爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

三県境と渡良瀬遊水池(谷中湖)を歩く

2018-09-30 20:19:38 | 日記

数年前におこなった市制施行20周年「川まつり」(2016年)の時に群馬県の板倉町の方が「三県境」のパンフレットを配布していたが、その時は半信半疑であった。
TVで三県境が放映されたり、境界マニアの方の紹介などで最近人気が出た埼玉県・群馬県・栃木県の県境。それと広大な面積を有する渡良瀬遊水地、遊水地のため消えた谷中村跡付近を散策した。

三つの行政区画(都道府県)が交わる点は、43カ所(陸続き)程あるが、ほとんどが山や川が三県境で、平地で埼玉県・群馬県・栃木県が手軽にプレートを見ることができるのはここだけ。
東武日光線の柳生駅で下車し渡良瀬遊水地の方に歩いていくと案内表示がありそれに従って歩いていくとたどり着く。三県境は当初、渡良瀬川の上とのことで、足尾鉱毒問題の対策のため流路を変更したため跡地が沼地や水田となり県境がうやむやとなり数年前に測量等により確定しました。

田んぼの中にコンクリートの道を造りそれなりの整備をしている。私が訪れたあとに4・5人来たが皆ビックリして「ここにあるの!!」皆さん日本で唯一の平地の三県境と期待してきたのか?。県境が分かりやすい直線でなく入り組んでいるため簡単に埼玉県、群馬県、栃木県とプレイトからの先はどういう境界か分からない。

次に「渡良瀬遊水地」を訪ねるが、「道の駅きたかわべ」に立ち寄る。「道の駅きたかわべ」は、さほど大きな道の駅とは思えないが、前の道路が主要地方道であるのと渡良瀬遊水地のため利用が多い。敷地内に「田口和美博士之像」があり「わが国解剖学の父」とあった。日本の医学向上に大きく貢献した方で、東京大学医学部(現在)教授の時の教え子として文学者の森鴎外、細菌学者の北里柴三郎らがいる。この地の北川辺町(現在、合併し加須市)の出身である。

道の駅を出て遊水地に向かう、遊水地(谷中湖)も広いが調節地がまた広い、
渡良瀬遊水地は、栃木・茨城・群馬・埼玉の4県にまたがる3300haの広大な面積を有する洪水調節、都市用水の補給が目的の遊水地です。(栃木県が大きい面積を占めているようです)
    ※この遊水地の面積は、京都府の城陽市と同じ面積である。

生きている自然の博物館と呼ばれるほど豊かな生態系が形成されており、国内最大級のヨシ原のある湿地は、貴重な存在で「ラムサール条約登録地」となっています。
(散策するには、サイクリングロードが整備されており、レンタサイクルを借りた方がよい)
このようにすばらしい自然景観、生態系の渡良瀬遊水地は、暗い過去があります。この暗い過去は、遊水地の底に沈んだ谷中村を知ることによりわかります。

谷中村がなぜ地図上から完全に消えることになったか、それは足尾銅山鉱毒事件に起因する。この一帯は渡良瀬川など蛇行し洪水の起きる事が多い反面、上流からの肥沃な土に恵まれていた。しかし上流にある足尾鉱毒の被害を受けるようになり(稲の立ち枯れなど)、政治家・田中正造の活動で社会問題化し日本初の公害事件と言われるまでになった。政府は、渡良瀬川流路変更・渡良瀬川下流部に遊水地を設置し沈殿化の方策をとった。
そのため、遊水地に架かる数村に影響が出たが、特に谷中村は全村移住となり、人々の大きな犠牲の下に造られました。
遊水地の辺に「史跡保存ゾーン」があり谷中村の役場や神社が保存されている。当初は水没される予定が工事している中で残ったとのこと、そのため谷中湖がハート型になっている。また墓地には残った墓石の脇に卒塔婆があり、いまだにお参りしている方がいるとのこと、こうした悲しい出来事の上にこの地にあったことを忘れてはならない。


 

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中山法華経寺から真間山弘法寺を巡る散歩

2018-09-25 09:19:00 | 日記

9月の「退職者の会」月例散歩は、千葉県市川市内の寺社仏閣を巡る散歩である。いままで千葉県への散歩は少なく成田山新勝寺以来か?。
JR総武線の下総中山駅で下車する。目的の中山法華経寺は一本道なので分かりやすい、門前町をなしているのかと思うとそうではない。都心から15~20Km圏内では宅地化や一般の商店街化しているのだろう、京成電鉄の踏切を越えると総門が見える、

こんな所に総門があるとは。総門を通り過ぎると「清華園」という古い門があった、案内板には、江戸時代中頃からこの地に住み近代に文具店と書店を営んできた石井氏の寄贈された民家と庭園を整備し一般無料開放している、と。庭園には石像や植物を観賞、民家では展示会、寄席など文化的な行事が催されていた。この他、昭和13年に建てられ「旧片桐邸」が寄贈されたが震災により修復不可能となっている、この2カ所で中山文化村といった。

清華園を出て歩いると仁王門が見えてきた、右に「立正安国を説くお祖師さま」の大きな像が立っている、左手には「南無妙法蓮華経」日蓮宗のお題目のこれまた大きい碑が立っている。特徴的な字体には金色に着色されており、この一画が荘厳な感じを受ける。仁王門から長い参道となっている、参道の両脇には末寺が並んでおり、法蓮華経寺の寺格がわかる。

※参道から末寺の一つである朱塗りの門がある安世院というお寺に立ち寄りました。四院家の一つと言われてますが小さいお寺でした、しかし境内はお花がいっぱいです。門の所の案内板に「庭の生態系ピラミッド」という貼り紙がありました。それなりに勉強されている和尚さんのようです。皆さん、この花は、○○○の花だとワイワイ。

正面に五重塔が見えてきた、思ったより広い境内である。日蓮は、鎌倉での布教活動など他宗派との軋轢による法難ののち、この地に身を寄せ説法を始めた。江戸時代には庶民が参詣する寺に発展した。祖師堂を中心に国の重要文化財が点在している。他の寺院と違って珍しいのは「比翼入母屋造り」の屋根二つ並んでいる寺院建築である。

※祖師堂の「比翼入母屋造り」は、初めて見た、いままで「退職者の会」で寺社巡りをしているがこうした神社はなかった。

※チョツト立ち寄った神社(安房神社と浮嶋弁財天)
市川市は、寺社の多いところである。「戸数千軒寺百軒」と言われるほどで特に行徳地区が多いとか。

昼食を済ませ、京成中山駅から乗車し市川真間駅で下車する。真間川を渡り「手児奈霊堂(てこなれいどう)」と地続きの「真間 稲荷神社」に到着する。稲荷神社は、創建は不明ですが、再建された神社のようです。なぜ、手児奈霊堂と隣り合わせなのか気になるところです。

手児奈霊堂は、伝説上の女性である手児奈を祀る霊堂である。この地に住んで水汲みをしていた美しい手児奈は、多くの男性から求愛を受けていたが、誰かのお嫁さんになれば他の人を不幸にすると悩み、夕日を見て「あの太陽のように」と思い海に身を投げたという。これを悲しんだ人達により手児奈霊堂を建てて祀った。
奈良時代のはじめ、山部赤人が下総国府を訪れたという伝承が残っており、そのときに真間の手児奈を詠ったものが収録されている。また、江戸時代の歌川廣重の「名所江戸百景」には、神社の近くにはこれから行く紅葉の名所である弘法寺(ぐほうじ)があり弘法寺の継橋が描かれている。

弘法寺は、高台にあり正面に長い階段が待ちかまえている。脇には車が通る坂道もある。大変ではあるが高台からの眺めは格別である。山門の仁王像は運慶作と伝えられ、境内はゆったり配置されている。

弘法寺は、奈良時代に行基が真間の手児奈の霊を供養するために建立したのが始まりとされ後に日蓮宗に改宗したお寺で、境内には垂れ桜や小林一茶の句碑などがあり趣のあるお寺である。
数日ぶりの晴天で体がついていかない日であったが、途中、徒歩の所を電車利用に計画変更もらってよかった。


いままで市川市と問われて???の状態であったが、市川市観光協会のホームページに、こう紹介されていた。
『人口:約49万人
 面積:56.39K㎡ 市川市は、昔から「文化都市」と銘打たれています。
 古代の県庁である国府がおかれ、国分寺が建立され、日蓮宗の中心として有名な中山法華経寺など歴史遺産も多く、魅力ある街に惹き付けられた文人墨客も多く住み、ゆかりの文豪や文学の足跡もたくさんあります。
 豊かな自然や農水産の恵みにもふれることができます。
 江戸の香りを残す伝統的工芸品にも出逢えます。』とある。
東京の近郊にあり、人口増・タワーマンション・商業施設が出来る中、歴史を感じさせる街であった。

【その他のPhoto】

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湯島から春日を巡る文学散歩

2018-09-02 10:17:56 | 日記

今回の「退職者の会」は、格調高く文学散歩となった。前回7月の企画は猛暑のため中止となり、幹事のMさんも異例の残暑で心配していましたが、少しは治まるのではないかと計画してくれました。
東京メトロ湯島駅で下車し「湯島天神」へ向かう。上野駅から行った事はあるが今回のコースは初めてである、春日通りの上り坂の途中に石川啄木の歌碑があった。
         「二晩おきに
       夜の一時頃に切通の坂をあがりしもー
           勤めなければかな。
                    石川啄木」
 啄木が当時朝日新聞社勤めで変則的な勤務があり行き帰りの道の状況をよく表している。歌人としての啄木は変則的を好まず、暗い舗装されてない坂道はいやだったのだろう。

湯島天神へは、唐門から入る。古来より代表的な天満宮で学問の神様である菅原道真公を祀っているため受験シーズンには参拝が多く絵馬は合格祈願である。
湯島天満宮は、創建が458年と言われ。徳川家康が江戸城に入ってからは代々崇敬を受けて多くの学者、文人が訪れた。そのため様々な碑が境内に点在している。また、富くじの興行(江戸三富の一つ)、境内の梅も有名で「湯島の白梅」という歌にもなり大ヒットした。「湯島の白梅」の歌詞も当時の様子をよく表している。
            1 湯島通れば 思い出す
                  お蔦主税の 心意気
                  知るや白梅 玉垣に
                  残る二人の 影法師
            2 忘れられよか 筒井筒
                  岸の柳の 縁むすび
                  かたい契りを 義理ゆえに
                  水に流すも 江戸育ち
            3 青い瓦斯燈 境内を
                  出れば本郷 切通し
                  あかぬ別れの 中空に
                  鐘は墨絵の 上野山
文豪 泉鏡花の代表作「婦系図」の主題歌となっている。明治三大メロドラマ(金色夜叉・不如帰)の一つとして上映が戦時中にもかかわらず大ヒットした。境内に立っていると名台詞「月は晴れても心は暗闇だ」、「切れるの別れるのて、そんな事は芸者の時に云うものよ。  私にゃ死ねと云って下さい。」がうかぶ。

湯島天神を出て春日通りを西に歩くと「麟祥院」がある、徳川三代将軍家光の乳母だった春日局の菩提寺である、古い墓石や苔のある岩が残る名刹である。春日局の墓石は奥まった所にある、石に囲まれた中に卵形の墓石に丸く穴が開いている、これは死後の世界からも政治を見通せるようにとの春日局の遺言に基づいており、当時としては珍しく政治的であるが、春日局の生い立ち幼少期の生活からくるものであろう。

麟祥院からさらに春日通りを西に歩くと古い洋風建築が見える、「本郷中央会堂」である。
Mさんの話では、夏目漱石の小説「三四郎」にも登場するとのこと。佐藤千夜子、山田耕筰、中山晋平なども出入りしていた教会でもある。現在は登録有形文化財となっている貴重な建築物である。

本郷三丁目交差点に「かねやすビル」1階が店舗2階以上が貸しオフィスのようであが、この「かねやす」江戸時代から続く珍しい店である。当地で兼康という現在でいう歯科医が「乳香散」という歯磨き粉を売り出し大繁盛したという。享保15年(1730)に大火があり、再興に力をそそいだ大岡越前守は、ここを境に南側を耐火のための家屋を命じた、店舗の外壁に「本郷もかねやすまでは江戸の内」というプレートが掲げられている。

春日通りを西に歩いて行くと理容店の壁にプレイトがあり、そこには「啄木ゆかりの喜之床旧跡」とあった。明治42年6月にこの喜之床(現:理容アライ)の2階に転居し2年2か月住み、啄木の最もすぐれた作品が生まれた。その後、転居し明治45年に26歳の若さで生涯を閉じた。

「かねやす」の反対側に桜木神社、住宅街の中に小さい墓地と十一面観世音菩薩があった、何とも不思議な一画である、水道設備と手オケだけで何もない、少し歩くと道路の真ん中にお堂があり、入口の表通りに提灯がぶら下がった表示に「本郷薬師」とあった。かつては、ここに真光寺があった場所で、戦災で焼失したためこのような状況となった。

本郷通りから「菊坂」に入る、その名の通り菊作りの人が多いことから名付けられた。文人たちの足跡の多いところで樋口一葉は有名である。菊坂を歩いていると脇道に「金魚坂」の表示があり立ち寄る、分かりやすい坂道名である、江戸時代から続く創業350年の金魚問屋があり、たくさんの水槽が種類ごとに並べられていました。

菊坂に戻り歩いていると先に小さい鳥居とお堂が、「火伏稲荷」とあるが火災・防災のお稲荷さんだろうが、この地を考えるとこのお稲荷さんの果たす役割は大きい。

さらに下ると「旧伊勢屋質店」がある。一葉の家庭は引っ越しが多く生涯12回転居したそうである、本郷に転居したのも父が死去し一葉は世帯主として母親、妹を養う身での転居で度々「旧伊勢屋質店」を利用した。伊勢屋質店は、昭和57年まで営んでいたが、現在は跡見学園女子大学が所有している。

一葉の住まいは菊坂に平行して通る「菊坂下道」の路地にあったが住まいはなく、一葉も使ったという井戸が残されている(現在は手動ポンプ)。

一葉の終焉の地に向かう途中「新坂」を下るが、この新坂は、もと森川町と呼ばれた所で、金田一京助の世話で石川啄木が一時移り住んだり、高等下宿が多く二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など文人が多く住んだ。
一葉の終焉の地は、本郷から近い白山通り文京区西片1-17ー8(旧丸山福山町)にある。ビルの片隅に碑があるだけで、多くの人は気がつかない場所である。この地で数々の名作が生まれたが、一葉は、結核のため24歳の若さで亡くなった。苦労の連続で悲しい生涯であった。説明文の隣に平塚らいてうによる文学碑が建っている。

春日通りから駅よりの「こんにゃく閻魔」の源覚寺に立ち寄る。「こんにゃくえんま像」は、鎌倉時代の運慶派仏師の作と推定されており、そうとう古いと思われる、特徴は閻魔像の右目が濁っているのが他と違う。名の由来は、一人の老婆が眼病を患いここの閻魔大王に祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の目をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。その後、老婆の眼はたちまち治り、老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、閻魔大王に供え続けたという。以来、この閻魔大王は「こんにゃくえんま」「身代わり閻魔」の名で信仰を集めている。その他、塩地蔵尊(治したい箇所に塩をつける)、汎太平洋の鐘は、サイパンの南洋寺に拠出された鐘が戦禍で行方不明となり、後に米国本土より返還、南洋群島物故者慰霊像など広くはない境内に祀られている。

源覚寺を出て駅に向かう正面に「シビックセンター」が建っている、区役所の中では一番高層建築物である。上の方から展望できるとの話でせっかくだから行ってみようということになり25階の展望室へ。曇り空のため遠くまで見えないがスカイツリー、新宿、池袋の高層ビルを眺められた。

今回の文学散歩で本郷界隈は、まだまだ古さが残る東京(市)を感じることができた。しかし、多くはあまりのも変わりすぎてプレートの説明文でしか当時の場所を知ることしかない。詳しいMさんのおかげで効率よく回れた。

【その他のPhoto】

 

 

 

 

 

 

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