Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

壺中天+Noism05

2005年12月25日 | Weblog
新国立劇場で行われていた二つの公演をハシゴした。壺中天については、後半の30分を見逃しているので、十全に観賞したとはいえない。けれども、不勉強でこれまで壺中天を見ていなかったので、その欠を埋めることには多少はなった(壺中天のスタッフの皆様、無礼をお許し下さい)。

『2001年壺中の旅』
暗黒舞踏の衣を纏ったコンドルズ、というと誤解が多いだろうか。冒頭の、観客に正面を向いて「カーテンコールに応えるとき」のように横並びになって、緑と赤の混じったクリスマスカラーの花吹雪のなかスローモーションの動きを繰る。例えばこのときの「正面性」が、ぼくにとってはコンドルズ的な、観客へのサーヴィスに重点を置く振る舞いに見える。これは、純正の「土方巽」的アイディアではない、と言うべきだろう。白塗りの男たちは、観客を無視して没頭する没入度が低く、むしろ柔らかいくねった、しかし赤子というか知恵遅れというか独特の逸脱の表情をともなってすぐに観客にアピールしようとする。呆けた恍惚を含んだような佇まいの八人ほどがしゃがんで舞台の前景に並ぶ。ひとりひと呟き(「おえ」「スゴイ」など)を漏らし、それが絡まる。その姿は、昨日たまたま行った鎌倉・長谷寺で見た、仏像だの羅漢像だのを思い起こさせる(写真は鎌倉大仏)。「日本的なもの」のとくに「ゆるキャラ」な面が発揮されている?このテイストには非常に興味をもっているけれど、やっばり「キャラ」を目指すとキャッチーになる分、動きは止まりがち。暗黒舞踏の身体を用いたコント。
その後、一人がちゃぶ台とともに踊る。ちゃぶ台の円形が上半身を隠し脚とその円だけになるとなにやらシュルレアリスティックに見えたりはするのだけれど、これも多くは「絵」としての魅力であって、あまりはらはらはさせられない。
バットをもち体に電飾を巻きつけた男(鬼?)が、白塗りの男たちを脅して、パンツからはみ出したソーセージを一人ずつ包丁で切り落とさせられる。立て切り輪切り、「指つめ」にも見える。悪夢の光景?人体改造の快楽?醜くソーセージが切断され嗚咽がもれ、とこれらはまさにコント。ここに、なにやら読み込みをすることも「あり」かもしれないけれど、そういうことよりも、こういう一見グロなパフォーマンスが笑いを喚起するショーになっていることの方が重要だろう。
でも、これは次のパートのための前段に過ぎなかった。去勢された男たちが苦悶しながら横たわり、そして次第に踊り出す。自分のペニスをまたの裏に挟んで、一見女性的デルタができあがると、眉毛のない白塗りのごつい男たちが「女性のヌード」に見えてくる。案外柔らかい下半身の曲線。悶絶と諦めと恍惚がさまざまなポーズを作る。それは、いわばストリップ的な何かだ。いや、ストリップを演じているのではなく、暗黒舞踏の衣を借りてのストリップそのものだ。
観客とのかけひきも、社交もない。あくまでもどこまでも観客にサーヴィスする。観客は大いに笑い自分の欲望の成就に満足している(ように見える)。彼ら異形の人間たちから、こんな形で観客の欲望を満たす回路が引き出されていることには驚くが、でも、それは多分アブジェクションの諸々の対象がもつ様々な機能を考察した上で、その機能をエンタメ的に(ただし批判的にではなく)使用した結果に過ぎない。衣は舞踏でも中身はそうではない。演劇的に見える。芸能的に見える。そこに麿赤児らしさが見える。

Noism05『NINA 物質化する生け贄』
「物質化する生け贄」とは「人形」化した人間ということか。女性ダンサーは、白と言うより肌色のレオタードで硬直している。この「硬直」が「物質化」のイメージ化した部分なのだろう。そうした体によって硬くシャープに引かれる線が終始この作品のカラーだというように現れる。あとは基本的にバレエ的なヴォキャブラリーでやはり力強い運動がこれでもかと繰り出される。迫力としてはスゴイ、これは否定出来ない。けれどもこれは「ダンス」なのだろうか。ダンスでないとしてならば「アート」なのだろうか。ダンサーの身体は迫力があるが、振付にダンシーやアート的な批評意識が余りない。「はっ」とするような関係への反省がない。技巧至上主義。うん、そういう点では、例えばダンサーにとってこの作品は見応えのあるものなのかも知れない。「凄い正確な動き!」と感嘆するのかもしれない。出来ないことが出来ているのを見るのは、端的に感動的なものだろう。でも、その感動はダンスなのだろうか、アートなのだろうか。
後半の後半に、突然それまでにないカラフルな舞台になると、赤い服を着た金森が柔軟なまさにダンシーな動きとともに現れた。うわ、いい、でも、それずるいジャン?彼以外のダンサーたちはことごとく統制されていて管理されていて--その様が美しい、とはいえ--その一方で金森本人は気持ちよく舞台で暴れる。そこ、金森さんのなかでどうなっているのだろ、土方を筆頭にしばしば言及される、振付家のダンスはいいんだけれどその下で踊るダンサーの動きがどうしても硬くなりがち、という問題、気になった。

吾妻橋ダンスクロッシング(第3回)とは(K村目線)

2005年12月25日 | Weblog
Off Nibroll「Public=un+public」
今年の春に横浜で行われた同タイトルのデュオ作品の素材をもとに新しく作られた作品。ニブロールについては『BT/美術手帖』では大きく取りあげることが出来なかった、という後悔がある。それは(ぼく個人の気持ちを言えば)、ダンスの諸要素の中でもダンシーを強調して特集しようとしたために、感情を強く揺さぶる、ナラティヴ的要素の強い矢内原のダンスをそこに位置づけにくかった、ということがあったのだけれど(もちろん、桜井氏は「ダメ身体」論のなかに矢内原を入れ込んでいるのだけれど)。あえて取りあげる必要のないくらい評価の定まった存在、ということもあった。ん、でも、けれど、やっぱりニブロール(とくにダンサー矢内原)の存在感は凄い。始まった瞬間、矢内原が身をかがめたり、腕を大きくうえに伸ばしたりまたねじ込んだりするときににじみ出てくる感情というのは、他のどんなダンサー、振付家の作品にもない「リアル」な手ごたえがある。舞城とか西尾とかと並べて考えることの出来る唯一の存在ではないか、例えば。閉塞した、それなのに何かがやってくるのを渇望している、切実ででも身勝手ないまの「わたしたち」を表象している唯一の存在ではないか、例えば。「腕」ということを書いた。「腕」の表情から何かを引き出す方法は、ピナバウシュにまで続くモダンダンスの女性性の表現(女性的な表現あるいは女性性の表現)へと接続するものと思わずにはいられない。けれども、その表情が伝える豊かさにおいて矢内原に匹敵するひとが他にいるだろうか。ピナ・バウシュのダンサーたちに決して勝るとも劣らない地点に彼女が立っていることは、「共通認識」にしなくちゃばならないことだろう。「リアル」ということで言うと、ぼくはほんとダメなのだ、彼女が踊り出すと訳も分からず矢も楯もたまらずからだが泣き出してしまうのだ。そういうこと、をリアルというのだろう。

ボクデス&チーム眼鏡「親指商事・営業課」
ボクデスのポテンシャルを可能な限りエンタメ極へと引っ張っていった舞台と言ったらいいか。ボクデス含め五人でやると、「Watch man」(体のいろいろな場所に付けた「時計に目をやる振る舞い」が「ダンス」となる作品)や電車の中で突然もよおしてしまう「内股のこすれ具合」が「ダンス」となる作品など、これまでのボクデス定番作が説得力を増して見えてくる。もちろん、五人に増えれば五人の身体それぞれの個性が露出し、ときに「演劇的」にできあがった身体の持ち主からはボクデス的バタバタ感が希薄で、ボクデス本人の身体とのズレが気になる場面もなくはなかった。でも、ラーメンを食べる作品で、白い麺が三本ぐにゃぐにゃと揺さぶられつつ勢いよく運動する様は、チーム眼鏡とやることでできたスペクタクルだろうし、その瞬間の迫力と説得力は十分だった。

康本雅子「ようこそココへ」
チーム眼鏡とのコラボで、彼女が踊っていると突然彼らが彼女に衣服を着せたり脱がせたりする。

ko&edge「DEAD1」
今回は、鈴木ユキオを欠いた三人で。暗転すると銀粉を塗った三人が逆立ちしている。首が折れて切れているように見える。脚や腕の佇まいが樹を連想させる。オブジェ?美術作品のようだが、無理な姿勢で体が微妙に揺れる。まったくクレイジーな静止いや微動。脚が折れ体が屈む、それでも止まずまだそのまま、いやさらにまた脚が上がりだした。そこから、何が始まる?この苦行の意味は?次の展開を待ち望む観客の前で、立ちあがるでもはいつくばるでもなく、不意に照明が消えた。「死体」に誘惑される観客に、誘惑だけ与えて「えさ」をやらない。吾妻橋という場所に相応しいワン・アイデア、でみせた。

SNACKY! & GIRLS (ピンク)「わたしはSNACKY!」
ダム・タイプに所属していた砂山典子がSNACKYいうキャラになって登場、バックでピンクがダンサーズになって援護。タイトル曲を歌う男装(ダイク?)のSNACKYは、ナルシス(のばかばかしさ)を、コミカルにまたある種かわいくアピールする。エンタメであって、クリティカル。そして多分、演劇という枠でもパフォーマンスという枠でもできないこと。ダンスのポテンシャルを考えさせられる。明るさと批判、批判と明るさが共存する作品は、今回の「目玉」だった。

alt.「言葉に揺れる水」
宮沢章夫氏の主催する遊園地再生事業団が近年行った作品の一部を用いた作品らしい。「alt.」の名は彼が演劇以外のパフォーマンスをするときのグループ名称。ある日犬地散歩していた男が川べりで若い女の死体を発見する、というエピソードを映像で見せ、舞台上ではその死体の女が青いワンピースを着て仰向けになっている。そこに、独白を続ける女性や男性が水を満たしたコップを舞台上に等間隔に並べてゆく。正直、どこからダンスを引き出そうとしたのか皆目分からなかった。コップをもって歩く身体?いやそれだけではダメだ。こなれている役者の動きは水をほとんどこぼすことがなく、その身体は役割をこなす身体に甘んじている。

(休憩20分)

ボクデス「夢で会いましょう」
横トリの「ナカニワ・ダンス・パフォーマンス」でやったもの。倒れたボクデスが独り言をむにゃむにゃ呟く、その「夢の実況」?に反応して、背中を床につけた窮屈な格好ながら手足がばたばた動く。これ、好きだな。言葉がどんどん勝手な誇大な妄想を膨らませるのに、こっちのイメージも膨らんでいく、でも、ボクデスの体はそんなに激しく変形するわけはない。そのせいで、そのイメージの誇大さがむしろきわだち滑稽さが増す。「あっ、右腕20メートル、左腕20メートル、右脚20メートル、左脚40メートルになっちゃった!」と言われると、その変な体が頭に浮かぶ。「浮かんだイメージ」が「ダンスの身体」となるならば、例えば舞城の小説が身体を表現するやり口とこれはおなじじゃないか。でも、それを舞台上でやる、というとき、現実のボクデスの身体にぼくたちはイメージを重ね、分身を見る。それは、舞城が描くイラスト以上に面白いものではないか。

マトリョミンアンサンブル”マーブル”「黄金の下に大集合」
マトリョーシュカ人形がテルミンになっている「マトリョーミン」を操る楽団。ボクデスがむにゃむにゃしている間に登場。ロシアのサイキック(心霊的)なものへの愛好と科学とが出会ってうまれた(?)奇妙な楽器。一曲ごとにしなきゃならないらしい演奏前のチューニングのときの様子とそのとき出ちゃう音が最高で、人形が怒ってたりイヤイヤ言ってたりしているみたい。

ほうほう堂×チェルフィッチュ「ズレスポンス」
チェルフィッチュというよりは岡田利規くんがほうほう堂と一緒に作った作品、ということなのだろうが、コラボした成果が際立って見えてくることがぼくの目にはなかった。「レスポンス」も「ズレ」もそれほどピンと来る感じではなく、むしろ装飾的なある意味では「ノイジー」な部分が二人だけでは出なかった部分の「匂い」を感じさせた、というくらいか(あと、あの、後半に流れる曲がよかった。あの曲の選択は岡田くんだろう)。シンプルで太いひとつのアイディアで何かを示して欲しかった、と正直思う。

康本雅子「雨ったれ」
ボクデスが最初と最後登場したりしたが、そのことよりも特筆したいのは彼女の作品が以前よりもシャープになり彼女のダンスのポイントがクリアになって見えた、ということ。つまり、彼女のダンスはナラティヴ(物語り)の要素をダンスへと転化させるところにある。この点は、矢内原のダンスとも共通点があるのだけれど、何か「感情の発生する瞬間の動き」がフラッシュバックのように、あるいはパッチワークのように並べられていて、それがどういう物語を語るものなのかの一本線こそ明らかにはしないものの(一本化することを巧みに避けながら)、物語の一片(一瞬)がもつ力をいわば駆動力にして進んでいく。切って貼って切って繋いで。その欠片ひとつひとつには、観客を引き寄せ、誘惑し、あるいは引き離し、にらみつけるさまざまな要素が含まれていて、観客は一定の筋にのって安穏とすることを許されずそれを次々と瞬間瞬間受けとめる他ない。そのひとつひとつの欠片と、それらの連なり、が彼女のダンスであって、そこには独特のユーモアと批評とが含まれている。

首くくり栲象/室伏鴻「わが魂のジュリエッタ/DEAD2」
「首くくり」は、ぼくの目からすれば自傷系のナルシシズム。「オタク」とか「少女殺害事件」とかに遠く近く連なる引きこもり的パフォーマンス。それを中心に黒沢美香や室伏鴻が脇を囲む図は、正直この企画のベクトルとは正反対のものを生みだしてしまった。これはアカン。この儀式のために「舞って」しまった黒沢は、首くくりのための重い台を運ぶ冒頭での実に安易な動きに象徴される一種の「ミス」をここでおかしてしまった、と言う他ない。唯一、その儀式の間何もしないで「首くくり」を無視し続けた室伏の「放置」には、僅かなりとも自傷系ナルシシズムへの批評性が示されて救われた。

C. Snatch Z. 「How to use the weapon」
砂山典子が尖った胸とペニスをつけたアンドロギュノスなコス姿、タイトルへの答えとして、機関銃の先に花をさして登場。ボクシンググローヴをはめて背後のロープに現在の権力者たちの写真を並べ、彼らをひとりひとり陵辱していく。最後に、米大統領の写真の周りにイラク戦争の犠牲者らしき死者の写真を並べ、彼らとブッシュを向き合わせる。ダンスと言うよりは、パフォーマンスというべきではあろう、が、こういうパフォーマンスを提示する場はいま演劇にもパフォーマンスにも用意されていないだろう。また、この砂山が投げる批評性をダンス・シーンは担う勇気を持っているのか、なんてことを思う(ダンスというアート・フォームはどこまで批評性をもつものであるのか、という議論がここに控えている)。単にヴァリエーションという意味ではなく、時にブッシュ批判としてコドモ身体論をまとめたこともある桜井氏のメッセージの一つとして、これら今回の砂山の舞台を見るべきだろう。