奈良大好き☆お勉強日記

奈良大学文学部文化財歴史学科(通信教育部)卒&奈良まほろばソムリエ検定のソムリエを取得したヒトの色々な勉強の日記です♪

卒論集を作りたい?

2009年05月28日 | 奈良大学お勉強日記
今日ニュースでふと「ナカバヤシ」という言葉を聞いて思い出しました。
わわわ、Bさんにお願いされていた卒論集作成会社のこと
UPするの忘れてますね。すんません。

えっと。
この春目出度く卒業することが出来たので、
その記念として「卒業論文集」を作成しました。

もしかして、卒論集って作ってみたいな
って思っている人がいたら参考までに…。

わたしたちがお願いしたのは、
FINEBOOK』さんという会社。
名前はFINEBOOKですが、実のところナカバヤシアルバムさんの別会社らしい。
ナカバヤシといえば、フエルアルバム。
今時、台紙が増やせるアルバムなんて使用する人も少ないかと思いますが。
フエルアルバムのよいところは、綴じるものの厚さを考えなくてもいいこと。
そのメリットが、卒論集作成にも活かされているようです。

まず、せっかく卒論というものを書いてみたのだから、
きちんとした製本をして残したいと思っている方は多いと思います。
何人かで集まって製本するもよし、一人で製本するもよし。
卒論だけで製本する場合も、レポート一切がっさいも製本する場合も、
ここならば任せて安心です。

なんせ料金は明朗会計。
ドキュメント製本のハコの下の、かんたん見積・製本をクリックすると
料金がその場で出てきます。一冊だけ作るのなら、4,435円です。
まあ高いっちゃ高いですが、逆にいえば一冊でもこの値段です。
何人かで作ればもうちょっと安くなったりもします。
でも、一人でも作れるってのが大きいかと…。
私は当初の目標通り5千円以内に収まったので満足してます。

ここのメリットは他にもあって。
まず、表紙の金文字が無料です。
今ここに金文字を入れると、別料金をとられて、
けっこういい値段を請求される場合が多いですが、
FINEBOOKさんでは、すべて込み込みの値段で上記の通りです。

そして、中に綴じこむ原稿の量(厚さ)に制限はありません。
私が作った卒論集の場合は、5人で原稿持ち寄り、
各自原稿本体+添付資料で40ページ前後×5=200枚
程度(厚さ3センチ程)の原稿でしたが、全部綴じこんでもらえました。
基本サイズB5で、添付資料はB4もありましたが、
別料金無しでW折りこみもしてもらえて、あの値段でした。
これは結構おトクです。
原稿の厚さがふえても同じ値段なのは、フエルアルバムの会社の
なせる業なのかもしれません。
よって、卒論だけでなく、提出済みレポートも一緒に
綴じこんでの製本でもいいかもしれません。

以上ご参考までに。
何か質問があれば何なりとどうぞ。
コメント (4)
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飛鳥周遊ウォーク

2009年05月17日 | 奈良大学お勉強日記
あけて、飛鳥周遊ウォーク当日の17日。
何故かとっても早く目が覚めてしまい…というか、早起きして本番の前にちと別件へ。

それというのは、前回『卒業旅行』の時に訪ねた高取で、町一番の見どころの
旧家老屋敷長屋門ってのを見てくるのをコロッと忘れていたので、
その忘れ物を今頃とりに行こうかってことで。
八木に泊まったので、そこから橿原神宮前&壺阪山はすぐ(?)です。

二ヶ月ぶりに訪問した早朝の高取は、人通りも少なく、いつもの感じ。
とりあえずガシガシ歩いて15分で目的地に到着。
パシャパシャ写真とって「下山」してきたら、通りに出ていた住人の方に、
「山から下りてきはったん?」と声をかけられちゃいました。
「え?まさか~屋敷を見に来ただけですよ~。山はこの前登りました!」
しかし、そのときの時刻8時半ですよ。
山から下りてくるのはともかくとして、山には登らねばならんわけで。
下山するのにも二時間かかるってのに、私はいつ、山に登ったんでしょうか?
やっぱ、街歩きの格好で山から下りてきた集団があるってのが、
フモトの町では語り継がれているんでしょうか(謎)

とりあえず心残りだったことが一つ完了してホッと一息。
隣りの飛鳥駅へと向かい、無事なぎさんと合流できました。

「晴れたねえ」
「降水確率午後から90%なんだけどねえ」
昨日の時点では絶対に次の日は朝から雨だと思っていたのに、
朝目が覚めた時点では、結構天気よかったもんな~。
さすが、わたしは晴れ女、と思ったけど。
この天気、いつまで持ってくれるやら。

集合時間になって、まずは水野センセと上野センセのご挨拶。
「天気予報では雨でしたけど、私の念力で晴れさせてます。
わたしの分は午前で終わりですから、午後からは上野センセの責任です」
沸き起こる拍手と、笑い声。
こりゃ一本とられたって感じの上野センセ。
いー感じの始まりです。

それではゆるゆると出発です。
飛鳥駅からまずは猿石、てか吉備姫王墓へ。

猿石のレプリカはあちこちで見てますが、本家は久しぶりに見ました。
いやいや、本家のうちの一体を、例の高取の山中で見たっけ。
この猿石と呼ばれる変な石は5体セットで掘り起こされたもので、
そのうちの一つがえっさこっさあんな辺鄙な場所まで持ってこられたらしい。
まったく、命令する方は云うだけだからいいけど、持ってこさせられた人は
いい迷惑だよと、「殿!ご乱心!!」ばなしの再燃です。

「まあ、”こんなトコ露出させてる”像なわけですから、宮内庁としても、
そんなもんが天皇陵にあるとけしからん!ってことで、
ここへちゃーっと集められてきたんでしょうが、こんなもの押し付けられた吉備姫も
そんなもん見たくないわ!あっち向いて!っていうでしょうなあ」
あーはははは。
現代人からしたら確かに「卑猥」とか「猥褻物陳列罪」とか「不敬罪」(?)なんだろうけど。
この像が作られた時代には、そんなこと、ぜーんぜん構ってなかったと思われる。
現代人の感覚で、ものを見ちゃいかんってことですね。

そして今回も忘れちゃいけない『水野先生のカミサン自慢』
欽明天皇誕生の秘話(?)の中で、「応神天皇5世の孫である継体天皇は
武烈天皇の妹の”たしらか”、手の白い、美しい、いい香りのする、
私の妻のような人を皇后に迎えて…」と”舌好調”でございました。

どんどん空模様は悪くなる一方ですが、テンションは反比例して高くなりつつあるワレワレ。
次なる目的地は、見瀬丸山古墳です。
見えてきたときは、土まんじゅうのてっぺんに竹やぶボウボウって感じの丘なのですが、
それが古墳ともなれば、みんなして登る登る(笑)
しかも、急坂なところから登りつくもんだから、結構大変。
これが雨の中だったら、絶対に無理だった登頂だからして、
晴れててくれてよかったわ。

そこんとこは、「なんとかと霞は高いところが好き」ってやつなのか、
「何故登るのかと問われれば、そこに(登っても良い)古墳があるから」なのか、
結構年配の人まで蟻の大行進のようにゾロゾロと登っていくではありませんか。
私も、とりあえず登ろうかって思っていたら、一番高い場所まで、ゾクゾクと登る人たち。
えええ~い、ここまで来て登らないわけにはいかんか、ってことで覚悟を決めて、
みなさんの後に続いて一番上の部分まで行ってきましたわよ。
(金網に登りつきながら、とか、金網を握り締めて滑り降り、とかだったし)

当初円墳とされてきたこの古墳も、航空機から眺めて写真を撮ってみたところ、
「おおお、これは前方後円墳じゃね?」ってことで認識が変わったんだとか。
やっぱり高いところに登って、下界を見下ろすってのは大事なことなんだ。
あながちみなさまの「高いところに登りたい」欲求は間違ってないってことだ。

当初は天武・持統陵と思われていたけど、某お寺さんの記録にあったものと測量値が合わず、
「しもた~!間違ってた~!別の古墳が天武・持統陵やー」と臨機応変に対応した宮内庁。
そして、誰のかわからんくなったこの古墳は寮母さん高知、もとい、陵墓参考地に。
しかし、大きいってのは判るけど、これが大和最大の前方後円墳ってのは正直
実感できないのだけど…。

その後、再びテクテク歩いて植山古墳わきをすりぬけて通り抜け。
そういえばこの古墳、推古天皇と竹田皇子の合葬墓じゃないかといわれて、
現地説明会にも来たっけな。その時は、禿山の茶色い土一色でカサカサしていた思い出しかないのだけど、
今みたら、芝生も青々して、途中に公園があったりして、ずいぶんと様相が変わりました。

そのわきの道ってのが、新興住宅地街で。
もしかして、この宅地を作っていて、偶然発見したとか?
飛鳥めぐりをするようになってから十数年たつけど、こうして道も
新しい道が出来たり、新しい家がたったりして、様相がどんどん変わっている所もあります。
(そういう所は主に『橿原市』なんだけど)

ゆるい坂道を登ると、いきなり出現する階段!
段差ありまっせ~上り坂でっせ~ってのが視覚的にも判って、かなり息があがります。
新興住宅地にはありがちな光景です。

お昼のオツトメの鐘や太鼓の音が聞こえてきたと思ったら、天理教の大教会。
その裏手にあったのが菖蒲池古墳でした。
ここに来るのは実は初めて。
なにやら、またしても竹やぶの中の古墳ですが、コンクリートで保護された中には、
家形石棺がふたつ前後に置かれているんだとか。
というのも暗くて、手前の蓋は見えるけど、奥にあるのはなかなか見えません。
「ここまで電気きてんやから、中も電気つけたらええのになあ」と水野先生。
確かに。ここで、懐中電灯を取り出したらツウっぽかったか?
(次行く人は、懐中電灯持参でお願いします)

さて次はどこ?と思ったら、少し下った場所に村の施設があり、
ここでお昼ご飯になるんだとか。
「?」と中へ入ると、そこは、巨大な屋根つきゲートボール場なのでした。
びびびび、びっくりだ。
ゲートボールってこんなに広いところでやるもんでしたっけ?
「ここ、走れますなあ~競争しましょか」と上機嫌の水野センセ。
「いやいや、センセには負けますわ」
いや、本当に負けると思うから、やらんけど。

一辺50mはある屋内ゲートボール場の周囲四方をぐるっとベンチが囲んでいて、
そこにある程度の人は座れるって感じ。今回は参加者が少なかったので、
まあそんな感じだったのでしょう。上野センセや学生さんたちは、中央部に
車座になって腰掛けたりして、とりあえずはみんなで昼食を頂きました。

食事の後は、水野センセと、上野センセに、先日作成した卒論集への
サインをおねだりして。やっぽー♪
「学長、水野名誉教授、そして上野センセともらったら、奈良大ビッグスリー揃い踏みですよ」
と軽くよいしょしながらサインをいただいて(笑)
やった~。これで重いおもいをして卒論集を担いできた甲斐があったもんです。
ねこさんや、りぃさんにも「学友四天王」として、四隅にサインもらって(意味不明)
とりあえず、第二の目的も達成です。

そうそう、忘れてならないのが、第一の目的。
水野センセの講演ね。
ちゅうことで、食後は水野センセのミニ講演会です。

仁徳天皇が自分の留守にヨソの女を招き入れたことに激怒した磐姫が、
木津川をさかのぼってったことを称して、
「磐姫が川をさかのぼってきて同志社大学に入学してしまった」
とか。
聖徳太子が長いこと摂政のままでいて、とうとう亡くなってしまったのは
「そりゃ、殺生なことや」
とか。
そんなことばかりが頭に残っているアタクシ。
ダメですかダメですね。
いやいや、そういうことを味わうのも、また水野節の醍醐味かと(言い訳)

そして、短いながらも水野センセの講演が終わって、上野センセにバトンタッチ。
「やれやれ、なんとか晴れててくれましたわ」
とばかりに水野センセはそこでお帰りになりました。

で。
上野センセにバトンが回って、とうとうとお話になられて、しばしのち。
「ががががががー」
という音とともに、センセの声が聞こえにくくなりました。
最初は、工事車両かと思いましたが。いえいえ、雨です、雨音です。
そのうち、横殴りの雨になり、一部の方々は傘をさしたり、カッパを着たりする始末。

恐るべし、水野マジック。
確かに水野センセの担当するパートでは雨が降ってませんでしたわ。
それが、上野センセに代わったとたん、降ってくるなんて。
上野センセも腕をあげましたなあ(笑)
てか、さっき食後の運動と見せかけて、大地に平伏すポーズをとっていたのは、
もしや雨乞いの五体投地のお姿だったのだろうか。

なんてアホみたいなこと思いながら、上野センセの万葉賛歌に聞き入ります。
お題は「采女の 袖吹き返す 明日香風 京を遠み いたづらに吹く」
これはわたしたちの卒論集の中の、扉の前に入れた歌でありました。

この歌は、明日香から離れてしまったことへの心理的痛みを歌ってる。
物理的、時間的、心理的に、明日香から離れてしまったことのむなしさ。
しかし、離れてしまったとはいえ、明日香宮から、藤原宮への遷都です。
いっちゃなんですが、現代人からすれば、目と鼻の先です。
昔の人だって、歩いても20分、一時間以内で移動できる距離。

しかしながら、明日香という特別な場所を離れて、
藤原宮にきてしまった、その心理的痛みが一番強烈にその歌を作らせた原動力ではないかと。
ああ、判るなあ。

私も、生駒から大阪に転居した時、同じ生駒山という山が見えるところに住んでいたけど、
山のあっち(都)と、山のこっち(鄙)では、全然テンションが違ったもんな。
自分の希望で、「絶対に生駒が見える場所!」って決めた転居先でしたが、
見れば見るほど帰りたくなって、同じ山が反対側から見える場所に「帰りたい」と願ったものでした。

それこそ、電車に乗れば15分もあればいける場所にも関わらず、
昔の人の移動に比べたら、実に楽に行けるにも関わらず、
場所も見えているにもかかわらず、それでもなお
「自分がいる場所」が「そこではない」という事実はいかんともしがたいもので。
わかるぅ~としきりとうなづくワタクシ。

とりあえず、上野センセのお話もこの場で終了ということで。
この後は、
1)飛鳥資料館へ行く
2)甘樫丘へ行く
3)このまま帰る
の選択肢が。

「飛鳥資料館へ確認したところ、現在待ち時間は無しとのことです」
なんですと~?!
去年三時間待って、三分見学だった、アレが待ち時間無しですって?
こりゃ行かねば損(?)でしょうってことで、ワレワレは飛鳥資料館へ行くことに。

歩いている間は、小雨になりました。
しかし、さっきの大雨は一体なんだったんでしょう。
笑える展開に雨もまた楽しからずやって感じ。

道中の途中で、甘樫丘にのぼりついてゆかれる方もいらっしゃいました。
晴れていれば眺めもいいのでしょうが、雨にけぶる明日香ってのもまたいいものか?
ワレワレはひたすら飛鳥資料館を目指してテクテクと。

そして、資料館への上り坂を登り切った時に見えてきたものは…。
『キトラ古墳壁画 観覧までの待ち時間 0分』の看板。

え”~?!マジぃ?!
ありえない展開に、ホントびっくりしました。
おお、こんなチャンスは滅多にないってことで思わず写真を撮りました。
そして、同行したみなさんと上野センセで「とりあえずこれで終了」宣言。

「こんな雨の中を、最後まで歩いてきていただいた熱心な、
あるいは、ヒマな方々に感謝です」といわれましたが(笑)
いえいえ先生、「熱心」かつ「ヒマ」な人々です>ワレワレ。
A or Bではなく、A and B。
そういう人もありですのよ。

いつもだったら、ここで、「学生達にも感謝です」と奈良大の学生のみなさんにも
感謝の拍手を送る場面なのですが、それも今回は無く。
ねぎらいの拍手も送ってあげられず、お別れとなったのは残念でした。
ありがとう>奈良大生のみなさん。
後半は雨も降って、カッパ姿で走り回っての交通整理してくれたけど、
雨にぬれて風邪なんてひいてなければいいけど。
(このために休みになったら、5回までは出席扱いにしてください>上野センセ)

それでは本日最後の行事、キトラ古墳の壁画見学です。
さっそく入館して、展示室前で5分ほど整列しただけで、壁画の本物とご対面となりました。
今回の展示は、青龍と白虎。
白虎はともかく、青龍はドロをかぶってしまっているために、
舌が朱で見えて、その上下に上あごと、手(指)が見えるかなって程度。
それでも、おお本物だ~白虎の腹って精密に書いてあるな~などと感動。

前回は疲れ果てた後にご対面だったのですが、
今回はまだ疲れる前で、ちょっと余力がありました。見学後は、
受付で配っていたクイズなんかをやって投函するとマウスパッドが当たるってんで、
それをソファーに座って延々解いてみたりして。
楽しんで飛鳥資料館を後にしました。

全行程を歩きとおせなかったのは残念でしたが、
今年も水野・上野両センセと一緒に明日香が歩けて楽しかったです。

帰りの電車の中では雨もあがったようで、
自転車で地元の駅まで来ていたなぎさんはオオヨロコビ。

私は西大寺でフラフラとならファミリーを堪能した後、
外へ出たらまた雨が降り出してました。
うむむ。もう帰るだけだからいいけどね。

夕食は「蔵」で名物・きも焼きとチューハイ一杯でレロレロになり、
京都から夜行高速バスで帰宅の途につきました。



しかし、喜んでばかりもいられなかったのだな>人がいない状況。
私が帰宅する頃には、新型インフルエンザの関西での発症例がどんどん増えている状況で、
人出が少なかったのはそういう理由もあったわけで。
しばらく自主的に自宅謹慎(?)にしてましたが、わたし個人はなんともないようです。
奈良もしばらくは観光客が少ない状況が続きそう…。

来年は、晴れて、熱くて、どんどん歩く、そんな飛鳥周遊ウォークになりますように。
また楽しみにしてます。

※今もらった資料を見返してみたら
今回の旅のタイトルは『甘樫丘から望む大和三山』だった。
んじゃ、ぜんぜん目的は果たされてないのかもしれないけど。
ま、いいさ。自分的には満足な内容だったし。

飛鳥保存財団の皆さん、雨の前例も出来たことですし、
来年もよろしゅうお願いしたします。
楽しみにしています。
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欲張った自主スク

2009年05月16日 | 奈良大学お勉強日記
二ヶ月間のお留守でした>奈良。
帰ってきたよ~奈良ぁ~とばかりに、本日は明日の本番(?)を前に
自主スク花盛りの一日でございました。

朝っぱらに京都に到着。近鉄で一路奈良まで直行し、
そこから何故か京都府へふらふらとさまよい分け入って、
当尾の里で浄瑠璃寺・岩船寺と石仏の旅です。

午前中一杯は京都府で過ごして、午後からは奈良県へ舞い戻り、
わが母校(笑)奈良大で奈良文化論をタダ聞き。
今回の担当は土平先生の分で、題材は「農業暦と時水・鐘」
なんでも、歴史地理学で取上げた資料が再登場とのことなので、
正規スクーリングの復習ってのができるかなと。

授業内で登場したのは、山口村とその他のみなさん(をい)の
水を巡っての取り決め証文などでありました。
そして、山口・梅室・笛吹・平岡・小林などの地名の入った地図。
おお、懐かしい。
学術的学問の復習はさておいて、
去年の秋にはラッテたかまつに行く「ついで」に分水石も見に行ったっけ(コラコラ)。

時間というのは、作り出されて、知らされて、みんなの共通のものとして、
利用されているのが現状だけど、昔は明るくなったら朝、
暗くなったら夜。朝から夜までが一日。時刻はお寺の鐘が知らせてくれる。
その程度の共通認識しかなかったはず。

しかし、水の豊かではない奈良盆地において、農業用水の分配は重要な問題。
水の分配方法(使用時間)をきっちり決めておかねばならないってことで、
○○村はいつからいつまでってのをきっちり明文化しておくのだけど…。

正確なところ、『明六ツ時から明ル朝六ツ時までは○○村が引き入れる番だよ』
となっていても、そんな正確に、現代のように一分一秒まできっちりと計って
運用されていたワケじゃないよね~と。

今じゃ、タイマーなんちゅうものを仕掛けて、
時間が着たら自動的にあっちを締めて、こっちを流すってことが可能だけど、
大昔、人が共通認識としての時間の観念を持ってなかった時代ってのは、
そんなにきっちり時間で分水できていたわけじゃないんだってことは、
そういわれてみればそうなわけで。目から鱗。

しかし、一分単位のきっちりとしたものじゃなくても、
そういう建前上の取り決めってのは必要なわけで。
時間制ってのは、奥が深い(謎)。

そういえば、「土曜の午後最初の授業は、ここで受けるために
みなさんが集まってくるってのは、すごいことなんですよ」ってお話が
授業の『枕』にあったけど。なるほどそうかもしれない
>時間で動く人間というものとは。

「1時から開始というのに、諸般の事情で遅れてくる人もいれば、
始まる10分まえに集まる人や、それよりずっと前に集まる方もいる」
そうそう。
『奈良大学通信教育部時間』でいえば、集合時間の一時間前に
その場に集まるってのは、もはや基本中の基本のようで。
のんびりした国ならば「次の汽車はいつくるのか」ってのが気にならないだろうし、
日本のように一分一秒遅れてもアウトってところもあある。

同じ日本国内でも、沖縄のように約束の時間に二時間遅れるのは
当たり前(!)って風土もあれば、
ビジネスで会社を訪問する場合は早すぎても遅すぎてもいけない。

時間というのは世界共通に存在してはいても、
その「時間」に対する考え方は各国違うよなあ。
なんてことが、つらつらと思われました。

さて、その後はそそくさと教室を抜け出し、
図書館でやっていた特別展示をさらっと見て下校。

次は奈良国立博物館で鑑真和上展です。
鑑真和上の像は去年偶然にも公開されている期間に唐招提寺に行っていたので、
その場で見ることができたのだけど。今回は博物館お得意の「背中が見れます」

唐招提寺で拝見した時は、御簾の向こうに鎮座されていて、お背中までは
拝することはできなかったのだけど、今回はとくとくと後ろ姿を堪能。

圧巻は、東山魁夷画伯の襖絵。
なんと、その襖をとっぱらって移動させてきて、
横につなげて展示してあるってんだからびっくりだ。
それはそれで見やすくていいのだけど、
現地で見たときの感動ってのもあったからなあ。

ちょっと入った時間が遅かったので、最後の方は押せ押せになってしまい、
またしても駆け足気味になってしまったけど。
とりあえずすべての展示は見られました。
17時ピッタリに会場を後にし、図録もしっかり買い込みました。

その後、入館料とかいらない場所へと、春日大社へ。
なぎさんの藤棚とか、かすみさんの『野良藤』とかの話題が羨ましくて
おいかけてみたんだけど、やっぱり季節は過ぎていたようでちょっとがっくし。
正規ルートから帰るのはしゃくだとばかりに、鷺原道からぼそぼそ歩いて、
鹿臭い「鹿苑」の隣りを抜けて、鹿男さん原っぱに出て、
南大門から南下してくる道に文字通り「登りついて」あがったのち、浮見堂へ。

そして夕ご飯は「RAHOTSU」でうまうま飯を食べてから、本日の宿へ。
こーんなに歩いたのに、一日目は万歩計をつけるの忘れてました!
午前中は山の中、夕方も山の中、今日も一日よく歩きました。

歩くのは明日が本番のはずですが。
まあ、今日は足慣らしってことで(そうか)
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学校でスク

2009年05月16日 | 奈良大学お勉強日記
奈良文化論を受けに本学までやってきました。
久々なので、ちょっと緊張してます(謎)
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東大へGO!

2009年05月13日 | 奈良大学お勉強日記
とかって書いたからって、腰を抜かさないように、ね。
「東京大学へ進学しよう」って意味じゃなくて、
東京大学構内へ「入ってみよう」ってだけのことだからさ。
うしし。

それはさておき。
城好きの友人と一緒に先月から東京の庭園
(もとは大名屋敷の名残)を巡っているのだけど。
今回は、旧古河庭園・六義園などを回ることにして、
友人のご母堂のリクエストが、「東大行きたいわ、東大」
ってことで、東京大学赤門(元は、加賀前田家の殿様んちの門)を見に。

おお、赤門だ~で写真パチパチ。
んじゃ次は安田講堂をチラ見して、三四郎池へ行こうか~。
大学の真ん中にこんな池があるなんてすげー。
奈良大じゃせいぜい噴水プールだもんなあ(←失礼な)。

その後、上野公園へ抜けるというので、ついでといってはなんだが、
せっかく東大まで来たんだし、あれが見たいわとアタクシ。

あれとは何ぞやといえば、あれですよアレアレ。
「弥生土器」の名前の元となった壷の出土地「弥生二丁目遺跡」。
考古学徒ですもん。ここへ来たからには見てみたい。

実は何の予備知識も持たずに行ったんだけど、
それほど有名な場所ならば、看板や矢印の一枚くらい出ていると
思ったら…どこにもそんなものはないではないか。
ええ?いくら工学部の中とはいえ、考古学に興味ないんか?
東京大学は!
(んなわけないでしょう、ちゃんと研究もされているよ

友人が持っていた地図を頼りに、工学部の9号館10号館あたりに
あるはずって踏んで、行ってみたところ、該当するような場所は行き止まり。
はて、道を間違えたか?とグルッと別のルートを歩いていたら、
いきなり門の外に出てしまって、あれれのれ?
いや、やっぱり9号館と10号館の間にあるはずだよと取って返す。

一度はその前まで行った9号館へ思い切って侵入して(をい)、
10号館へ抜ける廊下を渡ったその右手奥に、
草ぼうぼう場へ抜ける階段があり、そこが、問題のソレでした。

絶句。
おいおい、雑草生い茂るこんな校舎の裏が、あの場所だというのか?
ウソだろう、ウソだと云ってくれ~(大袈裟)
(→証拠写真

いや、びっくりざんす。
こんなところにひっそりと、石碑も立て看板もなく、
強いて云えばこれ自体が看板で、誰も見に来ないのにぽつねんと、
よくもまあご無事で(謎)『弥生土器』もこんなところで、
こんな風に、ひっそりと埋まっていたんだろうな。

しかし、びっくりといえば、「それが何処なのか、今となっては判らない」
という下りでございます。
明治17年といえば1884年。たかだか百年と四半世紀前です。
考古学って学問も学ばれるようになっていて、記録や保存の重要性っての
判っていただろうに。それが今ではどこだったか判らなくなってしまうなんて。
法隆寺創建時の記録がなくてもしゃーないかって気分にさせられます。

とりあえず、今現在、弥生二丁目遺跡のアタリは、百年前の発見時のように、
草ぼうぼうで、誰も行かないような場所にひっそりと存在しています。
そこらへんは「手付かず感」があっていいのだけど、
せめて「ここだよ~ん」って矢印看板くらいは欲しかったなあ。
あんなもん、誰も見に行かないってことですか?
そうですか、そうなんでしょう。

東大生でも見たことが無いような「珍しい」ものを見たってことで。
らっき~。
コメント (2)
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関東で水野節

2009年05月10日 | 奈良大学お勉強日記
一年ぶりのおまっとさんでした。
去年急遽野暮用でつぶれてしまった(否、つぶされてしまった)
水野センセの講演会に浦和まで出かけてきました。

今回のお話は『倭国女王卑弥呼と崇神天皇』
まずは、
「去年はこれまでせんですんませんでした~。
某はしもっさんが博物館どーしても見たいちゅうて
案内せなあかんかったので案内してきたんですわ。
そしたら、あのひと、今まで博物館ちゅうもんは
みたことがないちゅて、素直に云ってましたわ」
から始まった水野センセのお話。
今回も聞きほれるばかりでありました。

松本清張氏とたびたび論争した話とか、
吉野ヶ里遺跡から出土したデカい柱穴がいつの間にか、
邪馬台国の時代の物見櫓「では?」→「楼閣である」→「卑弥呼の宮殿だ」
とになって、とうとう特別史跡にまでなってしまった話とか。

もちろん、水野節に欠かせない
「自分の研究自慢」と「妻への感謝」と「褒めて褒めて話」も健在。

話は飛ぶけど、荒神谷遺跡を発掘したのはなんと
水野センセの教え子さんだったんだとか。
(ちゅうことは、あたしの先輩か?!)

その人が「発掘ばっかりして、妻がカンカンです」と訴えたところ、
「そうかそうか、ツマは大切にしないといかんわな。それは私も
じゅうぶん感じているところで、私も今朝妻にご飯を食べさせてもらった
から、ツマの重要性はよくわかるわ」とオクサマ自慢も織り込んで。
絶対話の中に、出てくるもんな~。
ひゅーひゅー★

そういえば、去年飛鳥万葉ウォークのあと、出雲に行って、
荒神谷遺跡も行ったっけ。あれから一年たったんだなあとシミジミ。
お話を聞きながら、その現場を見てきたのを思い出し、
おお、一年前の復習じゃあ~と大興奮。

水野センセの話のネタは尽きずとも、
ちょうど時間となりました…ってことで、
あっという間の二時間となりました。

講演に先立って、水野センセのお姿をロビーでみかけて、
「せんせー!手術したって大丈夫なんですか!」
って質問したら
「大丈夫大丈夫、医者がいい医者やから大丈夫」
とこともなげに云っておられたのでとりあえず安心。
こっちは座ってお話を聞くばかりですが、
センセは二時間ぶっ続け・立ち続けで・話し続けですから。
ホンマに大丈夫なんかなあと心配していたのですが。
「来週も奈良歩きに行きますよ~」
といったら「おっしゃおっしゃ」とばかりに手を振ってくださいました。

さ、今週と来週の日曜日は二週連続・水野節の堪能ウィークです。
来週は、現地で感じる五感の旅、ってことで。
水野センセに置いていかれないように歩かねば。
今から体調を整えて望むこととしましょう。
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東京で見る贅沢

2009年05月04日 | 奈良大学お勉強日記
八重洲地下中央口前で、
奈良大学の看板に遭遇。
その隣が、那須ハイランドパークだったので、『な行』の柱看板だったのか?

べべべべ勉強しろよってこと?(笑)
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