爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

有楽町に秋田美人が舞い降りる

2013-09-29 14:41:45 | 日記
秋田県観光キャンペーン「秋田けけけ祭り」が有楽町でありました。JR東日本で宣伝している、「あきたデスティネーションキャンペーン」の一貫で、この「けけけ」は、見にけ!食べにけ!湯にけ!の「け」でいわゆる来てくださいである。秋田の観光を凝縮して見聞き出来るので行ってみた。有楽町駅前と国際フォーラムが会場でフォーラムの方では、飲食コーナーや売店などもあったが何処も混み合っていた。
有楽町駅前では、始まる前に男鹿の「なまはげ」がデモンストレーション、「なまはげ」も今流行りのゆるキャラの一つなら最強のゆるキャラである。怠け者を懲らしめ・災いをはらい祝福を与える意味があるようだが、地域を守り、子どもを地域で育てるという、顔は怖いが温かみのある行事である。
○西馬音内盆踊りは、生で見たい盆踊りの一つである。端縫いの衣装、編笠、ひこさ頭巾の踊り手は何とも言えない神秘的と言うか、死者の踊りと言うか、明るいと言うか不思議な世界に引きずり込む踊りである。踊りは、「音頭」と「がんけ」があり。歌詞は色っぽさがあったり、風刺したものがあったり、秋田の開放的な一面もある。
○飾山囃子を角館高校の生徒が演じてくれた。400年の伝統があるようで、テンポの早い、勇壮な囃子、秋田おばこによる優雅な手踊りが素晴らしい、秋田の踊りは体や手を反る動作が多く女性の美しさが伝わってくる。
○仙道番楽は、山伏の神楽舞が始まりと言われいるよだが、素朴さが出ている、獅子舞が普段見る獅子舞の踊りとはチョット変わっていた。
○竿燈祭りは一度見たが事があったが、あのバランスは見事なものである。五穀豊穣を祝い、厄除けの意味があるが、秋田の行事には、自然・物への感謝とこれからの願いがこもっている。今度は、提灯に火を灯した竿燈をみたいものである。
○秋田美人100人出発式なるものがあった。妻にこの事を話したら、このスケベじじいと言う顔をしていた。昔、秋田駅のステーションデパートに立ち寄った時に、可愛い子が方言で話しているのを見て、そのギャップが何とも言えない魅力を覚えた。よく秋田美人は北方系とか、ある医師が肌の色素などの研究している紹介を見た記憶があるが。今日みたいに100人も揃うとまさに壮観であり、秋田美人は日本一である事を確信する。ちなみに、私の妻も秋田県出身であるがチョットくたびれたかな・・・今月が妻の誕生日であるが、感謝すると共におめでとう、これからも宜しくと言いたい。
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両国散策とケントスのオールディーズ

2013-09-27 21:44:43 | 日記
「退職者の会」の企画に参加した。偶然にも2つの企画が重なる、時間がずれているので、両方参加する事に。
両国は初めてではない、江戸博物館・国技館にも行ったことはあるが、それ以外の両国は初めての事である。集合していると参加者の一人が「何で両国と言うか知っている?」やはり企画した方が、江戸時代に大火があり川のため避難出来ずに多くの人が亡くなり、その教訓から橋をかけ、武蔵国と下総国を行き来が出来るようにした事が「両国」の由来との説明。この大火は、江戸三大大火の一つで、世界的にも世界三大火災の一つに数えられています。(死者10万7千人で、関東大震災に次ぐ災害)この両国橋は、江戸時代後半には、江戸の盛り場のひとつとなり、飲食店・芝居寄席小屋など娯楽が集中した、相撲興行も江戸時代からの伝統となった。こういう賑わいから多くの歴史上の舞台、人物が関わり、見るべきものが多い。
(1)両国駅~国技館~旧安田庭園~横網町公園
現在の両国駅は、昭和4年にできたもので私鉄時代からいろいろな変遷をへて現在にいたっている、平成10年には「関東の鉄道百選」に選定されている。駅を降りると右手に「江戸東京博物館」と「国技館」が見える、ちょうど9月場所の開催もあり駅前は賑わっていた、「国技館」前を通り「旧安田庭園」に向かう、途中、ビルの角に「船橋聖一生誕記念碑」見過ごすような所にあった。
「旧安田庭園」は元禄年間に大名庭園として築造された「回遊式庭園」で、かつては隅田川の水を取り入れ、眺めの変化を鑑賞する庭園です。現在は墨田区が管理をしている。
「旧安田庭園」の裏手にあるのが「横網町公園」である、関東大震災、東京大空襲の犠牲者を供養するために建てられた。慰霊堂・復興記念館を中心に日本庭園、子供の遊び場があり、行った時は子供たちが運動会の練習をしていた。公園を出て清澄通りへ左に曲がると北斎通りへ、名前のとおり「葛飾北斎生誕の地」がある、通りには北斎の浮世絵がパネルで飾られている。北斎の美術館が数年後に出来るようである、通りを歩いて行くと「野見宿禰神社」がある。
この神社は、由緒ある神社ではなく明治18年に高砂部屋が神社をここに祀ったのが始まりと言われる。境内には歴代の横綱が石碑に刻まれている。本場所前には相撲協会の神事が行われ相撲土俵入りも行われるそうです。
(2)両国公園~吉良邸跡~回向院
食事をしたあと、両国公園に。何の変哲もない公園だったが、勝海舟の生誕の地であり、記念碑が建てられていた。
両国は、著名人の碑が多い、芥川龍之介・小林一茶などがあったが碑だけである、チョット残念な面もある。今回、参加者が注目していたのが、吉良邸跡である。地図を見ながら正門へ、、エ!!吉良邸正門があった所がマンションの入口になっていた。
近くの本所松坂公園に記念碑が、上野介屋敷は広かったようだが公園の手前が邸内との事、公園の中には稲荷神社「首洗い井戸」吉良上野介の銅像、吉良家家臣二十士の碑がある。皆、討ち入り後、よく泉岳寺まで歩いたものだと一同関心し、当時の状況に思いを馳せた。この公園は、地元の有志が購入し東京市に寄贈されたもので、ミニ公園ではあるが地元の方の一方ならない思いがあったのでしょう。
最後の見学場所は、回向院である、このお寺は鼠小僧次郎吉の墓があることで有名、長年捕まらなかった運にあやかろうと墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に金運向上や合格祈願に来る受験生であとをたちません。現在では、墓石の前に石があり、それを石で削るようになっている、私も石を削り財布に入れたがご利益があるといいが・・・、そのほか、相撲にちなんだ「力塚」、参詣者が願いが成就すると塩を供えた事から「塩地蔵」などがある。

(3)ケントスのオールディーズ
 日帰り散歩が終わり、今度は六本木での夜の部である。歩数も一万歩を超えヘトヘト、帰りたい所だが、秋葉原の電気街で時間調整それでも時間があり、山手線を一周してしまった。疲れていても'50、'60年代の曲を聞くと楽しくなるから不思議である。可愛いユキエちゃんも元気に歌っていました。
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盛岡散策

2013-09-13 07:35:58 | 日記
岩手の県名起源
駅から遠いが歩いて名須川町のお寺へ、この辺は寺町で古くからのお寺が多い、お墓に5年ぶりにお参りをする。いつも、仏壇や墓石に向かうと、長男なのに不義理だと自問自答する。お寺の帰り裏手にある「三ツ石神社」に寄る、この神社は、「岩手」の名の由来の神社である。神社としては住宅地にある小さな神社で、鳥居をくぐると正面に三の大きい石がある。昔、この地をなやます鬼が住んでおり、住民は三ツ石の神に祈り鬼を
捕まえてもらい境内にある巨大な三ツ石に縛り、二度と悪さをしないよう三ツ石の岩に約束の手形を押させた事が由来と伝わっている。また、鬼が再び来ない事を誓ったこの地を「不来方」と呼ぶようになったと伝えられる。岩手公園のお城は別名「不来方城」と呼んでいた。鬼の退散を喜んだ住民の踊りが「さんさ踊り」の起源と言われている。
石割桜と岩手公園
 裁判所の敷地内にあるのが大きい石の割れ目から桜の木が伸びている、国の天然記念物になっているが、樹
齢300年以上との事、植物の生命力の強さには驚かされる。役所街から大通り方面に行くと岩手公園がある。北東北のお城の中では珍しい石垣である。秋田の佐竹藩のお城に比べると重厚な感じで、日本百名城の一
つでもある。残っているのは石垣だけであるが、散歩するには良いところである。石垣の上には、このお城の雰囲気を表している句碑がある。
「不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし十五の心」
啄木が授業をサボってお城の草に寝ころんでボーとしている情景が目に浮かび、私にとって好きな句である。もう一つ好きなのが、新渡戸稲造の句碑である
「願はくはわれ
        太平洋の橋
               とならん」
新渡戸の生家が岩手公園の傍にあるが、国際連盟事務次長・東京女子大初代学長などでも知られ、インターナショナルな学者であり、著作の「武士道」は海外で日本人の倫理観・道徳観などを知る上で長く読まれており、日本人にも未だに影響を与えている。
盛岡市の大通りは、私の小さい頃は賑わっていたが、かつての賑わいが無く
なったように思えるが地方都市はおしなべてこうした状況であり、落ち着いた
住み良い街になってほしい。
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両親の墓参りと母の思いで  

2013-09-12 07:18:03 | 日記
私の両親は、品川区の立会川駅付近に3人で居住していた。父が陸軍に招集され、戦況が厳しくなると、学童疎開の話が出て、地方に親戚のある者は、親戚の家にというお知らせがあった。私の母は、父方の盛岡市の隣町に引っ越した。父方の祖父は田舎で商売をしており、母はデパート勤務していた経験もありその方の苦労の話は無かったようであるが、姑とはあまりしっくりいかなかったようであった。お寺が盛岡市にあるのは、本家が盛岡市で、やはり商売を営んでおりその関係もあり、盛岡市にお寺があるようである。毎年、お盆には本家とお寺に挨拶に行くのがならわしで、必ず私を連れて行った。いま思うと本家には長居をしたくないので私を連れて行ったようである。本家は、商家としては大きい方なのか使用人がいたが、小さい私にも古い商家で暗いイメージなのがわかった。 挨拶が終わるとお寺に行く、そしてデパートに寄って当時賑やかな大通りを通って駅にむかう。

大通りを過ぎると開運橋がある、開運橋では傷痍軍人がアコーディオンを弾いていた、この光景を知るのも私の年代までだろう、橋の下の北上川は、黄色の川でまさにイェローリバーであった。上流の松尾鉱山での硫黄産出の影響であったが、今思うと公害であり当時は問題にならなかったであろうか。母は、列車の乗車時間に間がある時は、決まって開運橋際の喫茶店(小岩井農場直営なのか?)によった、飲み物とカツサンドを頼み、しばらく開運橋の方をぼうとして眺めいた。母にとっては、唯一、落ち着ける時間なのだろう、母の苦労を思うと可哀想であった。列車の時間が近づくと、ちり紙を出し残ったカツサンドを包んで姉のお土産にした。

盛岡市も様変わり昔の面影はなくなったが、私にとっては、思い出の残る街である。
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田舎での同窓会

2013-09-11 21:11:12 | 日記
5年ぶりの中学同窓会で田舎に帰る、還暦の際に同窓会を泊まりでおこなった以来である。今回は少ないかと思ったが、まあまあ参加していた。私の世代はベビーブームで田舎の中学でも1学年3クラスあり100名を超えていた、1/3弱は参加したのだろう。

集合写真を撮っても名前を表記してもらわないとわからない、もう、名前を言ってもわからない人も。前回同様、亡くなられた方へ黙祷から始め宴席に移る、地元に住んでいると直ぐにでもうち解けるが、町外で暮らす者にとってはなかなか馴染めないものである。亡くなられた方に友人のS君がいたのにはビックリした。彼は学生時代に田舎に帰ると、わざわざ盛岡市より訪ねてくれたり、人なつこい所があり、同窓会でゆっくり話そうと思っていた、まことに残念である。電車の関係で早めに帰ったが、幹事が5年後の70歳でまた企画するとの話であったが、それまで元気でいたいものである。
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