Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「『トリオA』でひとが見るのは慎重なコントロールの感覚である」

2008年02月17日 | 『ジャド』(4)3モリス『無題』他
以下は、ラムゼイ・バート『ジャドソン・ダンス・シアター パフォーマティヴな足跡』の部分訳です。第3章の後半「ダンス理論と美術理論」と小見出しのついた部分が終わるところです。レイナーの「擬似的概説」論考のなかで展開される事柄のなかでも、特段に興味深い論点がここで取り上げられています。「コントロール」や「エフォート」について、など。あらためて、ノートとしてこのあたりのこと、整理してみようと思います。原書で35ページある第3章の翻訳は、あと、最後の3ぺージを残すのみとなりました。

写真はRobert Morris『無題』(Three L Beam, 1965)です。

(4)ダンス理論と美術理論(下)


 ジャッドが論考「スペシフィック・オブジェクト」のなかでした有名な議論はこうである。

作品は興味深いことのみが必要である。たいていの作品はただひとつの質のみを最終的にもつ。……作品が見るべき、比較するべき、相互に分析するべき、観照するべき多くの事柄をもっている必要はない。全体としてのものは、その全体としての質は、興味深いものである。(Judd 1975: 184, 187)

ここでのキーワードは「興味深いinteresting」である。デヴィッド・ラスキンが指摘しているのは、ジャッドはこのキーワードを特殊行動主義的な仕方で用いているということである。彼らの活動がその内に興味を表しうるがために何かに彼らが価値を与えていることをひとは誰かの活動から観察することが出来る、とラルフ・バルトン・ペリーは論じている。ラスキンが論じているのは「ジャッドはペリーの言う興味を彼の主たる原理とした、なぜならその興味は実証出来る身体的なキャラクターや私的な反応と調和しており、ジャッドはアートが客観的な経験でもありまた価値ある経験でもあることを認めているのである」(Raskin 2004: 84)。「活動あるいはひとのすることは、キャラクターやアティテュードを展示することよりも興味深くまた重要であるという点で、パフォーマンスの技術は[ジャドソン・ダンス・シアターのあるメンバーたちによって]再評価されてきた」(Rainer 1974: 65)と述べるとき、レイナーは「擬似的概説」において、ジャッドと同様の行動主義的視点を表現していたのである。

 ジャッドの理論的な淵源が行動主義にある一方で、モリスは最初、知覚に向けたアメリカのゲシュタルト的なアプローチによって影響されたていたし、さらにその後には、モリスはそのアプローチを、メルロ=ポンティの思考と同調させようとした。モリスは美学に向けたゲシュタルト的なアプローチに興味をもった。それが示唆しているのは、個々人は基礎的なレヴェルで、複雑だったり混乱していたりすると薄くなってしまうような強い感覚を通して、全体を知覚していると言うことである。「彫刻についてのノート」のなかで、モリスはチャールズ・ハリソンが「現象学的に知られる、芸術作品と出会う条件に向かう焦点、つまり時間と空間の内にある身体的な客対物と出来事の具体化された知覚」(Harrison and Wood 1992: 799)と呼んだものを分析している。芸術的客体物には、相互に関係を創造する分割可能な部分があると観察する際、モリスは、ひとつの特性のみをもつ客体物を作ることで、この潜在的に二元論的な状況から逃れるというコンセプチュアルな問題を提示する。彼が見ているのは、これが完全には到達可能ではないということであり、というのも

どんな状況においても、ひとは同時に諸々の部分としてひとつ[の特性]以上のものを知覚することが出来る。つまり、色であれば、面に着目し、平面性であれば、肌理に着目する、など。しかし、もし色が肌理に対してもつ無数の相関関係を諸形式が否定出来ないとすれば、それが形状に関して確立されたこれらの種類の関係のために分離された諸部分を呈示しないというある諸形式が存在する。そうしたものは強いゲシュタルトの感覚を作る単純な諸形式である。それらの部分は、知覚的な分離に最大限の抵抗を見せるといったやり方で一緒に結び合わされる。固体に関して、彫刻へと適用出来る形式に関して、これらのゲシュタルトは単純な多面体である。(Morris 1993: 6)

それだから、モリスによるミニマリズム彫刻は、1960年代半ばを通じて、おおよそ単純で、正方形の、灰色の箱ないし多面体から構成された。モリスが指摘するのは「単純さは、経験が単純であることと必ずしも同じではない」(ibid.: 8)、むしろ、単純さは以前には気づかなかった身体感覚的で生理学的な感覚を見る者に意識させる、ということだった。すでに示唆したように、まさにアン・ハルプリンとのダンス即興で経験したことを通して、モリスはこうした身体感覚的で生理学的な感覚に気づくことが出来たのである。

 『無題』(3つの「L」ビーム)(1965)のようなロバート・モリスのモジュラー彫刻において、ひとつのモジュールは地面の上にあり、別のモジュールは「L」の形状を見せ立っている、他方、3つ目のモジュールは、2カ所の端を地面に触れるようにして、ひっくり返った「V」のように配置されている。それらのマッス[質量感]に対する観者の知覚は、地面に接触したモジュールの程度に反比例している。それ故に、ひっくり返った「V」は横倒しのモジュールよりもずっと軽いものに思われる。しかし、観者はその3つの構成部分の同一性を認識することが出来る。モリスと同様、レイナーは観者の知覚に関心をもっており、ダンサーが使う現実のエネルギーと観者がダンスを観る際の明白なエネルギーとが関係する場合には、観者の視点やダンサーの視点がつねに重なり合わないよう考えた。それだから、彼女が述べているように『トリオA』でひとが見るのは、次のような慎重なコントロールの感覚である。[そのコントロールとは]「強要された命令通りの時間を忠実に守るというよりも、規定された動作を経験する身体の現実の重量がかける現実の時間の長さに対応しているように思われる」(Rainer 1974: 67)。それだから、彼女が人目にさらしてきたのは「伝統的には隠されてきたタイプの努力effort[エフォート]であり……[彼女は]伝統的に呈示されてきたフレーズを隠してきた」(ibid.)のであると、こうしたアイロニーを彼女は続けて論説したのである。このことを実証するのは、経験的に確証出来るリアリティのみを唯一受け容れる道徳性という信仰である。これは、レイナーがドナルド・ジャッドの経験主義に迫った一例である。デヴィッド・ラスキンが指摘しているように、ジャッドは芸術が生む審美的質を道徳的な主体に帰したのである。

 ジャッドが自分の芸術理論へのアプローチという点と自分が生み出す作品の種類という点でキャリアを通じて一貫し続けていたのに対して、レイナーはその後、映画制作などをするにあたってダンスを放棄した、ただしミニマル・アートを支えた理論的な思考をすべて捨てたわけではなかった。レイナーの「擬似的概説」は、1960年代半ばという特殊な歴史の瞬間に帰属する戦略的な介入だった。トーマス・クロウが述べているように、ジャッドとモリスのミニマリズム彫刻が、

視覚的快楽の標準的な多様性を押しのけて……アート・ワールドにおける制度上の力に批判的な意識を向ける可能性を掲げたとしても、[彫刻に含まれる]説明のつかない純粋さによって、それらの彫刻は、美術館が内包する諸物体に押しつける中立的な地平に相対しつつ、分離した形状の標準的な関係の内に、あまりにも容易に、引きずり込まれてしまう。(Crow 1996: 152)

同じように、ダンスにおけるミニマリズムの言説もまた、サリー・ベインズによって展開されたアメリカのポストモダン・コリオグラフィについての純粋な、ハイ・モダニズムの視点のなかで再評価され続けてきたのである。