爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

白金高輪から恵比寿を巡る日帰り散歩

2015-05-17 14:37:04 | 日記
天気予報では、都内でも30度にという予報。5月の台風とは異常気象であるが、急に気温が高いのには体が慣れない。幹事のMさんも水分を取りながらと・・・注意を。
スカイツリーライン・千代田線・半蔵門線と乗り換え白金高輪駅で下車、地上に出ると、そこは交通量の多い国道1号線(桜田通り)である。最初の訪問先は、覚林寺であるが、近くに「大久保彦左衛門」のお寺があると言うことで立ち寄ることに。わかりにくい裏通りを歩いていると山門が見えてきます、朱色というより赤紫色の山門です。門を入るといきなり「大久保彦左衛門」の大きい碑と脇には「一心太助」の碑がある。大久保彦左衛門(大久保忠教)は戦国時代の武将で80歳で没した実在の人物で、映画・TVで「天下のご意見番」と名高いが、講談、講釈での逸話が多い、「一心太助」はその最たるもので、鶴屋南北の弟子である河竹黙阿弥の芝居脚色してからのようだが、面倒見がよかったことは伝わっていたようである。

桜田通りに戻り覚林寺へ入る、「清正公」さまと古くから慕われた加藤清正の位牌や像を祭る勝負の守り神として古くから信仰されている。進学・就活で御利益がありそうな気がする??加藤清正も逸話の多い戦国武将であるが、それだけ武勲を立ててきた。加藤清正は、武将であるとともに「藤堂高虎」や「黒田孝高」と並ぶ築城の名手として知られ、熊本城や江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わったり、治水・土木事業にも精通していた。

覚林寺を出て明治学院大学へ、白金台の地名にピッタリの洋風の建築物が見られる。明治末から大正初めにかけて建築された建物が残されている、創立は1863年のミッションスクールでジェームス・カーティス・ヘボンが横浜に開いた「ヘボン塾」が最初で、後に男子部は明治学院、女子部はフェリス女学院となる。創立者のヘボンは、ヘボン式ローマ字で有名でり、我が国の英語教育に貢献した人物である。

明治学院大学から恵比寿方面に向かう、途中、瑞聖禅寺へ立ち寄る、門をくぐり階段を上がると中国の少林寺に出てきそうな大雄宝殿がありました、江戸で最初の黄檗宗(日本に最初にインゲンマメを持ち込んだ宗派)で、この宗派の特徴なのか雄大な規模の仏殿です。白金という地にありながら、昔にタイムスリップしたような境内でした。


もう一つの山門から出て目黒通りから目黒自然教育園に、この園は、国立科学博物館の施設で、歴史は400~500年前の豪族の館からで、土塁が保存されています。江戸時代は高松藩の下屋敷、明治時代は陸海軍の弾薬庫、大正時代は御料地となり豊は自然が保たれ、昭和24年から一般公開されてきました。一般的な植物園と違い、本来の自然な姿で保存し倒木もそのままであった。植物名がわかっていれば季節の移り変わりや成長がわかり楽しみも増えるのではないでしょうか。都心でありながら自然が保たれ自然教育園と名前がついているが憩いの場でもある。





最後は、恵比寿ガーデンプレイスである、日東坂を通るがこの一帯に日本精糖、日東紡があったことから名付けられた坂であり、裏手から恵比寿ガーデンプレイスに入る。サッポロビールのビール工場がこんなに変貌するとは、昔、誰が想像したろう。一つの昔が完全に消えた。
散歩先に「アメリカ橋」というのがMさんの案内葉書に書いてあった。皆、不思議で山川豊の歌に出てくるとか、興味がそれぞれふくらむ。恵比寿ガーデンプレイスを出て、JR恵比寿駅へ向かい左にまがり跨線橋歩いていると、幹事のMさんが表示の前でこの橋ですと!!、皆、唖然として「エ~」期待が萎んだ。この橋、通称「アメリカ橋」正式には「恵比寿南橋」と言うらしい。1904年のセントルイス万国博覧会に展示されていたもので、それを買い取り鉄製の橋のモデルとして1906年(明治39年)に架設したとのことである。

アメリカ橋を渡り、日比谷線にて帰ったが、天気予報の30度は無かったようであるが、5月にしては暑かった、しかし真夏の地面からの照り返しが無い分助けられた。

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