』文化庁
舞台芸術創作奨励特別賞、バニョレ国際振付賞審査員。静岡舞台芸
術センター審査員。著書『ヌーヴェルダンス横断』『ダンスハンド
ブック』訳書『モーリスベジャール自伝1』『アントニオ・ガデス』
『ローラン・プティ ダンスの魔術手』『舞踊のもう一つの唄』『オ
ペラ座の子どもたち』など多数

貫 成人(Nuki Shigeto)1956年生。舞踊批評家。舞踊学会員、国際
舞台批評家協会員、日本ダンスフォーラム会員。トヨタアワード2005
選考委員。専修大学文学部教授。現象学、現代思想、舞踊美学、歴史
理論。ピナ・バウシュについて執筆多数。著書『経験の構造-フッサ
ール現象学の新しい全体像』『哲学マップ』共著『はんらんする身体』
訳書『フッサールとフレーゲ』

木村 覚(Kimura Satoru)ダンス批評。大学講師。21世紀COEプログ
ラム研究拠点形成特任研究員。美学、土方巽の舞踏論研究。舞踊学会
会員。執筆「踊ることと見えること 土方巽の舞踏論をめぐって」
(美術手帖第12回芸術評論賞佳作)。著作「人形少女は傍若無人」
TH叢書21。「室伏鴻「 硬くて柔らかいエッジで踊る 」美術手帖
2005.12。など多数。http://www.page.sannet.ne.jp/kmr-sato/

原田広美(Harada Hiromi)舞踊評論家、サイコセラピスト、ワーク
ショッパー、パフォーマー。舞踊学会員、日本芸術療法学会員、
国際演劇協会会員。1998年度第8回日本ダンス評論賞入選。ディプ
ラッツ「ダンスが見たい」実行委員。「DansArt」「公明新聞」
などに執筆多数。著書『やさしさの夢療法』『舞踏BUTOHU大全-暗黒と
光の王国』http://www.h5.dion.ne.jp/~hiromi29/

志賀信夫(Shiga Nobuo)1955年生。舞踊批評家。舞踊批評家協会員。
舞踊学会員。テルプシコール舞踏新人シリーズ講評者。アサヒアート
スクエア実行委員。ディプラッツ「ダンスが見たい」実行委員。著書
『海外で輝く』共著『講談社類語大辞典』『フランス語で広がる世界』
執筆「笠井叡、ニジンスキーを踊る」TH叢書26「イダ・ルビンシュタイン」
TH叢書26。「土方巽の『禁色』」Bacchus 3。「『マルドロールの歌』の
少年たち」TH叢書24。http://www.geocities.jp/butohart/

細田守『時をかける少女』

2006年08月12日 | Weblog
そして昨日の晩、『トキカケ』をテアトル新宿で見た。半端なくすごい作品だった。剛速球だった。いろいろと思うことがあるのだけれど、一つあげるとすれば、このアニメが「脱萌え」アニメだということだ。主人公真琴はボーイッシュで、いまどきな超短いスカートをはいて、野球やったり自転車乗ったり飛んだり転がったりするが、決してどんな場面でもパンツがチラリとすることはない。宮崎駿だったら、絶対チラリとやるはずのところで、やらない。「萌え」の要素は他の妹とか下級生に任せて、本筋を握る彼女にはそういう「余計な」要素はまぶさない。それがまず、潔く、物語の中身ともよくあっている。「物語の中身」と書いたが、テーマは「届かない思い」(!)なのだ。何いってんの~と笑うなかれ諸氏。見れば分かる。「届かない思い」は脳内恋愛(本田透)とは違う。オタクの脳内恋愛は自己の欲望の完成。けれども、「届かない」は、相手(他者)への思いに根ざしている。自分にはどうにもならない他者というのがいて、けれどもどうにもならないけれどもそいつが好きで、という至極まっとうでしかし今時ほとんど表現されない気持ち。で、その「届かない」という究極の悲しさと何度も無邪気に跳躍する真琴の姿が重なってくるのであり、とか何とか言っている内にうるうるし始めてしまうぼくは、細田監督に完敗した!という気分なのです。

『時をかける少女』、、、じゃない

2006年08月12日 | Weblog
昨日は午前中から仕事で赤坂へ。早くつきすぎてしまい赤坂稲荷神社をうろついたりしていた。十一時に待ち合わせだったのが四十分くらい早くついてしまい、それで本屋を探してみるものの、十一時にならないとあかないというのだった(赤坂は夜の街なんだな、なんて思ったり)。あるスタッフの方々とある打ち合わせを進める。そこでのKATHYの人気・注目度は絶大で、映像を見てもらってもそれに対してすごいよい反応が返ってくる。当たり前だけれど、よいものはよい、のだ。

二時頃にこの件を終え、少し時間があるので六本木に行き、「アフリカリミックス」を見た。ワンチゲ・ムトゥの作品にはぞくぞくするものを感じたがその他の作品の多くは、非植民地に生きる者の怒りや不安や望みがテーマになっていて、いたしかたないとはいえそのことが少し切なく、原動力(作品を造る欲望)として、それ以外のものはないのだろうか、という思いをどうしてももってしまう。けれども、個人の無邪気な自由が作品の原動力になるはずがない、少なくともこうした世界的な交流(アフリカの作品をヨーロッパのキュレイターが展覧会化しそれを日本人が見るという状況)のただ中に作品が置かれている、といったレヴェルならば、なおさら。などと、ヒルズに行く途中で買った村上隆『芸術企業論』を読む(次の日、つまり今日さっきまで読んでいたのだけれど)と、そう言う気持ちをより強く持つ。「自分勝手な自由からは無責任な作品しか生まれません」(村上)。

ヒルズから歩いて麻布die pratzeへ。大岩淑子「夜明けのしっぽを聴く/Listening to My Tail at Dawn」。客演というべきか康本雅子が出演する(+オリヴィエ・ベッソンというスチーブン・セガールみたいな体躯のダンサーを含め、計三人での舞台)、ということが見に行った動機としては強い(トヨタでは事情があり、結局モニターでしか見られなかったので)。チラシには西田留美可によるこうした解説が付いている。「深い瞑想状態の身体を見るとき、見る側の意識レベルも試される思いがある。ダンスを見るのも、一つの意識の冒険だ」。もちろんこの解説は、公演前に書かれていたもので、公演自体をトレースしたものではない。けれども、ぼくは「深い瞑想状態の身体」につきあったような気がしていない。何かを試された気にもならなかったし、冒険をした気にもならなかった。何を経験したかといえば、とくに大岩の動きに関してはぼくはまったく何も感じられなかった。「とっかかり」がなく、なめらかにどんどんすすむ「ひとりごと」を聴いているような感じだった。そのことが切なく苦しくやるせない。客は、ちょっとコミカルなダンサー同士のやりとりで笑ったりしているが、そこで笑わなかったら金払った分元とれないという気持ちで笑っているようにしか思えない。つまり、その笑いは実にトリヴィアルでダンスに何ら関わりのない故に「だじゃれ」的なものでしかないからだ。大岩の経歴を見ると「トワイラ・サープ」とか「ビル・T・ジョーンズ」とか「プレルジョカージュ」とかなんかビッグなものたちとの関わりが出てくるのだが、アイディアの基本はモダンダンスの枠内にあるのではないか。モダンダンスには、個人の表現の自由を解放する運動という一面がある。この公演のとくに大岩にはそういう解放の精神というものが反映されている気がする。しかし、そこで解放されているのは(いるとすれば)、ダンサー一個人の精神にすぎないのではないか。というのも、ぼくの心は彼女のダンスの間、何ら解放された気がせず(西田さんは感じるんだろうか、あるいは感じることが出来ず、そんな自分が「試されている」と感じるのだろうか)、あるいはまたぼくの心と重なることを許してくれるダンサーの「のりしろ」はまったく探し出せなかったからだ。この段階にとどまる限り、ダンスは「自分勝手な自由からは無責任な作品しか生まれません」と誹られても言い返す言葉はないだろう。しばしば考えさせられる、モダンダンス的理論の弊害を今日も感じたのだった。

それで、ぼくが見ていたのは(見る楽しみとしてぼくに与えられていたのは)、康本のシャイネスだった。変なことを書きますが、(でもね、重要だとぼくは思ってるんですよ、実に)、大岩は乳首が服から透けててもいっこうに気にする様子がない一方、康本は実に周到に乳首の輪郭がでるのを隠している。これは、端的に見られるのがいやだからだろう、普段女性たちが人前でブラを着けているのと同じ心境。そんなところから、康本からは観客に「見られること」を意識していることが伝わってくる。一方、大岩の場合、見られていることをあまり気にしない、あるいはダンスというものはあるいはダンサーというものはそれでいいのよ、という意識が前に立っていて、観客に「見せる」意識が強い。その意識が乳首を通してこっちに伝わる。そしてそれは(多分、明け透けに自分自身をみせますよ的メッセージなのかも知れないが)むしろこちらに対するバリアになってしまっている。彼女の考えるダンスのコンセプトがつくるバリア。それは思いの外うざったい。少なくともダンス外部の人にとっては端的にそれが違和感をうむ(以前、美術系の制作の方にダンス公演を見てもらった時、異常に彼が「乳首見えてる!」と興奮していたのを思い出す。彼は興奮していたのではなく、ほんとはとまどっていたのだろう)。康本は、明らかにその点、「ふつう」だ。乳首以外にもうひとつ例を挙げられるのだが、ぼくもシャイな人間なのでこれ以上は控えたい。ともかく彼女は普通に踊ること、人前に出ることに対してシャイだ。そのシャイネスが見る者を安堵させる、気持ちを近づけさせるのだと思うのだ。

で、ようやく「トキカケ」の話になるのだけれど、ここで一回切ります。

「コドモ身体」はジャドソン+八十年代文化+α?

2006年08月10日 | Weblog
書き直す場合もあるということで。暫定的なメモです。


南烏山ダンシングオールナイターズの卒業制作公演を見た。これは、桜井圭介が一年間南烏山のスタジオで続けたワークショップの成果として生まれた公演であった。いざふたを開けてみると、桜井的センスが圧倒的に連発(確かに「吾妻橋ダンスクロッシング」よりはその傾向は強いのだけれど)、ということには簡単にならず、とくに自分の作品をすでに発表したことのあるダンサーたちからは、本公演は自分の作品発表の機会と捉えられていたところがどうもあり、実験的な要素が薄いところもあった。それにしても、いきいきとしたダンスを発見する、その際、いわゆるダンスでなくてもよい、というアイディアはそここに確かに散見できたわけで、こうした作品からは、桜井がこれまで説いてきたメッセージが具現化していると受け止められたのだった。例えば、腰を回すための円盤形の器具の上に乗り、腰を回す、というだけの作品。回すと腕も首も自ずと(勝手に)動く。ひとつの制約が身体の個性や自由な動きを引き出すきっかけになっている。そのときに、踊り手の身体的スキルとかは必要ない。むしろその人らしさがダンス的な何かに汚染されることなくむき出しになっている。パフォーマーは恐らく素人。けれども、動きの魅力はある。


それはすなわち、ダンスを一端やめてみると同時にさらに日常的に動き続けている身体のなかにダンスを発見していく実験だった。今回、自分の内面から現れてくるものに開く、といった姿勢からつくられた作品が多かった。それは、大別すれば、モダンダンスが初発にもっていたアイディアに近いと言えるかも知れない。それに対して先に例示した作品などは、ジャドソンダンスシアターやその周辺で試みられていたことに近いと言える。例えば、トリシャ・ブラウンが手をつないだ二人に足をくっつけた状態でバランスをとりながら一歩ずつ前進させたり、ロバート・ラウシェンバーグがタイヤに足を突っ込んだ状態でパフォーマーを歩かせたりしたことを思い起こしてみるといい。彼らの一見ばかばかしく見える実験を無視することなく「ポスト・モダンダンス」の思考の核心を捉えようとすれば、桜井がこの2005-6年に試みたこの「南烏山」は、さらにいえばその根底にある「コドモ身体」というキーワードは、そのアイディアにおいてジャドソンと重なる面があると見るべきだ。結果出てきたものは違うところはある、それはそうではあるのだけれど。


こうして、六十年代のアメリカの動向と、ゼロゼロ年代の日本のダンスの一傾向とを重ね合わせてみた。ただし、どうもそれだけでは不十分な気がしている。桜井のセンスを顧みる時、この二つの時代に挟まった八十年代を無視することは出来ない、恐らく。
もちろん、こんなことを考えるようになったのは、宮沢章夫『東京大学「80年代地下文化論」講義』によるところが大きい。宮沢は、80年代には「おたく」の台頭あるいは「バブル」ばかりではなく、「かっこいい」文化があったと指摘して、例えば80年代のセンスをこうまとめたりしている。「とにかく80年代全般を見渡して感じるのは、ある種の清潔感というか……乾いたものとか、冷めたものとか、そういうもののほうに意識が向いていたと考えられます」。つまり、ピテカントロプス・エレクトスというクラブを中心にした一種貴族主義的な、排他的で洗練を求めた、それでいて独特の「笑い」と「毒」を携えていた80年代のセンス、それを宮沢は浮彫にしようとする。その際また、キーワードとなるのは「不合理」だったりする。
ある種の清潔さとある種の笑いとある種の不合理さの擁護。この要素が桜井のことを考えるのに不可欠であるのは、間違いない。「南烏山」ならば、音楽のセンスにそういうもの(とくにある種の清潔さ)を感じるし、今回のやはり素人の一人である橋本さんの動きなどには「ある種の笑い」を感じることが出来る。


それでさらなる問いは次のようになる。では、この六十年代、八十年代、ゼロゼロ年代を貫くものは一体なんなのだろうか。これは、批判的精神とある種の貴族主義ではないだろうか。それを考えるには、ソンタグの考察した「キャンプ」という概念を振り返っておく必要がある。64年にソンタグは「キャンプについてのノート」を書いた。そこでキャンプは例えばこう説明されている。「キャンプ趣味がやるのは、ある種の情熱のこもった失敗の中に、成功を見出すことなのである」「キャンプの趣味は、高尚な文化の感覚だけが洗練を独占しているわけではないという大発見に基礎をおいている。よい趣味は単によい趣味であるのではなく、実は悪趣味についてのよい趣味もあるのだということを、キャンプは主張する」。キャンプの趣味は、高尚な文化に対する直接の抵抗ではない、その文化の感覚を放っておいて、別の基準を打ち立てる。それは「できそこないの真面目さ」に「やさしい感情」とともに価値を見出していくことだ。で、それはソンタグによれば、ワイルド的デカダンスの六十年代的展開であり、一種の貴族主義であり「みずからでっちあげたエリート主義」なのである。
もちろん桜井とソンタグの間には細かい相違点はいくらでもあるだろう。例えば、ソンタグはキャンプの例に『白鳥の湖』やマーサ・グラハムをあげたりする。彼らの真面目に自分を演じきろうとするが故に陥る失敗をソンタグはキャンプと見なす。この点に関しては、桜井のダメ身体とキャンプとの相異点は明らかだろう(ところで、彼の「ダンス教室」のビデオにしばしば冒頭で登場するJBはキャンプかも知れない、、、余談)。なぜならば、桜井にとって重要なのはダメであるものにこそ生き生きとした身体が生まれているという点であり、だから観客はそこで「やさしい感情」ではなく「(そのダンスに)のる衝動」にこそ身を委ねているはずだから。ならば翻って、キャンプ的視点転換が生き生きとした身体の発見を導くと考えられうるならば、桜井の視点とキャンプはきっちりと重なる。ただし、そこまで厳密な合致をもとめないならば、ダメなものに対して新しい価値を与える姿勢は、間違いなく両者共通するものであろう。(さてそうなると、ではジャドソンとキャンプの関係は?と問われることになるだろう。そこは、ジャドソンの拙研究が進まないと何とも言えないのではあるが、冒頭にあげたような一見ばかばかしいアイディアに邁進する傾向の中には、キャンプ的趣味と連続するところがあると見てみることは出来そうだ)
ともかくも両者に共通するのは、端的に言えば、オルタナティヴを見出していく精神である。さて、この点で、「不合理なもの」を追求する「かっこいい」80年代的精神とキャンプ的趣味がまた重なってくる。「パラノ」ではなく「スキゾ」であること、常に逃走し、遊戯的であること。


以上から、桜井のコドモ身体というコンセプトには、この六十年代的精神と八十年代的精神の混合が指摘されなくてはならない。こう見た時に、このコンセプトのポイントが明確になるはずだからだ。しばしば起こる誤解に、「コドモ身体」は「コドモ」とあるから、そして「コドモ」は無垢で純粋なものであるから、「コドモ身体」とは無垢で純粋な身体を賞揚するアイディアだ、というものがある。こうした批評的視点が欠けた故の短絡的な誤解を避けるためにも、この20年間隔で起きたムーブメントのゼロゼロ年代的展開としてコドモ身体を捉えることが不可欠であると考える。
さて、もしここまでの仮説がある程度説得力を持ちうるとした場合、次に問うべきことは、コドモ身体の現代的なリアリティである。つまり、コドモ身体のコンセプトは単なる六〇年代と八十年代の焼き直しではないはずだ。現在の状況に対するリアリティが、古の趣味や精神に似たものを回帰させたと考えるべきものだろう。ならば、それは何なのか。言い換えれば、キャンプが高尚な文化のオルタナティヴであろうとし、ジャドソンがモダンダンスから自由であろうとし、「かっこいい」文化が「おたく」を軽蔑しようとしたように、コドモ身体は何かに対するオルタナティヴであり、何かからの自由の希求(逃走?)であるはずだ。さて、それはいったい何なのだろうか。(一旦休憩)

南烏山ダンシングオールナイターズ

2006年08月06日 | Weblog
のことを書こうと思っています、昨日見ました。

でも「南烏山」の個々の作品という以上に桜井氏のコンセプトがどういうものであるのか(これまでのところどういうものであったか)を少し整理してみたくなっています。その際、試しに、ダンス20年周期説なるものをでっちあげてみようと思っていまして、そのためにちょっと時間が欲しいのです。


水戸のこと、亀田バッシングのこと

2006年08月05日 | Weblog
水戸芸術館に行って「Life」展を見た感想、を書く前に。
亀田バッシングと欽ちゃん球団の解散→存続のプロセスとが何か関係しているような気がして、それをここに書いてみたい気がして数日が過ぎてしまった。ぼくが亀田家のゴーストライターだったら亀田はここで負けの方がいい、と考えただろう。この考えは欽ちゃんが一回「解散!」と言ってしまったために解散しなくて良くなったことに繋がっている。無理矢理でも成功していくプロセスにひとは何ら良い反応を示せなくなっているというのが、いま日本的メンタリティとして蔓延しているように思う。「お膳立て」に対する拒否反応、といってもいいかもしれない。ほんとにこのことで言えば、今回の中継は「お膳立て」というか、番組作りというか、やりすぎだった。戦う前からあまりに亀田が露出しすぎている。練習風景とかはまだしも、あきらかに試合直前という時期にスタジオで撮ったろうポーズとかインタビューとかはスポーツ選手として過剰だった。そこまでしなくても、という感じだった。試合前一時間、ひたすら視聴者は「亀田家劇場」とでもいうべき番組をみせられ、すっかりアンチ亀田になったところで試合をみせられたわけだ。この番組作りは、スポーツが「生」ものであることをほとんど無視していた。もう亀田が勝つことはあらかじめ決められていたようだった。だが、いざ試合が始まると、対戦者の老獪さが際だち、それとは対照的に亀田の幼さが目立ち、それがひたすらリアルだったわけで、そのあまりのギャップに視聴者はくらくらしてしまう、ということになったわけだ(この対照性は、W杯の日本代表を彷彿させるものでもあった)。
とはいえ、この「あんまり」な番組のあとで五万五千件もの抗議の電話というのもべただ「あんまり」だ。二つの「あんまり」感に数日ぐったりとなった。勝敗に関して非常に曖昧なところがボクシングにあることは、少し続けて(テレビとかで)ボクシングを見ていた人ならば分かっているはずだ。
で、もっと「やんなっちゃうなー」と思ってしまうのは、ここぞとばかりに(つまりバックラッシュ的に)そもそも亀田のしゃべり方がなっていないとか、話を礼儀の問題にしていく人たちの存在だ。例えば、コラムニストの勝谷氏はこう書く。

>まずは日本人の一人としてファン・ランダエタ選手とその関係者そしてベネズエラ国民更には世界中のボクシングを愛する人々に深くお詫びを申し上げたい。スポーツは世界共通の言語である。そのステージに上がるものには共通した倫理や価値観を守るという責任がある。いかに愚民化が進んでいるとはいえ一応OECDの構成員でありG8の一角を占める日本国の許認可事業たる放送局やWBAに籍を置くボクシング協会が関わった試合でかくも下劣で下品で虚偽に満ちた行為が行われた事は私自身ボクシングを心から愛するものとして慙愧に耐えない。世界共通の言語で同じステージの中で行われた以上この出来事はボクシングの歴史の中に刻まれる。そして未来永劫いかなる国のいかなる時の人々もこのことを振りかえることが出来るのだ。これを日本人としての国辱と言わずして何であろう。

気づけば日本人論になっている。そこに驚く以上に、ボクシングを心から愛している人が、ボクシングの悲哀について知らないはずはない。沢木耕太郎のボクシング・エッセイを読めばすぐに、ボクサーという存在がさまざまな黒い力学のなかで生きている(そうせざるを得ないところがある)ことは理解できる。美化するところを恣意的に美化するいっぽうで、叩きたいものは恣意的に悪しきものとして拡大解釈する「大人な」やり方こそ、いかがなものか。それこそ子供に見せたくない、美しくない行為ではないか。

僕たちは、こういう自分勝手な誘導にかなり敏感になっている。いやだな、と率直に思う。でも、そんなひとばかりなので、事柄の本質が殆どかき消されてしまった世界ばかりを見せられている。すべてのテクストは誘導だ、ということも出来るかも知れない。で、あれば、結局重視するべきは、あの試合の間に僕たちが見たもの、それしかない。何を見たのか。

時間切れです。南烏山ダンスクロッシングに行ってきます。

勝谷誠彦のXXな日々。