川越市シルバー人材センターの『小江戸川越「古地図で巡る川越城と城下町」』の企画に参加するため集合場所の「小江戸蔵里(川越市産業む観光館」に到着する。
ひときわ大きい蔵が建っており、新しく観光拠点として建てたのかと思ったら、案内の方が元酒造会社であった所ですとの事。天保14年(1843)頃より酒造蔵をはじめ、明治8年に現在地へ酒蔵を建て現在の鏡山酒造を創立し、平成12年に廃業するまで営業していました。国の登録有形文化財に指定されています。
この企画、150人の募集予定が応募が340人の応募があったそうで人材センターの方がビックリしていました。
古地図を購入し、出発。古地図には元禄7年川越図とありました、埼玉県でも歴史的建造物、町並みが保存されている川越ですが、いまから325年前の地図であり、地名等も変わり分かるのはお城だけでした。
小江戸蔵里から連雀町に入る通り名は蔵造りの町並みとして整備されている「中央通り」である。北に進み熊野神社そして蓮馨寺に到着する。この中央通りであるが昔は連雀町の中央通りは無く本川越駅の完成したため駅までの道路を延伸したため、蓮馨寺の寺地が分断された、昔はもっと大きい寺だったようだ。
参道である「立門前通りは」賑わった通りであった。通りから「大正浪漫夢通り」を抜け、また中央通りの蔵造りの町並みを見学し、「時の鐘」の通りに入るが、古地図には「時の鐘」はない。
市民会館前の信号を右折すると「鉤の手」状になっている、城の防御上こうした道路があるようだ、左折し川越第一小学校の校門の右手に「川越南大手門跡」の碑があった。校門の正面の道路を進むと住宅地の中に高台が見えてきた、これが「富士見櫓」である。かつては、高台の上に川越城一の高さの富士見櫓があった、川越城は天守閣がなく富士見櫓が防御上重要な役割を担っていました。川越城は、明治維新後に取り壊され面影はまったくありません。富士見櫓から川越城に入ります。
右手に三芳野神社があります川越城内にあり城の鎮守として再建されました。わらべ唄の「とおりゃんせ」発祥の地の神社と言われています。城の中にあったため一般の参詣が許されない神社でしたが、庶民の信仰が篤いため時間を区切って参詣を許されたが、密偵を恐れた警護が帰りに厳しく調べられたため、わらべ唄の「♪行きはよいよい、帰りは怖い・・・♪」と唄われた。
左手には「川越城本丸御殿」と言われる建物があります、寺社に似ている建物ですが、城主の住居、執務場所、家臣の常駐する部屋など城の中心となっており東日本では珍しく全国的にも貴重な遺構となっています。明治2年の廃城となり現在では大広間と家老詰所となっておりますが庭等を含め見応えがあります。
お城は古地図で見ると広大な敷地となっていますが、今では公共施設、住宅地となっています。本丸御殿を出て郭町から西に進むと「川越城中ノ門堀跡」の案内板があった。旧城内に唯一残る堀の跡である、太田道真・道灌父子によって築城されました。堀の深さ7m、幅18mで堀が壁のようになっており戦いを想定されています。
さらに西に歩いて行くと川越市役所が見えてくるが、市役所前が「西大手門」があった所で太田道灌の銅像とともに碑が立っています。少し歩くと解散地点の「札の辻」に到着します。「鉤の手」の道が多い中、珍しく十字路となっています。東京・板橋からの川越街道の終点となります。川越城下町の中心として高札場があった場所で交差点の真ん中にあったとの事です。
初めての古地図散歩で案内の方が居て良かったが、実感である。現在から古地図での確認が難しい。これは古地図巡りでは致命的であり、見比べることができないため移り変わりなど変化が把握できなかった。次回は・・・
【その他のPhoto】
川越は、建物を見ているだけで想像にかられる。残してほしい町並みや建物である。