爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

再会と退職のお祝い

2016-04-26 10:14:32 | 日記
30年前一緒に仕事をしたメンバーで昼食をとった。当時、管理職だったKさんがOさんの退職祝い兼ねて集まりの音頭をとってくれた。現在80歳のSさんから60歳定年退職のOさんと皆それぞれ年を重ねての再会である。話は半月船旅をしたとか羨ましい話、亡くなった方の話、病気の話など、定年退職後は、いろいろ・・・さまざな事があるが、どうしても話題が偏るのが高齢者の集まりの特徴である。あっというまの3時間の昼食、お互いに健康に心がけ、またの再会を願って別れた。

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蔵前から元浅草を巡る

2016-04-25 21:06:41 | 日記
桜も終わり緑が美しい時期となった。今日の「退職者の会」の散歩は、蔵前で下車し「西福寺」から始まる、松平西福寺とも呼ばれ、松平の山号と葵の寺門が許されており、入口の門には葵の紋が刻印されている。お寺の入口に「勝川春章墓」と説明書きがあった、 浮世絵師の勝川春章は個性を表現した独特の肖像画を確立した浮世絵師で葛飾北斎も一時期門人であったらしい。もう一つ入口に「育英小学校発祥の地」とある、明治新政府が教育推進をはかるため、東京に六つの小学校を設立したその一つで境内に設立した。(育英小学校の前身で仮小学校第四校)

西福寺から北に歩き蔵前小学校そばの「淨念寺」に入る、「三島政行墓」と説明書きにあり江戸時代の府内の地誌である「御府内備考」を編纂した人物である、墓石は号である凸凹斎知還翁之墓とあった。

三筋町に入る、幕府の下級官吏の屋敷があった地域で三筋の道があったと言われる。「斉藤茂吉歌碑」に立ち寄る区立三筋保育園の中にあり、一人で来たら通り過ぎる場所にあった。斉藤茂吉が学生時代に上京し当時を懐かしむ歌が刻印されていた。

春日通り三筋二丁目交差点の角に「川柳発祥の地」の碑があった、碑そのものは新しく初代柄井川柳の似顔絵が記されていた。柄井川柳の墓石はこの場所から近い龍宝寺に祀られている、入口右手に柄井川柳の辞世の句「木枯らしや跡で芽をふけ 川柳」の碑があった。墓石は墓地の入口にあり、隣には不動板碑があった、板碑は石造りの塔婆で鎌倉時代から室町時代にかけて追善供養で造られた。


蔵前駅に戻るように進み「蔵前神社」を参拝、蔵前神社は1693年に江戸城の鬼門除けの守護神として創建された、当時は現在より境内が広く勧進大相撲を度々催され横綱谷風、大関雷電など力士が活躍し、相撲協会とはゆかりのある神社である。また、古典落語の「元犬」、「阿武松」の舞台であり元犬像が設置されている。

榧寺を出て厩橋を右手に見る、新入社員の時にエポック社、バンダイ、野村トーイなど輸出でよく行った、蔵前はおもちゃのメーカーが多かった。
昼食後は、「黒船神社」「本社三島神社」と回る、三島神社は2階が本殿だが狛犬が変わっていて磁器でできた沖縄シーサーのような物で珍しい。

国際通りを横切り金竜寺へ江戸中期で幕府にも使えた国学者・荷田在満の墓がある。

金竜寺の西側に本法寺があり塀が変わっていた、ブロック塀のような石一つ一つに放送局・落語家・芸人名などが刻まれ奉納されています、中に入ると「はなし塚」の碑がある、昭和16年に建立され戦時下に時局に合わない不真面目な事は自粛を求められ落語界では自主規制した、「はなし塚」は名作と落語界の先輩らの霊を弔うために建立し塚の中には台本等が納められた。奉納された塀の石には二度とこのような事がないようにとの願いもあったのでしょう。このお寺もう一つ珍しいのがお寺と神社が一緒である、神仏混合なのか?山門の石柱が右が本法寺、左が熊谷稲荷とあるが鳥居や狛犬はない。

さらに西に進み「永見寺」に入る、入って左手に囲われた一角がある、撮影禁止で写真は撮れなかったが、玉菊という吉原の遊女のお墓だと言う、才色兼備の人気の遊女だったが大酒のみで25歳で亡くなった。玉菊灯籠は、玉菊を偲んで供養した事から付けられた。
もう一つ珍しいのが「まよひ子のしるべ」の石碑が本堂脇にあった。石碑には表裏があり、表には「たづねる方」で迷い子の特徴を書いて貼り、裏は「志らする方」で見つかった事を貼った。今でいう伝言板であるが、昔も今も子どもの事は親は必死である、こうした石碑は江戸時代は多く見られたようである。

今日は、4月18日葛飾北斎が亡くなった日である。今回は誓教寺は2回目であるが前回は法要には参加しなかったが今日は法要の時間には間に合う時間に着いた。住職が幹事のMさんの学生時代の先輩と言うこと団体で押しかけ配慮して頂いている事が多い。和室にて葛飾北斎に関わる展示品を見学、江戸時代の人たちが触れた北斎漫画を手に取れるなんて感激である。法要の時間になると込み合ってきた、TV撮影クルーなども取材し葛飾北斎の人気はスゴイ!。境内では車いすの高齢の婦人が何人もの男性と記念撮影をしていた、後で知ったが篠田桃紅さんであった。103歳の美術家で従弟が監督の篠田正浩さんである、昨年は「103歳になってわかったこと」はベストセラーになった、一見してただものではないと分かったが、元気なおばあちゃんである。

 
法要が込み合っていたので遠慮し、下谷神社へ立ち寄り上野駅へ。


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別れの4月

2016-04-17 14:18:29 | 日記

かつて職場で一緒だたK君の「退職の会」のお誘いがあり上野公園「韻松亭」に、上野駅に早めに着いたので園内をブラブラする、上野公園全体が「音楽祭」とやらで民舞をやっていたが、立ち止まって見ていたのは外国人が多かった。外国人観光客がTVで話題になるが本当に多いんだというのここでわかる。
会食20分前になったので「韻松亭」前に、すでにIさん、Sさんがいた。さすが創業明治8年の懐石料理のお店、開店20分前には店の前は予約客でいっぱいである。

日本家屋は、明治政府が欧米の都市公園建設推進で上野公園を造った当時の建物なのだろうか和室の方は落ち着いた雰囲気で12時には寛永寺の鐘が聞こえてくる。
K君は、定年まで1年を残しての退職との事、疲れてこれ以上やってられない言っていたがサラリーマンにとって働きにくい時代である。
4月は別れの月である、もう一人の会食も予定されている。どんどん知っている人が退職する・・・

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小石川植物園から六義園 桜を巡る散歩

2016-04-05 20:17:52 | 日記
サラリーマン時代は、お花見なんて・・・いまでは「退職者の会」のお花見に参加ができる。年金生活者の特権でもある。
千代田線春日駅で下車し、後楽園駅前の広場(礫川公園)に出る園内に「ハンカチノキ」(和名)プレートには「幸田文ゆかりのハンカチノキ」とある、一科一属一種といわれる珍しい木で、幸田文が小石川植物園の技術専門員から譲り受け、長女の随筆家・青木玉の庭に仮り植えされていたものを移植したと記している。公園から春日通り「富坂」を上がって「伝通院」に向か

う、立派な山門の前に「日本指圧専門学校」の看板あり「浪越徳次郎」の銅像があった、我々の世代には「指圧の心は母心・・・」で有名である。
伝通院は、将軍家の菩提寺として栄え墓石も立派なものが多い、明治維新以降に開放され柴田錬三郎など著名人も多く埋葬されている。
主な埋葬されている方々
・於大の方(家康の母)・千姫(二代将軍長女)・亀松君(二代将軍次男)・孝子(家光正室)・於奈津(家康側室)・青河八郎(幕末の浪士組の創設者)・杉浦重剛(思想家、教育者)・古泉千樫(歌人)・簡野道明(漢学者)・佐藤春夫(作家)・高畠達四郎(洋画家)・柴田錬三郎(直木賞作家)・橋本明治(日本画家)・浪越徳次郎(指圧療法の確立者)他


伝通院を出て竹早高校の脇の道を通る、この坂道は、「三百坂」と言い、昔、共の列にこの坂で加わらない者には罰金として三百文を支払わせたといわれた。今も昔も遅刻はあったようです。「三百坂」を通り、「播磨坂」に出る。「播磨坂」は、桜で有名で道路の真ん中が散歩道として整備されている、行ったときは「文京さくらまつり」(3/19~4/3)が行われていた。
「播磨坂」から脇に入った所に「石川啄木終焉の地」があり歌碑・顕彰室があった、歌碑に「呼吸すれば、胸の中にて鳴る音あり、凩よりもさびしきその音 眼閉づれど 心にうかぶ何もなし。さびしく眼をあけるかな」啄木の最後の歌とされるが、何とも若くして病死した啄木の悲しい歌である。

早めの昼食を済ませた蕎麦屋さんの隣の新福寺に文京区教育委員会の説明書きの表示があった。現存する「鐘撞料割付覚」の文書であり、江戸中期に「時の鐘」が聞こえる住民から「撞役銭」を徴収していた貴重な資料である。

新福寺から「小石川植物園」が見えてくる、正式には東京大学大学院理学系研究科付属植物園といい植物学の実習施設である。古くは徳川幕府が設けた「小石川御薬園」で明治10年に現在の植物園となり、日本では一番古く世界でも歴史のある植物園である。 園内は、台地、傾斜地、低地、泉水地などの地形を利用し植物が配置されている。


十分に自然を満喫し、植物園に沿って「御殿坂」(かつて徳川舘林藩の御殿があった)を通って「円乗寺」に入る「八百屋お七」のお墓がある事で有名である。八百屋の娘で恋人に会いたい一心で放火事件をおこし火あぶりになった少女で、井原西鶴の「好色五人女」で知られるようになった。

文京区白山は「白山神社」が地名の由来で、由緒のある神社で東京十社の一つでもある、入口左に「孫文先生座石」と刻印されている、下の石に座り中国革命の勝利を誓ったと言われる。境内には御神木の「旗桜」(現在は後継樹)があり八幡太郎義家が戦勝祈願で、この樹に旗をかけ祈願したと言われている、白山の桜は、かつては江戸三大桜に数えられていた。5月からは紫陽花が咲き誇ろびアジサイ寺ならぬ別名アジサイ神社と言われている。

白山から駒込の本郷通りに移動し南谷寺に入る、三代将軍家光が鷹狩の途中、駒込村動坂の庵に寄り目黒・目白不動に対して目赤と呼ぶべしと領地を与えた。江戸の五色不動の一つとなった、この会の散歩でも、他のお不動さんにもお参りしてきた。

隣のお寺が養昌寺で、半井桃水が祀られている。半井は、新聞小説を確立した作家で、一時期、門下に樋口一葉が加わった。

歩いていると文京区がこんなにお寺があるとは思わなかった。吉祥寺はその中かでも比較的大きいお寺であった。川上眉山(小説家)、二宮尊徳(思想家)小出浩平(音楽家)榎本武揚(政治家)が祀られている、境内が広く落ち着いた感じのするお寺である。


六義園に向かって本郷通りを進み、途中、「富士神社」に立ち寄る。
江戸時代の富士信仰の拠点の一つで、民からは「お富士さん」と親しまれた。富士講の中でも最も古い組織の一つで、町火消の信仰が厚く纏の石碑が飾られている。初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄」この地の事を言い、周辺に鷹匠がり、駒込茄子が名産であった、縁起のいいものを並べて、一年のささやかな幸福を願い縁起を担いだ。

最後は六義園の桜である。六義園での桜は初めてであるが、平日なのに込み合っている、皆さんの目的は桜である、撮影スポットは、入園してすぐの「しだれ桜」である。六義園の案内チラシにもライトアップした写真が載っているが、やはり内庭大門からの「しだれ桜」が撮影の人気スポットである。今度は、ライトアップされた桜も見てみたいものである。
ここで何人かは、引き続き庭内見学をするため解散し駒込駅より帰路に。

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