奈良大好き☆お勉強日記

奈良大学文学部文化財歴史学科(通信教育部)卒&奈良まほろばソムリエ検定のソムリエを取得したヒトの色々な勉強の日記です♪

博物館実習OB会★第5回目

2012年08月05日 | 奈良大学お勉強日記
そしていよいよ、今回の旅のメインイベント
>博物館実習OB会です。

わたしが実習生として参加したのは今を去ること5年前の2007年でした。
もう暑くて暑くてどうしよう!!!と思っていた大阪在住の時でしたので、
何しろ暑さ対策をどうしようとばかり思って、実習そのものの対策は全然
していかなかったのですが(あははは)

暑さで記憶が飛んじゃっているので、過去のブログを見てみたら…。
一日目の午前はなんと雨が降っていたらしい(全然記憶にない)
とりあえず一日目の内容は座学中心だったので、館長さんのお話を聞いて、
その当時、解体修理中だった椎葉村の民家を見学して終了。

午後からは移築民家の概要を聞き、茅葺民家の基礎知識など仕入れて、
各民家を見て回り、それぞれの特徴などを見学。

一日目は「学習」で終わりだったのだな。
なんか記憶ではもっとまじめに「掃除&掃除」をしていた覚えがあるんだけど。

二日目は午前中は曲がり屋周辺の野外清掃。
草引き、竹やぶ払い、縦横無尽に生えている草の刈りこみなどなど。

午後からは屋内清掃。
はたきをかけ、雑巾がけをし、仏壇を拭いたり(!)床を拭いたり。
その後、白川の合掌造りの二階に上げてもらって
実際のボランティアさんが普段やっている説明を聞かせてもらいました。
あとは、敷地内唯一の冷暖房完備のプレハブで、この博物館設立に尽力された
鳥越教授の業績をまとめた資料展示を見たり。(白川と二交代制で実施)

そして3時からはお待ちかねの水野センセのまとめのお話。
最後はみなさんからの一言があって解散ってことでした。

今年のプログラムも、私が体験したのとそんなに変わりはないかなと。
でも私が参加したのは、通信ができてからの博物館実習の二回目で、
栄えある一回目に参加できなかったのは残念に思ったのだけど。
(いや、自分が「総論」と「各論」に合格できず、博物館実習2に
進めなかったゆえのムクイなんで、しゃーないんですけどね)

しかし、そのせいで(?おかげで?)
「こういうご縁」があってOB会なんてものに
参加できているので、何が幸いするかわからんもんです。

それに第一回目の実習の時は、「近つ飛鳥博物館」での実習はなくて、
「弥生文化博物館」と、ここの「民家集落博物館」だけだったんだとか。
三館まわってみると、それぞれの特色があるので、二者択一ではなく、
三者三様を見ることができて、ラッキーだったかもしれません。

今回も午後からのみ参加(すみませんねえ、いつもぎりぎりに登場で)
会場入りした時には、すでに参加者とOB名簿による出欠状況が
読み上げられているところで、「あ、噂をすれば…」という状況での
到着となった模様。(どんな噂だよー)

とりあえず一時から実習生さんたちに合流して、掃除のお手伝いです。
今年は民家のわきの溝掘り(泥あげ)とか、落ち葉(堆肥)撒きとか、
民家の屋内清掃とかあったのですが、行く先々で手が足りているようで…。
道具に対して、OB人があぶれるというのの連続。

まあ、実際に作業するのは「実習生」さんが優先。
我々は冷やかし半分の、単位がもらえない、お情け参加組なのですから。
実際に作業しないとわからないことも多いだろうし、
あちらさまはそれでレポートを書かねばならんのだから!

ということで、現場監督のお役人よろしく、あっちをうろうろ、
こっちをうろうろしながら、視察の旅へ(笑)
ぐるっと一周してきたら、能勢の民家の屋根が葺き替えてあってきれいに
なっていました。おおう、すごい。カマドに火を入れている
ボランティアさんには「こんな風に葺き替えたんですよ」と掲示してある
写真を見せてもらいました。
曽爾高原からススキを刈ってきて使用するんだそうで、
その際「ここからここまでは××んの」とかちゃんと縄張りがあるそうな。
材料不足ってのもあるのよね。

結局ぐるっと一周してきたら、白川の民家で大量の障子貼りをしている
集団に遭遇。しかも人数は足りてるような、足りてないような…。
ようやく、お手伝いする場所が見つかったようです♪
午前中で古い障子紙をはがして桟を洗い、乾かしてあったので、
それに新しい障子紙を切って、貼って、ぺたぺたして。
まあ、若干歪んでいるところもあるのですが、それもまた御愛嬌。

そういえば私たちが実習生だった時、どこかの民家の障子貼りしている
グループがありましたなあ。しかも、その障子の木枠を破損してしまって、
いきなり「文化財修復学の実習」に突入することにもなったりして(笑)
まあ、それも今となってはいい思い出です。

しかもここ、初めてのOB会でも、ここの障子貼りってしたなあ
>二階の窓に障子をはめる際に、表か裏かでもめたような…。
もうすでに蜃気楼のような熱さの向こうにかすむ記憶ではありますが。

パリンとした障子紙に貼り替えられた窓は若干明るくなり、
これでしばらくは大丈夫(?)どうせまたここの障子の貼り替えは、
われわれがすることになるんだし(笑)
少しくらい見栄えが良くなくたって、勘弁してねーって感じ。
きれいになった、きれいになった(自画自賛)

そういえばこの五年間に、ここの敷地内、かなりキレイに整備されましたね。
一番目についたのが、民家の案内表示板。焼印でやっているのか、とても
きれいなデザインで、各民家の図を載せて「←表示板」ができてました。
あれだってタダじゃないだろうに。(すべてはカネだ)

それこそ椎葉村の解体再建工事だって無事完了したし、
小豆島の歌舞伎舞台だって前よりきれいになっている。
いたるところに舗装されたスロープができているし(かつてはなかった)、
わたしたちが実習に来た時よりも、はるかにキレイに整備されています。
これも、館長さん始め、関係者の方々、そして手弁当のボランティアの方々の
尽力のおかげなんだろうなあと思います。

わたしなんて、年に一回、それも、ちゃっかりこんな時にしかこない、
猫の手にもならない程度のお手伝いしかしてませんが、
それでもクソ暑い季節に来館者数が減る頃、
まとまって20名プラマイくらいの入場者数と、
若干の入場料があがるならばとせっせと通っております。

そう、そんなお話が水野センセの今回のお話でもありました。
掃除が終われば、3時からは水野センセのまとめのお話です。

博物館実習の水野センセのお話といえば「ヤンシャオ遺跡と現地保存」
なんだけど、今回はヤンシャオ遺跡の話はなくて。
某知事になってからの「削る、やめる、つぶす」の文化軽視の話から。

わたしたちが受講した時は、指定者制度が発足して、
どんな人が博物館経営するのかわからないなんて状態が発生!なんて時期だった。
その後、某知事になってからは「この博物館は売上が良くないので廃止にしましょう」
なんて発言も出てきて溜息の連続。

まあ先方としても、まずは敵情視察(笑)からってことで、
彼らが博物館に来たんだとか。

某博物館に行って、入館者に突撃インタビューを試みたところ。
「この博物館へはよくこられるんですか?(どうせこんなとこ人けーへんやろ)」
「わたし、よくこの博物館きますよ」
「え?(なに?)どれくらい来るんですか?」
「えっと、年に4.5回はきます」
「え?(絶句)府民の方ですか?」
「いいえ、××(大阪府以外)のもんです」
突撃インタビューに答えてくれたおばちゃん、グッジョブ!
まるで仕込みでおいておいたような人材がいてくれてよかったよかった。
わっはっは痛快つうかい。

でも、某有名建築家さんにお願いして某館を作ってもらった所へは、
カノ人は行ってないようで。
(”権威”には弱いのか、某建築家さんから手が回ったのか)

そして、本館・民家博にも来てないんだとか。
もともと大阪府が金出して造ったものやないし…ってことなのか。
ということで、この館の成り立ちをツラツラとというのは、毎度の通り。

「不要な箱モノは無くしましょう」というわけで、
博物館は予算を削られ、目標人数(目標収入)が設定され、
その数字をクリアしないと「即、ボッシュート!」になるんだけど。
何故か某館では毎年それをクリアしてきた。
しかし、今年はどうしてもそれがクリアできそうにない…さてどうしたもんか。
ってことで打ち出した秘策が「水野センセにしゃべってもらうこと」(笑)

「水野センセがしゃべる」というとそれだけで、全国から人が来るという事実。
(はい、事実の証人が、ここにも一人いるのだがね)

パンダ並みに集客力のある水野センセですから、
「しゃーない、しゃべったる」と水野センセの連続講義というものを設けたら、
なんということでしょう。
目標数5万5千に5千も足りなかったのに、楽々クリアして余りある、
5万8千人の来館者があったんだとか。恐るべし水野マジック!

「ぼくに会いたい、顔が見たいって人は開演の二時間前から並ぶんですよ。
そのためには、数時間前から会場を開ける準備をせなあかんので、
そのための人件費ってのものいりますやろ」確かに。

「年寄りは無料になるってのがありますけどな。年寄りはあの世へは(金)持って
いけないのですから、それを放出することも必要なんですよ。
入館料があんたんとこはタダにならんのか?っていいはるひとがいますけど。
年寄りこそお金を使ってもらわないとね」
水野センセの講演会を聞きに&顔を見にくるひとたち(あたしもそうだが)は
そういう世代の人が多い。そういう人にこそ、お金出してもらわないとね。

入場料とるってのは博物館側のメリットのように思われることもあるでしょうが、
入場料を取るからには、入館者数を集計して、売上金を管理して、それを報告書
にして、提出して、銀行に行って…と手間がかかってしゃーない。
だったら無料にしてしまう方が、経理や、総務にかかる人件費を削れて、
かえって経費節減になるという逆説がなりたつと。ふむふむ。

これは実習生さんの感想を述べる時間になってから出た意見なんだけど
「わたしもそろそろ入館料無料になる年なんですけど、図録とか買って、
少しでも売り上げに貢献したいと思います」
という方がいらっしゃいました。
私も友の会カードで入館させてもらってるけど、何かの足しになればと、
図録よーく買ってますわ(重いのに。漬物石並みの重さ&広辞苑なみの厚さのもあるけど)

センセは病気をしてから時間に正確になったせいか、
講演時間に「正確」になられました。
懐中時計を前にして「ってそろそろ時間かな」って自分で話すのを終わるという
芸当を身につけられたようでして。
いつもはかるーく時間オーバーして、周囲が時計とにらめっこをして
そわそわドキドキするんですが、ちょっとそれもないのが寂しい感じ。
でも、なんかキレイにまとまってお話は終了です。

そのせいか、今年は実習生さんたち全員が一言ずつ述べる時間があって、
水野先生も、我々OBも全員で拝聴。
実習を管理する小島センセにも「皆さん年々レベルが上がっていってらっしゃって…」
といわれる通り、「あたしたち、あんなにまじめにしゃべったかなあ?」
ってものでした。(あはは、あたしたちの時代は”実習生の先頭の方”ですから、
レベルが下の方でしたね。おーほほほほ)

すべての実習が終了して、OB会恒例の写真撮影。
長屋門@元塩爺のおうちの前で、ハイポーズをするのですが…。
水野センセはというと、出入り口付近に設置されていた文化財保護に
対する募金箱にせっせとお金を投入中でして。
おお、なんということ。センセがあんなに熱心に文化財保護に対して
真摯になっているというのに、その教え子たちがこんなテイタラクでは…と
その姿に学ばせていただきました。
(すみません。募金は次回します。ってか、ナラハクではしてきたんですが)

そして、その後は本日最大のイベント。
水野センセを囲んでの懇親会です。
去年はドクターストップならぬ、「かみさんストップ」がかかってしまって
参加されなかった水野センセも、今年は「会に出てくるかも~とはゆうてきた」
とのことで、ウーロン茶とそこそこのお食事で最後まで参加していただきました。

実はこの会、飲んだくれメンバー用に「飲み放題」なのですが、
労働の後の一杯はうまい!!ってことで、私も遠慮なく、
ジンジャーエール、グレープフルーツジュース、ウーロン茶をぐびぐびっと。
ぷはー、働いた後の一杯はたまりませんなあ!
(安上がりなヤツ)

後は、いろんなお話です。
「館内で生えている栗で栗ご飯を炊く会ってのはどうですか?え?保健所?
申請?えっえ?前例?何それおいしいの?ダメですかダメですね、残念」
「囲炉裏があるんだから、あそこで魚を焼くってのはどうですか?え?
直火の遠火で魚はなかなか焼けない?焼いていると煙い?時間がかかる?」
「あのぉ…タケノコ掘りをしてですね…ああ、販売となると難しいんですね
わかります。そうですね、毎年生えなかったら大変ですよね」
「怪談をやるってのはいいですが、園内マジで暗いので…はあ、ハア…」

いろんなアイディアは浮かぶのですが、なかなか実現可能なものに辿り着く
のは難しいようです。やはり妄想しているうちが一番楽しい。

お開きとなって電車とバスを乗り継いでの帰還ですが、
途中水野センセとたくさんたくさんお話をしました。
「(ソムリエになったんなら)ガツンとモノ申したればええ」とかって
類のお話もしていただきましたし(謎)

暑い中の労働は苦役だけど、その後の一杯と、懐かしいメンバーで揃う機会は
なかなかないので、とってもよいチャンス。
一年に一度というと七夕みたいだけど、あれは雨が降ると会えないから、
来年もよいお天気で(笑)無事労働ができますように。
また来年も会えますように。

ナムナム、パンパン。
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真夏のみゅーじあむツアー

2012年08月04日 | 色々・モシクハお勉強
午前のキョーハク、午後の奈良。
後半戦はナラハクです。(誰と戦っている?)

今期は、
「特別展 頼朝と重源 ―東大寺再興を支えた鎌倉と奈良の絆―」
折しもNHK大河ドラマでは「平清盛」ですからねー。
こりゃ、お客を呼ぶ戦法でしょうか。

”重源と頼朝”、じゃなくて、”頼朝と重源”にしたのは
、頼朝の方が
ビッグネームだから?

調べてみたら本日は、公開講座があるとのことなので、
それに間にあったら聞きたいな~と思ったら、
なんとか開始5分前に滑り込みセーフ。
本日のお題は「源頼朝と奈良・京都―政治と宗教―」
講師は立命館大学特任教授 杉橋隆夫先生

「今期のNHK大河ドラマは最初の1・2回は見ましたが、
あとは見てないので…」というお決まりの発言。
確かに研究者の先生はあんなの見てられないですよね。
ま、私は完全娯楽としてみてるからいいんだけど。

さて、本題へ。
平治の乱のあと、捕えられた頼朝は、清盛の継母・池禅尼の助命嘆願により、
流罪となり、伊豆へ流されます。
ここで頼朝の命を絶っておけば、歴史は変わったのかもしれませんが、
そんなのは後の祭り。

一説には頼朝の顔が、池禅尼の実子・平家盛に似ていたからなんていう、
「それ理由になるの?」って理由で助命嘆願したというのだけど。
武家の棟梁の母たる人物がそんなことで、相手方の大将の息子の命乞いを
自分ちの棟梁に願い出るか?しかも、清盛自身もそれを聞き入れるか?
というのは、大河ドラマを見ていた時に、わたしも感じた疑問。

しかし、そこには難しい人間関係があったということです。
池禅尼の弟のムスメ(つまり、姪)に”牧の方”なる女がいて、
それが嫁いだのが北条時政。
北条時政のムスメってのが、かの北条政子。源頼朝の妻ですよ。
ということで、頼朝は、池禅尼の姪のムスメ婿にあたるんだそうな。
(牧の方は後妻なので、政子の生みの母ではないそうなんだけど、
北条家の人間になったことは間違いないので、
そこから頼朝とのご縁をたどることもできるという複雑さ)

あと、頼朝を捕えた侍というのが宗子(池禅尼)が抱えていた侍であり、
その配下の者が捕えたものの処分は、そのものの親方(つまり宗子)が
自由に采配できるとのこと。なので宗子自身が頼朝の処分をすることも
できるのだが、そこは何事も武家のならい。
平治の乱は国家の大乱。その大乱を征した勝者の長、清盛に処分を
ゆだねる必要がある。とのことで宗子は自分の息子に「助けてやっては
くれまいか?」といったそうな。

あと、殺してしまえばそれまでだけど、自分の姪のムスメ婿というのは、
結局「友達の友達はみな友達だ」じゃないけれど、自分の関係者。
しかも、財産(人材)保全の意味があり、生かしておけばそれなりに
後で利用価値もあるってもの(そこまでおっしゃったかどうかなあ)。
ということで、池禅尼は頼朝を助けたんだというお話でした。

後、鶴岡八幡宮の扁額の写真が映ったのですが、元々は”八幡宮寺”という
表示だったものが、神仏分離により、”寺”の字が削られたとのこと。
この”八”の文字は、よく見ると目玉がついており、シラスとか、
蛇(?ミミズ?)とかにも見えるんだけど、これ実は「ハト」なんだとか。
鶴岡八幡宮はハトがお使いで、それゆえ「鳩サブレなのかっ!」
と膝を打った話。(そこに注目するのかよ)

とまあ、私の感動ポイントは他のひととは違うので、
全然講義のレポートにはなっていないのですが、
こんな感じでお話は進み(そうなのか?)
源頼朝ここにありを示すかのように、「大檀越(だいだんおつ)」となり、
東大寺再建を支えてくれましたとさ、というお話でした。(はしょりすぎ)

お話を聞いた後は、実際に展示室へ。
お話・先&見学・後組のみなさんが多かったけど、
展示室もほどほどな混み具合で、ゆっくり堪能できました。

重源の源は、源頼朝から来たのかと思ったけど、全然関係ないみたい。
重源は紀氏の出身で、紀季重の子。(←重の字は父からか?)
真言宗の醍醐寺で出家し、浄土宗の法然に学び、四国や熊野ではあきたらず
中国(南宋)にも三度留学したという行動派。

焼失した東大寺の再建を任されたのがヨワイ61才ってんだから、
ふつうその年のひとは隠居です。

治承4年(1180)に東大寺が焼失して、
養和元年(1181)には被害状況の視察に来た後白河法皇の使者である
藤原行隆(ふじわらゆきたか)に「東大寺は再建した方がいいでっせ」と進言。
そのこともあって重源は「大勧進」を任されます。

再建に使われる切り出した木には、「東大寺の木だよん」という証に、
鉄槌が押されるんだけど、その鉄槌印ってのが
山口県の阿弥陀寺から出品されていました。
山口といえば、昔の国名は「周防」。

奈良検定でも出ましたねえ。
>重源による東大寺復興の際、用材調達のため周防国に続いて
>造営料国とされたのはどれか。(答え:備前国)

備前の国はおろか、周防国が造営料国とされた過去があったなんて知らないから、
この問題撃沈でしたけど。(ダメじゃん)

山口県の阿弥陀寺は重源が創建と伝わる寺。
東大寺の周防別所として建てられたことから、宗派は華厳宗(をぉ)。
周防国が東大寺再建のための造営料国となったことで、
寺内には木材切り出しに従事する人夫たちのために、重源が設けたとされる
石風呂が文化財として残っている。
後年造った石風呂は薪代を支払えば、月に一回お風呂に入る会(笑)で
入ることが可能なんだそうな。いいなー。法華寺の唐風呂も覗いてみたいと
思っていたけど、あっちはサウナ(蒸し風呂)だから、湯船があるほうがいいや。

あと、展示室入ってすぐのパネルの背景になっていたのが、
まがき菊螺鈿蒔絵硯箱の模様。
鳥と花と木の柵(?)が輝く螺鈿つくりになった硯箱で、ものすごくきれいでした。

後白河法皇坐像は今回、いつもおわしまするところから初めてのお出ましなんだそうで。
そんなこととはつゆ知らず、「うあー、あのマフラー暑くないのかなあ」
「エライ糊のきいた服だなあ」とかって云って居りました。
(よくエライ坊さんが、法衣の首元に白い首巻きしてるじゃないですか?
あれですよ、アレ。時節柄、暑苦しそうに見えたもんだから)

7月5日と12月16日にしか会えない「重源上人坐像」も
時期外れにもかかわらずおでましだし、
これぞ頼朝肖像画!ていう神護寺の頼朝像も来てますので、
頑張った人たち全員集合です。(アトラクションじゃないっちゅうの)

後は、金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅
(こんこうみょうさいしょうおうきょうきんじほうとうまんだら>長い)
これは以前にも見たことあるんだけど、何せ凄い。
ぱっと見、塔が金字で書いてあるように「だけ」見えるんだけど、
近寄ってみると…その塔の「線」と思っていたものがすべてお経!!
相輪の先から台座までがすべて金光明最勝王経の文言で描かれているのだ。

でも、はて?
このお経はどこからスタートしているんだろう?
てっぺんから?それとも、台座から?
(教えて!かしこい人!!)

ってなことで隅から隅まで楽しんで、
西本館と東本館のみで2時間半以上滞在したので、
本日も本館への訪問はなしでした。

やっぱ、夏は博物館に限るね♪
外へ出たら日中の日差しも、もわんとした外気もやや控えめになっており、
一番暑い時期は快適空間にご滞在~。

ってことで、午前&午後とも、一日中博物館。
堪能しました。

夏の奈良は博物館がおススメ!(笑)
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真夏のキョーハク

2012年08月03日 | 色々・モシクハお勉強
学芸員実習OB会にかこつけて、ひさびさの上京です。
しかも今回は上洛と、南都への二か所訪問。
(え?大阪も行ったんですけど…あれは数のうちに入ってないのか?)
とりあえずキョーハクの話など。

奈良博やトーハクにはたびたび出かけていたけど、
実はわたくし京博とは今まで縁がなかったのだな。(マジ)
近所の三十三間堂や、智積院やらはうろうろしてるのに、
なぜか京博には縁がなかった。

最近常設館の工事をしているせいもあって、特別展以外の常設部は開いてないし、
ここんとこの特別展もそんなに見たいと思うものがなかった(のかなあ)ので、
なかなか訪問する機会がないうちに、今日の今日まで来てしまったってワケ。

で。
そのあたくしが重い腰をあげてでかけたってんだからただ事ではない(笑)
古事記編纂1300年記念ってことで、何故か、京博が「大出雲展」をやる
と聞いたからでして。まあ「古事記展」は奈良博でやっていたけど、期間中に
でかけることが叶わなかったから、次の「頼朝と重源」には行くぜ!
と思ってたところに、『京博では大出雲展やるらしいですよ』という情報。
どうせ夜行バスで京都に乗り込んでからの移動なので、
奈良に入る前に京都を荒らしまわればいいではないか!ってことで、
キョーハク→ナラハク→シュクハクの計画が完了です♪

とりあえずはキョーハクへ。
高速バスで京都へ辿り着くと、なんとなくいつもよりはしのぎやすそうな朝。
身支度して、モーニングでひといきついて、9時頃に”出勤”してみたら、
若干の行列ができていました。
それでも私が11人目でございました(11人いる!ってやつですか(謎))

計画実行段階になってから気が付いたのだけど、
なんとその日、大出雲展の初日でございました。
初日といえば”正倉院展を初日に見る酔狂な人たちの会(略して酔狂会)”を
思い出しますわね。正倉院展の初日の混雑はこんなもんじゃないけど、
まあ初日は楽しいよね、初日はね。

しかし京都の夏をなめてはアカン。
しのぎやすそうなんて感想はどこへやら。
並んでいた十数分のうちに汗だくだくになり、並んでまで入るか?って
後悔をしかけた時に開門となり、とりあえず日蔭の場所に整列しなおし。
まあ、真夏のこの時期に、初日とはいえ、これだけのひとが集まったってのは
さすがはキョーハク(のネームバリュー?それとも内容に惹かれて?)。

9時半入場開始。
で、そこから建物までがまた遠かった(笑)
正面ゲートがあって、入場門があって、さらに園内を歩いて移動して建物へ。
これだと東博形式のですね。
建物そのものが歴史を感じさせるいい逸品で、おお~とか見惚れますが、まずは中へ。

今回のタイトルは、
”古事記1300年 出雲大社大遷宮 「特別展覧会 大出雲展」”だそうで、
「神話」「出雲大社」「出雲の祭祀」「出雲の神仏」「出雲のお宝」が並んでいました。

太安万侶の墓誌が出ていたり、見たことがあるものもチラホラだけど。
中でも、個人的には人物埴輪に目が釘付け。

褌姿の力士なのですが、注目すべきは、その足首。
(え?出雲博だろ?なぜに埴輪?しかも、力士?というのはおいといて)

”首”という文字のつく体の部位に古代のひとはよく玉を巻いていたのですが、
この力士さんの足首には円錐状の先のとがった玉が巻かれています。
ハードロックの人たちのコスチュームで、トゲトゲがついた腕輪とか首輪とか
ありますが、あんなような感じのものが足にぐるっと一周してまして…。
はて、このトゲトゲしさはなんだろう?
新たな研究テーマ発見か?!

埴輪には鹿の埴輪も出ていまして、もぐもぐしていたんだけど、
だれか来たな?と振り返ったところのポーズを形作った「見返り美鹿(?)」
コイツがグッズでもたくさん商品化されていまして、
わたしもまんまと一冊、一筆箋買わされてしまいましたわ。

初日だし、土曜日だし、キョーハクだし、どんなもんじゃろと思いましたが。
正倉院展のような混雑はなし。
ほどほどな混雑よりも空いていて快適な空間でした。
そりゃそうでしょう。
節電&節電が叫ばれている昨今において、
「室温25度&湿度55%」が厳密に守られているとこなんて屋内博物館くらいなもん。
入場の際のご案内に、「長時間ご覧になっている場合には寒い場合がございます
ので、着るもので調整をお願いいたします」って云ってたもん。

その通りで、最初こそ「涼しい~快適~」とか思っていたものの、
時間が経つに従って「涼しいってか、体が冷たくなってきたぞ」って感じ。
長時間ご観覧の際には、ストールや、上着などご用意いただくとよろしいかと存じます。

島根県立古代出雲歴史博物館(長い!)にあった、
出雲大社から掘り起こされた「宇豆柱」(木を三本束ねて大きな柱にしてある)とか、
出雲大社のかつての姿を復元した模型とかも出品されていて、
出雲大社のスケールがしのばれます。

現在は8丈(24m)の高さですが、かつては16丈(48m)、
さらには32丈(96m!)の頃もあったんだとか。

出品されていた『口遊(くちづさみ)』という子供向けの暗記本にも、
”雲太、和二、京三”とあり、
”1番は出雲(大社)、2番は大和(東大寺大仏殿)、3番は京(大極殿)”
が高い建物ベスト3であることを示してるんだとか。

『口遊』の作者は源為憲(みなもとのためのり)。
生年不詳で寛弘8年(1011年)没ということで、平安時代中期のひと。
南都焼き打ちは治承4年(1181)年だから、為憲が知ってる大仏殿は
奈良時代に建てられたオリジナルということになる。

ということは平安時代中期には、出雲の大社さんは、
東大寺大仏殿よりも大きかったという認識が
世の中に広まっていたということでして。
奈良時代に建てられた東大寺大仏殿は高さが約45m。
それよりも大きいのが、出雲大社本殿ということになります。
んじゃ16丈って大きさはまだ現実的ですが、
伝承では32丈≒96m、ほぼ100m!
なんて数が古代の建築物で出来るのかというのは甚だ疑問。

しかし、出雲大社の祭祀を司る千家(せんけ)家には、
古代より出雲大社の社は16丈の高さと記された図面が残されてきた。
伝承としてはそれはアリでも、実際に建てるとなると、
さすがにこれはまゆつばなのでは?と思っていたということ。
無理もない。

こんな非常識な建て物を建てるための土台というのも特別で、
三本の木をまとめて、ひとつの柱と出来るように鉄の輪をはめて、
一本の巨大な柱を作る方法を描いた『金輪御造営差図』というのが、
その千家家に残されておるブツであり、今回出品されていました。

それが2000年の発掘調査において、現在の本殿前の空間から
本当にそんな形状のものが出てきちゃったからさあ大変。
やっぱ昔の出雲大社は超高層建築だったのかもーってことに。

この柱はその後の調査で、鎌倉時代前半の宝治2年(1248)に
造営された本殿を支えていた柱である可能性が高くなったとのこと。
でもそれだけでは、当時の本殿の高さまでは推測できない。
しかし、想像の産物と思われていた金輪で束ねられた柱が出てきたって
ことだけでも、古代ロマンですねぇ。

出雲大社の建築模型は32丈のスケールではなく、16丈の1/10で
作られているとのことだけど、模型とはいえかなり高いし、なにせ
階段の部分が邪魔なくらいデカイ&広い&長い。
まさに社に向かって登っていくと「天国への階段」(byツェッペリン)を
思い出させる壮大さです。

そういえば、春の明日香ウォーキング(講師、水野先生&上野先生)と
はしごして(?え?明日香と出雲をハシゴですかい?)出雲大社に行った時、
あの宇豆柱見たなあ>島根県立、古代、出雲、歴史、博物館、で(長いっ!)
また再会できちゃったよ。きゃっぽー。

ってな具合で二時間ほど、空調完備の空間で、ヒトトキの涼をむさぼりつつ、
歴史ロマンに触れまくってきたのでありました。

帰りには図録は重いのでパスをして(をい)。
それこそ、見返り鹿さんの便箋と、スサノオの絵ハガキ(どういう
組み合わせなんだ)を特別展会場で買い求め、常設ミュージアムショップで
しこたま鳥獣戯画の絵ハガキを買いこんできました。
サルの背中を流してやっているウサギさんがらびりー(non、ラブリー)♪

優雅なひとときでした。

コメント
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