爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

オンライン講座6 不撓不屈(ふとうふくつ)の南部魂

2021-05-02 19:42:45 | 日記

副題として「楢山佐渡から原敬へ、盛岡の幕末・維新」。 
戊辰戦争の敗戦で窮地に立たされた盛岡藩は、その逆境を覆して多くの逸材を世に送り出した。幕末の同藩家老・楢山佐渡(ならやまさど)と、平民宰相と呼ばれた総理大臣・原敬の足跡から、不屈の南部魂を読み解く。としている。
講演は、田﨑 農巳氏(原敬記念館主任学芸員)です。

パート1  幕末の盛岡藩と楢山佐渡
(1)盛岡藩の概略
盛岡市29万人は、岩手県中央部に位置する県庁所在地。南部氏を藩主とする盛岡藩(南部藩)*の城下町で20万石(元々は10万石)で400年続く。
*江戸時代後期に南部藩から盛岡藩に改名されたが江戸幕府は南部を使い続けた。
江戸初期は、金山で潤沢であったが、中期からは冷害など自然災害が続き米が不作(寒冷地には不利な石高制)のため藩財政の慢性的な逼迫。特に後期から末期は重税に反対する百姓一揆が続発した。
盛岡藩の領地は現在の区分とは違って、現在の北上市から北の部分、秋田県鹿角の一部が含まれる。ヤマセによる冷害が多く、全国的にも一揆が多く、混迷の幕末を迎えていた。

(2)楢山佐渡の業績と人物像
混迷の幕末期を家老を務めたのが楢山佐渡であった。楢山家は1267石で南部家一門の名家で代々家老職を務めた。楢山佐渡は、南部利綱の6歳で御相手、15歳で側役、22歳で近習頭、23歳で家老となり期待されてきた。楢山佐渡は、期待に応えて
・嘉永の一揆収拾
・お家騒動の収拾
・藩政改革の実施を成し遂げた。
南部利綱から「我に御左衛門あるは家康公に本多佐渡守(正信)あるが如し」と最大の賛辞をおくった。楢山佐渡の人物像を藩士で後の衆議院議員である谷河尚忠は、佐渡のことを
・偉ぶらない
・武術に優れる
・さわやかな好男子
・生活は質素・賄賂を受けない
公平無私と書き残している。まさに武士、人間の鏡の様な人であった。

(3)戊辰戦争と佐渡の決断
家老の時代に戊辰戦争がおこった。1868年(慶応4)に京都に始まって函館で終わるが。
盛岡藩は、態度が明確でなかったため徐々に反薩長の意見が強くなった、原平太郎(原敬の兄)の上申書などもあった。

盛岡藩は楢山佐渡の主導で同盟を離脱した久保田藩(秋田)へ出兵、

(4)敗戦と佐渡の処刑
当初は、優勢だったが、後に劣勢となり降伏。楢山は、捕縛され東京へ護送。南部下屋敷に幽閉され、明治2年5月22日東京から盛岡へ護送。6月23日報恩寺で処刑(38歳)。
なぜ薩長・新政府に敵対した選択をしたのか不明。武士の世がおわるのが想像つかなかったのでは。墓を建てることもゆるされなかったが、明治22年(1889)大日本帝国憲法発布の大赦により楢山家再興が許され墓碑建立。明治時代以降は苦しい時代を迎えるが佐渡さんに憎しみを持つ人はいなかった。佐渡さんが一人戦争の責任を負って処刑された、あとは武士としてみごとな人間であった、盛岡が戦場にならなかった。

こうして楢山佐渡の死によって盛岡藩の幕末は終焉を迎えた。

パート2 苦境から立ち上がる旧盛岡藩の若者たち
(1)敗戦後の重い負担
ー盛岡藩に課せられた主な処分ー
・軍資金7万両の献金 *戦争継続中だった
・領地の没収及び藩主の上京謹慎
・南部家存続の代わりに20万石→13万石への減封
・盛岡→白石へ転封  *領民の反対があった
・転封の代わりに70万両の献金→全国に先駆けて廃藩
ー敗戦国に押された負の烙印ー
・「朝敵(ちょうてき)」「賊軍(ぞくぐん)」
    *天皇、朝廷に敵対した勢力
・「白河以北一山百文」                                                              

*白河の関より北は一山でも百文程度の値打ちしかない。

(2)盛岡藩士たちの苦悩 ー原家を事例にー
〇戊辰戦争前
・禄高100石(平士)→226石8斗8升3合
・敬の祖父・直紀が高知に準ずる家格となり家老を務める
・嘉永3年(1850)直紀が邸宅を大改築
 
〇戊辰戦争敗戦後の原家
禄高226石8斗8升3合→22石2斗 
さらに白石転封による70万両献金のため土蔵にあった宝物のほとんどを売却・献品、建物も1/5になり大勢いた女中・下男も3人に減った。原誠(敬の弟)1860~1950

原正恭(敬の兄、恭の孫)1921~2021は、リツ(敬の母)が城の近くで菓子を作って売り、糊口(ここう)*をしのいだ。菓子型は、当時の辛酸を思い出す「よすが」として保存していた。
*「糊」は「お粥」、「口」は体の器官ですが、口を通して食事をすることから「生活を立てること」を意味します、どうにか暮らしを立てている状況。

原敬(健次郎)曰く、「ああ世の中は分からぬものだ人生浮沈。よし、この家運、挽回してみせる」                                       原誠(敬の弟)
裕福だった原家でさえこんな状況なので下級武士はもっとひどい状況。

(3)藩校・作人館が輩出した人々
〇盛岡藩校「作人館」の復活
・慶応元年(1864)、江帾五郎が藩校「明義堂」を拡張
・戊辰戦争時の休校を経て明治3年(1870)1月に再開
・修文所(和・漢・洋学)、昭武所(武術)、医学所(医術)の3科→原健次郎は修文所に学ぶ(13~14歳)
・廃藩により明治3年(1870)閠10日「盛岡県学校」へ

1851年生 那珂通世 歴史学者・東洋史学の創始者
1852年生 阿部 浩 東京府知事, 原敬の親友
1854年生 菊池武夫 弁護士、中央大学初代学長、
1855年生 南部利恭 41代当主、伯爵、共慣義塾設立者

1856年生 原 敬  第19代内閣総理大臣
          田中館愛橘 世界的な物理学者
          佐藤昌介  北海道帝国大学初代学長
金が無い藩だが学校・教育関係にはお金を使う、人材育成にはずいぶん熱心かもしれない。
作人館ではどういう教育がおこなわれたか、作人館助教・小田仙弥(為綱)の激励では、
「真の王政復古は、われわれ東北人の手によって、やり直さなければならぬ。これは諸子青年の任務である。薪(たきぎ)に臥し胆を嘗めても、きっと奸賊薩長を打ち倒せ。」
作人館ではないが、新渡戸稲造(1862~1933)は、後に叔父さんの養子なる太田時敏から「勉強をどんどん続けろ。東北の人間が馬鹿者ばかりでないことを世に示せ。(略)もし失敗したら御者になれ鞭を手に馬車を走らせ、あの高慢な南の奴等に道をゆずらせるのだ。」と教えられた。   新渡戸稲造「幼き日の思い出」
過激な教えを受けていたが、小田・太田ともに戊辰戦争を知っている世代で佐渡さんに近く、次の世代に思いを託そうとしたのではないだろうか。

(4)受け継がれゆく偉人の系譜
〇1850年代生
・那珂通世   ・阿部 浩  ・菊池武夫  ・南部利恭  ・原 敬  ・佐藤昌介 
・田中館愛橘
〇1860年代生 
・新渡戸稲造   国際連盟事務次長、武士道
・葛西萬司   建築家、辰野金吾の弟子
・横川省三   新聞記者
・山屋他人   海軍大将、皇后雅子様は曾孫
・栃内曽次郎  海軍大将、貴族院議員
〇1870~80年代生(盛岡中学世代)
・鹿島精一   土木工学者、実業家、政治家、貴族院勅置議員
・三田定則   法医学者、血清学者
・米内光政   内閣総理大臣
・田子一民   衆議院議長、官僚、政治家
・金田一恭介  言語学者、アイヌ語研究
・野村胡堂   作家(銭形平次)
・石川啄木   歌人、詩人

幕末~昭和初期にかけて盛岡はたくさんの人材を輩出してきた、司馬遼太郎氏もこのような土地で明治以後の日本を引っ張って行く人材がぞろぞろ出たのはどういうことだろうと書いている。
一つ言えるのは1850年代、作人館世代が戊辰戦争後、原さんを中心にして道を切り開いてきたのが大きいのではないだろうか。

パート3「賊軍」から「平民宰相」
(1)上京後の原敬  ~浮沈多き人生~            
原敬は、15歳で上京したが、前半は転々とした人生であった。

(2)旧南部藩戊辰殉難者五十年祭
50年祭では「戦争に官軍も賊軍もない」という公平な歴史的見解を公表。汚名を雪ぐ。
原敬としては区切りをつけたかった、勇気を与えた言葉だった。

(3)「平民宰相」誕生、そして暗殺
原敬は、爵位を受けないようにした、平民宰相にこだわり、特権意識を厳しい目で見てた。こうしたことから日本初の本格的政党内閣と言われた。東北の人々の希望だったのでは。

原敬が就任から脅迫状がきていたが、普通に職務をこなしていた、護衛も増やさなかった。原にとって仰々しいのはきらいだった。1918年(T7)9月に就任し1921年(T10)11月に東京駅にて暗殺された。

※葬儀の日は、雨天にもかかわらず傘をささないで葬儀を見送った。

(4)語り継がれる原の精神
原敬の書の引首印・落款には、原さんの心にためた強さがあり、楢山佐渡に通ずるものがある。武士を思わせる強さがあった。


楢山佐渡で一つの時代が終わった、敗戦して沈んだ空気の中から次の世代が勇躍して原敬が生まれた、それから次々と偉人が輩出された。 魅力のある歴史が作り出された。                                           以上
【その他】

※正式には、「はらたかし」が正しいが、愛称として「はらけい」も使用している。

《雑感》
これが新渡戸稲造の「武士道」的な生き方なのだろうか?
武士社会が終わる混乱期に咲いた「武士道」、新社会の中で武士階級の倫理や道徳規範が美化され日本人の常識化したのだろうか、平時には生き方の美学、宗教的な思想として美的な概念として受け入れられてきた。しかし「武士道」は、そもそも支配階級である武士の文武両道の鍛錬と責任の基軸となる精神的修養の考え方であり、葉隠れにある「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」と究極は死生観となる。
岩手県は、軍人の多い県である、A級戦犯となった板垣征四郎陸軍大将、東條英機陸軍大将、総理大臣(父は中将で岩手県出身)など輩出しているが、今回の講演が何か通ずるものがある。
それにしても「楢山佐渡・原敬」の生き方、今の多くの議員に「爪の垢を煎じて飲のむ」を言いたい。

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