奈良大好き☆お勉強日記

奈良大学文学部文化財歴史学科(通信教育部)卒&奈良まほろばソムリエ検定のソムリエを取得したヒトの色々な勉強の日記です♪

昭和は遠くなりにけり

2024年01月19日 | 色々・モシクハお勉強
令和六年の歌会始をテレビで視聴して。
一番心に残った歌はこれでした。
(全首の掲載は→こちらから)

呼びに来てくれたる人を追ひ越して電話に急ぎし昭和の夜道
                  神奈川県 臼杵喜行

この歌を何の説明もなく理解できる人はまごうことなく、昭和生まれの人。
もちろん私も昭和生まれなので、この歌が理解できます。

あ、昭和生まれでも昭和63年生まれの人には理解できないと思います。
うちの姪はその昭和63年生まれなのですが、
彼女が生まれた時には我が家にはイエ電(固定電話)がありましたから。
(そして私の中の一番古い記憶にも、すでにイエ電はありましたが)

小学校の頃。
まだクラス名簿というものが存在していた頃。
クラスメイトのA子ちゃんの電話番号のところに小さく(呼)と追加書きされていました。
(呼)とは、呼び出しのことで、この電話番号の所に電話をかけたら、
電話を受け取ったお宅が、A子ちゃんのお宅に「電話が来てますよ」と
『呼びに行ってくれる』という意味でした。

つまりA子ちゃんちには電話がついておらず、
電話による連絡網で何かを緊急に知らせなくてはならない時、
別のお宅に電話をかけて、そのお宅の方がA子ちゃんに、
電話がかかってきていることを知らせに来てくれるという流れになっていました。

まあ、NTTが電電公社だった頃だし、電話を自宅に引いてもらうためには
電話加入権なんてものが必要だった頃だし、自宅に電話がないなんてことは
結構あった頃なんですよ。(私けっこう年寄りなんでね。そんなの珍しくなかった)

それゆえ、A子ちゃんに連絡取ろうとすると、Bさんちに電話かけなくちゃいけなかった。
Bさんはいい人で、A子ちゃんち(二軒先だったっけな)まで呼びに行ってくれましたっけ。

この詠み人の方は聞くところによると佐渡出身の方で、自宅を離れて就職されたご様子。
自宅からかかってきた電話を受けてくれたのは近所で唯一電話のあるお米屋さんだったとのこと。
夜でも、雨でも、知らせに来てくれた方。
そのかたを追い越してでも、一刻も早く電話に出ようと急いだんだと、その光景が目に浮かびます。

あの当時は公衆電話が三分十円の通話料の時代。しかも自宅を遠く離れての遠距離電話ともなれば、
まさに時は金なり。一分一秒でも早く出てあげないと、電話代がかかってしょうがない。

あー懐かしいなあ。
寮生活だった私も、公衆電話で10円やら100円やら握りしめて電話してたわ。
まあ、その頃は赤電話じゃなくて、緑電話になっていたから、
テレフォンカード(テレカ)ってやつもあって、常時何枚も持って長電話してたけど。
(ババアの昔話かって)

とまあ。
そんなことまで思い出させてくれたのがこの歌でした。

今時は電話は一人一台の時代になったし(いや、二台や三台でもいいのだが)
一周回って、自宅に電話がないという家も少なくなったりして変な感じ。
それでも、つながりたいひとにダイレクトにつながれる時代にはなっていて。
こんなもどかしい感覚がわかる人も少なくなりつつあるんだよなあって、
複雑な気持ちになりました。

まさに、中村草田男の「降る雪や 明治は遠く なりにけり」みたいな感じで、
「昭和は遠くなりにけり」を感じました。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

またこの日が巡り来ました

2024年01月17日 | 色々・モシクハお勉強
令和六年一月十七日。
また今年も一月十七日が来ました。

私が子供の頃はこの日は山口百恵ちゃんの誕生日であり、
大親友のアッコちゃんの誕生日でありました。

長じて社会人になったのち、この日は阪神淡路大震災と名のついた
巨大地震の起こった日となりました。

それから二十九年。
長い時間が経ちましたが、忘れていないし、忘れられないし、
そしてつい最近の能登半島地震とも相まって、
怖さ、悲しさ、切なさ、いろんな感情がグルグルしています。

私自身は東京にいて、その揺れを体感することはありませんでしたが、
東日本大震災や能登半島地震での揺れは本当に怖かった。

私自身は現在祈ることと募金することくらいしかできないのだけど。
被災された方がたが一刻でも早く、落ち着いた生活のめどがたちますように。
私は働いて、モノ買って、旅して、経済回します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

当たり前じゃなかった元日

2024年01月09日 | 色々・モシクハお勉強
松の内も終わった令和6年1月8日の深夜になってから。
あ、「さだまさしレコードデビュー50周年記念番組1時の鬼の迷い
を聞くのを忘れていたことに気が付きまして。

一週間気ぜわしくて忘れいていたわ。
でも思い出したんだから、聴くか…。
と布団に入ってから聞くことに。

これ、もともと始まったときは深夜1時からの放送で、
それゆえ「1時の鬼の迷い」というタイトルだったのですが。
現在は夕方の6時からの放送です(東海ラジオでは)

そういえばこれって元日の放送だ。
元日の放送?
大みそかはカウントダウンコンサートをして、
そのまま「年の初めはさだまさし」をして、
この放送はいつ収録したんだ?
前どりかな?
じゃあ、地震に関係ない内容なのかな。

と思ったら、中身は落語家の立川談春さんをゲストにしての楽しいお話。
しばらくは楽しく聞けていたのだけど。
「番組の途中ですが、ここで地震のニュースをお伝えします」

ああ、この番組が放送されたのは元日の午後六時。
地震が起こってから二時間後くらいのことだから。
当地もかなり揺れたし、ラジオを聴いていても、情報が欲しい人もあっただろうから、
これは致し方ないことだったと思う。

しかし、一週間後に聞いても、これ、しんどいなあ。
しかも寝入りばな(というか寝るのを惜しんで聞いていた深夜)だから、
この気持ちのまま寝るのはしんどいなという。

その後もたびたびニュースは差し込まれ(後ろで小さい音で放送は続いている)
楽しそうな声が薄く聞こえている中で読まれる地震の情報が、
ああ、そうだった、そうだったと思い出させる内容。

一週間たったけど、まだ一週間なんだけど、この一週間はあまりに多くの悲惨なことが多すぎて。
ああ、そうだった、そうだったんだよねというのを思い出させました。

今回は〆の最後のお便りを時間が押したために読むことができず。
これを収録した時、さださんもこんなことになるとはわかってなかったと思う。

とにかく、まさかめでたい元日の新年一発目の放送が、
こんなことになるなんて誰もが思わなかっただろう。
それをいうなら、まさか新年始まったすぐに大地震が起こるなんて思ってもみなかったし。

始まってまだ九日の令和六年だけど、あまりに多くのことが立て続けに起こっていて、
心がざわついたままです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いつも通りの元旦

2024年01月04日 | 色々・モシクハお勉強
今年はブログ再始動ということで。
メモ帳替わりにここを使うことに。

最近とみに記憶力がやばくなってきたので、
記録を残さねばならんと思って、
ここに何でもかんでも書き残します。

とりあえず令和元年の元日の記録。
元日といえば、お屠蘇とおせち。
ということで今年の記録。







大みそかの朝(?)11時から夕方5時まであれこれ作り続けて、
二時間ほどで夕飯のすき焼きや、豚の角煮を作りながら、重箱に詰めて。
今年は紅白歌合戦の直前までには作り終わったので良しとします。

これで七草がゆまでの間はこれをコツコツ食べ続けて、
少しずつ片付いてゆくのが快感(謎)です。

でも酢の物(酢レンコン、紅白なます)はタッパーに一つは作りすぎな気がするし、
かまぼこもまだ紅白の板二つ残っているし、買いすぎだな。
年々食は細くなっているので、来年はもう少し減らしてもいいかも。

手前の長皿は「マメでくりくり、掻き込め掻き込め」と言いながら食べる
「豆&甘栗&柿」
個人的には栗も柿も食べないので、年に一度の食べ物です。
しかも、柿を買うのを忘れていたので、うちにあった干し柿で代用。

お屠蘇は橿原神宮から頂いた屠蘇散を大みそかに清酒に浸しておいたもの。
ありがたやありがたや。

一日仕事のおせち。
いつまで続けられるかなあ。
本人的には作るのしんどいので、そろそろおせち終了のお知らせとしたいんだが。

にしても。
一年に一度のことだし。
これくらいやっておくべきなのか?
日本人としては正月は楽しみなもんですからね。
元旦は楽しかった。
令和六年の元旦は楽しかったです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

令和六年謹賀新年

2024年01月03日 | 色々・モシクハお勉強
令和六年。
今年もよろしくお願いします。

あっという間に三が日が終了。
今年が始まったばかりだというのに。
新年早々、かつてないほどの大地震。

元日深夜には翌日の一般参賀に向かうために高速バスに乗る予定だったのに、
行くか行かないか逡巡しているうちに、もうキャンセルができないこととなり。
バスは運行しているのか?行ったはいいけど、帰ってこれるのか?
判断できないまま、一か八かで東京へ向かいました。

翌朝二日。
皇居に向かうとヒト気がなく。
一般参賀は深夜になってから急遽中止が決まったとのこと。
私がバスに乗り込んだ後に決定されたようで。
まあ、確かにこの状態では中止やむを得ずだなと納得。

とりあえず、その後実家に帰るために取っていた運休していた上越新幹線と、
帰りの高速バスをキャンセルし、自分が本日中に帰るための新幹線を取り直し。
トーハクなどで過ごして帰ろうとした新幹線の中で、羽田の飛行機事故を知ることとなりました。

三日の新聞では、一面が悲惨なニュースで占められていて。
更に夕刻になってから小倉で起こった大規模火災のニュースを知りました。
休み期間中の新聞を読みこんでいたら、
六日もあった年末年始のお休みが終了しました。

明日から仕事はじめ。
動ける人は普段通りの生活をしましょう。
そして、できる範囲で、できることをしていきましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする