爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

護国寺~雑司ヶ谷霊園~鬼子母神を巡る散歩

2019-09-24 15:39:44 | 日記

9月の「退職者の会 日帰り散歩」は、護国寺を中心としたコースを散歩した。当初、18日の本尊の御開帳日に合わせたが雨天のため20日となった。このコースは、7年前にも企画実施したとのことであるが私にとってはすべてが初めての訪問先でもあった。

最寄り駅の地下鉄「護国寺駅」で下車し地上に出ると「不忍通り」が通る。隣が護国寺である。仁王門をくぐると「不老門」という門がまたありました、階段でフウフウしていると、
年配の女性が「まだまだ階段がありますよ!」このお寺、仁王門から本堂まで距離があり階段もあった。

護国寺は、5代将軍綱吉の生母・桂昌院の願いにより建立した寺で、最初は桂昌院の祈願寺であったが将軍家の武運長久を祈る寺にまで繁栄した。本堂には桂昌院の籠があった。広い境内には重要文化財の観音堂(本堂)、近江の三井寺から移された「月光殿」は桃山時代の書院造りの貴重な重要文化財である。また、元禄期の薬師堂、大師堂や他に多宝塔などがある。本堂の裏手には、墓地が広がり三条実美、山県有朋、大隈重信、大倉財閥をつくった大倉喜八郎の墓石など当時、活躍した方の墓石が多くある。護国寺は祈願寺だったため当初墓地が無く、明治維新後に敷地を墓地に転用しました。


護国寺を出て雑司ヶ谷霊園方面に向かって歩いていると、幹事のMさんが路地に歩いて行くのでよく見ると赤い昇りがあり神社のようである。雑司が谷七福神とあり「清土鬼子母神」である、入り口に「鬼子母尊神出現所」とある。後に雑司ヶ谷鬼子母神堂の本尊となる鬼子母神像が出土した場所で、その場所に小さい寺院が建てられた。三角形の井戸があるが、星の井(星ノ清水)といい鬼子母神像が出土した際この泉の水で像を清めたと伝えられたと言われてます。
ここで12時近くなり昼食に、案内チラシに載っていた割烹店にて「松花堂弁当」を。普段、あまりいただくことがなく美味しくいただきました。高齢になるといろんな物が食べられるメニューに好みが変わってきます。
エネルギーを入れた所で雑司ヶ谷霊園に向かう。途中、「旧宣教師館通り」という小さい通りがあった、通りに入ると洋風の建物があった。この建物「豊島区立雑司が谷旧宣教師館」である。パンフレットによると「明治40年(1907)にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたもので、豊島区内に現存する最も古い近代木造洋風建築であり、東京都内でも数少ない明治期の宣教師館として大変貴重なものです。」とあります。第2次大戦により米国に帰国する昭和16年までの35年間居住しました。建物は、木造2階建てで、設計・施工者とも不明ですがカーペンターゴシック様式の意匠が見られるとの事である。19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を写した質素な外国人住宅となっています。随所に工夫が凝らされています、サンルーム、広い窓など施工は日本人大工なのだろうが外国人建築家の助言があったのだろう。アメリカに比べれば狭小住宅であるが、日本人にとってこうした建築様式にビックリしたのではないだろうか。
よく宣教師館として残っていたものだが、 それにしてもこの辺、道路幅が狭く道路が入り組み戦災にも遭わなかったのだろう区画整理もなく昔のままである。
 
 
旧宣教師館から「雑司が谷霊園」に入る。都立霊園は8カ所あるが青山、谷中、染井霊園とともに都心にあり交通の便が良い霊園である。住宅街にあるが自然に近い環境が保たれ、ケヤキの古木、銀杏の木もあり秋には味わいのある霊園でもある。多数の文化人眠る場所として有名でり園内を巡った。
 
雑司が谷霊園を出て、雑司が谷鬼子母神に向かうが、途中、大鳥神社に立ち寄る。都電の鬼子母神前駅と雑司が谷駅の間にあり沿線からも鳥居が見えます。江戸時代に鬼子母神堂境内に出雲国・鷺大明神を勧請したのがはじまりで神仏分離令により現在の地に鎮座しています。社殿のお賽銭を入れるのが珍しく巾着袋の形になってました。境内には、独特な姿の狛犬とナスの鉢が置いてありました。説明書きには、この一帯が江戸への野菜供給基地としてナスのほか、ダイコンや青菜などを生産しており、特にナスの味がいいと評判になり「雑司ヶ谷ナス」は、江戸時代後半から大正時代中頃までもてはやされていたとのことです。
 
雑司ヶ谷鬼子母神に入ると境内には樹齢700年の大イチョウ、赤い鳥居が2カ所あり歴史と信仰を感じさせる雑司が谷・鬼子母神である。永禄4年(1561)に清土で掘り出された鬼子母神像を天正6年(1578)  に、この場所に堂を建てて安置したことにはじまる。武家から庶民まで子育て・安産の神として広く信仰された。本堂は、「拝殿」、「相の間」、「本殿」の3つの建物で構成されて「権現造り」といわれるもので、江戸中期で重要文化財に指定されている。境内には「駄菓子屋」、「団子屋」さんもあります。
 
帰りは参道を通りましたが、欅の木が生い茂り昭和初期の建物とともに昭和の雰囲気がありました。
 
帰りは久しぶりに都電・鬼子母神前駅より乗車し帰路に。今、都電とは言わないそうで、「東京さくらトラム」というそうです。
 
【その他のPhoto】
 
 
 
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古地図で巡る川越

2019-09-17 18:22:00 | 日記

川越市シルバー人材センターの『小江戸川越「古地図で巡る川越城と城下町」』の企画に参加するため集合場所の「小江戸蔵里(川越市産業む観光館」に到着する。

ひときわ大きい蔵が建っており、新しく観光拠点として建てたのかと思ったら、案内の方が元酒造会社であった所ですとの事。天保14年(1843)頃より酒造蔵をはじめ、明治8年に現在地へ酒蔵を建て現在の鏡山酒造を創立し、平成12年に廃業するまで営業していました。国の登録有形文化財に指定されています。

この企画、150人の募集予定が応募が340人の応募があったそうで人材センターの方がビックリしていました。
古地図を購入し、出発。古地図には元禄7年川越図とありました、埼玉県でも歴史的建造物、町並みが保存されている川越ですが、いまから325年前の地図であり、地名等も変わり分かるのはお城だけでした。

小江戸蔵里から連雀町に入る通り名は蔵造りの町並みとして整備されている「中央通り」である。北に進み熊野神社そして蓮馨寺に到着する。この中央通りであるが昔は連雀町の中央通りは無く本川越駅の完成したため駅までの道路を延伸したため、蓮馨寺の寺地が分断された、昔はもっと大きい寺だったようだ。

参道である「立門前通りは」賑わった通りであった。通りから「大正浪漫夢通り」を抜け、また中央通りの蔵造りの町並みを見学し、「時の鐘」の通りに入るが、古地図には「時の鐘」はない。

 

市民会館前の信号を右折すると「鉤の手」状になっている、城の防御上こうした道路があるようだ、左折し川越第一小学校の校門の右手に「川越南大手門跡」の碑があった。校門の正面の道路を進むと住宅地の中に高台が見えてきた、これが「富士見櫓」である。かつては、高台の上に川越城一の高さの富士見櫓があった、川越城は天守閣がなく富士見櫓が防御上重要な役割を担っていました。川越城は、明治維新後に取り壊され面影はまったくありません。富士見櫓から川越城に入ります。

右手に三芳野神社があります川越城内にあり城の鎮守として再建されました。わらべ唄の「とおりゃんせ」発祥の地の神社と言われています。城の中にあったため一般の参詣が許されない神社でしたが、庶民の信仰が篤いため時間を区切って参詣を許されたが、密偵を恐れた警護が帰りに厳しく調べられたため、わらべ唄の「♪行きはよいよい、帰りは怖い・・・♪」と唄われた。

左手には「川越城本丸御殿」と言われる建物があります、寺社に似ている建物ですが、城主の住居、執務場所、家臣の常駐する部屋など城の中心となっており東日本では珍しく全国的にも貴重な遺構となっています。明治2年の廃城となり現在では大広間と家老詰所となっておりますが庭等を含め見応えがあります。

 

お城は古地図で見ると広大な敷地となっていますが、今では公共施設、住宅地となっています。本丸御殿を出て郭町から西に進むと「川越城中ノ門堀跡」の案内板があった。旧城内に唯一残る堀の跡である、太田道真・道灌父子によって築城されました。堀の深さ7m、幅18mで堀が壁のようになっており戦いを想定されています。

さらに西に歩いて行くと川越市役所が見えてくるが、市役所前が「西大手門」があった所で太田道灌の銅像とともに碑が立っています。少し歩くと解散地点の「札の辻」に到着します。「鉤の手」の道が多い中、珍しく十字路となっています。東京・板橋からの川越街道の終点となります。川越城下町の中心として高札場があった場所で交差点の真ん中にあったとの事です。

初めての古地図散歩で案内の方が居て良かったが、実感である。現在から古地図での確認が難しい。これは古地図巡りでは致命的であり、見比べることができないため移り変わりなど変化が把握できなかった。次回は・・・

【その他のPhoto】
川越は、建物を見ているだけで想像にかられる。残してほしい町並みや建物である。 

 

 

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日本地図センターの「地理文化講演会」を聞いて

2019-09-03 11:02:30 | 日記

日本人が尖閣諸島を知ったのは、そんなに古い話ではない。私も知ったのは領有権に関わるニュースが最初である。
今回の講演は、領有権問題ではなくテーマが「尖閣諸島での総合調査を指揮して」で副題として「魚釣島、南・北小島はどんな島なのか」とあり、学術的な総合調査に関わる講演であるが、調査のきっかけは領有権問題が絡んではいる。講演者は、調査の主管庁である元・沖縄開発庁総務局企画課企画専門官 藤田宗久 氏である。


                           ※日本地図センターと講演会場

調査は、尖閣諸島利用開発可能性調査である。調査に至った経緯は、1978年4月に武装した中国漁船が大挙して尖閣諸島周辺の日本の領海を侵犯したため、国会の与党議員を中心に領有権を守るため実効的な行動をとの議論から関係7省庁連絡会議を立ち上げ調査に至った。       

調査は、1979年(昭和54)5月26日~6月8日で調査資機材は14トンで海上保安庁ヘリ搭載艦「宗谷」にて輸送、調査員30名(各学術分野)、報道記者31名により魚釣島、南、北小島に上陸調査。この島々は、当時は国有ではなく、個人所有であるが無人島となっていた。
資材の搬入などは巡視船が接岸する港湾もなくボートとヘリポートを造成しヘリ輸送で、南極・昭和基地的を思わせる状況かもしれない。     

※調査は、気象計設置、動物、水質、地下水、水深・海流調査、1/5000地形図の作成など   


尖閣諸島の地質は、火山性で岩盤がむきだしになっている。河川や湖沼は無く農業には不適でり、もちろん飲料水も無い。第二次世界大戦前に工場(かつおぶし)があり100人程働いていたが経済的理由(採算面)により放棄された。魚を餌とする海鳥の生息地となっている。絶滅危惧種の「アホウドリ」が生息していたが、かつては大勢の台湾人が侵入し乱獲した、海鳥としては大きく羽毛が高額に取引されたようだ、食用としても食され無駄な所がないとのこと。(陸上では歩くのが遅く大量に撲殺された)
その他、希少生物が確認された。政治結社が灯台等を設置、ヤギを持ち込んでいた、大分増えたのでは。
※上陸したさい領有に関わるプレートがあったが破壊されていた。

学術調査とともに基準点の設置等、避難港、灯台、ヘリポートの建設可能性の候補地などが検討された。
※避難港については、防波堤の問題、造っても中国船が避難してくるのでは・・・、ヘリポートは技術的には可能等

調査日程は、中国への配慮から1日前倒しで撤収し終了した。

 

尖閣諸島は、1895年(明治28)に日本の領土として閣議決定をおこない、沖縄県に編入され、中国では自国の地図で日本の領有を表記していた。1968年の海底資源調査から1971年に台湾そして中国が領有権を主張している。          

 

※司会者の方が昭和63年当時、1/25000の地図が3カ所無かったとのこと、原図は10年程前にあったが、発行されたのが平成元年1月30日であった。配慮している面があったのかわからないが、微妙な問題があるのでしょうか?・・・

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平和祈念展示資料館の「引揚げ展」

2019-09-01 20:52:36 | 日記

興味ある企画のときは見学をと思いながら、なかなか機会がなく「引揚げ展」ということで訪れた。私の年代になると父や母が戦争に対する苦労があり、父は南方戦線から復員、義理の両親は満州から引揚げして来た。多くは語らないが、義両親は長男を亡くし遺骨と共に「引揚げ船」で帰ってきたとのことである(現地で埋葬が多かったようだ)。戦時中・戦後の話を聞こうにも今は親はいない・・・

こうした資料展示は、物言わぬ人々の訴えを知る唯一の機会である。


新宿駅より徒歩にて「平和祈念展示資料館」(新宿住友ビル33階)に向かう。都庁を通り過ぎるが、初めての都庁を見上げる。一度、住友ビルには来たことがあるが初めて来たような感じである。このビルも年数が経っているのか大規模改修中であった。

平和祈念展示資料館は、兵士、戦後強制抑留者および海外からの引揚者について取り上げた施設です。とは言っても、招集令状・軍服・日誌・慰問袋等が展示されています。戦争が終わった後の、苦しいつらい体験をした方の持参した実物資料、グラフィック、映像、ジオラマが展示されていた。


引き揚げは各地からで、台湾、満州、サハリン島南部、朝鮮、南洋群島にわたる。植民地は第一次世界大戦後から始まり第二次世界大戦後までである。多くは先の大戦による。
敗戦時、軍人・民間人およそ660万人以上が海外に在住し、引き揚げてきた者は1964年末までに560万人にのぼったが、残留日本人の数がどの程度なのか実態は不明のようだ。引き揚げとは、日本の植民地や占領地での生活基盤のある日本人が日本本土に戻されることを「引き揚げ」と言い、兵士などは復員・復員者と言うらしい。

※左の上から、乗船許可証・戦争犯罪に関する無罪証明書、検疫済証明書・引揚者カード、引揚証明書・帰還証明書、右は引揚者カード。招集令状(赤紙)は見たことがあるが、この種の証明書は初めてである。

※戦線拡大と引き揚げ事業は比例しているのがわかる。


遺品・持ち帰り品・統計資料が戦い以外の悲惨さを語っていた。私たちは、忘れてはならない出来事である。

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