Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

サンプル「家族の肖像」(五反田)

2008年08月29日 | 演劇
8/27
例えば、青年団がひとつの舞台空間に複数の組を登場させ同時にしゃべらせたようなそんな「共存」がひとつの身体で起きているというみたいな、サンプルの今作が混沌と称されるなら、そうしたところにその混沌のクオリティは見出されるべきだろう。自分が自分でよく分からない、というモティーフが頻繁に出てくる、分裂そのものとしての自分。複数のレイヤーが無軌道に交差し、ひとつの役者の身体はひとつの役柄に宿るひとつの精神のかたちをみせるものだという先入見が歪まされる。その歪み方が、実に正確にある一定の角度で行われるので、混沌は、ロジカルというかエステティックな説得力をもつことになる。劇団名にちなんで「サンプリング」とかあるいは「シミュレーション」とかいってみたくなるすべての類型的にコピペされた役柄(コンビニの店長、店員、万引きする女、元教員のコンビニ店員、仕事をしないその息子、学生カップルとその友だち)たちは、そうした一種の「計算された混沌」のために見事に操作されている。ひととひととの重なり合い、違和感、生じるいちいちの交差が、とても見事なのだ。とくに面白いと思ったのは、会話の起点の多くが、誰かが自分勝手な(自分ルールな)振る舞いをしているのになんか言いたくなって、というものだというところ。隣に夫がいるのに尻をぼりぼりと掻く妻に夫がとがめるとか、コンビニ店員の弁当の食べ方がおかしいとからかうとか、会話ではなく「つっこみ」。相互に相手に対する違和感を感じてそれを表明して、言い合いになって、、、とする間に進む時間。

面白い。とても面白いんだけど、このベクトルの向かう先にあるのは、ある種の美学的な巧みさ、技量の完成なのではないかと思い、10年先とかにいったいどんな達成がなされるのだろうという興味がわく一方で、そうした職人的な技量の達成はぼくの本当に見たいものなのか?などと思ってしまったりする。さまざまな文化事象を類型的にサンプリングしてきて、その組み合わせの緻密さや、意外性や、バランスなどをこらす。あえていえば「ニューペインティング」みたいなところがある(歪んでいく感じはフランシス・ベーコン?)。チェルフィッチュやヤナイハラミクニまたfaifaiが、世界の表象の仕方に対して独自の方法を模索しているのを「分析的キュビスム」だとすれば、そうした表象方法の独自性をサンプルはあまり試みておらず、簡単に言えば共通に「演劇的」なフィルターを通して世界はサンプリングされている。並べ方の緻密さは、ときに感動も爆笑も起こす、それは素晴らしいデザインなのである。

インタ→エモドロ→Chim↑Pom、遠藤→メサジェ→田中→手塚+足立

2008年08月27日 | 美術
8/26
22-23と大学の仕事で軽井沢に滞在。帰りにセゾン美術館にて「多様性の起源-1980年代」を見た。久しぶりにキーファーを見た。単に80年代美術(ニューペインティングなど)を見るということのみならず、セゾン的な文化を見るという意味でも有意義だった。こんな色の、タッチのセンスあったなーと、懐かしい。その後、雨続きで出不精になっていた。26日、地元東金のタウン誌が取材をしてくださるということで、朝から都心に出ることになった関係上一日でいろいろと見て回った。

「エモーショナル・ドローイング」(東京国立近代美術館)。ドローイングは、ペインティングと違って、シンプルで直接的なので作家の心身状態をダイレクトに伝えられるという発想が、展覧会の「エモーショナル」=「ドローイング」というアイディアを支えているようだけれど、ちょっとそれは単純なのではないかと思いながら見ていた。作家と描かれたものとが直接的な関係にあるというのは、必ずしも事実ではなく、恐らくのところひとつの思想でしかない。その思想を確認するための絵画だったり展示だったりするのであれば、それはちょっと貧しいと思ったのだ。むしろドローイングには、作家さえも予想していなかった何かが引き出されてくるところがある。ドローイングは輪郭の分かりやすい「エモ」よりも得体の知れない無意識こそ描いてしまうものではないか。今回、とくにアジアの作家がフィーチャーされていて、彼らの動向の一端が分かった気がしたのだけれど、こうした思想が非西洋的な自分たちのアートを説明するやや便利な道具にしてはいないか、という印象が強い。西洋=知性的、東洋=感性的=エモーショナルという二分法というか。奈良美智の最新作のなかに「名古屋嬢」との言葉を付した、確かに頭の後ろがボヨンと出っ張った女の人が描かれていて、奈良は決して子供を描く画家ではないということが分かって面白かった。「名古屋嬢」、確かに面白いよな、多分、「つっぱってる」ひとがいいんだよな、奈良にとって、そこにほんとは年齢は関係ないのかも知れない。あと坂上チユキがちょっとよかった。ミニアチュールはどうしてなんだろう、引きつけられてしまう。あと「壁と大地の際で」という小さい展示もあった。これは、壁=垂直性と大地=水平性という絵画的問題を意識させるような展示だった。この垂直性/水平性というのは、配布パンフレットにも指示されていたように、レオ・スタインバーグという美術批評家の「フラット・ベッド」(水平台)としてデュビュッフェの絵画を解釈したアイディアやロザリンド・クラウスらの「アンフォルム」というアイディアのなかで参照されている、今日的な視点。そうした視点のいわば啓蒙的な展示にみえたけれど、とくに見る者に自分の身体性を意識させる点で面白く、一種の絵画における演劇性と繋がっている点でも興味深い。企画者は三輪健仁。

次はChim↑Pom「友情か友喰いか友倒れか/BLACK OF DEATH」(@清澄白河HIROMI YOSHII)へ。メンバーの水野がコンクリのブロックで作った小屋にカラスとネズミと一緒に暮らしていた、らしいが、覗く限りカラスは死んで内臓が抜かれ、ネズミの姿はない。時折、「うー、いってえー」と水野は腹を抱えている。もちろん、ボイスの「コヨーテ」を連想させるが、単なるシミュレーションではなく、ぼくには「アート」のサイト(舞台)を設定しているだけ、に見える。脇に、彼が書いている日記のコピーがあって、読む。ともかく、必見。となりでは、遠藤一郎の展示も行われていた。彼のアートは彼の見解を聞くところまでがその範囲だと思う。ので、行ったら是非、彼と話すことを勧めます。いい話を沢山聞いた。

続いて、六本木へ(こんで四時頃)。アネット・メサジェ「聖と俗の使者たち」。ぬいぐるみ、編みぐるみの肉体性が、これでもかと。キモかわいいのエクストリーム。

さらに、中目黒へ(こんで六時頃)。田中功起のペインティング。サミュエル・L・ジャクソンとかシュークリームとか。

で、ラスト、手塚夏子+足立智美の即興演奏を代官山のヒルサイドテラスにて見た。手塚のことをいま「憑依」「トランス」の問題として考えていて、そんなことを確認するような時間だった。どんどん自由にどんどん本質的になっている。



ペドロ・コスタ『骨』、鈴木治行『語りもの』

2008年08月19日 | Weblog
8/18
『Review House 02』へ寄稿する文章がようやく完成。編集の方々を待たせに待たせた。ここから彼らのだめ出しをもらって書き直して正式に脱稿ということになるが、今回は、会田誠と遠藤一郎やChim↑Pomや加藤愛はどう違うのかという内容で一本書いた。自分を確認するような原稿になったと思う。「アイロニー」VS「痙攣」というか「モダニズム」VS「アヴァンギャルディズム」というか。

ペドロ・コスタ『骨』(1997)を見た。どんどん眠くなり、どんどんフォロー出来ない感が高まるものの、ずっと見ていたくもなって、ぼくにとってさしあたりペドロ・コスタ作品は、退屈だが吸引力のある映画といったところ(映画見る力が昔より衰えているのかも、リハビリリハビリ)。『血』にあった、古典的映画を意識したコード性は希薄になって、だから役者が何してんだかほとんどわからないショットが繋がっていく。『溶岩の家』については、古典的な映画の体系性とアフリカのポルトガル人という地政学的な事象とが、つかず離れず、その緊張が映画になっているように思ったのだけれど、今回は、映画力が古典性にあまりこだわらずに発揮されている気がした。コスタのことは、『ヴァンダの部屋』を見てからあらためて考えてみようと思う。

夜、久しぶりにゴールデンタイムのテレビ番組をボーっと見ていたら、「HEY!HEY!HEY!」に出ていたグラビアアイドル3人組が「口パクアイドル」と称して出ていた。『Review House 01』に「あて振りとしてのアート」というタイトルの文章を書いたぼくとしては、この辺り、気になる。歌は別の人が歌い、自分たちは歌っている振りをして踊るだけなのだという。実際パフォーマンスを見ていると、「口パク」も真剣にやっていないので、そこは本当に芸がないなーと思うが(これに比べればAneCanの押切もえがジェームス・ブラウンの口パクやっているのの方がずっと興味深い)、こういうビジュアル(視覚)とオーディオ(聴覚)の分離と接合、分身的な表現は、今後も様々試みられるのだろう。

8/19
朝、鈴木治行『語りもの』を聴いた。ちょっとこれはとてつもなく素晴らしいと思う。タイトル通り、音楽と「語り」が並置と混淆の状態になっていて、とくにキャッチーで面白いのは、「自己言及性」と本人が言っている手法で、音楽演奏を語りが実況するところ。例えば「演奏が始まる」などと冒頭で語られたりする。アンチイリュージョニズムの芸術にとって歌詞とは、何であり得るかという問いへのなるほど、もっともまっとうな回答だ。チェルフィッチュを思い返しもするが、ちょっと違うのは、チェルフィッチュの場合「フリータイムってのを始めます」と役者が言う時、まさに自分がこれから始める芝居というものを名指しするのだけれど、鈴木の語りが言及するのは音楽についてなのである。語りにとって隣の他人である音楽を語りの対象とするという発想が、妙な連想を膨らませる。音楽の分身-心霊。あと、物語の要点のようなものを淡々と話すようなところでは、「ああ、映画というのは、語るだけで成立するのか」と思った。映画がコードの体系で、イメージはそのコードを指し示す仕事をしているのならば(その仕事にイメージの仕事を思い切って短絡させてしまうなら)、コード(これは極めて言語的な存在だ)を言語に置き換えてそれをぽつり呟くだけで、映画は成立してしまうのだ。フィルムというマテリアルの代わりに、この映画では、頭のなかに浮かんだ映像がイメージとなる。ぼくはボクデスの「ムニャムニャくん」に、そうした言葉が聞く者の頭にイメージを喚起させてしまうという暴力の存在を読み取ってきたのだけれど、そうしたイメージの喚起力が映画となって迫ってくるのを鈴木の「語り」には感じたのだった。

ずっとレディ・メイド(既製品)、分身、幽霊、心霊について考えている。すべてはこの問題に行き着くのじゃないかというくらい気になる。幽霊はいる。というよりも幽霊しかいない。このことを、全てはコピーとみなすシミュラクル論、二次創作論etc.として捉えてもいいのだけれど、鳥瞰視的にではなく、見てしまった!という驚愕(背筋ぞくぞく)と共に考えること。すべて身体は幽霊体である。再認しかぼくたちには許されていない、ということなのか。

DC2は批評文を募集します。

2008年08月18日 | DIRECT CONTACT
【今回のDCではReviewを募集します!】

DIRECT CONTACT Vol. 2では、秋山徹次「Lost Weekdays」×大橋可也&ダンサーズ「Black Swan」をめぐる批評文を募集します。舞台批評の言葉は、文芸批評、美術批評、映画批評などに比べまだまだ決定的な形式が存在せず、その分、さまざまな可能性に開かれている状態です。思いがけない角度から投げかける鮮烈な言葉こそ、舞台芸術を活性化する何よりのカンフル剤ではないか!と考えます。舞台批評のユニークな逸材を発掘したいということ、演奏表現、身体表現に言葉の表現者を衝突させたいということが、この企画に向けたぼくたちの思いです。奮ってご応募下さい!!

〈応募要項〉
・ 字数は4000字程度
・ 応募資格はとくにありません。雑誌に寄稿歴のある方もない方も、学生も社会人も問いません。すでに批評活動している方も歓迎します。
・ 企画の大谷と木村が厳正な審査の末、賞(賞金付き)を差し上げます。また、なんらかの掲載媒体を探して奔走するつもりです。
・批評文を寄稿する意志のある方は、招待致します。この件については、イベント当
日までに応募先のメールアドレスにご連絡下さい。
・ 締め切りは、9/30。
・ 応募先は、info@space-tc.comまで。氏名、連絡先、批評文のタイトルを明記の上、本文をお送り下さい。


庭劇団ペニノ『星影のJr.』(@スズナリ)

2008年08月17日 | 演劇
8/15
薄闇の中で、子供が一人。舞台前面にリアルに設えられた畑に向かって水鉄砲を放つ。脇には、演出・脚本のタニノクロウがいて、何かをささやいている。ラヴェルヌ拓海というフランス系(だったか、パンフレットにあったのだが紛失)の子役に、教育を施すという設定。役者はだから教師的存在でもあるようで、だけれど、この教師の教師としての素顔などはまったく示されず、ただ冒頭に、大人の役者たちがスーツを着た状態で台本を読んでいるというシーンが置かれているだけ。けれども、そうした設定が、子供に大人の世界を教えるということと同時に大人の世界を子供の視点から(観客が)見ることを可能にしてもいる。まだ昭和的な一軒家。暗転後、太った男が茶の間に寝ている。父親の弟分のような男。そこに女があらわれ、彼にそうめんを勧める。彼女が妻。貧しいが楽しい家。けれども、そのバランスは、父に子供の弟を求める辺りからどんどん崩れていく。ひとつ、この舞台で大きいのは、性というモティーフだ。子供にとって身近にあり、決して触れられないもの。子供の目線からは、不可解なことだらけ。まるで『ブリキの太鼓』のように、子供とセックスの関係が描かれていく。「描かれる」とは言ってみたものの、舞台にあるのは、子役のみならず観客にとっても、「描写」という穏やかなものじゃなくて、タニノ一流の「遭遇」とでもいうべき出来事の連続。マメ山田は、赤いレオタード姿で奇怪な「赤ウインナー」なる存在で子役の前に立ち、その他にも、屋根に暮らしているという浮浪老婆が、彼の前に立つなどして、それはほとんど納涼妖怪大会みたいだったのだが、そうした異常さは、舞台空間にあるすべての事物を、不確かなものにする。
けど、なんだか、スーッとするのだ。ぼくは庭劇団ペニノを見るたびに、変に聞こえるかも知れないけれど、「カタルシス」を感じる。自分のなかのなにかが浄化されるような気になる。妻であり子役の母である女は、あるとき夫によって犬にされ、終幕まで舞台上で犬として存在する。代わりに、別の妻=母があらわれる。その母はなんだかセックスばかりして、父を翻弄するが母役に熱心ではない。と、ともかく異常事態が連続する、その光景になんだかカタルシスを感じてしまう。それは例えば『アンダルシアの犬』を見ている時のカタルシスに近いのかな、なんて思う。Aと見た後話す。話している内に、これは男性的なカタルシスなのかも知れないと思わされた。男の女へのコンプレックスが主題になっているのは確か。2人の母のそれぞれのなんともいえないなまめかしさも、マメが導く不思議な感覚も、どれもどうしても「好きだ」と言って、言い放ってしまいたくなる。

『スカイ・クロラ』『溶岩の家』

2008年08月16日 | Weblog
8/14
お盆で帰省後(珍しく、小学校からの友人と会った。あと、田舎では地元に起きた殺人事件で話題持ちきりという様子だった。新聞に出てたよ!とその殺人事件そのものよりもそれがメディアに取り上げられたことの方が事件のようだった)、その足で押井守の『スカイ・クロラ』を見た。

8/16
ペドロ・コスタ『溶岩の家』を見た。

「リアル系」

2008年08月10日 | Weblog
最近読んだ2冊の本で「リアル」や「純粋」という語彙が論じられていて、それがとても興味深かったので、ごく簡単に整理してみようかと思う。

速水健朗『ケータイ小説的。』(原書房)は、副題に「再ヤンキー化時代の少女たち」とあるように、ヤンキー的なマインドの今日的展開を「ケータイ小説」の分析を通して明らかにしている。「ヤンキー」への眼差しという点がまず、ぼくとしてはとても気になっていて、以前からここでも書いていたことだけれど、サブカル系批評やオタク系批評はあるのに、なぜヤンキー系批評はないの?と以前から思っていたので、その興味からこの本を読み始めた。面白いポイントいくつもあるけれど、何より「リアル系」というキーワードが図抜けて面白かった。

「ケータイ小説を巡る言説で必ず問題とされるキーワードに「リアル」もしくは「リアリティ」がある。『文學界』二〇〇八年」一月号における座談会「ケータイ小説は『作家』を殺すか」において、魔法のiらんど編成部長の草野亜紀夫は、『恋空』がうけた理由として、「作者の美嘉さんの実体験だから共感を呼んだんじゃないでしょうか」「私たちとしては、これを実話ベースの物語として読みますし、だからこそ読者も物語に入り込めるんだと思うんです」と発言している。」(72頁)

ケータイ小説の読者はそれが「リアルか否か」という観点を重視している、と速水は整理する。

「「リアル系」を求める読者は、単に物語を求めるのではなく、それが本当にあったかどうかを重要視するのだ」(79頁)

物語の時代ではなく事実の時代、フィクションではなくノン・フィクションの時代、そう言い切れたらきれいなのだが、そうすっきりとはいかない。「外れない作家は相田みつおです。彼は「リアル系」の王者です。「リアル系」の子達は相田みつおが好きです。なぜかというと、情緒がないから。「リアル系」の子達がなにが苦手なのかというと、情緒が苦手なんです。」(80頁)と児童文学評論家の赤木かん子の言葉を取り上げて、「リアル系」の「子達」のマインドに絞り込みをかてゆく。そして速水は、読者達がいうリアルとは、本当に読者達にとってリアルティのあるものなのかどうか、と切り出す。

「レイプやドラッグは「実際にある問題」ではあるだろうが、本当にリアルと言えるレベルで日常生活と結びついているものだろうか」(73頁)

「日常と結びついている」=「リアル」という図式ではどうもないのではないか。大事なのは、本当に「リアル」かどうかではなく「リアル」と謳われているかどうかにある、そう速水は考える。

「赤木が指摘する「リアル系」とは、ドキュメンタリー的なものだけに限らない。『ほんとにあった怖い話』というテレビ番組のように、単なるキャッチコピーレベルの「ほんとにあった」までが含まれている。つまり、赤木が指摘する「ケータイ小説のリアル」とは、このようなキャッチコピーレベルの「リアル」なのだ。なんのことはない、大人の目にはかけらもリアルではないケータイ小説が、読者である十代の中高生に「リアル」と思われているのは、ケータイ小説が「本当の話である」と謳われているところにあるのだ」(81-82頁)

すると、「リアル系」=「「リアリティ」の有る無しとは関係なく「事実」「ほんとの話」であると謳った作品」(83頁)ということになる。「ほんと」と謳えば謳うほど「嘘」の可能性が高いなどという考え方は、多分ないのだろう。そういえば、先日遊びに来た学生がYou Tubeの心霊映像をさかんにみんなに見せようとしていたのを思い出す。彼女曰く、「これは「リアル」だから「ホラー映画」よりも怖い」のだそう。この発言自体なんか「ねじれ」があるような気がするのだけれど、まさに「リアル系」の時代の身振りのように思えて、印象に残っている。


土井隆義『友だち地獄 「空気を読む」世代のサバイバル』(ちくま新書)は、「リアル系」という言葉は出てこなかったけれど、同様の傾向を「純愛」「ノンフィクション」のなかに見ている。

「一般に、人びとが純愛に惹かれるのは、そこに理想の人間関係を見出すからだろう。私たちは、互いの利害関係や既存の役割関係にとらわれない純粋な人間関係こそ、この世界でもっとも尊いものだと感じている。そこには純粋な自分も存在するはずだからである。」(108頁)

こういう純愛観は、どの世代にも共通なものだろうと土井はまとめながら、しかし、反社会的でも非社会的でもなく脱社会的な現在の若者たちにとって、「純粋さ」とは、ダイレクトに自分自身が対象となるものであり、しかもそれは観念的であるというよりも身体的な自分なのだという。

「現在の若者たちにとって純粋さとは、社会の不純さと向き合うことで対抗的に研ぎ澄まされていくような相対的なものではなく、むしろ身体のように生まれながらに与えられた絶対的なものである。だから、死や病といった生物学的で絶対的な障壁が、その純粋さのレベルをさらに高次元へと押し上げることになるのだろう」(110頁)

ケータイ小説などで展開される「純愛」が「死」や「病」を求めるのは、そうした「身体」のレベルにこそリアリティが潜在しているからだ、というわけである。それは「素」という「リアル」を示す「天然キャラ」への注目という話へと連動していくのだが、この「素」というのはあくまでも「素のままのキャラ」といういささか矛盾するような存在であることが重要である。

「若者向けのテレビ番組で、素のままのキャラに独自の存在感を示す天然ボケのようなタレントに人気が集まるのも、おそらく同様のメンタリティに由来した現象といえるだろう。そこでは、天然であることが純粋さの寓意となっているからである。天然とは、脱社会的なものである。彼らに惹かれる視聴者の多くは、そこに演技性を超えた脱社会的な純粋さを見出しているのである」(111頁)

なるほど「純粋さ」は、身体的リアリティを感じさせるものでなければならず、そこにあるのは「素」という状態ではないか。しかし、速水の指摘する「リアル系」と同様、この「素」もまた一枚岩ではない。「素」ではなく、いわば「素のままのキャラ」を味わうところに、「純粋」な身体的リアリティの発生するポイントがある、というのである。

「セルフ・ノンフィクションにせよ、純愛物語にせよ、読者を惹きつけているのは筋立ての斬新さではなく、自分が「泣ける」ほどの強烈なキャラをもった登場人物である。だからどんなに荒唐無稽な筋立てであろうと、逆にきわめてベタな筋立てであろうと、あるいは筋立てすらなく、たんなるエピソードの羅列であろうと、さしたる違和感もなく受け入れられることになる。話の筋は、あくまでも際立ったキャラを味わうための素材にすぎないからである。」(114頁)

それは「セルフ・ノンフィクション」の分野でベストセラーになる乙武氏の本のような「身体障害者」の「泣ける」本などのことを鑑みれば自明のように「身体障害者=純粋なる者というステレオ・タイプ的な図式」(111頁)に乗っている展開こそが、彼らにとって「純粋」なのである。

ようは、キャラがキャラをまっとうしてくれていることが「純粋さ」のそして「リアル」の証になる、というわけである。

そうそう、そういう意味で、「神話作用」のような「キャラ作用」のごとき考察こそ、今必要なのではと思う。ひとはもう個人というものを社会に対して表明することはほとんどしていなくて、キャラであることをまっとうしようとして生きているようなところがある。少なくとも、ひとにたいしてそういうもののみを求めているところがある。このあたりの「リアル」を、つまりキャラとしてのリアル、レディ・メイド(既製品)としてのリアルを問題にしていかないと、「リアル」を論じる努力は空転しかねない気がする。

その最大の祭りがオリンピックだろうし、「リアル」な(つまりキャラ立ちした、そしてキャラであることがまっとうされる)ストーリーを描こうとして、テレビは必死になっている。

「注目すべき人々との出会い・その1」(Loop-Line)

2008年08月10日 | Weblog
「注目すべき人々との出会い・その1」の2日目をLoop-Lineへ見に行った。初Loop-Line。最初は、角田、杉本、宇波の3人がそれぞれ自分の演奏に没頭する70分。角田は、上向きにした二台の裸のスピーカーがあれはハウリングを起こしているのだろうか大きく上下に振動しているが、音はそこからほとんど出ないか微妙に振動のような低いのが出ているだけ、それとときおり演奏空間の対角線上に弦が一本張られていて、それを揺らして鳴らしている。杉本はドットが整列した譜面を見ながら木を叩き、宇波はギターと電子音とを低く鳴らす。ぼくは、音楽演奏のよいオーディエンスではない。初心者だ。だからか、演奏どうのというよりも、この奇怪な芸(術)を思いついた各人が勝手に自分の仕事をやっている感じが気になってしようがなく、そんな彼らは芸術家と言うよりも芸人ぽくて、ところどころ爆笑したくなったが、大声を出すとそりゃ演奏を妨げてしまうわけで、でも、きっとオーディエンスはそんなこんなクスクスと内側でやっているに相違なく、これは我慢比べみたいな時間だなーなどと思ってその時間を過ごしていた。前衛と爆笑。後半は志水児王というアーティストを紹介する時間で、志水の作風のきわめて興味深いことのみならず、予備校時代友人だったという角田とのやりとりがなんだかすこぶる面白く、杉本さんや宇波さんもそうなんだけれどなんで音楽家のひとたちはこんなにパーソナリティがユニークでしゃべると面白いひとたちばかりなんだろうと、そのことがすごく気になった。「言葉」の人というか「しゃべり」の人。前衛としゃべり。

ペドロ・コスタ『血』

2008年08月06日 | Weblog
8/5
ペドロ・コスタ『血』(恥ずかしながら彼の作品は今回初めて見ています)は、彼の処女作故にということがあるのか、なんとなく「映画好きの映画」という感じが濃くて、なんとなく??と思いながら見てしまった。あまり映画を見ないぼくでも「なんとなくムルナウに似ているな」とか「最近見たコクトーのこと思い出させる」とか、そういう場面が散見するのだった。とくに、気になったのは、画面の中心に重要な対象を置こうとすることで、その執拗さは、例えば、「女が走ってきてフレームの中央あたりにくると立ち止まり振り向く」なんていうシーンに顕著で、その定石へのこだわりが何を意味しているのか分からず、分からないので「趣味的」(映画好きの映画)に見えてしまった。けれども、DVDの付録映像でのある批評家のコメントを聴いていると、かなり自覚的に反省的にそうした手法に対してアプローチしているのだと言うことが分かり、その視点から頭の中で整理し直したりした。すると、ショットとショットのつながらなさ、とくに登場人物たちの感情の読み取れなさは、感情の揺れ動き(人間とはそういうものだ的な)を示そうとしたと言うよりは、極めて映画的な試み(映画とはどういうものなのか的な試み)であることが分かってきた。ショットとショットの繋がりは、考えてみればどうであってもいいはず、少なくとも、物語に奉仕する必要は必ずしもないはず。そうした当然あるはずの映画の余地に揺さぶりをかけている作家ということがよく分かった。けれども、ぼくとしては、その批評家が指し示す「シャーマニズム」的な作風と言うところに興味がわいた。見ていながら、スゴイ奇妙なシーンとかを発見していたからだ。見上げるショットでお父さんが立っていて、その後ろのソファに男の子が寝そべっているのだけれど、椅子の格子越しにあらわれたりところどころ消えたりしてしまう彼の顔は、なんだか「心霊映像」みたいだったのだ。映画(写真)はすべからく心霊写真なのではないか、という仮説で、今後夏休みの映画鑑賞を進めようと思う。そう、その点でも、この映画とコクトーの『恐るべき子供たち』の類似性をその批評家(名前失念、すいません)がしゃべっていたのは、面白くそしてたまたまこんな短いタイミングでこの二本を見た偶然は、ちょっとすごくて何だか背筋をひやっとさせた。


せいこうナイト with ADX(@Super Deluxe)

2008年08月03日 | ダンス
8/2
ボクデス×五月女ケイ子/コンタクト・ゴンゾー/康本雅子/鬼ヶ島などが出演。終電が出るくらいの時間にChim↑Pomがパフォーマンスをやるというのだが、残念ながら見ることなく帰宅。客層が明らかにいつものダンス公演とは違う。誰を目当てにというよりは「いとうせいこう」という名に信頼して集まった、というような雰囲気があった。真新しさがないというのは、見る側の欲深さなのかもしれない、けど。コンタクト・ゴンゾーは、とても面白かったな!四人の男たちが、かなり痛さを感じるレヴェルでぶったたき、蹴り飛ばし、乗っかり(=コンタクト)合う。その四人のバトルに、ヴォルビックのペットボトルと使い捨てカメラとビデオカメラが、まさに「飛び」道具として使用され、それが素晴らしく機能しているのだった。康本は、ごく短い出演だったけれど、やっぱり素晴らしい。見る/見られるの関係へ向けた彼女のアプローチについては、ほとんど語られていないと思う、けど、彼女は執拗にお構いなしに繰り返している。見る者は、取りこぼし続けている。

7/30
学生を集めて「批評」についてのレクチャーとワークショップを行う。2度目のバーベキューなので、炭に火をつけるのとか、ホタテをひっくりかえすのとか慣れてきた。

7/26
学生(一年)を自宅に集めて前期の打ち上げ。途中雨になるが、彼女たちが帰る頃には止む。帰り際、一人がYou Tubeで心霊映像を見ようと言いだし、見るとすっかり場が沈み、あっという間にみんないなくなってしまった。