爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

街のお祭り

2016-07-20 20:41:02 | 日記
散歩がてら街のお祭りに行く。
400年の歴史を持つお祭りで、別名、暴れ神輿・喧嘩神輿と呼ばれ神輿を頭上高く差し上げ、更に上に投げ上げるのがここの神輿の特徴です。
午後3時ごろは、各町内の山車が出ていました。神輿は夜のようです。神輿は神様の乗り物で、山車は、人が乗って太鼓をたたいたり、踊ったりし神様のお供や先導の意味があるのでしょうか?子どもたちが山車を引いたり、太鼓をたたいたりしてました。しかし、子どもの楽しみは境内の夜店です、狭い境内に多くのお店が出店し境内は大混雑、それが楽しいのでしょう。
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大宮八幡宮の鎮守の森と永福寺を巡る散歩

2016-07-19 22:58:37 | 日記
今月の「退職者の会」の日帰り散歩は、「大宮八幡宮の鎮守の杜と永福寺を巡る散歩」である。案内ハガキを受け取った時、さいたま市に大宮八幡宮てあるのか?と思ったが杉並区であった。
東武スカイツリーラインで北千住で乗り換え、メトロ千代田線・小田急線にて下北沢駅にてさらに乗り換え京王線の永福町駅下車となる。北千住駅で唐木田駅行きを待っているとロマンスカーが入ってきた、昔では考えられないサービスである、つくば市からだと1回の乗り換えで箱根まで行けるのである、いつかは乗ってみたいものである。

永福町駅に到着し大宮八幡宮へ向かう、武蔵野国三大宮の一つで、三つの大いなる宮、大きな神社の総称。(大宮八幡宮・氷川神社・秩父神社)鳥居の前に「東京のへそ」の碑がある、位置的に東京都の真ん中なのだろう。大宮八幡宮は源頼義により建立され、境内は15000坪あり、都内でも3番目の広さの神社であるが、明治時代以前はこの3倍以上あり幕府の庇護も受けていた。子育て安産にご利益があるとされ、私どもが訪れた時もお祓いを受けていた家族が多かった。


幹事のMさんの予定では、和田堀公園・郷土博物館の予定でしたが、昼食の時間となり公園・博物館をカットし食事後、寺社巡りを続行する。
大圓寺は、当初、赤坂溜池で創建されたが当地に移転した寺である。薩摩藩の江戸の菩提寺であった。これまではっきりと薩摩藩の菩提寺と分かるお寺は初めてだ。本堂の屋根の飾りに「三つ葉葵」その下に「丸に十の字」の刻印がある。薩摩藩関係の墓石が多くあり、大きい墓石には「空・風・火・水・地」と刻まれていた。こうした五輪塔は、死して天に帰り仏と一体化するという強い宗教心の表れか?。戊辰戦争により亡くなられた藩士を弔う墓石もあり、こんなにこのお寺が薩摩藩と縁が深かかったがわかる。

大圓寺から和泉熊野神社に向かうが、途中、貴船神社に立ち寄る。猫の額のような神社で、京都の貴船神社の祭神を勧請したものと伝わっている。この神社は、京都の貴船神社のようなパワースポットを感じられるか不明。境内に小さい池があるが、村民の雨乞いの場所でもあり、この池はどんな日照りでも枯れる事なく湧出していたとの事であり、和泉という地名はこの池が由来と言われているが、宅地化とともに現在では枯渇している。訪問した時は、水がありトンボが見られ、参加者一同こんな都会で小さな自然の発見に感動・・・。

和泉熊野神社に到着する、紀州の熊野神社の分霊を祀ったのが創建といわれているが、熊野詣とあいまって当時は人気があったのでしょうか。境内には徳川家光が鷹狩の折、手植えしたという伝えがある推定樹齢350年のクロマツがある。

次は、地名の由来となった永福寺である。この永福寺と永福稲荷神社は道を隔てて隣り合っているが、永福稲荷神社は寺の鎮守として祀られた経過がある。永福寺は、小田原落城後、北条氏の家臣が永福寺を頼りに檀家となり村の開発に努めた地である。

帰りは京王線明大前駅からであるが道すがら甲州街道沿いにある「築地本願寺和田堀廟所」に寄る。神田川に架かる「永福橋」の上で川の中のヘビを発見し大騒ぎ、トンボやヘビと今回の散歩は珍しい出会いがありました。

甲州街道に出て、築地本願寺和田堀廟所に入る、ここは旧陸軍省火薬庫跡で関東大震災後の復興計画で払い下げされ築地本願寺が墓地を移転した、現在、約3300基あり廟所案内図には樋口一葉・古賀政男など文化人の墓石もあった。



今日のコースである、永福町から明大前の散歩は6Kmぐらいだろうか、帰りは明大前駅の喫茶店で一休みし帰路に。

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北千住をぶらり

2016-07-15 15:19:59 | 日記
北千住に用事があり、その帰り北千住をぶらぶらする。
北千住という地名はなく、駅名だけが「北千住」となっている。名称は千住の内、隅田川に位置する北組・中組の一帯を捉えたものである。
千住は、古くは日光街道の宿場町で隅田川と荒川に挟まれた中州のような地形にあり、昔ながらの商店街や狭い路地、銭湯、土蔵、古民家が現存し親しみやすさを醸し出している。
近年、都市整備も進み、特に東口に大学を誘致した事により「学生の街」という側面や交通の利便性が増し「住みたい街ランキング」も急上昇している。
暑い中ではあったが北千住駅から延びる大通りを進み用事を済ませて、同じ西口通りに面している「大橋眼科」の建物を見学する、こんなメインストリートに洋館がと!!目立つ建築物、この一帯の観光案内には必ず紹介されている。外見は古さを感じさせるが歩道から見ると綺麗な建築物である。
現在も使用されているこの建築物は、実際は昭和57年に建築されたものであるが、もともとは大正6年に建てられたものを再現したとの事である、大正ロマンを感じさせる建築物である。

西口大通りの一本北側の路地が見番横丁と言われ北側が千住宿本陣跡になるが、面影は全くない。

旧日光街道を歩いてみる、見えて来るのが「千住ほんちょう公園」で通りから「千住宿」と書かれた木戸があり説明・案内図がありホットする場所である。さらに宿場町通り(旧日光街道)を歩くと右手に「横山家」左手に「吉田家」がある、両家とも観光パンフやTVよく取り上げられる商家である。「横山家」は間口が広く奥行のある「伝馬屋敷」の商家で、一段下げた入口の特徴が当時の商家をあらわしている。地漉紙と言われる再生紙を「浅草紙(トイレットペーパー)として日本橋の方に売り出していた。
斜め前の「吉田家」は、8代続いた絵馬屋で現在も生業としており、吉田さんは千住絵馬の足立区登録無形民俗文化財保持者です。

その絵馬は、近所にある長円寺で見られる。長円寺は、1627年に創建され江戸時代に栄えたと言われている、ご神体は「石造魚籃観音立像」である、山門の脇にお堂があり、絵馬が祀られている、絵馬には「め」とあり、眼病にご利益があるようである。

長円寺の先には、氷川神社があるが。足立区には「氷川神社」と名の付く神社が19ほどあり、こちらの方は千住四丁目氷川神社と言われており、千住3丁目の氷川神社は「本氷川神社」である。

足立区も戦災にあったが、この一帯は戦災に遭わなかったようで、古い建物が残っている。旧日光街道を進み荒川に近づくと「名倉医院」がある、レンガ門の表示には「名倉本院」とあり、接骨院「名倉」と言えば全国で目にするが、ここが総本家か?。創業1764年で秘伝の「黒膏」により人気が出て最盛期の大正時代には1日の患者が300人から500人おり、夜が明けると道に行列が出来たと言われている。
名倉医院の通りの突き当りが荒川の河川敷となっており、「虹の広場」として整備されている。いい散歩コースとなっているが、この日は、蒸し暑くこれが体力の限界で早々に引き上げる。


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