爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

5月の真夏日の中、九段下界隈を散策

2015-05-29 07:48:10 | 日記
昭和館と思って地下鉄から地上に出たが九段会館の方に歩いていた、途中で変だなと思ったが、レトロな九段会館をカメラでパチパチ。
九段会館は、昔、友人の結婚式で中に入った事があるが外見と同じで中も重厚な感じであった。私の母などは軍人会館と言っていたが、昔の方は、軍人会館の方が分かりやすようだ。軍の予備役の訓練、宿泊を目的とした建物で、2.26事件では戒厳令司令部が置かれた、現在は、日本遺族会に無償貸与されている。昭和館は隣で入口は反対側であった。平成11年に開館され、まだ、新しさを感じる7階建ての国立博物館である。(厚生労働省社会・援護局が所管している)6・7階が常設展示で有料であるが、この常設展示を見学しない事には何しに行ったのかわからない。昭和10年から昭和30年頃までの国民の生活を実物資料を展示している。戦前・戦中・戦後を通しての国民の不安・苦しみ・悲しみ・怒りが伝わる展示である、父母がこんな時代を生きてきたのかと思うと、二度とこんな時代を繰り返してはならない。




靖国通りを歩き田安門(江戸城最古の門)を見学、中に入ると北の丸公園(江戸城の北の丸であった)で武道館など文化施設があるが今日の目的ではないので重要文化財を見て出る。

千鳥ヶ淵緑道を過ぎ左に曲がり、今日の目的である「千秋文庫」へ、。「千秋文庫」は、旧秋田藩主の佐竹家に伝わる貴重な文化資料を集めた博物館で、創立者は佐竹家の家令職であった小林昌治で、太平洋戦争の戦火から文化財を守るために佐竹氏から小林氏に譲渡されたもので、小林氏の遺志により「千秋文庫」として昭和56年に開館した。武士の時代から近世まで歴史的な資料を、今、見る事ができる。それにしても、日本には多くの藩が存在していたが、「佐竹本三十六歌仙絵巻」など佐竹氏ほど文化的な資料を所蔵していた藩主は珍しい。



「千秋文庫」を出るともう12時過ぎである、付近の飲食店はサラリーマンの昼食時で混んでいそうなので、コンビニで「おにぎり」「お茶」を買い千鳥ヶ淵緑道のベンチで昼食を取る。時折、ランニング姿の人が駆け抜けていく、これが皇居外周のランニングか・・・
食事も終わり、緑道を歩く今は緑であるが、桜のシーズンにはライトアップもされ賑わうそうである、ボートも楽しむことができる。

「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」は、そんな場所にあります。海外で亡くなられた軍人・軍属のみならず海外において犠牲となられた一般邦人も含まれ、昭和28年以降収集したものが安置されている。六角堂には儀式があたのだろうか天皇皇后両陛下による献花がされていた、家族連れがお参りしていたが父親が外地で亡くなられたのか遺骨が無い場合ここで合掌するのが一番だろう。名もなく亡くなられた人を考えると平和を祈るばかりである。

持っていたお茶のペトボトルもぬるくなり冷たい水が欲しくなる。予定していた博物館が見つからないのでカットして、靖国神社の遊就館を見て帰る事にする。途中、滝廉太郎の居住地跡があった、碑は交差点にあったが実際は100m西のマンションの場所で、明治27年から明治34年まで住んでおり、「花」「荒城の月」「箱根八里」などの作品を作ったようです。

靖国通りに出ると目の前は、靖国神社である。「遊就館」は、本殿の近くにある、1階(零戦等の陳列・売店)は無料であるが2階(4つの展示ゾーン)は有料となっている。靖国神社は、歴史が浅く明治時代である。ある目的をもって創建された神社であり、その創建目的が精神的支柱となり日本の熱烈な保守層のより所でもある。かつては神社には「格」があり、今でも昔の「格」を引き合いに出す人がいるが、靖国神社は別格のようです。鉄製の鳥居の大きい事、大村益次郎(長州藩・陸軍の創始者)の像が高い事などプロパガンダに果たした役割は大きく、今も続いている。


 5月なのにニュースになる暑さ、「遊就館」内のベンチでしばらく休憩し早々に帰った。

【その他のPhoto】/font>
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白金高輪から恵比寿を巡る日帰り散歩

2015-05-17 14:37:04 | 日記
天気予報では、都内でも30度にという予報。5月の台風とは異常気象であるが、急に気温が高いのには体が慣れない。幹事のMさんも水分を取りながらと・・・注意を。
スカイツリーライン・千代田線・半蔵門線と乗り換え白金高輪駅で下車、地上に出ると、そこは交通量の多い国道1号線(桜田通り)である。最初の訪問先は、覚林寺であるが、近くに「大久保彦左衛門」のお寺があると言うことで立ち寄ることに。わかりにくい裏通りを歩いていると山門が見えてきます、朱色というより赤紫色の山門です。門を入るといきなり「大久保彦左衛門」の大きい碑と脇には「一心太助」の碑がある。大久保彦左衛門(大久保忠教)は戦国時代の武将で80歳で没した実在の人物で、映画・TVで「天下のご意見番」と名高いが、講談、講釈での逸話が多い、「一心太助」はその最たるもので、鶴屋南北の弟子である河竹黙阿弥の芝居脚色してからのようだが、面倒見がよかったことは伝わっていたようである。

桜田通りに戻り覚林寺へ入る、「清正公」さまと古くから慕われた加藤清正の位牌や像を祭る勝負の守り神として古くから信仰されている。進学・就活で御利益がありそうな気がする??加藤清正も逸話の多い戦国武将であるが、それだけ武勲を立ててきた。加藤清正は、武将であるとともに「藤堂高虎」や「黒田孝高」と並ぶ築城の名手として知られ、熊本城や江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わったり、治水・土木事業にも精通していた。

覚林寺を出て明治学院大学へ、白金台の地名にピッタリの洋風の建築物が見られる。明治末から大正初めにかけて建築された建物が残されている、創立は1863年のミッションスクールでジェームス・カーティス・ヘボンが横浜に開いた「ヘボン塾」が最初で、後に男子部は明治学院、女子部はフェリス女学院となる。創立者のヘボンは、ヘボン式ローマ字で有名でり、我が国の英語教育に貢献した人物である。

明治学院大学から恵比寿方面に向かう、途中、瑞聖禅寺へ立ち寄る、門をくぐり階段を上がると中国の少林寺に出てきそうな大雄宝殿がありました、江戸で最初の黄檗宗(日本に最初にインゲンマメを持ち込んだ宗派)で、この宗派の特徴なのか雄大な規模の仏殿です。白金という地にありながら、昔にタイムスリップしたような境内でした。


もう一つの山門から出て目黒通りから目黒自然教育園に、この園は、国立科学博物館の施設で、歴史は400~500年前の豪族の館からで、土塁が保存されています。江戸時代は高松藩の下屋敷、明治時代は陸海軍の弾薬庫、大正時代は御料地となり豊は自然が保たれ、昭和24年から一般公開されてきました。一般的な植物園と違い、本来の自然な姿で保存し倒木もそのままであった。植物名がわかっていれば季節の移り変わりや成長がわかり楽しみも増えるのではないでしょうか。都心でありながら自然が保たれ自然教育園と名前がついているが憩いの場でもある。





最後は、恵比寿ガーデンプレイスである、日東坂を通るがこの一帯に日本精糖、日東紡があったことから名付けられた坂であり、裏手から恵比寿ガーデンプレイスに入る。サッポロビールのビール工場がこんなに変貌するとは、昔、誰が想像したろう。一つの昔が完全に消えた。
散歩先に「アメリカ橋」というのがMさんの案内葉書に書いてあった。皆、不思議で山川豊の歌に出てくるとか、興味がそれぞれふくらむ。恵比寿ガーデンプレイスを出て、JR恵比寿駅へ向かい左にまがり跨線橋歩いていると、幹事のMさんが表示の前でこの橋ですと!!、皆、唖然として「エ~」期待が萎んだ。この橋、通称「アメリカ橋」正式には「恵比寿南橋」と言うらしい。1904年のセントルイス万国博覧会に展示されていたもので、それを買い取り鉄製の橋のモデルとして1906年(明治39年)に架設したとのことである。

アメリカ橋を渡り、日比谷線にて帰ったが、天気予報の30度は無かったようであるが、5月にしては暑かった、しかし真夏の地面からの照り返しが無い分助けられた。

【その他のPhoto】

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国指定名勝「おくのほそ道風景地 草加松原」を歩く

2015-05-11 08:20:00 | 日記
草加市は、人口24.3万で埼玉県6位の市である。先日、友人と草加市は全国的にも名前が通っていると話題になった。確かに全国的にも同規模の自治体の中では「草加せんべい」で有名な方かもしれない。私も田舎に住んでいるとき修学旅行のお土産に三越で「草加せんべい」を買うように言われた。私の実家は埼玉県とは何の関係もないが、それだけ「草加せんべい」は有名であり、生産地である草加市が後についてきたのだろう。今も多くの「草加せんべい」店が点在しており、市民にはお気に入りの「草加せんべい」店があるようです。その他に日光街道の宿場町として観光による地域活性化に力を入れている、日光街道松並木の冬の風物詩である菰巻(こもまき)は、菰巻に害虫をつけ春先に外し幼虫とともに焼却する、この菰巻作業はTVでよく放映される。
草加市中央公民館での「泉の会」コンサートから、天気も良いので一駅歩き、旅人の雰囲気を味わうことにしました。日光街道(旧国道4号線)を北に向かって歩くと右手に綾瀬川に平行となり、そこからが観光道として約1.5Km整備されました。望楼のそばに「松尾芭蕉」の像があり、「その日ようやく草加という宿にたどり着きにけり」と記してある。現在、札場河岸公園(ふだばかし)となっているが、かつて綾瀬川の舟運が盛んなり時の船着き場である。この綾瀬川、草加で生まれた人は昔は泳げたと言っていたが、高度成長期には生活排水・工業排水で日本一の汚染川であった、いまでもベスト10に入っているのでは。
川が澄んでいれば、この600本あまりの松も一層映えるだろうに残念である。途中、一般道と交差する所は、太鼓橋で景観を盛り上げている。
昔の人もこうして松を見ながら旅をしたのだろうと思いを馳せていると左手が松原団地駅の表示が、ここで散歩は終わりである。



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「泉の会」コンサート

2015-05-10 20:26:52 | 日記
退職やら介護やらで心のゆとりが無く欠席していたコンサートであったが、I・Nさんの案内葉書に「社会科見学の一つとしてぜひいらして下さい」と添え書きがあった。I・Nさんが私のブログを見て添え書きをしたのだろうが、好きな地理系の事は無理をしても出かけるが・・・心にうるおいが無くなってしまった。
そんなお誘いもあり、久しぶりにコンサート会場である草加市立中央公民館に、受付を済ませてプログラムを見ると「退職者の会」の会員である方が3人出演している。かつてI・Nさんと職場が一緒の時に感想を言わずに「衣装がすごいですね、どうしたんですか?」と聞いた事があったが、私の音楽のレベルはこんなもんである。

「泉の会」の演奏会も33回目との事、プログラムの挨拶に、お互いの意欲を高めるため例会、相互発表会し「皆さんがおいで下さるのを励みに演奏してまいります・・・」とあったが、このコンサートは、無料である。手弁当で、会場借用料・衣装代等々を負担・・・頭が下がる。今後、益々、充実した会でありますように、また、私たちに高尚な音楽を手軽に鑑賞できるように願う。

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「退職者の会」は8割交流2割活動

2015-05-09 17:12:49 | 日記
5月8日に年1回の総会が行われた、その時のスローガンが表題の「8割交流2割活動」である。この退職者の会は、労組の加入していた者が「退職者の会」の加入条件でもある。そのため退職者の単なるお楽しみの会だけではなく、社会問題等への運動をしていこうという課題もあり、総会は労組の定期大会と同じである。

総会の後の交流会は、お互いの近況や趣味の紹介やら、1年ぶり、何十年ぶりの再会で盛り上がった。

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