爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

栗橋~東鷲宮を巡る散策

2021-04-23 19:17:32 | 日記

3月の「退職者の会」の散歩は、栗橋宿を中心に散策しましたが、今回(4月)は、東武日光線栗橋駅西側から東鷲宮に向かって散策。

栗橋駅西口から5分ぐらいの所に迎盛院(こうじょういん)に着きます。栗橋八福神の弁財天を祀っている真言宗のお寺です。鎌倉街道沿いにあることから開基は、鎌倉時代と言われています。七福神唯一の女神で、愛敬、縁結びの徳とともに財宝の徳も授けてくれます。脇には人頭蛇身がとぐろを巻いている像がありました。宇賀神は、日本の神話からくるもので仏教語で「財施」を意味する説もあり神仏習合での産物とも言われている。(諸説あり)
本堂の柱には細工がしてあるが、これは「卍崩し」と言うそうです。

隣にある神社は、千勝神社と言い江戸時代は迎盛院が管理していた古い神社です。社の横にサンダル・子どもの草履がぶら下がっていました。他の社でも見たことがありましたが、住民たちの平穏無事を願う信仰でしょうか。

千勝神社から松永神社へ向かう。こじんまりした神社の松永神社は、創建ははっきりしませんが。狛犬の建立が文化7年(1810)となっていました。松永神社の鳥居の前に「旧利根川堤防・鎌倉古道」跡がありました。稲荷木堀の左岸、松永には古堤と呼ぶ旧堤防が残っています。堤防の断面はかなり大きく、自然堤防に盛土して築造したと推定され、堤防の上が鎌倉古道であったと伝わっています。

かなり歩いた感じがするが久喜市観光ウオーキングコースでは3番目のお寺が定福寺である。布袋尊をお祀りしているが、布袋尊より「羅漢の寺」で有名のようである。境内に入った途端にビックリ!である。境内全体が羅漢で埋め尽くされている。羅漢を祀っているお寺には行っているが、ある五百羅漢のお寺では羅漢が修行僧との話を聞いたことがあるが、このお寺の羅漢は、老若男女の面白い表情の羅漢で埋め尽くされている。制作年号が平成のもあったが、このお寺には羅漢を制作する会があるようです。羅漢の表情に見とれて布袋尊の写真を撮るのを忘れてしまいました。

次は栗橋八福神吉祥天を祀っている寶聚寺に、七福神というと吉祥天は入ってないが、吉祥天は、福祥を授ける女神で財物を増やし福徳をつかさどる神である。

この後、香取社・八幡神社に立ち寄り鷲宮の大輪神社へ。

大輪神社では10月15日の秋祭りには稲わらで大蛇2匹を作り、鳥居に飾り付ける神事があります。秋祭りは、その年の実りの感謝と無病息災、五穀豊穣を願って毎年おこなわれます。藁蛇はその象徴として飾り付けます。

この後、御嶽山神社と密蔵寺に立ち寄るが御嶽山神社は何故か会社の敷地内と思われる場所に鳥居・社がありました、片隅に社を寄せ集めたような感じですが何か理由があるのでしょうか。密蔵寺は、徳川家歴代将軍の朱印状の古文書が保存されている古刹です。寺領高10石を与えられています。

最後は、埼玉県指定天然記念物「中川低地の河畔砂丘群西大輪砂丘」です。個人的には興味のある場所でした、砂丘というと鳥取砂丘を考えるが、ここの砂丘は榛名山や浅間山の火山灰等に由来する大量の砂が、寒冷地の強い季節風により利根川の旧河道沿いに吹き溜められて形成された内陸性の砂丘。平安時代から室町時代にかけて形成されたと考えられ、羽生市から越谷市にかけての中川低地に点々と分布する。指定地域のなかに西大輪神社が存在するが、この付近が保存状態が一番よい場所の一つです。他の大きい砂丘と比べると思わず「エー!!」と思うが全国的に珍しいもののようです。

                                 

コースの全て寄ることができました。歩行距離10Kmとなっていましたが、他にも立ち寄った所、境内を回ったりを考えると10Kmを越えます。例年の4月と比べ暑くなり、おまけにマスク散策で皆さんお疲れの散策でした。


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オンライン講座5 「『日本奥地紀行』と旅する山形」を聞いて

2021-04-17 19:44:07 | 日記

副題として「イザベラ・バードが見つめた東北の素顔」となっている。イザベラ・バードは、正式にはイザベラ・ルーシー・バード(1831~1904)といい、ウィキペディアでは19世紀の英国の旅行家、探検家、紀行作家、写真家、ナチュラリスト・・・となっている。
講演は、学習院大学教授(民俗学)赤坂憲雄氏である。

パート1 イザベラ・バードが東北の旅に求めたもの
イザベラ・バードが記した「日本奥地紀行」は、単なる紀行文ではなく日本にとって当時の事を知る大切な資料となっている。
バードが日本に来たのは明治11年である。英国公使や宣教師*の助言を得て東北を中心に6月から9月にかけて旅をした。
*宣教師(宣教医)の一人、ジェームス・カーティス・ヘボンは明治学院大学の創立者、ヘボン式ローマ字表記、横浜の近代医学はヘボン診療所から始まったことで有名。

この時期、気候的には厳しい日程である。日光までは人力車、その後は馬による旅行である。沢山の食料や、人を雇うというのではない最小限の荷物、宿さがし食事も現地という旅行である。
旅行での様子や出来事については、妹のヘンリエッタに手紙を出しており、書き溜めたものが「日本奥地紀行」となっています。多くの外国人が紀行文を書いていますがバードは豊かな紀行文となっている。訪れた外国人は、「日本人は、陽気そう、幸福そう」と、何人もそのように書いてある。日本人は、私達の記録を残さない。日本人が記録に残すことがなかったことを、たくさん書き残してくれている。この当時の日本社会は、幕末から明治初期、格差の少ない社会だった、それとともに相互扶助のシステムが社会の中に組み込まれていた。社会的には貧しく貧相で多くが眼病を患ていたが何だか楽しそうだ、100~150年の歴史の中で忘れていた日本の姿の一コマであったのでは。
バードは、ヨークシャーで牧師の娘として生まれました。体が弱く23歳の時、医師に旅をして厳しい環境の中で体を養生することを勧められた。

カナダ、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、ハワイを旅し、47歳で日本にやって来た。前半、東北、北海道を後半に関西、京都、伊勢を回り、7ヵ月日本に滞在したが戊辰戦争から10年ぐらいの年だった。日本が江戸時代から明治へと鎖国を開き近代化の始まりの時、近代化の中に波にのみ込まれる日本に出会っている。    

バードは、江戸時代の風景と近代化していく日本の姿を生々しく記録している。調査、布教でもない欧州で流行していた漫遊でもない。日本奥地紀行の豊かな内容になっていたのは、東北地方は、これまで外国人が足を踏み入れることがなかったエリア、古い日本が豊かに残っている地域、47歳の女性バードの表現力によるところが大きい。紀行文で女性、子どもの姿を多く描いているが、
バードが子どもに菓子をあげようとしたら両親にもらっていいか聞きに行き、許しが出てもらったら小さい子に分け与え最後に自分か取った、バードは、「なんて日本人は子どもをかわいがるのだろう」と書いている、日本人はそんな事を意識してないし書いてない。
「日本奥地紀行」は、近代化の始まりの日本人の暮らし、生業をしることができる資料となっている。150年で何を手に入れたのか何を失ったのだろう、日本の近代化とは何だったのかを考える縁(よすが)にもなる。
村での紙すきの多様性を記録、基幹産業となる養蚕の記録などバードは単なる漫遊の旅をしているのではなく、知的な訓練を受けたフィールドワーカーとしての目で村を歩いていた。旅の内容の深さはフィールドワーカーとしての目がそこにある。

バードの紀行文を読むと幕末・明治初頭だからか当時の日本人は好奇心むき出しだった。バードが村を訪れると人だかりとなった。日本人は、おとなしく、優しく、親切で自分に害をあたえる人ではない事を知っていた、恐怖なく人の中に入っていった。
バードは、「日本ほど安全な国はない」、世界で女性が、危険で、無作法な目にあうことがなく安全に旅行する国は他にはない。100年たったいまでも繋がるものである。
乞食、物乞いをする人がいない、日本の村は整然として綺麗で草ぼうぼうの所はない。そこに勤勉な人がいた。しかしバードの印象がよいものだけではない。バードの宗教観からくるものなのか、ある場所で上半身裸で働いている男女を見かけると、それがいやだった。ビクトリア朝のモラルでは許せない点が多かった。混浴にもビックリしている。そうした事が記録に残され我々にとって貴重な資料となっている。                

          

パート2 近世と近代の狭間を行く、山形への道
バードは、人力車で日光をめざした、日光はこれからの旅の拠点となった。日光までは人力車であるが、入れ墨姿の車夫が、荷物のベルトをわざわざ探しに戻ったり、野の花を差し出したり優しさに触れた。

日光での宿泊は、金谷家である。古くから参拝客で賑わい、明治時代に入ると海外でも景勝地として知られ外国人が訪れるようになり、外国人に対応した宿泊・滞在施設が整備された。バードが宿泊した金谷家は、5年前(1873年・M6)に「金谷カッテージ・イン」として開業し、現存する日本最古のリゾートホテルとして現在、登録有形文化財及び近代化産業遺産に認定されている。

日光の世界に知らしめたのはバードの役割は大きい。
バードは、日本で吹き荒れた「廃仏毀釈」について目の当たりにしたと思われる。日光も二社(東照宮・二荒山神社)一寺(輪王寺)となり、多くのお寺が廃寺となった。牧師の家庭に育ったバードにとって興味のある出来事だったと思われます。神道は、バイブルがない、神様が何処にいるかわからない、自然崇拝と神話崇拝が合体したもの道徳律がない宗教的要素はあるがわずかなものしかない。ガイドの伊藤に対し、彼は神道に帰依していると言っているが、さっぱり帰依してないと厳しい事を言っている。神官がグロテスクな仏像を拝んでいたが今はそんなことをしていない。バードは風神雷神を観てビックリする、容姿は悪魔である。キリスト教では神様と悪魔は二元的対立であり、日本では鬼も優しくされると良い鬼になる。神か悪魔か分からないキメラ(異質同体)は宗教としてバードは許せない。

バードの紀行には戊辰戦争に触れた記述が要約本にはないが、完訳本には掲載されていて、いろんな所で見ていた。内戦で焼かれた所はなんて汚らしいと書いている。(掘っ立て小屋だったのだろう)大内宿が残ったのは代表の方がたのんで残ったとのことである。廃仏毀釈で荒廃した寺院、倒れた仏像をフィルードワーカーとして日本の神社を訪ねて観察している。鳥居を見ては石段を上がり社を観察する、そうしたことをする外国人は少ない。聖なる 社は常に神様のいる場所ではない、社は空っぽで祭りの時だけ神輿に乗せる。沖縄での神社の原風景「ウタキ」には何もない、これが日本の信仰の原風景で、欧米では異様なのだろう。
日光からは、新潟、山形、秋田と北上するが。ここからは馬による旅となった。江戸時代には駅制
が整備され旅行が出来るようになっていた。明治5・6年には運送業に変化し1875年(M8)には現在の日本通運(株)の前進である内国通運会社が設立され全国一律の金額ができていた。明治時代初期には、運送業の「契約」*の概念、物流のネットワークが出来上がっていた。
*契約により余計な運賃、謝礼を支払わなくてよいし、要求もしなかった、契約がすでに出来ていた。
羽州街道も整備されており、両側に堀があり電柱がたっており、立派な身なりの人が歩いていたり、荷馬車を夫婦で裸同然で汗をかいている人がいるなど、奇妙な組み合わせにバードはビックリしている。
日本の近代は江戸を土台に改善しながら短い時間で進んでいった。バードの旅を可能にしたのは日本社会の急速な近代化の中でシステムが機能していた。

パート3 桃源郷と称された置賜と通訳 伊藤鶴吉
新潟経由で山形に進が、峠から米沢盆地の眺めを「東洋のアルカディア」といい感動している、屋敷林の家が美しく単なる防風林ではなく、里山を背負っている感じにバードは受けた。

峠越えで出会った男たちに思ったことがあり紀行文に書いている。荷を運ぶ汗をかいた男たちが休んでいる、彼らは家族のために額に汗をしてまじめに生活の糧を得ている、厳しい労働しているが奴隷ではない点を言っている。苦しみ、疲れているが自立している人なんだと、ここでは男であれ女であれ、物乞いの人はいない。バードは、荷運びでの男たちの働く姿を美しいと感じていた。日本人にない感覚で、尊いものに感じていた。「乞食がいない」他の国では物乞いが押し寄せてくるのがあたりまえだが日本にはいない。
旅のなかには雨の中、宿泊を断られたり泊まってもうるさかったり悪いことも書いている。しかし、平野部に下りた時、田んぼや畑が整備され美しい村だったと反省をしたのか書いていた。風景から山形の盆地では、米・綿・ドウモロコシ・タバコ・麻・大豆・ナスが栽培されているときちんと記録している。米沢藩は、藩政時代に柿の栽培を推奨し飢饉では死者を出していない。繁栄して自立していると書いているが、バードは常に「自立」を言う、奴隷ではない耕作する人々の所有にきしていると言っているがこれは間違いで地主と小作人の関係があったが少なくとも奴隷ではない。ブドウ、イチジク、ザクロの下で抑圧と無縁に生きている、アジア的抑圧の中では珍しい美観である、ごこの村でも田んぼや畑は美しく整備されて多様な作物を栽培して暮らしを立てている、これを桃源郷と言っている。バードは土地は耕しているのは、その人たちのものと勘違いしていた、「おしん」のような世界はみえなかった。

土地の人々は、大黒様に物質的な幸せを願っていると辛辣な批判をしている。キリスト教的世界では神様に物質的な繁栄をお祈りすることはない、バードは一貫して批判している。
日本の近代化が成功した背景には。
①江戸時代の遺産で近代化をすすめる事ができた。
②「契約」の概念や「人を裏切らない」などのモラルが既にあった。
③美しい田園風景をつくりあげる「勤勉さ」があった。
こうしたものが複合的に重なり合って、アジアの中できわめて例外的に進ことができた。
紀行文には、バードの宿のお世話係や珍しい外国人(バード)に集まる人たちが、前の人が後ろの人が見えるように腰を下ろす、鶏肉用の鳥をかわいそうになり引き取りに来るなど、いとおしい人、忘れられない出来事を書き残している。

最後に、ガイドの伊藤鶴吉は、横浜で外国人から英語を学んでいる。バードの前にも通訳として仕事をしていたが外国人に差別丸出しであしらわれた。伊藤はバードに対しても警戒し、バードも同じように警戒していたが、少しずつ信頼関係を築いてきた。伊藤氏のことはあまりよくわかっていないが大正時代の新聞の死亡記事に、明治の伝説的な通訳だったと掲載された。彼は、近代に向かっていくなかで若々しいナショナリズムを背負っていた、仕事で下手なことは出来ない、誇りを持って日本人として異国の人間に対してきた。伊藤さんがいなかったら「日本奥地紀行」は成立しなかった、あるいみバードの旅の演出家だったのでは。

21世紀に生きている我々の自画像に繋がったり切れていたり、自画像を描くための手がかりがあるのでは。


                                                                          以上

1893年(M26)、世界各地を旅し旅行記の出版などの功績が認められてヴィクトリア女王に謁見。
英国地理学会特別会員となりました。類まれな観察力、実行力で世界の実相を記録し続けた旅行家バード、彼女を行動させたエネルギは何だったのだろう、健康のためなのか、布教のためなのか疑問の点だ。
彼女の行ってないのは南アメリカ大陸のみで、日本は、アジアで初めての訪問であった。
アジアでも極東の日本はどのような国なのか、情報の少ない東北・北海道はどのような土地なのか、
バードは、その土地と、そこに暮らす人々の生活、いわゆる地理的な好奇心を刺激したのだろう。
日本人の姿を、西洋の服装をすると、とても小さく見えて、どの服も合わない。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、ガニまた足、黄色い皮膚、馬のような固い髪、弱弱しい瞼、細長い目、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、蒙古系の頬が出た顔形、ちっぽけな体格、男たちのよろよろした歩きつき、女たちのよちよちした歩きぶりなど、よくここまで書けると思うが生活面等については否定的な面と肯定的な面を書いている。旅で目にするもの、出会う人に対し素直な気持ち記述している。バードの「世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている。」これにより名著「日本奥地紀行」が生まれ、世界に認められることになったのだろう。

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栗橋を巡る散策

2021-04-01 19:41:32 | 日記

コロナ禍で久々の「退職者の会」の日帰り散歩の参加である。コロナの緊急事態宣言解除されたとはいえ、東京都の感染者数を考えると東京に行くには・・・、埼玉県も同じようなものであるが、栗橋まで来れば大丈夫か?
都心から50Kmに位置する栗橋は、2010年3月に久喜市と合併し、かつての北葛飾郡栗橋町(人口約2万7千人)は消滅した。
東武日光線栗橋駅で下車する。この駅は、橋上駅舎でJR東日本と東武鉄道の改札口が隣同士になっている、隣の駅の「南栗橋駅」は、1986年(S61)に開業、2003年(H15)には半蔵門線、田園都市線への直通運転が開始し都心へのアクセスが向上している。

江戸時代には日光街道が利根川を越える要地で、水陸交通の要衝で宿場町であった。
栗橋の観光名所は、駅近くにある「静御前の墓・静桜」である。思わず「ここに!」ではあるが、久喜市のHPによると「静御前は、義経を追って奥州に向かう途中、義経の死を知り、文治5年(1189)9月15日に当地で亡くなったと言われています。当地には高柳寺と呼ばれる寺があったので、静御前は寺の境内に埋葬され、墓上には杉の木が植えられました。高柳寺はその後、中田(現在の茨城県古河市)に移転し、光了寺と名を改めています。当地には静御前の墓が残されましたが、墓には墓標がなかったため享和3年(1803)に勘定奉行・関東郡代であつた中川飛騨守忠英により建立されました。墓上の杉の木は弘化3年(1846)の洪水により枯れてしまい、その後銀杏が植えられています。」
静御前の墓所には、「静桜」という桜が植えられていました。かなりの稀少種で学術的にも珍しい桜のようです。この桜の原木は、宇都宮市野沢にあり、地元の言い伝えでは奥州へと向かった静が、義経の死を知り野沢の地に桜を植え菩薩を弔ったのがその名のおこりといわれています。当地にはその接ぎ木苗が寄贈されこの墓所に植えられました。一般の桜にくらべ開花の時期が遅く4月中旬で、訪れた時期には残念ながらお花見は出来ませんでした。

墓所を出て予定の八坂神社に向かう。途中、宝治戸池(ほうじどいけ)、香取神社、経蔵院(静御前が養生したという伝説がある)に立ち寄る。法治戸池は、寛保2年(1742)に発生した川の氾濫により出来た池である。

堤防工事脇の高台に栗橋宿総鎮守八坂神社があった。近づくと堤防とともに八坂神社も工事中である。
幹事のMさんの話では、ここの狛犬が変わっていて「狛鯉」との事、工事中で近づいて見ることができなかったが確かに狛犬もあるが狛鯉もあった。慶長年間(1596~1615)に利根川が氾濫した際、鯉と亀に守られた神輿が漂着したことから社が築かれたと言われています。神輿は、100人で担ぐ大きなもので関東三大神輿と言われている。
堤防工事のため八坂神社の本殿が解体移転、社務所の新築と大工事です。

地元の方は「スーパー堤防」といってましたが、この工事は、「首都圏氾濫区域堤防強化対策事業」といい、埼玉県と東京都への水害を予防するための大規模治水整備事業で、移転家屋は1226戸で栗橋地区も含まれている。この利根川は、最近では台風26号(2013年 H25)により埼玉県東部の5600戸以上が浸水被害、1947年(S22)のカスリーン台風では、堤防決壊により埼玉県はもとより東京都足立区東半分、葛飾区全域、江戸川区のほぼ全域も浸水被害となった。利根川水系に関連する市区町村は、水害との闘い続けている地域となっている。

名所となっている「栗橋関所跡」の場所も工事の影響があり、現在の場所は仮移転地のようである。
栗橋関所は、日光道中が利根川を越す房川渡に設置されたことから対岸の中田と併せて、「房川渡中田関所」と呼ばれた。関所の位置は、堤防の河川側で利根川の河畔にあり、1869年(M2)の関所廃止まで約250年間続きました。この関所は、東海道の箱根、中山道の碓氷と並んで関東三大関所の一つと呼ばれた。

日光街道の栗橋駅入口付近の福寿院に立ち寄りました、ここは七福神の福禄寿が祀られていますが、栗橋では七福神に一神の吉祥天を加え八福神としているようです。

昼食後は、天候を気にしつつ深廣寺(恵比寿)、浄信寺(寿老人)、顕正寺(毘沙門)、炮烙(ほうろく)地蔵を参詣した。
深廣(じんこう)寺は、南無阿弥陀仏と刻まれた「六角名号塔」がL字に21基並んでいた。六角名号塔は、千人供養塔で1基だけ三千人供養塔になっている。高さが360cmあまりで等間隔に並んでいた。

隣にあるのが浄信寺で寿老人が祀られています、栗橋宿の名主・梅澤太郎右衛門が中興した寺で梅澤太郎右衛門も眠っている。2代将軍が日光社参の際、流失しかかった船橋を命がけで守り、将軍も賞賛し名字帯刀を許されたと伝えられている。

栗橋宿を開拓した池田家の菩提寺が、顕正寺である。寺は、下総国古河領から移転したと伝わり
墓地には栗橋宿開拓者のひとり池田鴨之介が眠る。池田家は、開宿当初から本陣役を務め、当主は鴨之介の名を世襲した。

炮烙(ほうろく)地蔵は、昔処刑場があった地で、関所破りで火焙りの刑に処された人を哀れんで
作られたと伝えられ、今でも炮烙が奉納されている。

栗橋駅に戻り、幹事のMさんが「静御前の墓」の裏手に「一言神社」があるはずだが?ということで隣の商店の方が教えてくれた場所へ、奥まった住宅地の一角に祠があった。表示もなく聞かないと分からない場所であった。伝説では、亡くなった静御前の魂を鎮めるために侍女の琴柱(ことじ)が祠を建てたもの、静御前が最後の一言が義経の名を呼んだとする説と、もう一つが、洪水に見舞われた際、旅の母子を人柱にしたが、母が「最後に一言言い残したい」と切願したが水中に投げ込んでしまつた。以後、その霊と慰め、水害がおこらないことを祈って祠を建てたという。二つの説とも何とも悲しい話である。

街に「栗橋宿」のペナントが下がっているが、スーパー堤防の関係か?一部、古い商家だったらしい建造物が見られるが、維持管理の難しさが・・・残念である。

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