奈良大好き☆お勉強日記

奈良大学文学部文化財歴史学科(通信教育部)卒&奈良まほろばソムリエ検定のソムリエを取得したヒトの色々な勉強の日記です♪

真夏のみゅーじあむツアー

2012年08月04日 | 色々・モシクハお勉強
午前のキョーハク、午後の奈良。
後半戦はナラハクです。(誰と戦っている?)

今期は、
「特別展 頼朝と重源 ―東大寺再興を支えた鎌倉と奈良の絆―」
折しもNHK大河ドラマでは「平清盛」ですからねー。
こりゃ、お客を呼ぶ戦法でしょうか。

”重源と頼朝”、じゃなくて、”頼朝と重源”にしたのは
、頼朝の方が
ビッグネームだから?

調べてみたら本日は、公開講座があるとのことなので、
それに間にあったら聞きたいな~と思ったら、
なんとか開始5分前に滑り込みセーフ。
本日のお題は「源頼朝と奈良・京都―政治と宗教―」
講師は立命館大学特任教授 杉橋隆夫先生

「今期のNHK大河ドラマは最初の1・2回は見ましたが、
あとは見てないので…」というお決まりの発言。
確かに研究者の先生はあんなの見てられないですよね。
ま、私は完全娯楽としてみてるからいいんだけど。

さて、本題へ。
平治の乱のあと、捕えられた頼朝は、清盛の継母・池禅尼の助命嘆願により、
流罪となり、伊豆へ流されます。
ここで頼朝の命を絶っておけば、歴史は変わったのかもしれませんが、
そんなのは後の祭り。

一説には頼朝の顔が、池禅尼の実子・平家盛に似ていたからなんていう、
「それ理由になるの?」って理由で助命嘆願したというのだけど。
武家の棟梁の母たる人物がそんなことで、相手方の大将の息子の命乞いを
自分ちの棟梁に願い出るか?しかも、清盛自身もそれを聞き入れるか?
というのは、大河ドラマを見ていた時に、わたしも感じた疑問。

しかし、そこには難しい人間関係があったということです。
池禅尼の弟のムスメ(つまり、姪)に”牧の方”なる女がいて、
それが嫁いだのが北条時政。
北条時政のムスメってのが、かの北条政子。源頼朝の妻ですよ。
ということで、頼朝は、池禅尼の姪のムスメ婿にあたるんだそうな。
(牧の方は後妻なので、政子の生みの母ではないそうなんだけど、
北条家の人間になったことは間違いないので、
そこから頼朝とのご縁をたどることもできるという複雑さ)

あと、頼朝を捕えた侍というのが宗子(池禅尼)が抱えていた侍であり、
その配下の者が捕えたものの処分は、そのものの親方(つまり宗子)が
自由に采配できるとのこと。なので宗子自身が頼朝の処分をすることも
できるのだが、そこは何事も武家のならい。
平治の乱は国家の大乱。その大乱を征した勝者の長、清盛に処分を
ゆだねる必要がある。とのことで宗子は自分の息子に「助けてやっては
くれまいか?」といったそうな。

あと、殺してしまえばそれまでだけど、自分の姪のムスメ婿というのは、
結局「友達の友達はみな友達だ」じゃないけれど、自分の関係者。
しかも、財産(人材)保全の意味があり、生かしておけばそれなりに
後で利用価値もあるってもの(そこまでおっしゃったかどうかなあ)。
ということで、池禅尼は頼朝を助けたんだというお話でした。

後、鶴岡八幡宮の扁額の写真が映ったのですが、元々は”八幡宮寺”という
表示だったものが、神仏分離により、”寺”の字が削られたとのこと。
この”八”の文字は、よく見ると目玉がついており、シラスとか、
蛇(?ミミズ?)とかにも見えるんだけど、これ実は「ハト」なんだとか。
鶴岡八幡宮はハトがお使いで、それゆえ「鳩サブレなのかっ!」
と膝を打った話。(そこに注目するのかよ)

とまあ、私の感動ポイントは他のひととは違うので、
全然講義のレポートにはなっていないのですが、
こんな感じでお話は進み(そうなのか?)
源頼朝ここにありを示すかのように、「大檀越(だいだんおつ)」となり、
東大寺再建を支えてくれましたとさ、というお話でした。(はしょりすぎ)

お話を聞いた後は、実際に展示室へ。
お話・先&見学・後組のみなさんが多かったけど、
展示室もほどほどな混み具合で、ゆっくり堪能できました。

重源の源は、源頼朝から来たのかと思ったけど、全然関係ないみたい。
重源は紀氏の出身で、紀季重の子。(←重の字は父からか?)
真言宗の醍醐寺で出家し、浄土宗の法然に学び、四国や熊野ではあきたらず
中国(南宋)にも三度留学したという行動派。

焼失した東大寺の再建を任されたのがヨワイ61才ってんだから、
ふつうその年のひとは隠居です。

治承4年(1180)に東大寺が焼失して、
養和元年(1181)には被害状況の視察に来た後白河法皇の使者である
藤原行隆(ふじわらゆきたか)に「東大寺は再建した方がいいでっせ」と進言。
そのこともあって重源は「大勧進」を任されます。

再建に使われる切り出した木には、「東大寺の木だよん」という証に、
鉄槌が押されるんだけど、その鉄槌印ってのが
山口県の阿弥陀寺から出品されていました。
山口といえば、昔の国名は「周防」。

奈良検定でも出ましたねえ。
>重源による東大寺復興の際、用材調達のため周防国に続いて
>造営料国とされたのはどれか。(答え:備前国)

備前の国はおろか、周防国が造営料国とされた過去があったなんて知らないから、
この問題撃沈でしたけど。(ダメじゃん)

山口県の阿弥陀寺は重源が創建と伝わる寺。
東大寺の周防別所として建てられたことから、宗派は華厳宗(をぉ)。
周防国が東大寺再建のための造営料国となったことで、
寺内には木材切り出しに従事する人夫たちのために、重源が設けたとされる
石風呂が文化財として残っている。
後年造った石風呂は薪代を支払えば、月に一回お風呂に入る会(笑)で
入ることが可能なんだそうな。いいなー。法華寺の唐風呂も覗いてみたいと
思っていたけど、あっちはサウナ(蒸し風呂)だから、湯船があるほうがいいや。

あと、展示室入ってすぐのパネルの背景になっていたのが、
まがき菊螺鈿蒔絵硯箱の模様。
鳥と花と木の柵(?)が輝く螺鈿つくりになった硯箱で、ものすごくきれいでした。

後白河法皇坐像は今回、いつもおわしまするところから初めてのお出ましなんだそうで。
そんなこととはつゆ知らず、「うあー、あのマフラー暑くないのかなあ」
「エライ糊のきいた服だなあ」とかって云って居りました。
(よくエライ坊さんが、法衣の首元に白い首巻きしてるじゃないですか?
あれですよ、アレ。時節柄、暑苦しそうに見えたもんだから)

7月5日と12月16日にしか会えない「重源上人坐像」も
時期外れにもかかわらずおでましだし、
これぞ頼朝肖像画!ていう神護寺の頼朝像も来てますので、
頑張った人たち全員集合です。(アトラクションじゃないっちゅうの)

後は、金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅
(こんこうみょうさいしょうおうきょうきんじほうとうまんだら>長い)
これは以前にも見たことあるんだけど、何せ凄い。
ぱっと見、塔が金字で書いてあるように「だけ」見えるんだけど、
近寄ってみると…その塔の「線」と思っていたものがすべてお経!!
相輪の先から台座までがすべて金光明最勝王経の文言で描かれているのだ。

でも、はて?
このお経はどこからスタートしているんだろう?
てっぺんから?それとも、台座から?
(教えて!かしこい人!!)

ってなことで隅から隅まで楽しんで、
西本館と東本館のみで2時間半以上滞在したので、
本日も本館への訪問はなしでした。

やっぱ、夏は博物館に限るね♪
外へ出たら日中の日差しも、もわんとした外気もやや控えめになっており、
一番暑い時期は快適空間にご滞在~。

ってことで、午前&午後とも、一日中博物館。
堪能しました。

夏の奈良は博物館がおススメ!(笑)
コメント
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