爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

東日本橋から浅草橋、御徒町を巡る散歩

2015-02-25 18:51:35 | 日記
三寒四温を感じさせる好天にめぐまれ、「退職者の会」の東日本橋・浅草橋・御徒町の散策である、参加者も19名と多く、土曜日企画が良かったのか、近場が良いのかわからないが、幹事のMさん嬉しい悲鳴を通り越し大変な一日になりそうだった。この地域、日本経済を支える中小企業(問屋)が多い、そのため、土曜日となると閑散として、日本橋の中央通りに比べると人出はない。
東日本橋駅を下車し隅田川方面に歩いて行くと「薬研堀不動尊」がある。江戸三大不動尊の一つである(ちなみに他は目黒・目白不動尊)、川崎大師の別院で、本尊の不動像は、天正13年(1685)に豊臣秀吉の紀州根来討伐の際、戦火を逃れて葛篭に納めて運ばれこの地に祀ったと言われ、別名、葛篭不動とも呼ばれている。境内には、「順天堂発祥之地」、「講談発祥記念之碑」の碑がある。順天堂の始祖佐藤泰然が天保9年(1838)にこの地で、和蘭医学塾を開講、外科の治療を行った碑である、また、「講談発祥記念之碑」は、元禄時代に赤松清左衛門が浅草見附の町辻で太平記を講じ、江戸講釈の発祥となった。碑は移転し現在の不動院に設置された。
不動尊を出て両国方面に向かう、途中、妙法寺に立ち寄る、平和のために行動するお寺である、平和を訴えるお寺は珍しいが死者を弔うだけのお寺でなくて良い。

靖国通りに出ると、「旧跡 両国広小路」の碑があった。世界三大大火の一つと言われる「明暦の大火」(別名、振り袖火事)により江戸市街の大半を焼失、10万人の死者を出したと言われ、特にこの一帯での死者が多く、隅田川に「両国橋」を架橋するとともに、橋までの沿道一帯を延焼防止のため空き地とした。この空き地が江戸三大広小路となり盛り場となった。
碑の裏の道路を行くと「初音森神社」がある、神社そのものが「初音森ビル」の2階にある。銀座に屋上にある神社があったが同じようなものである。創建は元弘年間で、天文20年に社前に馬場ができ、馬追などが行われたと言われている。馬喰町は、この地で馬の商いのため集まった博労たちからつけられた。

両国橋に戻る、昔は、「大橋」と名付けられたが隅田川が国境(武蔵国と下総国)となっているため「両国橋」と呼ばれた。江戸幕府は、防備から隅田川の橋は、千住大橋以外認めない方針だったが、明暦の大火で事態を重くみた幕府が架橋を決断した。

もう一つの橋を目指し歩く、「柳橋」である。橋そのものは昭和4年に架橋されたレトロ感あふれる橋である。この一帯は、花街で有名で歴史が古く、柳橋芸者は格式があった。第二次世界大戦や隅田川護岸工事で衰退し、今ではビルが建ち並び昔の華やいだ雰囲気は無い、唯一、橋のたもとに老舗「亀清楼」が残る。伊藤博文も利用した料亭で森鴎外、永井荷風などの文学作品にも出てくる
が、現在は横綱審議会の会場として利用されている。

柳橋花柳界の名残が2つの神社に見られる、「篠塚稲荷神社」と「石塚稲荷神社」で「石塚稲荷神社」の石塀には「柳橋芸妓組合」、芸者さんの名がが刻まれている。

「柳橋」をあとに、浅草橋駅方面に向かう、途中に「東京文具販売健保会館」あり、幹事のMさんの話では中に「文具資料館」があり、伊達政宗の使用した鉛筆、昔の計算機が展示してあるとの事であるが、土日は休館している。(残念!)
総武線の高架下に「速水御舟生誕地」の説明板があった。私にとって聞いたことがあるような、無いような名前であるが、日本画家で作品は、横山大観や下村観山に絶賛されたが40歳の若さで亡くなられた。そのまま高架下を歩き浅草橋駅に到着しここで昼食である。
昼食後、浅草見附跡を見学、参加者から「見附」とはの疑問が?この見附、地名としては全国に点在している、街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所である。江戸城では36箇所あり「江戸城三十六見附」と言われた、江戸城外濠、内濠に沿ってあり、江戸城の外敵の侵攻侵入を防ぐため警備の城門が設けられ、浅草見附はその一つである。明暦の大火では、囚人らの逃亡を防ぐため門が閉じられ多くの死者が出たと言われている。

江戸通りを左に曲がり浅草橋駅の北側に「銀杏岡八幡神社がある、八幡太郎義家が奥州征伐に出陣する際、銀杏の枝を丘に差し立て勝利の祈願をした言われがある。その北方向には「須賀神社」、さらに北方向には「榊神社」がある。榊神社の境内には「浅草文庫跡碑」があった、明治8年に開館、明治14年に閉館されるまで、公私の閲覧に供された。
「榊神社」道路の反対側に「天文台跡」がある、正式の名前は、「領暦所御用屋敷」と言い、本来は暦を作る役所で正確な暦を作るため観測を行う所であった。


「鳥越神社」に向かう途中、「加賀美久米森稲荷神社」と「甚内神社」に立ち寄る。「甚内神社」は、忍者?であった高坂甚内が武田家再興のため江戸市中の治安を乱し、甚内が瘧(おこり:マラリア)に苦しんでいるところを捕らえられ処刑された。その時の辞世が「おこりを患っていなけれ、捕まることはなかった。おこりは本当に恨めしい。我が死後、この病に悩む者が、我を祈祷すれば治してやろう」その辞世から甚内は、難病の厄除神として祀られた。

東日本橋から散歩してきて、いよいよ「鳥越神社」である。
651年日本武尊を祀って白鳥神社と称したのが始まりとされ、源義家がこの地を訪れた際に鳥越大明神と改められたと伝えられる。「寺は浅草、社は鳥越」と言われ庶民に親しまれ、お祭りとなると賑わう。

境内で休息後は、御徒町駅に向かう、おかず横丁・佐竹商店街を通る、地域がら庶民を相手とした商店で、おかず横丁は、230m程の所に総菜、日用食料品の商店が並んでいます。この一帯は、町工場や共働きの家庭が多く、おかずを買い求める人で繁盛しました。

佐竹商店街は、日本で2番目に古い商店街と言われる。この地名は、この場所が久保田藩(秋田藩とも言う)の屋敷あとで、久保田藩の藩主の名前は佐竹と言い、藩主の名前が付けられた。佐竹家は、脈々と続く家系で現在の秋田県知事も佐竹氏である。この一帯は、三味線堀(形状から呼ばれた)による物資の集散で栄えた、しかし、明治末期から市街地の整備、陸上交通の発達により埋め立てられ、現在は姿を消してしまった。

「おかず横丁」「佐竹商店街」とも土曜日の午後なのに人出が少なかった、安倍総理のアベノミックスが全く感じさせられない、庶民の消費が冷え込んでいる印象である。こうした都会の商店街の賑わいがないと、地方再生はおぼつかない。
お天気が良く、春の近さを感じる爽やかな散歩であった。

【その他の写真】


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久々の「六本木ケントス」へ

2015-02-18 10:50:38 | 日記
何ヶ月ぶりであろうか、退職者の会サークルの「オールディズの会」からのお誘いで、ケントスへ。参加者は、いつものSさん、Hさんの3人である、Sさんは、ダンス教室に通っており、一人でもポーズをつくりクイックスロー、クイックスロー・・・練習の場である。まさに退職の後の生活謳歌・・・
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オークション評価 ”777” に

2015-02-10 19:03:30 | 日記
ヤフーオークションを利用して何年になるだろう、中古でも良いから安く購入しようと始め、数年前からは、捨てるのが勿体ないからと出品してきが、その売買での「良いと」という相手方からの評価が777件になった。実際の売買はもっと多いのだが、近年、終活のための整理で利用する事が多くなった。7の3並びでめでたくもないが、結構、利用してきた。
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