爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

「鎌倉の代表的な寺院を巡る」散歩

2017-07-16 11:44:08 | 日記

7月の「退職者の会」の日帰り散歩は、紫陽花の時期も終え、落ち着いた鎌倉散歩を企画 してくれました.
梅雨の時期ではあるが、猛暑が続き欠席者もあり、待ち合わせ場所にてお互いに無理しないように、コースを変更しながらと・・・
今回のコースは、前にも訪れたことがあり、前のブログと重複しないようにしました。
北鎌倉駅で下車し「円覚寺」に入る、円覚寺は北鎌倉駅から近く、鎌倉五山第二位の格式のあるお寺である。
丘陵地浸食されて出来た谷に沿って建てられお寺で、そのため総門・山門・仏殿・方丈が高低差のある所に一直線にならぶ禅宗様式の伽藍配置の壮大な空間で、他のお寺ではあまりみられない。黄梅院や洪鐘の方に上がると高さが良く分かる。

 
 
 
東慶寺は、鎌倉尼五山の一つで唯一現存している寺ではあるが、現在は男僧寺院である。尼寺であったため駆け込み寺としても有名である。奥の方には著名人の墓石があり、探し充てるのもよい。
 
淨智寺は、鎌倉時代北条氏が全盛の時に創建された。閑寂なたたずまいを感じさせる寺である、地形をうまく利用し配置されており、洞窟には仏像が祀られている。布袋尊がチョット変わっていて面白い。
 
 
明月院は、今年の紫陽花の時期には何度TV中継されたか、鎌倉有数の「花の寺」でもあり、女性には人気の寺院である。本堂の丸窓からの景色は絵のようである。本堂にも上がれるようだが終了していた。本堂裏の庭園は、紅葉、花菖蒲の時期には公開しているが、込み合うお寺でもあり時間には注意が必要である。
 
 
幹事Mさんの予定では、まだ立ち寄りの計画があったがカットし帰路に。
暑い一日だったが、都内の寺院にはない木々と風が伝わり、さすが鎌倉は・・・
 
【その他のPhoto】
 
 
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「青べか物語」の街、浦安を歩く

2017-07-06 19:59:00 | 日記

♦山本周五郎♦
「浦安市郷土博物館」の古民家に「山本周五郎」のパネル展示があつた、恥ずかしいことに山本周五郎と浦安が結びつかなかったし、「青べか」が何なのか知らなかった。
山本周五郎は、「八犬伝」に出てくる行徳に行く途中、満々と水をたたえた川の中の町がベニスのように見え、こんな所があるのかと舟を降りてしまったのが浦安の町であった。1年あまり浦安で過ごし、見聞したことを小説にしました。「青べか」とは、貝や海苔を採る一人乗りの平底舟である。平底舟だから海には出られない陸に近い部分での操業である。
山本周五郎の見た光景は旧江戸川河口付近で生きる人々の様子であろう。昭和初期の浦安から現在では大きく変貌を遂げた。
♦行政面積が4倍に♦
一番変貌したのは、行政面積が4.43平方キロメートルから4倍の16.98平方キロメートルに増えたことだろう。
1964年(S39)以降の二度にわたる大規模埋め立て工事で二つの町が(中町・新町)出現した、それがディズニーリゾート・ウォーターフロントとして知られるようになった。
♦浦安市の市勢♦
浦安は、市内に東京ディズニーリゾートがあることで全国的に知られ、財政力指数も高く豊かな市として有名である。都心から12Kmという好立地で国勢調査でも増加傾向で推移してきたが、東日本大震災により埋め立て地域の液状化現象により土地基盤の脆弱性が現れたが復旧により人口減を持ち直し現在16.7万人となっている。産業構造は、市制施行前は水産業が主であったが、第3次産業が80%を超えている。交通は、東京メトロ東西線・JR京葉線が通り市内に3駅(浦安・新浦安・舞浜)ある。市民の約50%の方がこれらの交通機関を利用し都区部へ通勤している。

 ♦浦安市郷土博物館♦
近代的な博物館である。昔の生活体験ができる市民参加の体験型の博物館であり、自由に見て、触れることが出来る。
屋外展示もあり、漁師町浦安を再現している。これが良く出来ており、境川のべか舟、たばこ屋、船宿、漁師の家、海苔製造所、豆腐屋、三軒長屋、天ぷら屋、風呂屋があり、一軒一軒回ると昔の生活に思いをはせ時間を忘れてしまう。
館内は、海とともに歩んできた浦安の歴史を紹介している「べか舟」「干潟のジオラマ」「漁法」「幻の魚・青ギス」などが展示している。
 
 
 
♦文化財住宅(旧大塚家・宇田川家住宅)♦
博物館を出て古民家に行く。境川沿いに浦安駅方面に歩くが市民の散歩コースになっており整備している、この辺は旧市街地(堀江・猫実)で電柱には海抜0.6mとあり、自然堤防沿いに民家が点在していたのだろう。
記念橋を過ぎた所に「旧大塚住宅」があった。江戸時代末期の建築と推定され、半農半漁の比較的規模の大きい家である。間取りは中央に居間(板の間)があり、境川寄りに土間が、これは浦安の民家の特徴で川に近い方に土間、遠い方に客間が造られている。ここは堀江地区で、猫実(ねこざね)地区では間取りが逆になっていたそうです。境川が生活用水として利用するため、こうした配置が生まれたと考えられています。土間や板の間で漁具等の作業が行われていたのでしょう。住宅は、平屋であるが屋裏2階部分があり水害際の避難や対応に利用しました。
もう一つの住宅は、近所にありました。旧宇田川家住宅は、明治2年の建築で、江戸時代中期に名主の家から分家した家柄で、商家として使われていましたが、郵便局、診療所として使用した経過もありましたが、現在、保存展示されているのは呉服、よろずや(雑貨店)としてです。
当時、賑わった表通りに面し2階建て店舗兼住宅で、1階の揚戸、かぎの手の土間、2階の出格子窓など幕末から明治にかけての江戸近郊の町屋の形をよく伝えています。随所に工夫、こだわりを持った商家で面白い。
旧宇田川家住宅前の通りを右に歩き突き当りに清龍神社がある。
 
 
 
 
 
 
 
 

♦清龍神社♦      
1196年に創建と伝えられ、祭神は海の神様を祀っている。拝殿裏にある本殿は過去に数度津波にあったが、現在の本殿の彫刻は見事なもので浦安市の有形文化財に指定されている。本殿の横には富士塚もあります。また、境内には「堀江水準標石」の表示がありました、ここにある水準標石は、江戸川と利根川の水位の基準点として設置されたものです。
明治5年オランダから水工技師団を招聘し、そのうちの一人、リンドが河川計画作成のためこの地から水準測量を始め「堀江水準標石」を設置しました。測量の結果この標石の頂点の高さを基準とし江戸川河口の水位ゼロとしました。この標石は、土木学会より歴史的土木構造物としての価値が高いとして土木遺産として認定されました。
境内は掃き清められ参拝者への心遣いを感じる神社でした。
 
 
 
浦安は、初代村長が「浦(海)やすかれ」と言ったのと、心安らかにという願いが込められたものとされている。
住民の大部分が漁業を生業としてきた市名の由来であるが、今では第一次産業の従事者も少なく観光船となっているようであるが、こうした昔の状況は博物館に行かないと昔の浦安を知ることが出来ない・・・。
 
【その他のPhoto】
浦安市堀江地区を歩いていると「旧濱野医院」がありました。明治40年に現在の場所に移転開業し、平成8年までこの場所で診療を続け、明治、大正、昭和、平成と100年以上、3代にわたって地域医療に貢献した医院で、初代は、明治20年に浦安で西洋医学第一号で開業された方のようです。
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