奈良大好き☆お勉強日記

奈良大学文学部文化財歴史学科(通信教育部)卒&奈良まほろばソムリエ検定のソムリエを取得したヒトの色々な勉強の日記です♪

珠光忌で称名寺へ

2015年07月29日 | 色々・モシクハお勉強
きたまちランチののち、奈良女子大の壁を伝って歩き(比喩です)、
西へ向かって一路称名寺(しょうみょうじ)へと。

ここは年に一度、5月15日にしか公開してないということで、
いまだ中へ入ったことはなく、今日を逃すとまた来年なので、行きますっ!

称名寺は菖蒲池町にある西山浄土宗のお寺。
お寺のはじまりは、興福寺の学僧であった専英・琳英兄弟が、
常行念仏の道場として、文久2年(1265)に創建したことによる。

当初は興福寺の北に位置し、興福寺の別院ということで、
興北寺(こうほくじ)と称し、室町時代に現在の地に移転。
四宗(浄土宗、法相宗、天台宗、律宗)兼学の寺としてきたけど、
明治の廃宗の令により、興福寺から離れて現在は浄土宗のお寺。

このお寺を有名にしたエピソードは、茶の湯の祖として有名な
村田珠光がこの寺で出家したとされること。

村田珠光は、室町時代中期の茶人。
侘び茶の祖といわれているけど、
この方、僧侶でもあったんですね。

村田珠光は現在の奈良市中御門町で生を受け、
十一歳で称名寺へ預けられる。
父は検校の村田杢市。
検校とは、中世・近世では盲官(盲人の役職)の最高位の名称。
でも村田珠光の時代には、庶務係、もしくは庶務部長の役職名だったそうです。
ということは、役人の息子であったものが、お寺に預けられたと。

しかし、珠光は二十五歳頃一旦還俗して(坊さんをやめ)、京都へ。
そこで茶の湯を学んだんだとか。

その後、大徳寺に入り(え?また僧侶に復帰?)、
一休宗純(とんちで有名な一休さん)に禅を学び、
一休さんから円悟克勤(えんごこくごん・中国宋の臨済宗の僧)の
墨蹟(掛け物)を授けられたといいます。

そして珠光は喫茶に礼式を興し、「茶の湯」「茶道」というものを完成させる。
足利八代将軍義政(銀閣寺を建てた人として有名)も珠光に茶道を学び、
茶と珠光にはまったらしい。
その証拠に義政は、六条堀川に珠光のための庵を贈り、それを「珠光庵」とした。

珠光は文亀2年(1502)5月15日に還化して大徳寺に葬られるとともに、
奈良・称名寺にも分葬されたとのこと。

…ということで、5月15日が珠光忌と呼ばれ、
この日に称名寺で法要が行われるというわけです。

珠光が何故「侘び茶の祖」と呼ばれるのは、
茶道は質実にして敬と礼を重んずべきことを説き、
侘び茶の基礎を確立したことによる、んだとか。

珠光が立てた礼式作法は、武野紹鴎から千利休を経て、今日に伝わってます。
現在まで続いている茶の湯の各流派はすべて村田珠光を祖としているので、
茶の湯の祖と呼ばれることに。

以上はにわかなお勉強によります(汗)
※間違っていればご指摘下さい。



さて、称名寺へ到着。
門構えの前までは来たことがあるけれど、
普段は非公開なので中までは入ったことはなし。
でも今日は年に一度の公開日なので、
遠目で見ていたら、ちらほら入っていく方が見えます。


普段非公開です


現在の本堂


こちらから若草山も見えます(昔はもっとよく見えたでしょう)

千円払って珠光忌のチケットを頂きました。
これで本堂とお茶室を拝見できて、お茶もいただけるらしい。
本堂へ入るとそこそこ混んでおりましたが、
末席に加えていただけることに成功。
(足の悪い人用に椅子もありましたが、少なし。
わたしは畳に直座りです)

本当のことをいうと、もっと混雑しているのかと思っていました。
だって、茶の湯の祖ってことなので、お茶やっている人にとっては
大おっしょさんなわけだからして。
各流派あげて人がわんさか押し寄せるのか?入場制限ありなのか?!
とかとか思いましたが、そんなこともなく。
とりあえず、座る場所も、足の踏み場も確保。

13時から法要ということで、縁もゆかりもないのですが、参加させていただきます。
これも「縁」のうちですから。

まずは心地よい読経を聞きながら、
途中では般若心経を一緒にあげ、
「宗派の違いもあるでしょうが、もしよろしければご焼香を」と勧めて頂きましたので、
前の人にならって焼香をさせていただきました。

その後、ご住職さまよりお話。
「諸般の事情から普段は閉めさせていただいておりますが。
従業員二名で細々とやっております」
というのもご住職さまと奥様で二名という企業なんですが(^^)

その奥様が体調を崩されたとのことで、
今年の法要も危ぶまれたけれども、
何とかあげさせてただけましたとのこと。
また来年もこういう機会がありますように。

ここのご本尊さんは阿弥陀如来さん。
この像にはモデルがおり、そのモデルとは真如法親王だそうです。

真如といえば、高岳親王(たかおかしんのう)の出家後の名前。
高岳親王の父は「あの」平城天皇。
奈良が恋しくてたまらなかった平城天皇@桓武天皇のムスコ。

父・平城天皇が病で譲位して、嵯峨天皇が即位すると、
高岳親王(真如)は皇太子に立てられる。
しかし翌年起こった薬子の変に伴い、皇太子を廃された。

薬子は平城天皇お気に入りの女性で、
この人が実兄とともにまつりごとを引っかき回し、
ビョウキが治った平城上皇が天皇の復帰を目指して
「都を平城京に戻す!」宣言。
これに対して現天皇の嵯峨天皇は、その動きを封じるために対処し、
そのすったもんだが、薬子の変。

結果、藤原兄は処刑され、薬子は自害。
平城上皇は仏門に入りましたとさ。ちゃんちゃん。
そして嵯峨天皇の皇太子だった高岳親王は、父(平城上皇)に連座して
廃太子となり、これまた仏門へ。

しかし、出家した方がこのひと(高岳親王)にはよかったのかも(?)
出家後は弘法大師の弟子として修行して高僧となられたようなので。

空海は薬子の変の際に、変の終息を祈って祈祷を依頼された人です。
その人の弟子となったってのは、どのような経緯があったのか。
だって、空海は嵯峨天皇のお気に入りでしょ?
(空海に東寺をプレゼントしたのも嵯峨天皇だし)
まあ、寄らば大樹の陰ってか、当時一番力のある僧侶に弟子入りするってのは、
彼が生き残るためには必要だったのかもしれないけど。

しかし、そんなあれやこれやのしがらみはおいといて。
真如は熱心に修行し、やがて空海の十大弟子の一人に名を連ねることに。
空海が入定の際には、高弟のひとりとして遺骸の埋葬に立ち会っているそうです。
そして貞観4年には唐にわたり、その後天竺を目ざす途中、客死したらしい。
(なんでも虎に食べられて死んでしまったとかいう説があるようですが…)

>>>なんてハナシは、なかったのですが(ここらへんは常識?)
>>私は常識が不足しているので、後付けで勉強してみた結果が以上のあらすじ。

ま。

『悲劇のヒロインはええオトコてことですな』
(そこはヒーローではないかと…?とちょっとツッコミ)

珠光さんは『闘茶』『聴茶』が大好きで、
ここ(称名寺)からおん出されたとかも聞いたような…。
自分から出て行ったのではなく、おん出されたのか。

『闘茶』『聞茶』は中世に流行した、茶の味を飲み分けて勝敗を競う遊び。
どうも修行よりも、お茶が好きだったようですね。
となれば、ここを出て、京都でお茶三昧していた(?)ってのも無理からぬことなのかも。

で、お話は茶室のことへ。
お茶室は十八畳→十二畳→六畳→四畳半とドンドン小さくなってきたけど、
四畳半ってのは正方形のお部屋。
これは、お寺(方丈)が正方形だってことによるんだとか。
へーなるほど。

「一年に一度のご縁です。茶のもてなしもありますので、
どうぞごゆっくりしていってください」
ということで、あちこち見学させていただいたり、お茶を頂いたりしました。

まずは本堂向かって左の渡り廊下を進むと、現代に建てられた客殿。
そこでお茶を一服いただきました。

畳のお部屋ですが、椅子席になっており、正座は不用。
お茶を立てる方も椅子席ってことで、これは立礼(りゅうれい)ってことでいいのかな?
(立礼は裏千家発祥だそうだけど)


お茶室で一服いただきます


庭から建物を望むとこんな感じ

こういう席は慣れてないもんで、本当にこころもとない。
茶のいただき方くらい心得ておいた方が恥かかないと思うんだが、
いつも思うだけで終わってます。(ダメじゃん)
お隣の方を真似て、いただきますして…とかやっていると
お茶の味もわからないほど緊張しちゃうしなあ。

それでも、今回は銘々にお渡しいただけるお茶碗だし(1月にお茶飲んだ時は大茶碗だった
お菓子も懐紙不用の、お皿にのった餅飯殿の萬々堂さんの「もっとの」だったし。
大変おいしゅうございました。

このお皿、このお茶席様に焼かれたもので『称名寺』って入ってます。
おおう、と思っていると「ご住職のご好意により、
お皿はみなさまお持ち帰りいただけます」って益々おおぅ。
しっかり紙に包んで持ち帰らせていただきました♪

一服の後は室内をあちこち拝見。
お茶のお道具もいろいろあったのですが、
床の間方面をあれこれ見ている間に片付けられてしまい、
ちらっとしか見ておりません(汗)


とりあえず”お品書き”の写真だけは撮ってきた

その後は、本堂へ戻ってきて内をぐるっと回らせていただきます。

ここのご本尊は前出のとおり、厨子に入った阿弥陀如来。
光烟光佛と称する秘佛で、真如法親王化身の霊像と伝わるもの。
これに左に弥陀如来・右には釈迦如来を配してお祀りしています。

弥陀如来は定朝様の美しさで、お口は小さく感じよし。
釈迦如来は胸板が厚く、口は真一文字でデカい。

光烟光佛はかなりの秘仏だそうで、
「次の公開はいつですか?」とうっかり聞いてしまったら、
「あ~、お寺さんの代替わりの時に公開されるってことで、
あんまりお寺さんにゆうたらあかんねん」とは檀家さんの弁(ありゃ★)

現在の本堂自体は享和2年(1802)に再建されたもの。
それでもそこそこ古い(奈良の尺度でいえば、200年前なんて…って感覚だけど)
外陣の四隅には、現代に奉納されたカラフルな四天王がいたりとか、
天井付近から吊るされた籠とか、あちこちに面白いものも点在。

堂内は普通撮影禁止なので、写真撮るのは遠慮していたのですが、
撮っても良かったのかな?
とりあえず、当日の様子は→こちらのブログで写真がみられますよ。

本堂をおいとまして、外へ出て、次はお茶室へ。
あの有名な「どくろあん」の方へ。


独蘆庵の入り口

耳で聞くとドクロドクロしい(?)のですが、
漢字で見ると違います。

獨盧庵(どくろあん)
自分をかえりみるという意味で、獨盧庵なのだそうです。
(あまりにも音(おん)がドクドクシイので、どうしてもあちらが浮かぶけど)

このお茶室も文化年間(1800年頃)の再建のもの。
なにやら話し声が聞こえてきたと思ったら、
ご住職さまが説明をしておられました。


内部


にじり口

ここ、実はカラクリがあって、三畳のお茶室としても用いられるように作られているとのこと。
この茶席は四畳半だけど、移動式の敷居と壁と障子を用いて、
三畳と一畳半に仕切れるように工夫した特殊な構造となっています。

なんでこんな仕掛けがあるかというと。
”エライさん”が来た時は、お付の人(現代風にいえばSP)もついてこねばならなかった。
そのSPまでも茶室に入れたんでは、雰囲気が悪くなる(ははは)
(ムクツケキ屈強な男がいかめしい顔して睨んでいる光景を想像していただければお判りいただけるかと)

そこで、一畳半分のスペースを区切って作った、小さい部屋にちんまりとSPは控えており、
エライさんは床の間があるほうの茶室スペースで茶を頂くと。

「どうやって区切っていたのですか?」
「ほれここ、このとおりです」

一畳半の畳と三畳の畳をわけるかのように敷居があって、
そこに天井から飛び出ている棒。
普段はここを開放しているけど、イザというときには、
この棒に別の棒を継ぎ足して、柱とし、壁をはめ込んで、
即席の壁を作るんだそうです。


横に一畳半の畳の部分。ご住職の顔の前の棒に、つっかえ棒(?)を足して仕切りにします

今であれば、パーティーションとかでパタパタ区切れるようになっている部屋はありますが、
この当時にこのような設備があったとは。
「こういう部屋に仕立てることはよくあるのですか?」
「うーん、今までに私も三度くらいしかないですな。こうやって組み立てるの面倒やから」

あー、確かにそうかも。
できるとはいっても、なかなか面倒そうだし。
お付きの人も、一畳半の部屋で息を殺して正座していたら、
イザというときに立ち上がれないかも…(笑)


茶室の外側(石臼?)


珠光の碑


お庭のトウロウとつくばい


つくばいの右手のこれが珠光採泉の井戸かな?

こじんまりとして、本当に質素なよいお茶室でした。
茶室は山門入って左手にあるのだけど、生垣などで囲われていて、
その存在がおおっぴらじゃないとこもまた良し。


お手植え(?)の竹の石碑…だけどこの竹は近年植えられたもの。
※ご住職さまに聞いたところでは。
元々生えていた場所から諸般の事情により、現在の場所に移植したそうです。

茶室をおいとまして、本堂まえに戻ってきて。
本堂向かって右側奥には、たくさんの石仏。
千体仏といえば、御所の九品寺が有名ですが、ここも負けず劣らず凄い数。
(なぜかわたし写真を撮ってないんだ…)

それでも一枚はこんな感じ

「歯痛地蔵」と「腰痛地蔵」
屋根付なのは特別待遇?

何故ここに大量に石仏があるかといえば、ほらあれです。
大和の仏教界に多大なる被害を与えた暴れん坊・松永久秀が多聞城築城の際に
「石持ってこーい!なんでもいいから、石持ってこーい!!」という号令で、
大和のあちこちから石集めが行われた時のこと。

文字通り、石なら何でも式に持ち寄られて、
あちこちの石仏までもが城普請の石として持ち去られて集められたと。
しかし、そうまでして集められたものの、松永爆死の後、城はほったらかし。

城壁に使われた多数の石仏が散乱するさまに「あわれ」を感じた
称名寺第十九代観阿上人がこの地に集めて祀ったんだそうです。
その数、実に1900体。
千体地蔵と称されて信仰されてきたんだとか。

何故か写真を撮ってこなかった私はアホアホや…。
雰囲気はヨソさまのお写真で感じてください(汗)

石仏いっぱいの写真が拝めます

こちらの写真も大きくてキレイです。

なんか、称名寺は見るべき所が盛りだくさん過ぎて、
イッパイイッパイになってしまったようでした。
写真撮りそこねている所もたくさんあって…今思うと真っ青。
こうなったら、また行かなくっちゃだわ!(宣言)

(つづく)
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二年ぶりの学芸員同窓会

2015年07月27日 | 奈良大学お勉強日記
奈良大の学芸員の同窓会に行ってきました。
日中(午後から)は学芸員実習のお手伝いをして、夜は飲むというパターン。
お手伝いといっても猫の手レベルの手の出し方しかしてませんので、
大したこともしてないんですけど>ワタシの場合。
草取りをして、掃除して、ゴミ捨てしたくらいです。

この同窓会。
実は存続の危機(?)に瀕しているという時期でございました。(←大袈裟や)

それというのもこの同窓会。
ちゃんとした同窓会組織として成り立っているものではなく、
「勝手に」同窓会という名称でやっているだけの「勝手連」です。

2007年の博物館実習に参加した人たちが、
「あの暑い中、勉強したり、実習したりして、なんとか無事に終わったねの思い出話を語る会」
をしようと、次の年から有志が参加して始めた会です。
ゆえに「会長」がいるわけでも、「会則」があるわけでも、「会費」が発生するわけでもない、
勝手に「同窓会」を名乗って活動(というか、実施)しているだけの「会」です。

とりあえず音頭とっていただいているIさんが「実習の最終日に乱入させてください」(をい)
というのを申し込んで、実習先にお願いしているだけなので、学校はノータッチ。

各年の実習の最終日に「OBで~す」といって掃除に参加して、
その後行われる最終日総括の水野正好先生のお話を拝聴するというお駄賃をこそっとタダ聞きする。
そして、夕刻からは一杯飲んで盛り上がるという三点セット。
だったのですが。

先刻ご承知のとおり、水野先生急逝につき、今年は実習をしめくくる水野センセのお話は無く。
思えば去年は台風のため、予定していた日程での実習も出来なかったようで、
(民家博物館の見学すらできなかったようです)
水野先生の講演を聞けた同窓会はその前の年の2013年実施が最後だったという…。
返す返すも残念でした。

なので今年はどうなるのかなと思いましたが、
それに代わる、別の先生のお話も無かったとのことで、なんだかしまりのない終了でありました。
(実習生は掃除の後、休憩を挟んで、”反省会”をして終了だったようです)

例年は水野先生の講演を聞いている時間がぽっかり空いてしまったので、
その時間を使って「今後のこと」が話し合われました。

・こういう会はなんらかの形で続けて欲しい
・しかし暑い時期の開催は勘弁して欲しい
・水野先生の御話が聞けなくなったのは残念
・こういう形で同窓会を続けていくかどうか

などなどが話題となりました。

元々は「思い出話を語る会」として始まった会ですが、
次第に実習生にも声をかけて、夜の懇親会への参加も呼びかけるように。
しかし「最終日に懇親会があるといわれても…時間の都合で参加できない」
「実習生がとつぜんそんな会に参加しても…」などなどの声もあり、
当日参加を呼びかけるのではなく、実習初日、もしくは開始前にやったらいいのでは?
という声も出ました。

確かに地方からやってくる方は、往復ですでに指定券を取っていることでしょうし、
暑くて疲れているからさっさと帰りたいって方もいらっしゃるでしょう。
急に最終日に「これから飲み会有りますけど…」って言われても、
近郊の方じゃないとなかなか参加できないよなってのもあります。

ゆえに、「懇親会がありますよ」ってのは事前にアナウンスしておいた方がよいということに。

だけど日付に関しては。
「何故この日だったのか」というのを思い出せば、この日しか無いわけでして。
実習の最終日だから、この日に集まって、ちょこっと手伝ったあと、
水野センセの話を聞き、一杯飲むという集まりだった筈なので。

日付は毎年一定ではないけれど、
博物館実習の最終日、というのは毎年同じ。
7月末か、8月上旬の日曜日というのは「決定している」ので、
日程調整するにも「そこらへんということは毎年決まっている」。

他の日となると、すべての人のOKな日程というのは現実的にはムリなので、
となれば、あえてこの日に設定するというのもアリかなと。

水野センセの話はなくなってしまったけど、
やるのであれば、「この日」というのは一番いいのではないかと。

あと、「会の方向性」なんていう私の頭の中にはなかったハナシがありましたが。
「実習の手伝い+懇親会」ではなく、他のテーマでの勉強会とか、
どこかへ行って勉強するとか…そういうことは個人的にはあんまり興味ない(キッパリ)
何かの催しに個人的に(もしくは誘われて)参加ってのは、
別の団体とか、会とか、そういうのでやってもらえればいいと思うし。
お世話役をやっていただいているIさんには申し訳ないけど、
「そんなコーショーな会じゃない」と思っているので(へへへ)

「虫さされたねー」
「暑かったねー」
「疲れたねー」
っていいながらビールを飲む会だと思ってますし。
それでいいと思っているので。
(まあ、時折おりに話題は変わり、有意義なハナシも沢山聞ける会ですが)

ゆえに「勉強会」とか「探求会」とか「研究会」とかがメインの会になっちゃったら
はっきり言って参加しないと思います。
そういう会を運営するのだって大変ですし(継続は力ですけど、その力がないとできひん)
そこまでしっかりした組織でもないですし、そもそも組織すら存在してないし。
(いえ、お世話役のIさんと、飲み会の会計をしてくださるKさんはいますけどね)

ってことで。
こういう会はまだ続けたいというのが結論。
そして、日程としては、やはりこの日程がベスト。(実習の最終日)
年に一度だけ、この日だけ、集って飲みましょうって会。
これがよいのではないかということになりました。
水野センセの御話がなくなってしまったのは非常に寂しいことですけどね。

同窓会側がそれを残念だと思うのは別にして、
実習生側の立場としては「誰かのお話を聞く」ということは楽しい&ためになることなので、
今年のように「何も無し」→「終了」になるのは寂しいでしょうってことで。
来年以降は誰かにお話を依頼して欲しいという希望は出しておきましたが。
(誰かのお話を聞くという”お駄賃”をワタシが欲しているだけという節も否定しませんが)

ちゅうことで、来年以降も「同窓会」は実施の予定です。
日付は確定しておりませんが、7月下旬または8月上旬に実施される博物館実習にあわせて、
その最終日に行われる予定です。

そういう会に参加してみたいなって思われる奈良大博物館実習を受けたことがある方は、
どんな方でも参加可能です。
卒業生・在校生の区別なく、卒業or中退の区別なく、実習年度も問いません。
とりあえず「奈良大学の通信教育部で行われている博物館実習を修了した方」ならば
参加資格があります。
そういうの参加してみたいなって思われる方は、どうぞお越し下さい。
来年時期が近づいたら、またここでアナウンスさせていただきます。

そして毎年お世話になっております>Iさん&Kさん。
来年もよろしくお願いします。
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予定は薪御能その2

2015年07月25日 | 色々・モシクハお勉強
思わず、入江泰吉旧宅に長居をしてしまって(一時間以上いた!)
実は本日、春日大社に行く予定にしていたんでした!

そうそう、今回の旅の目的の一つである「薪御能」
あれは夜にやるものだけではなく、実は昼間に行われるものもあるのだな。

ってことで春日大社の舞殿で、『咒師走りの儀』なるものが午前11時から行われるのでした。
ひゃー、遅れちゃう!ってことで、一路春日大社へ急ぎます。

春日大社についてみると、舞殿ではすでに能の奉納が始まっていました(汗)
お席についてらっしゃるのは、協賛席券を買った人。
そこそこの数が購入されていたようで、パイプ椅子は混みこみ。

とりあえず今日は「予行練習」のつもりでいたので、
薪御能はどんな風にすすめられていくのかのを見るだけでもOK。
ってことで、ちょこっとだけ後ろの方で眺めておりました。
当日の様子はこちらを参考に。

しばし、後ろの方で観覧していたのですが、特別参拝も気になる。
すでに前回訪問した時に特別参拝は済ませているのだけど。
その後、回るルートが変わったようで、そっちからも見て見たいし。
何よりも、もう一度本殿を近くで見て見たいから。

ちょうど後ろから来た人が「特別参拝は…」と南門近くの特別参拝の受付で
たずねていたので、聞き耳を立てていると…。

「今、能が奉納されているので、
これが終わるまでは特別参拝もできないんですよ」
「じゃあ、あとで来たら見れます?」
「はいはい、見れますよ。あ、そのクリアファイル見せてもらったら、
特別参拝で入れるようになっていますから、忘れずに持ってきてください」
ということで。

その質問している方の手には、檜皮の寄進料をお納めした方に
授与されるクリアファイルがありまして。

特別参拝は千円也で入れますが、檜皮ヒト束奉納(一口千円から可能)をすると、
お礼の品としてクリアファイルをいただける上に、
特別参拝もさせてもらえるのです。
だったら、なんとなく、檜皮ご寄進の方がありがたがられるし、
自分も特別参拝ゾーンに入れてもらえるし、win&winじゃない?(笑)

いつもだったら、特別参拝っていっても、本殿の近くまでは入れてもらえないし、
後殿も浮雲峰遥拝所も見せてもらえないから、
今の時期の特別参拝は、本当に特別、盛りだくさん、オトク(笑)

そのクリアファイルを見せたら、後で来ても特別参拝ゾーンに入れるらしい。
おおう。んじゃ、せっかくだから、また檜皮の奉納もしておくかってことで。
受付の人とおしゃべりしながら情報収集。

『ワタシ4月1日に特別参拝に来たんですよ』
「あの日は寒かったでしょう」
「はい、雨降って最悪でしたけどね。結構ゆったり見られてよかったですよ。
あの時に、お礼の品ってことで御用材で作った「木札」をもらったんですけど。
二三日後で来た友達は「お香」だったんですね。途中で変わったんですかね』
「今お配りしているのはこれですね」
『ニオイ袋?』
「これがお香に見えたのかもね」
『これって時期によって配っているものが違うってことですか?』
※せっかくなら、授与品に種類があるなら、複数欲しいではないか。

「木札なんてもらっても○○やねえ。首からさげたりしますの?」
『いやーわはは』
御用材での木札であればそれもまたオツではありますが…。

ということで、授与品はどちらかといえば木札の方がレアものなのかもしれません。
とりあえず午後にならないと特別参拝はできないというのが判ったので、
檜皮ヒト束を奉納して、クリアファイルいただいて、
下界に下りて、また後で来ることにしました。

今日はまだまだ予定があるんですのよ。
茶の湯の祖とされる村田珠光の命日である珠光忌が本日。
それに参加するために、まずは昼ごはん食べて…と思ったので珍しくバスで移動。

お昼ごはんは、ライス・オンで。


カレーライスというよりもエビフライが目当てのエビのっけカレーをチョイス


サラダ&スープ&フルーツ&デザート食べ放題です♪

カレーが来るまでの間はサラダをハグハグして待ちましたが、
カレーが来たら…そのボリュームに圧倒。
エビは二本でいいかも~&御飯半分でいいかも~。
とかとか言い訳しながら(?)も食べちゃいます(笑)

ちなみに、昨日の晩は近所の「キッチンへいぞう」で汁無し坦々面と杏仁タルトを食べました。

本当は汁麺が食べたかったのだけど、無くて。
一人で食べられるようなものといったら、
これくらいかなってんでチョイスしたのですが。


辛かったけどおいしかったです
(むせるほど辛かったけど★)

でもここって一人で来るんじゃなくて、
大人数で来て、いろんな料理を分けて食べるほうがベター。
美味しそうなものが沢山あったけど、一人では沢山の皿はたのめないし。

ランチもやっているので、次はランチで♪
(実は本日の昼も覗いて見たんだけど、お休みのようでした)

そして、ハナシはエビのっけカレーに戻すと…。
久しぶりの海老フライは三匹もあってウマウマ~♪
(二匹でいいなんて思いません!)

それだけでも十分おなか一杯なのに、
デザートも食べ放題なので、フルーツとコーヒーゼリーも食べてしまい、
美味しくて食べ過ぎました(笑)
ご馳走様でした。

さて、満腹になったところで。
次はいよいよ珠光忌で称名寺へいきます。

(つづく)
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予定は薪御能その1

2015年07月22日 | 色々・モシクハお勉強
今回のおとまりは「奈良バックパッカーズ」にしてみました。
NHK奈良のある交差点の道を東へ行った、県庁の裏(奈良税務署の裏)あたりにあります。

奈良行きの時は、ここの空きを探してみたんだけど、今までゲットできず。
珍しくこのたび、空きがあったので泊まってみました。

しっかし、ここのフォリナー率、高すぎ(笑)
私が玄関に到着したら、すぐ後ろから外国からの方と一緒になりましたし。
中に入っても、聞こえてくる言葉が「韓国語」「中国語」「英語」「フランス語?」
と、日本の人もいたけど、殆どが外国からのお客様でした。

(多分)フランスからのカップルの方と一緒に宿内のレクチャーを
英語で受けて(!)まわったんだけど、
そのカップルさんの男性が、すべての場所において、
わたしをレディーファーストで「どうぞお先に」をしてくれるのが
「おおう、文化の違いか♪」とかって感動してました。

お宿は元々はお茶をやっていた方のお住まいだったそうで、
純和風の日本家屋で、外には茶室もあります。

和室に二段ベッドを入れてのドミトリーの他に、
和室&お布団での個室もあるようですが、
一人で個室を取るのは結構至難の業です
>このお宿は人気ですし。

ベッドにはカーテンつき・電灯&電源つき。
台所も使えますし、サービスのお茶コーヒーも完備。
そして一番悩むのがお風呂。

ここお風呂が二箇所あって(昔ながらの湯船のあるスペースと、シャワーブースのみの二箇所)
泊まっている人も多かったけど、フル回転でなんとか入れました。
(いつもは銭湯にいくんだけど、暑くて面倒だったし)
外国人旅行者率高いので、シャワーブースで十分なのかも。
冬は湯船が欲しいところだけど、
夏場なので、これも時期的によかったです。


小さな玄関と下駄箱


リビングルーム


リビングの階段下の押入れは民芸調でイッパイ


リビング脇の廊下(奥は和室の個室?)

リビングスペースでは英語で盛り上がる旅行者の皆様の一団がありましたが、
内弁慶なあたくしは殆どどなたとも交流すること無く過ごしました(笑)
日中ずっと立ちっぱなしだったので、
ベッドでゴロゴロしていたら、すぐさま寝入っておりましたとさ。



早朝。
皆様まだ寝ている間に公共スペースにて身支度と化粧をしていたら。
宿のオーナーさんに声をかけられました。

「今日はどこに行かれるんですか?」
と聞かれたので、
「薪御能にいきまーす」

そうです。
本日は5月15日(金)
5月の第二金曜日ってことで、この日と次の日は興福寺の薪御能の日です。

未体験ものなので、一度くらいは体験してみたいな~ってことで、
今年はカレンダー巡りがお練りの翌日になっていたので、
では続けて行ってみるかってスケジュールにしたのですが…。

拝見するには、協賛券を購入すればお席と解説書がゲットできるようです。
しかし、有料席でなくても、ちらっと覗き見をする場所もあるようでして。
最後の最後まで迷って「今年は立ち見で」「体験体験」ってのを選んだのですが…。

しかし、昨日は雨がざーっと降ったしなあ。
今日はどうなるんだろう。
当日はうって変わって天気は良いけど、
薪御能に先立って、「舞台あらため」ってのはやるだっけ。

昔は薪御能は、野外で行われ、かつ芝の上で直接行われていたため、
雨が降ると(雨が降ったあとだと)中止だったそうな。
その検分をするのが「舞台あらため」

紙を芝にのせて、その上に上がり、芝がぬれてないかどうかを調べたらしい。
現在では、板を敷いて、その上で行われるために、
芝がぬれていても大丈夫だそうだけど、
昔ながらの動作を、わざわざ行っているんだそうな。

弁慶みたいな格好をした人が紙を踏んづけ、「濡れてませんよ」
「薪御能を開始しますよ」ってことを人々に知らせるために、
「外僉義(げのせんぎ)」という文が読み上げられます。
外僉義文は、寺の外部の人達に向けて僉義を発表するもの。
これらの儀式は他では見ることのできないものだそうで、
「薪御能」だけの特色。

「薪能」は日本各地にあるけど、「薪御能」は興福寺だけ。
能の前に「舞台あらため」があるのも興福寺だけ。
……となれば、これも体験しておきたいではないか!

昨日は雨ふったけど、本日はとってもいい天気だしなあ。
やるんだろうなあ。
立ち見だから、早く行って、場所とりしなくちゃとかとか考えていました。

それはともかく。
とりあえず朝食をとって、早々に宿を出発いたしました。


通りから宿の敷地内をのぞむとこんな感じでした


奥に長いお屋敷でした


本日はとりあえず、東大寺方面へ。
宿の前の道を東へ歩くと突き当たりが「天極堂」。
そこから北上して、焼門前の交差点から更に東へ。

なんとなく今日は戒壇堂に行きたくなって、階段を登ります(駄洒落ではない)
案の定、午前8時前ってこともあり、人もいなくて国宝独り占めに成功です♪
二度三度と戒壇巡り(?)をしていたら、他の参拝者の方もいらっしゃいました。

満足して、さて次はどこへ行こうかと思ったら。
そうそう「入江泰吉旧宅が公開されたよ」という情報が寄せられたので、
出来れば行きたいなあって思っていたので、行くことに。

わたし、実は、水門町がどこにあるのか判ってなかったんだな(笑)
戒壇院から階段を下りてきたところを南へ向かえば、
そこはおなじみの通り。
T字路におそば屋さんがある、あの道なのですが。
ここら辺が水門町とはおもわなんだ。

その道を戒壇堂からの階段を下りて歩いてきたら、
右手に「入江泰吉」の名を掲げた門があり、
あれ~こんなところにあるんだあって感じでした。


入江泰吉旧居入り口

すこし南へ行くと、「喜多原」というお蕎麦屋さんのあるT字路。


右へ行くと南大門方面へ(中心の建物がお蕎麦屋さん)

看板によれば開館時間にはまだ40分ほどあるので、
近くの小道を歩いてみたり(喫茶店「しろあむ」さんの店構えを初めて見たかも)、
木陰に入って新聞を読んだりして時間をつぶし、イザ、開館時間に再訪。
一番乗りでございました。


玄関

門を入って左手に玄関。


見覚えのある玄関

奈良にありがちなのか、「玄関」ってイメージじゃない、
沓脱ぎ石がある場所の一歩先にはすでに室内という玄関。

これだと雨の時とか大変じゃないのかなって思いましたが。
しかし玄関先の屋根の軒が深いので、
横殴りの雨でもなければ、雨はしのげそうです。
でも、ガラガラとガラス戸があって、たたきがあって、あがりかまちがあって…
という玄関をイメージしていると、え?ここが玄関?!って感じですけど。
(かくいう私がそれでした)

そういえば、昨日とまったお宿もガラス戸開けたら、
小さなたたきがあって、(一応靴箱は作り付けであったけど)
その先にガラス戸開けたらすぐ室内って感じでしたし。

受付でお金を払って、「説明もしますからお声かけくださいね」といわれ、
とりあえず一周目は一人でくるっとまわってみることに。

玄関あがって小さなお部屋の向こうには座敷。
その隣りには応接セットのソファーのある部屋。
お部屋を取り囲むように外側に廊下がめぐっています。

おうちの見取り図はこちらで確認を。

うわっ☆
他人のおうちの中を見るのは好きなので大興奮。
知人友人の家のみならず、単なる間取り図を見るのも好きだったし
>アパマンとか愛読誌だった♪

そんなシュミなもんで、著名人の旧宅などを拝見するのも大好き。
志賀直哉の旧宅なども興奮したもんな。

ということで、入江邸は本当に大興奮の連続。
どこもかしこも美しい部屋なのでした。

中央の部屋をぐるりと囲んでいる廊下からのぞむ庭は緑が濃く、
奥の板張りの空間はあとで増築したんだろうなというたたずまい。
部屋の中央には茶室、押入れのある和室は寝室かなあ。

そして、一番奥の空間には…入江さんの私室というか、書斎。
この部屋が実にイイ!!

ここ、入り口でしばし立ち尽くして、なんだか御伽の国の入り口を見るかのような心地。
いや~壁一面本棚なんてお部屋ですもの。
私にとっては夢の国ですよ。
こんな部屋、欲しいもん。
わーん。
しばしその部屋でうずくまっていました。

とまあ、とりあえず、室内を一周してみたので、
今度は係りの人に解説をお願いすることにしました。
説明を聞きながらまわると、またしても、味わい方が深まります。

「この玄関が珍しいと思うんですけど」といわれたので
『玄関いいですねー。ある本に白洲正子と一緒にここで写っている写真があって、
それと同じ玄関のままなので、感動しました』
とお返事しました。
『最初見たときはお部屋から直接お庭に出る場所なのかと思いましたが、
ここが玄関だったんですね』
まさか、こういう玄関だとは思わなかったもんで。

そう、昔かった入江泰吉の本でここの玄関に集う文化人って写真を見たことがあったのです。
その時は、フツーの座敷から庭に出ているんだとばっかり思っていましたけど。
それが、今、自分の目の前にあるという現実。
うわーい。
ウレシイ。

ほとんど通路と化している玄関前のお部屋(ははは)を抜けると、座敷です。


すぐにお部屋です


床の間のある純和風の部屋の隣りはソファーのあるお部屋

玄関正面の和室は壷やら、焼き物やらが並べられていましたが、
飾り棚の上のもの等は、実際に入江が集めたものらしい。
「東大寺の上司海雲さんの影響で、こういった壷をよく集めたそうです」


紫香楽焼みたいです

海雲さんは”壷法師”と呼ばれるほどの壷好き。
モノを集めると、なかなか止められないですよね(個人の感想です)
それに感化されて、入江さんも壷を収集(蒐集の字の方が美しいか?)したとのこと。

床の間を背にした右手の座布団が入江さんの定位置だったそうで。
私もちゃっかり座らせていただきましたわ。

床の間の右端には何やら「二月堂」って焼印がおされた短冊があり、
しみじみ読んでいたら
「それ、昔の良弁杉が倒れたときの材木を使って作られたものらしいです」
『えええ?』
そういえば表面に
「昭和25年9月3日のジェーン台風で落ちた良弁杉の枝を偲んで、これを作る」
みたいな文言が書かれていましたわ。
(ジエン颱風の文字に時代を感じます)


良弁杉の形見

ちなみに、良弁杉の初代は昭和36年(1961)の第二室戸台風によって、
地上10mほどを残して折れてしまい、二代目が挿し木によって育てられたのだけど、
昭和41年(1966)にはそれも枯死。
現在の良弁杉は三代目だそうです。
それはいいとして…。

お隣りは応接セットがあるお部屋。
このソファーは向かって左のものに座って、
編集者や来客対応をしていたとのこと。
「手元にネガや写真のたばを置いて、打ち合わせしたようです」


床の間を背にした奥の景色

入江目線で見ると、正面には本箱が一面。
ここの本は入江自体が集めた以外の本も含まれているようだけど、
入江自身の撮った写真の本や、写真集がぞろっと並んでました。


ソファーの部屋の壁には二十面相さんが好きそうなお面が…(^^)

このお部屋の外側を廊下が囲んでいるのだけど、
その窓際の場所に小さな木製のテーブルセットをおいて、
ここでご夫妻が朝食を頂いていたのだとか。
「お弟子さんが朝やってくると、お二人でここで御飯食べてたんですって」
(現在はそのテーブルセットは中庭に面した廊下に置いてあります)


廊下の天井のつくりもキレイ

で。
このお家の重大なヒミツが披露されました。
この家は民家として新築されたものではなく、
「大正時代に吉城園の摩尼珠院(まにしゅいん)という建物を移築したものだそうです」
えええ?!

吉城園といえば、この旧居前の道を南を向かったどんつきから入れる庭園。
そして、奈良検定テキストによれば『興福寺塔頭の摩尼珠院があった場所』ってあります。
えええ?!

ってことは、その建っていた摩尼珠院をこの地に移築したものってこと?!
二重の意味ですごい建物だってことになるわけじゃないですかっ!
これ、ソムリエ級の問題になりそう(笑)

それらの建物をメインに、暗室やアトリエを増築して、
現在公開されている形になったんだとか。
ひゃー、そんなところを200円(入館料)で見てもいいんだろうか?

奥の廊下の窓際から外と眺めれば、眼下には吉城川。
暑くなってきたので、川の流れが音・眺めともに心地よいです。
そして今は緑が濃い景色ですが、これは楓(?だっけ)で、
「秋はきっと綺麗だと思いますよ。是非秋にも来てくださいね」
「はい!絶対に!」
もう、想像しただけでも悶絶しそうな光景が見られそうで、
今から大興奮です。

廊下をあるいてちょっと広い板の間のスペース。
ここには各種パンフレットや、応接セット(現代のものです)があり、
テーブルの上には「記念ノート」
中をめくると「来れてよかった」とか「入江さんの写真の感想」とか。

そのお部屋の手前には茶室。
しつらえは補修後のものだけど、
もともともこの部屋は茶室として使われてたらしい。

その隣りは押入れがあり、箪笥が置いてある部屋で、
奥様が使っていた部屋とのこと。


奥様の部屋だった場所から中庭方面を見る

この小さなテーブルセットが例の朝食を食べていたというテーブルだそうで、
年代モノなので「座らないで下さい」との札がついておりました。


茶室と和室の境の壁はかまぼこ形


こういう箪笥好きだわ~

そして、いよいよ入江さんの秘密基地・書斎とアトリエです。


入る時ドキドキする


本棚には本がいっぱい


この窓の外も吉城川が流れています

「入江さんは勉強家だったので、この部屋で本を読んだり、
あちらで書き物をしたりしたようです。
奥の部屋の絵の具なども当時のままだそうで」

あー、こんな環境の部屋があったら、本当に日がな一日、
ここでゴロゴロ本を読んだり、絵を書いたり、手仕事したりして過ごせそう。

ほとんど入江が住んでいた頃と変わらず、手を加えずの環境だということなので、
「はて?ではお勝手は?」
とたずねると、「あ、今事務所になっているところです。
よろしければ後でご案内しますよ」とのこと。
(だって生活していたなら、御飯作るところがないとおかしいもん)

「外には暗室も、お庭もありますので、どうぞ靴持ってお庭も見てください」
といわれたので、今度は庭に出て外に作られた暗室を見学。

タイル張りの水場は復元された建物だそうですが、
雰囲気はその当時のままだそうで。
(しかしエアコンがついていたのには驚いた(笑)
実際この暗室を使っての講義などもあるようなので設備として必要なのかも)

庭に出て判ったことは、ここの家は懸け造り=舞台造りで、
吉城川に向かって崖になっている場所に作られたものなのでした。
ゆえに庭といっても、平面なものではなく、
庭の中に高低差があり、石段を降りていくと、
吉城川の水面に触れられるほど低くなると。
(現在は金網が張ってあって、川に出ることはできませんが)


張り出した建物

庭の一番低いところから書斎を見上げると、その高さが実感できます。
ゆえに、書斎にいると、川の眺めと木々の緑や紅葉やらが独り占めできたんでしょう。
ますます、あの書斎いいな~なんて思ったりして。

「入江さんはヒマのある時は庭の草引きなんかして、
一日つぶれてしまうこともあった」んだとか(笑)
確かに自然豊かなこのお庭では、草曳きも大変でしょう。

書斎はあとで増築した部分だってのが外からだとよく判りました。
庭を巡って、書斎の外側から階段を登って中庭に出て。
玄関へ戻ってきて、再度中へ入ります。

『お勝手見せてくださーい』
「はーい、もともとのお台所はここにありました」
と現在受付になっているカウンターの奥の、
細長い空間もちゃっかり見せていただきました。


奥に見えるのは受付(事務室)>昔はお勝手があったところ

ということで、最後にくるりと再び一周させていただき、
秋の再訪を固く心に誓ったのであった。
次回は紅葉の中、あの書斎で、半日くらいポーっとしていたい(ははは)

「今日はこれからどこ行かれるんですか?」
『あ、夕方から薪御能へ行こうと思ってます』
「あら、いいですね」

そうだ、今日は薪御能なのであった。
そして今日はまだまだ行くところは盛りだくさんなのである。

ってことで、(つづく)
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お練り見ました2015

2015年07月12日 | 色々・モシクハお勉強
(今更ながらの記事ですが…)

久しぶりに「お練りが見たい!」って思って、行ってきました。

平成27年5月14日(木)
當麻寺のお練りの日です。

とりあえず昼過ぎに当麻寺駅について、まずは腹ごしらえをば…。
と、もくろんでいたものの、
お目当ての駅前のレストランは木曜日が定休日(!)でして。
こんな時は掻き入れ時なのに、商売っけの無いお店だなあ。
まあ、次回来訪時の楽しみにとっておきましょう。

しゃーないので、中将餅で一服してきました。(をい)


本日はお店は大行列。
しかし店内で召し上がる方は少なくて、のほほんとできましたけど。
でも、あんまりのんびりもしてらんないのだ。
一服したらおいとましましたが。


あとは、駅前のどっこいまんじゅうを購入してハグハグ。

これ、作り置きしてないので、注文が入るたびに焼いてくれます。
(そこがちょっと面倒なんだけど)

まんじゅうといってますが、大判焼き風。
皮も中身はさつまいもあんがベースで、
ワタシはさらにチーズが入っているものを選択。

焼きたてのそれは、結構とろんとしていて、実は…食べにくかったです(笑)
(冷めているほうが、固くなって食べやすいのかもよ)

それを食べ歩きしながら當麻寺までの道を進むと、
参詣道すがらの商店も本日は絶賛営業中のところが多い。
まあ、今年一・ニの人出が見込めるお祭りですから、
こんな日は商売するでしょう。

なかでも、一年に一度しか店を開けない(?)「ひめ餅」さんが開いているのを見ました。
ここでもつまみ食いしようかと思ったけど、まあ、いっか~と通り過ぎ。


結構繁盛してました。

駅からまっすぐ歩いてきて15分ほど。
(ここの駅は看板に”最寄り駅”と書いても偽り無しですな。
「岡寺」とか「壷阪山」とかは近所だと思うと痛い目に遭いますから)



練り供養会式は午後四時からなので、
その前に中の坊での當麻曼荼羅の絵解きに参加することに。

當麻曼荼羅の軸をかけて、その絵を見ながら、
仏さんはなあ~あーたらこーたら…と解説をしてくれるのが絵解き。
お経を読んで判らんものは、絵にして、目で見て判るようにして、
極楽とは、地獄とは、来世とは等々を説くのが絵解き。

また、本日4時からおこなわれる練供養も
「阿弥陀如来がお迎えに来るってのは」ってのを
目で見て判るものに置き換えているものです。



私は前もって予約して行ったんだけど、
別に当日飛び込みで受付しても大丈夫みたい。

ってか、「予約しているんですけど…」って受付に申し出ても、
周囲の当日参加の人と同じに扱われましたから。
わざわざ前日までに予約の電話を入れる必要はなかったみたい。

午後一時までに中の坊へあげてもらって、
茶室の脇からグルグルとまわって、廊下をゆき、
絵天井がある写仏道場となっているお部屋まで移動。

ここの建物内部はお抹茶(有料です)をいただいた時に、
茶室と書院の一部を見せていただいたりしたことはありますけど。

今回は階段を上がったり、下ったり、先へどんどん進んだりして、
なんだかたくさん歩いりで写仏道場へたどり着きました。

ここ普段は入室できず、絵天井の公開は四年に一度なもんだから、入ったことはない。
ただし、外から中を覗き込むことは可能だから、
ちらちらっと見たことはありましたけどね>外のお庭から。

ただし、写仏を行う人はここで行いますので、
公開年ではなくても絵天井を拝見できます。

写仏とは仏さまの姿(絵)を写すもので、
って感じ

一時過ぎには室内はギューギュー詰めで、
今か今かと始まるのを待っておりました。

そして長老さんが現れて講話開始。
まずはお寺のハナシなどから。

ここの寺は現在は東の門から入ってくるようになっているが、
昔は南の門から入ってくるのが常だった。
昔は竹之内街道からやって来る人がそっちから来ていたから。
金堂の南側にはこの寺で一番古い燈籠がたっているが、
そっちから来る人が多かったってことでしょうなあ、とのこと。

うちは古い塔が二つあるお寺です(えっへん風^^)
昔、薬師寺の高田好胤さんがお写経勧進で有名になった時、
「今度うちにも両塔が建ちますねん(西塔が建ちますねん)」
っていうから、
「うちは大昔からの両塔がありますねん」て返したって。
強気♪
(ふふふ)

先代住職さんは子供がいなかったので、
今の長老さんは子供の頃にお寺にもらわれてきたらしい。
その頃は絵解きをやる坊さんが五人くらいいて、
その役目を自分もやらされていたが、
小僧さんがそれをやっているのがいやでいやで仕方なかった。

それがどんどん高齢化で一人減り二人減りしていって、
誰もやる人がいなくなった。
そこで絵解きは途中で断絶したんだとか。
それが年をとってから、
ああいうのもよかったなあと思って復活させたんだとか。

そして、いよいよ絵解きへ。

もともとの當麻曼荼羅は中将姫が一夜で織ったという”伝承”はとりあえずおいといて、
痛みがひどいので、ぱっと見、絵に見えていたそうですが、
科学的な研究の結果、綴織の錦であるということがわかってます。
作られて早くから痛みが始まったようで、
これまでに、3回の転写本が作られたそうな。

しかし、絵解きで使われるのはそれらの古いものではなく、
前田青邨画伯のお弟子さんの入江正巳画伯が、10年をかけて描き上げたもの。
平成の作なので、色も綺麗で、見やすいし、
これがかなり精密で迫力満点の絵です。

真ん中にどどんと阿弥陀三尊。
その周囲を沢山の菩薩が囲み、さらに花や楽団や天人を配置し、
極楽の様子を描いています。

その周囲を左右と下段に小さいコマ絵が、
コママンガのような配列で描かれています。
(→こんな感じね)

周辺に描かれているのは、
一番下の段が「九品往生」の絵。
人は生前の行いによって「上品上生(じょうぼんじょうしょう)」
から「下品下生(げぼんげしょう)」まで9つのレベルにランク付けされ(!)
それによって死後の扱いが違うんだそうで(ははは)

「上品上生」では仏様御一行様がお迎えに来てくれるけど、
「下品下生」では自力でやってきてやって感じ。
(でも、すべての人は救われるんですけどね>最終的には)

そして左側には下から上に向かってはインドのイダイケ夫人のオハナシが、
くるっとまわっていたり(そろそろ記憶があいまい…だ(汗))

まあ、詰まるところ、仏さんがたくさん描かれてみるだけで幸せなキモチになって、
最後にはどんな人でも仏様は救ってくださるよ、ってことが描かれているんだそうな。
(どんだけ手抜きの説明なんだ…すんません)

そして絵解きに続いては天井に描かれた絵天井の説明。

昭和のはじめに、ここ客殿が解体修理を行った際に、
有名画家たちが絵の寄進を行ったと。
まずは前田青邨画伯を皮切りに、その後も有名画伯たちの奉納が続き、
それらの絵は現在のように天井に掲げられたとのこと。

その後も奉納は続き、天井スペースを増やし、
平成の天井絵もスペースも作られ、今でも増えているようです。

絵天井は四年に一度の公開で、
それ以外では写仏をする人のみ見られるとのこと。
次回は平成30年だそうです。
(どうしても見たかったら、写仏を申し込みましょう←?)

日本画家が主な描き手だけど、おもしろいところではタレントの片岡鶴太郎さんの鯛の絵とか、
「極」という一文字だけが描かれたものもあり、全部見ようとして、
みんな口をあけて天井を眺めているのが面白かったですわ。
(何を見てるねん)

この建物はもともと昭和4年に建てたものがベースなので、
どおりで電気配線とか、鏡とか、流しのタイルとかが古かったわけだ。
なかなか面白い体験でした。

さて。
絵解きを終わって外へ出て、お庭を眺めていたら…なんと、雨が降り出しました。
うそ~!

本人は日傘用にと思って持ってきていた晴雨兼用の傘があったからいいけど、
突然の雨に(天気予報では雨なんて出てなかったはず)傘を求める人が続出。

新緑の濃くなってきた頃なので、また雨もいいもんですね。
なんて強がりを言ったものの、今日のメインイベントはお練りである。
雨になったらどうするの?

ピンポーン。
答えは、曼荼羅堂(本堂)の周辺を歩いて終わりです。
え~何とか、それまでには雨あがってくれ~!


東塔と池(蓮の葉がいっぱい)


写経道場を外から見たもの


植物にとっては惠の雨


緑が一層濃くなった感じです

中の坊を出たら、

「娑婆堂」では、お練りの用意のためにおじちゃんたちが作業をしてました。
すでに娑婆堂から延びる渡り舞台(来迎橋)はまっすぐに曼荼羅堂(極楽堂)に伸びておりましたが、
降り出した雨に、傘を持たない人はしばしその下に避難して雨やどりです。



曼荼羅堂の西隣りの護念院から延びる渡り廊下。
ここから仏様たちがスタンバイして出てきます。

晴れていれば、この来迎橋上をどんどん進んで娑婆堂へ向かうのですが、
雨ともなればどうなりますことやら。



とりあえず雨宿りを兼ねて、曼荼羅堂内でしばし時間をつぶしておりましたが、
途中係りの人の手によって、このカラフルな幕も外されてしまって、
本日の来迎橋でのお練りは中止が決定されました。



ということで、お練りは本堂の周りを回る形で行われることになりましたので、
本堂の東南の角方向の、護念院の白壁の前の場所を確保。

ここならば、護念院から渡ってくる仏様の姿も拝めるし、
回廊が高い場所にあるので傘の波の上からでも、
お練りの様子も見えるだろうと踏んで。
(この読みは正しかったです。この場所は雨天時には有効かも)

そして定刻にはお練りが始まる模様。
仏様たちのお渡りの前にはお寺関係者が、
足元が危なく無いようにと、渡り廊下(?)を一生懸命に雑巾で拭いておられました。
(ご苦労様でした)

そして、いよいよお練り開始です。


お稚児様の列


仏様登場

歩き始める際に、面がずれていると世話役の人が面を直してくれます。

そして登場、

スクイボトケとオガミボトケ



蓮台を持ったのがスクイボトケで、
両手を合掌しているのがオガミボトケ。
つまり観音菩薩(救い仏)と勢至菩薩(拝み仏)です



左右に大きく体をひねりながら、
両腕を高く掲げたり下ろしたりして、一歩一歩ゆっくりと歩み行く姿は、
「練り歩く」=おねりの語感そのもの。
こんな変な動きいうのは、
人間ではない=ホトケであるってのの証明なんだとか。

本堂に入った後は法要が行われて、
それが終わると、スクイボトケの蓮台には中将姫の姿が乗ります。
(従来は娑婆堂で行われる行事だけど、今日だけは本堂で)


蓮台の上には中将姫のお姿があります

そして本堂を出て、再び回廊を練り歩きます。
私は場所を動かず見ていたので、本堂を出て反時計回りで進んでいく行列とは
しばしのお別れになってしまいました。
とりあえず、ぐるっと一周してくれば、
またこの角度へ帰ってくるからとノンキに構えてましたけど。

そして、一周してきた中将姫を捧げ持つ観音菩薩が登場です。
やっぱりここは良いポジションでしたわ♪


続くは勢至菩薩


一歩踏み出しては一歩さがるような感じなのでなかなか進みません★


そのまま護念院への橋を渡っていきます


お練の最終版に来て薄日がさしてきました


二十五菩薩さんたちもお疲れ様でした~

お祭りが午後四時からなんて時間から始まるのには、
こういう”舞台装置”が盛り込まれているからなのね。

つまり、光の中を来迎する仏様の集団を見せるというのが、
この練り供養会式の最高の見せ場。
そこで必要なのが「光」「ライティング」。
野外で行うので、この場合は「夕日」です。

まさに西方極楽浄土から、まばゆい光の中をお迎えに来る仏様たちのお姿を、
「仏さんが迎えに来るってのはこういうもんやで」と、
人々に見せる宗教行事なので、薄日といえどナイスな演出でした。

しかし、終了した途端に晴れてきたってのは…
少々複雑な気持ちになるんですけどね。

まあ、晴れの日のお練りは見たことがあるし、
カメラマンさんたちも珍しいアングルからのお練りを取れたかと思うので、
これはこれで良かったんではないかと。
ポジティブシンキングです♪
(そう思わなきゃやってられないじゃないか!)

雨の日に写真撮るとどんなもんだろと探していたら、
nakaさんのブログでは写真満載の記事を発見!!

練り歩くオガミボトケとスクイボトケはこちらで見られますし、
娑婆堂でのお迎え光景の写真はここにありましたし
私は場所固定で見ていましたが、雨の日の極楽堂一周の写真はこちらから見られます♪
(すごい!すごい!いろんな場面が見られますよ~必見)

ってことで。
まあ、珍しい光景が撮れた(見られた)と思えば、
雨の中のお練りもよかったのではないでしょうか。
(でも”中の人”は大変だったんでしょうが)


祭りが終わったらすぐさまガランとしてしまいました

最後には金堂&講堂&曼荼羅堂も拝観してきました。
講堂では”例の”油かけ事件”の実物も目にしてしまって…激怒。
芽出度い&有り難い気分が、少し凹みましたけど。
自分も信仰するものがあるのだったら、
他人の信仰にも敬意を払うべきだろうに(ぷんぷん)

ま、それらのこともありましたが、
帰る頃には夕日も照らしてきて、
當麻の夕暮れは綺麗でした。


帰りは道すがら綺麗に咲いているよそのお宅の花などながめながら



駅に着いたら本日のお練り特別運行で当麻寺に特別に止まる電車に乗れました。
これも普段の行いのよさ?(へへへ)

これに乗って一路奈良駅へと向かいます。

(次の日につづく)
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やれば出来る子YDK!

2015年07月04日 | 神社検定お勉強日記
明光義塾のコマーシャルでやっている、アレを見た。

『やれば・できる・こ~YDK』

そうだ、やれば出来る子なんだよ、君は。
そう言って諭して欲しい、アタシにも。
そうすれば、少しはやる気も出るってもんだ。

だけど、やらないから、ダメなんだ、君は。(風の声)
え?
そうきますか?

そうですね、そうです。確かにそうですわ。
そうなんだよ、やらなかったのはアタシだよアタシ!(急にキレてる)

ダンナには

「やっても出来ない子?」

「やってもダメな子?」

「やっぱりダメな子?」(←キー!)

などなど言われて、トホホ。

いつかは「やっぱり・できる・子YDK」といわれたいワタシなのでした。

ちゃんちゃん★
(ネタかよ)

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神社検定2015受験雑感

2015年07月01日 | 神社検定お勉強日記
六月の晦日も過ぎたし、
この半年のモロモロの穢れを祓うために、今年の総括をしとこうかなと。
って、神社検定2015についてですけど。
(今年はまだ終わっとらん!)

さて。
恋も二度目なら少しは上手に…♪ですけど、
三回目の受験ともなればもうお手の物?な神社検定、のハズ。
なんですが、問題冊子を開く瞬間はそれなりにキンチョーします。
(これもどっかの歌詞みたいなフレーズだわさ)

会場までダンナに送ってもらって、
開場時間待ちをしているとき、
「試験の最後にアンケートがあるハナシ」とか
「とにかく時間が足りない」とかとか
グダグダとしたところ…。

「それは問題冊子を開いたら、全部の問題を眺めてみて、いろいろ勘案するんだよ。
アンケートは一番最初に書いておく(!)。
アンケートまでたどり着けないような人は合格も出来ない(←極論だ!)し、
すべての問題を見て、どれが簡単か、どれが判らないかを
あらかじめ見ておいて時間配分すること」
といわれちゃいまして。

そういやあ、某国家試験ではそうやって受験対策していたなあ。
(遠い目)
とりあえず全部の問題を眺めて、選択問題はどれを選ぶかあらかじめ考えておき、
残りの時間配分を考えて、自信があるところからサクサク解いていって、
捨て問題は後回ししていくという解答順番。

あー。
なるほどね。
なんか、時間がナイナイって言いながら、頭っからやっていったら、
案の定最後で時間が足りなくなって、読み飛ばし、塗り飛ばししてしまったっけ。

「ウソだと思ったら、最初にアンケート書いてみな」
と言われて送り出されたのですが…。

いざ、会場に入ったら少なっ!(愕然)
1級3名、2級一ケタ。
これが全員か?>受験生。

3年連続2級を受験している当方としては(威張るな!)、
その経年劣化をリアルタイムで見ているもんですから(ははは)
生き証人クラスでございます。

2級は開始初年はそれなりに受験生は多く、
会場ぎっしりに長机が並べられていたけど。
去年はがくっと人数が減り、
今年はさらにさらに減って、まさに激減。
おいおい大丈夫か?神社検定の未来は…とか要らぬお世話。

試験の前にトイレに行って、戻ってきたら、
なんと机の上にはマークシートとアンケート用紙が載っておりました。
どうも私がトイレに行っている間に、アンケートが配られたようで、
周囲の人はカキカキしております。

おおお!
これは進歩ではないか?!

去年は、問題冊子の最後に何の説明も無くのっけられていたアンケートですが、
今年は試験前に配られて、書いてOKになっておりました。
ちゅうことで、「試験の最初にアンケート」ってのは努力なく、達せられました。

アンケートには
『次回も受験されますか』なるものがあって、
1:受験する 2:受験しない 3:テーマによっては検討
って選択肢があったのですが。

これ、ソッコーで『2』を選んだのですが…。
いや、待てよ。

「受験しない」なんて書いちゃったら、
「いやー、来年も受験してー」とばかりに「今年不合格」にされても困る(ははは)
(マークシートだけの試験ですから、ヨソからの力が及ぶことはないのだけど)
なんか一瞬ひるんでしまって、とりあえずテーマによって検討にしておいたけど。

忌憚のない答えを書いて、
試験前説明を聞いて、
イザ!試験です。

とりあえず、ダンナのアドバイスどおり、問題冊子をパラパラとめくって、
最後まで一読。「げげ」「おお」「うげ」とか思いながら、
最後の『皇室』部分からの出題が、結構山が当たっていたので、
忘れないうちにってんで、そこから解答開始。

剣璽ご動座キター!
御陰祭&御阿例神事きた~!
春日大社の素焼きの土器来たっ!

もちろん中には「?」なものもあったけど、
とりあえず、ここ来るんじゃないか?ってものも多くて、
こりゃいけるんちゃう?状態でニマニマ(←莫迦)

そして、再び頭に戻って、先頭から順に解いていきます。
公式テキストでいえば『日本の祭り』からの出題が続き、
コラムを重点的に見ていた私は、ここから出たか~ってものの連続。

去年「キンマモン(沖縄の神様)」は出題済みなのでサラッと流してしか読んでなかったので、
それが出たときは「げげげ!」でしたが、とりあえず三問とも答えられた。

しかし、安穏とした時は長く続かないのである(物語風)

吉田兼倶出た~!(やっぱり出たか)
賀茂真淵来た~!!(この人も外せないよね)
貞観儀式ヤバイ!!!(平安時代は全方向的に弱い)

ってもんで、なんだか前半の快調なスタートも、
半ばまでしか続かず、一つ怪しいのが出ると、次から次から…。

しかし、例年の問題(って二回しか受けてないけど←十分受けすぎ)からすると、
・超長文は若干減ってる(気がする)
・間違っているものを選びなさいも減っている
・ひっかけ選択肢がとりあえず二択にまでは絞れる
くらいの感想は得られました。

”今回より2級の出題レベルの見直しを行い、今までより、
多くの皆様に楽しんで勉強していただけるようになりました!”
の文言は正しかったようです。

とりあえず今回は、
「アンケートは先に書けていた」
「山勘で出ると踏んでいた場所からは出た」
ちゅうことで、ちょっとだけ余裕もあった。
しかぁし、出て欲しくないと思っていたところからも出た。
むむむ。

そして90分なんてあっという間に過ぎ去り、
今年の試験も無事終了。
終わった終わった。

例年通り、悠仁親王殿下ご誕生記念の高野槇の植樹木を写真に収め、
「アンケート一番最初に書いたよー」とダンナに報告をし、
「で、受かったん?」
「わからん」
とかいいながら、開場に後にしたのでした。

===

で。
皆様、知りたがっているであろう(?)
ワタクシの解答結果ですが、
「68点」でしたのよ。
オーホホホホホ。
去年とまったく同じ点数じゃないかっ(ははは)
進歩がねー★

問題が変わっているというのに、去年と同点って…。
進歩無いなあ、あたし。

ってことで、今年の神社検定は終わったのでした。
ちゃんちゃん。

もう受かっても、落ちても、2級は今回限りって思っていたので、
ダンナには「来年は受けない宣言」したんだけど。
「えーもったいないから受かるまで受けなよ」って言われてしまったし。
ゆれてる(笑)

来年は素直に3級受けて、それで終わりにしようかなと。
(そういいつつ、3級すら受からなかったりして)

とりあえず、今年の神社検定は終わりましたよ。
来年の話は来年考えましょう。

残り半年は、奈良検定に捧げるぜぃ。
(奈良検定を受けるわけではないけどね)



コメント (2)
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