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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ダンスと色

2011年01月10日 | 身体と映像
昨日、大橋可也振付による「驚愕と花びら」を見に都心へ向かうなか、電車でエイゼンシュテイン「無関心な自然でなく」(全集9)を読んでいた。エイゼンシュテインは、ウォルト・ディズニーを友と呼び、とくに「シリー・シンフォニー」について高い評価をしている。この点について研究したくて読んでいるのだけれど、そのなかで、気になる文章があった。

「私自身、かつてのマリィンスキー劇場の舞台でフォーキンによって演出されたバレエ『ショピニアナ(レ・シルフィード)』を記憶している。三十年以上も古い記憶であるが、今でも銀色から紫色、白色から空色へ向かう色彩の変化と音楽の変化との完全な融合の感覚が想起され、光と色彩とがバレリーナの白い衣裳をかすめて、バレリーナの眠気を催すような緩慢な詩的運動をなぞり反復する光景が眼に浮かぶ……。」(全集9 p. 175)

エイゼンシュテインは、文章中で、音楽や風景が俳優と融合する必要性をとき、その方法を説いている。ちなみに、ディズニー作品は「子どもっぽく下手に色彩された背景と、主要な前景の動くキャラクターの運動、及び描線の驚くべき完成度との間の完全な文体亀裂が欠点となっていた」とされ「ディズニーは、線の独立した運動と音楽の内的過程(リズムばかりでなくメロディさえも!)の線画的解釈とによって音楽にたいする視聴覚的等価物を創造する、驚くべき巨匠であり、またとない天才である」とエイゼンシュテインは、個々のキャラクターの運動がもつ音楽性についてきわめて高い評価を下す一方で、ディズニーにはそのキャラクターと風景を融合させる才覚が欠けていると批判している。「風景及び色彩の完全な非音楽性」。ディズニーを批判する一方で、彼が連想しているのは、フォーキンの「レ・シルフィード」。

ところで、ここで出てきた「音楽性」とはなにを意味するのか、これはこれでとても重要なのだけれど、いまは飛ばして、ぼくが昨日この部分を読んでいて思い浮かべていたひとつのPVを紹介しておきたい。ダンスと色彩の関係について。

Mia Doi Todd "Open Your Heart"

これは、ミッシェル・ゴンドリーの最新PV。どうでしょうか。パフォーマーは、いわゆるダンサー的な身体ではほぼないのですが、ご覧のように彼らが身につけているTシャツの色が利いていて、その色のグラデーション、補色関係などがリズムをつくっています。エイゼンシュテインに戻ると、彼は前述した文章のあたりで、

「移行が可能なのは、色彩だけである。色彩は赤色から青色に、緑色から紫色、緋色、オレンジ色に、容易に移行することができる。色彩であって、ビロードではないのである。」(p. 174)

と述べて、「ショパン」という映画で用いられた「ばらばらになった色彩の破片のごった煮」に対して批判しつつ、必要なのは色彩の移行関係であり、おそらくこういってよいとおもうのだけれど、色彩によるリズムの生成であるとエイゼンシュテインは考えています。

なるほど、色彩によるリズムの生成か。こうした文章を読むことで、ぼくはダンスと色彩の関係、あるいはゴンドリーのように、色彩をいわばダンスさせるという可能性について、蒙が啓かれた気がした。色彩のリズム性(ダンス性)を無視しないこと。たとえば、ゴンドリーのさっきの作品を見た目からは、パトリック・ドーターズという監督がとったこの映像は、正直「「ばらばらになった色彩の破片のごった煮」」と思わずにはいられない。

Feist "1234"

どうでしょうか。うーん、でも、これはこれ、という感じもします。あるいは、これを見ると、やや統制が取れすぎている(マス・ゲームみたいだ)とむしろゴンドリーを問題視したくなるひともいるかもしれない。

一方は、色を用いつつ、そこに自由さを演出する(そしてダンスとしてはさほど目新しくない)。一方は、色を用いることから生まれるダンスの可能性を追求している。一方は色を象徴的に用いている。一方は色をリズムの生成に用いている。少なくとも、2作を見て、ダンスに色を用いる2つの可能性に気づかされる。

もしぼくが大学の舞踊学科の教員だったら、さっそく課題を学生たちにだしてみようと思うな。

「色で/色のダンスを作りなさい」

色というのは、とても直接的にぼくたち見る者を束縛してくるので(意味機能としてもリズムの機能としても)、「色については問題にしません!」と宣言することで、この危うさを回避するというのが、いまどきのダンスでは定石になっているのかもしれない。あるいは、定番でまとめる、みたいなね。「舞踏はモノクロ」とか、「コンテンポラリーダンスはパステル」とか。それ、じゃあやめてみたらどうなるんだろう。定番をやめてみると同時に、色をダンスとして用いるという縛りを作ったら、どんなダンスが生まれるんだろう。なんて、夢想します。

世間じゃどうかといえば、AKB48は、そうとう色の問題にこだわっている、と思う。新曲は徹底的に「白」で行く、とか。でも、まあ意味機能としてですよね、これも。そして、AKBは基本的にモノトーン。同じ色の同じデザインの衣裳を同じような髪型のメンバーが身につける。AKBの魅力(麻酔作用)って、そうした同化圧力だと思うなー。「同じゃなきゃ」プレッシャー。

AKB48「チャンスの順番」

これに比べるとモー娘。は、個性尊重型。AKBの「白」とは対照的にカラフルっちゃカラフルです。「ばらばらになった色彩の破片のごった煮」ですけどね。新曲。

モーニング娘。「女と男のララバイ」

この曲のダンス、見れば見るほど面白い!一瞬、ベジャールの「ボレロ」みたいな振りが出てくるし。AKBよりいま注目すべきはモー娘。なのでは。

誰か面白い「色のダンス」つくってくれないだろか、、、

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