「基本指圧」に憧れて ― 村岡曜子のブログ

我が国固有の指圧を広く浸透させ、社会の保健と福祉の増進に寄与したい。

世界に誇る芸術、「浮世絵展」に選りすぐりの160点

2008年11月28日 | 私の趣味
  11月24日(祝)、江戸東京博物館で開催されている「ボストン美術館 浮世絵名品展」へ出かけました。ただでさえ多忙な毎日、この秋はそれに輪をかけて色々な予定が山積し、プライベートの時間が思うように取れません。早く見に行きたくてウズウズしていた浮世絵展でしたが、この日、ようやく行くことができました。 
  あいにくの曇り空、午後には雨になるとの予報です。昼までにはなんとか両国に着きたいと、急いで所用をこなし、博物館に向かいました。 振替休日とあって、館内はかなり混んでいました。入館すると、いきなり鳥居春倍の「立美人」 3点の迫力に度胆を抜かれました。小さな和紙にダイナミックな線で、存在感溢れるみごとな美女が描かれています。  

  アメリカのボストン美術館は、日本を除けば日本美術品の所有が世界一といわれ、約 5万点を所蔵しているそうです。今回は、その中から選りすぐりの約160点の、浮世絵版画と肉筆画が日本にお里帰りです。 
  同美術館はこれらの作品を色褪(あ)せなどから守るため、一般公開せず大事に今日まで保管してきたといいます。初めて公開される作品も多く、版画とは思えないほどの線の細やかさと、色彩の鮮やかさ、保存状態のよさは予想以上で、大変驚かされました。  

  当時の大都会・江戸の様子が絵のなかから伺われ、気が付いたらすっかり江戸の町にタイムスリップした気分になっていました。ドラえもんの「どこでもドア」があれば、お洒落で粋で遊び心満点な、こんな素敵な江戸の町に暮らしてみたいなぁ、などと本気で思ってしまいました。  
  9月に行ったオランダのクレラー・ミュラー美術館で、ゴッホが広重を真似て、しかもあの独特な点描で描いた浮世絵を見ました。それは彼が江戸の浮世絵の素晴らしさに憧れた様子が、改めて理解できる作品でした。 
  当時のヨーロッパ印象派の画家達に、大きな影響を与えた日本独自の浮世絵版画の質の高さがよくよく分かります。 
  今回の作品を目にして、これほど日本人に生まれてよかったと感じたことはありません。江戸の町に遊んでみたかったものだ、と本気で思っています。何と素晴らしい江戸の文化でしょう! 日本人として心底世界に誇れる芸術に、江戸東京博物館で出会えたのです。 
  言葉にできない素晴らしさとはこのことだと、つくづく感じた今回の展覧会でした。

  11月30日までの開催です。時間がある方はぜひ足を運ばれますよう、心からお奨めいたします。やはり実物を見なければ、本当の素晴らしさは分かりません。  
  もし鑑賞されるなら、ぜひ天眼鏡を持参されることをお奨めします。絵の中に隠された遊びは、裸眼で見つけるのは不可能です。館内は絵の褪色(たいしょく)を防ぐためでしょうか、かなり暗いので、絵の細かい部分はもちろん解説の文字も読みにくいのです。 
  この日、天眼鏡を持っているのは私1人だけでした。多くの方が、感動の世界に触れることができますように! 今、祈るような気持ちです。
 

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脊椎側湾症が徐々に好転、指圧効果に寄せる期待

2008年11月24日 | 素晴らしい指圧効果
  10月20日に投稿した記事「脊椎側湾症の治療」の中に、自覚症状の記載がありませんでした。何人かの方から「どんな自覚症状があるものなのか?」との質問を受けましたので、さっそく本人に確認してみました。話をまとめると、以下のようです。 
     ―――――――――――――――――――――――  
  生まれてからずっとこの状態なので、何が普通で何が異常なのかは、実はよく分からない。 ただ外食は好まず、いつでもご飯は家で食べたいと思っている。 
  他人の中に入り、大勢の人に囲まれるのがたいへん苦手である。電車に乗っても気分が悪くなることが間々ある。どうやら乗り物酔いとは少し違うように思える。 
  誰かと何処かへ行く約束をしても、体調によってその日に確実に出かけられるとは限らないので、約束はなるべくしない。約束をたがえることがつらいから。「行かなくちゃ!」と思っているだけで気持が悪くなったり、目まいがしたりして出かけられなくなることがよくある。 
  絶対に出かけなくてはならないときは、その日までソーッと何もやらないで大事に過ごし、身体に無理をかけないように気遣って、どうにか出かけられるようにしている。 
  どうしてもやらなければならない仕事だけは、頑張って緊張感を維持し、やり遂げるのですが、後の疲労はかなりなものになってしまい、その他のことはやらずに放り出すしかなくなる。 
  外から見ると、単にワガママのように思われることもありますが、身体がいうことを聞いてくれない。 
     ―――――――――――――――――――――――  
  聞き取った症状(といえるかどうか分かりませんが)は、およそ以上でした。  
  若いときは、後先きなど考えずに無理がきくのでガムシャラに突っ走ったりするものですが、そんなことは彼女にはできません。いつも無意識の内に身体の都合に左右されてしまいます。それが人から見るとワガママだと言われても、どうにもできない、仕方のないことです。  

  脊椎の中には、身体中の機能と結び付く全神経が通っています。その通り道である脊椎が大きく湾曲し、捻れていますから、ほんの些細なこと(気持の動きも含めて)でも身体機能に影響して、体調に変化を与えてしまうのです。 
  私達から見ると、身体が弱くてさぞ大変だろうと思ってしまいますが、若い彼女は見た目の方が気になるようです。 兄のAさんの指圧にプラスして、私の前頸部の治療を始めたのが10月1日でした。同19日には基本指圧研究会の池袋練習会に参加し、メンバーに側湾の様子を見せてくれました。そのときも著しい変化をしていたので、治らない内に勉強のため皆さんにみてもらおうと積極的に参加したのでした。  

  10月中に前頸部は10回圧しました。ずいぶん身長も伸びたように見えます。10月30日に撮った全身の写真です。まだ上半身と下半身が真っ直ぐになってはいませんが、顔色も表情もよくなり以前とはかなり違った印象を与えています。 
  彼女の好転変化に、家族は基本指圧にめぐり会えた喜びを感じています。今後の変化はまたお伝えします。ご期待下さい。

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超ド級のジンベイザメ、“立ち泳ぎ餌付け” の大迫力

2008年11月23日 | 分類なし
  11月7~8日の2日間、西表島に滞在し指圧を通して島の方々との親交を深め、再会を誓って翌9日朝一番の連絡船で石垣島へ渡りました。 
  西表での模様は「奥の近道」ブログ(基本指圧研究会のブログ)に投稿しましたが、このあとは個人的な事柄なので、私のブログに載せることにしました。  

  石垣空港から那覇までANAを利用して1時間。さっそく予約しておいたレンタカーで目指したのは、海洋博公園にある「美(ちゅ)ら海水族館」です。日曜日でしたが高速道路は順調、途中トライアスロン・レースの交通規制にあいましたが、那覇から約2時間半で目的地に到着。簡単に昼食を済ませて、いざ! ジンベイザメのいる美ら海水族館へ。  

  入ってすぐのところには、直(じか)に手で触れることができる熱帯魚や、ヒトデ、ナマコ等の浅い水槽があり、子供達が群がって歓声をあげていました。 
  子供が喜ぶのを見ることは楽しいので、その群れの中に混じって、ひととき遊びました。ふだんは触れないほど大嫌いなナマコにも、わずかに触ることができました。開放的な気分のおかげだと思います。  

  順路に従って進むと、展示されている水槽の中の熱帯魚の数と種類の多さには驚きました。さすが南国の水族館ならではだとすっかり感心してしまいました。 
  しばらく進むと、いきなり大きな水槽が目の前に現れました。ジンベイザメの姿があります! 感動です! いちど見たいと思っていたジンベイが、目の前をゆったりと泳いでいるのです。 

  美ら海水族館には、6頭のジンベイザメがいると思っていたのですが、目の前に悠然と姿を見せているのは3頭です。“人工飼育最長記録”保持の8メートルのジンベイザメと、6メートル級が2頭です。 
  Lサイズのマンタも2頭、優雅な泳ぎを披露してくれています。本当はかなり大きいマンタのはずですが、傍(そば)にジンベイザメが泳いでいるので、想像していたほどには大きく見えません。8メートルのジンベイザメは、これからまだまだ大きくなるそうです。10メートルを超えるのも珍しくないといいます。 
  運よく、ほどなく餌付けが始まりました。自然の海で、漁師が巨大なジンベイザメが立ち泳ぎで餌を食べている姿を目撃することがあるそうで、その勇壮な姿に大変感動をするそうです。この水族館の餌付けでは、見事にその立ち泳ぎを再現して見せてくれるのです。大水槽の中央に、8メートルのジンベイザメが立ち泳ぎで餌を食べています。その迫力は圧巻です。左右に6メートル級のジンベイザメが、大きな口をこちらに向けて開け、餌を食べる姿も大変な迫力です。
  あちこちで歓声があがっていました。それにしてもすごい数の見物人に驚きました。韓国語や中国語もかなり飛び交っています。駐車場の観光バスの数も半端ではありません。すごい集客力に感心してしまいました。 
 
  この海洋博公園自体がとても立派な公園です。よく整備され、海の眺めも素晴らしい、1日ゆっくりしたくなるような空間でした。楽しみにしていたジンベイザメ観賞を十分堪能し、一路那覇空港へ。途中サービスエリアで一休みしただけでしたが、レンタカーを返しに営業所に着いた時は、もう日が暮れていました。20時発の飛行機搭乗までの間、ゆっくり食事をして買い物を楽しみ、帰宅したのは夜中を過ぎていました。――ジンベイザメに会えて感激でした――♪
(写真は竹富島の民家と、海洋博公園から海を望む)



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もうやめよう「謝罪外交」、早く自虐史観から脱却を

2008年11月12日 | 分類なし
  田母神俊雄・前航空幕僚長が11日、参院外交防衛委員会に参考人招致されました。当初思っていたより事態が拡大してきたようですので、この件についても、ひとことだけ述べさせていただきます。  

  これは通常の参考人招致と異なり、委員から質問されたときだけ答える形で行われ、テレビ中継もされませんでした。 
  質問に答弁するだけ、というのは「田母神氏の持論を披露する場になることを与野党が警戒したためだ」(毎日新聞朝刊 2008.11.11)ということです。 
  世間の関心を集めている事件にかかわらずテレビ中継がないということは、田母神氏が持論を述べると、視聴者にどちらの言い分が正しいか分かってしまうことを恐れた、と私は考えています。  

  我が国政府は近隣諸国(ことに韓国と中国)のごり押しに対し、あまりにも腰が引けてしまっています。いい加減に主張すべきことはきちんとしなければ、世界の見る目はたとえ正義でなくとも多くの発信をする方(韓国、中国)に傾いて行くのです。早急(さっきゅう)に旗幟(きし)を鮮明にしなければいけない、重大なことが山積(さんせき)している現況を、いったいどう対処するつもりでしょうか。  

  なかでも、すぐにも手をつけなければいけないことは領土問題です。島根県の竹島は日本固有の領土ですが、いまや韓国の領土になったかのようです。韓国では竹島を「独島(韓国読み=ドクト)」と呼び、小学校から「韓国固有の領土」と教育して教え込んでいるのです。 
  今では固有の領土として郵便切手を発行し、島へ“へリポート”を作って軍隊を常駐し、観光船まで就航させています。  
 
  竹島が日本の領土であることは火を見るより明らかですが、韓国国民でも心ある人は正しい考えを持ち、発表しているのです。私が自論を述べるより、まず金完燮(キム・ワンソプ)氏の著述の1節を引用してみましょう。
 
 「独島については、日本がこれを竹島という名前で島根県に属する固有の領土と主張しているのに、現在は韓国の実効的な占領状態に置かれていて、(中略)韓国政府は日本がアメリカ占領下で主権がなかったときに、独島を無断占拠していまだに自国の領土だといっているが、これは隣国が無力だったときに盗みを働くのと同じ行為である」(「親日派のための弁明」草思社)  

  呉善花(オ・ソンファ)氏(近年、韓国から日本に帰化。拓殖大学教授)の次の言葉もよく考えてみるべきでしょう。
 「(前略)韓国人は一般に、相手が謝れば謝るほど相手を見下げるんです。ですから、謝れといっているのは見下げたいから、我々(韓国人のこと=筆者注)が見下げるに相応しい態度をとれということなんです。 
  私の考えでは、日本なりの観点からともかく謝りたいなら(謝る必要は感じないが、どうしても謝りたいならとの意=筆者)、一度だけきっぱりと謝ればそれでいいんです。何度も何度もそれを繰り返すから、どんどん見下げることになってしまう(後略)」(「売国奴」ビジネス社)  

  中国が領有権を主張している、尖閣諸島の問題もあります。ロシア相手の北方領土も然りです。日本政府はどうしてこれらの重要問題を放置するのでしょう。私見ですが、この問題に取り組めば、“うまくいって当たり前、失敗すると議員生命に響く”と恐れているからではないでしょうか。  

  日本は海洋国なのです。こういう島嶼(とうしょ)を大切にしなければ領海を削られるわけですし、排他的経済水域(EEZ)をどんどん狭めていくのです。決してわずかな小さい島の問題、ということではありません。 
  日本の国土は約38万km²で世界第60位ですが、水域面積は広大で、領海とEEZ面積を併せると447万km²となり世界第6位だそうです。しかもEEZとは、国連海洋法条約に基づいて経済的な主権がおよぶ水域で、漁業資源や鉱物資源などのに関する権利を得ることができるのです。  

  今回の田母神論文問題を国民の目から隠すのではなく、むしろチャンスとして国民がこの問題を真剣に考える、そして戦後亡霊のように付きまとってきた、自虐史観からの脱却を本気で考えるべきでしょう。
 
  明治維新以来、黄色人種として白人社会から差別されながら、列強と伍して先進国の仲間入りを果たしてきた日本です。今の政府の意識では、命を削って戦ってきた先人に申し訳ないではないでしょうか。

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空幕長論文を検証。正論が罰せられる国ではいけない(下)

2008年11月10日 | 分類なし
(前回のつづき)
■論文
⑤「今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある」

◆私の考え 
  アジアの国で、「耐えがたい苦しみを与えられた」などと言っているのは中国と南北コリアだけです。しかも、これらは「ためにする」発言なのです。 
  例えば韓国と同様の立場におかれ、後には韓国より不利に扱われたのが台湾ですが、台湾では日本に対する感謝の声の方がはるかに多いのが事実です。私は台湾へ行って街に出たとき、韓国のときほどの排日的な雰囲気は感じませんでした。
  夫が話していました。以前彼が勤めていた会社の経営者が言っていたそうです。兵学校当時の同窓会に、台湾人の元帝国陸軍将校が出席するそうですが、「もうちちょっと日本が頑張ってくれたらよかったのに」とよく口にするというのです。それだけ日本の統治を喜んでいたということです。  

  例えばイギリスのインド統治と、日本の韓国統治を簡単に比べてみましょう。  

  日本は韓国に無数の小・中・高等学校を作り、ほとんど字を読めなかった国民の、識字率を大幅に上げました。大学も設置しました、国立大学ですよ。当時の京城帝国大学(現在のソウル大学)などがそうです。 
  イギリスがインドに作った学校は、インド統治の役人、綿花会社の幹部の子弟のための学校だけ。現地の人達のための学校は1校も作りませんでした。  
  日本は韓国に長大な鉄道を敷きました。現在も利用しているのがかなりあるということです。 
  イギリスが敷設した鉄道は、インドで栽培させた綿花を港まで運ぶ鉄道だけです。

  そのほか日本は韓国に発電所を作り、農業施策に力を入れるなど、国力の向上に真剣に取り組んできました。韓国政府はそれらを一切発表せず、ただ憎しみだけを煽る。日本の力で清国から独立させてもらいながら、ロシアが強いのではないかと見ると、アジアの安定も考えずロシアに擦り寄る、この節操のなさが思い出されます。 
  いずれにしても、「多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価している」ことを認識する必要があるのです。

■論文
⑥「日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多い(中略)日本軍の軍紀が他国に比較して如何(いか)に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのはまさに濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)である。(後略)」

◆私の考え 
  ここでは私の考えと言うより、渡部昇一・上智大学名誉教授の著書の中から抜粋させていただきたい。義和団事件の顛末(てんまつ)です。

 「清朝の政府は、北清事変によって、またもや大型の生麦事件みたいなものを起こしたのである。各国公使館にいた人々は、本当に生命の危険に曝(さら)されていた。北京周辺の直隷地方(河北省)に集まった清国正規兵と義和団は、10万に達すると思われていた」

 「各国とも本国が遠く離れていて救援軍は間に合わない。各国はその救援を日本に求めたのである。(略)ヨーロッパやアメリカが、日本の救援をほんとうに必要として、それを望んでいるのだということを明確にしてもらった後に、ようやく日本は1個師団2万1000の兵を直隷地方に派遣した」

 「真夏の猛暑の候、きわめて苛酷な条件の下で、日本軍は北京に向かって進撃し、その後の作戦行動においても見事な役割を果たした。(略)そこで、日本軍の行動は高い軍事的名声を確立することになったのである。(略)ひとたび軍を出すや、その軍律は厳正にして、つねに連合軍の先頭に立って力戦敢闘し、列国を感嘆せしめた。しかも、戦争が終わると、さっさと引き揚げ、外交交渉にも妥協的だった」  

  戦地では、ロシア軍などは見境なく略奪や強姦をしたといいます。しかし日本軍の軍紀は厳正にして勇猛果敢。その働きに強い感銘を受けたイギリスは、義和団事件講和の翌年、日本と対等の「日英同盟」を結ぶに至りました。「栄光ある孤高」と言われたイギリスが、いまだ白人社会に認知されていなかった、黄色人種国家の日本と対等の条件でで同盟を結んだ。これは世界の驚きであり、その直接原因が北清事変における日本帝国陸軍の軍律と勇敢さであったのです。 
  この一事が、⑥に対する私の思いです。

★『村山談話』とは何か★  
  今ひとつ、「侵略と植民地支配を謝罪した『村山談話』をはじめとする政府見解に逸脱する」ということについて一考します。

 「村山談話」とは、1995年8月15日に「村山富市首相(当時)が発表した談話。「(略)植民地支配と侵略によってアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた。痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明する」というもの。首相談話は閣議決定事項であるため、その後の内閣も拘束するというものです。  

  このときの自民党総裁は河野洋平。野に下っていた自民党は何とか政権を回復しようと、自社さ(自民党、社会党、新党さきがけ)連立政権を組んだときでした。こんな中で村山首相は謝罪談話を発表しただけではなく、謝罪外交に取り組んだのです。 
  社会主義イデオロギーにかぶれた人を首相に担ぐと、どのようなことになるか分かるはずではないですか。しかも自民党の総裁が、河野洋平という中国に洗脳されたような人物です。  

  そもそも世界の国は、自国に芥子(けし)粒ほどの言い分でもあるならそれを大声で主張し、死んでも謝罪などはしません。日本の北方領土を力で奪って、返そうともしないロシア。アメリカ大陸を侵略して、ネイティブ・アメリカン(アメリカ・インディアン)を駆逐、ついに自国にしてしまったアメリカなどを見ると分かります。 
  しかし村山内閣は、言われもしないのに謝って回ったのです。河野洋平が出した慰安婦談話などとともに、今後長らく日本の手かせ首かせになることでしょう。  

  談話はあくまでも(当時の)政府の歴史見解です。史実を検証したものではなく、村山氏の個人意見に過ぎません。総理大臣といえども、一国の歴史を改ざんして発言することなど、許されるはずはないのです。本当ならこれを機会に、村山談話を取り消す閣議決定をしなければならなかったのです。  

  今政府がやるべきことは、歴史についての自由闊達な論議を行い、村山談話を見直すことではないでしょうか。もういい加減に、自虐史観に浸るのはやめましょう。改めて言います、正論を述べて罰せられるような世の中であって絶対にいけないのです。(終わり)

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空幕長論文を検証。正論が罰せられる国ではいけない(中)

2008年11月06日 | 分類なし

 (前回のつづき)
■論文
②「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。(中略)もし日本が侵略国家であったと言うのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい」

◆私の考え
  「蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた」という表現は、どの時を指しているのでしょう。ある程度の長い期間を見たらそのとおりです。しかし直接の「引き金」になったという意味なら、「蒋介石」ではなく、「毛沢東」と言うべきでしょう。  

  昭和12年7月7日、盧溝橋の近くにいた日本軍が、夜間演習をしていたところ、突然、国民政府軍(支那軍)の方角から数発の実弾が飛んできました。日本軍はすぐに臨戦態勢に入ったのですが、日支両国の不拡大方針でいったんは停戦が成立。しかしその後8年にわたる戦争(太平洋戦争=大東亜戦争)に発展したのです。 
  この発砲は、いまでは中国共産党軍(現在の中国。当時、毛沢東が率いていた)が日本軍と国民政府軍(蒋介石)を戦わすために発砲したことが、ほぼ定説になっています。  

  東京裁判でも、連合国は支那事変に関連して日本を裁こうとしましたが、日本は仕掛けられたほうだと分かって、途中から追求をやめたという経緯があります。 
  ついでに言いますと、支那事変を日中戦争という学者等も多いのですが(この論文もそうです)、宣戦布告がなかったことと、紛争地域の呼称を取って支那事変あるいは支那動乱というのが正しいでしょう。(当初、北支事変と呼ばれていました)  

  大航海時代と呼ばれる15世紀中ごろから17世紀前半にかけて、ヨーロッパ列強によるアフリカ、インド、アジア、アメリカなどへの侵略、植民地化が爆発的に進みました。例えばアジアで侵略されなかった国家は、日本とタイだけという状況だったのです。 
  15世紀、北アメリカ地域には2000万人のインディアンが平穏に暮らしていたというのですが、白人に撲滅され、現在生き残っているのはせいぜい50万人だといいます。 
  イギリスの苛酷なインド統治、アフリカやアジアにおけるヨーロッパ諸国の植民地化と搾取、虐殺。多くの黒人が奴隷として新大陸に連れてこられました。この事実を見ると、台湾・朝鮮に対する日本の統治は極めて紳士的であったと思います。韓国の金完燮(キム・ワンソプ)氏(作家)も、韓国での弾圧覚悟で著書(親日派のための弁明 草思社)に、日本の正しさを認(したため)めているほどです。  

  ことにイギリスなどは「7つの海を支配する国」「日の没することのない国」と言われたほど、全世界に植民地を持っていました。また、イギリス王室の先祖は海賊だと言われていますが、それを恥ずかしげもなく宣伝しているのです。 
  略奪がいちばん簡単でいちばん豊かな生活を約束する、と世界中を荒らしまわった国です。大英博物館には世界中から奪った多くの宝物が展示されており、何カ国かが返却を迫っていますが、まったく返す意思を示さないそうです。 
  田母神氏の「当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい」との表現には誰も反論できないでしょう。まして帝国主義はなやかなりし頃は、植民地を持つことに誰も批判はしなかったのです。

■論文
③「さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し(中略)日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠(わな)であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた」

◆私の考え 
  日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し取り返しの付かない過ちを犯した、という考えは大変な間違いです。 
  日本が真珠湾を攻撃する直接の引き金になった、ABCD(プラス2カ国)包囲陣とハル・ノートの最後通牒を知らない人はいないでしょう。しかしそのはるか以前、明治時代からアメリカは「オレンジ計画」と名づけて、日本殲滅を目論んでいたことをご存知でしょうか? その最終仕上げがABCD包囲陣であり、ハル・ノートだったのです。
  ですから、もし真珠湾攻撃を行わなかったとしても、アメリカは必ず日本を攻撃してきたのです。しかし、できることなら日本から攻撃を仕掛けた形にしたかった。そのほうがアメリカ議会、国民の同意を取り付けやすかったからです。そこで日本に無理難題を迫ってきた。  

  上智大学名誉教授の渡部昇一氏の言葉が、端的に語っています。
  「私が、アメリカの大学で教えていた時、クラスで真珠湾攻撃の話をしたことがあった。石油問題に触れて、『首を絞められて(チョーキングで)気絶しそうになったとき、その寸前に一撃(パンチング)を与えたのが真珠湾攻撃であった。チョーキングとパンチングは、どちらが悪いかと言ってもはじまらない』という趣旨のことを言った(後略)」  

  真珠湾攻撃も長い間、日本の奇襲攻撃が成功したように言われていましたが、最近明らかになった事実は、日本の攻撃を察知したアメリカは新鋭艦を湾外に出し、沈められてもいい何隻かの旧型艦船を残して日本の攻撃を待った、というのです。
  まさにルーズベルトが日本に対する巧妙な罠を仕掛け、それにまんまと引きずり込まれた、というわけなのです。  

  戦前のアメリカは支那(蒋介石軍その他)を善玉、日本を悪玉として日本潰しを図ったが、さて日本軍がいなくなってしまうと支那全土はソ連と手を組んだ中国共産党の手に落ちてしまった。 
  トルーマン大統領と意見が合わずに解任されて帰国したマッカーサーは、上院で「太平洋戦争は日本の自衛戦争だった。東京裁判はやるべきではなかった」と述べている。 
  東京裁判においてパール判事が、連合国の日本に対するやり口を挙げて、
 「こんなことをされては、(弱小国である)モナコ公国でもルクセンブルク王国でも矛を取って立ち上がるだろう」
  と述べたのは有名な話ですが、この正論も東京裁判では封殺されてしまったのでした。

■論文
④「(中略)もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人権平等の世界が来るのがあと100年、200年遅れていたかもしれない」

◆私の考え 
  太平洋戦争(大東亜戦争)は決して日本が望んで戦ったものではなく、「引きずり込まれた」のが事実です。しかし突入した以上、自分たちが正義であることを全国民に理解させなければ、総力戦は展開できません。そこで明らかにされたのが、「大東亜共栄圏」建設構想です。 
  先ほども述べましたが、アジアでは日本とタイ以外はすべて白人の植民地でした。このアジアを白人の手から開放する、すなわち「人種差別の撤廃」が大事な理念になっていたのです。  

  当時は、ホモサピエンスに至る進化論的人種差別が浸透していました。わかりやすく言えば、進化が最も進んだ人類が白人で、その下に黄色人、褐色人、黒人と続き、さらにその下にオランウータン、チンパンジーなどの類人猿が続くという。類人猿からまだ十分発達していないのが黒人であり、その上が褐色人……という理屈です。学者も真剣にそう考え、研究していたというのです。 
  白人社会では有色人種と結婚するということは、猿と結婚するのと同じで、社会から締め出されるということでした。渡部昇一・上智大学名誉教授が著書に述べている一部分を引用してみます。

 「アメリカのベストセラー作家ハーマン・ウォークの小説『戦争と追憶』は、第2次大戦を扱った大河歴史小説である。この中に、実話をもとにしたと思われる、次のようなエピソードが出てくる。 
  開戦直前のイギリス領シンガポールを訪れたイギリス女性パメラが、シンガポール総督(もちろんイギリス人)の招待で、当地のタングリン・クラブでのパーティに行く。そのクラブの前まで送ってくれたのは、シンガポールでマレー放送局を経営するマクマーアンという紳士であった。 
  マクマーアン夫妻も、そのパーティに一緒に行くものだとパメラが思っていると、彼は『私たちはパーティに出ない』と意外なことを告げる。パメラがその理由を尋ねると、マクマーアンは『私は妻と結婚したときに、このクラブを辞めたのです』と答えたのである。彼の妻がイギリス人とビルマ人の混血であったからだ。 
  戦前の白人社会には、その妻が有色人種との混血であるという理由だけで、社交クラブから脱退しなければならないほどの人種差別が存在した」  

  当時の日本は、有色人種の国として唯一先進国の仲間入りをしていましたが、その日本人と結婚することさえ白人社会ではタブーであり、この小説のような事例は数多くあったといいます。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)とセツの逸話も思い出されます。  

  1919年、第1次世界大戦後のパリ講和会議に、牧野伸顕は日本の次席全権大使として出席。席上提案した「人種的差別撤廃提案」は期を画するものでしたが、この提案はあっさり否決されました。当時、国際連盟の5大国は日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアの5カ国。日本以外は白人国家だったのです。  

  太平洋戦争では、日本は東南アジアに進攻して列強の植民地を占拠しました。大空では零戦がイギリス、アメリカ、オランダの戦闘機を圧倒的な力で叩き落し、海では世界を支配したイギリスの艦隊も、日本の敵ではなかったのです。オランダやアメリカの艦隊も同じでした。  

  結果的には負けたとはいえ、日本の活躍を目にしたアジア諸国、耳にしたインド、アフリカなどの多くの国が、いっせいに独立の気運に溢れました。植民地が独立するのを抑えることはできなくなったのです。「絶対に勝てない」と思うから盲従していた白人に、日本人は互角以上の戦いをした。これが全世界の独立運動となったのです。(つづく)

 《 PS》  沖縄・西表で指圧のデモンストレーションを行うため、今日の夕方から出かけ、9日夜帰宅します。ついては、この問題に対するあと1回の投稿は、10日か11日になりますのでご了解ください。


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空幕長論文を検証。正論が罰せられる国ではいけない(上)

2008年11月05日 | 分類なし
  10月31日、テレビに臨時ニュースのテロップが流れ、翌11月1日の朝刊各紙には 「航空幕僚長を更迭」 「過去の戦争めぐる論文 政府見解を逸脱」 「政府見解に反する論文、『侵略はぬれぎぬ』」 など、1面の大見出しが目に入ってきました。  

  更迭が決まったのは田母神(たもがみ)俊雄・航空幕僚長。航空自衛隊のトップで空将です。田母神氏は、全国でホテル事業などを展開する「アパグループ」の「真の近現代史観」懸賞論文に『日本は侵略国家であったのか』と題して応募、最優秀賞(懸賞金300万円)を受賞しました。  

  浜田靖一・防衛相は31日夜に緊急記者会見をして、「政府見解と明らかに異なる意見で、極めて不適切。空幕長という職にとどまることは望ましくない」(東京新聞 2008.11.1)と述べて、更迭を表明したということです。 
  さらに11月4日の毎日新聞朝刊では、防衛省は航空幕僚長から航空幕僚監部付に更迭された田母神空将を、3日付で定年退職とする人事を発表した、と報道しました。  

  これら一連の記事を読んだとき、私は「正論を述べて罰せられるような世の中であってはいけない」と思うと同時に、「こんな大事なことを黙っていては、それを是認したことになってしまうのではないか」と感じたのです。そこで、たとえ世間への影響力はなくても、自分の唯一の“意見発表の場”でもあるこのブログで、思うところの1分でも述べさせて頂きたいと考えました。  

  そうは言っても、今改めて資料を繙(ひもと)く、というよりは探し出す時間がありませんので、多くは私の記憶だけを頼りに書くことになります。 
  したがって文脈も荒っぽくなるでしょうし、十分意を尽くした文章にならないのではないかと心に引っかかっていますが、その点はご容赦をお願いいたします。しかし言わんとすることは私の信念でもありますし、今後もし機会がありましたら、この問題に興味がある方とお話しすることに吝(やぶさか)ではありません。  

  はたして、田母神空幕長が応募した論文とはどんなものだったのでしょう。毎日新聞(2008.11.1)に「空幕長論文<要旨>」が掲載されていますが、要旨といってもかなり長文です。もう少し短くして、便宜上6つの段落に分けて引用、それぞれについて私の考えを述べてみます。(○数字も私が付したものです)

  今回「更迭」の原因は、次の2点に集約されるではないかと思われます。
●1つは「日本は侵略国家なのに、濡れ衣だと言った。侵略国家だと認めないのはけしからん」ということ。
●今1つは「侵略と植民地支配を謝罪した『村山談話』をはじめとする政府見解に逸脱する」ということではないでしょうか。

★田母神論文を検証★
  それでは田母神論文について、私が分けた段落に沿って述べてみます。

■論文
①「アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とはいわない。2国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない」

◆私の考え 
  まず日韓併合に至った経緯を述べてみます。 
  日清戦争(1894~1895)に勝利したことにより、日本は朝鮮(旧韓国=現在の南北朝鮮を併せた地域)の宗主国であった清国から、朝鮮の独立を取り付けました。朝鮮は独立して大韓帝国を名乗り、朝鮮国王は韓国皇帝と称したのです。 
  ところが日清講和条約の締結直後に、三国干渉が始まりました。ロシア、フランス、ドイツが、清国から得た日本の領土を返還させようとしたのです。当時の日本はその圧力を撥ね退けるだけの力はなく、やむなく返還に応じたのですが、そのあと、日本が返還した土地をロシアが奪い、フランス、ドイツは清国の他の領土を剥ぎ取って植民地にしました。  

  日清戦争に勝ったはずの日本が、ロシアなどの言うがままになるのを見て、韓国は日本に独立させてもらった恩恵を忘れ、ロシアに擦り寄りました。まさに「事大(じだい)主義・韓国」の面目躍如です。事大主義とは自主性を欠き、勢力の強大なものにつき従って自分の存立を維持する卑怯なやり方です。 
  この韓国の事大主義は、何も私だけが言っているのではありません。韓国の第5~9代大統領に就任した朴正煕(パク・チョンヒ)自身が発言しているのですから、何よりも説得力があるというものです。次に引用してみます。
 
 「わが5千年の歴史は(中略)多くの場合、敵と内通したり浮動したりする連中が見受けられたのであった。自らを弱者とみなし、他を強大視する卑怯で事大的な思想、この宿弊、この悪い遺産を拒否し抜本せずには自主や発展は期待することはできないであろう」(「我々は今何をなすべきか」朴正煕選集②)(下線は私が引きました)
 
  やがて日本は日露戦争に引き込まれます。これは朝鮮半島へ南下してきたロシアを排除する戦いであり、わが国と韓国の命運が懸かっていたのです。半島へのロシアの席巻を放置したら、次は日本を目指すのは自明の理です。 
  しかし韓国は反日を標榜し、ロシアの進駐を容認しました。そればかりではありません。1個師団どころかわずか1連隊も日本のために派遣しません。日本を手助けするどころか、あくまで反日姿勢を貫いたのです。 
  当時のロシアは世界最大の陸軍と、イギリスに次ぐ大海軍を持つ、巨大な軍事大国でした。こんなロシアとの全面戦争は、正気の沙汰とは思えません。全世界は日本の敗戦を当然のことと考えました。韓国も日本が負けると踏んでいたのでしょう。ところが結果は日本の完勝、完膚なきまでにロシアを降したのでした。  

  こんな状況ですから、日露戦争後、韓国は日本の植民地にされても当時の国際常識からいって当然だったのです。しかし日本はそうはしませんでした、伊藤博文が韓国の植民地化に反対していたからです。  

  ところがあろうことに、韓国の安重根が伊藤博文を暗殺してしまいました。もし敗戦直後、日本人の誰かがマッカーサーを暗殺したらどうだったでしょう。似たようなことを韓国はやってしまったのです。 
  日本はもちろん、当然韓国でも伊藤博文の暗殺は大問題になり、韓国中が日本の報復に恐々としていました。このような中で、日韓双方からの意見具申があり、韓国の併合が進んだのです。 
  韓国にも「日韓合邦」を願って尽力した人たちが大勢いました。その1つに李容九(イヨング)を会長とする一進会があります。日韓の同盟によってロシアの南下を防ぐために結成されたのがこの会で、日本の内田良平や竹田範之(日本の国家主義者)と提携し、日韓合邦の請願書を提出しました。  

  日本はロシアのみならず、ドイツ、フランス、イタリアの意見を聞いたのですが、反対はありませんでした。中でも日本が最重視したアメリカ、イギリスは諸手を挙げての賛成でした。東亜の安定を確保したということで、英米の主要新聞はこぞって日韓併合を歓迎しました。かくて1910年、日韓併合条約は世界に認められる中で締結されたのです。  

  これは国家間の条約です。後になって「一方的に締結させられた」などと言っては、自らの卑劣さを暴露するだけです。 
  論文で「アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とはいわない。2国間で合意された条約に基づいているからである。……」 と記述しているのはこのことです。 
  長くなりますのでその余は割愛しますが、田母神論文の①の部分が正しいことがはっきりします。(つづく)

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