「基本指圧」に憧れて ― 村岡曜子のブログ

我が国固有の指圧を広く浸透させ、社会の保健と福祉の増進に寄与したい。

書道を始めて7年、範士の昇段目指す

2009年11月21日 | 私の趣味
  50の手習いで書道塾に通い始めて、まもなく7年になります。 
  自分でも思いますが、初めは大変熱心な生徒でした。ごく短期間で昇級・昇段を重ね、7級から始まったのが、4年後には7段(教士)にまでなりました。この間、自分でも頑張ったと思います。  

 このあとの私の目標は、「8段」(範士)と「師範」があるだけです(その先に教授などもあるのですが、初めから目標にはしていません)。ところがここまで来ると、昇段試験もかなり厳しくなります。これまではほとんど1回で合格していたのですが、条幅に書かなければならない上、書体(草書・楷書・隷書・篆書)も多くなり、本格的に取り組まなくてはとうてい不可能と思うほどになってきました。  

 私は指圧治療院をやっていますし、ボランティアでNPO法人「基本指圧研究会」を主宰していますので、なかなか時間が取れません。王義之の筆跡などを見ると憧れ心躍るのですが、最近では、“書道で身を立てるのではないのだから、能書家を目指すのは来世にして、いまは無理のない範囲で頑張ろう”と心がけるようにしています。

 夫からは「書道の努力が普段の字に生かされていない」と言われるのですが、それも気にはなっています。しかし書道を始める前は、「字」を「記号」としか思っていなかった? ようなレベルでしたから、少しは改善されたのではないでしょうか。いまや意識の中では、「記号」が「芸術」にまで昇華したのですから。  

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ぜひもう一度飲みたい「ストルム」

2009年11月20日 | 私の趣味
  オーストリアで飲める、「ストルム」というアルコール飲料をご存知でしょうか。ひとことで私の感想を言いますと「ものすごく美味しい。どうしても、もう1度飲みたい」という言葉以外にありません。  

 あるとき、ウィーンに行くという私の知人がいたので、ストルムについて話しました。彼女は「どうしても飲んでみたい」と、9月に勇んで? 出発したのでした。ところが帰ってきた彼女に感想を聞いたところ、「わずか何日かの違いで飲めなかった」と、本当に残念がっていました。  

 ストルムとは何でしょう。英語の「ストーム(STORM=嵐)」という言葉からきたと聞きました。内容は、日本酒で言えば「どぶろく」のようなものだそうです。清酒を製造するとき、まだ濾過(ろか)も不十分で、未発酵の米に含まれる澱粉や、澱粉が分解した糖により、ほんのり甘い風味があるのがどぶろくです。アルコール度は清酒と同じく14~17度になりますので、口当たりのよさが仇となってつい飲み過ごし深酔いしてしまう。ところが、飲み口は本当にいいのです。ストルムは、どぶろくと似たワインの醸造過程の飲料だそうですが、私はどぶろく(なんどか飲んだ経験があります)より、よほど美味しいと思いました。  

 私がストルムを飲んだのは、ウィーンの森のはずれにあるホイリゲでした。ホイリゲというのは今年とりたてのワインだそうで、そこからワインを飲ませる居酒屋を指すようになったといいます。日本の居酒屋とは違い、舞台があり、バンドが入り、数人のダンサーがウィンナー・ワルツを踊っています。ストルムは少し甘く、フルーティでいくらでも入ります。 
  飲みすぎると行き着く先は分かっていますので、ある程度セーブしていました。夫も、好きなアルコールですが用心していたようです。トイレへ行くと驚きました。日本人のご婦人が小間物屋を開いているのです。(あんまりきれいな言葉ではないので、詳述は避けます)  

  日本に帰ってからも、どこかでストルム(または同様のもの)を飲めるところがないかと探しました。それほど美味しかったのです。ところがどこにもありません。 
  あるとき山梨に行き、ワイン工場で試飲する機会がありました。私はウィーンでの体験を話し、ワイン工場ならストルムまたは類似のものを飲めるのではないかと尋ねました。その工場では「モロミ」と呼んでいること、やはり時季があることを聞きました。 
  ところが「飲めますけど…」というだけで、その言葉からは『美味しさ』はまったく伝わってきません。やっぱりダメなのでしょうか。  

  9月のストルムの時季に、ぜひもう一度ウィーンに行ってみたい。そして心行くまでストルムを楽しみたいと思っています。

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「百害あって一利なし」、真剣に禁煙を考えては?

2009年11月19日 | 雑感
  私はたばこをやめて20年になります、当時、1日に3箱(60本)は吸っていました。 
  私がやめたことを知った夫は、「自分も止めよう」と言ってその日からやめてしまいました。夫は5箱以上吸っていたようです。 
  その当時医師から聞かされたことは、「やめて10年経てば肺はきれいになる」ということでした。しかし最近言われることは、いちど痛めた肺組織は2度と回復しない、ということのようです。  

  11月6日の毎日新聞にCOPDについて、次のような記事が載っていたのでここに再掲してみます。

 「10年以上の喫煙歴のある50代の約7割が、慢性閉塞性肺疾患(COPD)の疑いがあることが、製薬会社ファイザーの調査で分かった。 
  COPDは、喫煙習慣が主な原因となる肺の生活習慣病で、肺気腫や慢性気管支炎などの総称。10年以上の喫煙歴のある40歳以上の男女600人を対象に、インターネットによる実態調査をした」  

 その結果、COPDの疑いがある人は40代では20%ですが、50代では69%、60歳以上ではほぼ全員の97%を占めたということです。またCOPDの疑いがある人に禁煙の意向を尋ねたところ、「今すぐ禁煙したい」と答えた人はわずか15%。「COPDの認識が低いことが分かった」と書いています。  

 たばここそ、まさに「百害あって一利なし」ではないですか。数日前、藤田まこと(=俳優)さんがたおれたと報道されましたが、原因はこの病気です。今回また値上げが検討され、1箱600円~800円になるようです。まだ吸っていらっしゃる方、これを機会に真剣に禁煙に取り組まれてはいかがでしょう。

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「文化は発祥の地と密着している」という感覚

2009年11月18日 | 私の趣味
  何年か前、オーストリアのウィーンへ行ったとき不思議な(?)体験をしました。それは“文化は発祥の地で良さを発揮するのか?”という、考えるときわめて単純なことです。 
 私はモーツァルトを史上最高の音楽家だと思っています。ブラームスもベートーベンもその足元にも及ばない、というのが私の確信です。世間的にはけっこう人気がある(らしい)ヨハン・シュトラウスなどは、本当につまらない音楽家だ、というのが数10年の感想でした。ところがオーストリアへ行って、その考えが少し変わってきたのです。  

  航空機はフィンランド航空でした。搭乗したときから、BGMが「美しく青きドナウ」なのに気がつきました。旅行で気持ちが高揚していたせいか、「これもいいかな?」という程度の気持ちで聞き流していました。 
  ハンガリーで宿泊したホテルは、ドナウ川の中洲に位置していました。朝、川べりを散歩しているとジョギングの人たちが走りすぎて行きます。ここで2泊して、一路オーストリアへ。  

 到着した翌日でしたか、夫とウィーン市内へ出ました。美術館を回り、そのあと“天ぷらそば”といいながら、ナスとニンジンとキュウリの精進揚げが入った、これまで食べたことがない日本ソバも食べました。街の中を歩いていると、どこからともなく音楽が聞こえてきます。「青きドナウ」「ラデツキー行進曲(ヨハン・シュトラウス1世=父)」「蝙蝠序曲」―― シュトラウスの関係ばかりです。ところがまったく違和感がなく、スーッと心に入ってくるのです。 
 シェーンブルン宮殿のミニ・コンサートにも行きました。ここでもヨハン・シュトラウスの曲が数多く演奏されました。「皇帝円舞曲」「ウィーンの森の物語」「美しく青きドナウ」「ジプシー男爵序曲」「春の声」。etc.etc.この宮殿はハプスブルグ家の夏の別荘として建てられたもので1441室もあり、マリー・アントワネットが長年生活した場所でもあるそうです。また幼少のモーツアルトがここでマリー・アントワネットに会い、プロポーズした話も良く知られています。  

  いずれにしても、シュトラウスの曲が抵抗なく心に入ってくる、これまでにない感覚でした。それとともに、ウィーンが「音楽の都」「芸術の都」と言われることが、なんとなく身体に感じられてきたのです。不思議な感覚でした。
  オーストリアで活躍した音楽家の曲は、やはり現地で聞くと琴線に触れるのでしょうか。「文化はその発祥の地でこそ本当の良さを発揮するのだろうか」、という思いを味わった旅行でもありました。

  写真はシェーンブルン宮殿の全景(ウィキぺディア・フリー百科事典のファイルから)


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初めての外国旅行は10数年前のバリ島

2009年11月17日 | 私の趣味

  ブログを始めた頃、自己紹介の一環で私の趣味を「旅行、絵画鑑賞、書道、映画鑑賞…」などと書いたように記憶していますが、今日は初めて外国旅行をしたときを思い出して書いてみます。    

  それはインドネシアのバリ島でした。10数年前になるでしょうか。ある日、夫が「バリへ行こう」と言い出しました。  

 「言葉も分からないからいやだ」    

  一応拒否しましたが、熱心に勧めるのでシブシブ納得した、というのが実状です。夫は息子と外国へ行ったことがありました。   

  バリ・デンパサールのングラライ国際空港に降り立ったのは、深夜0時近かったでしょうか。年が明けた1月3日のことです。夫と私、2人の子供と私の母。5 人が空港の外へ出るとほとんど闇です。その中から肌の黒い人たちが大勢現われ、ホテル名を聞いて次々と荷物をバスまで運び始めます。  

 「1000円、1000円」    

  やっと覚えたらしい日本語を叫んでいます。あちこちにいた日本人が、1000円札を渡していました。夫は「1000ルピア(当時約50円)だ」と言って、両替した中からそれだけを渡しました。夫は笑っていました。  

  「何10メートルかスーツケースを運んで1000円なら、俺もバイトしたいよ」

  ホテルはバリハイアットでした。薄暗いロビーに、必要なところだけフロアスタンドのオレンジ色ライトが灯っています。バスケットボールのコート3面ぐらいある大変な広さです。その中で何人かの現地の人たちが、民族楽器のガムランを演奏していました。とっくに真夜中を過ぎています。  

 「大変な所へ来てしまった」    

  後悔が全身を駆け巡ります。  
  チェックイン手続きがやっと終わり、ベルボーイが部屋まで荷物を運んでくれました。  

 「どこへ置きましょうか」 
 「向こうのベッドのそばでいいよ」    

  チップは2000ルピアです。  
  母が自分の部屋からやってきました。  

 「ボーイさんにチップいくらあげたの」 
 「2000ルピアあげたよ」 
 「私、はじめ1000あげようかと思ったけど、多いから500にしたわ」 
 「それじゃあ25円だよ」 
 「変な顔していたけど、少なかったのかしら」    

  母は完全に貨幣価値がこんがらがっています。  
  ともかくその日はベッドに入りました。    

  翌朝、目が覚めて驚きました。バリハイアットは敷地が広大で、緑と色とりどりの南国の花で溢れる、サヌール地区にあるインドネシア様式の立派なホテルです。それにしても、ホテルの庭が広くて素晴らしいこと。そのときも2人のガードナー(庭園師)が庭園をチェックしていました。日本人が少なくて欧米人が多く、静かでノンビリできる環境です。  
  レストランで朝食のあと、1時間ほどかけて庭を散策しました。はずれにはプライベートビーチもあります。物売りの人たちがウロウロしているのですが、ある位置から中へ入るのを禁止されているそうで、まったく邪魔にはなりません。  
  前日の「後悔」がウソのような、生まれて初めての暖かい南国のお正月でした。  

  滞在中、現地のガイドさんに方々へ案内してもらいました。彼は日本語がほとんど話せないのです、何を言っているのかさっぱり分かりません。夫が少しは英語を話すので、「英語を話せますか」と聞いたのですが、彼は英語もダメだそうです。よく日本人相手のガイドになったものです。日本人は金離れがいいので、おそらくはチップも多いからでしょうか。    

  バリは神秘的でなかなかいい所だと気に入りましたが、物売りの押し付けがましさには辟易しました。車から降りると寄って来て「3枚1000円」と言ってTシャツを差し出します。「いらない」と断ると、「4枚1000円」「5枚1000円」「6枚1000円」と、いくらでも値を下げるのです。最後には「12 枚1000円」になりました。  
  街を歩いていると、私たちが歩く方向の20メートルぐらい先から、道にしゃがんでカバンを広げ待ってる青年がいます。通りがかると「時計1000円」。相手にしないと、今度は「3個1000円」。カバンには、ぎっしり安物らしい腕時計が入っています。  
  バリの人たちは、日本人に物を売るときは「1000円」を基準にしているようで、面白い発見でした。    

  また、歩いていると車が寄って来て、「タクシー? タクシー?」と声をかけてきます。断って歩いていると、またほかの車がやってきて声をかけます。いわゆる“白タク”です。日本では営業用(緑地に白文字)以外の白地のナンバープレート(個人自家用)で、タクシー営業をやるので白タクといいますが、現地ではなんと呼ぶのでしょう。でも、私たちは歩きたくて歩いているのですよ…。  

  あるお土産屋に入ると、店の女店員が5、6人で私たちを取り囲んで、店の主人から見えないように隠します。何をするのかと思ったら、買おうとするものを次々指さし、「これを○○ルピアに値引してあげるから、私たちに△△ルピア頂戴」と言うのです。あきれた話です。    

  ガムランの音色、素敵な民族衣装、溢れる草花、そして不思議なほどに神秘的な島です。バリ島は本当に素敵な島、またいつかもういちど行きたい所ですが、無理やり物を売りつけようとする、また客の懐を当てにする“貧乏臭くてイジギタナイ?”ところがどうも苦手です。これが5日間の私の初めての外国旅行、バリ島の印象でした。  

  ちなみに、空港で「1000円、1000円」とチップをねだっていたのが、エスカレートして、中には「10000円」と言い出すものが出たそうで、あまりに見苦しいと今では禁止されていると聞きました。   

  写真はバリ・ハイアットの夜のロビー全景と、庭園の一部。ホテルのホームページから。


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2日間の臨時講師を総括、皆さまに心から感謝

2009年11月16日 | 指圧の活動
  10月28日と11月10日の2日間、日本指圧専門学校で3年生4クラスの臨時講師を勤めさせていただきました。
 「指圧の未来を確かなものに」と題し、指圧技術向上に1人1人が立ち向かってほしいとの思いをこめて、基本指圧の“圧し方”を修得するとどのような効果があるのか、術前術後を写真に撮り、一目でその差が分かるようにしてみました。1人でも多くの学生さんに、圧し方による効果の違いを分かってもらおう、という工夫だったのです。 

 資料作成にかなりの時間をさき、さらにスタッフその他の方々の全面的な協力を得て、そこそこ自分がやってみたいと考えていたものができました。大多数には好評であったようで、喜んでいただけたことを私も大変嬉しく思います。自分の現役時代にこんな授業があったらよかったのにとの思いを形にし、学ぶ目標が定めやすくなるように工夫したつもりです。  

  どんな姿勢でも圧せてしまう天才・浪越徳治郎先生には、私達がなぜ圧せないのかは分からなかったのです。私が直接教えていただいたときも、「ここを圧せばいいんだよ」だけでした。そしてその奥義は、わずかな先生方により細々と継承されてきたのです。  
  平成3年頃から鈴木林三先生の着眼で、「伏臥位肩甲下部の圧し方」が基本であるとの発見を得たことで、誰もが天才の技に近付くことが可能になりました。素晴らしいことです。どうか1人1人があくなき探求心をふるいおこし、上達を目指してほしいと強く願っています。 

 技術の「術」の文字は、求めて行い、行って求める、という意味だと聞いています。上達に向けて創意工夫を繰り返す中に、業界全体のレベルアップがきっと叶うでしょう。この基本指圧の素晴らしさは、まだまだ一般には知られていません。現実には、「指圧と呼ばれる力押しが世の中に広まっているだけ」のことなのです。1人1人が技術を研くことに向けて精進することで、やがて効果の高い本物の「基本指圧」が、世の中に理解される日がくると信じています。

 「指圧の未来を確なものに」―― 学ぶ場を与えて頂き感謝しています。また今回ご協力頂いた大勢の皆さま、並びにスタッフに心から感謝します。ありがとうございました。

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許されないNHKの悪辣捏造報道

2009年11月15日 | 雑感

  11月11日付「NHK大河ドラマ『坂の上の雲』の放映に思う」と題したブログで、「しかし心配は尽きません。取り上げるのがNHK、(略)最近も『日台戦争』など、ありもしなかったことを捏造報道して顰蹙を買ったばかりです」と書きましたが、もしもNHKの報道をご存じない方がいらっしゃるといけないので、ここで簡単に説明させていただきます。    

  これは4月5日放送のNHK「JAPANデビュー」シリーズ第1回「アジアの“1等国”」で言われたことです。この放送は、同盟国としてイギリスの要請で参加した第1次大戦において、戦勝国になった日本が1等国の仲間入りを果たしながら、なぜ国際社会で孤立したのかを探るのが趣旨だというのです。    

  しかし私がブログに書いたように、「日台戦争」などというものは、そもそも歴史に存在しませんでした。この言葉だけではありません。NHKは自分の書いたシナリオに沿って、ありもしない日本の「悪逆非道振り」を台湾人に語らせるという形式で、最も親日的な国・台湾と日本の仲を裂こうとしたものです。これが中国共産党(中国北京政府)のやり口で、中央宣伝部対日工作の方針に乗っかったのがNHKというわけです。  
 
 「正論」6月号に掲載されたノンフィクション作家・河添恵子氏と、「Will」 7月号に掲載された「日本文化チャンネル桜」社長・水島総氏、評論家・黄文雄氏の文章をそれぞれ引用させていただいて、その内容を紹介してみます。  

 ◆「日本支配に対する激しい抵抗運動が台湾全土に広がり、後に日台戦争と呼ばれる…」 
  河添氏「…ん? 日台戦争なんて初耳…」 
  黄氏「『日台戦争』などはとんでもない捏造、歪曲です。さらに、戦後の台湾では、国民党による侵略と虐殺の歴史がありました。台湾人は、常に支那人と戦ってきたと言っても過言ではない」 
  ◆「台湾の先住民族パイワン族をロンドンに連れて行き、『人間動物園』として展示」 
  河添氏「…民族衣装を着て伝統的な踊りなどを紹介しているのだから、『動物園』はないんじゃない…」 
  水島氏「このNHK取材陣のやらせ、歪曲取材による歴史事実の『捏造』は、他の部分にも及んでいる。許しがたいのは『人間動物園』についての部分である」  
  ―- これはロンドンで「日英博覧会」が開催されたおり、日本から相撲一団や米俵製作を実演披露した農民も参加した。その中の一つとして、台湾の先住民族パイワン族が民族衣装を着て踊りを披露したものです。これを「人間動物園」というなら、日本人が和服を着て日本舞踊を踊って見せれば、日本人の人間動物園になるのでしょうか。ボリショイバレー団が日本公演したときは、ロシア人の人間動物園なのでしょうか ――  
  ◆「中国語を禁止し、日本語の使用を強要」 
  河添氏「…戦前に台湾で使われていたのは台湾語や客家語。それを禁じて中国語(北京語)を強要したのは、戦後の中国国民党政府なのだけれど…」 
  黄氏「NHKは知らないようですが、もちろん、当時の台湾人は中国語も知らないし、話せません。だからこそ、日本は共通言語として日本語教育をした。(略)さらに日本は、日本人の公務員や警察官と師範学校教師には台湾語学習が必要とし、(略)台湾に住む5万7335人の日本人のうち、台湾語が話せるのは6269人、全体の10.9パーセントにもなっていた。戦後、台湾に入ってきた国民党は台湾語を勉強しないどころか、台湾語を禁止し、消滅させようと北京語を強制しました」    

  書けばキリがありませんが、この実態を考えていただけばお分かりでしょう。NHKの報道がいかに悪辣かわかるというものです。この番組を見て、台湾人出演者の中心人物だった柯(か)徳三さんはNHKのディレクターに次のように抗議したそうです。「あんた、中共の息がかかっているんだろう。私が聞くところによると、朝日新聞とNHKは、北京に呼ばれてチヤホヤされて貢物を持って行ったんだろう。そういったんだ」(水島氏)    

  黄氏は次のように述べています。 
 「私は番組のあまりの歪曲、捏造に驚愕し、その『歪曲』に該当する箇所を116ヵ所まで書き出してみました。しかし116ヵ所まで挙げたところで、逆に『史実に基づいて事実を語っている』箇所を挙げてみればよいのだ、と気づいた(笑い)。探してみましたが(略)ただの1ヵ所も事実はなく、100%が歪曲と捏造です。  
  拓殖大学の発行している『台湾論』と『百年史』の戦前編を担当し、台湾人であった(現在は日本に帰化)私が言うのですから、間違いない」    

  このような捏造報道を繰り返すNHKが、唯一受信料を取っている公共放送なのだから、まことにあいた口が塞がらないとはこのことです。  
  最後に、NHKの歪曲を撃破する水島氏の言葉を掲載して締めくくりとします。  

 「さて、NHKが主張している日本の台湾統治の悪評価は事実なのだろうか。実は百年前、日本の台湾統治をアメリカのニューヨーク・タイムスが大絶賛している記事が存在している。『SAVAGE ISLAND OF FORMOSA TRANSFORMED BY JAPANESE』(Published on September 25th,1904 New York Times)で、1904年9月24日付のレポート記事だ。   この記事は右の見出しを二ューヨーク・タイムスのデータベースで検索すれば、無料で見つけることが出来る。 
 〈日本統治で一変した未開の島、台湾〉 
 〈誰の手にも負えなかった事を、数年間で克服した脅威の偉業〉 
 〈他の植民地宗主国への教訓〉      
       (略)  
  アメリカの記者が日本の台湾統治を絶賛している。これとて、かなり台湾関係者、研究者にとっては、よく知られた資料のはずであり、NHKの製作陣が知らぬはずはないのである。      
       (略)  
  第1回、第2回、そしてオープニングタイトルの印象操作手法を見るとき、このシリーズの出演者や映像の選択と順序等の編集が、いかに天皇と皇室を戦争の原因であるかのような悪質な印象操作、意識操作を秘かになしているかが、明白に浮かび上がってくる。  
  ひとつだけ、誰も気がつかぬ恐ろしい事実をあげておこう。日本のテレビ史上、番組のオープニングタイトルバックに『明治天皇』や『昭和天皇』の御姿が使われたのは今回が初めてである。それもヒトラーやスターリンと同列に並べられて、である。これは相当に恐ろしい新事実である。  
  NHKがどんなに誤魔化しても、日本国民はこの番組が巧妙な謀略映像であり、歪曲された歴史解釈であることを理解し、真剣に対処しなければならない。これは、血は流れないが、未来の日本の行方を左右する情報戦争なのである」    

  文章を引用させていただいた先生方と、出版社に感謝いたします。


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2020年の五輪招致へ夢が膨らむ

2009年11月14日 | 雑感
  石原慎太郎・東京都知事は9日、「私の代の責任として、2020年夏季五輪に立候補する」と、東京都がオリンピック開催都市に再度名乗りを上げる考えを明らかにしました。 
  9月24日のブログで、私は「東京五輪招致(2016年)は失敗したが、再度挑戦すべきでしょう」と認(したた)めましたが、今回の石原都知事の考えは大いに喜ばしいと思っています。 
  16年夏季五輪に決定したリオデジャネイロも、なんども挑戦した結果の決定でした。マドリードなどはこれまで挑戦を繰り返しながら、またもや成功しませんでした。東京も、わずか1回の失敗で諦める、などということのないように心から願っています。  

 石原都知事は「次の知事が最終的に決めるのでしょうが、手続きを踏んでおかないと20年の開催地となる可能性がなくなる。その前に意思表示をしたほうがいい」(毎日新聞2009.11.10)と立候補を表明した経緯を説明しています。石原氏は次の選挙には立候補しないことを明言していますので、任期中に手順を踏んでおかなければ、立候補自体が間に合わないということです。 
  竹田恒和・日本オリンピック委員会(JOC)会長は「東京は16年五輪招致のノウハウ、実績がある。JOCとして歓迎している」(同)と、東京都の再挑戦を評価しているようです。  

 国内では、広島県がすでに立候補の意思を表明しています。長崎と共催で、「核廃絶」をスローガンに打ち出す予定だということです。そこに石原都知事は、「広島と共催で」という案も出しているようです。JOCでは「オリンピック招致戦略室」を新設して、国内都市の選定方法について答申を行うということです。今回は真剣にバックアップをする考えでしょう。  

  しかしオリンピック憲章によると、開催都市は1都市に限られ、他の都市との共同開催はあり得ないということです。憲章第5章37条に開催都市の選定に関し次のように明記されています。
 「開催都市の選定はIOCだけがもつ特権とする。当該国のNOCが立候補を承認した1都市だけがオリンピック競技大会の開催都市となる候補申請をすることができる」 
  ただし共同開催でなければ、競技のうちのいくつかを他の都市に移すことは可能でしょう。 
  1964年の東京五輪においても、馬術競技は長野県軽井沢馬術場(近代5種の馬術は埼玉・朝霞)、射撃は埼玉県朝霞射撃場、クレー射撃は埼玉県所沢クレー射撃場、ヨットは神奈川県江ノ島など、東京以外で行われた競技も数あります。ただ東京と広島は離れすぎていることから、果たして実現可能な計画が立てられるかどうか。しかしこれは今後の課題、ということで考えていけばいいのでしょうか。  

  2008年アジア(中国・北京)で五輪が行われたばかりですから、欧州(英国・ロンドン=12年)のあと16年に「またアジア」は考えにくいと私は思っていましたので、20年ということで大きく夢が膨らんできます。JOCの強力な後押しを期待します。

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豪のレースで優勝、日本のソーラー技術に期待

2009年11月13日 | 雑感
  ソーラーカーレース「グローバル・グリーン・チャレンジ」で10月28日、東海大学チームが2位以下を大差で引き離して優勝した、という新聞報道がありました。このレースはオーストラリア北部ダーウィンと南部アデレードを結ぶ3000キロを競うソーラーカーレース。報道によると、アメリカ、オランダ、ドイツ、カナダなど13ヵ国、31台が25日午前ダーウィンを出発、東海大チームは28日午後3時39分ゴールのアデレードに到着しました。この時点で2、3位の車は29日到着の見通しという、日本チームの圧勝振りでした。        

  このレースは、太陽光のみを動力源としてオーストラリアの広大な大陸の縦断に挑戦する、世界最大級のソーラーカーレースです。ここでは、世界各国の大学などが企業の支援を受けて開発したソーラーカーを用いますが、東海大学チームに太陽電池を提供したのは日本のメーカー「シャープ」。最高速度は、太陽光だけの動力源で時速95キロに達するというのですから、そのパワーは驚くばかりです。

  いまや世界的に化石燃料は枯渇しつつあります。しかし“エコ”に対する日本のハイブリッド技術は、世界トップレベルです。アメリカ車もハイブリッドで勝負してくるでしょう。南米などではバイオ燃料を使用する車がこれからは主流になるのでしょうか。
  しかしいずれこれらの車に代わって、太陽光を動力源にするソーラーカーの時代がやってくるのかも分かりません、なにせ動力源は無尽蔵なのですから。私は日本の蓄積した技術力に期待します。その技術を生かして、実用に供することができるソーラーカーを作り出して頂きたい。そして化石燃料の次に来る時代をぜひ支えてもらいたい、というのが私の念願でもあります。

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富山の地方研修に参加、共に学んだ仲間にも会う

2009年11月12日 | 指圧の活動
日本指圧専門学校同窓会が主催する平成21年度の富山地方研修会が、11月8・9日の1泊2日で開催されました
。    8日は仕事を早めに切り上げて、新幹線・特急を乗り継ぎ富山へ向かい、夕方の懇親会から参加しました。北陸の11月は、すでにかなり寒いはずです。ひとたび雨でも降ろうものなら、それは霙(みぞれ)になり雪に変わることもあります。寒さ対策は、万全を期して出かけました。

    私は、元来“晴れ女”です。旅先で傘をさしたことはほとんどありません。今回もそうでした。行きの車中からは、北アルプス立山連峰の雄大な姿を思う存分楽しむことができました。みごとなほど真っ赤な夕陽に映える立山や剣岳は圧巻です、本当に素敵でした。

    思わず見とれていると、アッというまに富山に到着。急ぎ懇親会会場に向かいました。着いてビックリ! 奇遇です。岐阜から参加した45期の酒井さんに会いました。学生時代は、我が基本指圧研究会の熱心な会員でした。とても元気そうで、岐阜の高山で指圧の治療所を開業していると聞きました。かつて共に学んだ仲間に会えるのは嬉しいことです。これこそ地方研修のよさです。離れていても元気で頑張っていると分かればなおさらです。2次会まで盛り上がりました。

    翌日は目指す鈴木林三先生の実技です。やはり肩甲下部の練習が一番楽しいとつくづく思いました。実は地方研修会の良さの1つは、参加者の数が東京で開催する時より少ないことにあります。思う存分指導を受けることができるのです。   今回も大変勉強になりました。会のプログラムの関係で、久し振りに静岡の川原善次郎先生の講義も受講することができました。相変わらずのお話しの巧さに感心し、大変勉強になりました。

    私はいつもギリギリまで仕事をしての参加なので、バタバタと遅れて行ってサッサと早く帰るというパターンが定着しています。今回くしくも川原先生の受講が叶い、何だか少しばかりトクした気分です。

    研修会は午前中で終わり、昼食もそこそこにボランティアで、現地の方10名ほどを対象に指圧講座を行いました。これも楽しく和気あいあいとした中に、それぞれが自分の身体について振り返ってみよう、というキッカケ作りになった2時間でした。帰路は、何か充実した気分で、疲れているはずなのに足取りも軽く気分一新。また明日から頑張ろう。

 

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