奈良大好き☆お勉強日記

奈良大学文学部文化財歴史学科(通信教育部)卒&奈良まほろばソムリエ検定のソムリエを取得したヒトの色々な勉強の日記です♪

月刊なら(行き)予定表

2010年07月25日 | 色々・モシクハお勉強
すったもんだのあげく、今週末も奈良入りする予定です。

というのも、博物館実習2の修了者による同窓会があるのでそれの参加のために。
最近あれこれあったり(謎)、非常に暑いので「こりゃ大丈夫かな~」でしたが、
とりあえず月刊なら行き(笑)を死守するためにも行かねばならんでしょってことで、
宿と足の手配をすませましたです。

8月1日(日)は大阪の日本民家集落博物館で、実習生の邪魔をしつつ、
水野センセのお話をタダ聞きするというミッション。
せっかくだから前日から関西入りしようと思って、
なんかネタはないかなあと思ったら。
あるやん。しかも、奈良大で。

講演会&シンポジウム「平城京の住宅事情」
→http://www.nara-u.ac.jp/news/event/detail.php?id=55

これが17時には修了予定なので、
その後も何かないかなあ~と思ったら、
またまたあるやん。奈良博で。

奈良博物館本館がリニューアルした「なら仏像館」が21日からやっている
「なら仏像館 開幕記念 特別展 至宝の仏像 東大寺法華堂金剛力士像特別公開」!
しかも7月31日(土)は午後7時まで開館してるっちゅうじゃん。
これだ!

ホテルは高畑町の万葉荘だから夜の奈良ライトアップとかも楽しめるかな~。

奈良大学行く人いません?
奈良博行くヒトいません?
奈良町で飲む人いません?

メンツ募集中デス。
コメント (4)
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有楽町で奈良

2010年07月24日 | 色々・モシクハお勉強
行ってきました
>明日香保存財団主催の「飛鳥学講演会」

今回のお題は”飛鳥の大寺から平城の大寺へ”

まずは講演に先立って、明日香村教育委員会の高橋さんから
明日香村の発掘報告を聞き、
それからお二人の先生のお話へ。

一人目は菅谷文則先生。
「留学僧と大寺」というお題でのお話です。

遣唐使というと難破して命を落とす人が多かったというのが”常識”だけど、
生還率(をい)でみれば、10人のうち8人は戻ってこれたという。
となれば、船が難破・座礁して被災したものは多かったとしても、
遣唐使の死亡率は思っていたほどには高くないというのが実情らしい。
へー。そうなんだ。

仏教が伝わったということはそれ以上に、
仏教にまつわる人々も来日したということを意味する。
寺を建てる技師や、暦、五経、易、薬、音楽、瓦、書、画、
その他の技術を持った人々もそれに乗じて来日している。

仏教が伝わった頃に大量の僧が来日したということはなく(記録上80人強)
どちらかといえば遣唐使として日本から海外に渡った人(僧)の方が多いとのこと。

留学生(僧)は一度に同じ船で大陸に渡っていくが、現地についたらそれぞれの
勉強をして目的を達成したなと思うところで帰国するのでかえりはバラバラ。
次にやってくる遣唐使船の帰りの便に乗せてもらったり、まだまだ勉強が足りないと
思えば居残って勉強を続けたり。

こっちから勉強で行った坊さんの中で有名なのは定恵@藤原鎌足の長男とか、
道昭@日本で初めて火葬にされたという記録を持つ人。
あと、玄@大仏建立に関与した人や、戒律を授けてくれる高僧を探しに出た
栄叡や普照などがいる。(普照は鑑真和上とともに帰国できたけど、栄叡は客死)

この道昭って人が結構、藤原京の時代に朝廷に影響力を持っていた人のようで。
道昭自身は火葬にされたけど、その二年後に天皇として初めて火葬にされたのが持統天皇。
きっと持統天皇は道昭を重用したいたんだろうなと思わせるような出来事です。
マンガ『天上の虹』では、持統天皇が「死んだらどんな骨壷に入ろうかしらね♪」
なんていっているシーンもありましたっけ。

この道昭がおべんきょしていたのが長安。いまの西安です。
大雁塔が見え、なおかつ、小雁塔も見える位置に居を構えていたようです。
右に見える大雁塔、左に見える大雁塔。(かな、逆だったっけな)
このハナシを聞いた持統天皇が、んじゃ塔は二つ造りましょう!
ってしたのかも~という妄想も生まれるってもんです。

実際、塔はそれまで伽藍の中で一番重要な建物でしたが、
次第に装飾としての要素を含むようになり、
どんどん高層化していきました。

薬師寺式伽藍配置と呼ばれるものは、東西に塔を置く伽藍形式ですが、
お釈迦様のお舎利を置く「ハカ」としての建物が、
東西に二つもあるという不思議な状態になるのでした。

塔を二つ持つお寺の建立。
もしこれも遣唐使として、大陸に渡り、
それらのモノを検分してきた僧たちの
経験を反映した上での寺作りなのだとしたら、
大寺の設計ってのもかなり遣唐使や留学僧たちは
密接な関係があったのだなっとうかがわせます。

休憩をはさんで木下正史先生による講演は、発掘が語る「飛鳥の大寺」。

仏教はまず伝来したときには、各家の中に仏像を安置し、
それを拝むというタイプの”テラ”ができ、
もともと邸宅であったものを寺院とするような”捨宅寺院”の建物に代わる。
その次が、豪族(蘇我本家)による私立寺院の建立で
日本最初の伽藍寺院である飛鳥寺が建つ。

その後は、氏寺(私寺)から官寺(国立の寺)へ。

大寺の歴史は舒明天皇が百済川のほとりに九重の塔(!)を建てたという、
百済大寺に始まると見られる。
この寺と見られているのが吉備池廃寺。
おお、奈良検定で場所の位置を問う問題が出たっけ。

舒明天皇崩御後は「大宮」は放棄されたが、
「大寺」は皇極天皇、天智天皇によって造営が継続。

その後、天武天皇の頃に百済大寺を高市へ移したので「高市大寺」と呼ばれ、
のちに「大官大寺」と改称された。
そして、大官大寺は文武天皇の頃には藤原京に移ったらしい。

何故か『続紀』には記されてないのだけど、『扶桑略記』には
「和銅4年大官大寺、藤原宮焼失す」と残されている。
藤原宮の大官大寺は焼けてなくなってしまったという記録を裏付けるように、
その跡地から、焼け崩れて落ちた黒こげの柱跡が出てきたことから、
火災にあって失われたものであるとうことが裏付けられた。

で。
ここで一つのナゾが。

どうやら大官大寺は二つあったらしいということ。
つまりは天武朝の大官大寺と、文武朝の大官大寺があったんだということ。
こんなこと前から知ってる方にしてみたら「ナニヲイマサラ」なのだろうけど。
私にしてみたら「ええ~?!」でした。

いただいた資料によれば。
1)天武朝大官大寺は、『書紀』『大安寺伽藍縁起』では大寺院として整っていたことが示唆されている。
2)発掘した大官大寺跡は、文武朝創建のもの。前身寺院を修造したものではない。
3)天武朝大官大寺と文武朝大官大寺の併存
(1)『大安寺伽藍縁起ナラビ流記資材帳の記載によれば、
  ①冒頭の縁起文では文武天皇造立の丈六仏のことを記載してある
  ②しかし、資財の条では文武造立の丈六仏の記載を欠く。(和銅4年の火災で焼失したためか?)
(2)資財の条で、舒明12年(640)施入の灌頂幡、皇極・天智天皇施入の仏、
   天武・持統天皇施入の繍仏・経巻の伝存を記述してある。(これは火災で焼失を免れたため?)
4)平城京大安寺に伝存していた資材には、舒明・皇極・天智・天武・持統天皇の施入物あり。
(1)文武天皇の施入物は伝存していない。

それは何故か?
文武天皇造営の大官大寺と、天武天皇建立の大官大寺が別の寺で、
両寺が併存していたとすれば、ナゾは解けるのではないかと、いうことなんだそうな。
それには、天武天皇の建立した大官大寺がどこにあったのかを明確にしなくてはならないことに。
さーどこに埋まってんだろ。ワクワク。

うみゅみゅと思っているうちにハナシはドンドン進み、講演会はお開きとなりました。
なんか自分の中でこなれる前に話が終わってしまった感があるのですが。
まあ、これから先のことについては「夏休みの宿題」もしくは「自由研究」ってことになるかと。

それらについてはこちらのサイトにも詳しい記述があるのでご参照ください(って丸投げ)
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_ootera.htm

あたしは、奈良検定の勉強もあるのだよ。
ぶちぶち。

こうしてみると私、飛鳥の土地鑑ないのがバレバレだなあ。
奈良通いというか、飛鳥通いもせんといかんなあ。
※いかんのか?(笑)
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浦和で奈良

2010年07月18日 | 色々・モシクハお勉強
そういえば、二週間前は奈良歴史地理の会の関東支部の講演会があったのでした。
お題は「仏都 平城京」

藤原京や平城京といえば、仏教が栄えた都という認識があるけど、
「古都」や「南都」という言葉はあれど
「仏都」という言葉は世の中に認識されてないのだそうな。
(広辞苑や日本国語大辞典にもないらしい)

講演してくれた吉川先生@京大教授は
仏都という言葉を『仏教の中心地という意味で使ってる』とのこと。
吉川センセは生駒在住だとのことで。
『職場は京大。京都の東の方で、偉いさんの墓地がたくさんあるところ。
住居は生駒。奈良の西の方で、奈良の貴人の墓地がたくさんあるところ。
ということで、奈良の墓地から、京都の墓地へ通勤していることになります』
と摑みはオッケー。
さすがは奈良県人ですね。

平城京は仏教が栄えていたというのが共通認識としてあるけど、
実は天武朝・持統朝の藤原京時代にもすでに仏教の都であったというのは
日本書紀その他を見ればすでに記してある。

持統天皇4年の七月には、官寺七寺に3363人の沙門がいて、その人たちに施しをした。
それとは別に、皇太子のための三寺の沙門329人にも施しをした。
とある。

これによれば四~五千の沙門(僧)に対して、その当時の人口は約25000人ほど。
いかに物凄い数の僧がいたんだってことに。
MAX5千人の沙門だとしたら、人口の1/5は僧だってことじゃない。
まじ?

あとびっくりしたのは、
復元された大極殿には高御座が置かれているけど、あの場は正月の間、
仏殿として使用されていたんだそうな。
正月の間、全国の国分寺では金光明最勝王経が唱えられていた。
その間、大極殿はそれらをたばねる存在として「仏殿」として使われていた。
思わず「え?」でした。

高御座は天皇というその地位の象徴だけど、正月にはその場を仏様に明け渡すんだって。
その明け渡すお相手は盧舎那仏さま。
普段は天皇のいる場所としての高御座だけど、その時ばかりは盧舎那仏さんがおわしまする場に。
ということで、この時ばかりは天皇といえども、大極殿の主は仏様ということに。

とはいうものの、三法の奴である聖武天皇ですから、天皇よりも仏様がエライに決まってます。
それが現われているのが、大極殿と東大寺大仏殿のデカさ比べ。
今の大仏殿じゃなくて、初代の大仏殿ではなんと、平城京の大仏殿よりも大きかったんだそうな。
それはやはり、仏の力によって世の中を治めようとした聖武天皇の考えから、
大極殿(天皇) < 大仏殿(仏)
を、その殿の大きさで表したんではないかと。
ほほー。

各寺は天皇のための仏教行事を行い、宮中では国家を治めるための祈りを行う。
天皇といえば神道みたいに思っているけど、その実、
宮中でも仏式でのお祈りは行われていた。
しかも、平城京の、平城宮の、大極殿で、仏式のお祈り。
こりゃ確かに「仏教の都」だわね>奈良。

前回の講演会は明日香ウォーキングでいけなかったけど、
こういう機会は狙って行かねば。

次回は9月24日(金)、白石太一郎先生で「邪馬台国からヤマト王権へ」だそうです。
講演会へは行こう!

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日本橋で奈良

2010年07月15日 | 色々・モシクハお勉強
本当は弥生美術館とハシゴするはずだったケド時間切れで断念した
三井記念美術館へ行ってきました。
本日の御題は「奈良の古寺と仏像 ~會津八一のうたにのせて~」

これってすったもんだした新潟県立近代美術館のアレか?と思ったらやはりそうで、
全国巡回のようです(この後は11月から地元、奈良県立美術館でもやるらしい)
新潟に帰った時に行こうかと思ったんだけど、うちからは遠いのよね~と断念。
まさか東京で再会(?)できるとは思ってもみませんでした。

三井記念美術館は三井タワーの近代的建物から入って、専用通路から本館へ。
そこからこれまた豪華な仕様のエレベータに乗って7階です。

ここ、場所が場所だけに普段の展覧会よりも年齢層高い。
正倉院展なんかよりも全然高い。
なので各自の鑑賞スタイルも結構いつもよりも違っていてちょっと疲れた(笑)

それはともかく。
見学していて驚いたことは、ほんまに法隆寺はどんだけお宝溜め込んでんねんってこと。
これだけのものをここに持ち寄っても、東博の法隆寺館が空になることも、
本家・奈良の大宝蔵院が空になることもないんだから大したもんだ。
さすがは法隆寺。

そして、思わぬところで思わぬ方と対面できたショック。
それというのも、伝日羅立像@橘寺と、
五劫思惟阿弥陀如来坐像@東大寺がおわしたことであります。

伝日羅立像さんは、祈りの回廊の橘寺部門として特別公開されていたおかた。
5月9日までだったので、GW最終日に岡寺には行ったものの、ここはパスしちゃったんだよね。
なので、ここでお会いできるとは思わなかったのでうれしい誤算でした。

五劫思惟阿弥陀如来さんにも会いたいと念じていたお方の一人。
奈良に伝わる五劫思惟阿弥陀さんのうち、五劫院さんのおかたと、
十輪院さんのおかたにはご対面かなったのだけど、こちらさんとはまだご縁がなかった。
今度会ってみたいな~と思っていたら、なんと東京でばったり遭遇してしまったってワケ。
これは故郷の友だちのうわさをしていたら、バッタリ東京で出くわした、みたいなもんです(実話)。
おお、これも何かのご縁なのね。ありがたやありがたや。

東大寺さんの五劫思惟阿弥陀さんは両手を胸の前で合わせていたけど、
五劫院さんの五劫思惟阿弥陀さんは両手が衣の下に隠れていたぞ。
どっちかっていうと東大寺さんの方が頭は(てか髪の毛の量は)大きかった。
それだけ余計年月考えていらっしゃるってことか?

それぞれのお寺でそれぞれのお寺の仏さんを拝むことは多々あっても、
いろんなところのお寺の仏さんをこうしてひとところで拝むことは少ない。
だから、いろんな発見も。
見比べている間に、一つまたムクムクと謎が沸いてきたことがあって、
もしかしてこれまた一本ロンブン書けるかな~とワクワク。
次入る大学の卒論にしよう(笑)
※また大学生するつもりか。
せめて院生にくらいなれ>ぢぶん。

昼前に入ったにもかかわらず、じっくり丹念に、何度も気に入ったところは見直ししていたら、
出るときには昼ごはんどころかおやつの時間になっていたよ。
仏像たくさん拝めてオナカイパーイで満足まんぞくでしたけど、
悲しいかな腹は減るので、食欲を満たすべく地下でご飯食べました。

その後、三越本館の「入江泰吉写真展」へ。
ここでスタンプラリーをやっていることを知る。
ここと、さっき見た三井美術館と、奈良まほろば館の3館を巡ると記念品贈呈だって。
きゃーやるやるということで、三井美術館に逆戻りです(笑)
その前に写真をぐるっと一周して。どれも見たことがある定番のもの多し。
一点だけ三月堂の前で雪の中、観光客が来なくておなかすいたね~のシカの集団の写真があったのだけど、
あの写真、絵葉書になっていたらほしいなあ…。
そして、再び三井美術館へ。

さっき入った時にはそんなことをやっているのなんて教えてくれなかったじゃんと
プンプンして、半券を用意して受付に行ってみましたが。
入館せずとも入り口脇に置かれたスタンプだけ押すこともできるので(ははは、そりゃ禁じ手だろ)
なんなくここのスタンプも無事ゲットできました。

そして、指定されたとおり、奈良まほろば館へもゆき、スタンプラリーは完成。
館内展示を見たり、パンフレット集めをしたりして奈良をマンキツして(?)
再び三越へ戻ります(忙しいのぉ)

三館揃ったお駄賃はハガキサイズのクリアファイルでした♪
モクレンの頃の二月堂への階段風景か、斑鳩の里落陽風景のどちらか選択できたので、
斑鳩の里の方にしてみました。これ写真原版としては横長のものだけど、
クリアファイルにした時点で右半分の景色が切り取られていたんだけどね。
ま、それはしゃーないか(あっちの方も捨てがたかったけど、今日はこっちの気分だった)
これは20日(火)までに開催なので、まだの方は連休中にでもどうぞ。

実は今回のことでぐるっとパスを仕入れてしまったので、これから二か月の間に
どんだけ美術館&博物館回れるかな~と楽しみにしてる。
でも、後で気がついたけど、メトロ&ぐるっとパスの方がおトク度高かったなあ。

暑い時遊ぶには屋内に限る(笑)
てことで、夏の間は博物館三昧してみよう。

あ、視聴覚教育メディア論のレポートにもこれ活かせるか?
是非ともそういう呼び水になってほしいもんだ(ははは)

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丘陵をゆく

2010年07月03日 | 奈良大学お勉強日記
やるやるといって練り練りしていた「矢田丘陵を歩く会」
無事に6月27日(日)に敢行してきました。

当日の参加者は、独楽さん、ショータさん、なぎさん、ひろこさん、
punipuniさん、ゆずさん、yumekoさん、そしてアタクシ。
総勢8名の大所帯です。

一番心配していた天気も、朝の京都では雨降っていたものの、
何故か郡山に着いた時点では晴れている…。
もしかして「快晴」っていっていいくらいの晴れ。

実はわたくし晴れ女なので、主だった外行事の日には、降水確率が60%以上でも
「晴れてはいないが降ってもいない」程度の気候になることがしばしばで。
今回も念力パワー発揮してしまったようです。

そんなわけで駅前のコンビニでしこたま水分を買い込み、
集合時間にまでまだ時間があるので、いざ大納言塚へ。

前回桜の頃に来た頃にはついでだったのでここに立ち寄ることができず、
今回もツアー終了後には訪問できなさそうだったので。
では先立ってということで。

地図に従って歩けばものの5分ほどでつきました。
大納言塚は豊臣秀長が亡くなった時にこの地で葬られたという場所。

現在の墓石は豊臣滅亡後、江戸になってから移転させられた墓所が荒廃したため、
町の人々の努力により、元場所に現在の五輪塔が建立されたとのこと。
死後200年近くたってからの五輪塔の建立とは。
この人、民百姓に愛されていたのか。

墓の前には「お願いの砂」なるものが、蓋かぶせて置かれていました。
『今日お参りできたお礼を申し上げた後、自分の名前と、願いごとをいいながら
門前の石の箱へ、三回お砂を通しますと、きっと願い事を聞いてくださいます』
とのこと。
もちろん「今日は無事に全行程歩けますように」とお願いしておきましたよ。

そこから駅へ向かうと本日の参加者の皆様がゾクゾクと集合中でした。
「晴れたねー」
「晴れすぎだよねー」
すんません、それ、あたしのせいです(おかげではない)。
実はこの日は物凄く暑かったのだ。
歩くなんて無謀なのであった。
それは後で知った。
そんなもんさ。
ふん。

とりあえず、推奨ルートにのってウロウロ開始。
まずは体力温存のため、バスに乗って奈良高専近くの山際まで行き、
最初の目的地、奈良県立民俗博物館へ。

バス停からここに歩いてくるだけで既に汗噴出。
ゆるーい冷房がかかった館内はすでに夕涼みスポットと化します(謎)

ここに来るのは実は初めてなのです。
地元に住んでてもなかなか入りませんな、この手の類は。

館内では稲作や茶業・林業などの仕事の道具とその仕事ぶりが展示されていました。
この館を出ると敷地内は、昔の日本家屋が移築されてきている一画へ。
例年奈良大学の博物館実習が行われている、民家博物館の雰囲気にも似ています。

日本家屋は入ってしまえば風が抜ける構造になっているので涼しい。
しかし、出ると暑い。
蔵や家を覗きつつ、道を進めます。
道すがらの紫陽花もいい色をつけていて、矢田寺もさぞかしキレイだろうと予想。

次なる目的地は矢田坐久志玉比古神社。
「やたにいますくしたまひこじんじゃ!」
「ヤタニイマスクシタマヒコジンジャ!」
怪しい宗教団体の呪文かいな。
みんなで連呼して、その名前をこの身に刻み込みます。

この神社のウリは、山門にかけられたプロペラの羽。
饒速日命(にぎはやひのみこと)が降臨するに先立って、三本の矢を射た。
それが落ちた場所を住まいに定めるとしたところ、
二の矢が落ちたところがこの地だったという。
その際には、天磐船(あめのいわふね)に乗って、降臨したとの伝承が。

そこで、航空関係のひとの信心を集めるようになったってのは判るんだけど、
その頃の「船」って、プロペラついていたのか?(つっこむなよ)

一の鳥居、山門、二の鳥居と進んでいくと、どんどん雰囲気が変わって
神域な感じがしてきます。
「しーん」とした感じがして、よい神社でした。

さて、次はいよいよ寺三部作ですよ。
まずは東明寺。
とりあえず一本道で、上り坂ではありますが、なんとか進みます。
最初は単なる坂道でしたが、途中からはまさに山道。
先頭に向かって「ま~だ~?」「もうすぐー」とか
騙し騙しがんばります(謎)。

そうこうしているうちに東明寺です。
よかった…この山道がどんなモンかを知らない素人幹事としては
ここのキツサがどんなものか判らんかったのですが。まずは落伍者なしで。

しっかし、ここについた時点ですでに玉の汗。
道に出た看板からさらに坂を登って、さらに山門、階段、ときてようやく本殿。
流れる汗もダクダクのまま薬師如来さまにご対面。

ここは舎人親王が持統天皇の眼病平癒を願って建てたお寺とのこと。
天武天皇の皇子である舎人親王は、持統天皇の目の病が治る方法はないかと祈っていた。
すると舎人親王のもとに金の鍋が出現し、
これを持って、これこれこういう場所にいってみそ!
とのお告げがあった。
目が覚めると本当に鍋がその場にあったので、云われたとおりの場所に行ったら、
キレイな水がわいていたのでその水を鍋で汲んで持って帰り、持統天皇に差し上げた。
すると、なんということでしょう。
その水で眼を洗ったところ、眼病がたちどころに治ってしまったではないですか。
ということで、鍋蔵山という山号がついているんだとか。

本堂では、左・吉祥天立像、中央・薬師如来坐像、左・毘沙門天立像の揃い踏み。
この薬師さんは左右対称ではなく、中心線から少し左に傾いているのだとか。

説明をしてくれた坊様の受付机の前には「雷さまのへそ」が置かれていました。
ここに雷の子供が落ちてきて、いつも雷に悩まされていた和尚さんが今だ!
とばかりに雷の子供のへそをとってしまったので、ここには雷が落ちないんだそうな。
それゆえ、電気工事関係の人がお参りに来るんだとか。
しかし、雷とはいえ、子供のへそを取るなんて…和尚も大人気ない(笑)

お堂を出たところで、みなさんが縁側に座っていたので、しばし休憩。
山の風を浴びながらボーっとしていると本当に心地良い。
しばらくぽーっとしていたら、お寺の方が
お堂のおしょさんに水分補給のポットを届けにこられて。
帰り際にしばし立ち話を。

「普段は誰もこないんですけどね。この6月は人一杯でしたわ」
境内は自由散策ですが、普段からも事前申し込みしておけば本堂内は拝観可能です。
今年は遷都1300年で、6月中は申し込みなしで見せていただけましたが。

とりあえずここで少し休憩して次なる目的地への英気を養います。
次は矢田寺へ。

さて、問題はここから。
矢田寺には行ったことがある私も、歩いて行ったことはない。
ましてや、山道を歩いていったことなぞかつてない。

どんな道中なのか皆目見当つかないので「自己責任で!」と責任逃れして出発です。
ここから矢田寺までは山の中を歩くのですが、まあここは大した山道ではないとのこと。

一旦歩き出せば、山の中なので、日差しもさえぎられて、風が吹けば心地良い程度。
それでも歩くだけで汗が流れるような日なので、結構ドクドクしましたけどね(謎)

30分ほど歩いたら、人家が見えてきて「助かった~」とは大袈裟だけど、
そこからすぐにアジサイ時期だけ入山料が要る入山ゲートがすぐでした。
(普段は境内無料ですが、この時期だけはお布施がいるのだ)

さすがアジサイの魅力というか、境内は人で一杯。
よきかなよきかな。
寺はひっそりしていてもよし、ワイワイしててもよし。

本堂にあがると、赤いベストを着込んだボランティアの方々が一生懸命案内されてました。
うちの集団のソムリエさんたちも興味津々ってとこでしたでしょうか。

ここのご本尊は、もともとは十一面観音さん。
それがいつの間にか、ボス猿交代劇のように、
矢田地蔵縁起で有名になった地蔵菩薩さんに取って代わられました。

ここの地蔵さんは右手の親指と人差し指でわっかを作った形をしてます。
「OKサイン」もしくは「ゼニ」って感じの指文字といえばわかりがよいかと(をい)。
これは阿弥陀さまの「来迎印」に似ているってことで、
地蔵と阿弥陀の両方のご利益があるんだとか。
(長谷型観音さんは、地蔵と十一面観音さんのダブルご利益ってハナシだった)

で。
矢田寺ですから紫陽花を見ますよ。
もともとは山岳地帯に建つお寺ですから、その境内も起伏に富んでいて、
紫陽花の咲いている一画を歩くと、自然と上へ下への坂登り&階段下りとなってました。
「うげー。さっきの山道よりしんどいかも」
しかもさっきよりも道が狭くて混んでいますし、先も詰まっていれば、
途中記念撮影をされる方がいると、そこから先は当然渋滞。
無料になった日の沖縄の高速道路のような有様です。

人を見たんだか、紫陽花を見たんだかわかりませんが、
とりあえず見たぞって感じで一周した紫陽花の崖を離れて、
一路「矢田山ふるさと工房」へ。

ここは喫茶室兼木工工房ということで、お弁当の持込をしてもよいという太っ腹な喫茶室。
ここで昼ごはんをいただこうという算段です。
そこへ移動中にパラリと雨に降られましたが、
着いたら丁度止んだのでテラスにてお昼ご飯をいただくことに。
注文品は、全員一致で「レーコー!!」

企画した時点ではホットコーヒー飲めるじゃんとか思っていましたが、
もう出されたミント入りのお水もガブガブ、アイスコーヒーもストロー無しでグビグビ。
「これがビールだったらねえ~」
「ビールだったら、ここから先歩けないよ」
はは、確かに。お楽しみは先にとっておきましょう。

昼ごはんを食べている間は山の風に吹かれていい気分でしたが、
食べ終わる頃にはまたパラリと通り雨。
慌てて屋内に避難して、木工品など見せていただいたり。
(喫茶店部分は窓開け放しで冷房無しでしたが、階下の木製品のフロアは冷房が入ってた♪)

とりあえず軽くなったリュックを背負って、重くなった腹を抱え、午後の部へとなだれ込み。
ここからがこの行程の最重要ミッション(?)松尾寺への山歩き、です。
参考にしたマップによれば
「一箇所だけごつごつした歩きづらい岩の道」があるってことでしたが。
それを除いても、山道だし、登りだし、東明寺→矢田寺間のようなわけにはいかん。

ってことで、タクシー乗車組はここでお別れ。
ワレワレ徒歩組はそのまま山道を歩くことになりました。

これといって特徴のない山道を、先ほど降った雨でぬかるみに足を取られながら進む進む。
結構厳しい道だったと思うのですが「ノドもと過ぎれば熱さ忘れる」鶏頭のわたしゆえ、
あんまり大変だった記憶がありません。最近山道ばかり歩いているせいかなあ。

それでも途中「ごつごつ道」にはこだわっており、そこだけ越えれば後はなんとか
と思っていたので、「これがそうか?」「ここか?」ってのだけは敏感に。

でも、それは、あまりに、単純な道でした。
確かにごつごつしてましたよ>ごつごつ道。
岩だらけで、山道!してましたが、急坂というほどの勾配もなく、
歩きづらいほどの困難さもありませんでした。

なので通り過ぎてから「もしかして、さっきのが、ごつごつ道?」とか思う始末。
「んじゃー、一番の難所を過ぎたんじゃないのよー」とか浮かれたのもつかの間。
その後、階段の道が出現。
もちろん地図上にはすでに明記されていたのですが、この階段が曲者だった。

山にありがちな「右足でふんばって登って、左足を踏み出して、さらに右足で登って…」
を繰り返す、一段の面積のデカイ、上りにくい階段なのです。
右!左!って一歩ずつで登れる階段ならばそんなに調子狂わないのですが、
一段あがって、一歩踏み出し、一段あがって、一歩踏み出し、式の階段はナンギだ!

これ方式の階段が二箇所あることになってます>地図。
すでに一つ目でアップアップな心臓。
山道でくねくねしているのでまっすぐ先が見通せません。
「まだありますか~」
よっぽどこっちの階段の方がしんどかったです。

途中階段が切れて、しばらくしてまた付いている部分にくると
「これが二つめ?もうこれが最後?」とか泣き言も。

そうこうしているうちに、二つめの階段群にもたどり着き、無事踏破。
するとほどなく広い場所に出て「もうすぐ展望台だよん」という表示。
頑張れ~もうすぐ一番高い場所(たぶん)だぞーと思っていたら、
そこから目と鼻の先が展望台でした。

こういう時こそ快晴であって欲しかったけど、残念ながら曇り。
方角的に見えるのは、若草山とか天理の山々とか御破裂山とかある方向。
しばしそこから、東向きの盆地の光景を眺めていたら、とある集団と遭遇。
どうやら、「走って山を登る方々」みたいで。
歩いて登ってゼーハーしているワレワレとしては「神」みたいな方々でしたわ。
なんだか狭い展望台なので、人で溢れかえっていたからそそくさとそこを離れることに。

ごつごつ道も、階段も、展望台もクリアしたのであとはもう少しのはず。
そして最後の最後で標識の無い、広い道に出て。
はて?ここからどうやって歩けばいいの?

その時、携帯電話が…。
「今どこですか~」
「はあ、今道に迷ってます。もうすぐ着くと思いまーす」
「松尾寺に居ますのでお待ちしてまーす」

はい、確かにそこからすぐでした。
登り道と下り道があって、「もう登りたくない!」と思って下へと向かったら、
お寺風の屋根が見えきて、そこが松尾寺でした。
おー、乗り切ったぞお。

しかししかしだ。
山門が見えてきたかと思ったら、そこから先は階段だった(笑)
また登るんかい。ええ~い、登ったろーじゃねーかぁ!

本殿前まで登りついたら、車組の皆さんがお待ちでした。
さすがに車組さんは涼しい顔でしたが(笑)
こちとら全身汗みずくですよ、あへへ。

その滝行をしたような格好のまま、大黒天さんと役行者さんに会わせていただきます。
大黒さんっていうと烏帽子かぶって袋かついでニコニコしてる姿が普通ですが、
こちらの大黒さんは、眉毛も目も吊り上げて、逆に口元はへの字に結ばれているお姿。
なかなか凛々しいですが、大黒さんって感じではないです。

その後、役行者さんちである行者堂へ。
ここの役行者像は日本最大級だそうで。確かにデカイ。
役行者さんの足元には、前鬼・後鬼のお姿も。

特別拝観をみせてもろて、しばし休憩。
なんかここで既に足がパンパンだったので、三重塔まで登ることもできず、
一番遠い松尾山神社なんてはなっから行く気がなくなっておりました。
すまん、次回来た時には奥までいくからさと心の中で約束。

そう、ここの厄除け観音さんは11月3日にしかお目にかかれない貴重な存在。
遷都1300年記念でも、ここまでは見せていただけなかったようなので。
またこなくちゃだわ。

しかし、ここも山の中。
じっとしていると山からの風は涼しい。
その中に汗みずくで現われた集団に、坊様たちはどう思われたことでしょうか。
(ま、山を歩いてくる物好きもいるわいな、くらいですかね)

で。
車組さんは、途中参加のyumekoさんが矢田寺に着いたときに偶然顔を合わせたとのことで、
タクシーではなく自家用車でここまで来ていたとのことでした。
なので、下山は当然のように車利用で。
あと一台はタクシー呼ばなくちゃと思ってたら…山門前までタクシーで乗り付けられた方がいて、
それと入れ替わりに乗ることに成功♪
運ちゃんも、ワレワレも、ラッキーでしたわ(笑)

結構いい坂を車で降りたら、下界まではあっという間。
しかし「松尾寺口」ってバス停から松尾寺まではゆうに30分はかかるなんて、詐欺だ。
そこをすっ飛ばして、一路慈光院へ。

ここは寺というよりは、お茶の飲めるお屋敷って感じの場所です。
もとは、小泉藩藩主の片桐貞昌が父の菩提を弔うために創建した寺。
この藩主さんってのが、お茶をやる人で、石洲流茶道の元祖として有名。
ということで、ここの拝観券には義務のようにお抹茶の接待付き。
(お茶イランって人もいるだろうけど)

書院にひかれた赤い毛氈に座っていると、お菓子とお茶が運ばれてきます。
おお、無作法ものゆえ判らんのだが。
お菓子を食べてから、お茶を飲めばいいのだよな?
最後はずずずって音をたてるんだっけ?(チガウ?)
まあお菓子とお茶は美味しくいただきましたけど。

ここからは大和平野の借景が望めて…というウリですが。
現在となっては、近所のスーパーの看板やら、ビル、マンションが邪魔です。

しかし、実はこの眺めが一番という触れ込みだったのですが。
奥のお茶室を眺めていたら、
話しかけたくてたまらん風情の和尚が近づいてきてお茶室講座開始。

わたしはお茶のことはからっきし判らんのだけど。
このお茶室、フツーのお茶室とは異なる造りをしているんだとか。

お茶室における上座、下座ってのが厳密に行われるお茶の世界において、
ここのお茶室は「亭主も、お客も、上も下もない。みんな平等」ということを表しているのだそうで。
そして、このお茶室には秘事(ひじ・ひめたること)が十いくつだっけ?含まれているとのこと。
この秘事がなかなか判らず、年をとってリタイヤされたような方々がまたお茶をやり始めて、
解明したいとお稽古に通われているんだって。

たとえば、お茶室の軒。
丸いものと、四角いものが、一つおきに配置されている。
四角ばかりじゃつまらん、たまには丸いのもなくてはならん。
というよな仕掛けがこのお茶室にはいくつも隠されているんだとか。

あと、大和平野の借景がウリとガイドブックには書かれているものの、
実はこの庭を望む一番よい場所というのは、このお茶室の
正客(お客の中の一番エライ人)の席から見た景色が一番よい景色なんだとか。
へー、何度かここへ来ているけど、この方向から庭を眺めることはなかったかも。
と、しみじみと後ろを振り返って、狭い茶室から、広い庭を眺めると…ほー。
そうなのか。

お茶室から渡り廊下でつながっている方丈(本殿)へと足を向けると…。
本尊さまの前の廊下に、なにやら生きボトケさまがおられた。
右足を膝立てて、左足の裏を見せて、足裏をあわせ
かったるそうに頬杖ついて「だるー」ってしている。
そう、そのお姿はまさに『如意輪観音』さま!
思わず独楽さんのそのお姿に両手を合わせちゃったさ(笑)

その後も、本尊様の前でごろんと横になり、
お釈迦様の手のひらの上で転がされて身をゆだねているような行動にも
「ここってそういうのアリな空間だよね」と再認識させられました。

和尚も「あちこち腰掛けてみなさい」とのことだったので、
あちこち移動しながら、いろんな場所で座り込んでみましたわ。

最後のところを車移動して時間的余裕が出たのが功を奏して、
最後の見学地である慈光院では本当にゆっくり、ゆったりできました。
ガシガシ歩いてきて、最後はのんびり。
いい感じのペース配分でしたね(とかゆう)

その後は、もちろん(?)飲み会になだれ込みです。
全ての行程を完走したので(走ってないけど)お祝い&お祝い♪
場所は「いかるがの里」で。

呑み助さんのねーさんが三人いたので、その飲みっぷりと
酔っ払いっぷりを見学しつつ、美味しいお料理を堪能しました。
わたしは一杯だけサワーを飲んであとは
烏龍茶とコーラっていうおこちゃまドリンクでしたが、
あのテンションにはもう一杯くらいアルコールを飲んでおくべきだったか(笑)

行動幹事はわたしだが、飲み会仕切りは独楽さんと相場が決まっているので(そうなの)
新幹線の時間を気にしつつ、会計のアルコールあり、少しあり、ノンアルコールの差をつけつつの
会計采配をこなして颯爽と帰ってゆかれました。

酒飲んだ帰りは歩くのがダルいとばかりに、yumekoさんの車にお邪魔しつつ、
駅まで送っていただきましてありがとうございました。
足元の悪い中うろうろしまくった連中ばかりで、
せっかくのキレイな車中を泥だらけにしてしまってどーもすみませんでした(拝)

駅で解散したのちは、この汗まみれの格好を脱ぎ捨てるために銭湯へ
ひとっ風呂浴びて、近鉄車内で涼んで、帰りました。

この日は暑かったっすね。
また涼しくなったら、どこどこ歩きましょう。
(って、次の日はもっと暑くなったわけだから、あの日でよかったわけだが)

ご参加いただいた皆様ご苦労さまでした。
また、集う日まで~。
コメント (6)
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